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連関資料 :: 人間が人間であることとは

資料:345件

  • 人間の観念
  •  生得観念という考えがある。私たちは生まれながらにして観念を得て、それを携えて生まれてくる、というものである。しかしながら、ロックによると、そのような観念など存在しない。彼の主張によれば、人間の精神は本来、タブラ、ラサ、つまり滑らかな板なのである。 では、人間の精神はどのようにして様々な観念を持つようになるのであろうか。今回のレポートではこのことについて考えて見たい。  悟性はすべての観念を経験から汲んでいる。またあらゆる認識は経験を拠り所としている。ところで、経験には二種類ある。一つは、外的対象の知覚、肉体の感覚器官によって起こるもので、感覚(sensation)と呼ばれる。もう一つは、我々の心の内面的な働きの知覚で、反省(reflexion)と呼ばれる。感覚と反省とが精神(悟性)にすべての観念を与えるのであって、それらは言わば、精神(悟性)という暗室に、観念という光が入り込む窓である。感覚によって捉えられる対象すなわち外的対象は感覚的諸性質に関する観念を与え、反省によって捉えられる対象すなわち心的生活は自分自身の心の働きに関する観念を与える。  感覚と反省からすべての観念を導き出し説明するのが、ロックの哲学の課題である。そのためにロックは、観念(表象)を単純観念と複合観念とに分けている。単純観念は、鏡に物の像が映るように、受動的な精神(心)に外部から押し付けられる観念である。この単純観念には、たとえば: ?ひとつの感覚を通して来るもの:視覚を通じてくる色の観念とか、聴覚を通じてくる音の観念とか、触覚による固さや広がり(不可入性)の観念。 ?いくつかの感官を通じて来るもの:触覚と視覚とによって同時に意識される空間および運動の観念。 ?反省によって得られるもの:思考や意志の観念。 ?感覚と反省とから同時に来るもの:力、統一等々の概念。
  • レポート 哲学 ロック タブラ・ラサ 生得観念
  • 550 販売中 2005/11/11
  • 閲覧(2,144)
  • 人間行動
  • 「第4章のエリクソンの心理社会理論の主要概念を明らかにしたうえで、人間の八つの発達段階から一つを選択し、心理社会的危機について、自分が、またはよく知っている人の事例に当てはめて述べよ。」  人間は様々な環境に関わり、影響を受け発達している。そして、どんな環境下でも、人間の発達は、ある一定の順序性・方向性をもち、基本的・連続的・迅速に行なわれる。エリクソンは発達を「自我の発達は、社会との関わりの中で遂げられるのであると同時に、個人の欲求や能力との相互作業によって生み出される」とした。その時々の発達段階で、社会からの要求に応じる心理的努力があり、これは自分の行動基準、つまり自分という人格形成に根ざしたものである。努力するべき目標には何らかの緊張が生じるが、自分で解決したり到達できるようにしなければ次の段階に進めない。つまり問題を解決して乗り越える為には以前の発達段階においての目標を乗り越えられたかが影響してくる。発達段階説は全生涯を8段階からなると提起している。  ①乳児期:乳児は、世話をしてくれる母親に依存して生きている。世話をしている母親も、子どもが泣けば抱きしめたりと、子どもの要求を満たそうとする。そして子どもは親から「信頼感」を学んでいくが、満たさない時は、「不信感」をもつ。更に泣いたり、無表情になるなど、信頼感を獲得することができず、周囲にいる人を受け入れられなくなり自閉的な性格や引っ込み思案、他者を疑う等の姿が現れる。 ②幼児期前期:歩くという行動や自分の意志の表現を泣くことで行なう等の「活動性」が見られ、排泄や食事においても自分でやりたい気持ちが芽生え始め「自律心」が育ってくる。誉められると意欲が高まり得意になる反面、失敗を叱られたり、繰り返し失敗を経験すると頑固になり積極性がなくなる。 ③幼児期後期:言葉が豊かに出語し、知的好奇心が旺盛になり探索行動も見られる。また人との関わりにも積極的になる等、外界に対し「積極性」が育ってくる。悪いことにも興味を持ち模倣して行動した後、叱られ反省する過程で「罪悪感」を味わう。その為、周囲の見守りの中で子どもが理解し、納得できるような問題の解決法を自分の力で行なえるようにしていくことが大切である。 ④児童期:成人期に必要な知識・技能を獲得、学習するといった「勤勉性」を獲得する時期だ。しかし、勤勉に何かを行なう事は好奇心の有無に関わらないるため学習過程は常に楽しい事ばかりではなくストレスを感じさせることもある。学習に対しての問題(学習障害)、行為の問題(非行など)、情緒的な問題(情緒障害や不登校)などの問題を上手く対処できない時は集団心理が作用している中で「劣等感」を抱く。 ⑤青年期:自分自身の事を見出そうとする過程の中で友達関係が強くなる。友達を通して様々な考えを受け入れ酷く否定するなど情緒的なバランスに均一がとれず、悩みながらも自分の力で自分の事を肯定的に受け入れようとする等、社会的に適合出来るよう「自我同一性」を形成する反面、自分自身に自身がもてなく常に不満な気持ちでいると自分の存在を認める事ができなくなり、「役割分散」といって自分の将来の理想などがもてなくなる。 ⑥成人期前期:就職や結婚など、周囲の人々との関わりをもち互いを理解し認め合う中で「親密感」を獲得する反面、親密性が欠けていると人と接する事は難しく社会生活を送る中で極端な「孤独感」を感じる。 ⑦成人期後期:社会全体の中で将来の模範となるような「生殖性」のモデルとなる事が課題である。生殖性は性的生殖ばかりでなく心理社会に対して貢献する人格
  • 環境 子ども 社会 発達 心理 学校 問題 幼児 家族 児童
  • 550 販売中 2008/05/31
  • 閲覧(2,854)
  • 人間の成長
  •  最近、「ゆとり教育」という言葉をよく耳にする。学習指導要領の変更に伴い、義務教育における学習の量が大幅に削減された。また完全週休二日制も導入され、学校に通う時間も削減された。これらには反対の声も多い。補習授業が行われたり、塾に行き勉強したりする機会も増えている。こうしないと進学することができないのだ。私立学校との格差が広がってしまうのだ。同じ小学校ないし、中学校を出ていても学習量が大幅に異なってしまう。なにも受験のためだけに勉強するわけではないが、格差の広がりすぎはあまり好ましくないと思う。私は比較文化論の授業を通して教育の意味について考えさせられた。そこで教育について考えて生きたい。  そもそも日本の教育とはどのようなものなのか。格差の広がりが好ましくないといったが、それは日本人のこれまでの教育の観点から述べることができる。「日本人は他人と同じ」とよく言われる。戦時中や戦争直後の日本の教育は一貫教育ですべての子供に対して同じ教育をしてきた。
  • レポート 哲学 ゆとり教育 人間の成長 義務教育
  • 550 販売中 2006/01/13
  • 閲覧(2,015)
  • 人間の性について
  • 孟子の時代に人間の本性についての問いが争点となった。孟子説の「人間は生まれもって善である」という性善説。もし赤子が井戸に落ちそうなところを見かけた時、誰でもはっと驚き助けようとするのは人には誰にでも惻隠の心があるからだという。  荀子説の「人間はもともと悪である」という性悪説。これは人の性はもともと利益を好むはたらきがあり、それに従うので争い、奪い合いが生じ、譲り合いがなくなる。そして生まれながらにして、ねたみ、憎しみのはたらきがあるから、傷つけ合いが生じ、誠実さがなくなる。生まれながらにして耳や目などの欲望があって、快い音声や美しい色を好むので、ふしだらな乱れが生じ、礼儀という文・理をめちゃくちゃにするに至り、暴力沙汰にもなるのだ。だから教育を受けて感化し礼儀を得なければならないのだ。というのが性悪説である。  次は告子説の「人間の本性は善でもなければ悪でもない」の様に人間の本性は道徳性と無関係だという性無記説。これは「人の本来の性質は、渦巻く流れのようなものだ。東の堰を切り落とせば東に流れ、西の堰を切り落とせば西に流れる。人の本来の性質が善と不善に分けられないのは、堰を切り落とす前に、水が西に流れるか東に流れるかに分けられないのと同じようなものだといっている。だから環境の変化に影響されるという意味である。  また本性は「性に善・不善あり」という説。これは孟子では主張者の名が記されてないがこれは環境や教育の善悪によって人はよくも悪くもなるという説で、のちの揚雄の、性は善悪が混合しているとする説の先駆といえる。  最後に「ある本性は善であるし、ある本性は悪である」と主張する者もいた。これは生まれつき性が善である人と悪である人と二種類の人間がいるという主張である。
  • レポート 哲学 中国 孟子
  • 550 販売中 2006/01/23
  • 閲覧(5,060)
  • 人間とは何か
  • 自分が教師となったときに、生徒から「人間とは何か」と聞かれたらどのように答えるだろうか。今日の社会背景や人間存在の位置づけを踏まえたうえで、生徒にとってわかりやすく答えるために、私はどのように答えたらよいだろうか。私は自分個人の考えとして次の三つを提供したい。それは、人間とは第一に「他者ともに生きていく存在」、第二に「合理性を超越する存在」、そして第三に「死を意識する存在」であるという考えである。  まず一つ目の、人間とは「他者と共に生きていく存在」であるということについて述べたい。当たり前のことであるが、人間は一人では生きていけない。人間は本来、一人で生きられる存在ではなく、家族、親類、友人といった人間社会の中で支えられて生きていく存在である。逆の例として狼に育てられた二人の少女、アマラとカマラの話が挙げられる。人間の間で育つことのなかった彼女達はなかなか狼の習性が抜けず、結局最後まで友情や愛情といったものを持たなかった。ここから、人間は、他人の愛情を受けることで生かされ、人間社会の中で育てられることで「人間」として成長するという事実を実感させられる。それゆえに、私は人間とは他者と共に生きていく存在であり、同時に、他者によって生かされている存在であるということを第一に生徒に伝えたいと思う。 しかし近年では、個人を重んじる風潮の下、集団生活、集団行動とった集団意識が薄れ始め、他者に対する配慮が届かなくなってきている。これによって、自分と異なる考えを持つ「他」を受け入れられなくなり、排除しようといった動き(小さく言えば、学校におけるいじめ、大きく言えば宗教間の対立が影響したイラク戦争)につながる。今、私たちは改めてキリスト教の「隣人愛」を見直す時にきているのではないかと思う。私の考える「隣人愛」とは、愛するに足る隣人は誰かと人間規定をした上での考えではなく、もっと簡単に、自分の大切さと同じくらい他人も大切であるから、他を理解し尊重しなければならない、という考えである。このことが世界に伝われば、今日多発している紛争やテロの解決の糸口ともなるのではないかと思う。 次にニつ目の考え、人間とは「合理性を超越する存在」であるということだが、その前に「合理性」について言及したい。人間はしばしば、「合理的」な存在であると言われる。合理的人間が提示する人間像とは、競争、学歴、名誉、効率化などであるが、果たして人間はそれまでの存在だろうか。私が考えるに、人間はその向こう側にある非合理的な側面を兼ね備えていると思う。マザー・テレサ、ガンジー、マーティン・ルーサー・キングが具体的な例として挙げられる。彼らはいずれも皆高学歴で恵まれた家の出身であったにもかかわらず、それを投げ打ってまで各自の活動に従事した。それは一体何故だろうか。それは、その現実を見た時に合理性を越えた何かに駆り立てられ、自分の使命を感じたからであろう。だから彼らは自らの地位、名誉を投げ打ってまで活動に従事したのだ。川に溺れた我が子を助けるあまり、自らの命を落としてしまった親の話を聞いたことがあるが、それもこの類である。つまり、本来、理性や合理性では説明の付かない行動までしてしまう人間とは「合理性を超越する存在」なのである。今日の社会では、学歴、地位、名誉だけで人間の価値を計りたがるが、人間とはそれらだけでは決して図ることのできない、素晴らしい能力を持った存在であるということを生徒に伝えたい。 最後に三つ目の、人間とは「死を意識する存在」であるということについて述べたい。言うまでもなく、人間は死について
  • レポート 人間 人権 聖書 イエス
  • 550 販売中 2007/02/09
  • 閲覧(41,574)
  • 人間学 『遊びと人間』 ロジェ・カイヨワ レジュメ
  • 『遊びと人間』 ロジェ・カイヨワ 第3章~第5章(p82~124)                 3,遊びの社会性  遊びは個人的娯楽ではない   技の遊び+競争の要素(競争者、観客)→技を競う遊び   腕くらべ=遊びの楽しみの本質  競争は規則の整備によって際立った競争形態になる(エスキモーの拳
  • 人類学 遊びと人間 レジュメ
  • 550 販売中 2008/03/21
  • 閲覧(3,142)
  • 人間人間の看護 トラベルビー 看護観
  • 冒頭 私は患者さんと関わる中で、客観的情報だけでなく、コミュニケーションを通して患者さんに今必要なことはなにか、どのような方法で行えば、必要なことを患者さんが望む方法でストレスなく行えるかを考えながら関わっている。なぜなら、客観的な情報だけで援助方法を決定したり、患者さんに提供してしまうと、ストレスにつながってしまったり信頼関係が崩れてしまうことがあるためである。 1577字
  • 看護 理論家 レポート
  • 990 販売中 2017/10/02
  • 閲覧(17,079)
  • 人間の知性と教育
  • 人間は唯一の知的動物である。人間は言語を使いコミュニケーションし、数式を操り、文化を形成し、笑うといった高度な感情を示し、さまざまな事を考える。そのような知性は、人類が代々受け継いできたもので、受け継がれければ、人類の知性は存在し得なかっただろう。人間という生物種は、知性を持つことが出来るように出来ているが、教育してやらねば知性を持つことは決して出来ないのである。オオカミに育てられたアマラとカマラは、オオカミから救い出された(この表現は正しいのかどうか、判断は微妙である。何故なら、オオカミといっしょに生活することは、当時彼女らにとってあたりまえであり、人間に連れ出されて環境が変わったことを嫌がったかもしれない。)時には、知性は無く、まったくオオカミと同じ行動をしていた。しかし、彼女らを教育するにつれ彼女らは人間らしさを示し、カマラは片言だが言葉を話すまでになった。  人間の意識の活動には3種類あるといわれ、それはそれぞれ、知性、感情、意志である。知性とは、感覚・知覚によって物を認識し、それを体系だった事としてとらえ、その捕らえたものに対して知覚したものについていろいろと思考をめぐらせ、創造したり、言語によって一般化したり、抽象化した概念にしたりすることである。そして感情は、知覚したもの、あるいは知性によってとらえた事柄に対して、思うことや示す態度のことである。そして意志とは人間の行為を意識的に導く心の働きである。この3つは密接に結びつき、相互に働き合っている。  人類はそのような知性を、有史以前から代々受け継いできた。原始時代では、狩のしかた、住処の作りかたなど他の動物でもやっている事に加えて、火の起こし方、道具の作り方などを受け継ぎ、発展させていった。それが医療、産業、社会など、さまざまな分野で蓄積していって、学習し、さらなる発展をした。さらに、道徳や哲学など、物事の考え方に関する考えなど、高度なものを生み出し、発展させた。私たちは、このような知性を教授し、今ここにいるのである。このような知性は、何も無くても伝わるようなものではなく、そこには何らかのかたちで「教育」がなされてきた。
  • レポート 教育学 教育 知性 オオカミ少女 知性の遺伝
  • 全体公開 2012/10/13
  • 閲覧(4,268)
  • 人間と家庭のかかわり
  •  この世に生を受けた人間は、多くの場合、家庭の中に迎えられる。  そして、その中で多大な愛情を受けて育てられ、成長していく。  家庭の大きな役割は、人間が外の世界(学校・会社など)から帰ってくる際に、緊張や疲労から解放させ、深い安らぎの憩いと睡眠の時間を提供し、明日からの生活への原動力を沸かせることである。しかし、それが可能となるには、家庭の中に十分な愛が無ければならないのである。では、「愛のある家庭」とは一体何なのだろうか。  それは、家庭の基盤となる夫婦の関係にかかわることである。  夫婦とは、人生をともに歩む共同者(パートナー)であり、1人では足りないところを2人で補い支えあう補完的な面だけでなく、一人では気づかなかった新しい自己を発見したりする創造的な面を持ち合わせることで、人間的成熟、豊かさが生じてくる。豊かな夫婦関係を築いていくためには、お互いに、深いかかわりを願って、積極的に心を開く誠実さを持ち合わせて無くてはならない。ただし、心を開き、お互いに支えあい、夫婦というひとつの形になるということは、各々のアイデンティティを失うことではない。相互のアイデンティティを基本的に認め合うことが重要で、そのためには心理的・社会的に成熟している必要がある。もし、過度の自己中心性や他社依存性が一方にでもあれば、この関係は成立しないであろう。  心を開き、相互に認め合うためには対話という行為が必要である。この対話は2種類存在する。  1つは精神的対話である。先週の内容と重なるが、これは普段の会話とは違い、自分が相手に受け入れられ大切にされているという深い確信の元に成立する。相手に対して自己を隠さず、相互に実存的に裸の状態で自分自身について語り、また相手自身を聴くことである。
  • レポート 哲学 家族 家庭 成長
  • 550 販売中 2006/01/17
  • 閲覧(2,166)
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