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連関資料 :: 政治

資料:478件

  • 幕藩制確立期の幕府政治
  • 江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配による封建的政治社会体制である。 全国領地は幕府領(天領)・大名領(藩領)・旗本領・寺社領および皇室・公家領の分割領有支配で、江戸幕府を頂点としながらも、各大名が其々の領地において統治機構(藩)を形成し、全労働剰余の搾取、主に米等を現物で納めさせて年貢とする石高制を基礎とした。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。士農工商の職能身分制度によって武士を支配階級に位置づけ、人々は其々集団に属し規制を受けながら生活した。商工民は生産・商売自由の特権を与えられ城下に集中し、領主にとっては年貢米の第一市場となった。 幕藩制は兵農分離と石高制・領国制が特質づけられるが、このうち兵農分離と石高制は、豊臣政権における太閤検地と刀狩りに身分法令を主とする諸政策を基礎にしたものである。 江戸時代の初期(慶長・元和)は幕藩体制の土台ができた時期とみる。江戸幕府開設後、初代将軍徳川家康は2年で将軍職を2代秀忠に譲り、江戸・駿府の二元政治により政権世襲の布石とし、一六一五年(元和一)大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ
  • 日本大学 日大通信 報告課題 科目修得試験
  • 880 販売中 2009/09/07
  • 閲覧(3,165)
  • 政治的無関心の三形態についての分析
  • 政治的無関心の三形態についての分析 はじめに  私は政治に関心をもっているが、なかでも今最も興味があるのは政治的無関心である。政治的無関心とは様々なタイプに分類できるが、中でも  屈折的無関心:本当は政治に参加したいという欲求を持っているが、自分が参加しても大した影響は及ぼせないと考えて政治に距離を置いている状態。  伝統型無関心:政治的な情報・知識を持っておらず、政治は自分と無縁なものと考えるタイプ。 現代型無関心:政治を他人事のようにとらえ、政治に関連したいという気持ちをなくしているタイプ。非行動的で傍観者的な態度。    などがあげられる。国民はどのような政治的無関心に陥っているのか。本調査で分析する。また、上記のように類型はいろいろあるが、本調査ではそこまで調べられないため割愛する。  そして、政治的無関心に陥っている人はどのような環境の人が多く、どのような行動を起こす傾向があるのか。本調査で分析していきたい。  なお、金沢調査のデータは2007年7月29日の参議院議員選挙の約1ヶ月後の8月27日から1週間後の9月3日までの間に本選挙の意識調査を金沢市の有権者を対象に実施した。 金沢調査の概要 母集団 金沢市選挙人名簿 金沢市の有権者36万人から無作為に抽出した1500人を対象 回収方法 「郵送」 回収率 サンプル数:1500人 回収票数:771人 有効回収率:51.4% 1.本調査で求める事柄 (1)なぜ政治的無関心は起こるのか。 (2)政治的無関心に陥っている人はそれぞれに際立った際は見られるか。またそこから映し出される日本の政治的無関心の問題点は何か。 2.分析 (1)‐1 概要  まず政治的無関心の概要を知るためにQ8の棄権理由を使用する。 [表1] 棄権した人の棄権理由 棄権した人 パーセント 用事 35 11.9% 病気 21 7.1% 面倒 15 5.1% 無関心 28 9.5% 情報不足 25 8.5% 選挙のしくみ不明 5 1.7% 投票しても結果同じ 23 7.8% 無風 10 3.4% 無期待 53 18.0% 変わらない 62 21.1% その他 17 5.8% 294 100% 政治的無関心である屈折的無関心、伝統的無関心、現代型無関心は上の表でおのおの  ①屈折的無関心:「投票しても結果同じ」「無風」「無期待」「変わらない」の4つ        回答数148(多重回答可) 全体の回答% 50.3% ②伝統的無関心:「情報不足」「選挙のしくみ不明」の2つ        回答数30(多重回答可) 全体の回答% 10.2% ③現代型無関心:「面倒」「無関心」の2つ        回答数43(多重回答可) 全体の回答% 14.6% に分けられる。これからの分析・考察はQ8の棄権理由でどこに回答したかで政治的無関心の3つの形態に分けたものを使う。なお、用事、病気、その他は政治的無関心に関連がないため省くとする。 (1)-2こるのか  まず、屈折的無関心は何によるものなのか。説明変数に屈折的無関心、被説明変数にQ18年齢を掛け合わせてみる。そしてカイ2乗検定・クラマーのV係数を用いる。 [表2]屈折的無関心と年齢のクロス集計表 年齢     20-29歳 30-39歳 40-49歳 50-59歳 60-69歳 70-79歳 80歳以上 NA 合計 屈折的 無関心 度数 11 20 20 24 7 6 3 1 92 % 20.0% 22.0% 19.8% 13.4% 4.4% 4.6% 5
  • 政治学 政治 政治的無関心 屈折的無関心 伝統的無関心 現代型無関心 レポート 調査 SPSS 社会学 投票 選挙 参議院 投票行動
  • 550 販売中 2008/02/04
  • 閲覧(12,475)
  • 「グローバル化」のもとでの国家・政治の役割と意義
  •  近年のコミュニケーションや交通手段の飛躍的発達は、国境を越えた、人々の経済活動や文化交流などを盛んにしている。インターネットの普及によって、さまざまな情報は瞬時に世界に伝達され、各家庭に届き、新たな事態を引き起こす。国家はもはやこのような活動や情報の流れを押しとどめることはできない。「国境を越え、人簿と野に津上生活が地球的規模で展開される、ヒト・モノ・カネ。情報の往来の上に成り立つ」グローバル化という形をとって急激に変化する世界にあって、どのような組織、統治機構や政府、政治が仏ようとされるのか、新しいガバナンスの形が問われている。
  • レポート 政治学 グローバル化 夜警国家 積極国家 小さな政府 地球的問題群
  • 550 販売中 2006/01/10
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  • 『職業としての政治』の要約・歴史的意義・感想
  • ①『職業としての政治』の要約  政治とは非常に広い概念だが、ここで政治という場合、政治団体、すなわち現在でいう国家の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為を考えることにする。では、その「国家」の社会学的な定義とは何か。近代国家を社会学的に定義するため、国家を含めたすべての政治団体に固有な、特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目する。おそらく、暴力行使は、国家に特有な手段であろう。今日では、国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である。すなわち、国家以外のすべての団体・個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められていない。要するに、現代では、国家こそが暴力を行使することができる権利をわれわれに与えうる唯一の存在である。なので、われわれにとっての政治とは、国家間においても、国家内の人間集団相互の間においても、暴力=権力が配分され、その権力の配分関係に影響を与えようとする行為であるといえるのだ。 これは、日常用いる「政治的」という言葉の用いられ方からも正しいといえる。あらゆる「政治的な」事柄を考える際にも、権
  • 法学 法学部レポート対策 法学部試験対策 法律 政治学 ウェーバー ヴェーバー 職業としての政治 感想文
  • 550 販売中 2008/08/13
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  • 日大通信 国際政治論 分冊Ⅰ
  • 問1 国際社会を客観的に分析するための基本的な心構えについて述べなさい。 キーワード 社会科学 文化相対主義 問3 冷戦終結後(1989年~)にこれまで表面に出てこなかった民族紛争が各地で勃発したが、その理由について説明しなさい。 キーワード 旧ユーゴスラビア 文明の衝突 合格レポートですがあくまでも参考としてお使いください。
  • 日本大学 日大 国際政治論 社会科学 文化相対主義 冷戦 民族紛争
  • 660 販売中 2017/12/19
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  • 竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』
  • 竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』  これはアイについての物語かも知れない。「私」という意味の「アイ」であり、「アイデンティティ」の頭文字としてのアイ。すなわち、「私」について語ることが、「愛」について語ることではある。  『愛について』は、「愛」の不可能性かつ「私」の不可能性の物語である。「アイ」のくるおしさに満ちた書。。。  愛においてわたしは、わたしがもっていないものを与える。なぜならあなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在しているから。だからわたしの愛は、いつもわたし自身の愛から疎外されている。 (p.109)  ラカンによれば、「欲望はつねに《他者》の欲望である」。言語の網の目の中にいる「私」は、自ら言語を所有することによって、「愛」の主体となることも、言語を否定することによって、「愛」を所有することもできない。しかしながら、それは「私」の「愛」が「あなた」に向かって開かれていることを意味しない。「愛」は常に不可能なまま、「わたし」と「あなた」の間を反復し続ける。  それゆえ、「愛」は永遠に経験されることはないだろう。経験されることのないまま、無限の反復運動を続ける。しかしながら、私たちはそれを「愛」と名づける。名づけることによって、「愛」に実体を与えようとする。「ファルス」(男根)の名の下に。ファルスが特権化されるとしたら、それは「愛」に生殖の流れを表象させるからである。「正しい愛」は、社会通念や法によって正当化されているから正しいのでなく、愛の困難さを知ることから免れているから、正しい。  しかしながら、「正しくない愛」によって、愛が経験されるわけではない。制度上の差別化によって、法は、「私」という場に、「私」特有の形態をとって現れる。これによって「愛」が経験されることはないのである。  筆者のおこなうものは、異性「愛」が社会的に構築されたものであるとして、糾察することではない。なぜなら、異性愛は、そもそも不可能だからである。それゆえ、筆者は同性愛を特権化することもない。同性愛もまた、不可能だからである。ただ、その不可能性と対峙すること、それが唯一残された、倫理的態度である。  おおよそ、異性愛主義の批判は、異性愛主義に対し同性愛主義を対置し、異性愛主義が異性愛を特権化するのと同様に、同性愛を特権化してきた。そのような批判は、一見異性愛主義を相対化しているように見えて、異性愛主義者が自らを特権化するのと同様に、同性愛主義の特権を問うことに失敗している。なぜならかれらもまた「私」を問わないからである。  「私」を問わない批判は、その不可能な「私」に気づくことなく「私」を表象する。そして、「私」は「アイ」の名の下に、「私」を支配する。 *           *           *  であるからこそ、筆者は「私」の政治である、アイデンティティの政治(ポリティクス)について問う。アイデンティティの政治とは、いわゆる多数派に対して、いわゆる少数派が独自のアイデンティティを主張し、自らを名づけることである。筆者によれば、「区別でなく差別化されてきたセクシュアリティ、あるいはクローゼットの中に隠さざるを得なかったセクシュアリティを、みずからの『真正さ』として主張し、『普通の生活』を要求する」ものである。  しかし、「これまで否定的なしるしがつけられていた名づけをちかって、その名づけを換骨奪胎するために行う『アイデンティティの政治』も、その名づけが既存の抑圧的な〈言語〉による定義にとどまっているかぎり、そ
  • 全体公開 2007/12/21
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  • 日本史1(鎌倉幕府と執権政治について)
  • 『鎌倉幕府と執権政治について』 鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(一一九九年)1月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年(一二〇○年)に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年(一二○三年)には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。 建仁三年(一二○三年)北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年(一二○四年)に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。 翌年の元久二年(一二○五年)に時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと試みるが、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連携して時政を引退させると共に、平賀朝雅を抹殺した。この事件で「執権」は時政から義時へと移る。 北条義時は北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。政所別当の義時は建保元年(一二一三年)に和田義盛を破り、侍所別当の地位を手にして幕府内における地位を高めることに成功する。 一方、このころ朝廷では後鳥羽上皇が和歌などの芸能を通じて将軍の源実朝と深く結びつき、間接的な幕政の介入を目指していた。また武芸にも深い関心を持っていた後鳥羽は武士団を統率し、かつての後白河のような国政の主導権を発揮しようとしていた。 そのような中、武力紛争の絶えない幕府の状況は、承久元年(一二一九年)頼家の遺児の公暁が将軍の源実朝を鶴岡八幡宮にて殺害するという最悪の事態に陥る。表面的には源家の家督争いだが、その背景には義時の謀略も想定される。幕府は摂関家出身の藤原頼経を将軍に迎え、公武の融和をはかるも後鳥羽は幕府打倒の意思を固める。これが承久三年(一二二一年)の承久の乱へと続く。これは幕府側の勝利に終わり、幕府軍を率いた北条泰時・時房は六波羅に常駐し、六波羅探題が成立する。これにより幕府側の京・西国支配体制が築かれて、国政の主導は完全に幕府へと移行した。 義時の後に「執権」となった北条泰時は、義時や政子といった幕府創業世代の死去による世代交代期の混乱を防ぐために叔父の時房を「執権」の補佐役である連署にあて、有力御家人の最高合議機関である評定衆をおき、集団指導体制を確立する。 承久の乱後、急増した訴訟問題などに対して、貞永元年(一二三二年)に泰時を中心として、理非に基づく合議採決の基準を定めた御成敗式目と呼ばれる武家法が制定される。これは武家による最初の本格的成文法で、以後永く模範とされる。泰時の「執権」期の幕府の体制は、将軍専制政治より執権政治という新たな段階へ移行したと評価することができる。 仁治元年(一二四〇年)に連署時房が、仁治三年(一二四二年)には「執権」泰時が相次いで没し、次の「執権」の北条経時は病弱であったために、北条時頼に「執権」を譲った。この様な状況下、「執権」北条氏に対抗する勢力が将軍頼経周辺に形成されはじめる。当初権力基盤の弱
  • 日本史 鎌倉幕府 執権政治 佛大
  • 770 販売中 2007/11/17
  • 閲覧(7,992)
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