連関資料 :: 政治
資料:488件
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議会政治における行政責任
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議会政治における行政責任
間接民主主義を取る現代国家における行政責任とは、公務員あるいは行政部が、議会あるいは裁判所、究極的には主権者である国民の要求・命令に応答し、自らの行為について弁明することを意味している。この行政責任とは、一般に外在的責任と内在的責任に分けられ、それはさらに制度的責任と非制度的責任に分けられる。まず、①「外在的で制度的な責任」には、議会に対する責任、裁判所に対する責任が含まれる。②「外在的で非制度的な責任」には、行政部の国民に対する責任が含まれる。さらに、③「内在的で制度的な責任」には、各省大臣による執行管理や上級官庁や上司による管理が含まれ、④「内在的で非制度的な責任
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行政
国家
評価
制度
集団
行政責任
550 販売中 2009/01/28
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国際政治学レポート
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(設題)
最近の国際紛争を2例挙げ、それぞれの事例について、以下の2点の論点について述べなさい。
1 紛争の原因、歴史的経緯、背景とその特徴、これまでの解決策
2 紛争の解決方法についての自分の見解
(解答)
1.イラク戦争について
2004年3 月20日米英軍が現地時間20日「イラクの自由作戦」と銘打つ対イラク軍事作戦を開始した。米英主導のイラク開戦後約2年。ブッシュ米政権が表向きに最大の侵攻理由とした大量破壊兵器は今なお未発見のままだ。開戦判断は正しかったのか。間違いなら正当性は失われないのか。そんな疑問が内外で噴出している。イラク戦争は独仏中ロが反対、国連は承認決議をしなかった。しかし、単独行動主義の米国は突入、小泉首相は全面支持した。「(大量破壊兵器の)備蓄はなかった。今後も発見はなさそう」。米上院政府活動委員会公聴会。パウエル国務長官も開戦の大義とした大量破壊兵器の事実上の発見断念を公式表明した。パウエル長官は開戦直前の2月、国連安保理外相会合で「イラクの生物兵器所有は疑いない事実」と主張、開発の証拠隠しの独自機密情報を示し、開戦の必要を訴えた。大義としたのは大量破壊兵器廃棄
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歴史
経済
情報
戦争
イギリス
国際
平和
イラク
国家
1,100 販売中 2009/03/01
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近代日本の政治の歴史
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憲法発布後10年
藩閥勢力‐「超然主義」「超然内閣」
政党ではなく藩閥が一致協力して天皇にかわって国政の責に任ずる
初期議会期
「超然内閣」vs「民党」
憲法第67条 議会の予算審議権の制限の問題 政府vs衆議院
明治24/5/6 第一次松方内閣
民党「政費節減・民力休養」に対抗し積極政策
第二次伊藤内閣
1893/2 「和協の詔勅」
日清戦争後、政府、政党との提携を求め始める(政党と政府の利害の一致?)
1896(明26)/4 自由党総理板垣退助の内務大臣就任
明治29 第二次松方内閣
進歩党と提携、党首大隈重信外相主任
保守系官僚グループの反発(元老山県有朋)
1900(明33)/9 伊藤系官僚グループと自由党(憲政党)が合同、立憲政友会
進歩党(憲政本党)は野党
第二次松方内閣、地租増徴案に反発
進歩党は同内閣と提携を断絶→総辞職
1898(明31)/1/12 第三次伊藤内閣
増税案→自由党離れる
自由党、進歩党合同、憲政党に(6月)(衆議院の3分の2近く)
増税案不可能に、伊藤内閣総辞職
6/30 第一次大隈内閣
日本初の政党内閣
酒税大幅増徴(軍拡の代償)
憲政党、憲政党(旧自由党)、憲政本党(旧進歩党)に分裂、政党内閣崩壊
11/8 第二次山県内閣(保守系官僚グループ)
地租増徴案
憲政党‐賛成、伊藤系官僚に好印象
憲政本党‐反対
1900(明33)/8 伊藤系官僚グループと憲政党が合同、立憲政友会
10/19 第四次伊藤内閣
過半数政党は政友会
陸海軍大臣、外相以外は政友会員
首相、内、蔵、法相は伊藤系官僚からの入党者
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レポート
政治学
日本政治
戦前
超然内閣
550 販売中 2006/01/11
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国際政治学1
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日本が黒船による強制的な開国によって不幸せになったという感慨は、ある点で日本国民の潜在意識下における複雑でアンビバレントな対米認識の反面の真実である。その「不幸せ感」は言うまでも無く近現代にほんの対外関係を含めたトータル的な意味での国家・国民のアイデンティティに関わるものである。
開国後の長い対米関係において、両国の緊張、摩擦が高まるたびに識者によってペリーによる圧力的な開国を「国辱」などと位置づけられてきた。福沢諭吉もその一人であるが、当時の日米関係を評して「両国人民の大に誇る可き所ならん」と最大級の賛辞を与えていたのである。こういった福沢の内部にある米国に対する愛憎の並存する対米感情は日本人の中にはあるものである。
米国が日本を開国させた理由は三つある。?「世界の勢力争いの舞台」が大西洋から太平洋に移ってきたこと?米国の捕鯨船に対する燃料・食料あるいは難破した場合の保護用?中国貿易の際の中継基地である。
開国はナショナリズムの出発点ともなった。「国辱」と考えることから国とは、国家とはというところに発展したのである。またそのナショナリズムはその後の日本の対外的膨張を正当化するとともに、「自閥打破」や「亜細亜モンロー主義」へと発展していった。
また、「国辱もの」と呼ぶ事件として、ペリーの「白旗」がある。これは1910年3月に大日本子文書・幕末外国関係文書之一に収録されている。この事件と時を同じくして、日本人移民排斥問題が進んでいたのである。そしてそれは1924にピークを迎えることになる。これまではカリフォルニア州をはじめとする一部の地域での問題であった排日移民問題は、ついに連邦議会への排日条項を含む新移民法の上程という段階に至ってしまったのである。いわゆる排日移民法である。同法の成立が日本国民に与えた衝撃は大きかった。
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レポート
国際関係学
国際政治
日本
外交
550 販売中 2005/11/29
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国際政治学5
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本章は日本のテロ対策の特徴を戦略文化という視点から考察してきた。ブースによる戦略文化の定義とは「戦略文化という概念は、力の行使あるいはその脅しに関して、一国がもつ伝統、価値、態度、行動パターン、慣習、シンボル、実績、そして環境に適応し問題を解決する特有の方法に言及するもの」である。
戦略文化論がその対象としてきたものは核戦略だけではない。たとえば『国家安全保障の文化』では、化学兵器のタブーや人道的介入規範、毛沢東やソ連の政策などの多岐に渡る事例が取り上げられている。いずれも規範とアイデンティティが分析のキーワードになっている。
テロは政治的行為とみなされるとするが、日本のテロ認識をかなえるうえで最も重要なことは、政治的なテロリズムすなわち右・左翼のテロ行為に対して、現代日本はその実行者や組織を国民の総意として、テロリストとみなして徹底的に非難、断罪することは無かった。この点こそが、日本のテロ対策が原則を欠き、組織と直接対決せず、被害管理に集中する理由の根底にあるだろう。
日本の場合、テロの脅威が大きくないという合理的な理由付けだけではなく、戦後の平和規範や人権規範(?平和規範・・・平和に絶対的な目標価値を置き、手段も日本人が平和的と考える手段を行使すべきことを要請する。
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レポート
国際関係学
国際政治
日本
テロ
550 販売中 2005/11/29
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公務員の政治活動の制限
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公務員の政治活動の制限について
憲法21条1項の保障する表現の自由に由来する政治活動を行う権利は、絶対無制限のものではないばかりでない。
それは全体の奉仕者であって、一部の奉仕者でない国家公務員の身分を取得することにより、ある程度の制約を受けざるを得ないことについては議論の余地はない。
従って政治活動を行う国民の権利の民主主義社会における重要性を考えれば、国家公務員の政治活動の制約の程度は、必要最低限のものでなければならない。
公務員の政治活動の合憲性を争った事件として代表的なものとして、猿仏事件(最判昭49.11.6)が挙げられる。行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保することは
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法学
公務員
政治活動
550 販売中 2008/06/06
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国際政治学2
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日本社会における第二次世界大戦における議論は大体において、次の二つの「文脈」のいずれかに沿ってなされることが多い。その第一は、「道義」と「贖罪」である。この文脈に基づく議論は以下の3つの命題を中心に構成される。?さきの戦争は、日本が犯した「取り返しのつかない罪過」であった。?このような罪過に対してわれわれは深く反省しなければならない。?われわれの行為によって損害をこうむった人日に対してわれわれは心からの謝罪と、出来る限りの償いをしなければならない。である。一方、さきの戦争に関して、それとは異なる語られ方もある。「権力」と「利益」の文脈がそれである。この文脈に基づいた議論では、さきの戦争は「国家間の権力闘争」と位置づけられる傾向が強い。この文脈にたつと先の戦争は大東亜共栄圏の確立などの目標に対する「失敗」であり、「罪過」とはならない。
ここでは、戦争直後の日本人がさきの戦争を「権力」・「道義」のどちらを重視したかを解明することで「日本人にとっての戦争賠償」とは何かを解明していくものである。ここで実際に日本人の戦争賠償への捉え方を考察する。
(1)ポツダム宣言と賠償原則の確立を考える。アメリカ(連合国)によって、「中間賠償計画」なるもの(日本の産業力の制限等・・・)が日本に対して突きつけられた。このようなけ威嚇が立てられた背景に、アメリカの非武装化構想があったことは言うまでも無く、すなわち、その経済力や工業力の水準を押し下げることで、日本を無力化し、従来の東アジアのパワーバランスを変えてしまおうというのが、当時のアメリカ政府であり賠償もその手段とされていた。この点に注目するならば、当時のアメリカ政府はもっぱら、東アジアにおける力関係(権力の文脈)という観点から見ている。しかし、そこに「道義」の文脈が欠けていたわけではない。
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レポート
国際関係学
国際政治
日本
外交
550 販売中 2005/11/29
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国際政治学4
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本章は、沖縄問題の二つの大きなうねりを取り上げ、米軍基地と沖縄の関係と政治課題について論じる。まず米軍に土地接収に対抗して発生した1950年代の「島ぐるみ」闘争における沖縄社会の大衆役割の検討を通じて、軍事と経済との関係に整合性をつける政治のありさまをみる。そして、1995年から98年にかけて、冷戦後の「へいわの配当」を目指して日本政府との新たな関係を模索した大田沖縄知事の県政を取り上げ、中央と地方政治の変容を観ていく。こうした検討により、日米関係の中に位置する沖縄の特徴の把握や、沖縄問題への理解を深める。
まず、沖縄が基地の島となったところから考える。米国はなぜ沖縄の「施政権」を必要としたのであろうか。それは、占領してから27年にわたる米国の沖縄統治は沖縄の軍事的使用を「完全」に確保するために他ならない。もし日本の施政権が沖縄に及ぶのであれば、日本政府の協力あるいは日本政府との協議を経ることなく、米軍は沖縄の基地を自由に使うことが出来なくなるとアメリカ政府は判断したからである。当時(戦後まもないころ)、米国にとって日本は対等な相手として見られておらず「敗戦国日本」として捉えられていたのである。軍国主義への回帰に懸念を抱き民主化を推進しつつも、日本の再軍備をも求めるマッカーサーは、一大複合の米軍基地が沖縄に存在する限りにおいて、日本との早期講和が可能と考えていたのである。つまり、沖縄の米軍基地の存在を前提として日本の戦後が出発したと言い換えられる。
米国統治下における戦後沖縄の政治を語るときには3つの要因が政治の変動を規定してきたといわれる。?沖縄の軍事的価値。これは米国の極東の安全保障において、沖縄の基地が米国にとって必要不可欠であったことである。?日本政府の安全保障政策。
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レポート
国際関係学
国際政治
沖縄
外交
550 販売中 2005/11/29
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国際政治学7
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ここでは、過去半世紀における日中関係の敬意を概観し、それを踏まえた上で、日中関係の今後を展望する。
まず、日中関係を考察する。日中戦争の時は停戦し抗日にあたっていた国民党と共産党の争いが再び勃発。戦いを経て共産党が勝利し、内戦に敗れた国民党は台湾に逃げ、1949年に毛沢東を主席とした中華人民共和国が成立。
冷戦にあってアメリカ側にあった日本と中国との関係は民間レベルから改善されていく1952年に三人の日本人が旧ソ連経由で中国を訪問し、中国国際貿易促進委員会と「第一次民間貿易協定」を結んだことによって両国の人的・経済的交流が開始された。
その後も民間の交流は拡大されていったが、1957年に反ソ連、反共産主義で親米家だった岸信介の内閣が成立すると、「中共非難」や「長崎国旗事件」など日中関係を揺るがす問題が起こる。このような問題などを受け、中国の陳毅副総理は岸首相の中国敵視政策や言動をきびしく非難し、「あくまで中国を敵視し続けるならば、必ず自業自得の憂き目を見るだろう」という談話を発表。これによって中国の貿易関係機関は一斉に日本側との契約を破棄する事態となり、数年間積み重ねられてきた中国との交流は基本的に中断されることとなる。
1959年からは石橋湛山や松村謙三などによって日中関係は徐々に回復。岸内閣が総辞職し、池田勇人内閣が1960年に成立すると、日中の友好商社の増加や、船による物資の取引が増えたことによって日中間の相互理解が深まり、日中国交正常化の声が高まる。しかし、1964年に岸(元)首相の実弟である佐藤内閣が成立すると、事態は一変。アメリカの助言に従った中国関係に転進し、「中京(中国や共産主義の国)に対しては政経分離の政策をとる」などと公言するなど、中国敵視の政策へと移り変わる。
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レポート
国際関係学
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中国
550 販売中 2005/11/29
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