連関資料 :: 哲学

資料:283件

  • 哲学
  • 戦争のない平和社会は実現可能か  戦争とは、「軍隊と軍隊とが兵器を用いて争うこと。特に、国家が他国に対し、自己の目的を達するために武力を行使する闘争状態。国際法上は、宣戦布告により発生し、当事国間に戦時国際法が適用される 」。辞書の上で戦争はこのように定義されているが、実際のところは、理由をつけ、人と人との殺し合いを正当化した、非常に残忍なものと言っても過言ではない。いかなる理由であろうとも、当然、許されるべきものではない。カントによれば戦争は個人間のものであろうと国家間のものであろうと、道徳上、悪であった。戦争が人格の品位を壊し、自由を損なうからである 。そして、カントは「永遠平和のために」を著し、戦争のない平和社会を提案した。それから200年あまり、起こりにくくはなったものの、戦争がなくなったとは言えず、その火種が世界中に散在している。そればかりか、科学の進歩とともに、戦争もより高度なものへと進歩を遂げ、残忍さを増しており、世界の国々は軍事力をちらつかせながら外交を行っている。このような状況で、カントの提案する戦争のない平和な社会など本当に実現可能なのであろうか。このことを問題とし
  • 歴史 戦争 平和 道徳 カント 仮言命法 定言命法
  • 550 販売中 2009/07/06
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  • 哲学概論Ⅰ哲学はいかにして発生してきたのか
  • 哲学が神話や宗教からどのようにして成立してきたのか、その要点をまとめる。  人間は自然や社会という環境の中にあって日常的には不自由なく周囲の状況に応じて生きているが、予期しない自然の災害や環境の変化が起こるとその原因を求めて、周囲の状況を改善しようと努力したり、または適応行動に出る。そして、次にその変動の起こる事を防ぐ対策も講じる。そして自分にとっての「安全」を求める。安全こそが豊かな人生を送る上での出発点となり、その欲求の上に更なるが生まれ、人間は自由を得ていくのである。  また、人は学びたいという欲求ももつ。それは学ぶという行為こそが自分の身を助け、「安全」と勝ち取る行為だからである。ソクラテスのいう無知の知という危険な行為があってこそ、人間がより安全により真を求めて生きられるのである。以上のように、万物の必然性を求める行為は、人間が安全に生きるという動機なのである。また、そこにはすでに万物の共存共栄を願う宗教的動機いもとづいていることもいえるのである。  哲学のおこりもこの宗教的な動機に基づいている。 哲学のはじまりはタレスであるとされている。だが、哲学は古代文明の中から誕生し
  • 環境 宗教 社会 哲学 政治 自然 人間 問題 国家
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 実在の哲学
  • 実在の哲学 よく来てくれた。 君のような若者が来るのを待っていたよ。  なるべく簡単に説明するというのが私の方針であるが、ここでは、皆さんを混乱させる議論をしてしまうかも知れない。  力学は「どう動くのか」ということをまとめた学問であるが、「なぜ動くのか」ということについては何も説明していない。 私はそれを知りたいのだ・・・・・。  この世に力なんて物はホントにあるのだろうか?  力というのは、結局、運動量を変化させる現象を見て、「力が働いていると考えよう」として決めた概念である。 力というものを取り出して君に見せることは出来ない。  「見えなくても確かにある」と言うかも知れない。それを感じることは出来るから。それは否定しない。  しかし、それをなぜ感じるかと言えば、もっと深い理由がある。  例えば、風は実在するだろうか? 君は風を肌に感じることが出来る。 しかし、風の正体は空気である。「風」が「在る」のではなくて、空気が移動している現象を「風」と名付けたのである。「風」は結果である。  人間は実在しないものに、ある名前を付けて、あたかもそれが存在するかのように議論することができる
  • 全体公開 2007/12/24
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  • 西洋の哲学
  • 序論 このレポートでは、西洋哲学を中心に哲学と社会のかかわり、互いに与えあっている影響を述べます。いつの時代も互いに影響し合っている出来事があり、それを通して哲学と社会の関係性を見出していくとともに、私が感じたことを示します。  また、本論では近代から現代のニーチェ哲学とハイデガー哲学の思想を中心に展開していきます。 本論  まず、ニーチェ哲学の思想とは、現代思想の最大の源流の思想であり、ポスト・モダニズムに代表されます。彼は「神は死んだ」と称してキリスト教の批判をしました。当時の主流を成していたキリスト教を構成する考えに対応した回答を出していて、「ルサンチマン思想」を批判し、「反ヨーロッパ形而上学」的立場をとりました。ルサンチマン思想とは、物質や心理的なさまざまな場面においての妬みや嫉み、嫉妬などの怨念であります。すなわち、苦悩というそれ自体が人間存在への罰であったという説教ということを述べています。  また、苦悩と矛盾の意識の反動として本当はかくあるべきだという出発点をとるような一切の思考方法、第二に、博愛や絶対平等、ユートピアをその基礎にするような一切の思考方法、第三に、絶対的な
  • 宗教 キリスト教 社会 心理 哲学 思想 人間 世界 ヨーロッパ
  • 550 販売中 2009/06/22
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  • カント哲学
  •  カント Immanuel Kant 1724〜1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。カントは、もっとも影響力の大きかった近代思想家のひとりである。彼は人間の認識能力をみきわめることを追求した。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。とりわけ、その批判哲学の根幹をなす「純粋理性批判」では、理論的認識の範囲を経験世界(現象界)に限定したうえで、その認識の対象は認識作用を通じて主観によって構成され可能となるのだとした。 「理性について」  まず、カントにおいて『理性』とは何を意味しているのか。カントはこの言葉をその都度特定の様式で使用しているため、「これ」という答えは無いだろう。しかも、理性という言葉は悟性という言葉としばしば同一視されているようにも思われる。カントは純粋理性批判のなかで「しかし、私はここで理性ということで上位の認識能力全体を理解し、このようにして合理的なるものを経験的なものに対置する。」と述べている。一般的には次のようなことが言える。理性や悟性という言葉が表しているのは、思惟する能力であり、概念によって何者かを表象する能力である。理性や悟性は概念の能力であるといえる。では、純粋理性とはなんであろうか。『異質なものが混在していない全ての認識は、純粋と呼ばれる。しかしとりわけ、そもそもいかなる経験も感覚も混入しておらず、従って完全にアプリオリに可能であるような、そういう認識は、端的に純粋であると名づけられる。したがって、アプリオリな認識とは、概念による、端的に経験から離れた認識作用を意味する』・・・*1 したがって、純粋理性とは、対象を端的にアプリオリに認識するための理性であるといえるのではないか。
  • レポート 哲学 純粋理性批判 ア・プリオリ 理性 コペルニクス的転回
  • 550 販売中 2006/01/22
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  • 哲学とは何か
  • 哲学の出発点は紀元前5〜6Cである。哲学以前は古くから詩人たちが世界の始源について神語的に説明し、ギリシャ以前はエジプト・バビロニアで数学や天文学が発達した。そして実用的な経験的知識を得た。哲学の基本的な特徴は特定の領域に制限されない普遍哲学と根底へと深く問う基礎科学がある。自然哲学者たちの基本的態度は、世界は何から形成されたか・いかに発生したかという事を追求し、ある起源の物質を様々に生成変化するかという元のもの(始源・原理)を考える。万物の元のものというのは『水』『無限なもの』『空気』である。考えることにより万物が生じ、直接経験させる現象に対して、『その根本にあるものを問う・合理的に説明しようとする』態度を示し、理論的に考えることにより物事の根本を探求し、本質を見極めることに繋がるのである。そして『知恵の愛』によるこの理論的・原理的態度が西洋の学問一般の重要な特性になる。   哲学の最初の学説とはまず初めに?『水』を世界の原理とする自然論がある。水は万物が発生し存立する資料である。大地は木材のように水上に浮かび、これにより大地が世界の中心に静止する。なぜなら、あらゆる種子が湿った本性を持ち、水こそがその湿り気を持ったものにとって、その本性の元のものだからである。   次に?『無限なもの』を世界の原理とする自然論がある。これは万物がそこから生成され、消滅によってそれに帰還するという資料の無限な量のことである。空間的・時間的に無限で性質的に無規定であり、冷たいもの・暖かいものの性質の反する2つのものから万物が起こるとされている。   最後に?『空気』を世界の原理とする自然論がある。『無限なもの』の説を受け継ぎ、限りなく広がり、不断に運動変化する空気と呼ぼうとした。
  • レポート 哲学 無限なもの 空気
  • 550 販売中 2006/07/05
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  • 哲学レポート
  • デカルトのいう、「われ思う故にわれ在り」どのようなものなのか、この言明の意味・意義について考えていく。 「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)。これはフランスの哲学者であるルネ・デカルトの有名な言葉だ。  デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。  まず始めに疑ってみたのは、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。 遠くから見ると丸かったものが近くで見ると星型であったりすることがあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのだ。このことから、感覚的知識は疑わしいといえる。  更にデカルトは、自分自身の身体感覚でさえ疑ったのだ。なぜなら、私は今レポートを書いている事を確かに感じているのだが、実はそのような夢を見ているだけかもしれないというのだ。  確かによく考えてみると、私自身も夢を見ているとき、現実との区別がつかないときがある。よって夢と現実の区別はそれほど明確ではない
  • 福祉 レポート 哲学 デカルト 知識 考察 意義 方法 原理
  • 全体公開 2010/03/01
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  • 哲学の現在
  • 「家族という名の孤独」は、現在東京都精神医学総合研究所で働いている斎藤学氏の二十余年間の経験をもとに書かれた本である。この本は全部で九章に分かれている。 第一章では19歳の女性を例にあげ、配偶者選択の不思議さについて書いてある。どのようなことが不思議かというと、人はどんなに過酷なものであっても同じ人間関係を繰り返すというものである。 第二章では自分が必要とされることを必要とする「共依存」について書かれている。 第三章では被虐待女性の多くは虐待する夫やパートナーよりも学歴も社会的能力も高く、男のほうがコンプレックスを抱いていることや、男性が傷つける対象は最も愛している人や癒しを期待する人だということなどが書かれている。  第四章では子供は知らず知らずのうちに両親のカウンセラーを引き受けていることや、不幸が世代を超えて伝達することが4世代に渡って不幸が続く家庭を例にあげて書かれている。  第五章では母と娘の関係は母と息子の関係以上に危険なものだと指摘している。また人の声の質が、人を好いたり嫌ったりする要素として重要であると書かれている。  第六章では幼児虐待について書かれている。  第七章では登校拒否を自己主張と捉えて、悪いことではないと述べている。そして登校を拒否できる能力は大切で、出来る人は「偉い」「勇気がある」と言っている。また学校や教師の問題を取り上げている。
  • レポート 哲学 幼児虐待 共依存 登校拒否
  • 550 販売中 2005/07/13
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  • 教育哲学とは?
  • 教育哲学とは? 「教育を哲学する?」――難しそう、理屈ばかりこねていて、現場に役立たない、といった評判が聞こえてきます。しかし、哲学とは決して難解な言葉を用いて議論をすることではありません。「哲学する」ということは、私たちが毎日の生活の中で直面する問題を筋道立てて考えること、私たちがあたりまえと思っていることをいったん立ち止まって考え直すこと、先入観や思いこみにできるだけとらわれることなく合理的・論理的に考えることです。  現在、「教育」には課題満載です。「いじめ」や「不登校」、家庭での親子関係、「教室崩壊」、少年非行、校内暴力、学力低下、道徳教育や総合学習、教育基本法の見直しの問題等々、挙げ
  • 問題 言葉 自分
  • 全体公開 2007/12/14
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