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連関資料 :: 教育について

資料:11,677件

  • 道徳教育の研究レポート
  • 「道徳教育の研究」 第5章 社会変動と道徳教育  道徳教育を考えるとき、道徳が論じられている社会を抜きにしてそれを語ることはできない。人間は生まれ育った社会における文化の中で、その文化固有の価値観を学び身につける。この点からみれば道徳を学ぶということは、一定の社会に生まれ育つ個人が、その社会の文化を習得していく過程すなわち文化化と考えられる。道徳の問題が論じられる場合には、その道徳が成立している社会・文化的背景によって道徳の問題が規定されていることをまず忘れてはならない。  今日のような社会間の交流や文化間の接触が頻繁な時代においては、社会や文化自体が日々変貌している。また、子どもたちを取り巻く社会、文化的環境も変化している。私たち大人は子どもたちの道徳の問題を論じる前に、子どもたちを取り巻く社会の変化や文化の変容を考察する必要がある。  子どもが生まれた家庭環境およびそれを構成する家族は、子どもが接する最初の集団でありかつ子どもにとっては強制集団である。子どもたちにとってこの家庭の環境は、子どものその後の発達に重大な影響を及ぼす。子どもが成長する過程で、大きな影響力をもっているのはまさにその家庭であるが、この家庭を支える家族に関して、しま変化が生じている。その変化とは、ひとつには社会環境の変化にともない家族のあり方が激変している。また家族特有の病理現象も生まれている。反対に、積極的に家庭をとらえ直そうとしたり、子育ての原理に関しても新しく創造しようという動きもみられる。いわば、現代の家族はカオスの状況の下にあるのだ。そのカオスを土台として子どもたちは成育しているのである。そこで現代家族として大事なことは私たち一人一人が、自ら「家族」のあり方や家族の運営の仕方、ひいては家族における子どもの育て方を模索し、一つ一つの家族が自らの「家族」の理念を構築する必要があるということである。  子どもたちを養育する家族は、戦後様々な形で様変わりしてきた。家族の変容は、それが独立した要因ではなく相互に関連しあっており、変化する家族の中で養育される子どもたちの生活環境にも影響を及ぼすものである。ここで子どもたちの家庭内での教育にとって重要な役割を果たしてきた母親に焦点を絞って、その変化を探っていく。今日のような専業主婦と呼ばれる形態が誕生するのは第二次世界大戦後の高度経済成長期である。その後、生活水準の向上を背景に、日本の家族は消費型家族へと突き進んでいく。この消費型家族では、家族の中心は「消費」を行う妻や子どもたちであり、生産や労働にかかわる夫は家族の中心ではなくなった。つまり父権は失墜したのである。同時に専業主婦という存在自体にも、変化が生じている。家事から解放された主婦は近年の経済状況や雇用状況の変化により、また自己実現のため、育児から手が離れると社会で再び働くようになった。  また家族が生活する場においても、変化はみられる。子どもたちが生活する空間は、「消費」社会という人工的な空間になった。人工的な空間は道徳性の発達に必要な現実の世界における心の痛みといった原体験を生じてこない。子どもたちの道徳性の発達には人間関係で学ぶ豊かな感受性が必要であり、原体験はこの感受性の育成には欠かすことができない。この感受性を育成することが現代の家族に求められているのである。  戦後の家族形態の変容と共に、今日家族内での様々な病理現象が顕在化している。家庭における病理現象が社会現象として顕在化するのは、1980年戦後であると思われる。その発端は、家庭内暴力であった。さらに近年
  • 道徳教育の研究 道徳教育をまなぶ 遠藤克弥 田部井潤
  • 550 販売中 2007/12/13
  • 閲覧(3,390)
  • 幼児教育の常識を問う
  • 幼児教育の常識を問う 幼児教育の常識を問う!…ルソーの実像は、理想とは掛け離れていた! 岡山県津山市立東小学校    小林幸雄 向山実践の特長 向山氏ほど、数々の実践を世に問い続けた実践家はいない。その集大成として、『プロ教師の教え方・向山全集』(明治図書・第1期全15巻)がいよいよ10月に刊行される。私もその編集の手伝いをさせていただいた一人である。 昨年の7月末、五反田のホテルの一室に、向山氏がこれまで書き溜めてきた山のような原稿が搬入された。テーブルの上に置くと、原稿の山が今にも崩れそうな感じだった。その圧倒的な原稿の量に、その圧倒的なエネルギーの前に声がなかった。それは、まさに歴史に残るひとこまであった。 さて、教育界の歴史に残る編集を進めながら、私の脳裏には、向山氏の問題提起の大きさ、奥の深さに改めて驚かされた。まだ、私が目にしたことのなかったような原稿、私が見落としていたような原稿があちこちから目に飛び込んでくるのである。編集の作業を中断し、ついつい読み耽ってしまった。 ところで、向山実践には、これまでの実践家にはない大きな特長がある。その特長こそが、向山実践の偉大な所以で
  • 子ども 問題 授業 運動 指導 文字 基準
  • 全体公開 2007/12/14
  • 閲覧(2,615)
  • 2006.1.28家庭教育論@
  • 「家庭教育論」レポート             家庭のしつけや家庭の教育力についての論議がさかんになっている。青少年の凶悪な犯罪がここ10年で増え,また学校でもいじめや校内暴力が跡を絶たない。そのため最近は,政治関係の人まで,家庭でのしつけをしっかりすることを主張するようになった。ついこの間は,教育改革国民会議の中間報告でも,家庭の責任が強調されていたが,はたして昔の家庭の教育力はそんなに高かったのだろうか。  明治の頃から,子どもを育てるには3つの場所があると言われている。地域社会と学校それに家庭である。このうち3つの中で確実に教育力が低下しているのは,地域社会だ。昔は共同体内の大人全員で,大切な労働力としての子どもを,仕事が1人前にできるようになるまで育てていた。子ども組や青年団,娘組といった,村の伝統文化を代々教える組織があり,機能していたのだが,1970年代以降は,農村地域でもそのような子育ての組織はほとんどなくなった。  では昔の家庭のしつけはどうだったかと言うと,現在に比べて「よく子どもをしつけた」という家庭はずっと少ないことがわかっている。50%以上が農業に従事していた戦前の農村地域では,子どもの教育に熱心な家庭は,富裕農家を除いてほとんどなかった。また都市の下層労働者の家庭も,子どものしつけに関しては無関心であった。しつけに厳しかったのは中産階級に属している家庭だけだったようだ。もともと,家庭で子どもをしつけるということは,あまり日本では行われてこなかったと解釈した方がよさそうだ。では今頃なぜ「学校・家庭・地域社会の連携」の強化や必要性が広く叫ばれるようになったのだろうか。 というのも、子どもが生きる世界という観点からみれば、これら三者の連携は当然のことといえるからである。ここではこのような関心の基で、家庭教育の必要性とともに地域教育の必要性を考えてみたい。 実際には、三者連携の必要性はかなり以前から求められていた。たとえば、『第6次稚内市社会教育中期計画』によれば、三者連携が求められる度に、そのつど論議が重ねられていたようである。だが、その重要性一定程度、認知されつつも、実際に組織的・継続的に取り組まれている状況は少なかったようだ。なぜなら、学校での教育と家庭内の「しつけ」で十分だと理解されていたために、地域社会が介入する必要性は現在ほど強く求められていなかったためである。その意味で言えば、三者連携の必要性は、あくまでも一般的に考えられていたといえるだろう。 広く知られているように、子どもの教育は、学校だけのものではない。子どもたちの生活の拠点とされる家庭や地域社会は、子どもの成長の基盤として重要な意味を持っている。それゆえ、三者それぞれの適切な役割分担を果たしつつ相互の連携が重要となることは明らかだろう。とはいえ、時代が変化すれば、三者のつながりそのものもそれぞれの時代性に合わせて見直されなければならない。現在、これまで以上に三者連携が重要視される形となってきているとすれば、それは、そもそも三者の関係が、 このような時代拘束的なものだからである。 では、現在において家庭と学校の状況はそれぞれどのようになっているのだろうか。そして、地域社会や地域教育はどのようになっているのだろうか。 笹谷春美によれば、本来、家庭とは、睡眠、食事など個人生活に関する「しつけ」、人として身につけるべき礼儀を形成する場である。しかし、少子化・核家族化などといった家族形態の変化や孤食・共働きなどといった家庭内の変容が要因となって「家庭の教育力の低下」が
  • 子ども 環境 地域 家庭 少子化 生活 文化 人間 家族
  • 550 販売中 2007/12/17
  • 閲覧(2,652)
  • 教育社会学問題
  • 教育社会学 1 イギリス・アメリカ・中国からひとつを選び、日本の教育改革と比較し、それぞれの特徴を整理せよ。 5月午前 中国では1990年代の改革として、学生数の増加、教育における市場原理の導入、素質教育の実施を行った。 科学技術と教育によって国の振興をはかるため、まず学生数を多く増加した。中等教育・高等教育共に大きく学生数が増え、非識字率も低下した。しかし、就学率の面でみれば日本と比べてもまだ低いと言える。また、日本の戦後の教育で大学進学率などが向上したことと類似しているとも言える。 次に教育における市場原理の導入について述べたい。
  • 佛教大学 通信 科目最終試験 教育社会学 問題と解答
  • 550 販売中 2008/01/21
  • 閲覧(2,509)
  • 視聴覚教育法6
  • 高校生向け英語指導教材としての ‘I Have a Dream’   本レポートの対象となっている英文を言語材料の面から見ると、1ページ当たり32語の新語があり、学習者である高校生にとってはなかなかハードルの高いものだと思われる。しかし、それ以上に彼らの理解を困難にさせているのが、アメリカ合衆国を舞台にした公民権運動が題材となっていることである。特に、奴隷解放後に主に南部の黒人が置かれていた2流市民という地位、中央集権的な日本の政治システムと連邦制を採るアメリカの政治システムの違い、本文中に出てくる人名や団体名などの固有名詞については高校世界史の学習レベルでは理解が困難と考えられるので、その点がわかるように、以下で解説する。 the Emancipation Proclamation 南北戦争中に発表された奴隷解放宣言を意味し、これによってリンカーン大統領は連邦軍から脱退した州の中で、1863年1月1日の時点で連邦側にまだ戻ってきていない全ての州の奴隷が解放されることを宣言した。ここで着目してしなければならないことは、連邦側から脱退しなかったメリーランド州とデラウェラ州、すでに連邦側についていたテネシー州、そして連邦側に忠誠を誓っていたミズーリ州とケンタッキー州やその他いくつかの郡では奴隷制を布いていたにもかかわらず、意図的に解放宣言の対象からは除外されていたことだ。合衆国全体で奴隷制度が法的に禁止されたのは1865年に合衆国憲法修正第13条が承認されてからである。しかし、なぜ、それから約100年後の1963年にもなって、黒人に対する差別が残っているのかという疑問がここで発生するだろう。また、‘It need a prophet who could help see through the smoke left by gunpowder and bombs.’という英文を理解させるためにも、この疑問に答えることが重要である。 差別が残った原因は、南北戦争終結後の一般にアメリカ史においてリコンストラクションと呼ばれる南部再建期、北部(連邦軍)が南軍支配地域を力で押さえて徹底的な改革をやろうとする急進派と南部人の自主的な改革に任せようとする穏健派に北部人が分かれてしまったからである。時の北部の支配的な勢力によって、政策が二転三転した。結果的には、南部の州では奴隷制当時に州政府の高官であった者たちが、そのまま権力の座に残ることが許された。さらには、1896年に最高裁判所が、「分離すれども平等」であれば、公共施設における人種隔離は合憲であるという判決(プレッシー対ファガーソン判決)を下した。そのため、南北戦争の生の遺産である合衆国憲法修正第13条(奴隷制廃止,1865年)、第14条(公民権の定義等,1868年)、第15条(黒人参政権,1870年)は形骸化し、南部の多くの州で有色人種は白人との結婚が制限されたり、過剰な投票税がかけられ実質的に選挙権が剥奪されたりと様々な形の差別待遇が残ることとなった。これがキングがスピーチを行った1963年になっても人種差別が残っていた理由であり、公民権運動が起こった理由である。以上を踏まえれば、the smokeとは前述の差別待遇を受けていた南部黒人の2流市民という地位、また広く解釈すれば根強く残る黒人への差別的待遇のことをさしていると考えられ、left by gunpowder and bombsという記述は、南北戦争からずっと人種差別は燻り続けたままであったことを示唆するものであることがわかる。         「
  • 憲法 アメリカ 戦争 政治 差別 英文 学習 高校 運動 システム
  • 550 販売中 2008/01/25
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  • 学制制度(教育史)
  • 日本の近代教育の発足として「学制」の発布が挙げられる。これは、明治五年に公布された、すべての日本国民を対象にした日本で最初の公教育制度案である。そしてこの制度は、すべての国民が学校教育を受けられることを目的としたものであった。 明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府としてその年の七月に文部省が設置された。これから文部省が全国の諸学校すべてを統轄する制度ができた。江藤新平が、文部省の長官として最初に文部大輔となったが、その後まもなく大木喬任が文部卿となり、文教行政の首脳部を構成することとなった。文部省は全国の学校を統轄しただけではなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとした。ここで江戸時代からの諸学校の普及を基礎とし、さらに欧米諸国の教育制度を参照してわが国の学校教育制度を創始することとなり、明治四年の十二月に一二人の学制取調掛が任命され学制条文の起草にあたった。明治五年の一月には学制の大綱を定め、詳細に各条を審議し条文として整え、五年三月ごろに案文が上申され、六月二十四日に太政官において認可された。その後府県への委托金についての条項について決定ができないため、この条文は確定しないまま、五年八月三日に太政官の布告をもって「学制」として公布した。この太政官布告は、学制実施に当たっての教育の宣言ともいうべきもので、教育における学問の意味を明らかにし、従来の学問観や学校観を批判した。そして新しい学校へ人民一般が入学して新時代の有用の学を修めなければならないとした。また、子どもを就学させることは父兄の責任であって、必ずこれを果たさなければならないとした。学制条文のうちには当時問題となっていた海外留学生規則やのちに育英制度となる貸費制規則も加えられている。 学制の条文は、その多くが学校制度の体系を決定し、これを実施する行政組織をつくるための条章であった。学校制度の体系としては小学、中学、大学の三段階を基本とした。小学校は八年制で上等小学、下等小学それぞれ四年の学校となっていた。小学校は学校制度の基礎となる教育を施す機関であって、すべてのものが入学しなければならない学校と して定められていた。また、小学校には種類があり、尋常小学は、基本となる普通教育を施す学校であって一般の子供はここに入学した。中学は、小学を修了したものが入学する学校であるとされ、小学校教育を受けたものの中から選ばれた生徒がここに入学することになっていた。そして、中学校を修了したものの中から選ばれた者が大学に入学とされていた。このようにして小学、中学、大学を基本となる学校体系として、そのほかに多様な教育を行なう諸学校も計画して近代学校の全体を展望できるようにした案がまさに学制である。 これらの小学、中学、大学を設けるために学区制をとり、全国を53,760の小学区に分け、ここに小学校一校を、210小学区をもって中学区とし、全国256の中学区に中学校一校を設置することとし、32中学区をもって大学区とし、ここに大学一校、全国に八大学(※北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学、京都大学、広島大学、九州大学のこと)を設けることとした。これらの学区制は、学校を開設する際の基準となる計画であったが、この学区制によって、小学、中学、大学が全国一斉に設置されたわけではなかった。文部省は、まず小学校の開設から始め、三、四年の間に、26,000ほどの小学校が設置された。中学校は漸次に設けることとしたけれど、学区制によって中学校
  • 教育史 明治 学校制度 学制
  • 550 販売中 2008/01/25
  • 閲覧(6,701)
  • 教育課程総論 フレーベル
  •  フレーベルは、1840年頃に「幼稚園」(Kindergarten)を創設した。フレーベルは、人類の初期の教育には、母らしき精神、女性らしき愛こそが必要であり、もともと女性の心情の中には幼子への愛の魂が宿っていると確信したのである。そこで、フレーベルは、世の若い女性に幼児教育のもつ神聖にして崇高な意味を自覚させるために、「一般ドイツ幼稚園」をブランケンブルクに創立したのである。この幼稚園は、今日のような狭義のものではなく、母性教育をも目的としたものであった。フレーベルは、花園のような美しい場所を作り、この園生に、崇高な母性と、精神的な幼児教育を融合させた花を咲かせようとしたのである。こうした理念を胸に、友人と友にカイルハウからブランケンブルクの方へ歩いていったフレーベルは、シュタイゲル山脈からふと行手に、美しいリンネの谷間があたかも大きな花園のように日の光に照り映えているのを見て「見つけた!その名は幼稚園でなくてはならない」と叫んだ。植物学から人間教育の原理を感得したフレーベルにとって、幼児教育はまさに庭園思想であった。  フレーベルのいう幼児の園(Kindergarten)こそは、天
  • フレーベル
  • 550 販売中 2008/01/28
  • 閲覧(3,123)
  • 学校教育課程論
  • 「教育課程とは何かについて、その基準と編成原理、 今日的課題についてまとめなさい。」   教育課程とは、望ましい学習が展開されるように配慮してつくられている、学校の教育内容の組織である。学習指導要領を基準とし、教科・科目などの指導領域を設け、教材を選択・配列することによって編成される。しかし、その基準となる学習指導要領は常に一様であるわけではなく、その時代に求められるニーズが盛り込まれ、それが教育課程として現場に反映されていく。指導要領を左右するのは、「見る・聞く・話す」を中心とした「経験主義」か「読み・書き・計算」を中心とする「系統主義」のどちらを重視するかである。文部省が教育課程審議会の答申を受けて制定し、各学校はその基準に従って、教育課程を編成し実施する。  当然のことではあるが、このような教育課程の編成や教育方針は、社会の変化とともに変遷している。わが国ではこれまで大きく3回の教育改革がなされてきた。1回目の教育改革は、国民に教育を受ける機会を保障することが大きな柱となった、明治の学制発布に伴う教育改革であった。2度目の改革は、戦後の義務教育及び民主教育の発足に伴う改革であった。これにより、子ども達の進学率が大幅に上昇し、教育が大衆化された「大衆教育社会」の到来であり、同時に受験戦争が加熱することになったのである。そして、3度目である教育改革が、中央教育審議会や臨時教育審議会を中心として提唱された現行の教育改革である。学歴のインフレ化に伴って、学校のなかで起こったいじめ、不登校、学級崩壊などいわゆる教育の荒廃の原因が、受験戦争によって加熱化した学歴社会であると、学歴社会そのものを「悪の枢軸」とつるし上げ、新しい学力観に基づく「ゆとり教育」の転換が始まったのである。教育基本法及び学校教育法の公布と平行して、昭和22年3月に最初に学習指導要領が制定された。教育課程の上でも、「それぞれの学校で、その地域の社会に即して教育の目標を吟味し、その地域の児童青年の生活を孝へて、これを定めるべきものである」と述べられ、教科教育中心の個人のための教育に転換し、修身の廃止を決定した。これをふまえて小学校の教育課程で大きく変化したのは9科目を設け、修身・歴史・地理の代わりとして社会科、家庭科、自由研究が新設されたことである。家庭科に関しては、戦前の家庭科の流れを汲むが、男女共学の理念の下で女子だけではなく、男子にも課せられるようなった。昭和26年改訂では領域ごとに合科的な授業を行うことが意図され、きわめて柔軟なカリキュラムになった。また、自由研究は教科以外の活動と変更になり、児童が学級活動、学校行事に参加して協調性・社会性を育むことになった。昭和33年改訂では、経験学習によって基礎学力が低下し、青少年の非行や、規律の低下が問題になった。そして、系統学習的な教育課程が求められ、道徳教育の徹底、基礎学力を重点におくような方針を徹底した。1960年代からは高度成長に伴い、経済成長を担う人材育成を教育に求める声が高まった。昭和43年の改訂では知識の量が近代の科学技術の進展によって膨大になったため、授業時間の表記が「最低時間数」から「標準時間数」に変わった。また、能力の差によって生徒を分けて授業を行う能力主義が導入されたが、教室内の競争を助長するものとして批判された。昭和52年の改訂では能力主義への反省からゆとりある学校生活が目標に挙げられた。ここでの特徴は授業時間数の削減であり、各教科の難解な内容は削除され、ゆとり路線が敷かれた。そして、平成元年改訂を得て、現行の平成
  • 学校教育課程論 レポート リポート 佛大 佛教大
  • 550 販売中 2008/02/01
  • 閲覧(2,589)
  • 教育の方法・技術論
  •  授業とは過熱した受験競争のためか、知識授受の場として一般的には捉えられている傾向がある。確かに、上述した点は間違いではないが、授業とはそれだけではない。教師は子供との関係を築き上げたり、子供たちが自立的で協同的な学習を形成させたり、教師自身のあり方や生き方といったものも問い直し築く場でもある。上級学校になればなる程、このような点は薄れていると感じるが、これより「授業」をよりよいものにするにはどのような方策を打ち立てていけばよいかという点について述べていくことにする。  授業とは授業時間を消化することではなく、最も効果的にその時間を有効活用し、学習目標の達成とどのような学習課題が重要であるかを考えることが第一である。それには様々な技術、方法が存在するが、その中でも基礎となるのが、学習指導案である。  学習指導案とは単元の目標を達成するために、今回の授業で何をどのような順序や方法で指導し、またどのように児童・生徒を評価するかについて、一定の形式にまとめたものである。そして、学習指導案には「単元の指導案」「週案」「時案」等に分類される。  「単元の指導案」とは、教材での一つのまとまりのこと
  • 日本大学 通信 分冊1 教育の方法・技術
  • 2,200 販売中 2008/02/11
  • 閲覧(1,837)
  • 学校教育課程論
  • 「教育課程とは何かについて、その基準と編成原理、今 日的課題についてまとめてください。」 より良い教育を目指して時代と共に変化し続ける教育課程であるが、その教育課程とは一体何であるのかをまず初めに述べていくことにする。  教育課程とは、教科・科目の目標や内容などを定めた教科課程・学科課程などと、教科・科目以外のさまざまな活動からなる教科外活動(特別活動、旧: 特別教育活動)などの2つの部門から成り立っており、学校教育の目的や目標を達成するために教育の内容を児童生徒の心身の発達に応じ、授業時数との関連において総合的に組織した学校の教育計画である。 次にその教育課程が時代と共にどのように変化していくことになるのかを述べていく。 戦後の日本における教育課程の変遷は、戦後にGHQの教育担当部局である民間情報教育局から出された「教育に関する四大指令」から始まる。この指令により、修身科、国史科、地理科が中止され、教科書も回収された。また、同時期に出された報告書の中で、カリキュラムは生徒の興味から出発するべきであり、国家が規定するべきではないとし、民主主義的国民の育成や道徳教育のために社会科や教科外
  • 佛教大学 レポート 学校教育課程論 佛大
  • 550 販売中 2009/10/07
  • 閲覧(1,563)
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