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連関資料 :: 文化

資料:498件

  • 文明と文化のバランス
  •  人の自然との関わり方は2種類ある。文化と文明という二つである。この二つは前者は自然に向かい合い自然の脅威に晒されながらも自然に聞き従おうとする態度、である。簡単に言うと自然と共に生きていく、共存しながら生きていくということである。もうひとつ、後者は自然から逃避しながら生きてゆくことである。なぜ文明が自然からの逃避になるかというと、文明が自然の持つ原理をおしつけ、捻じ曲げて人間の都合に従わせるものだからだ。たとえばヒーター、クーラーなんかは文明の利器として上げられる。夏は暑く冬は寒いという自然の原理を押し付け、捻じ曲げて夏は涼しく、冬は暖かくしている。これは自然からの逃避といえるだろう。文化と文明、人間はほかの動物と違って生まれ持ったものだけでは生きてゆくことができないからやはり文明は必要であると思う。しかし現代では文化と文明のバランスがとても崩れているように感じる。文明に偏りすぎているのだ。言い換えると人間が文明に頼りすぎであると思われる。
  • レポート 文明 文化 倫理
  • 550 販売中 2006/07/27
  • 閲覧(1,821)
  • アジアにおける文化の共生
  • 1000字程度のレポート。「アジアにおける観光対象としての少数民族・文化の共生について」というテーマで、台湾・中国・マレーシアがどのようにして少数民族と協力して自国の観光資源を活かしているのかを考察した。少数民族の独特な文化を保つことは、(中略)観光客を集め、その国をさらに発展させることにも繋がる、という結論で結ぶ。
  • アジア 共生 少数民族 文化 観光
  • 550 販売中 2011/08/05
  • 閲覧(2,236)
  • 文化大革命とは
  •  文化大革命は失敗に終わり、中国社会が混乱に巻き込まれたことは講義で習った。おおざっぱではあるが文革はどのように始まったのか、具体的にどのような状態だったのかを調べ、文化大革命とは何だったのかを考えたい。 文革の流れ  1966年から70年代半ばにいたる約10年間、毛沢東が発動し、中国社会を歴史的な混乱に巻き込んだ動乱、権力闘争、大衆運動。これが文革である。党政府の幹部から知識人、一般庶民まで多大な犠牲者が生まれた。  1958年の大躍進運動が破産すると、党主席の毛沢東は自己批判を迫られ、その権力は棚上げされた。これを契機に劉少奇(国家主席)や小平(総書記)が実権を握った。劉、
  • レポート 政治学 中国政治 文化大革命 毛沢東
  • 550 販売中 2006/03/05
  • 閲覧(2,907)
  • オセアニア文化研究
  • ●東南アジア島嶼部、インドネシアに生息している2つ民族を事例としてあげる。 ダヤック…ボルネオ島インドネシア領に生息。 カジャン…南スラウェシに生息。 ? ダヤックの概要   四五〇〇年くらい前に、オーストロネシア諸語を話す人びとがフィリピンボルネオ島に移住。 それらの人びとがボルネオ島の先住民であり、ダヤックはその先住民のうち、イスラーム教徒でもマレー人でもない人びとの集団をさす。 (1) ダヤックの類型 ・森林を中心とした二つの様式の生態系→狩猟採集民族、焼畑民族 ・焼畑民族の社会構造は二つに分かれる→社会成層を持つ集団と平等的社会を持つ集団 ・七類型に分けられるが、五類型にまとめて以下で概説する。 (イ)狩猟採集民族(プナン系諸族) (ロ)ボルネオ中央の社会成層を有する焼畑民族(カヤン=ケニァ系諸族) (ハ)ボルネオ西部の平等主義的な焼畑民族(イバン系諸族) (ニ)ボルネオ南部の穏やかな社会成層を有する焼畑民族(バトリー系諸族) (ホ)ボルネオ北東部の平等的な焼畑民族(ドゥスン系諸族) (2) ダヤックの世界観と信仰 ・ダヤック人に共通して見られる創世神話 天の神と海の神が性交し、半神半人の息子と娘を造り、その息子と娘が近親相姦して人間を産んだ。 ・ダヤック人の二論的世界観「上界と下界、二元の統一」 上界→鷹、男性、首狩りを連想させる。下界→蛇、龍、女性、農業を連想させる。 したがって、首狩りの儀式と農耕儀礼はともに生命力あるいは豊作を獲得し増加させるための中心的な信仰になる。また、精霊も重要な存在である。精霊は上界、下界、人間界のどこにでもいて、人間を守ってくれたり危害を加えたりする。    
  • レポート 国際関係学 南スラウェシ 民族文化 文化人類学 アジアの少数民族 ボルネオ島
  • 550 販売中 2006/04/13
  • 閲覧(2,310)
  • イスラーム文化―その根底にあるもの―
  • イスラーム文化とは、腫々様々に異なる文化伝統の入り乱れ、錯綜し、絡み合う多くの交差点の網の目の広がりの中で形成された複雑な内的構造をもった一つの国際文化である。イスラームの地理的広がりを見ても分かることであるが、顕著な例としては、イスラーム文化の一番重要な歴史的担い手であるアラブとイラン人の思想的差異が挙げられる。この2つの民族は、その世界観、人生観、存在感覚、思想形態において、あらゆる場合に正反対の性格をあらわす。アラブの代表するスンニー派とイラン人の代表するシーア派との隔たり、その確執は言うまでもないだろう。しかし、様々な要素を含んだイスラーム文化だが、それにもかかわらず、全世界のイスラーム教徒は『自分たちは一つの共同体だ』という自覚を持っている。そして、イスラーム文化を一個の有機的文化構造体たらしめている統一要素は、宗教としての、あるいは信仰としてのイスラームであり、さらにその根底にあって全てを統一しているのが聖典『コーラン』ただ一冊の書物である。預言者ムハンマドが神の啓示を受けて、その神の言葉が記録されることによって成立したといわれている一冊の書物。全てがこの一点から発出する、まさにイスラームの原点である。国際的文化構造体として歴史的に自己形成したイスラームがどれだけ複雑な様相を呈しようが、そのどの側面を取ったとしても、イスラームは究極的には聖典『コーラン』の自己展開なのだ
  • 歴史 宗教 文化 哲学 国際 思想 人間 言葉 イスラーム イスラム レポート 書評 社会学 文学部 社会学部 卒論 論文
  • 550 販売中 2010/01/26
  • 閲覧(4,264)
  • 大衆文化と男らしさ
  • 男らしさ」というのは時代を問わず男性の興味関心を引く話題である。また男性だけではなく、昨今ジェンダーの問題もあり、女性からも関心の寄せられるテーマである。そのためこの「男らしさ」とは何かを考えることは男性女性両方のベネフィットとなると思う。私は「男らしい」条件のひとつとして「ストイックであること」がかなり大きな部分を構成していると考える。これは新渡戸武士道による結論であるが、さらにこれを突き詰めていくうちにもうひとつの結論を導き出した。それは男らしさの構成要件においてストイックであることの占める割合が低くなったことであり、そこには男性性の変化・および再生産が読み取れる。以下その詳細を示す。
  • 女性 文化 比較 少年 能力 男性 変化 表現 マンガ ジェンダー
  • 550 販売中 2010/01/27
  • 閲覧(2,376)
  • 日本の言語文化.
  • 『日本の言語文化』 日清戦争以降「一等国」となった日本は、大東亜共栄圏を樹立しようと台湾や朝鮮、満州、東南アジアに領土を拡大していた。しかし、植民地語の使用は日本の統治政策を崩すことにもなりかねず、異民族を統治するためには言語問題の解決が必要であった。つまり、統治による画一性、近代化の効率性を追求していくと、国民的同一性そして、それにつながる均質な単一言語が必要となってくる。では、帝国日本内のこの明らかな多言語性はどのように認識され、「国語」が、近代日本の帝国的
  • 社会言語論 社会文化 日本語学
  • 550 販売中 2008/03/21
  • 閲覧(1,894)
  • 朝鮮の歴史と文化
  • 朝鮮の歴史と文化 関東大震災  1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。相模湾を震源地とする大地震の襲来であり、相模湾の南西部の深さ1300mの海底が、長さ24km、幅2kmから5.5kmにわったて陥没した。反動で相模湾の北東部では海底が100m以上も隆起した。相模湾に沿ったところでは、列車の転落など地震の直接被害が大きかった。小田原では崖は崩れ、橋は落ち、建物は崩壊し、多くの市民が亡くなった。地震直後、東京ではたちまちにして火事が起こった。人家の密集していた東京の震災被害は、震源に近い相模湾沿いの地域に比べて火災被害によるものが圧倒的に多かった。東京において全死亡者のおよそ85%が焼死であった。 関東大震災時における日本の朝鮮政策  震災の混乱の中で、朝鮮人による暴動が起こっているという流言が人々に広まった。流言が簡単に信じられた最大の理由は、多くの日本人が、非常の場合など何かあったときには朝鮮人が襲ってくるかもしれないと恐れていたからである。日本人は、官憲も民衆も、朝鮮人に襲われるかもしれないと思うほど、強く恨まれていると確信していた。そのように確信するには理由があるが、その理由は朝鮮人の側にあるのではなく、日本政府の朝鮮政策にあった。朝鮮を植民地にしてから、1910年より1918年にかけ、日本政府は、朝鮮においては近代的な土地所有権制度が確立していないとの理由から、大規模な土地調査を行った。その調査によって土地所有権を確認しようとしたのであるが、真の目的は違うところにあった。調査は土地の利用者に所有権を届け出させるものであった。届出がなかったり、所有権があいまいであった土地は、指導や仲裁をして実際の耕作者の権利関係をはっきりさせたのであれば、それなりに土地制度の近代化に役に立ったのであろう。しかし日本政府は、届出のなかった広大な土地を所有権者がいないものとして朝鮮人耕作者から強権的に取り上げてしまった。ここに土地調査の真の目的があったのである。識字率の低かった朝鮮にあっては、多くの朝鮮人耕作者には、所有権の意味、届出や、まして届出しなかったことによる効果の意味がわからなかった。そのため届出がなされなかった土地が多かった。これを利用したのだ。届出がなかった土地は、所有権者がいない土地とされ、詐欺的に耕作者などから取り上げられ、日本関係の土地とされた。それはそれまでの朝鮮における土地利用の慣行をまったく無視したものだった。  土地を奪われた朝鮮人は、働く手段を奪われたのである。彼らは土地を離れて、生活のための職を求め、北部の者は主に満州へ流れ、南部の者は日本に入ってきた。土地を奪われた者は、土地調査の意味がよくわからない、文字の書けない下層農民がほとんどであった。したがって日本に流入してきた朝鮮人の大半は、流入の経緯からして、下層の識字できない者が多かった。そのような経緯で来日した朝鮮人は、知らないうちに土地を奪われ土地から離され、異国である日本に来て、そこで激しい民族差別、同時に貧困による差別を受けたのであり、日本を恨まないはずがない。程度の差はあれ、日本に対して何らかの恨みを持っている、と多くの日本人、特に支配層の日本人が考えていた。 埼玉県における朝鮮人虐殺  <大里郡熊谷町を中心に>  埼玉県大里郡熊谷町、現在の熊谷市は関東平野の北部寄り、秩父山塊に源流を持つ荒川の中流域に位置している。震災による、埼玉県における建物被害は全壊4562戸、半壊4348戸である。埼玉県でも県南部の被害はかなりのものになっていたが
  • レポート 史学 関東大震災 朝鮮人虐殺 朝鮮人の歴史
  • 550 販売中 2006/12/30
  • 閲覧(2,493)
  • 縄文の漆文化
  • はじめに  今年の6月、東京両国の江戸東京博物館にて「発掘された日本列島2001」と題し、最新の考古学速報展が開催され、考古学を志す者の一人として私もそこに足を運んだ。展示品の中で私の目を引いたのが縄文時代の漆製品だった。むろん、縄文時代から漆が利用されてきたことは知識としてあるものの、実物を見ると驚きが先に来てしまった。そして、自身の研究テーマになり得るものであると考えたのである。  そこで今回、漆関係資料に関して発掘報告書を中心にまとめ、今後の研究展開を考えてみようと思う。
  • 日本 文化 考古学 地方 縄文時代 生産 研究 調査 東京
  • 550 販売中 2009/11/24
  • 閲覧(1,596)
  • 中国の社会と文化
  • 中国の経済発展 ― 発達と問題 ― 1、はじめに 中国、すなわち中華人民共和国が、1949年10月に成立し今に至るまで、政治的そして経済的に困難な状況を経てきたことは周知の事実である。66~77年の11年間に渡って続いたプロレタリア文化大革命は国中の至る所で悲惨な大混乱を生んだ。その翌年の78年から開始された改革・開放政策、それに続いて92年から導入された市場経済化政策、これらの政策によって中国の経済は急成長を遂げ、今や同国の経済成長率はアジア1と言われている。 しかし、そのような目覚しい発展の背景で、現在の中国ではどのような問題が勃発し、どのような対応が必要とされているのだろうか。今回は、プロレタリア文化大革命(文革)以後の中国の経済とその発展に際して起こっている種々の問題事項について論じていきたいと思っている。 2、文化大革命と経済改革 ―概要― まずは文革から改革・開放政策までの概要を述べて整理したいと思う。文革時代の中国では、人々は11年間、四人組や紅衛兵の横行による恐怖を味わいながら過ごしていた。中央から地方までの文化人・知識人が次々と迫害され、政治や経済は混乱を極めた。それまでの教育制度が大きく崩壊したために、いわゆる「文革世代」である1950年代に生まれの現在50代前後の人々は十分な教育を受けていない。また文化物の面においては、毛沢東関係の他には何も生み出されたものはないとまで言われている。上に述べた通りその文化大革命は、76年に毛沢東が死去したことで終息を迎えた。江青女史ら四人組は逮捕され、翌77年には文革終結が明文化された。そして、鄧小平率いる改革・開放政策が開始されたのがその翌年の78年の暮れである。 鄧小平が推進した改革・開放政策は、毛沢東の進めた計画経済から生じた国家間の経済的格差が大きくなっていたのを受け、開始された。この改革・開放政策ではまず農村での家庭請負制度を認め、そうして農業生産量が上昇すると、郷鎮企業が全国に広がった。市営農家が認められるようになると、万元戸と言われる農民も誕生した。次に経済改革は都市部に移る。国有企業に半自主権を与えるとともに対外開放によって諸国の情報が大量に国内に入ってくることになった。そこで起こったのが89年の天安門事件である。学生や労働者が、民主主義や自由、また幹部腐敗の実態を訴えて暴動化したものであったが、指導部はこれを武力でもって鎮圧したという事件である。 この事件から三年後の92年に、鄧小平によって市場経済が導入された。これは社会主義市場経済と言われるもので、政治的には社会主義を維持しつつ、経済的には市場経済への移行を進めるというものである。この政策には「市場経済が即資本主義であるとは言えず、社会主義にも市場はある」という鄧小平の考えが基礎になっている。また、鄧小平はこの市場経済導入推進において経済特区や証券取引所などを設立するにあたって、それらの行為が資本主義か社会主義かを改めて問いただすことをよしとしなかった。経済や生活の発展に貢献し得るものならそれが資本主義か社会主義かなどという議論に時間を費やすべきではなく、また、その導入をまず実行し、先に豊かになった地域が貧しい地域を助ければいいという由の「先富論」を展開した。この鄧小平路線は後に、地域格差の拡大を受けて修正され、共に富を得ることを目指す「共同富裕論」の方が強調されるようになっていった。 3、経済発展の裏の問題点 ここまでが文革から市場経済導入までの概要だが、こういった鄧小平の行った経済改革によって中国にもたらされた成功
  • 中国 現代中国 社会 経済発展 文化大革命 文革
  • 550 販売中 2008/02/11
  • 閲覧(3,602)
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