連関資料 :: 日本史

資料:427件

  • 日本1(鎌倉幕府と執権政治について)
  • 『鎌倉幕府と執権政治について』 鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(一一九九年)1月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年(一二〇○年)に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年(一二○三年)には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。 建仁三年(一二○三年)北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年(一二○四年)に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。 翌年の元久二年(一二○五年)に時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと試みるが、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連携して時政を引退させると共に、平賀朝雅を抹殺した。この事件で「執権」は時政から義時へと移る。 北条義時は北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。政所別当の義時は建保元年(一二一三年)に和田義盛を破り、侍所別当の地位を手にして幕府内における地位を高めることに成功する。 一方、このころ朝廷では後鳥羽上皇が和歌などの芸能を通じて将軍の源実朝と深く結びつき、間接的な幕政の介入を目指していた。また武芸にも深い関心を持っていた後鳥羽は武士団を統率し、かつての後白河のような国政の主導権を発揮しようとしていた。 そのような中、武力紛争の絶えない幕府の状況は、承久元年(一二一九年)頼家の遺児の公暁が将軍の源実朝を鶴岡八幡宮にて殺害するという最悪の事態に陥る。表面的には源家の家督争いだが、その背景には義時の謀略も想定される。幕府は摂関家出身の藤原頼経を将軍に迎え、公武の融和をはかるも後鳥羽は幕府打倒の意思を固める。これが承久三年(一二二一年)の承久の乱へと続く。これは幕府側の勝利に終わり、幕府軍を率いた北条泰時・時房は六波羅に常駐し、六波羅探題が成立する。これにより幕府側の京・西国支配体制が築かれて、国政の主導は完全に幕府へと移行した。 義時の後に「執権」となった北条泰時は、義時や政子といった幕府創業世代の死去による世代交代期の混乱を防ぐために叔父の時房を「執権」の補佐役である連署にあて、有力御家人の最高合議機関である評定衆をおき、集団指導体制を確立する。 承久の乱後、急増した訴訟問題などに対して、貞永元年(一二三二年)に泰時を中心として、理非に基づく合議採決の基準を定めた御成敗式目と呼ばれる武家法が制定される。これは武家による最初の本格的成文法で、以後永く模範とされる。泰時の「執権」期の幕府の体制は、将軍専制政治より執権政治という新たな段階へ移行したと評価することができる。 仁治元年(一二四〇年)に連署時房が、仁治三年(一二四二年)には「執権」泰時が相次いで没し、次の「執権」の北条経時は病弱であったために、北条時頼に「執権」を譲った。この様な状況下、「執権」北条氏に対抗する勢力が将軍頼経周辺に形成されはじめる。当初権力基盤の弱
  • 日本史 鎌倉幕府 執権政治 佛大
  • 770 販売中 2007/11/17
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  • 日本経済-分冊1 合格リポート
  • 明治時代から第一次世界大戦の間は日本経済にとって最大の転換点であったと言って過言ではない。なぜなら在来産業と呼ばれる明治維新前の国内に発達の起源を持つ伝統的な産業から、産業革命を経て、工場制大工業・機械制工業として成長し、近代産業型の経済へと成長したためである。この大規模な経済成長を多面的に捉えようと試みると、連続および不連続という側面が見えてくるのである。それは産業革命によるところがその一因である。産業革命とはイギリスから欧州諸国へ波及し、その後に日本に波及した革命である。経済を取り巻く産業の技術的基礎が一変し、工場制手工業(マニュファクチュア)や小規模生産者から大規模機械制工業へ移行し、生産効率が飛躍的に向上した。江戸時代末期から明治時代初期にかけては、工場制手工業や小規模生産者を中心とした綿織物業や絹織物業を代表とした低生産性産業に支えられた経済であった。それは日本経済の基礎的条件が脆弱であったとも換言することができる。しかし産業革命により日本にも資本主義の考え方が主流になり、資本主義の影響による会社制度の発展や生産効率を向上させる機械の導入、大幅に輸送効率を高める蒸気機関車の
  • 日本大学 通信教育部 0722 日本経済史 在来産業 連続 不連続 分冊1
  • 2,200 販売中 2008/12/26
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  • 日本経済-分冊2 合格リポート
  • 戦前から戦時期までに形成された日本経済は、戦争によって形成された経済であった。その連続的側面と非連続的側面について、ここでは以下のように定義づける。  連続的側面・・・戦前から戦時期にかけて連続した経済政策。  非連続的側面・・・戦前から戦時期そして戦後にかけて、連続することなく途切れた、もしくは新たに発生した経済政策。  戦時期から戦後経済にかけて述べるには、その経緯について知る必要がある。  統制経済とは国家が資本主義的自由経済に干渉したり、これを規制したり、計画化する経済のことである。この統制経済が始まったのは、軍需増大を見越した輸入増により国際収支が危機に陥った1937年の輸入為替管理令からである。その後日中戦争が勃発し、臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法等が相次いで制定された。この経済統制は緊急度が高い分野から実施され、次々と経済統制に関する法律が制定され、この経済統制が本格化したのである。この時代では外貨不足が最大の懸念事項であり、経済統制についても外貨不足問題が強い規制力を持っていた。また、これらの規制により民需生産は徹底的に抑圧され、軍需生産への切り替えが進められ
  • 日本大学 通信教育部 0722 日本経済史 戦前 戦後 連続 不連続 分冊2
  • 2,200 販売中 2008/12/26
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