日本最大のレポートサイト HAPPYCAMPUS

検索オプション
  • 私のホーム
  • 私の資料
  • 私のMEMO
  • 資料広場
  • アップロード

連関資料 :: 教育について

資料:11,654件

  • ルソーの教育思想について述べよ
  • 「ルソーの教育思想について述べよ。」  ヨーロッパの教育思想、とりわけフランスを見てみると、フランスの教育思想は16世紀に発生した。当時の教育思想は中世的スコラ哲学的性格で、精神を覚醒させるものではなく、たんなる知的習慣を形成したに過ぎなかった。文芸復興期には、スコラ哲学に対する反動が起こってきて、ラブレーとモンテーニュは、「学校と人間にもっと多くの自由と空気と生活を!」を共通の原理とし、スコラ哲学を批判した。このラブレーとモンテーニュの教育宣言以来、フランスの教育学思想は自由主義教育の旗印の下に結集したが、スコラ哲学は依然として健在であった。スコラ哲学の精神は、ムチによる体罰をともなう訓練の
  • レポート ルソー 教育思想 佛教大学 フランスの教育思想 教育学
  • 550 販売中 2007/02/14
  • 閲覧(7,634)
  • 学校教育課程論
  • 『教育課程とは何かについて、その基準と編成原理、今日的課題についてまとめなさい。』 わが国は、これまで大きく3回の教育改革を行ってきた。1回目の教育改革は、明治の学制発布に伴う教育改革であり、国民に教育を受ける機会を保障することが大きな柱となった。2度目の改革は、戦後の義務教育及び民主教育の発足に伴う改革であった。これにより、子どもたちの進学率が大幅に上昇し、教育が大衆化された「大衆教育社会」が到来し、同時にいわゆる受験競争が過熱することとなったのである。そして3度目である今日に最も近い教育改革が、中央教育審議会や臨時教育審議会を中心として提唱された現行の教育改革である。学歴のインフレ化に伴って、学校の中で起こったいじめ、不登校、学級崩壊などいわゆる教育の荒廃の原因が、受験競争によって過熱化した学歴社会であると、学歴社会そのものを「悪の枢軸」としてつるし上げ、新しい学力観に基づく「ゆとり教育」への転換が始まったのである。このように「教育課程」は時代に合わせてその姿かたちを変えてきた。  教育課程を論ずるうえで、教育課程学習指導要領は必要不可欠である。ここで教育課程学習指導要領の変遷と教育内容の変化を見てみる。 教育基本法及び学校教育法の公布と平行して、昭和22年3月に最初の学習指導要領が制定された。だが、ここでの学習指導要領はあくまで「試案」であり、現場の裁量にゆだねられていたが、一定の基準は設けられていた。そして、教科教育中心の個人のための教育に転換し、修身の廃止も決定された。小学校では9科目を設け、修身・歴史・地理の代わりとして社会科、家庭科、自由研究が新設された。家庭科に関しては、戦前の家事科の流れを汲むが、男女共学の理念の下で女子だけでなく男子にも課せられるようになった。 しかし、昭和22年に作成された学習指導要領は、きわめて短期間で作成されたものであったため、昭和26年に学習指導要領の全面改討を行った。その結果、小学校では以前の9教科に代わって4つの領域という大まかな枠組みへと再編された。しかしながら、これらの経験学習的なカリキュラムは、児童生徒の基礎学力低下や青少年の非行などの問題の原因と見なされるようになった。        そのため、昭和33年に教育課程審議会は、「道徳教育」・「基礎学力」・「科学技術教育」に重点おくように方針を示し、学習指導要領の法的拘束力が強化され、特別時間「道徳」の設置を決定した。そして、道徳の独立が社会科は授業時間数を減少させ、内容上でも中学校・高等学校において4科目に文化され、系統学習的カリキュラムとなった。 しかし、1960年代経済界から経済成長を担う人材育成を教育に求める声が高まり、能力主義の徹底化が主張されたことで、教育目的の重要な柱である人間性育成が等閑視された。そのため学習指導要領において「調和と統一」が焦眉のテーマとして取り上げられ、教科以外の道徳や教科活動が重視された。  昭和52年には、以前までの能力差に応じて生徒に対し、別々に授業を行うという能力主義が導入され、結果的に教室内での競争を助長してしまうという反省点から、「ゆとりのある学校生活」という路線が導入された。体育や特別活動は、「知・徳・体の調和」「豊かな人間性の重視」の理由により授業時数はそそまま残され、各教科に関しては、授業時数・教育内容も減少し、ゆとり路線が実行された。 平成元年には小学校では、第1学年と第2学年における社会と理科を廃止し新たに生活科が創設された。 平成10年に完全学校週5日制が実施され、小学校・中学校はさらに年
  • レポート 教育学 教育課程 学習指導要領 新学習指導要領
  • 550 販売中 2007/03/10
  • 閲覧(4,087)
  • 算数科教育の歴史
  • 『算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑表紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。上記を踏まえ、2002年度完全実施の学習指導要領(算数科)の特徴について述べ、その教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。』  社会の変容に伴って、現在、算数教育のあり方が問われている。私たちは、そうした現在に見合った新たな算数教育を創り上げていかなくてはならい。その際、重要なことは、現在の社会状況を的確に判断することと、日本におけるこれまでの算数教育の変移を詳細に見直すことであろう。ここで、明治時代初期から現代に至る算数教育に登場した教科書の変移について考えたい。  まず明治時代初期の算数教育からさかのぼる。明治時代初期は欧米の様々な教科書が翻訳・紹介され、多様な教科書を用いて、比較的自由な算数教育が展開されていた。日本の教師や研究者らが、自らの手で創りあげていこうとする気運はそれほどなかった。  明治時代中期になり欧米諸国の後を追って富国強兵政策のもと、学制改革(1886)、大日本帝国憲法発令(1889)、教育勅語発令(1890)と、日本の教育制度は着々と国家による統制の態を整えていくことになる。1905年には、藤沢利喜太郎らによって第一期国定教科書『尋常小学算術書(黒表紙教科書)』が編纂される。藤沢はこの中で、数え主義による数計算中心の算数教育を実現することになる。これらは、国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであったが、当時の子どもの認識の発達を考慮したものではなかった。  大正時代になり、教育を大人の立場からではなく、子どもの側から創りあげていこうという姿勢を生み出すこととなった。そして、それに見合った教科書の作成が行われようとするが、改訂は中途半端なものであった。  昭和時代前期になり、第四期『国定教科書(緑表紙教科書)』が発行されるようになった。この教科書により、数学、生活、そして子どもの認識という3者を踏まえて内容を設定するという、非常にバランスを持った発想で系統性を構築していった。それは、これまでの数え主義を中心した教育を記してきた黒表紙教科書からの脱皮を意図したものであった。  次に、第二次世界大戦の中に第五期『国定教科書(水色表紙教科書)』が登場する。その内容とは、前回の『緑表紙教科書』の内容とそれほど大きな差は見られないが当時の新しい数学を導入したり、理科との結びつきを強め実測・実験を重視するなど、内容面においていくつかの発展が見られた。そして、戦火の中ということもあって、ファシズムの影響を少なからず受けたものでもあった。  続いて敗戦後の時期を見ていくと、1949年教科書の国定制度が廃止され検定制度が行われることとなった。その制度による教科書の中は、大きくは「課」に分かれており各課は算数科の内容項目を示している。その課の中の項目が「単元」となっていて、単元名は全てが生活場面の内容を示している。よって、この時期の教科書の内容とは、場面設定を明確にして、その中で生じてきた問題を解いていくという形で構成されており生活場面の問題を解決する「道具」として、算数を学習していた。  敗戦後という時期であり、新教育がアメリカからの影響を多分にもったものであること、日本に子どもを対象として作られたものではないが故に、教育現場で数多くの矛盾が生じてくるなどの問題もあった。そして、科学技術社会からの要請による数学教育の急速な変貌へとつながっていったのだ。  「数学教
  • レポート 教育学 算数科教育 学習指導要領 歴史
  • 550 販売中 2007/04/18
  • 閲覧(5,841)
  • ジョンロックの教育論について
  • 『ジョン・ロックにおける子どもの教育論、 特に習慣形成や賞罰法を中心に述べよ。』 はじめに ロックの人間像は、要約すると「可謬的な人間」ということである。彼の心の底にいつも思い浮かぶ人間は、有限で弱い存在である。人間は、理性を含む知性を持つが、その知性も誤りやすい。彼は自分を含めて、そうした人間を愛し、抱きしめている。彼は人間を人間以上の超越的な何かにすがらせたり、人間を理解するのに人間以外の原理をもってすることを避け、人間を自分自身の主人公にしようと努めた。 タブラ・サラ(精神白紙説) 彼は哲学主著の第一巻で生得観念について取り上げた。心に生まれつき印された生得の観念ないし真理のないことを克明に論じ、実体の観念や神の観念すら、その生得性を大胆に否定した。つまり、ロックは子どもは生まれた時はまだ何の観念も持っておらず、さまざまな観念は、成長するにつれて経験主義的に獲得し、その白紙の上に書き込まれたものであると主張した。「まったく文字を欠いた白紙」いいかえると「何も書き込まれていない書板」の意味のラテン語tabula rasaが彼のこの思想を表す語として有名である。ただし彼の著書である『人間悟性論』にはホワイト・ペーパーと記され、タブラ・ラサの語は用いられていなかった。この言葉はその批判をしたG.W.ライプニッツによって用いられて、有名になったものである。 ロックはこのタブラ・サラ説から子どもの教育はまず感覚的訓練から始めるように主張している。感覚によって一つ一つの対象についてわれわれの心の中に観念が起こり、さまざまな知識が得られる。すなわち感覚を通してさまざまな知識や観念が、われわれの真っ白な心に入り、知識と観念を記憶し、一つ一つの名前を教わるのである。よってタブラ・サラ説は、子どもの外部から諸観念を教育することによって、子どもを立派な人間にすることが可能であるという、教育万能論へと敷衍されることになる。 習慣形成 ロックの教育論は一般に紳士教育論と言われている。紳士は健全な身体と道徳と知識を持っているべきである。まずロックは親たちが幼児期の子どもを教育するに際して子どもを可愛がるあまり、子どもに必要な訓練を行っていないことを批判し、理性的に適した事柄にしか同意しないように、精神を正しくすることが教育において重要であると主張した。精神を鍛錬することによって、子どもは自分の欲望を我慢し、欲望がいろんな方向に動いても理性が最善として示すものに純粋に従うことができるようになる。したがって両親は子どもが小さい時から、両親の意志に従うように教育するべきである。 またロックは子どもの教育方法は強制的であってはならないと考えている。両親は子どもに何かを学ばせたい時には、単に威圧的に命令するのではなく、完全にできるまで子どもたちに何回も繰り返してやらせることが重要であると考え、ロックは子どもが親に従順に従うことを目標化するのではなく、子どもが自発的に善い行為を行うように習慣づけられるべきとしている。 次に具体的な教育論を概観する。 1)身体教育  ロックは子供の健康を保つため、できるだけ自然のままの生活をするようにすべきと考えた。そしてそのために、甘やかしの排除を主張し、細やかな規則の習慣化によって健康が獲得させると考えた。  2)作法  適切な礼儀を習得することは社会生活上必須である。しかし、作法に関してもロックは「規則によるよりは実例で習得されるべき」であるとした。叱られるだけでは子供は作法を身につけない。むしろ求められるのは、何をすべきかを示され、動作を繰
  • レポート 教育学 ロック タブラ・サラ 習慣形成 賞罰法
  • 550 販売中 2007/06/27
  • 閲覧(7,253)
  • 算数科教育
  • 現在の小学校の算数科の内容について学習指導要領では、「数と計算」「量と測定」「図形」「数量関係」の4つに分かれている。歴史的にも、明治時代の黒表紙教科書には、「数と計算」の内容が多く占められていた。この時代には、小学校令に学齢児童の就学が父母後見人等の義務であることが明記されたこともあり、就学率が劇的な増加をみせた。また、算数の内容は厳格な数え主義のもとで「数と計算」を中心に構築されていったが、それは国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであったが、当時の子どもの認識の発達を考慮したものではなかった。  大正時代になると、国民の生活が経済的に安定してきたことを受け、子どもの教育への関心が高まってくるようになった。さらに大正自由教育運動によって、教育のあり方が再度問い直されるようになった。それは教育を大人の立場からではなく、子どもの立場から創りあげていこうという姿勢を生み出すこととなった。しかし、数え主義の影響は強く、固定教科書の内容が大幅に変わるということはなかった。それでも除々に子どもの立場で教育を考える姿勢が浸透していき、1935年には緑表紙教科書が発行された。この教科書は、数学・生活そして子どもの認識という3者を踏まえて教育内容を設定しており、日本の算数教科書史において、その斬新さと内容の充実の度合いは群を抜くものであった。また黒表紙教科書と比べて編纂方針も、計算技術や数量だけでなく、図形なども取り入れ数理的な思想を養う傾向になった。さらに訓練・注入的な指導方も、子どもの認識を重視し、自発的な活動を主とする指導方へと変化していった。  1930年代の日本は、満州事変や5.15事件・2.26事件がある中、植民地の拡大とファシズムという方法で、こうした局面を打開しようとするようになっていた。学校教育もこうした社会の変動に大きく左右されることとなる。
  • レポート 教育学 黒表紙教科書 学習指導要領 ゆとり教育 大正時代 算数科の歴史
  • 550 販売中 2006/07/08
  • 閲覧(2,684)
  • 教育内容の現代化について
  •  教育の現代化とは、現代科学の成果を踏まえて旧来の教育内容を見直すことである。教育の現代化は、学校知と社会知の乖離や、学校で教わる物事の空洞化を防ぐためにも必要であり続けてきたが、その実現はなかなかに困難である。  旧来の教育内容はそのままに、現代科学の成果だけをきりとってつないでも、そのつながりがきっちりと見えてこないと結局はつながっていないことになり、体系的な知識とはなりえない。また、教科書にコラムのような形で、現代科学の成果を載せるのも、情報の伝達や興味関心をひく、といった点では一定程度の効果は期待できるものの、やはり旧来の教育内容との関連がうすく、その点では効果が発揮されにくいものであろう。
  • レポート 教育学 教育の現代化 スパイラルカリキュラム 学習指導要領
  • 550 販売中 2006/07/09
  • 閲覧(16,185)
  • 競争社会と教育の平等
  • (始めに) 「競争化と平等・人権」なぜ、このテーマを選んだのか。それは以下の理由からである。 1.「実力主義」や「成果主義」など、社会の競争化が最近進む一方で、「格差」も問題にされている。学校教育の場で、どのような「格差」が生じているのかに関心を持った。 2.その「格差」がどのような影響を社会にもたらし、もたらされるかに関心を持った。 3.このテーマが今後の教育政策に深く関係するであろうと感じた。 このテーマについて次の3点から考える。 《1、競争化社会〜3つの平等〜》 競争に対して叫ばれる平等は3つあると考えている。1つ目は「スタートの平等」、2つ目は「過程の平等」、3つ目は「結果の平等」だ。 近代社会以降、身分階層の移動や経済行動の自由が保障されるにつれ、自分の努力、あるいは才能で生活水準が決定するようになった。 明治以降は四民平等の名の下に教育は「開放」されていた。 しかし、経済事情や社会通念に左右されやすく、教育を受けられるのはごく限られた子弟であった。このことから、この時期は「スタートの平等」を満たしていなかったと考えられる。 実質的に進学機会が開かれてきたのは戦後、特に1960年代以降の高度経済成長期以降である。明治期と異なって、このころ重視され始めたのが「過程の平等」ではないだろうか。没個性主義と揶揄されがちだった教育がまさにその証拠だろう。生徒を一まとめにし、淡々と一律に進められてゆく授業。確かに平等といえば「平等」である。 一方、最近声高に主張され始めたのが、個性重視の教育法と「結果の平等」である。個性重視とはつまり、生徒1人1人に合わせた教育指導の重視である。これは「過程の平等」のウェイトを軽くしているとみて良いだろう。代わって主張されたのは「結果の平等」だ。例えば「絶対評価」の導入がある。これは「あの子と同じぐらい頑張ったのにどうして私の(子供の)成績は悪いのか」という声や偏差値重視に対するものである。
  • レポート 教育学 格差 教育 教育環境 平等 多様化
  • 550 販売中 2006/07/09
  • 閲覧(2,726)
  • 「キリスト教教育の目指すところ」
  • 日本キリスト教団宣教研究所第3分科『現代日本におけるキリスト教的人間像』は、日本においてキリスト者とはどのような人間を指すのか、また教会はどのような人間を教育し、形成していくのか、について研究され、1956年に発刊された。その中の簡潔に纏められた声明は以下である (一)教会教育とは、教会が神から神から委託された宣教のわざを教育的に行なうことを意味する。すなわち、被教育対象を配慮しつつ、キリスト教的人間を形成する過程をいう。 (二)現代日本におけるキリスト教的人間像とは、今日のいかなる事態にも、キリストに従って動的・主体的に決断し行動する人間のことを言う。 (付)そして、この人間は、次のような個性をもったキリスト教的実存者として表される。
  • レポート キリスト教 教育学 教会教育 日曜学校
  • 550 販売中 2006/07/11
  • 閲覧(2,445)
新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
写真のアップロード
一括アップロード
管理ツールで資料管理
資料の情報を統計で確認
資料を更新する
更新前の資料とは?
履歴を確認とは?