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連関資料 :: 日本史①

資料:166件

  • 日本・北欧関係に関する考察
  •  日本・北欧関係史は五つの時代区分に分けられる。  第一期は江戸時代初期から第二次世界大戦までを指す。両地域の政治関係は、オランダ商館に滞在していたコイエットやトウンベリの存在や、また大黒屋光太夫や津太夫などの北欧を訪れた日本人漂流民の存在に始まった。明治初期には岩倉使節団がヨーロッパに派遣されているが、彼らは訪欧中にデンマーク・スウェーデンなどの北欧諸国も訪問し、その国家としての成熟度に注目している。こうして日本とつながりのあった北欧であるが、明治を経て近代国家化していく過程で日本は大国イギリスやアメリカなどをモデルに掲げ北欧からしだいに離れていくことになり、第二次世界大戦が始まるとついに国交断絶に至ってしまう。では、この第一期に日本の抱いていた北欧のイメージはいかなるものであったか。そこには分裂した二つの分裂した二つのイメージが存在していた。一つは一般日本国民が抱いていた理想主義的イメージである。内村鑑三などは戦争に敗北しながら軍事国家に屈せず国力を回復したデンマークを称え、平和的な北欧のイメージを世に広めた。もう一つのイメージは政策決定者達の持っていた現実主義的イメージである。これは北欧がその地理的位置から、日露戦争や第二次世界大戦時に日本の諜報活動の拠点となったためであった。 こうした日本−北欧の関係史を見てみて、北欧がいかに日本に色々な影響を与えてきたかを初めて実感した。しかし五つの時代区分を追っていく過程で、長い間日本にとっての北欧とはヴェール越しに見た、実態の掴めない地域だったように感じる。それは時代区分によって日本が抱く北欧のイメージが180度転換したりするためである。現在私が見る限り、これほど親しみやすく、かつこれから自国の政策を考えていく過程でこれほど興味を惹く地域はないのではないだろうか、と思う。私自身そうであるが、もっと日本人一般が北欧に対して積極的に、多角的にアプローチしてみるべきではなかろうか。
  • レポート 国際関係学 北欧 日本外交史 日本・北欧関係
  • 550 販売中 2005/07/30
  • 閲覧(2,224)
  • 日本文学設題
  • 2016年版佛教大学日本文学史第1設題のレポートです。A判定をもらいました。 上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。 〈古事記・万葉集・古今集・女流日記(女性によって書かれた日記)・源氏物語・平家物語・徒然草・近世小説〉
  • 佛教大学 日本文学史 A判定
  • 550 販売中 2016/08/30
  • 閲覧(2,658)
  • 日本②B 課題
  • 合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。 課題 「建武政権の成立から室町幕府三代将軍足利義満の時代までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。 建武政権・観応の擾乱・守護大名・南北朝の合一・日本国王」 (インターネット上の東洋大学シラバスより引用) 参考文献 家長三郎『新講日本史』三省堂、1967年 新田一郎『中世に国家はあったか』山川出版社、2004年 山本幸司『頼朝の天下草創』講談社学術文庫、2009年
  • 東洋大学 通信教育課程 日本文学文化学科 日本史 レポート
  • 1,100 販売中 2017/05/13
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  • 日本②A 課題
  • 合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。 課題 「古代国家の成立から院政の時代までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。 魏志倭人伝・邪馬台国・大宝律令・摂関政治・院政」 (インターネット上の東洋大学シラバスより引用) 参考文献 家長三郎『新講日本史』三省堂、1967年 鎌田元一『律令国家史の研究』 塙書房、2008年 吉田孝『日本の誕生』岩波新書、1997年 吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店、1983年
  • 東洋大学 通信教育課程 日本文学文化学科 日本史 レポート
  • 1,100 販売中 2017/05/13
  • 閲覧(2,924)
  • 日本各論1_単位2
  • 明星大学通信教育部 社会科 日本史各論1 2単位目合格レポート 2014年度~ 【 課題 】 中世東京の地域史が、日本史教育のどの部分の教材として使用できるのか、その単元と関係について説明しなさい。 【 講評 】 〇〇(取り上げた資料)を取り上げたことは評価できます。 【 ポイント 】 1回目の提出で合格しました。講評は以上の通りです。 私は単位1の課題で取り上げた歴史資料をそのまま活用しました。 レポートの書き方としては、まず特定の単元についてまとめて、この単元の中で歴史資料を用いて どのような学習活動を展開できるか?をまとめています。 字数にも余裕があるので、単元の学習内容も丁寧にまとめることをおすすめします。 以上、ご参考にしていただければと思います。
  • 明星大学 日本史各論 合格 レポート 2014 歴史 日本 小学校 中学校 教職 学校 教師 社会 教員 大学 課題
  • 550 販売中 2018/02/13
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  • 日本文学1_R8103
  • 『上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。』  上代とは、大和政権による国土の統一が進められていた四世紀後半から、延暦一三年(七九四)に桓武天皇が平安京に遷都するまでを指す。大和政権時代の遣隋使・遣唐使によって、漢字・漢籍・仏教などが大陸から日本にもたらされ、とりわけ文学では文字による伝達・保存が可能になったことが大きな変化である。上代の文学の特徴は、口承文学から記載文学へ発展したこと、また日本語を表記するために漢字の音を借用した「万葉仮名」が用いられるようになったことである。  『古事記』は、現存する日本文学史上最古(和銅五年(七一二)成立)の歴史書であり、稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』と『旧辞』を太安万侶が記録・編纂したものである。上・中・下の三巻より成り、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの神話や伝説、また多くの歌謡が載せられていることも特徴である。本文はいわゆる変体漢文を主体としつつ、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記形式を取り、歌謡部分はす
  • 佛教大学 佛大 通信 日本文学史 R8103 A判定
  • 550 販売中 2009/04/16
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  • 日本経済-分冊 合格リポート
  • 明治時代から第一次世界大戦の間は日本経済にとって最大の転換点であったと言って過言ではない。なぜなら在来産業と呼ばれる明治維新前の国内に発達の起源を持つ伝統的な産業から、産業革命を経て、工場制大工業・機械制工業として成長し、近代産業型の経済へと成長したためである。この大規模な経済成長を多面的に捉えようと試みると、連続および不連続という側面が見えてくるのである。それは産業革命によるところがその一因である。産業革命とはイギリスから欧州諸国へ波及し、その後に日本に波及した革命である。経済を取り巻く産業の技術的基礎が一変し、工場制手工業(マニュファクチュア)や小規模生産者から大規模機械制工業へ移行し、生産効率が飛躍的に向上した。江戸時代末期から明治時代初期にかけては、工場制手工業や小規模生産者を中心とした綿織物業や絹織物業を代表とした低生産性産業に支えられた経済であった。それは日本経済の基礎的条件が脆弱であったとも換言することができる。しかし産業革命により日本にも資本主義の考え方が主流になり、資本主義の影響による会社制度の発展や生産効率を向上させる機械の導入、大幅に輸送効率を高める蒸気機関車の
  • 日本大学 通信教育部 0722 日本経済史 在来産業 連続 不連続 分冊1
  • 2,200 販売中 2008/12/26
  • 閲覧(3,409)
  • 日本1(鎌倉幕府と執権政治について)
  • 『鎌倉幕府と執権政治について』 鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(一一九九年)1月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年(一二〇○年)に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年(一二○三年)には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。 建仁三年(一二○三年)北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年(一二○四年)に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。 翌年の元久二年(一二○五年)に時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと試みるが、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連携して時政を引退させると共に、平賀朝雅を抹殺した。この事件で「執権」は時政から義時へと移る。 北条義時は北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。政所別当の義時は建保元年(一二一三年)に和田義盛を破り、侍所別当の地位を手にして幕府内における地位を高めることに成功する。 一方、このころ朝廷では後鳥羽上皇が和歌などの芸能を通じて将軍の源実朝と深く結びつき、間接的な幕政の介入を目指していた。また武芸にも深い関心を持っていた後鳥羽は武士団を統率し、かつての後白河のような国政の主導権を発揮しようとしていた。 そのような中、武力紛争の絶えない幕府の状況は、承久元年(一二一九年)頼家の遺児の公暁が将軍の源実朝を鶴岡八幡宮にて殺害するという最悪の事態に陥る。表面的には源家の家督争いだが、その背景には義時の謀略も想定される。幕府は摂関家出身の藤原頼経を将軍に迎え、公武の融和をはかるも後鳥羽は幕府打倒の意思を固める。これが承久三年(一二二一年)の承久の乱へと続く。これは幕府側の勝利に終わり、幕府軍を率いた北条泰時・時房は六波羅に常駐し、六波羅探題が成立する。これにより幕府側の京・西国支配体制が築かれて、国政の主導は完全に幕府へと移行した。 義時の後に「執権」となった北条泰時は、義時や政子といった幕府創業世代の死去による世代交代期の混乱を防ぐために叔父の時房を「執権」の補佐役である連署にあて、有力御家人の最高合議機関である評定衆をおき、集団指導体制を確立する。 承久の乱後、急増した訴訟問題などに対して、貞永元年(一二三二年)に泰時を中心として、理非に基づく合議採決の基準を定めた御成敗式目と呼ばれる武家法が制定される。これは武家による最初の本格的成文法で、以後永く模範とされる。泰時の「執権」期の幕府の体制は、将軍専制政治より執権政治という新たな段階へ移行したと評価することができる。 仁治元年(一二四〇年)に連署時房が、仁治三年(一二四二年)には「執権」泰時が相次いで没し、次の「執権」の北条経時は病弱であったために、北条時頼に「執権」を譲った。この様な状況下、「執権」北条氏に対抗する勢力が将軍頼経周辺に形成されはじめる。当初権力基盤の弱
  • 日本史 鎌倉幕府 執権政治 佛大
  • 770 販売中 2007/11/17
  • 閲覧(7,790)
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