連関資料 :: 人間が人間であることとは

資料:321件

  • 「こころ」の人間関係
  • 始めに 「こころ」は、(1914)大正三年四月二十日から八月十一日まで「朝日新聞」に「こころ」という総題のもと、「先生の遺書」と題して、一一0回にわたって連載され、同年十月、岩波書店から刊行された。その刊本では「心」「こころ」どちらも用いられているが、上編「先生と私」、中編「両親と私」、下編「先生と遺書」の三部構成の体裁となった。夏目漱石のこの小説は発表されて以来さまざまな理論的な観点で研究されてきた。私は特に登場人物の関係に興味をもち、本論文ではこれについて検討する。 1、 先生と私 2、 先生とk 3、 先生とお嬢さん 4、 先生の自殺とkの自殺 5、 先生の父親と叔父 1、先生と私 漱石は「先生と私」で先生の生活の外面的な観察を描写し、そこに現れた矛盾を先生を理解する鍵として与えている。 まず先生は「私」に対して静かで淋しく近づき難いと同時に近づきたいという印象を与えたとされている。初期作品では世間に対する超然とした態度は外界に対する高さを意味しており、それが特別の印象を与えるものとして描かれていたが、ここでは先生の超然とした態度は外界との断絶を意味しており、先生が世間より高いという意味は失われ、そのために先生と私の海岸での出会いは偶然であることが強調されている。 この印象は私が先生と近づくことによって新たな疑問に発展する。先生と奥さんは互いに愛し合い、互いの愛情を信じていると同時に深い溝が存在することが明らかになり、彼らの愛情の背後に恐ろしい悲劇が隠されていることが予告される。
  • レポート 日本文学 こころ 夏目漱石 現代文学
  • 660 販売中 2005/05/26
  • 閲覧(7,176)
  • 人間の文化(中間)
  • 序論  このレポートでは、人類学のフィールドワークはどのような特徴を持っていて、フィールドワークをなぜする必要があるのか。またはフィールドワークの問題点、これからの可能性はどのようなものなのかを示します。  また、本論ではフィールドワークの意義、問題点、可能性について議論、主張を展開します。 本論  まず、文化人類学とは、「文化」を通して「人間」が考える、人間だけが持つ「人類」が過去から創り上げてきた「文化」を研究する学問であり、その特徴としては、①文化相対主義、②全体論的視野、③極大のパラダイム知、④他者との出会いを重視、⑤フィールドワークと生活誌があります。 文化人類学の特徴の⑤にフィールドワークとあるように、文化人類学においてフィールドワークを行うことは重要であるといえます。ではなぜフィールドワークをする必要があるのでしょう。それは、文化人類学の研究対象は世界中の諸民族であり、また諸民族の多種多様な生活に直接触れて知的な世界旅行をすることであるからであります。また、無意識のうちに思い込みをしてしまっている自分を第三者からの視点で見ることによって、自己認識が可能になります。日本では
  • 歴史 文化 問題 言語 分析 人間 フィールドワーク 文化人類学 人類学
  • 550 販売中 2009/06/22
  • 閲覧(2,707)
  • 人間関係論について
  • 1924年〜1932年にかけて、アメリカ電話電信会社翼下のウェスタン・エレクトリック社のシカゴ郊外にあるホーソン工場で、G.E.メイヨーやF.J.レスリスバーガーらが加わり、従業員の作業能率に影響を与える要因の解明についての調査が行なわれた。結果、その要因は人間関係に依存するという、管理論に人間の心理が加わった論理である。 2.実験内容とその結果 (ア) 実験 ?照明実験 ホーソン工場での最初の実験であり、1924年から2年半続いた実験である。 (1)実験の目的 物理的変化(照明度)により、反応する機械と同様に人間を仮定し、照明の度合に伴う従業員の作業能率への影響について。 (2)実験内容 2つの労働者集団(テスト・グループとコントロール・グループ)を編成し下記実験を行った。 ・実験1 テスト・グループは、照明を強めた。 コントロール・グループは、一定の照明を保った。 ・実験2 テスト・グループは、照明度を徐々に最初の水準へ弱めていった。 コントロール・グループは、一定の照明を保った。 (3)実験結果 実験1、実験2とも両グループの生産性は、上昇し続けた。 したがって、照明と作業能率には何ら相関関係もないという結論である。 この結論は、予想に反した結果となったため、失敗に終わっている。
  • レポート 経営学 人間関係論 経営管理 経営学総論
  • 550 販売中 2006/04/17
  • 閲覧(3,776)
  • 人間、笑い、死
  •  人間とは何であろうか。他の動物と何が違うのだろうか。他の動物は、本能だけで生きられる。ただし、本能と環境が完全に適合していなければ、生きられない。また、環境が変化しても、生きていけない。生きられる環境が限定されているのである。一方、人間はどこででも生きられる。これは、人間が優れているからではなく、本能が完全に欠如しているからだ。そのため、本能に適合する環境も存在しない。そこで人間は、理性や知恵で文化を作り、どこででも生きられるように発達したといえる。理性や知恵は、本能の欠如を補うためのもので、人間が他の動物より未熟だと示していると思われる。人間は、自然環境の内側に文化による人工の環境を作ったのである。自然環境で生きる負担を軽減してきた人工環境は時代とともに大きく複雑になり、逆に自然環境を圧迫し、現在は文明の自壊作用の時代となっている。
  • レポート 社会学 人間 笑い
  • 550 販売中 2006/02/11
  • 閲覧(2,217)
  • 人間の自由と規範
  • 後期のこの約4ヶ月の間、講義で様々な人の意見を聞きながら自分なりに「人間の自由と規範」について考察してきた。 まだ何の考察もしていない段階で与えられた、「自由とはどういう状態のことですか」という問いかけにたいして、私はその時「自分の望む状況、もしくは環境の中に自らの身をおけること」だと答えた。つまり「自由」において重要なのは「自分の意志」であると。しかし講義を終えた今、単純にそうとは答えられないのが正直なところだ。 自由概念の内容整理に際してバーリンの二分法がしばしば参照されるそうだが、このバーリンの『自由論』によると、自由の概念は「〜からの自由」、「拘束の不在」を意味する「消極的自由」と「〜への自由」、「自己支配」である「積極的自由」という二つに区分され、消極的自由の概念は、近代の自由主義において特徴とされる自由、個人の活動を妨げるあらゆる制限や障害の排除、抑圧や圧迫に対する批判や抵抗としての自由を示し、それに対して、積極的自由の概念はもっと人が主体的であることに視点を向けた自由だそうだ。  ここで、消極的自由は自由の社会的な部分で多くの意味をなし、積極的自由は自由の精神的な部分で多くの意味をなしているということである。人が生きていく上で、社会的拘束から解放されることが消極的自由であり、自己が内面から主体的に生きていることを実感でき、また精神的に解放されていることが積極的自由だということである。 人間(社会的存在として人格を中心に考えたひと [広辞苑] )である以上、やはり社会から「自由」という考えを切り離すことは不可能であり、それに伴い、規律から「自由」を切り離すことも不可能であると思う。 規範と自由は相反するもののようでありながら、相互に支えあいながら存在しているものであると。
  • レポート 哲学 自由 人間 規範
  • 550 販売中 2005/11/14
  • 閲覧(3,144)
  • 人間と家庭のかかわり
  •  この世に生を受けた人間は、多くの場合、家庭の中に迎えられる。  そして、その中で多大な愛情を受けて育てられ、成長していく。  家庭の大きな役割は、人間が外の世界(学校・会社など)から帰ってくる際に、緊張や疲労から解放させ、深い安らぎの憩いと睡眠の時間を提供し、明日からの生活への原動力を沸かせることである。しかし、それが可能となるには、家庭の中に十分な愛が無ければならないのである。では、「愛のある家庭」とは一体何なのだろうか。  それは、家庭の基盤となる夫婦の関係にかかわることである。  夫婦とは、人生をともに歩む共同者(パートナー)であり、1人では足りないところを2人で補い支えあう補完的な面だけでなく、一人では気づかなかった新しい自己を発見したりする創造的な面を持ち合わせることで、人間的成熟、豊かさが生じてくる。豊かな夫婦関係を築いていくためには、お互いに、深いかかわりを願って、積極的に心を開く誠実さを持ち合わせて無くてはならない。ただし、心を開き、お互いに支えあい、夫婦というひとつの形になるということは、各々のアイデンティティを失うことではない。相互のアイデンティティを基本的に認め合うことが重要で、そのためには心理的・社会的に成熟している必要がある。もし、過度の自己中心性や他社依存性が一方にでもあれば、この関係は成立しないであろう。  心を開き、相互に認め合うためには対話という行為が必要である。この対話は2種類存在する。  1つは精神的対話である。先週の内容と重なるが、これは普段の会話とは違い、自分が相手に受け入れられ大切にされているという深い確信の元に成立する。相手に対して自己を隠さず、相互に実存的に裸の状態で自分自身について語り、また相手自身を聴くことである。
  • レポート 哲学 家族 家庭 成長
  • 550 販売中 2006/01/17
  • 閲覧(1,698)
  • 人間の条件』を読んで
  • 「人間の条件」を読んで 人を人たらしめる要因、「人間の条件」とは一体何であろうか。動物学的に考えれば生命としてこの世に存在した瞬間からヒトである、といえる。しかし社会的な観点から観ると、年を重ね成長していくことにより常識や通念などを身につけていき、「社会に通用する」人間となっていくのである。しかし本書では、「人間の条件」を「私たちが行なっていること」というテーマから全ての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力を分析している。そして私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討している。  本書では条件づけられた人間が環境に働きかける内発的な能力、すなわち「人間の条件」の最も基本的要素となる「活動力」を、「労働」、「仕事」、そして「活動」の三側面から考察している。労働と仕事は現代人にとってほとんど同義語であるが、しかし労働が生み出す生産物は耐久性の無い消費物であり、仕事が生み出す生産物は人間の消費過程を越え、それにいわば抵抗して存続するように作られた物であるという点に注目すれば、その差は明らかである。そして活動とは、生産物は演技(アクション)そのものであるともい
  • 社会 人間 活動 労働 言葉 現代 仕事 生産
  • 550 販売中 2009/10/19
  • 閲覧(1,526)
  • 人間の記憶 売
  • 『人間の記憶』  事件や事故が起こった場合、当事者である被害者・加害者の供述と同様に重要視されるのが、目撃者の証言である。しかし、目撃者の誤った記憶によって引き起こされる、冤罪や誤判事件が数多く存在するのも事実だ。ここでは、目撃証言に関する記憶の歪みについて考えてみようと思う。  まず興味を持ったのが、人からの情報によって自分の記憶が塗り替えられてしまうということだ。事故などはほとんど一瞬の出来事だ。それをあとから詳しく思い出そうとしてみても、詳細は覚えていないことが多いと思う。人間の記憶には限界があるからだ。複雑な出来事についての記憶は不確かになりやすい。そこへ暗示的な質問表現によってあることがほのめかされると、その内容を自分の記憶として処理してしまうのではないだろうか。  さらに、目撃者どうしの話し合いによって記憶が歪められる場合もある。話し合いが各自の記憶情報を補い合うことは望ましいことだが、各自の記憶している情報が食い違っている場合にはどうなるのであろうか。同じ場面を目撃しても、見間違いや思い違いによって、他人とは異なる情報を記憶することも起こりうる。一番最近の出来事として、山
  • 情報 記憶 人間 事故 自分 事件 親子
  • 550 販売中 2007/12/03
  • 閲覧(1,510)
  • 人間失格を読んで
  •                                                  人間失格    第一の手記  第一の手記で葉蔵は自身幼年期を語っている。恥の多い生涯を送って来た。  彼には、人間の営みというものが何もわかっていなかった。自分の幸福の観念と、世の中すべての人たちにとっての幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、葉蔵はその不安のために眠れぬ夜を過ごし、発狂しかけた事もあった。自分は、幸福なのだろうか。彼は幼い時から、幸せ者だと人に言われ続け、其の実、彼自身は常に地獄の思いで、自分を幸せ者だと言った人々の方が、比較にならない程ずっと幸せなように見えた。  彼には、災いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえあった。  つまり葉蔵には隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当がつかなかった。考えれば考えるほど、人間が分からなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりだった。彼は隣人と、ほとんど会話が出来なかった。何を、どう言えばいいのか、分からなかった。  そこで葉蔵が考え出したのは、道化だった。  それは、彼の、人間に対する最後の求愛だった。彼は人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間をどうしても思い切れなかった。そうして、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのだった。表では、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサービスだった。  彼は幼少の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、全く見当もつかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事も出来ず、既に道化の上手になっていた。葉蔵は、一言も本当の事を言わない子供になっていった。  葉蔵には、言い争いも自己弁解も出来なかった。人から悪く言われると、いかにも自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じていた。   人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分自身の言動に、微塵も自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナーバネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、葉蔵はおどけた変人として、次第に完成されて行った。  とにかく、人間たちの目障りになってはいけないというような思いばかりを募らせ、道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサービスをした。   学校での葉蔵は尊敬されかけていた。尊敬されるという観念もまた、彼を、おびえさせた。完全に近く人を騙して、ある時、ひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉微塵にやられて、死ぬ以上の赤恥をかかせられる、それが、彼にとって「尊敬される」という状態の定義であった。  葉蔵は、金持ちの家に生まれたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得ていた。子供の頃から病弱で、よく寝込んで学校を休んでいたが、試験を受けてみると、クラスの誰よりも「できて」いるようだった。具合のよい時でも、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせ、笑わせていた。また、綴り方には、滑稽噺(こっけいばなし)ばかり書き、先生から注意されても、やめなかった。
  • レポート 太宰治 日本文学 読書感想文 要約 人間
  • 550 販売中 2008/04/29
  • 閲覧(6,276)
新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
写真のアップロード
一括アップロード
管理ツールで資料管理
資料の情報を統計で確認
資料を更新する
更新前の資料とは?
履歴を確認とは?