連関資料 :: 哲学

資料:283件

  • 歴史哲学の歴史とヘーゲル歴史観
  • 歴史哲学は一般的には、歴史についての哲学的な考察のこと。しかし、「歴史哲学」という言葉が18世紀の啓蒙主義的思想家ボルテールの「習俗論」ではじめてつかわれたことからもわかるように、この学問の成立はきわめて新しい。それまで「歴史」と「哲学」はなじみにくいものと考えられてきたからである。 古代ギリシャの考え方によれば、「歴史」は「哲学」が対象とするには値しない。哲学が時間をこえた永遠の理性的真理を対象とするのに対して、歴史は絶え間ない生成と消滅の本来的な舞台でしかない。そこでは、さまざまな英雄や民族や国家が登場し、全盛期をむかえ、没落していく。歴史においては、次々にあらわれる経験的な事実をものがたり、書きとめるほかはない。ちなみに歴史をしめすギリシャ語「ヒストリア」は、もともと「報告」とか「物語」という意味である。歴史を書きとめるのは過去の事実にまなび、教訓とするためである。こうした実用主義的な歴史観はローマ時代にもかわらない。キケロもまた歴史の意義を「人生の師」という点にみとめていた。 中世になると、「歴史」は逆に「哲学」をこえたものになる。中世のキリスト教徒にとって歴史は、たんなる経験的事実の集積ではなく、人間を世界創造から最後の審判へとみちびく架け橋であり、神の普遍的な摂理がつらぬいている領域である。歴史は人類の救済にかかわる重要な領域となる。ここでは歴史はひとつの統一的な原理が支配するものになるが、この原理は神の「啓示」に属するのであって、人間の理性のかかわりうるものではない。この歴史観はアウグスティヌス『神の国』によって確立され、中世を通じてうけつがれていく。 歴史」が「哲学」と出あうには、神の啓示にかわって人間理性が根源的原理に昇格する近代をまたなければならない。とはいえ、歴史がすぐに理性的考察の対象となったわけではない。
  • レポート 哲学 歴史哲学講義 ヘーゲル 史的唯物論
  • 550 販売中 2006/07/07
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  • 『歴史哲学講義』(東洋世界−インド−)
  • 外国史特論『歴史哲学講義』ヘーゲル著                第一部 東洋世界  第二編 インド ① インド概観(p229~) ●ヘーゲルが語るインドについてのイメージ ○古い形態をそのまま現在に残している国、あこがれの国、不思議の国、魔法の世界、空想と感情の国 ○生活の観念化がおこなわれるが、それは想像力にもとづく概念なき観念化 →生活を出発点としながらも「一切を空想へとかえてしまう」 が、「とはいえ、(中略)イメージとしての神が存在する」 ○女性のたとえ=情緒ゆたか、神経質な美しさ(p230) ●インド人の世界観(P231~) ○インド人の一般的原理である夢見る精神 夢のなかの個人=精神が自立して他者と対立することがなく、外的な個物とその一般的な本質とが区別されることがない。 →インド人は有限物にもなるし、無限で無性的な神にもなる。                     =一般的な汎神論であり、しかも思考にもとづかない想像力にもとづく汎神論 ① 感覚的なものを、(中略)そのまま拡大して途方もない怪物をつくりあげ、神の像をおろかしいものにしてしまう。=つまり、精神の自由な力によって美しい形のものへと表現されない。 精神はそのなか(夢のなか)で自己を喪失し、(中略)有限な事物を主なる神とあがめて、それに従属してしまう(ex、太陽、月、星、ガンジス川、動物、花、などが精神にとっては神) ←そのため、有限なものがかえって個としての安定性をうしない、理解する知性のはたらきが消える。 神の存在は変わりやすい不安定なものとなるため、低次元の形態かつ全く不純な存在になり格が下がる。 ○まとめ 事物には、原因と結果の有限なつながりのような理解できる筋道がなく、 人間には、確固とした自由な自立性や人格や自由が欠けている。(p233) ●インドと外の世界とのつながり(p234~) ○言語(サンスクリット語とヨーロッパ言語)に見られるように、インドは西洋世界全体の出発点。 だが、インドを起点に民族が自然発生的に広がっていったことを示すに過ぎない。 また、その痕跡があったとしてもインド伝来ではなく、むしろインド要素を払拭したもの インド的なものの広がりは政治的行動を欠いたもの。→インドは征服されるばかり。 (政治的行動=征服!?) ○あこがれの地 東洋や近代西洋の大国で、この地の一地域を征服したことのない国はほとんどない。 (ex、アレクサンダー大王、近代ヨーロッパ人、東インド会社) =ヨーロッパ人に服従するというのがアジア諸国ののがれられぬ運命(マラータ地方の征服、1818年) 地理的区分け(P235~236) ②インド人の政治生活とカースト制度(p236~) 中国との違い 中国 インド 全ての個人の平等がたてまえとされ、統治権は皇帝という中心に集中して、特殊な個人が自立したり主体的な自由を獲得することがない。 有機的な共同生活が成立するための特殊化していく自由がなく、区別が自立性をもたない。 専制君主の統一権力をはみ出す、自立した部分が形成されている。 しかし、分化してくる違いは自然的なもの。 →その区別のあらわれがカースト制度   インドでは、自由や内面的な共同精神がまだ成立していないので、うみだされる区別は、職業や階層の区別にすぎない。 →この区別が、市民生活の全体や宗教意識にまで影響を及ぼす。共同体の初期の段階 ⇔個人の自由な主体性にもとづくものではない。 カースト制度(p238~) カースト階級 バラモン(神事を行う司祭者、生まれつき神を所有)クシ
  • レポート 歴史 哲学 インド ヘーゲル
  • 550 販売中 2007/07/10
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  • 印度哲学概論 第一設題
  • 「ウッダーラカ・アールニとヤージュニヤ・ヴァルキヤのAtman説について。」 ウッダーラカ・アールニは、ヤージュニャヴァルキヤとならび、初期のウパニシャッドに登場する古代インド最大の哲人のひとりであり、ヤージュニャヴァルキヤの師と伝わる人物である。  思想としては、「有(う)の哲学」として著名であり、サーマ・ヴェーダの奥義書『チャーンドーギア・ウパニシャッド』の6章に、わが子シュヴェータケートゥへ向けたメッセージというかたちで記載された教えが特に知られている。 それによれば、宇宙のはじまりは当初「有」のみであったが、「有」は火・水・食物を創造し、そのなかへアートマン(真我)として入り込み、3者を混合して名称nāmaおよび形態ruupaとなって運動を繰り広げることとなった。 人の死は、このプロセスを逆にたどって「有」に帰ることであるとした。 後世の思想家にきわめて大きな影響と問題意識をのこし、仏教における「無」の思想もウッダーラカ・アールニの思想から多大の示唆を得ている。  ヤージュニヤ・ヴァルキヤは、ウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人であり、紀元前7世紀から
  • 宗教 哲学 仏教 思想 アート インド 生命 宇宙 原理 印度哲学概論 第一設題 仏教大学 ウッダーラカ・アールニとヤージュニヤ・ヴァルキヤのAtman説について。
  • 550 販売中 2009/02/10
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  • 哲学 分冊2 H27-28年度課題
  • 【日大通教】哲学 分冊2 H27-28年度課題 合格リポート デカルトとロックの認識論上の相違について述べよ。 「課題に沿って、適切に言及されている。」との講評をいただきました。 キーワード使用しています。参考文献記載しています。拙い文ではありますが、参考用としてお使いください。
  • 哲学 日本大学 日大 通信 通教 分冊2 デカルト ロック
  • 660 販売中 2017/05/10
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