連関資料 :: 同和教育

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  • 同和教育
  • 『戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ』 (1)同和教育のはじまり   戦後の同和地区の児童・生徒の就学率は同和地区外の児童・生徒の就学率と比較するとはるかに低値であり、子供の長期欠席・不就学の解消に向けた取り組みが、同和教育の起こりとなった。1951年、オールロマンス事件が起こったことをきっかけとして差別行政糾弾闘争が展開されて行く中で、京都市では「今後の同和施策運営要綱」を策定し、戦後始めて同和教育費として予算の計上を行った。同和教育費の一部を特別就学奨励費として同和地区家庭に給付するなどの施策を実施したことにより、児童・生徒の就学率は向上していった。しかし、同和地区生徒の学力の遅れは依然解消には至っておらず、市全体の高校への進学率と同和地区生徒の高校への進学率にも格差があった。そこで、1960年代に入ると同和地区の児童・生徒に対する補習学級の制度化や同和地区の児童・生徒が通う学校には同和加配教員を配置するなど、学力・進路保証としての同和教育に変化していった。 学力水準の格差が是正されたことで京都市では新たな課題として、収入が安定している同和地区住民の地区外への転出によるコミュニティの崩壊とそれによる就労・収入不安定層の貧困化の増大が浮かび上がってきたのである。そこで、1995年に「学習センターの将来展望プロジェクト」が組織された。これ以降、教育の責任として部落問題に対する正しい理解を図り同和地区に対する偏見を取り除くことを目的として、人権教育としての同和教育が始められることとなった。具体的には同和地区内・外の児童や生徒が共に学び、互いに刺激しあえる環境作りとして、それまであった同和地区児童・生徒のための学習センターを地域教育・人権教育の拠点として位置づけ、同和地区外の児童・生徒も利用可能とした。部落問題を同和地区だけのものとするのではなく、「町全体で取り組む町作り」と捉えたとき地域に開かれた施設としての学習センターは京都市において同和教育の第一歩となった。その後、この地域教育の概念の基に障害者や高齢者の施設や子育て支援機関が整備され、高齢者や身体に障害のある人、子供、若者、すべての人がふれあい、地域全体で差別を解消しようとする流れが生まれることとなる。これまでの同和対策事業の結果として近年では、同和地区に対する差別や偏見は少なくなり児童・生徒に対する同和教育の内容も同和地区中心であったものから徐々に、自分たちの住む町とどのような関係を築き作り上げていくかという考え方へと発展していく。その取り組みを京都市の例で見ていくと、子供たちが主体となって空き地を誰もが集える広場に造り替える活動や、高齢者への配食ボランティア活動である。1970年代には、部落の歴史に題材を求め、部落解放のために立ち上がり、たくましく生き抜いた先人を教材に取り入れた「同和問題指導」が始まった。全国の小学校で2002年に導入された「総合的な学習の時間」は同和教育をさらに、普遍的なものとしたといえる。 (2)同和教育の意義  同和教育とは、「同和問題を解決するための教育の営みの総称である」とされている。大別すると、同和地区に対する差別意識を払拭するため同和地区外に働きかける教育活動と、同和地区を対象とした教育活動に分けられる。京都市の例で見てきたように、同和地区の児童・生徒に対する就学奨励事業として始まった同和教育であったが、時間の経過と共に同和問題の実態も変化し同和教育のあり方も様々に変化してきた。現在で
  • 佛大 同和教育
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  • 同和教育
  • 『同和教育の意義・歴史を概括し、学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方について述べなさい。』 同和教育とは同和問題を解決するための教育の営みの総称である。そしてそれは、部落解放運動や同和行政などの同和問題を解決すための教育以外の取り組みであり、お互いが密接に関連し総合的に取り組まれた結果、解決に向けた一定の成果が生まれてきたのである。 それではなぜこの同和問題が重大な社会問題とされるのであろうか。それは1965年8月に出された「同和対策審議会答申」の中で、同和問題は人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる問題である。同和問題は日本社会の歴史過程において形成された身分階級に基づく差別において、過去、現代においても、経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、基本的人権を侵害されている。こういったことから重大な社会問題として取り扱われるのであろう。 この同和問題を未解決に放置することは断じて許されることではないし、国を挙げて早急に解決すべきものであり、それと同時に国民的課題になるべきものである。 日本国憲法には教育権・義務教育が条文化されている。教育基本法にもすべての国民が能力に応じて教育を受ける機会を与えられなければならないと記されているが、部落差別により、雇用面・居住面において「貧困」「劣悪な環境」での生活が余儀なくされていた。その結果、同和地区の子供たちに十分な教育を受けさせることができず差別の悪循環を生み出し、実態的差別がさらに、心理的差別を助長し同和問題の解決をさらに遅らせることにつながっていたのである。同和教育はいうまでもなく同和地区の子供たちの教育権を保障するという課題の克服を目指して取り組まれたのである。 次に同和教育のはじまりについて、京都では戦後、民生局に移管された同和係は、1951年、同和地区の生活実態調査を実施した。その結果に基付き、住宅改良事業に着手する等、積極的に同和予算確保に努めた。また市の予算に同和対策費として年度ごとに特別経費を計上するなど、戦後の同和行政は、地方レベルから国政レベルへと急速に推し進められたのである。 同和教育の施策はまず、同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学から始まる。この不就学問題は、同和教育創世記における最も重要であり、緊急的な課題である。なぜなら、同和地区の小学校・中学校共に不就学率が全体平均の10倍という効率だからである。さらに同和地区にあることにより学校全体が差別され、そのことによってその学校に赴任することを拒否する教師もいるくらいである。このことにより、同和教育を就学奨励事業から始めた。学校においてその具体的に行われたものに抽出促進と呼ばれる授業形態がある。基本的に、国語・数学・英語を中心に1~3人程度が別室でマンツーマンに近い形で学習を進め最終的には原学論での学習に戻ることを目指すものであった。その結果一応の成果は確認できたが、一方的な知識の教え込みという傾向が強く、集団の中で教育的刺激や仲間との交流によって培われる力が育たず、生徒が先生を頼りすぎることにより、独り立ちしなければならなくなった時、自己解決できなくなってしまうといった短所が見られた。この課題の改善策として分割授業へと転換されていった。マンツーマン形式ではなく、教育的刺激が得られる適切な人数にして、小集団の中で自立の促進と格差の是正を身につけることを目的としたものである。1クラスの人数が半分になることにより、生徒の発現や発表の回数が倍に増えるといった長所がある。ただ、少
  • 佛教大学 レポート 同和教育 同和問題 人権
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  • 人権(同和教育
  • 「戦後の同和教育を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。」  同和教育は「同和問題を解決すための教育の営みの総称である」と言われている。同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権に関わる課題である。同和問題の早急な解決は「国の責務であり、同時に国民的課題である」との考えから1965年8月に出された「同和対策審議会答申」では同和問題を次のように示している。いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に地位の状態に置かれ、現代社会においても、尚著しく基本低人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。 このような同和問題解決の方法として、同和教育がある。「『同和教育』は同和問題を解決するための営みの総称である。」とされている。同和教育の目的は大きく二つある。同和地区を対象と
  • 戦後の同和教育を概括し 同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。 人権(同和)教育 人権 同和 佛教大学 通信 レポート
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  • 人権(同和教育
  • 「50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。」  戦後における同和教育施策として、同和地区児童・生徒の長欠・不就学の取組を京都市が始めた。当時の同和地区の長欠率の高さは顕著であった。小学校、中学校ともに、京都市の全体平均の約10倍という数値が、同和地区の不就学率であった。  「同和地区の不就学児童を無くす為」に、部落解放委員会京都府連合会は京都市に対し「生活困窮家庭の児童・生徒への学用品の無料支給、及び、無料で完全な給食の実施」等の要求を行った。このような糾弾闘争を受けた京都市は「今後の同和施策運営要綱」を策定し、これに基づき、同和教育費としては戦後初である200万円を1952年度に予算として計上する事となった。その結果10年後の1962年度には、京都市の平均の約5倍程度まで同和地区の長欠率を抑える事が出来た。学用品等の現物支給を行う「特別就学奨励費」はその後も長期間、同和地区家庭に給付され、同和教育費は年々増額されるようになっていったのであった。  また「特別就学奨励費」の長期間の給付も、同和教育費の年々
  • 環境 人権 子ども 学校 社会 同和 都市 学習 児童
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  • 人権(同和)教育
  • 『同和教育の意義・歴史を概括し、学校における同和 (人権)教育実践の具体的なあり方について述べなさい。』 【同和教育の意義】 同和教育とは、同和問題を解決するための教育の営みの総称である。同和問題を大枠として、部落差別問題として定義すると、同和教育は部落差別を無くすための全ての教育活動と定義することが出来る。 また、同和教育は単なる一社会問題としてのみではなく、人権教育と「差別を許さない」という共通基盤を持つものである。 【同和教育の歴史】 1:同和教育の始まり  戦後の同和教育は、同和地区児童・生徒の長欠・腐臭学の解消に向けた就学奨励事業から始まった。 1952年、オールロマンス差別事件糾弾要項の「差別は市政の中に」で、同和地区児童・生徒の「不就学児童を無くする対策を即時たてること」を同和教育行政における最重要課題と位置づけた。この糾弾闘争をうけて京都市は「今後の同和施策運営要領」を策定し、これにもとづいて戦後初めての同和教育費200万円が52年度予算として計上された。また、同和教育費は、その後も年々増加されるようになった。 2:高校進学率向上への取組  60年代に入り、同和地区と京都市の生徒間で高校進学率に約40ポイントの格差があったため、京都市の同和教育は長欠・不就学の取組から学力・進路保障への取組へと変化していった。  1964年、京都市は「教育の分野において、それぞれの公務員がその主体性と責任で同和地区児童・生徒の学力向上を至上目標とした実践活動を推進する」という同和教育目標を策定する。その後、進学促進ホール・補修学級・学習センター設置などの試みにより、1997年には京都全市と同和地区間の高校進学率はほぼ比肩するものとなった。 【学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方】 1:矮小化・限定化を避ける  同和(人権)教育は、特別な教育活動として矮小化される傾向がある。差別・人権問題が、被差別者の問題すなわち学習者にとって他人事・他の世界の問題として理解・認識されていることが多い。  学習指導要領改訂により「生きる力」の修得を重要とする中、これらの社会問題を学習者がそれぞれ社会の一員(当事者)であることを自覚して学ぶ必要があり、教育者は学習者にそれを認識させるカリキュラム編成を行わなければならない。  例を挙げるならば、外国の一部に見られる日本人(アジア人)に対しての差別を学習対象とすることである。近年、日本は外国人の数が増えたとはいえ、欧米ほどの他民族国家ではないため、学習者(ここでは日本国籍とする)が人種による差別を受けることは稀である。  しかしながら、海外において日本人が差別を受けることは決して珍しいものではない。教師(この場合筆者)は、日本で生まれ育ったごく普通の日本人ではあるが、親類にシンガポール人がいるため、シンガポールに渡った際、昭南島を例に挙げてその残虐性を持つ民族であると一種の差別を受けたことがある。  この経験を題材として、学習者にディスカッションや研究活動を行わせる場合には、学習者自身も同様の経験をする可能性があることを明確に示して行う。 2:総合的な学習として取り扱う  前項で述べた教師の例は、単なる人権問題としてのみ取り扱う題材ではない。人権(同和)問題は歴史的背景をふまえた上での学習が必須であるといえる。  そのため、人権問題は歴史(日本史・世界史)と統合した形での学習体制を準備しなければならない。逆に言えば、歴史の授業の中に取り込んだ形での学習であれば、突然人権教育の授業を受講するよりも、理解しやすい
  • 日本 差別 問題 生きる力 同和 都市 授業 高校 生徒 民族
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  • 人権(同和)教育
  • 同和教育の意義・歴史 学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方。  同和教育とは、同和問題を解決するための教育の営みの総称である。  同和問題とは、日本の歴史過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態に置かれ、現代社会においても、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという社会問題である。封建時代の身分制度や歴史的、社会的に形成された人びとの意識に起因する差別が、現在もなおさまざまなかたちで現れているといえる。 明治維新以降、法律により、同和地区住民は一応制度上の身分差別から開放された。しかし、現実には同和問題と言われ今日まで議論され続けており、今なお解決をみていない。 そのような状況の中で同和教育は何を目的としているか。同和問題の解決に果たす同和教育の役割はまず、それまで奪われていた教育を受ける権利の保障、とりわけ、教育の結果としての学力・進路の保証を行うこと、そして差別の悪循環を次世代に引き継がせないことである。そしてもう一つは、具体的行動として差別することだけでなく心理的差別についても解消することを目指しており、同和問題認識を深めることで人権意識を高め、同和問題をはじめとするあらゆる差別の解決のために行動できる子どもを育てる学習を推進することが目的である。つまり同和教育は「差別を許さない」という共通基盤を持つ人権教育と互いに重なり、ともに発展していかなければならないものであるともいえる。 その歴史を概観すると、まず戦後における長期欠席・不就学解消に向けた取り組みをみることができる。同和地区児童・生徒の低学力実態が明らかになり、その解消方法としてまずは長期欠席・不就学を解消することによって教育を受ける機会自体を改善していくことを目的としている。その後、60年代ごろからはこの取り組みは学力・進路保障の取り組みへとつながっていく。これまでの大きな課題であった長期欠席・不就学はある程度解消されていったが、今度はその大きな問題に隠れていた学力の問題が明らかになってきたためである。具体的には同和地区の高校進学率が平均値に比べかなり下回る数値を示していたことが指摘されていた。この問題を解消するために、補修学級の設置や、さらには学校・行政が一体となった同和地区児童・生徒の学力向上を目指す施策がとられた。これらの対策は効果があったと考えられ、数値としても進学率の差は目立ったものではなくなってきている。この対策は学習指導などの教育対策と、奨学金等の経済的対策の両面が機能したことが成功した要因だと考える。 これらの大きな流れとしての同和教育に付随して、その他にも実践として取り組まれた活動についても、取り上げてその効果、課題について見ていく。 まず抽出促進という方法がある。学校で学んでいる学級での一斉授業では伸ばしきれていない子どもの学力保障を別教室で行うもので、基本的には国語・数学・英語を中心にマンツーマンに近い形で一人一人の課題に応じた内容を学習する。この対策によって子ども一人一人の課題に応じた焦点化が可能で、学力を底上げするという目的に対しては効果があるものであったが、知識の一方的な教え込みであり、集団行動や仲間との交流などの学級での一斉指導の持つほかの側面について対応しきれていないという課題もあった。 次に分割授業、大人数による一斉教授とマンツーマンに近い抽出教授それぞれのデメリットを考慮し、より効果的な教育的刺激を得られる適切な規模人数
  • 同和教育 人権 教育 教育学
  • 550 販売中 2007/11/26
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