資料
グループ
会員登録 非会員購入確認 チャージする
へルプ 初心者ガイド
秦で検索した結果:16件
韓非の思想と秦の始皇帝 韓非はもともと戦国時代の韓の国の公子であった。性悪説を唱えた荀子に弟子入りし、彼のもとで法家思想について学んだ後は、思想家として韓の国を強くしようと奮闘する。韓非は生まれつき口がうまく回らなかったが、それを補って余りある文才を持っていた。彼はそれによって...
郡県制度」とは、周の「封建制度」に対する秦の統治方法である。周が王の一族や功臣に土地を分け与えて統治させ、世襲制によって領有を認めたのに対して、始皇帝は中国全土の土地・人民を皇帝自らが直接統治し、各地を郡とその下位の県とに分けて中央から派遣した官吏によって治めさせた。しかしこの統...
焚書・坑儒は、共に言わずと知れた始皇帝の暴政の代表格である。しかしこの行いを並べて、始皇帝による儒学者への思想弾圧とするのは疑わしい。なぜなら、「焚書」と「坑儒」は、対象となった人々がまったく別のものだったからである。 【焚書】 まず「焚書」は、かなり乱暴な方法ではあった...
自らのテーマに合った本を読み、それについて書け」という課題で私が読んだのは、吉川忠夫の『秦の始皇帝』である。この本は史上初めて「皇帝」を称した秦王政こと秦の始皇帝の生まれから、死後はかりごとを以って二世皇帝の座についた胡亥がその無能により国を乱し、やがて項羽と劉邦によって秦が崩さ...
始皇帝(正しくは秦王政)の十八男、少子胡亥は始皇18年(紀元前229年)に誕生した。始皇帝が趙を攻撃した年である。これも史記には記されていない。彼の名が初めて史記上に現れるのは、始皇37年(紀元前210年)の始皇帝最後の巡幸の折、「少子胡亥、愛せられる。慕ひて從はんと請ふ。上之を...
1.秦王国から秦帝国へ 中国史上初の統一王朝である秦帝国は、もともと西周時代に現在の陝西省附近に起こった国である。はっきりした起源は不明であるが、その後戦国時代、紀元前324年に恵文王(26代目秦公)が始めて「王」を名乗り、王国となる。 後の始皇帝、秦王政が即位したのは紀...
●秦における「郡県」「封建」論争 【第一次論争】 始皇二十六年、当時の丞相王綰と廷尉李斯との間で起きる。王綰は地方統治のため各地に王を置くことを提案して多くの支持を得るが、李斯は周の例(諸侯が力を持ち、周王では抑えきれなくなって王権が崩壊した)を示し、皇帝の下に権力を集中させ...
秦の天下統一の意義 後世でも中国が一個の統一した国家として存在するときには、いつでも秦王朝が定めた枠組みが踏襲されている。 まず、第一に秦王朝の天下統一の意義は、二十世紀初めの清末まで続いた皇帝独裁と中央集権的官僚制による支配形式が確立されたことであろう。 秦王朝が統一王朝の主に...
『秦の天下統一の意義を述べよ』 (テキストは第1章4節及び第2章1節を参考に使用、その他に論末記載の文献を参照) 中国は前3世紀に秦という統一帝国があらわれてから20世紀始めに清帝国が倒れるまで約2000年以上にも渡り、国家の支配形態を帝国的支配としてきた。この中国の帝国的支配...
?二世皇帝即位から秦の滅亡まで 胡亥は秦の始皇帝の末子である。始皇帝が年老いてからできた子供だったためか、彼に大変寵愛されたと伝えられる。 紀元前210年七月、始皇帝が巡幸中に病没した。しかし付き従っていた宦官の趙高と丞相の李斯はその死を隠し、皇帝の遺書を改竄して、第一太...
設 題 秦の天下統一が果たした歴史的意義について述べなさい。 テキストp30の「従来から始皇帝は暴虐な天子の見本とされてきた。それは始皇帝時代の原資料が少なく,始皇帝の話の多くが,彼を敵視した漢代の儒者によってつくられたことに大きな理由がある」とある。その観点で始皇帝が成...
<はじめに> 国民国家が世界において主体単位となった現在、民主的な憲法を有するほとんどの国では、犯罪者を法律に基づいて裁き、刑罰を法律によって確定する罪刑法定主義に基づくシステムが採用されている。中国という広大な領域を始めて統一し支配した秦という帝国の時代においての刑罰につい...