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侍で検索した結果:40件
何故なら、兼家の手紙のよこし方は、手引きをする侍女がいて、美しい紙に流麗な筆跡の手紙が届けられるという優美な方法ではなく、馬に乗った侍を使いにして、編者の家の門を叩かせるという不躾な方法であり、手紙も美...
中央に関しては、御家人という「侍所」、財政を管理する「政所」、裁判を行う「問注所」を設置した。そして、これらを束ねるのが「将軍」であり、その下に「執権」という将軍の補佐等を行う役職があった。
私が授業時に引用した『西宮記』や『侍中群要』には、罷申についての条文が国司ではなく、「受領赴任事」や「受領罷申事」と受領という言葉を使っていた。
後にこの政所別当が侍所別当を兼務するようになってからはこの執権職の権限が大きくなっていって、鎌倉幕府独自の執権職が出来上がった。
鎌倉幕府における統治体制は、幕府の政務と財政を管轄する政所、軍事、警察機能を統括する侍所、訴訟やそれに伴う事務を担当する問注所の3つが全体を統括し、それに合わせて京における御家人の統括として京都守護、九州地方...
それでも鎌倉を中心とする関東の武士団を統率するために侍所、行政を担当する公文所(政所)、司法を担当する問注所を設置し自らは征夷大将軍となり鎌倉幕府の礎を築いた。
鎌倉には中央機関として、御家人を組織し統制する侍所、一般政務や財政事務をつかさどる政所、裁判事務を担当する問注所などがおかれ、京都からくる下級貴族が頼朝の補佐をした。 地方には守護、地頭がおかれた。
また征夷大将軍となり将軍の地位に就き、公文(文書)の作成や管理を行う公文所(後の政所)や訴訟受理事務を行う問注所、軍事・警察を司る侍所などの組織を構築し、支配体制を固めていった。
が守護・地頭の任命権獲得時(4)一一八四(元暦元)年十月…頼朝が公文所・問注所を設置した時(5)一一八三(寿永二)年十月…頼朝が東国支配権を朝廷から承認された時(6)一一八〇(治承四)年十一月…頼朝が侍所...
鎌倉幕府の支配機構は侍所や守護といった軍事・警察分野以外でも整備がすすめられ、寿永三(一一八四)年には頼朝家家政を司る公文所(後に政所へ発展)が京下がりの実務官人大江広元を長官(別当)に迎えて設けられ、...
後にこの政所別当が侍所別当を兼務するようになると、執権職の権限が大きくなり、鎌倉幕府独自の執権職が生まれたのである。
源頼朝が板東を制圧して鎌倉入りを果たし、侍所などを設置したことによって幕府が成立したという説である。 ②一一八三年(寿永二年)説。一一八三年は寿永二年十月宣旨の獲得の年である。