連関資料 :: 政治学について

資料:265件

  • 国際政治
  •  日本社会における第二次世界大戦における議論は大体において、次の二つの「文脈」のいずれかに沿ってなされることが多い。その第一は、「道義」と「贖罪」である。この文脈に基づく議論は以下の3つの命題を中心に構成される。?さきの戦争は、日本が犯した「取り返しのつかない罪過」であった。?このような罪過に対してわれわれは深く反省しなければならない。?われわれの行為によって損害をこうむった人日に対してわれわれは心からの謝罪と、出来る限りの償いをしなければならない。である。一方、さきの戦争に関して、それとは異なる語られ方もある。「権力」と「利益」の文脈がそれである。この文脈に基づいた議論では、さきの戦争は「国家間の権力闘争」と位置づけられる傾向が強い。この文脈にたつと先の戦争は大東亜共栄圏の確立などの目標に対する「失敗」であり、「罪過」とはならない。  ここでは、戦争直後の日本人がさきの戦争を「権力」・「道義」のどちらを重視したかを解明することで「日本人にとっての戦争賠償」とは何かを解明していくものである。ここで実際に日本人の戦争賠償への捉え方を考察する。  (1)ポツダム宣言と賠償原則の確立を考える。アメリカ(連合国)によって、「中間賠償計画」なるもの(日本の産業力の制限等・・・)が日本に対して突きつけられた。このようなけ威嚇が立てられた背景に、アメリカの非武装化構想があったことは言うまでも無く、すなわち、その経済力や工業力の水準を押し下げることで、日本を無力化し、従来の東アジアのパワーバランスを変えてしまおうというのが、当時のアメリカ政府であり賠償もその手段とされていた。この点に注目するならば、当時のアメリカ政府はもっぱら、東アジアにおける力関係(権力の文脈)という観点から見ている。しかし、そこに「道義」の文脈が欠けていたわけではない。
  • レポート 国際関係学 国際政治 日本 外交
  • 550 販売中 2005/11/29
  • 閲覧(1,497)
  • 国際政治
  •  第二次世界大戦の敗戦は、当然ながら、戦後の日本外交の枠組みに大きな影響を与えた。戦前のいわゆる「アジア主義」的な思想は、戦後は欧米先進国、特にアメリカとの協調の重視に転換したし、またいわゆる「吉田ドクトリン」と呼ばれる経済中心主義と国際的な不介入主義は戦後の日本外交の基本的な指針といわれてきた。  「アジア」に対するアイデンティティの変化から考察する。「アジア主義」と「脱亜入欧」の両者どちらに重点を置くかということは、日本の近代化の課程における大きな課題であった。「アジア主義」の思想は太平洋戦争中に「大東亜共栄圏」の名の下で国際的孤立の頂点を極めた。しかし、これは結果として敗戦につながったこともあり、戦後に欧米協調路線に移り変わったことは当然であったといえる。  次に戦後賠償がどういった結果を構築していったのかを考察する。日本の賠償・準賠償は、日本政府から相手国政府への直接的な資金の提供ではなく、日本政府の負担による財やサービスの提供であり、それを具体的に受注したのが日本の企業であった。すなわち日本企業は日本の賠償によって成長したといえる。これは意図したものとは言えず、実際に金銭で日本が賠償を行える体力は無く、「サービスや物」というスタンスによる偶発的な結果が、賠償がマイナスだけでなくプラスに働いたといえる。さて、賠償・準賠償の多くは、1950年代に交渉が妥結したが、韓国との間でなされた「請求権」とその「補償」をめぐる交渉が残っていた。この交渉が妥結した背景としては、?アメリカがベトナム戦争により勧告への経済援助を減らし始めたこと?国際情勢が移り行く中クーデターで成立した朴政権が韓国の経済建設のために日本を利用したいということが挙げられる。しかし、裏にはアメリカが動いていたことも事実である。
  • レポート 国際関係学 国際政治 外交 日本
  • 550 販売中 2005/11/29
  • 閲覧(1,734)
  • 国際政治
  •  本章は日本のテロ対策の特徴を戦略文化という視点から考察してきた。ブースによる戦略文化の定義とは「戦略文化という概念は、力の行使あるいはその脅しに関して、一国がもつ伝統、価値、態度、行動パターン、慣習、シンボル、実績、そして環境に適応し問題を解決する特有の方法に言及するもの」である。  戦略文化論がその対象としてきたものは核戦略だけではない。たとえば『国家安全保障の文化』では、化学兵器のタブーや人道的介入規範、毛沢東やソ連の政策などの多岐に渡る事例が取り上げられている。いずれも規範とアイデンティティが分析のキーワードになっている。  テロは政治的行為とみなされるとするが、日本のテロ認識をかなえるうえで最も重要なことは、政治的なテロリズムすなわち右・左翼のテロ行為に対して、現代日本はその実行者や組織を国民の総意として、テロリストとみなして徹底的に非難、断罪することは無かった。この点こそが、日本のテロ対策が原則を欠き、組織と直接対決せず、被害管理に集中する理由の根底にあるだろう。  日本の場合、テロの脅威が大きくないという合理的な理由付けだけではなく、戦後の平和規範や人権規範(?平和規範・・・平和に絶対的な目標価値を置き、手段も日本人が平和的と考える手段を行使すべきことを要請する。
  • レポート 国際関係学 国際政治 日本 テロ
  • 550 販売中 2005/11/29
  • 閲覧(1,439)
  • 政治(2分冊)
  • 法律の原案のことを法案といい、法案は衆議院、参議院の両議院で可決されることにより法律になる。近代以降の法律は、議会の議決を経て制定される。 国会が国の唯一の立法機関であるので、発案は議員の発議、他院の提出、内閣の提出の3種類があるといえる。  議員の発議とは、議員が自分の属する議院に審議を求めるために議案をだすことで、議員が法律案を「発議」するためには、一定数以上の賛成者を要するとしている(国会法56条)。国会法によると衆議院においては20人以上、参議院においては10人以上の賛成を要する。ただし、予算を伴う場合には、衆議院においては50人以上、参議院においては20人以上としており、内閣に対して意見陳述の機会を与えている(国会法57条の3)。   内閣が法律案を提出して行う場合は、内閣に法律案提出権が認められるか否かは、憲法上、明示的規定がないために問題となる。この問題については、以下の立場がある。 国会が国の唯一の立法機関であることを理 由に、否定する立場。 ②議案に法律案が含まれると解釈して否定する立場。 ③日本国憲法は議院内閣制を採用しており、国会と内閣の協働が予定されていること
  • 憲法 法律 内閣 国会 問題 議員 立法 表現
  • 550 販売中 2008/06/04
  • 閲覧(1,375)
  • 国際政治
  •  日本が黒船による強制的な開国によって不幸せになったという感慨は、ある点で日本国民の潜在意識下における複雑でアンビバレントな対米認識の反面の真実である。その「不幸せ感」は言うまでも無く近現代にほんの対外関係を含めたトータル的な意味での国家・国民のアイデンティティに関わるものである。  開国後の長い対米関係において、両国の緊張、摩擦が高まるたびに識者によってペリーによる圧力的な開国を「国辱」などと位置づけられてきた。福沢諭吉もその一人であるが、当時の日米関係を評して「両国人民の大に誇る可き所ならん」と最大級の賛辞を与えていたのである。こういった福沢の内部にある米国に対する愛憎の並存する対米感情は日本人の中にはあるものである。  米国が日本を開国させた理由は三つある。?「世界の勢力争いの舞台」が大西洋から太平洋に移ってきたこと?米国の捕鯨船に対する燃料・食料あるいは難破した場合の保護用?中国貿易の際の中継基地である。  開国はナショナリズムの出発点ともなった。「国辱」と考えることから国とは、国家とはというところに発展したのである。またそのナショナリズムはその後の日本の対外的膨張を正当化するとともに、「自閥打破」や「亜細亜モンロー主義」へと発展していった。  また、「国辱もの」と呼ぶ事件として、ペリーの「白旗」がある。これは1910年3月に大日本子文書・幕末外国関係文書之一に収録されている。この事件と時を同じくして、日本人移民排斥問題が進んでいたのである。そしてそれは1924にピークを迎えることになる。これまではカリフォルニア州をはじめとする一部の地域での問題であった排日移民問題は、ついに連邦議会への排日条項を含む新移民法の上程という段階に至ってしまったのである。いわゆる排日移民法である。同法の成立が日本国民に与えた衝撃は大きかった。
  • レポート 国際関係学 国際政治 日本 外交
  • 550 販売中 2005/11/29
  • 閲覧(1,637)
  • 国際政治
  •  本章は、沖縄問題の二つの大きなうねりを取り上げ、米軍基地と沖縄の関係と政治課題について論じる。まず米軍に土地接収に対抗して発生した1950年代の「島ぐるみ」闘争における沖縄社会の大衆役割の検討を通じて、軍事と経済との関係に整合性をつける政治のありさまをみる。そして、1995年から98年にかけて、冷戦後の「へいわの配当」を目指して日本政府との新たな関係を模索した大田沖縄知事の県政を取り上げ、中央と地方政治の変容を観ていく。こうした検討により、日米関係の中に位置する沖縄の特徴の把握や、沖縄問題への理解を深める。  まず、沖縄が基地の島となったところから考える。米国はなぜ沖縄の「施政権」を必要としたのであろうか。それは、占領してから27年にわたる米国の沖縄統治は沖縄の軍事的使用を「完全」に確保するために他ならない。もし日本の施政権が沖縄に及ぶのであれば、日本政府の協力あるいは日本政府との協議を経ることなく、米軍は沖縄の基地を自由に使うことが出来なくなるとアメリカ政府は判断したからである。当時(戦後まもないころ)、米国にとって日本は対等な相手として見られておらず「敗戦国日本」として捉えられていたのである。軍国主義への回帰に懸念を抱き民主化を推進しつつも、日本の再軍備をも求めるマッカーサーは、一大複合の米軍基地が沖縄に存在する限りにおいて、日本との早期講和が可能と考えていたのである。つまり、沖縄の米軍基地の存在を前提として日本の戦後が出発したと言い換えられる。  米国統治下における戦後沖縄の政治を語るときには3つの要因が政治の変動を規定してきたといわれる。?沖縄の軍事的価値。これは米国の極東の安全保障において、沖縄の基地が米国にとって必要不可欠であったことである。?日本政府の安全保障政策。
  • レポート 国際関係学 国際政治 沖縄 外交
  • 550 販売中 2005/11/29
  • 閲覧(1,599)
  • 政治文献研究
  • 政治学文献研究 まとめ Politics as art of government   politicsという言葉は文字通り都市国家を意味するpolisに由来しおり、この中のアテネはしばしば民主政治の発祥の地として描かれる。こういった意味で、「何が政治と関係するのか」と言う点で、ポリスについて言及する事によって政治が理解できる。それ故、政治の定義の近代的な形は「何が国家と関係するのか」ということになる。 政治というものの見方はその普段使われる中で極めて明白である。政治を学ぶ事は本質的に政府を学ぶ事であり、更に広く言えば、権力の行使を学ぶ事である。この見方は「価値の権威的配分」と政治を定義したアメリカの政治学者のデビット・イーストンの著書によって高められた。彼によると、政治は政府が広い社会からの様々な圧力を受け反応する事を通した様々な過程である。権威的価値はそれ故に社会に広く受け入れられ、多くの市民が政府を縛る事を考える。この見方では、政治は、権威、または政策と関連がある。 しかし、この定義は極めて制限された政治の見方を与える。政治は政策において実行されるものである。政治はそれ故、行政
  • 政治 経済 社会 国家 政策 組織 言葉 自由 集団
  • 880 販売中 2009/06/17
  • 閲覧(1,492)
新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
写真のアップロード
一括アップロード
管理ツールで資料管理
資料の情報を統計で確認
資料を更新する
更新前の資料とは?
履歴を確認とは?