連関資料 :: 道徳

資料:715件

  • カントの道徳
  • この世界の内においても外においてもただ善いとされるものは善意志だけである。善意志は最高善とみなされるのである。人間がそなえていて善いとされるものはさまざまあり、たとえば幸運の賜物である、権力、富、名誉、健康などは無制限に善いとはされない。「善く働く悟性であっても、その持ち主が『善い意志』をそなえていず、逆に『悪い意志』をそなえているなら、その悟性は悪だくみに巧みな奸知となろう。」(1) 善意志はそれが引き起こす事柄や、善意志によって達成される事柄、初めから目的の達成に役立つことによって善いのではない。善意志はただ意欲することにより、それ自体において善いのである。
  • レポート 論文 カント 哲学 道徳 形而上学 原論
  • 550 販売中 2014/02/06
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  • 道徳教育
  • 第二次世界大戦以降の 学習指導要領の改訂について  第二次世界大戦後、日本の敗戦はそれまでの価値観が一変するような出来事だった。このことは教育面にも大きな影響を及ぼしていて、教育は天皇の名においてされるものなのか、それとも民主主義的にみなに与えられるものかという議論もあった。昭和22年には教育基本法が施行されて教育の目的や義務教育期間など、教育の基本的な形が定められた。それまでは、子どもがあくまでも支配されるものとしての道具の役割という扱いしか受けていなかった。しかし、戦後の民主主義の中で民主主義的な人間関係が成り立つように人としての人格を完成させることに重きが置かれるようになったのである。 戦後の道徳教育の推進とともに求められる人物像が変化した。まず、人としての個人的な面では一人の人として自由の権利があり同時に行動に責任をもてること、また自分を大切にすることができて周りの人と協調できること、生命に対して畏敬の念をもつこと、人に対して尊厳や愛、深い感謝の気持ちを持つことである。 家庭人としての面では、家庭を愛が育つ場としてとても重要な場としてとらえて、家庭が憩いの場であり、子どもやその親が育つ教育の場であることが求められている。また、戦前のような家父長制や男尊女卑ではなくて、明るくて楽しい家庭が求められている。 一人の社会人としては、仕事をきちんとすることで社会にたいして役に立つことが大切である。また、人々が同じ場所で暮らしているので互いに協力し合うことが大切である。社会的に恵まれない人に役に立つよう社会福祉に寄与することも大切である。また、一人の社会人として社会のルールを守って暮らすことが必要である。社
  • 道徳教育 佛教大学
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  • 法と道徳
  • 課題 『法と道徳の峻別について論じてください。最低でも 1,000 字以上は書くこと。』 1.はじめに 「法と道徳は峻別するべきである」-この考えは、トマジウスやカントらによって主張された。近代市 民社会の成立期において、人間の内心への国家権力の介入を抑制するために主張された。では、 法と道徳はどのように峻別されるのか。また、「法・道徳峻別論」は、どのような役割を果たし、どのよ うな経過をたどったのか。 2.法と道徳の峻別の仕方 法と道徳をどのように峻別するかについては、次のような説がある。 (1)第一説 第一は、法の外面性と道徳の内面性とによって峻別しようとする説であり、トマジウスによって主張 された。すなわち、法は人間の外面性(行為や態度)に対する規範であるのに対し、道徳は人間の 内面性(意思や心情)に対する規範である、とする。しかし、法も全く人間の内面性に無関係ではな い。例えば、刑法38条1項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規 定がある場合は、この限りでない。」としており、この場合についてみれば、刑事責任の存否は人間 の内心に依拠するこ
  • 憲法 経済 道徳 社会 法律 法学 人間 国家 評価 資本主義
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  • 道徳とは何であったか
  •  小・中学校の道徳の時間では、副読本を使用していたと記憶している。他の教科書とは違い、個人専用に配布されるのではなく、「みんなの共有物」として教室で保管していた。そして、15分間の教育テレビ放送の番組(さわやか3組ではなかった。)を見ていた。副読本も、テレビ番組も、ストーリーが面白いのに結末がなく、がっかりした。「この話はその後どうなったのだろう?」とすごく気になった。副読本とテレビ番組からテーマ・課題が与えられ、その後についてクラスで話し合うといった形の授業だった。子ども達から色々な意見が出るが、先生から「その通り。」や、「そうすると良い。」「本当にそれでいいのか、みんなで考えよう。」と言われると思う。私は、「答えが無いようで、きっと先生はこう答えて欲しいのだろう。」と考えてしまうようになった。私にとって、道徳は「人として普通の行い・多くの人にとって当たり前のこと」だと考えていた。道徳の時間以外にも、学校で問題が起こると、クラスや学年で考える時間が与えられた。「どう思うか?これでいいのか?」とたずねられると、「このままじゃいけないから、こうやって考える時間を与えられたのだろう。」と思った。いつもはっきりした答えは見つからなかったが、「ほとんどの人が考える、正しいことといけないことの違い」を覚えていったのだろう。  先週、私が勤務する中学校で「チャットへの書き込み」が問題となった。チャットに悪口を書かれた生徒の保護者から学校へ訴えがあり、チャットの存在が判明した。チャットを直接見ていないが、市内中学校の各ページが存在し、教師の悪口、生徒の噂などが無記名で記入されていた。携帯電話からも簡単にアクセスが出来、生徒達は気軽に参加していたようだ。
  • レポート 教育学 道徳 中学校 情報モラル
  • 550 販売中 2005/12/06
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  • 道徳科指導法~道徳の時間のねらいとは
  • ?道徳教育とは自然な心ある行動を促す教育であり、その時間のねらいは、道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度を培うことを通して道徳的実践力を育成することである。 道徳的判断力とは、様々な場面での行為の善し悪しを判断する能力である。道徳的価値の大切さを知り、行為においてそれが望ましいことなのかを判断するのである。よりよい生き方をするためには欠かせないものであり、基本的な能力となる。 道徳的心情とは、道徳的価値を望ましいものとして受け入れ、道徳的に善い事をすることとし、人間として望ましい生き方をしていこうという感情である。善い行為を喜び、悪い行為に対しては憎む感情なのである。道徳的価値と結びつく感情であるため、道徳的情操とも呼ばれている。 道徳的実践意欲と態度は、道徳的心情や道徳的判断力によって選択された、より望ましい行為をしようとすることである。こうした態度は、道徳的実践への身構えということである。 道徳的実践力とは、一人一人の児童が道徳的価値を自分の内面から自覚し、様々な場面や状況においても道徳的価値を実現するための適切な行為を主体的に選択し、実践することができるような内面的な能力である。
  • レポート 教育学 道徳 教育 生きる力
  • 550 販売中 2006/07/24
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  • 学校における道徳教育の道徳は誰がどのように決めるべきか?
  • 学校における道徳教育の道徳は誰がどのように決めるべきか?  今現在、学校が家庭や国家から道徳教育の時間にいったい何を学習することを望まれているか、そのことについて少し触れてみたいと思う。歴史的なことをいうと授業でも習ったとおり、終身や社会科の要素をたどるものがあるのかもしれない。しかし、私も10年ほど前、道徳教育を受けてきた身として、いったい何を目的として授業が進められていたのかを思い返すと、けっして終身や社会科のように、国家の臣民育成としての授業ではなかったように思う。授業の内容は、いじめについて書いた本を読んだり、部落差別、在日朝鮮人についてなど、子供ながら道徳の時間はすごく暗い物語ばかり読まされるのであまり楽しみではなかったのを覚えている。  道徳教育を設けるにあたっての学習目標はどこらへんに置かれているのであろうか。現在は、幼稚園から高校まで一貫しての道徳教育を設けている。その個々の目標として、幼稚園では道徳性の芽生えを育てること(人間環境、就中、教師と幼児との人間的関係を両者が創造していく)、小学校は他律から自律、児童の道徳性の成長発展を促進する、主に低学年においてはしつけ(基本的生活習慣を身に付ける)、高学年においては、自分で判断し、決断したことに責任を持つ、中学校は人間としての生き方について自覚を深める(“人間の”ではなく“人間としての”)、高校は道徳として特別な時間を設けてはいないが人間としての生き方に関する教育を通して道徳教育が行われる(ホームルームや公民科)。つまり道徳教育とは心の教育であり、教育とは人格の完成を目標としているといえる。さて、国の方針としてこのような目標が掲げられていたが、そのことに対しての論議がないわけでもない。ちまたでの道徳教育観を聞くと各人各様の理論が散乱していることがわかる。たとえば道徳は生活そのものだから道徳などというものは抽象の産物に過ぎないという人があるかと思うと、道徳の現れる姿は、時代や社会によって異なるが道徳そのものは単純で、かつ普遍的だと主張する人もある。また、子供は善悪の判断をよく知っているので、ただ実行が伴わなかったり、ほかの社会的要因がこれを阻止したりするだけだと論じている人もいる。ところが、これとはまったく反対に学校でも善悪の判断を教えなければならない。教えることによって、道徳は育っていくものだとの意見もかなり多い。さらに、評論家の間では、道徳を行うためには、理想的人間像を確立することが先決だとの主張もある。このように、人によって、立場によって、道徳教育観は大変異なって出てくる。しかし道徳教育に携わる学校や家庭では、多様な価値観を論じて楽しんでいるわけにはいかない。この教育観の対立を克服して、子供によりよい生き方を指導するよう努めなければならない。  そこで、この問題を次のように整理し、道徳観の確立を図っていったらどうかと考える。世間的な道徳観を大きくまとめると、心情的なものを基準にして道徳教育を論ずる人と、責任的なものを基盤に道徳教育を主張する人があるということだ。たとえば責任の立場は、行為の道徳結果がいかなるものであるかということによってその行為の道徳的価値を評価しようとするのに対して、心情の立場は行為を道徳的に評価する場合にもっぱらその動機の純粋性を評価の対象にしようとする。そこで、道徳教育を考えるとき、両者の対立を絶対的な対立としてではなく、両者の立場が相補って初めて真の人格が形成されると考えなければならない。  このことは、人間の生き方が、行為の動機において純粋であるととも
  • レポート 教育学 同志社大学 教職課程 道徳教育
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  • 道徳活動が重視される理由と、体験的道徳活動
  • 道徳教育が重視される背景  近年、道徳教育の充実が求められるようになってきているが、その背景には、生徒個人が集団、社会、自然といった諸々の環境とのつながりを認識する機会がなく、それらとの関係が希薄化してしまっているということが挙げられる。こうした環境との関係が希薄な状況が存在することによって、たとえば、生徒は学校で些細なきっかけから生徒は仲間はずれにされてしまい、やがていじめや不登校問題を生んでしまう。あるいは自然の存在をあまり意識しない生徒であれば、悪気なくゴミのポイ捨てを行ってしまうことも考えうるであろう。  こうした問題を解決するにあたっては、学生指導要領でいうところの「人は、家族、学校、地域社会、国家、国際社会などの社会集団の中で、何らかの役割を果たしながら生きている。そして、権利・義務や責任を通して互いに社会連帯の意識を持ち、進んで公共の福祉に努めようとするものである。」といった個人と集団との望ましい生き方を教えることが重要となり、それを担うのが道徳教育なのである。 体験的な道徳教育  それでは、道徳教育はどのように実践されるべきであろうか。これまで道徳教育においては、教師が
  • 教職 道徳
  • 550 販売中 2008/12/12
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  • 道徳教育の研究
  • 学習指導要領の変遷について。  昭和22年に教師のための「手引書」として作られる。小・中学校に社会科、家庭科、自由研究、中学に職業科を新たに教科に加えることになった。社会科は地理歴史の単なる合科教科ではなく、こどもの現実に直面している問題を中心とする、問題解決学習などの経験主義に立つ教科である。 昭和26年の第一次改定から自由研究は教科外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)へと変更され、更に保健体育、職業・家庭科がつくられた。
  • 佛教大学 教職 A評価
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