真珠湾攻撃に関するレポート

閲覧数2,839
ダウンロード数14
履歴確認

    • ページ数 : 2ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    941年12月7日、日本軍はハワイの真珠湾に奇襲をかけた。今回ビデオを見たことで、この事件、及びこれによって始まった太平洋戦争において、「情報」というものが、どのように働いたかについて考えた。翌12月8日には、宣戦布告がされると共に、「情報宣伝方策大綱」が組織されて、国内世論の指導・国外宣伝の推進にあたったという事実を始めて知って、改めて、いかに情報の扱いが、政治にとって重要であるかを感じた。
    当時の日本海軍の司令官長であった山本五十六は、開戦反対の立場であったが、アメリカと戦うのであれば開戦冒頭の真珠湾攻撃が不可欠との信念で、真珠湾攻撃を指揮した。実際、その後戦況はしばらくの間日本側に有利に働いた。この、真珠湾攻撃が、日米どちらにとっても、開戦のきっかけになったのは確かであるが、この、一見自然な流れに見受けられる開戦の裏には、巧みな情報操作があったのである。日本は、宣戦布告もされていない状況で、日曜日の朝に奇襲するといった戦法をとっておいて、国内に向けた大義名分としては、「アメリカ側から追い詰められて、やむを得ず開戦する」とした。アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していたとされている。ルーベルト大統領は真珠湾の奇襲を知っていたのだが、現地に知らせることはせず、「奇襲を仕掛けてくるような、ありえない野蛮な日本人は制裁しなくてはいけない」という世論を作り上げ、アメリカ国民を戦争の道へとつき進ませたのである。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

     
    1941年12月7日、日本軍はハワイの真珠湾に奇襲をかけた。今回ビデオを見たことで、この事件、及びこれによって始まった太平洋戦争において、「情報」というものが、どのように働いたかについて考えた。翌12月8日には、宣戦布告がされると共に、「情報宣伝方策大綱」が組織されて、国内世論の指導・国外宣伝の推進にあたったという事実を始めて知って、改めて、いかに情報の扱いが、政治にとって重要であるかを感じた。
    当時の日本海軍の司令官長であった山本五十六は、開戦反対の立場であったが、アメリカと戦うのであれば開戦冒頭の真珠湾攻撃が不可欠との信念で、真珠湾攻撃を指揮した。実際、その後戦況はしばらくの間日本側に有利に働いた。この、真珠湾攻撃が、日米どちらにとっても、開戦のきっかけになったのは確かであるが、この、一見自然な流れに見受けられる開戦の裏には、巧みな情報操作があったのである。日本は、宣戦布告もされていない状況で、日曜日の朝に奇襲するといった戦法をとっておいて、国内に向けた大義名分としては、「アメリカ側から追い詰められて、やむを得ず開戦する」とした。アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していたとさ...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。