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		<title>タグ“哲学”の公開資料</title>
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		<description>タグ“哲学”の公開資料</description>
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		<item>
			<title><![CDATA[好奇心という名の治療薬]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430546701@hc06/7950/]]></link>
			<author><![CDATA[ by seitaro94]]></author>
			<category><![CDATA[seitaro94の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Apr 2006 04:38:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430546701@hc06/7950/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430546701@hc06/7950/" target="_blank"><img src="/docs/983430546701@hc06/7950/thmb.jpg?s=s&r=1145043494&t=n" border="0"></a><br /><br />根性は肉体の衰えと共に萎み、情熱の炎はいつか消える。気迫は経験の蓄積と共に源を失い、仕事に向かう精神力は定年と共に消える。希望は時が経つにつれその幅を狭め、可能性もそうである。
　ただ、好奇心だけは。それだけはこの世でゼロからでさえ生まれ[356]<br />　　　　　　　　　　好奇心という名の治療薬　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
根性は肉体の衰えと共に萎み、情熱の炎はいつか消える。気迫は経験の蓄積と共に源を失い、仕事に向かう精神力は定年と共に消える。希望は時が経つにつれその幅を狭め、可能性もそうである。 　ただ、好奇心だけは。それだけはこの世でゼロからでさえ生まれるものだから。 　世の中が今の日本の社会の社会状態のように、意味の無い労働と、意味の無い消費と、そんな風景に埋もれ希望の見えない雰囲気に陥った時に人類は二つの道を選んできた。戦争か、それとも冒険か。 　僕らは生きるべき道を見失った時に何を見るのか。全てのものに希望が持てなくなった時に、なにが見えて何に向かうのか。 　破壊と破滅か、それとも好奇心と創造か。 　我々は色々なシーンで、もっとうまくやれるはずなのに、自分からその力を諦めてしまう。世の中のシステムを言い訳に閉じこもる。うまくやれる人を見ては、それは生まれた時の能力で決定されているものだと言い、そう信じてしまう。
しかし実はそれは能力の問題ではなく環境の問題のみであり、その環境が自分の好奇心を吸い込む環境である..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[  『史記』にみる司馬遷の思想]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430907901@hc06/7909/]]></link>
			<author><![CDATA[ by wing0427]]></author>
			<category><![CDATA[wing0427の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Apr 2006 23:43:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430907901@hc06/7909/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430907901@hc06/7909/" target="_blank"><img src="/docs/983430907901@hc06/7909/thmb.jpg?s=s&r=1144852998&t=n" border="0"></a><br /><br />司馬遷は姓は司馬、名は遷。字は子長。紀元前145年に、黄河の難所で有名な竜門近くの夏陽に生まれた。司馬は代々周の歴史を記録する官僚であった。父の司馬談は漢王朝の史官の職責を果たそうと、歴史書編纂をという大事業を企てた。しかし、武帝が行った泰[354]<br />『史記』にみる司馬遷の思想
司馬遷は姓は司馬、名は遷。字は子長。紀元前145年に、黄河の難所で有名な竜門近くの夏陽に生まれた。司馬は代々周の歴史を記録する官僚であった。父の司馬談は漢王朝の史官の職責を果たそうと、歴史書編纂をという大事業を企てた。しかし、武帝が行った泰山封禅の儀式に呼ばれなかったことで憤死し、司馬遷は臨終に際して、その事業を託された。そして司馬遷は歴史書の編修に着手したが、その5年後、武帝の怒りを買い、宮刑を受けることでなんとか生き延びた。その後大赦にあって獄を出た後、全130巻、526500字にも及ぶ『史記』を完成した。
『史記』は伝説上の五帝の一人黄帝から、前漢の武帝までを記した中国の歴史書である。二十四史の1つであり、紀伝体で書かれている。当初は『太史公書』と言われていたが、魏晋以降に『史記』と呼ばれるようになった。この司馬遷の大事業ともいえる『史記』は、王侯を中心としたものの、それ以外の民間人を取り上げた列伝も見られ、純粋な歴史的価値というよりも、その文学的価値という意味でも注目されている。これだけの一大事業なので、当然そこには司馬遷の思想が反映されているはずで..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 書評：永井均『これがニーチェだ』（講談社、1998）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/7833/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kana609]]></author>
			<category><![CDATA[kana609の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 09 Apr 2006 14:15:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/7833/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/7833/" target="_blank"><img src="/docs/983431882401@hc05/7833/thmb.jpg?s=s&r=1144559714&t=n" border="0"></a><br /><br />＜要旨＞（1,420字）
ニーチェの思想は、世の中の向上のためにならないどころか、人間社会の構成原理と両立しがたい部分を含んでいる。しかし、それこそがニーチェを稀に見る偉大な哲学者にしている。また、ニーチェは思想家ではないが、思想家として[346]<br />永井均『これがニーチェだ』（講談社、1998）
＜要旨＞（1,420字）
ニーチェの思想は、世の中の向上のためにならないどころか、人間社会の構成原理と両立しがたい部分を含んでいる。しかし、それこそがニーチェを稀に見る偉大な哲学者にしている。また、ニーチェは思想家ではないが、思想家としてみれば世界解釈の覇権を完全に奪われた敗北者である。しかしその敗北の完璧さによって逆に、ニーチェは今日の時代の本質を射抜いている。だからこそ、現代においてニーチェの思想を後ろ盾にしてものを言う人間、ニーチェの思想を心から愛する人間には警戒心が必要なのである。
神の死ということには三種類の意味がある。まず、無からキリスト教の「神」が誕生したことによる＜神＞（神性一般）の死、そして同時に育っていた誠実な真実を追い求める心が暴いた「神」の死、更に徹底的に「神」が死ぬことによる＜神＞の復活である。ではそもそも、なぜ無から「神」が誕生したのか。それは、僧侶による価値転倒のパースペクティヴのためである。さ迷える魂は、その内部で意味のない苦悩に意味を見出すことが可能となり、魂の奴隷となった。そして、キリスト教に由来する真..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[葬送儀礼について贈与交換の観点から]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430680101@hc06/7675/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s0410013]]></author>
			<category><![CDATA[s0410013の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 20 Mar 2006 21:52:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430680101@hc06/7675/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430680101@hc06/7675/" target="_blank"><img src="/docs/983430680101@hc06/7675/thmb.jpg?s=s&r=1142859161&t=n" border="0"></a><br /><br />　日本的な葬送儀礼、つまり仏式の葬式における一連の流れの中で、贈与交換という視点からそれぞれの儀式を捉えてみる。地域の習慣や葬儀の規模、また宗教によって当然差があると思うが、一般的なものと考えられるものに対象を絞る。
家に死者が出ると遺族[356]<br />日本的な葬送儀礼、つまり仏式の葬式における一連の流れの中で、贈与交換という視点からそれぞれの儀式を捉えてみる。地域の習慣や葬儀の規模、また宗教によって当然差があると思うが、一般的なものと考えられるものに対象を絞る。
家に死者が出ると遺族はその日の夜、または数日のうちに通夜を執り行う。死者の枕元には枕飾りが施される。その仏具や供え物の中に「枕飯」がある。「一膳飯」と呼ばれ、盛り切りの飯のことで、山盛りのご飯の上に箸を一膳、まっすぐに立てる。ご飯は枕飯の分だけ炊いて全部を盛る。この枕飯には何の意味があるのだろうか。死者が成仏し守られるようにとのことだが、果たしてそれだけだろうか。このご飯を食べるのは当然死者である。死者に食べさせる、つまり死者に贈るご飯の中に込めるものは何であろうか。死者はこの世からあの世に行く際にこのご飯を食べるのであろう。ところが枕飯の分だけ炊くということは、遺族は食べないということである。なぜ食べないのか。ここでインドの儀礼における米の立場について考えてみる。インドにおいて米は炊かれると、その際に不浄なものが水を介して入るとされる。これと同様に考えるのであれば、遺族が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[インド宗教史の流れの中に見る、宗教と社会の関係についての一考察：世界三大宗教間の比較とともに［早稲田・法学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7612/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 16 Mar 2006 13:12:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7612/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7612/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7612/thmb.jpg?s=s&r=1142482328&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに　―インド宗教史を取り上げた理由―　宗教と社会の関係を考えた時、私の中に真っ先に浮かんだのが「インド」というキーワードであった。インドほど「多様」という言葉の似合う国はない。言語的にも、民族的にも、そしてそれはもちろん宗教的[356]<br />〈課題〉
　「一つの宗教を他の宗教と比較しながら、その社会との関係を含めて論じなさい。」
インド宗教史の流れの中に見る、宗教と社会の関係についての一考察
―世界三大宗教間の比較とともに―
１．はじめに　―インド宗教史を取り上げた理由―
　宗教と社会の関係を考えた時、私の中に真っ先に浮かんだのが「インド」というキーワードであった。インドほど「多様」という言葉の似合う国はない。言語的にも、民族的にも、そしてそれはもちろん宗教的にも言えることである。
　インドは言うまでもなく世界三大宗教の一つ、仏教発祥の地である。しかし、その仏教さえも社会の変遷の中に消えていったという不思議な歴史を持つ国である。ムガル帝国の時代には、イスラム化さえした。そして現在、インドは人口の８０％を占めると言われるヒンドゥー教の国である。
　こうして考えると、インドの歴史は、まさに宗教と社会との関わりの歴史とも言えよう。その流れを追っていくと、そこにこそ宗教が社会に与える意味、社会が宗教に与える意味、そして、今後の宗教と社会のあるべき関係も見えてくる気がした。
　そこで本レポートでは、インド社会の大きな転換点であったと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[旧約聖書「アモス書」に関する一考察［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7483/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Mar 2006 01:52:06 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7483/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7483/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7483/thmb.jpg?s=s&r=1142095926&t=n" border="0"></a><br /><br />１．「アモス書」成立の背景　サウルによって始められたイスラエル王国は、ダビデによって完成し、その子ソロモンに受け継がれた。しかし、その子のレハベアムという王が政治的に優柔不断だったため、北のイスラエルと南のユダに分裂してしまった。　アモ[356]<br />旧約聖書「アモス書」に関する一考察
１．「アモス書」成立の背景
　サウルによって始められたイスラエル王国は、ダビデによって完成し、その子ソロモンに受け継がれた。しかし、その子のレハベアムという王が政治的に優柔不断だったため、北のイスラエルと南のユダに分裂してしまった。
　アモスの活躍した時代は、そんなイスラエルのヤラベアム２世（前７８６～７４６）とユダのウジヤ（前７８３～７４２）の世であり、それは南北ともにもっとも盛大な時であった。しかし、このように国が富み、栄え、力強くなるということは、かえって国民の宗教的な無関心を呼び起こし、倫理的な退廃を招きやすかった。
　アモスはテコアという町の牧羊者で、いちじく桑を育てていた（アモス書７：１４）。つまり、彼は一般庶民の中から神の召命によって預言者となったのである。アモスはこうした経緯に、自らの基盤を強く意識していたようである。彼はこう述べている。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」（アモス書７：１４）と。つまり、彼にとって預言者とは、ある社会的な地位や身分を持つものではなかったのだ。
　テコアは、死海の西約１２マイル、海抜マイナス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ナザレのイエス：松永希久夫『歴史の中のイエス像』を読んで［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 08 Mar 2006 06:11:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7355/thmb.jpg?s=s&r=1141765904&t=n" border="0"></a><br /><br />私がこの本を読んで最も印象に残ったのは、「イエスは神との交わりに対して、常に主体的な決断を迫っていた」という部分である。　イエスはさかんに「神の国」ということを口にした。これは国家や政治形態をもった外面的なものではなくて、内面的、精神的な[358]<br />ナザレのイエス　―松永希久夫『歴史の中のイエス像』を読んで―
　私がこの本を読んで最も印象に残ったのは、「イエスは神との交わりに対して、常に主体的な決断を迫っていた」という部分である。
　イエスはさかんに「神の国」ということを口にした。これは国家や政治形態をもった外面的なものではなくて、内面的、精神的な共同体であり、地上において始まり、終末において完成されるものである。この「神の国」を実現することが、人間の救いであるとイエスは考えていた。よって、イエスが行おうとしたのは、個人の霊魂の救済とは別のものである。
　ところで、イエスはこの「神の国」の運動を展開する上で、癒し（奇蹟）とたとえ話を頻繁に用いたが、この２つには大きな共通点があると松永は言う。
　癒しの例として、有名な「長血の女」の話をあげてみよう（マルコ５：２５～３４）。これは単なる癒し物語ではない。病気が癒されるというだけのことなら、この女がイエスを背後から触れば済むことである。しかし、彼女は病気が治った後も、その場に居続けた。このことが大変重要な意味を持つ。
　イエスは「私を必要としたのはだれか。私にさわったのはだれか」と問い..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「人間としてのイエス」を語るということ［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 07 Mar 2006 23:47:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7347/thmb.jpg?s=s&r=1141742846&t=n" border="0"></a><br /><br />「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」＝「イエス・キリスト」と[360]<br />「人間としてのイエス」を語るということ
　「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」＝「イエス・キリスト」という意味で使われることも少なくないからだ。
　しかし、少なくとも、今回このレポートを書くにあたって、私が参照した「人間としてのイエス」を主題にすえた本は、いずれも「ナザレのイエス」という項目を必ず備えていた。これは、今までの他のキリスト教の本には見られなかったことである。
　そこで、本レポートにおいては、単に「イエス・キリスト」についてではなく、「人間としてのイエス」を語るということはどういうことか、について考察してみたい。というのは、「人間としてのイエス」について書かれた本を読み進めるうちに、私は次第にある違和感を抱かざるを得なくなっていったからである。
　イエスを歴史的にとらえようとする学問的・批判的研究は、１８世紀後半のドイツで開始された。そして、西暦２０００年を目前にした昨今（とは言え、イエスの生誕は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[捨身の概念]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/7337/]]></link>
			<author><![CDATA[ by firsts]]></author>
			<category><![CDATA[firstsの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 07 Mar 2006 20:12:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/7337/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/7337/" target="_blank"><img src="/docs/983430926101@hc06/7337/thmb.jpg?s=s&r=1141729931&t=n" border="0"></a><br /><br />捨身の始まりは５世紀初頭頃とされている。法隆寺の&ldquo;玉虫厨子&rdquo;の捨身飼虎図や仏典である『ジャータカ』の一節にその様子がうかがえる。
捨身という行為は意味的に大きく四つに分けられる。本来の原義的な考えでは、捨身は他者のためや仏法供養のため、求[356]<br />捨身の始まりは５世紀初頭頃とされている。法隆寺の&ldquo;玉虫厨子&rdquo;の捨身飼虎図や仏典である『ジャータカ』の一節にその様子がうかがえる。
捨身という行為は意味的に大きく四つに分けられる。本来の原義的な考えでは、捨身は他者のためや仏法供養のため、求法のため、あるいは肉体の束縛からの解放のために自らの身体（の一部あるいは全部）や命をささげるというものだった。その方法は焼身や刺血写経など苛烈なものばかりである。例としては、『ジャータカ』におけるブッダの前世の話がある。そのときブッダは猿のリーダーであった。ある日敵に追い詰められ川にさしかかったとき、女子供が渡れないのを見て自分の体を橋として渡れるようにした、という物語である。
しかし時代が進むにつれて、自らの財産を他者、あるいは寺院に布施するといった、いわゆる「喜捨」と呼ばれるべき行為までもが「捨身」と称されるようになっていった。これは主に在家信者が行ったものである。の代表的なものは梁の武帝が行ったものである。彼はその生涯に少なくとも３～４回の財産喜捨による「捨身」を行っているが、それらはほとんど慣例化・儀式化されていた。まず自分の住んでいる台城から..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[愛すべき「十二使徒」とその役割についての一考察［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 04 Mar 2006 02:20:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7202/thmb.jpg?s=s&r=1141406451&t=n" border="0"></a><br /><br />イエスを語る時、必ずついてくるのが十二使徒たちの物語である。果たして彼らの存在は、どのような意味を持っていたのだろうか。　イエスが生まれてから約２０００年の月日が流れ、近年、奇跡を次々と起こす伝説的なイエスではなく、「ナザレのイエス」「人[358]<br />愛すべき「十二使徒」とその役割についての一考察
　イエスを語る時、必ずついてくるのが十二使徒たちの物語である。果たして彼らの存在は、どのような意味を持っていたのだろうか。
　イエスが生まれてから約２０００年の月日が流れ、近年、奇跡を次々と起こす伝説的なイエスではなく、「ナザレのイエス」「人間イエス」の研究が非常に盛んになってきている。少なからぬ研究者が、約２０００年前のイエスの生活・言動について、様々な仮説――それは時に大胆でさえある――を立て、論じている。
　けれども、私に言わせればそれは、どうも「ヤボなこと」である。「十二使徒の検証を通じて、『人間イエス』を考察する」というこの授業の目的を考えれば、こんなことを言っていてはいけないのかもしれないが、私はやはりイエスには「エラい人」でいて欲しいし、そのままで十分ではないかと思えるのだ。なぜならば、「人間イエス」のその先に見えてくるはずのものは、わざわざそれを暴かなくとも、十二使徒たちが十分にその役割を担ってくれていると考えるからだ。キリスト教は、そして聖書は、あらかじめそこまでお膳立てをしてくれていると私は思う。
　十二使徒はイエスと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[異端「モンタノス主義」に見る、現代「カルト宗教」との奇妙な符合［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7199/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 04 Mar 2006 00:55:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7199/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7199/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7199/thmb.jpg?s=s&r=1141401301&t=n" border="0"></a><br /><br />１世紀の終わりから４世紀に至るまでの間、キリスト教では外部からの迫害と、内部の分裂すなわち「異端」という、２つの大きな問題が生じた。「異端」問題としては、１世紀の終わりから２世紀の初めにかけて出てきた「グノーシス主義」が広く知られるところで[360]<br />異端「モンタノス主義」に見る、現代「カルト宗教」との奇妙な符合
　１世紀の終わりから４世紀に至るまでの間、キリスト教では外部からの迫害と、内部の分裂すなわち「異端」という、２つの大きな問題が生じた。「異端」問題としては、１世紀の終わりから２世紀の初めにかけて出てきた「グノーシス主義」が広く知られるところであり、その他「マルキオン派」なども有名であるが、本レポートでは少々マイナーではあるが「モンタノス主義」に興味を持ったので、これについて考察してみたい。
　２世紀の大部分の教会にあって、キリストがまもなく再びやって来るという初代教会の希望は、やや薄らいできていた。また、聖霊の変わらざる感動という意識こそが使徒的教会の特質であったが、これもまた衰えを見せてきていた。つまり、聖霊の現前の働きの直接性が弱まると共に、聖霊が啓示の作用であるというところに、その意義が存するという強調が増大してきた。
　そうした時代にあって、モンタノス主義は、グノーシス主義とは異なり、キリスト教の内部から起こった運動である。それは当時教会の中に既に働いていた世俗的傾向からの反動であった。この派は、小アジアのフリュギ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[代理母出産は認められるか。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/7179/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Mar 2006 17:25:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/7179/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/7179/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/7179/thmb.jpg?s=s&r=1141287902&t=n" border="0"></a><br /><br />日本では現在人工授精にせよ体外受精にせよ代理母による出産は原則として認められていない。不妊治療のひとつとして、代理母という手段が認められるべきか否か論じたいと思う。
　代理母の問題を語るにあたっては人工授精の代理母と体外受精の代理母の二つに[358]<br />日本では現在人工授精にせよ体外受精にせよ代理母による出産は原則として認められていない。不妊治療のひとつとして、代理母という手段が認められるべきか否か論じたいと思う。
　代理母の問題を語るにあたっては人工授精の代理母と体外受精の代理母の二つに分けて論じなければならない。本稿では人工授精の代理母に限定して手段が認められるべきか否か論じたいと思う。
　まず人工授精とは何かということから説明したい。人工授精とは男女の自然的結合によらずに、人工的に男性の精子を女性の体内に注入し、妊娠させる技術のことである。
　そして人工授精の代理母は、夫は正常な受精能力があるが、何らかの原因で妻が子を産めない体である場..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[司馬遷の一生について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7175/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuueri]]></author>
			<category><![CDATA[yuueriの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Mar 2006 16:16:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7175/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7175/" target="_blank"><img src="/docs/983430739001@hc06/7175/thmb.jpg?s=s&r=1141283800&t=n" border="0"></a><br /><br />今回のレポートは漢代諸子についてという題目だったので、私は『史記』でも有名な前漢代の歴史家である司馬遷について調べてまとめることにした。
司馬遷(前145〜前86)は、中国前漢時代の歴史家である。姓は司馬、名は遷、字は子長。左馮翊夏陽(陜[340]<br />司馬遷の一生について
　今回のレポートは漢代諸子についてという題目だったので、私は『史記』でも有名な前漢代の歴史家である司馬遷について調べてまとめることにした。
　司馬遷(前145～前86)は、中国前漢時代の歴史家である。姓は司馬、名は遷、字は子長。左馮翊夏陽(陜西省韓城県)の人。周代の記録係である司馬氏の子孫であり、太史令の司馬談の子として生まれた。彼は10歳頃から古文を誦し、20歳前後で揚子江から山東方面にわたって史跡を調査する大旅行に出た。また38歳の時に父の後をついで太史令となり、朝廷秘蔵の資料を自由に閲覧できるようになった。しかし、47歳の時、司馬遷に転機が訪れる。司馬遷は、その当時匈奴討伐に失敗して捕虜になってしまった李陵の忠誠と勇戦を称えた。しかし、そのことが武帝の憤怒を買って獄につながれ、翌年の天漢3年(前98年)には宮刑(性器を切り取って生殖能力を絶ち、子孫の繁栄を不可能とする刑罰)に処せられてしまった。その2年後に大赦されて中書令にとりたてられ、前86年60歳にて死去したのではないかと言われている。司馬遷の主な功績としては太初暦の制定などが挙げられるが、なんといって..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 諸子百家孔子]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7140/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuueri]]></author>
			<category><![CDATA[yuueriの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 01 Mar 2006 21:57:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7140/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7140/" target="_blank"><img src="/docs/983430739001@hc06/7140/thmb.jpg?s=s&r=1141217863&t=n" border="0"></a><br /><br />【孔子】(BC. 551〜BC. 479)
　姓は孔、名は丘、字は仲尼。魯の陬邑(山東省曲阜)に生まれました。春秋時代末期頃の思想家で、家族道徳を重んじて説きました。弟子たちとの問答形式で書かれた言語録である『論語』はとても有名です。今と[320]<br />諸子百家～孔子～
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　【孔子】(BC. 551～BC. 479)
姓は孔、名は丘、字は仲尼。魯の陬邑(山東省曲阜)に生まれました。春秋時代末期頃の思想家で、家族道徳を重んじて説きました。弟子たちとの問答形式で書かれた言語録である『論語』はとても有名です。今となっては儒家の始祖と言われ、キリストや釈迦、ソクラテスと並んで世界四聖の一人とされていますが、孔子の思想は決して最初からすんなりと受け入れられたわけではないのです。
(道徳的思想)
孔子が最も大切だと説いたのは人を思いやる心の大切さ、すなわち仁の心です。中でも非常に重要視されたのは、家族間の思いやりです。孔子は「孝」という言葉を用いて、子供の親に対する思いやりの心を説きました。「孝」という字は、子が老人を背負っているという意味だそうで、徳の根本をなすものだと教えられていたようです。孔子の教えの中で「孝」とは絶対的な倫理であり、孔子は一切の社会規範をその下に従属させようとしました。このことに関する興味深い事例として、直弓(漢字が違うのですが&hellip;)説話というものがあります。あるところに正直者の弓..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[インド思想における死生観：その矛盾と「強者の論理」［早稲田・文学部・インド思想史・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7125/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 27 Feb 2006 16:34:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7125/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7125/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7125/thmb.jpg?s=s&r=1141025650&t=n" border="0"></a><br /><br />インドはあまりにも矛盾に満ちている&hellip;&hellip;。「死生観」というテーマを探りつつ、調べれば調べるほど、私はそう感じたのであった。それは言い換えれば「伝統」に裏打ちされた「多様性」と、徹底した「個人主義」の結果でもあるのかもしれないのだが。　当初私[358]<br />インド思想における死生観　―その矛盾と「強者の論理」―
作成時期：１９９９年０９月
授業名：インド思想史
　インドはあまりにも矛盾に満ちている&hellip;&hellip;。「死生観」というテーマを探りつつ、調べれば調べるほど、私はそう感じたのであった。それは言い換えれば「伝統」に裏打ちされた「多様性」と、徹底した「個人主義」の結果でもあるのかもしれないのだが。
　当初私は、『アーユルヴェーダ』にテーマを絞ろうと考えていた。医学というものは「死」に一番近いから、それを調べればなにがしかの「死生観」が浮かび上がるのではないかと期待したからである。しかし、アーユルヴェーダに関する文献を調べても調べても、「死」そのものについて述べられた箇所はついに見つからなかった。
　インドにおいては「輪廻」の思想の一方で、「不死」の理想というものもあり、アーユルヴェーダはその「不死」を探究した結果得られた、長寿や健康に有益な方法の体系化なのである。つまり、アーユルヴェーダは西洋医学のように病気から人間を見るのではなく、健康から人間を見る、あるいは直接健康を扱うことができる医学なのである。だから、「死」について考えるということがしに..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋近代思想の特徴]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430960401@hc06/7032/]]></link>
			<author><![CDATA[ by M]]></author>
			<category><![CDATA[Mの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 20 Feb 2006 20:01:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430960401@hc06/7032/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430960401@hc06/7032/" target="_blank"><img src="/docs/983430960401@hc06/7032/thmb.jpg?s=s&r=1140433281&t=n" border="0"></a><br /><br />●中世から近代へ
　ヨーロッパでは、ルネッサンスと宗教改革という、一方で相反し一方で共通点を持つ二つの運動によって近代が準備される。文字通り「再生、復活」を意味するルネサンス。ピコ=デラ=ミランドラの「人間に自由な意思があることこそ、人間[352]<br />西洋近代思想の特徴
●中世から近代へ
ヨーロッパでは、ルネッサンスと宗教改革という、一方で相反し一方で共通点を持つ二つの運動によって近代が準備される。文字通り「再生、復活」を意味するルネサンス。ピコ=デラ=ミランドラの「人間に自由な意思があることこそ、人間の尊厳の根拠である」に代表される、ルネサンス期の人文主義（ヒューマニズム）は、中世における人間は神の前では無力な存在であるとした考え方を捨て、無限の可能性を信じる能動的な人間観を打ち立てた。ルネサンスの特徴は、ありのままの人間を出したこと、人間性の肯定ということだ。ルネサンス期の重要な思想家としては、ピコ=デラ=ミランドラの他に、マキャヴェリ、エラスムスがあげられる。ピコは『人間の尊厳について』の中で人間の自由なる意志をもって神の被造物でありながら他の動物とは違う点であることを指摘し、まさに人間の尊厳がその自由意志にあるとしており、マキャヴェリは『君主論』を著し、政治を宗教や道徳の束縛から分離することを主張した。ルネッサンス期最大の人文主義者といわれるエラスムスはその著書『痴愚神礼讃』などでカトリック教会のあり方を内部から徹底的に批判..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本語と韓国語の共通点と相違点について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7008/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuueri]]></author>
			<category><![CDATA[yuueriの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 19 Feb 2006 01:29:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7008/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7008/" target="_blank"><img src="/docs/983430739001@hc06/7008/thmb.jpg?s=s&r=1140280164&t=n" border="0"></a><br /><br />今回のレポート課題が日本語と他の言語を比較して共通点と相違点をあげ、考察を加えるといったものだったので、私は多少かじったことのある韓国語(朝鮮語と韓国語どちらに統一するのかは定かではないが、今回は韓国語で統一することにする)と日本語を比較す[356]<br />日本語と韓国語の共通点と相違点について
　今回のレポート課題が日本語と他の言語を比較して共通点と相違点をあげ、考察を加えるといったものだったので、私は多少かじったことのある韓国語(朝鮮語と韓国語どちらに統一するのかは定かではないが、今回は韓国語で統一することにする)と日本語を比較することにした。
　まず、日本語と韓国語を比較したときに一番にあがる共通点といえばそれは語順が同じであるということである。これは多少韓国語について勉強した人なら誰でもが思うことであるが、日本人にとって韓国語は勉強しやすい。なぜなら日本語と語順がほとんど同じだからである。例を挙げて説明しよう。
EX)　나는 한국어를 공부합니다. (私は　韓国語を　勉強します。)
上記の文は「私は韓国語を勉強します。」という文を韓国語で書いたものだが、語順が日本語と全く同じなのが窺える。詳細を見てみると、ハングルの１文字目にあたる나は私という単語であり、２文字目の는は日本語の「～は」にあたる助詞である。次のまとまりも同じように、한국어が韓国語で、를が「～を」にあたる助詞である。そして공부が勉強で、합니다が「～します」にあたる。も..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キルケゴール、実存の三段階]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/6977/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bld1064]]></author>
			<category><![CDATA[bld1064の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 16 Feb 2006 19:55:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/6977/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/6977/" target="_blank"><img src="/docs/983431022501@hc06/6977/thmb.jpg?s=s&r=1140087302&t=n" border="0"></a><br /><br />キルケゴールは人間の真実の生き方の過程として実存の三段階を述べている。キルケゴールは『実存の段階には三つある。すなわち美的段階、倫理的段階、宗教的段階である。これらに対応して二つの境界線がある。すなわち、イロニーが美的段階および倫理的段階の[360]<br />キルケゴール、実存の三段階
キルケゴールは人間の真実の生き方の過程として実存の三段階を述べている。キルケゴールは『実存の段階には三つある。すなわち美的段階、倫理的段階、宗教的段階である。これらに対応して二つの境界線がある。すなわち、イロニーが美的段階および倫理的段階の間の、フモール（諧謔）が倫理的段階および宗教的段階のあいだの境界石をなす』＊としている。この実存の三段階は、簡単に以下のようである。まず、「美的実存」の段階においては、「あれもこれも」という刹那的な享楽が人生の目的である。人間は直接的に自分のあるがままにあるというような生き方をしようとし、享楽に身を浸そうとする。しかし健全なる精神..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[安楽死について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432098301@hc05/6967/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuu0822]]></author>
			<category><![CDATA[yuu0822の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 16 Feb 2006 04:49:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432098301@hc05/6967/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432098301@hc05/6967/" target="_blank"><img src="/docs/983432098301@hc05/6967/thmb.jpg?s=s&r=1140032942&t=n" border="0"></a><br /><br />安楽死について
　日本では「安楽死」は法律上認められていないが、オランダでは国家としては初めて「安楽死」を合法化した。年間の死者の3％が「安楽死」で亡くなっている。またアメリカではオレゴン州で1997年に「安楽死」を認めている。安楽死が良[346]<br />安楽死について
　日本では「安楽死」は法律上認められていないが、オランダでは国家としては初めて「安楽死」を合法化した。年間の死者の3％が「安楽死」で亡くなっている。またアメリカではオレゴン州で1997年に「安楽死」を認めている。安楽死が良いか悪いか、国家レベルでの判断が必要となっている。安楽死について良いか悪いかを述べる前に、善悪について述べておくべきであろう。
１　安楽死とは
(1)善と悪
　善と悪とは良い行為と悪い行為の事であるが、それは人により考え方が違うため、善悪の判断には個人により多少の誤差がある。代表的な考え方にベンサムやミルの功利主義とカントの倫理主義(厳格主義)がある。
まず功利主義とは、行為のもたらす結果によりその行為の善悪を判断する考え方である。功利主義は何をなすべきかを問う倫理学の根底に、人間のこの自然の本性を据えるのである。功利主義の立場では、その行為が快をもたらすならばそれは良い行為であり、逆に苦をもたらすならばそれは悪い行為となる。この考え方では自分自身の快さえ増せば良い行為となるのである。
それに対し、行動の動機によって善悪を判断するのが倫理主義(厳格主義..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[形而上学の現代的意義について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430776801@hc06/6817/]]></link>
			<author><![CDATA[ by e09012004]]></author>
			<category><![CDATA[e09012004の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 15 Feb 2006 12:51:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430776801@hc06/6817/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430776801@hc06/6817/" target="_blank"><img src="/docs/983430776801@hc06/6817/thmb.jpg?s=s&r=1139975514&t=n" border="0"></a><br /><br />　現代は、否定的なものが輝いている時代といえる。真実は、虚偽を暴露しなければ生成しなくなり、善は悪と闘争しなければ実現されることはない。これは、肯定的なものは、否定的なものなくしては生成しないと言い換えることができる。すなわち、形而上学にお[360]<br />　形而上学の現代的意義について述べる。
　現代は、否定的なものが輝いている時代といえる。真実は、虚偽を暴露しなければ生成しなくなり、善は悪と闘争しなければ実現されることはない。これは、肯定的なものは、否定的なものなくしては生成しないと言い換えることができる。すなわち、形而上学においては、否定的なものから目を背けることなく、それを内側から見ることによってのみ真理を認識することができるということである。このような形而上学は否定性の形而上学と呼ばれ、主としてドイツ観念論の中心であったフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらの思索を土台としていた。この三者それぞれの営為は、自立した思索の世界を形成し、独自の展開を遂げていたため、一方で諸問題の探究を共有し、他方で強い自立性を持っていたといえる。
　ドイツ観念論を理解する上での結節点は、フィヒテの「浄福な生への指教」、ヘーゲルの「精神現象学」、シェリングの「人間的自由の本質」の三つの書を関連づけていくことが必要となる。これらの著作を対照させて見ると、自己意識を単なる内面的で認識論的な反省作用として捉えるだけでなく、作用主体の存在にまで遡って把握していると..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[善と悪]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430756701@hc06/6778/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hoshino234]]></author>
			<category><![CDATA[hoshino234の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Feb 2006 23:14:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430756701@hc06/6778/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430756701@hc06/6778/" target="_blank"><img src="/docs/983430756701@hc06/6778/thmb.jpg?s=s&r=1139926454&t=n" border="0"></a><br /><br />　近年、善悪の判断が曖昧になってきている。その証拠と言うべきか、犯罪は低年齢化し、少年法も改正するか、しないかという議論も活発に行われている。しかし、曖昧になった反面、それを問題視する傾向も強く見られる。その良い例は「DEATH　NOTE」[342]<br />近年、善悪の判断が曖昧になってきている。その証拠と言うべきか、犯罪は低年齢化し、少年法も改正するか、しないかという議論も活発に行われている。しかし、曖昧になった反面、それを問題視する傾向も強く見られる。その良い例は「DEATH　NOTE」という漫画である。この漫画は、「週間少年ジャンプ」で現在連載されているものであり、この善悪の判断を考えさせるのにふさわしい漫画である。ストーリーは以下のようなものである。
「主人公、八神が死神と契約を交わし、「DEATH　NOTE」というそのノートに顔と名前が一致する人間の名前を書けば人を殺すことが出来ると言うノートを手に入れ、世界を平和に導く為に、悪人（主に犯罪者など）を証拠を残さず殺していく。一方、警察側にいる竜崎はそれを良くないことと思い、顔の見えない敵、つまり八神を捕まえようと奮闘する。」
さて、この二人はどちらが正しいことをしているのだろうか。八神は「悪人を殺す」、一方、竜崎は「悪人を助ける」という行動をしている。どちらも正義であり、そして悪である。このような複雑な善悪の判断をさせる漫画を、「週間少年ジャンプ」という少年誌（購買層の５割以上は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[講義内容をもとにした、近代社会における新たな問題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846101@hc05/6759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by museomiitan9]]></author>
			<category><![CDATA[museomiitan9の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Feb 2006 16:14:37 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846101@hc05/6759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846101@hc05/6759/" target="_blank"><img src="/docs/983431846101@hc05/6759/thmb.jpg?s=s&r=1139901277&t=n" border="0"></a><br /><br />１．認識の合理化
　マックス・ウェーバーは、なにゆえヨーロッパにおいて近代合理主義が生まれ、そして近代社会において人間の意識性・合理性はどのように拡大したのか、またそれと同時に何が問題となったのかを明らかにしようとした。ここではまず、認識[356]<br />社会環境思想史Ⅰレポート
「講義内容をもとにした、近代社会における新たな問題」
１．認識の合理化
　マックス・ウェーバーは、なにゆえヨーロッパにおいて近代合理主義が生まれ、そして近代社会において人間の意識性・合理性はどのように拡大したのか、またそれと同時に何が問題となったのかを明らかにしようとした。ここではまず、認識の合理化という点について述べていくことにする。
　まずウェーバーは、近代社会において人間とは、意識的に目的を設定し、合理的な判断によって適切な手段を選択する行為者と規定した。そして、その前提として認識の合理化(主知化)が必要であるとした(ちなみにウェーバーはこれを「世界の脱呪術化」と名づけている)。これは、我々の行為の目的合理性の前提としての認識が合理化されるということである。認識を合理化するということは、我々自身が諸事象に意味・価値を与えるということであり、逆の言い方をすれば、世界のあらゆる事柄に超越的・客観的な意味・価値は存在しないのである。つまり、人は相互に対立しあう諸価値の間で自ら態度決定を行わなければならない。
　続いてウェーバーは、学問と価値の関係について述べて..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[十八の足跡〜生きることの再考〜]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430806201@hc06/6707/]]></link>
			<author><![CDATA[ by moechi]]></author>
			<category><![CDATA[moechiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Feb 2006 20:22:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430806201@hc06/6707/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430806201@hc06/6707/" target="_blank"><img src="/docs/983430806201@hc06/6707/thmb.jpg?s=s&r=1139829759&t=n" border="0"></a><br /><br />始めに〜タイトルの由来〜
　よく「私は人生そんな長く生きていないから人生なんて語れない。」と口にする人がいる。しかし私はどんなに乏しい人生経験であろうと、それを語る価値は十二分にあると思う。ただそれが完全な形ではない、あくまで途中経過であ[356]<br />十八の足跡～生きることの再考～
始めに～タイトルの由来～
よく「私は人生そんな長く生きていないから人生なんて語れない。」と口にする人がいる。しかし私はどんなに乏しい人生経験であろうと、それを語る価値は十二分にあると思う。ただそれが完全な形ではない、あくまで途中経過であるだけなのだ。そして人生の中で私たちは「再考」を繰り返す。私たちはひとつひとつに何かを感じ、多少なりとも自分の考え方を変えていく。そしてこのレポートもまた、途中経過でしかない。十八の、あるいは２００３年７月２８日の私の人生観でしかないのだ。このいっときの「私」をフランクルの思想を元に紐解いていこうと思う。
「生産的」ではなくなった生命
フランクルによれば、強制収容所では、「『生産的』ではなくなった生命はすべて、文字通り『生きる価値がない』とみなされた」（１）と言う。一見それは偏ったあるいはあくまで「昔」の考え方のように思える。しかし、ここで私があえて再考したい理由。それはまだ今の世の中にも少なからずこのような考え方が残っているのではないか、と考えるからだ。
ここで少し尊厳死について考えてみたい。尊厳死とは、近年延命技術の進..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[上座部仏教が残った理由について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6612/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:31:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6612/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6612/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6612/thmb.jpg?s=s&r=1139707900&t=n" border="0"></a><br /><br />大乗仏教の登場は、その名の示すとおりである。全ての人を救う目的に作られている。もともと上座部仏教は修行至上主義であり、修行をした者が菩薩になれるとされている。しかしその修行自体が当時のエリート層の存在であり、つまり一般人に触れられる者ではな[360]<br />■■■■■学第■回出題■レポート 
■学部■■■■■■学科■年 名列■■ 学籍■■■■■■ 
■■ ■ 
上座部仏教が残った理由について 
あまりビデオの内容とは関連がないかも知れないが、私が疑問に思った事は、何故この
ような仏教が依然として残り続けているのかであった。現代人の私たちの感覚では、教え
自体非科学的のようであるし、修行の様子を見ていてもさして意味のある行動のようには
思えない。それは現代の科学の性ではあるが、それにもかかわらず、何故残ったのか。銜
えて、大乗仏教も出来、時代のニーズで言えば、大乗仏教が広まって至極自然の用に感じ
るが、しかし何故スリランカでは上座部仏教が残ったのか..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ユダヤ人について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6611/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:28:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6611/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6611/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6611/thmb.jpg?s=s&r=1139707711&t=n" border="0"></a><br /><br />古代にはエルサレム周辺に定住し、その意味ではユダヤ人という人種、民族と見ることができる。中世に入り、キリスト教が広まる土地で生活することとなる。その最中、ヘブライ語の聖書を用いて、ローマ教会よりゲットーと呼ばれる部屋に住まわされるという迫害[360]<br />-1 -
■■■■■■第■回出題■レポート
■学部■■■■■■学科■年 ■■■
ユダヤ人について
ユダヤ人は現在、最もイスラエルに多いとされるが、その次にはアメリカに多い。イス
ラエルには嘆きの壁と呼ばれる、ローマ帝国によって滅ぼされたユダヤ教の神殿の壁の残
りがある。壁に祈りを捧げること、ユダヤの国を失ったことを嘆くこととされる。壁への
祈りにより、民族的アイデンティティを二千年もの間ユダヤ人は失うことはなかった。
ユダヤ人とは、一般にユダヤ人の母から生まれた人、もしくはユダヤ教に改宗した人と
されるが、ユダヤ人の認識は複雑である。人種とすれば、１９４９年のイスラエルの建国
に際して世界中か..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学入門レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6610/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:25:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6610/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6610/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6610/thmb.jpg?s=s&r=1139707549&t=n" border="0"></a><br /><br />理系学部の学生という性質上、どうしても科学について書かねばならないと思ったので記す。
「科学」の意味は違えとも、結局のところ、理系である私が目指さねばならない「科学」も哲学上の「科学」の中に含まれるであろう。文系でも「科学」を扱うことには[356]<br />哲学入門レポート 
■■■■■■■■■■■■年 
名列番号■■■ 学籍番号■■■■■■■■■■■ 
■■ ■ 
理系学部の学生という性質上、どうしても科学について書かねばならないと思ったので
記す。 
「科学」の意味は違えとも、結局のところ、理系である私が目指さねばならない「科学」
も哲学上の「科学」の中に含まれるであろう。文系でも「科学」を扱うことには変わりは
ないだろうが、理系とあれば扱う「科学」は「自然科学」だ。 
哲学上の「科学」もそうであるが、「自然科学」は常に理論による塗り壁を必要とする、
というよりは「自然科学」自体が理論の集合体で、「自然科学」は「自然科学」によって構
成されていると感じる。積もる所、「自然科学」をいくら掘り返そうとも「自然科学」しか
現れない。つまり、某「自然科学」の理論の原因を探れば、それもまた「自然科学」の理
論にたどり着くだけに過ぎない。そのような学問であるから仕方ないのだが、堂々巡りに
感じることがしばしばある。特に、アインシュタインの相対性理論などを学ぶと、事実の
物理学者の中にも人間である限り極限の究明はできない、などとおっしゃる方もいるく..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[タイ仏教の社会のあり方について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6609/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:22:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6609/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6609/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6609/thmb.jpg?s=s&r=1139707325&t=n" border="0"></a><br /><br />タイには僧侶が暮らしていける制度も十分に整っている。僧侶にならないものにとっての徳を高めるに当たる行為が、喜捨とされる。これは僧侶になることができない女性において僧侶に食を与えるなどがある。しかし、元々『僧侶は人の残したものを食べ、人の捨て[360]<br />■■■■■第■回出題■レポート 
■学部■■■■■■■学科■年 名列■■ 学籍■■■■■ 
■■ ■ 
タイ仏教の社会のあり方について 
タイ仏教のビデオを見る限り、『タイは仏教を中心に回っている』と考えざるを得ないよ
うな内容になっていた。このような偏見で見ていて良いものか正直戸惑ったが、さてはこ
こではその内容を加味しながら、タイ国民における仏教のあり方について探っていく事に
する。 
タイにおける仏教はもちろん上座部仏教である。当然であるが、成仏するには大乗仏教
に比べ修行や行いが必要とされる。それがタイにおける出家であり、喜捨である。タイに
おいては僧侶は敬うべき存在であり、僧侶になる..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教の種類について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6606/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:10:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6606/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6606/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6606/thmb.jpg?s=s&r=1139706658&t=n" border="0"></a><br /><br />一方、東方正教会の教会には鐘がない、というのはイスラム帝国の配下に有った時に、鐘を鳴らすことができなかったためである。その代用として気を取れトレモロ調にリズミカルに叩いて低い音を出すことで済ませている。他、他のキリスト教では人とか身には大い[360]<br />-1 -
■■■■学第■回出題■レポート
■学部■■■■■■■学科■年 ■■■
キリスト教の種類について
まず、キリスト教は三つに別けられる。信者の追い順に、十億四千万のローマカトリッ
ク、三億六千万のプロテスタント、二億二千万の東方正教会である。
東方正教会について、カトリックとプロテスタントでは図像（絵）とよばれるアイコン
をほとんど作らないが、東方正教会ではアイコンが豊富である。東方正教会の教会にはキ
リスト誕生など様々な絵が飾られていて、見るにも華やかである。そこにはギリシアの哲
学者が良く描かれる。東ローマ帝国方面ではキリスト教の神学の際に、ギリシア哲学を利
。 、 。 用したためで..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カースト制度の現状について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6605/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:08:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6605/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6605/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6605/thmb.jpg?s=s&r=1139706501&t=n" border="0"></a><br /><br />まずカースト自体の分け方に変化が見られる。従来の『ヴァルナ』と呼ばれる、バラモン、クシャトリアなどと別けるよりも、その中でさらに職業毎に意識される『ジャーティー』により別けられる。別けられると言うよりも、その分別を本人達が意識している。『ヴ[360]<br />■■■■■第■回出題■レポート 
■学部■■■■■■■学科■年 名列■■ 学籍■■■■■■ 
■■ ■ 
カースト制度の現状について 
授業のビデオで見せつけられたインドのカースト制度の状態は、自分がカースト制度に
ついて見聞し予測していた以上の有様であり、酷く驚いたものだった。私がインドにもつ
イメージと言えば、爆発的人口であり、一面でＩＴ先進国であり、古きカースト制度がい
まだに残り、公衆衛生は未だ整っていない、そんなイメージであった。しかし、このビデ
オが二十年近く前のものだというならば、ＩＴ先進国として発展を続けた現在ならば現状
はこのようではないだろうと考えた。よって今回はカースト制..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カースト制度について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6604/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 10:05:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6604/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6604/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6604/thmb.jpg?s=s&r=1139706340&t=n" border="0"></a><br /><br />仏教やキリスト教など、宗教において身分とは本来撤回されるべきものとして登場する。しかしかのヒンドゥー教においては、五千年にも及ぶ根強い身分制度、カースト制が現在にも存在している。インドにおいては、それを政府として認めている始末である。
カ[356]<br />■■■■■第■回出題■レポート 
カースト制度について 
■学部■■■■■■■学科■年 名列■■ 学籍■■■■■ 
■■ ■ 
仏教やキリスト教など、宗教において身分とは本来撤回されるべきものとして登場する。
しかしかのヒンドゥー教においては、五千年にも及ぶ根強い身分制度、カースト制が現在
にも存在している。インドにおいては、それを政府として認めている始末である。 
カースト(Caste)と言う言葉自体は、ポルトガル語の血族を表す。それから、ヒンドゥー
教における身分制度のその名の通り、カーストは血縁によって定まる身分制度であり、生
まれると同時に親のカーストを引き継ぎ、一生その身分のままとな..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イスラム教について基礎知識]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6602/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 09:58:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6602/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6602/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6602/thmb.jpg?s=s&r=1139705909&t=n" border="0"></a><br /><br />イスラム教について、私に信仰心がないからかも知れないが、どうしても神に祈りを捧げる姿というものは滑稽に映って仕方がない。ならば、せめてもどのような信条を持って信仰しているのかを、完全に判るとまでは行かずとも、ある程度捉えてみることにした。[358]<br />-1 -
■■■■■第■回出題■レポート
■学部■■■■■■学科■年 ■■ ■■■■■■
■■ ■
イスラム教について基礎知識
イスラム教について、私に信仰心がないからかも知れないが、どうしても神に祈りを捧
げる姿というものは滑稽に映って仕方がない。ならば、せめてもどのような信条を持って
信仰しているのかを、完全に判るとまでは行かずとも、ある程度捉えてみることにした。
イスラムにおいては、存在していること自体が神への賛美となる。なぜなら、それは全
てのものを神が創ったからだ。だから本当は何もする必要がない、存在するだけで神を讃
えたことになるのだから。しかし、人間はそれに含まれない。なぜなら、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ブッダ成立の背景と思想について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6600/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kanansan]]></author>
			<category><![CDATA[kanansanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2006 09:30:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6600/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430842101@hc06/6600/" target="_blank"><img src="/docs/983430842101@hc06/6600/thmb.jpg?s=s&r=1139704245&t=n" border="0"></a><br /><br />　当時のインドは至って思想の自由と発表の自由があった。反ヴェーダ、反バラモンの気運が高まった上に、その思想から逃れようとして、新たな思想が発生しやすく、それが受け入れられやすい時代であった。ブッダの登場、受諾はいわば必然とも言える。思想対立[360]<br />■■■■■第■回出題■レポート 
■学部■■■■■■学科■年 名列■■ 学籍■■■■■ 
■■ ■ 
ブッダ成立の背景と思想について 
ビデオでは仏教の始まり、それよりはブッダの始まりについてやったわけだが、そのビ
デオだけでは疑問点は多い。何よりもまず、何故ブッダの思想が求められたのか、何故ブ
ッダはその思想に至ったのか、それが疑問でならない。この疑問を解くのは仏教思想全体
に関わる事のようで、簡単な事ではないだろうが、そのさわりだけでも求める事ができれ
ばと思う。 
当時のインドは至って思想の自由と発表の自由があった。反ヴェーダ、反バラモンの気
運が高まった上に、その思想から逃れようとして..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[現代社会と倫理]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430788101@hc06/6541/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mijinko]]></author>
			<category><![CDATA[mijinkoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 11 Feb 2006 01:11:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430788101@hc06/6541/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430788101@hc06/6541/" target="_blank"><img src="/docs/983430788101@hc06/6541/thmb.jpg?s=s&r=1139587894&t=n" border="0"></a><br /><br />　倫理とはいったい何なのであろうか。高校のときから倫理を学び、この答えをまだ見つけられていないようにも思われるが大学で学んできたことを通して学んだことを述べていきたいと思う。
　そもそも、倫理の「倫」とは、元来、「なかま」を意味する言葉で[356]<br />　倫理とはいったい何なのであろうか。高校のときから倫理を学び、この答えをまだ見つけられていないようにも思われるが大学で学んできたことを通して学んだことを述べていきたいと思う。
　そもそも、倫理の「倫」とは、元来、「なかま」を意味する言葉である。「なかま」と「仲間」とは異なった意味を持ち、「なかま」は人々の間の関係を意味し、その関係によって規定された人々のことを指す。一方、「仲間」とは、人々の中、間の意味を持つ。この意味の違いを知り、漢字に含まれる意味と日本語の難しさを肌で感じることが出来たように思われる。また、人倫五常というものがあるが、その五常というのは、父子有親、君親有義、夫婦有別、長幼有序、そして朋友有信であり、これが、人間共同体の中にある不変の五つの人としてのあり方なのである。人間共同体を構成する領域は、家族、君臣、そして朋友の三つの領域であるが、これらは私たちの生活を占める「仲間」の大部分であり、これらが支柱となり人間共同体は構成されている。これらは古代中国社会の社会構造を反映したものであるが、これらは今も変わらない社会構造であると私は考えている。そして、この人倫五常はこれか..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[デカルトの「われ思う、故にわれ在り」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6485/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tyakotyan]]></author>
			<category><![CDATA[tyakotyanの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2006 22:57:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6485/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6485/" target="_blank"><img src="/docs/983432113101@hc05/6485/thmb.jpg?s=s&r=1139493474&t=n" border="0"></a><br /><br />　「コギト・エルゴ・スム」ラテン語で、「われ思う、故にわれ在り」（私は考える。だから、私は存在する）。これはフランスの哲学者・数学者であり、「近代哲学の父」といわれるルネ・デカルトの有名な言葉である。方法的懐疑の末に、デカルトは哲学のこの基[360]<br />デカルトの「われ思う、故にわれ在り」の「われ」はどのようなものなのか、さらに、この言明の意味・意義について述べよ。
「コギト・エルゴ・スム」ラテン語で、「われ思う、故にわれ在り」（私は考える。だから、私は存在する）。これはフランスの哲学者・数学者であり、「近代哲学の父」といわれるルネ・デカルトの有名な言葉である。方法的懐疑の末に、デカルトは哲学のこの基本原理に到達した。
　デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。このやりかたを「方法的懐疑」という。
　まず始めに疑ってみたのは書物の知識や人から聞いた知識などの、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。遠くから見ると丸かったものが近くで見ると四角いものであったりすることがよくあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのである。よって感覚的知識は疑わしいといえる。
　更にデカルトは自分の外部に対する感覚的知識を疑うだけでなく、自分自身の身体感覚で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[プラトンの思想における二世界性について述べよ。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6484/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tyakotyan]]></author>
			<category><![CDATA[tyakotyanの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2006 22:52:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6484/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113101@hc05/6484/" target="_blank"><img src="/docs/983432113101@hc05/6484/thmb.jpg?s=s&r=1139493175&t=n" border="0"></a><br /><br />　プラトンは、ソクラテスを通じて、知と徳の一致、真理愛などを説いたが、かれの根本思想の一つは、自然と人間社会を統一的に説明するイデア論である。プラトンはイデア論をポリスのあり方にも適用し、「哲人国家論」を展開した。人間のなかでとくに善のイデ[360]<br />プラトンの思想における二世界性について述べよ。
プラトンは、ソクラテスを通じて、知と徳の一致、真理愛などを説いたが、かれの根本思想の一つは、自然と人間社会を統一的に説明するイデア論である。プラトンはイデア論をポリスのあり方にも適用し、「哲人国家論」を展開した。人間のなかでとくに善のイデアを知り、正義にもとづいてポリスを統合できるのは、ソフィアの徳にすぐれた哲人だけであるとした。尊敬する師ソクラテスを死刑に追いやったのは、貴族（アリストス）に対する平民（デモス）の支配を意味した民主制（デモクラツィア）が、普通の市民を支配者にして、ポリスの正義を破壊したためだというのである。
このことに落胆していたプラトンは、著書『国家』のなかで、理想国家の姿を描いた。それによれば、国家や人類一般の悪を根絶するためには、哲学者が君主になるか、あるいは現在の支配者が本当の意味の哲学をなして、政治と哲学とを結合させなければならない。
その国家の最大の使命は、善のイデアを実現することにあり、個人はその国家目的にまったく適応しなければならないと説いているのである。
例えば、我々が見たり書いたりできる三角形は、実は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【早稲田大学】弁証法神学の展開と帰結]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6410/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 【現役私立中教師】daisuke]]></author>
			<category><![CDATA[【現役私立中教師】daisukeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 08 Feb 2006 19:30:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6410/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6410/" target="_blank"><img src="/docs/983431933401@hc05/6410/thmb.jpg?s=s&r=1139394628&t=n" border="0"></a><br /><br />弁証法神学は宗教史学派などの聖書に対する歴史的・批判的方法での解釈を批判するもので、K.バルト(1886‐1968)を中心に第一次世界大戦後に興隆した。しかしながら宗教史学派のハルナックの学問業績に見られる、キリスト教の聖書研究・釈義にいて[336]<br />　弁証法神学は宗教史学派などの聖書に対する歴史的・批判的方法での解釈を批判するもので、K.バルト(1886‐1968)を中心に第一次世界大戦後に興隆した。しかしながら宗教史学派のハルナックの学問業績に見られる、キリスト教の聖書研究・釈義にいては歴史的・批判的研究の(相対的)妥当性は承認されている。ただし聖書を歴史的に調べるだけで理解することは、バルトらによって、批判されたわけである。
　ではその弁証法神学がどのように生まれ展開していったのか、バルトを中心に見ていく。1870年以来、つまりドイツ帝国成立のあと、無気力と楽天主義がキリスト教を支配していた。すなわち近代のキリスト教は神の超越性を人間に引き寄せて解釈していた。1918年11月、第一次世界大戦が終わると、ヘーゲル的な宗教理解を批判したキルケゴールの考えが脚光を浴び、キルケゴールルネサンスが起こった。これをきっかけに弁証法神学がでてくる。問題はその解釈のちがいによりバルト派、ブルトマン派に分かれたことであった。95人の戦争に荷担した神学者たちの存在を目の当たりにし、当時のキリスト教に疑問を感じたバルトは1919年『ローマ書講解』を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中国思想論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6298/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sugiyama]]></author>
			<category><![CDATA[sugiyamaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 05 Feb 2006 17:39:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6298/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6298/" target="_blank"><img src="/docs/983432196501@hc05/6298/thmb.jpg?s=s&r=1139128789&t=n" border="0"></a><br /><br />　私はまずこの授業の後半の内容から古代の中国思想における「時間」の捉え方についてとりあげる。
　現代では、一回性で不可逆な流れと考えられている時間も未開人の原始的心性のもとでは可逆的、循環的、恒常的なものとして捉えられていた。この古代人の[356]<br />　　　　　　　　　　　　｢中国思想論　期末レポート｣
　私はまずこの授業の後半の内容から古代の中国思想における「時間」の捉え方についてとりあげる。
　現代では、一回性で不可逆な流れと考えられている時間も未開人の原始的心性のもとでは可逆的、循環的、恒常的なものとして捉えられていた。この古代人の考えは農耕・狩猟によって生活を行っていて、一日・一年をサイクルとして同じ生活が繰り返されていたことによるものであろう。季節の祭礼を通して太古の神話的時間が現在によみがえり、それが永遠に繰り返されるのである。
　古代中国においては、「終古」という語の含意から考察されるように、時間は可逆的、循環的なものであった。「終」とは円環的に運動する時間の流れを包括的に示すものであり、「古」とは悠久のときの流れを意味し、繰り返されるものである。また古代中国思想において重要な意味をもつ「道」は、道家によれば世界の根拠・起源であるが、「道」は無形であり、言葉で言い表すことはできず、また言葉で言い表すことができるようなものは「道」とはいえない。そして現在の人々で無為に生きることができている人は少なく、昔の人のように暮らす..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『ロボットの心　7つの哲学物語』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110201@hc06/6252/]]></link>
			<author><![CDATA[ by もっち]]></author>
			<category><![CDATA[もっちの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 04 Feb 2006 23:25:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110201@hc06/6252/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110201@hc06/6252/" target="_blank"><img src="/docs/983431110201@hc06/6252/thmb.jpg?s=s&r=1139063121&t=n" border="0"></a><br /><br />ロボットが人間と同じように「心をもつ」ということはありえるのだろうか。この問題はロボット工学だけにとどまらず、心理学・哲学・認知科学など多岐の分野にわたって論争が繰り広げられている。金沢大学で現代哲学を専攻する柴田正良助教授は、著書『ロボッ[360]<br />現代の科学技術、特にロボット工学の発展は目まぐるしく、ペットロボやヒューマノイドロボットなどが次々と新世代化してきている。センサーによって人の顔を見分けたり、人の声に反応したり、どんどん生身のペットや人間に近づいていっているようだ。このようにしてロボットがペットに、そして人間にも取って代わる時代になっていくのかもしれない。
しかし、いくらロボットが人間に近づいてきているからといって、ロボットが人間と同じように「心をもつ」ということはありえるのだろうか。この問題はロボット工学だけにとどまらず、心理学・哲学・認知科学など多岐の分野にわたって論争が繰り広げられている。金沢大学で現代哲学を専攻する柴田正良助教授は、著書『ロボットの心　7つの哲学物語』の中でこの論点についてさまざまな観点から考察している。
本書のプロローグは、「サラの話」から始まっている。ある星で転送機に入ったサラは分子単位に分解され、読み取られた「設計図」によって遠く離れた地球でまた再構築されるというストーリーだ。サラの記憶も、地球に残してきた娘ネフィーに対する愛情もそのままである。この場合、二人のサラは同一であるといえるだろ..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[十八歳・等身大のフィロソフィーを読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431277601@hc06/6210/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hikaritti]]></author>
			<category><![CDATA[hikarittiの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 03 Feb 2006 07:40:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431277601@hc06/6210/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431277601@hc06/6210/" target="_blank"><img src="/docs/983431277601@hc06/6210/thmb.jpg?s=s&r=1138920036&t=n" border="0"></a><br /><br />　この本は予備校生が書いた小論文をまとめたものだそうだが、私は最初、あまり読んでみたいと思わなかった。小論文という短い文章の中で、十八歳の若者がどんなことを考え、どんなことを伝えようとしているのかに興味が無いこともなかったが、私は高校生の頃[360]<br />「十八歳・等身大のフィロソフィーを読んで」
この本は予備校生が書いた小論文をまとめたものだそうだが、私は最初、あまり読んでみたいと思わなかった。小論文という短い文章の中で、十八歳の若者がどんなことを考え、どんなことを伝えようとしているのかに興味が無いこともなかったが、私は高校生の頃から小論文というものがどうも苦手だった。「論文」と聞くと、堅苦しい印象を受けてしまい、読む気にも書く気にもならなかったのだ。学校で強制的に書かされた作文や小論文などは、その場しのぎで嫌々書いていたため、十八歳の頃の自分がどんなことを考えていたのか知ろうとしても、十八歳のありのままの気持ちが残された文章が存在しないのである。
「十八歳」という年齢はもう戻っては来ない。十八歳とは大人とも子供とも言い難い微妙な年頃である。今考えると、いろいろな悩みや考えを抱く多感な時期に、ありのままの想いを文章として残しておかなかったことはとても勿体無いように思える。そこで、自分にもあったはずの「十八歳の頃の気持ち」を思い出したいと思い、この本を読み始めた。
読んだ。読み終わってまず感じたことは、どの文章にも十八歳の若者たちの想い..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フレーゲの果たした役割　意味の観念説とは]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430912201@hc06/6170/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yoshiki1916]]></author>
			<category><![CDATA[yoshiki1916の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Feb 2006 15:56:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430912201@hc06/6170/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430912201@hc06/6170/" target="_blank"><img src="/docs/983430912201@hc06/6170/thmb.jpg?s=s&r=1138863364&t=n" border="0"></a><br /><br />言語論的な転回以前の言語観が何であるかを「意味の観念説」を中心に説明する。
はじめに、言語論的な転回以前の言語観において、観念とは、非常に重要なものであった。例えばロックは『人間知性論』の中で言語表現を理解することは、心の中に観念やイメー[356]<br />哲学と倫理
言語論的な転回以前の言語観が何であるかを「意味の観念説」を中心に説明する。
はじめに、言語論的な転回以前の言語観において、観念とは、非常に重要なものであった。例えばロックは『人間知性論』の中で言語表現を理解することは、心の中に観念やイメージを想い起こすことであるという立場を著している。ロックの「観念」は、言語使用者個人の心の中に存在する。フレーゲ以前はこのように、観念は一人の人間の意識の中にある私秘的なものであるとされ言葉や言葉の意味を語っていた。これが「意味の観念説」である。しかしこの観念の性質ゆえ、ある問題が生じる。例えばここで月を望遠鏡で見る例を挙げると、レンズの像は観測者が代わる代わる交代で見ることで共有できる。しかし網膜の像は一人の人間の経験であり、イメージである。これは誰とも共有できず私秘的である。観念とはそのようなものである。それが言葉や言葉の意味（この例では月を指す）を語っているとしたら、この例の観測者たちそれぞれの観念が同一の言葉であること（この例で同一の月を見ていること）は保証されない。
フレーゲは1892年の「意義と指示」という論文の中で、すべての言語..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ ヘシオドスとその著書について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/5846/]]></link>
			<author><![CDATA[ by firsts]]></author>
			<category><![CDATA[firstsの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Jan 2006 11:52:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/5846/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/5846/" target="_blank"><img src="/docs/983430926101@hc06/5846/thmb.jpg?s=s&r=1138416779&t=n" border="0"></a><br /><br />　ヘシオドスは古代ギリシアの叙事詩人である。生没年ともに不明であるが、紀元前700年ごろに活動したと推定されている。父は小アジアのキュメで商業を営んでいたが、成功せず，ボイオティアに帰ってアスクラで土地の所有者となった。父の死後はその遺産を[354]<br />ヘシオドスは古代ギリシアの叙事詩人である。生没年ともに不明であるが、紀元前700年ごろに活動したと推定されている。父は小アジアのキュメで商業を営んでいたが、成功せず，ボイオティアに帰ってアスクラで土地の所有者となった。父の死後はその遺産をめぐって、弟（兄？）ペルセスと争った。彼の著作として有名な『仕事と日』は、遺産を奪ったペルセスに対する忠告と、労働に向かうよう勧めるのが本来の目的であったようである。この叙事詩によれば、すでにこの頃から彼は詩人としての名声を得ていたようであり、詩の競作で優勝もしていたらしい。
彼の作品としては、この世界の創造と混沌（カオス）から始まる神々の系譜、さらにその神々..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 説明責任が専門家や技術者の重大な倫理責任なのはなぜか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5712/]]></link>
			<author><![CDATA[ by asuka0708]]></author>
			<category><![CDATA[asuka0708の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 25 Jan 2006 18:23:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5712/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5712/" target="_blank"><img src="/docs/983430995501@hc06/5712/thmb.jpg?s=s&r=1138180989&t=n" border="0"></a><br /><br />　もし専門家や技術者に説明責任がなかったら、専門家・技術者と利用者の間に大きな情報格差が出てしまう。情報格差が問題となった例では、「チャレンジャー号事件」が挙げられ、このシャトルの開発技術者と、その乗組員のシャトルの情報や知識は大いに格差が[360]<br />「説明責任」が、専門家や技術者の重大な倫理的責任であるとされるのはなぜか？
もし専門家や技術者に説明責任がなかったら、専門家・技術者と利用者の間に大きな情報格差が出てしまう。情報格差が問題となった例では、「チャレンジャー号事件」が挙げられ、このシャトルの開発技術者と、その乗組員のシャトルの情報や知識は大いに格差があり、シャトルに危険性があるという情報が伝わっていなかったということがある。もしその情報格差があまりなく、乗組員もそのスペースシャトル打ち上げが危険であるという情報が伝わり理解していたなら、乗らなかっただろうし、この事件は防げたはずである。この事件は、技術者と乗組員の情報格差によって起..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[富める者と貧しい者]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431011401@hc06/5699/]]></link>
			<author><![CDATA[ by momobuta]]></author>
			<category><![CDATA[momobutaの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 25 Jan 2006 01:05:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431011401@hc06/5699/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431011401@hc06/5699/" target="_blank"><img src="/docs/983431011401@hc06/5699/thmb.jpg?s=s&r=1138118711&t=n" border="0"></a><br /><br />　現代の世界では何百人もの人々が常に飢えており、そうでないものも、よりよい食生活によって防ぐことができる欠乏性疾患や伝染病にかかっている。
　そして貧しさというのは食糧不足だけに尽きるわけではない。ロバート・マクナマラは世界銀行総裁のとき[356]<br />　富める者と貧しい者
現代の世界では何百人もの人々が常に飢えており、そうでないものも、よりよい食生活によって防ぐことができる欠乏性疾患や伝染病にかかっている。
　そして貧しさというのは食糧不足だけに尽きるわけではない。ロバート・マクナマラは世界銀行総裁のときに、状況をより全体的に示すために、「絶対的貧困」という言葉を提案したが、先進工業国において我々がよく知る貧困は、相対的貧困である。それは周りに比べて貧しいというもので、他方絶対的貧困というのは、いかなる基準によっても貧しいということである。
　絶対的貧困とは、生存の限界ぎりぎりでの生活である。マクナマラはそれを、人間の品位のいかなる理にかなった定義にも満たないほどに、栄養不良、文盲、疾病、不潔な環境、高い幼児死亡率、短い平均寿命によって特徴付けられた生活条件とまとめている。
　栄養不良で死んでいく人は昨日もいて、また明日にはもっとたくさんいるかもしれない。しかし、このような大惨事は地震や洪水といった災害に比べて、報道されることは少ない。しかし、だからといって問題意識をもたないことは間違いである。
　世界はその住人を養うだけの食料や住..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[倫理学　日本の倫理思想に対する仏教影響について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5688/]]></link>
			<author><![CDATA[ by asuka0708]]></author>
			<category><![CDATA[asuka0708の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 24 Jan 2006 19:18:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5688/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5688/" target="_blank"><img src="/docs/983430995501@hc06/5688/thmb.jpg?s=s&r=1138097891&t=n" border="0"></a><br /><br />　日本における倫理思想は、日本人の民俗、習俗に加えて外来の思想（儒教、仏教、西洋思想）の需要と展開を軸にしながら展開されてきた。
　日本の古代国家は4世紀から5世紀にかけては、大和朝廷に見られる宗教的一体で「律令」による国家体制へと変化し[352]<br />倫理学
「日本の倫理思想に対する仏教の影響について述べよ」
　日本における倫理思想は、日本人の民俗、習俗に加えて外来の思想（儒教、仏教、西洋思想）の需要と展開を軸にしながら展開されてきた。
　日本の古代国家は4世紀から5世紀にかけては、大和朝廷に見られる宗教的一体で「律令」による国家体制へと変化していった。そのあと、朝鮮半島との国交とうしてもたらされた「論語」と仏教の伝来という歴史的事実から、この儒・仏教思想が具体化されてきた。
　まず聖徳太子は人を君・臣・民の態度などや人の和の心をもっとも重視した「論語」の強調する道徳規律の遵守精神である。
　聖徳太子のあと、律令国家へと移行し中世になって正法・像法・末法という仏教的歴史の「末法」説くに置ける危機意識を契機として仏教の日本に定着していった。
　末法思想とは普通、仏滅1500年から2000年のあとにおける。
仏法は末世末法であるという危機感である。末法は時代が汚れ天災地変や戦乱など社会悪もろもろの邪悪な思想や見解がはびこる様々な精神的悪徳があふれる。
　人々の性根が低下する、人間の寿命が次第に短くなるという「五蜀」の世であると説く。その..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[運命論について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5686/]]></link>
			<author><![CDATA[ by asuka0708]]></author>
			<category><![CDATA[asuka0708の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 24 Jan 2006 17:56:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5686/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430995501@hc06/5686/" target="_blank"><img src="/docs/983430995501@hc06/5686/thmb.jpg?s=s&r=1138093000&t=n" border="0"></a><br /><br />　この世のすべての出来事には原因がある。だからといって「われわれのなすことはすべて原因がある」ということと「われわれのすることはすべて決定されている」とが同じことになるだろうか。これら二つが同じだというのが運命論である。「されている」という[360]<br />　この世のすべての出来事には原因がある。だからといって「われわれのなすことはすべて原因がある」ということと「われわれのすることはすべて決定されている」とが同じことになるだろうか。これら二つが同じだというのが運命論である。「されている」という表現は、われわれの意思に反して起こっているので、その結果起こってくることには無関係だ、という意味を含んでいる。そして、そのようにわれわれに起こってくる出来事を変える力は、われわれ人間にはない。人間の意志はこの世では無力であり、出来事の成り行きに差異を生じさせることができない。われわれの行動にかかわりなく、起こることは起きるしそれは運命であるというのである。つまり、われわれが未来のついて何をしようとしてもまったく関係ないということになる。科学は少なからずこうした運命論に人々をいざなうようにも思える。
　「科学は、すべての出来事には原因がある」ということについてますます多くのことをわれわれに明瞭に示すことができるようになってきている。この科学の教えることは、自然の出来事についてだけではなく、人間の行動も含んでいる。また未来の出来事も、ますます多く予測可能..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間の性について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/5651/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pugpug27]]></author>
			<category><![CDATA[pugpug27の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Jan 2006 04:41:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/5651/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/5651/" target="_blank"><img src="/docs/983431710501@hc05/5651/thmb.jpg?s=s&r=1137958895&t=n" border="0"></a><br /><br />孟子の時代に人間の本性についての問いが争点となった。孟子説の「人間は生まれもって善である」という性善説。もし赤子が井戸に落ちそうなところを見かけた時、誰でもはっと驚き助けようとするのは人には誰にでも惻隠の心があるからだという。
　荀子説の[356]<br />人間の性について
孟子の時代に人間の本性についての問いが争点となった。孟子説の「人間は生まれもって善である」という性善説。もし赤子が井戸に落ちそうなところを見かけた時、誰でもはっと驚き助けようとするのは人には誰にでも惻隠の心があるからだという。
　荀子説の「人間はもともと悪である」という性悪説。これは人の性はもともと利益を好むはたらきがあり、それに従うので争い、奪い合いが生じ、譲り合いがなくなる。そして生まれながらにして、ねたみ、憎しみのはたらきがあるから、傷つけ合いが生じ、誠実さがなくなる。生まれながらにして耳や目などの欲望があって、快い音声や美しい色を好むので、ふしだらな乱れが生じ、礼儀と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カント純粋理性批判における先天的総合判断と先験的演繹について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5640/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bld1064]]></author>
			<category><![CDATA[bld1064の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 22 Jan 2006 16:47:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5640/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5640/" target="_blank"><img src="/docs/983431022501@hc06/5640/thmb.jpg?s=s&r=1137916044&t=n" border="0"></a><br /><br />　先天的総合判断。すべての認識は経験からはじまるという点では経験論を支持する。しかし、経験からは普遍的概念をもつものを捉えきることはできない、だとしたら、これらの対象の実在を保証するものは何か、なぜ我々が知覚できないものが実在するといえるの[360]<br />カント純粋理性批判における先天的総合判断と先験的演繹について
先天的総合判断。すべての認識は経験からはじまるという点では経験論を支持する。しかし、経験からは普遍的概念をもつものを捉えきることはできない、だとしたら、これらの対象の実在を保証するものは何か、なぜ我々が知覚できないものが実在するといえるのか。ここでカントは「先天的総合判断」というものを考える。ここでは『理性』という観点からこの「先天的総合判断」について考えたいと思う。
まず、カントにおいて『理性』とは何を意味しているのか。カントはこの言葉をその都度特定の様式で使用しているため、「これ」という答えは無いだろう。しかも、理性という言葉は悟性という言葉としばしば同一視されているようにも思われる。カントは純粋理性批判のなかで「しかし、私はここで理性ということで上位の認識能力全体を理解し、このようにして合理的なるものを経験的なものに対置する。」と述べている。一般的には次のようなことが言える。理性や悟性という言葉が表しているのは、思惟する能力であり、概念によって何者かを表象する能力である。理性や悟性は概念の能力であるといえる。では、純粋..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カント哲学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5639/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bld1064]]></author>
			<category><![CDATA[bld1064の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 22 Jan 2006 16:43:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5639/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5639/" target="_blank"><img src="/docs/983431022501@hc06/5639/thmb.jpg?s=s&r=1137915784&t=n" border="0"></a><br /><br />　カント　Immanuel Kant　1724〜1804　ドイツ啓蒙期の哲学者。カントは、もっとも影響力の大きかった近代思想家のひとりである。彼は人間の認識能力をみきわめることを追求した。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義[314]<br />　　　　　　　　　　
カント哲学
カント　Immanuel Kant　1724～1804　ドイツ啓蒙期の哲学者。カントは、もっとも影響力の大きかった近代思想家のひとりである。彼は人間の認識能力をみきわめることを追求した。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。とりわけ、その批判哲学の根幹をなす「純粋理性批判」では、理論的認識の範囲を経験世界(現象界)に限定したうえで、その認識の対象は認識作用を通じて主観によって構成され可能となるのだとした。
「理性について」
まず、カントにおいて『理性』とは何を意味しているのか。カントはこの言葉をその都度特定の様式で使用しているため、「これ」という答えは無いだろう。しかも、理性という言葉は悟性という言葉としばしば同一視されているようにも思われる。カントは純粋理性批判のなかで「しかし、私はここで理性ということで上位の認識能力全体を理解し、このようにして合理的なるものを経験的なものに対置する。」と述べている。一般的には次のよ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ アウグスティヌスにおける悪と自由意志]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5637/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bld1064]]></author>
			<category><![CDATA[bld1064の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 22 Jan 2006 16:21:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5637/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431022501@hc06/5637/" target="_blank"><img src="/docs/983431022501@hc06/5637/thmb.jpg?s=s&r=1137914485&t=n" border="0"></a><br /><br />　まず、「悪」の問題に関する中世哲学者たちの一般的な考えは『悪は善の欠如である』という考え方である。アウグスティヌスも「悪は善の欠如であって、自由意志より生ずる」と述べている。アウグスティヌスの考え方では善というのは神の善性によるものであり[360]<br />アウグスティヌスにおける悪と自由意志
まず、「悪」の問題に関する中世哲学者たちの一般的な考えは『悪は善の欠如である』という考え方である。アウグスティヌスも「悪は善の欠如であって、自由意志より生ずる」と述べている。アウグスティヌスの考え方では善というのは神の善性によるものであり、それは絶対に不変的なものである。そして悪というのはその善性の不変を取り除き、可変的な善に改変しようとする自由な意思であり、その自由な意思こそ人間の第一の善の欠如である、ということである。アウグスティヌスはキリスト教に改宗する前は、マニ教の影響を受けていた。
　また、アウグスティヌスはキリスト教に改宗する前は、マニ教の影響..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間と家庭のかかわり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431096501@hc06/5410/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rud]]></author>
			<category><![CDATA[rudの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 Jan 2006 00:58:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431096501@hc06/5410/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431096501@hc06/5410/" target="_blank"><img src="/docs/983431096501@hc06/5410/thmb.jpg?s=s&r=1137427122&t=n" border="0"></a><br /><br />　この世に生を受けた人間は、多くの場合、家庭の中に迎えられる。
　そして、その中で多大な愛情を受けて育てられ、成長していく。
　家庭の大きな役割は、人間が外の世界（学校・会社など）から帰ってくる際に、緊張や疲労から解放させ、深い安らぎの[352]<br />　　　　　　　人間と家庭のかかわり　　　　　　　　　
この世に生を受けた人間は、多くの場合、家庭の中に迎えられる。
そして、その中で多大な愛情を受けて育てられ、成長していく。
家庭の大きな役割は、人間が外の世界（学校・会社など）から帰ってくる際に、
緊張や疲労から解放させ、深い安らぎの憩いと睡眠の時間を提供し、明日からの生活への原動力を沸かせることである。しかし、それが可能となるには、家庭の中に十分な愛が無ければならないのである。では、「愛のある家庭」とは一体何なのだろうか。
それは、家庭の基盤となる夫婦の関係にかかわることである。
夫婦とは、人生をともに歩む共同者（パートナー）であり、１人では足りないところを２人で補い支えあう補完的な面だけでなく、一人では気づかなかった新しい自己を発見したりする創造的な面を持ち合わせることで、人間的成熟、豊かさが生じてくる。豊かな夫婦関係を築いていくためには、お互いに、深いかかわりを願って、積極的に心を開く誠実さを持ち合わせて無くてはならない。ただし、心を開き、お互いに支えあい、夫婦というひとつの形になるということは、各々のアイデンティティを失うこと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ソクラテスとアリストテレスを比較して]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5296/]]></link>
			<author><![CDATA[ by imomusikaiko]]></author>
			<category><![CDATA[imomusikaikoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Jan 2006 22:48:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5296/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5296/" target="_blank"><img src="/docs/983431331301@hc05/5296/thmb.jpg?s=s&r=1137246492&t=n" border="0"></a><br /><br />１、はじめに
　諸学の礎を築いたアリストテレスと、その師、プラトンの更に師であるソクラテス。両者は「知を愛し求めた」という点においては共通しているが、その方法、内容については、多くの相違点が見られる。そこで「探求方法」、「アリストテレスの[356]<br />　１、はじめに
　諸学の礎を築いたアリストテレスと、その師、プラトンの更に師であるソクラテス。両者は「知を愛し求めた」という点においては共通しているが、その方法、内容については、多くの相違点が見られる。そこで「探求方法」、「アリストテレスのソクラテス批判」という観点を中心に、この二人の哲学を見ていきたい。
　
　２、ソクラテスの探求法
　「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」というデルフォイの神託に納得のいかないソクラテスは、当時の賢人とされる人々に、「よく生きるということはどういうことであるか」と問い、自分よりも賢い誰かを探すことによって、これに反証しようと試みた。しかし、自分を含め、その問についてすべてを知っている者は居ないことに気づき、「自分は知らないということを自覚している点において、他の者より少しは知恵がある」と神託を解釈した。
ソクラテスの生活はこれを契機に変わったのだ、と村井氏は述べる。
彼はこの神託の教えに従って人びとに人間的智恵をすすめること、すなわちいわゆる無智の知に向かって自分の知識を吟味すること、また彼の得意な表現に従えば「魂（プシュケー）」の世話をする」こと、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 宗教の目的]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5085/]]></link>
			<author><![CDATA[ by a102308]]></author>
			<category><![CDATA[a102308の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 13 Jan 2006 14:05:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5085/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5085/" target="_blank"><img src="/docs/983431150501@hc06/5085/thmb.jpg?s=s&r=1137128728&t=n" border="0"></a><br /><br />　９・１１のアメリカ同時多発テロ以来、イスラム世界に関する話題をよく耳にする。犯人はオサマヴィンラディンらアルカイダを中心とするアメリカに反抗心のあるイスラム教徒によるものだとされている。「犯人はイスラム教徒であり原因は宗教と深い関係がある[360]<br />　９・１１のアメリカ同時多発テロ以来、イスラム世界に関する話題をよく耳にする。犯人はオサマヴィンラディンらアルカイダを中心とするアメリカに反抗心のあるイスラム教徒によるものだとされている。「犯人はイスラム教徒であり原因は宗教と深い関係がある。イスラム教徒は危険だ」と考える人も多いと思う。確かにテロと宗教の関係は深いものがある。歴史的にみてもそうである。しかし、テロがイスラム教徒によるものであるからイスラム教やイスラム教徒はすべて危険であるという考え方はできない。なぜならばテロを起こした犯人はイスラム教徒の一部でありイスラム教徒すべてがテロに対して表向きには「神の制裁」などといっているが、本当にそのような戦争行為を望んでいるはずがないからである。
　日本を例に挙げても同じ事がいえる。徳川幕府の封建制度が廃止され明治維新という改革が起こった。明治政府は日本古来より続く神道によって国家を統一しようとした。明治以降、第二次大戦が終わるまでの日本は神道によって支配されてきた。２・２６事件は青年将校が１４００人の部隊を率いて政府の要人を殺害したクーデターである。事件が外国人からみると「神道を信仰す..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 人間の成長]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5084/]]></link>
			<author><![CDATA[ by a102308]]></author>
			<category><![CDATA[a102308の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 13 Jan 2006 14:00:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5084/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431150501@hc06/5084/" target="_blank"><img src="/docs/983431150501@hc06/5084/thmb.jpg?s=s&r=1137128412&t=n" border="0"></a><br /><br />　最近、「ゆとり教育」という言葉をよく耳にする。学習指導要領の変更に伴い、義務教育における学習の量が大幅に削減された。また完全週休二日制も導入され、学校に通う時間も削減された。これらには反対の声も多い。補習授業が行われたり、塾に行き勉強した[360]<br />　最近、「ゆとり教育」という言葉をよく耳にする。学習指導要領の変更に伴い、義務教育における学習の量が大幅に削減された。また完全週休二日制も導入され、学校に通う時間も削減された。これらには反対の声も多い。補習授業が行われたり、塾に行き勉強したりする機会も増えている。こうしないと進学することができないのだ。私立学校との格差が広がってしまうのだ。同じ小学校ないし、中学校を出ていても学習量が大幅に異なってしまう。なにも受験のためだけに勉強するわけではないが、格差の広がりすぎはあまり好ましくないと思う。私は比較文化論の授業を通して教育の意味について考えさせられた。そこで教育について考えて生きたい。
　そ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「メノン」に見る、プラトンにおける「知」のスタンス]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431171601@hc06/4921/]]></link>
			<author><![CDATA[ by brightorder]]></author>
			<category><![CDATA[brightorderの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 03:29:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431171601@hc06/4921/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431171601@hc06/4921/" target="_blank"><img src="/docs/983431171601@hc06/4921/thmb.jpg?s=s&r=1137004161&t=n" border="0"></a><br /><br />「メノン」は、テッタリアの青年メノンと、プラトンの師ソクラテスによる対話の形で綴られる。対話のきっかけは、メノンの「徳とは人に教えられるものか、それとも訓練によって身につけられるものか、それともまた生まれつきの素質であるのか」という問いであ[360]<br />「メノン」に見る、
プラトンに於ける「知」のスタンス
BrightOrder
「メノン」は、テッタリアの青年メノンと、プラトンの師ソクラテスによる対話の形で
綴られる。対話のきっかけは、メノンの「徳とは人に教えられるものか、それとも訓練に
よって身につけられるものか、それともまた生まれつきの素質であるのか」という問いで
ある。それに対しソクラテスは、直接答えを授けることはせずに、メノンと共に考えよう
とする姿勢をとり、ある程度議論が決着するところまで進めていく。
あくまで対話の主題は「徳」についてであるが、その道中には「知」とか「知識」とい
うものについての、プラトンからの主張が見受けられる。
まず、メノンの問いに対しての「自分はそもそも徳というものが何であるかしらない
し、それを知っている人物に出会ったこともない」という答えや、メノンが語る得の定義
が、徳の要素を並べ立てているだけで、それらに共通する「全体的に見て徳とは何か」を
説明できていないと指摘し、メノンとその師ゴルギアスをして、徳というものが何である
か知りえていないということを解き明かす。「無知の知」とはソクラテスに於ける..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[遺伝子治療のヒカリと影]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432322901@hc05/4919/]]></link>
			<author><![CDATA[ by y-_-m]]></author>
			<category><![CDATA[y-_-mの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 01:34:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432322901@hc05/4919/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432322901@hc05/4919/" target="_blank"><img src="/docs/983432322901@hc05/4919/thmb.jpg?s=s&r=1136997298&t=n" border="0"></a><br /><br />　現在遺伝子治療は非常に注目を集めているとともに、倫理的問題に直面している。なかでも私が取り上げようと思うのはＥＳ細胞についてである。ＥＳ細胞とはEmbryonic Stems Cellsの略で、正式には「胚性幹細胞」と呼ばれている。受精後[318]<br />遺伝子の希望と危険性
　現在遺伝子治療は非常に注目を集めているとともに、倫理的問題に直面している。なかでも私が取り上げようと思うのはＥＳ細胞についてである。ＥＳ細胞とはEmbryonic Stems Cellsの略で、正式には「胚性幹細胞」と呼ばれている。受精後間もない胚などから取り出され、血液や脳、骨などあらゆる臓器や器官に分化出来ることから別名「万能細胞」とも呼ばれ、糖尿病やアルツハイマー病、パーキンソン病など、さまざまな疾病の治療に役立つとの期待が大きい。しかし、採取源として体外受精などであまった胚や、中絶された胚をバラバラに分解して使われるため、多くの批判があがっている。
　ヒトES細胞は細胞研究や細胞分化を決定する遺伝子研究にとってこの上ない材料である。現在、ほぼ完了しているヒトゲノム解読後の機能解析作業にこの未分化のヒトES細胞の使用は効率が良く有効である。そればかりか医療分野以外でも化粧品、食品メーカーなどでも実験試料として多くのニーズがある。今日、廃棄された人体組織はさまざまな分野で薬剤の効能や副作用試験などの試験試料や研究材料として大量に用いられている。その多くは中絶..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[老子　道と水]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431231701@hc06/4911/]]></link>
			<author><![CDATA[ by i-lg]]></author>
			<category><![CDATA[i-lgの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 00:06:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431231701@hc06/4911/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431231701@hc06/4911/" target="_blank"><img src="/docs/983431231701@hc06/4911/thmb.jpg?s=s&r=1136991976&t=n" border="0"></a><br /><br />?．日本人と水
　「みずみずしい」という日本語がある。美しさを水で表現する日本独自の表現であり、国語辞典を引くと、「若々しくて、好ましい感じだ」と出てくる。また日本では古来、日本庭園という清水をたたえた日本独自の美の文化を発展させてきた。[354]<br />老子　道と水
Ⅰ．日本人と水
　「みずみずしい」という日本語がある。美しさを水で表現する日本独自の表現であり、国語辞典を引くと、「若々しくて、好ましい感じだ」と出てくる。また日本では古来、日本庭園という清水をたたえた日本独自の美の文化を発展させてきた。中世には禅宗思想の影響を受け、枯山水という、水を使わずに水を表現するという美の境地に達したかとも思われる形式を発展させた。このような美の文化は、日本人が水の形を追求し、それ自体がないことに対しても美しさを感じるという裏側に達した文化であると考えられる。そして私達日本人には、元来本質的に、また無意識下に、水に対する美的感覚や親近感、神秘性を感じていたのだと思われる。
私が老子の「水の思想」に美しさを感じたのも、このような観点から考えると自然なことのように思われた。しかし、諸子百家のひとつの学派を成す老子の思想を追求すると、美しいだけの水ではなく、その裏側に水をたとえにした広大な哲学の世界が広がっている。日本人に多大な影響を与えたにもかかわらず、その思想は難解で親しみづらいと感じてしまう諸子百家の一派である老子の思想を水という身近な存在から考..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[現代思想]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431194001@hc06/4822/]]></link>
			<author><![CDATA[ by moramora]]></author>
			<category><![CDATA[moramoraの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Jan 2006 02:59:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431194001@hc06/4822/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431194001@hc06/4822/" target="_blank"><img src="/docs/983431194001@hc06/4822/thmb.jpg?s=s&r=1136915945&t=n" border="0"></a><br /><br />　現代思想としての構造主義は言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとするアプローチである。
　ガストン・バシュラールはフランスの哲学者で、後の[356]<br />現代思想としての構造主義は言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとするアプローチである。
ガストン・バシュラールはフランスの哲学者で、後の構造主義者たち、ミシェル・フーコーやルイ・アルチュセールなどに影響を与えた。彼の思想には３つの特徴がある。一つ目が「科学認識論」。科学者が自分自身の実践について理解しなければ、応用することもできない。科学認識論は、科学的な試みの意味がそこにおいて了解へともたらされるような領域のことである。それは哲学によって初めて可能になるとした。また、合理主義と現実主義との弁証法的関係を強調する。合理主義とは、解釈や理性の領野で、哲学を含んだ理論である。現実主義とは実験などの実践のことである。実験は解釈のための素材を提供する。そして理論は必ず実験によって確かめられねばならないとした。二つ目が「科学史の理論化」。科学の発展は、先行する学説を発展させることで起こったのではなく、新しい学説は古い学説を包含してきたのである。アインシュタイン相対性理論をニュートン物理学の発展したも..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[What is happiness?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4632/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 06 Jan 2006 12:08:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4632/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4632/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/4632/thmb.jpg?s=s&r=1136516933&t=n" border="0"></a><br /><br /> In our lifetime, the greatest happinesses are family happinesses. I think there are 3 important factors in &ldquo;happiness&rdquo;.[124]<br />In our lifetime, the greatest happinesses are family happinesses. I think there are 3 important factors in &quot;happiness&quot;. Those main factors are family, a way of life and money. All these 3 things are related to &quot;happiness&quot;. But most important thing is family. You can get money from work but it&#039;s difficult to make family. And I think you can&#039;t make joyful life without your family.
I have one more reason that I&#039;m saying family happiness is the most important. That reason is our family environment. ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[仏教と心理学　　瞑想による心理療法]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4605/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hiromi0521]]></author>
			<category><![CDATA[hiromi0521の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Jan 2006 21:16:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4605/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4605/" target="_blank"><img src="/docs/983432113501@hc05/4605/thmb.jpg?s=s&r=1136463408&t=n" border="0"></a><br /><br />　｢瞑想｣という言葉を聞くと、座禅を行い、目を閉じている動作や都心から遠く離れた郊外の寺院が浮かんでくる。静かで閑静な山の中で川のせせらぎやそよ風で葉が揺れ動く情景が思い出される。
　では瞑想とは何か。今、瞑想による心理療法が注目されつつ[356]<br />　｢瞑想｣という言葉を聞くと、座禅を行い、目を閉じている動作や都心から遠く離れた郊外の寺院が浮かんでくる。静かで閑静な山の中で川のせせらぎやそよ風で葉が揺れ動く情景が思い出される。
では瞑想とは何か。今、瞑想による心理療法が注目されつつあるが、瞑想とはどのような効果を発揮しているのであろうか。また、仏教とどのような関わりをもっているのであろうか。
瞑想と一口で言えてしまうが、実際には多くの種類が挙げられる。もちろん座禅を組んで心を落ち着かせるものもあるが、ヨーガのように身体を動かして様々なポーズをするものもある。瞑想が見直されるようになり、新しい瞑想のタイプが生み出されてきたのだろうか。
瞑想への関心の高まりの背景には慌ただしい現代生活に疲れた人々があると考えられる。毎日毎日、仕事や勉強が忙しい&hellip;、休みたいが休むことが出来ない&hellip;、人間関係に悩んでいる&hellip;、疲れが取れずストレスや悩みは増えつづける一方&hellip;、このような悪循環が瞑想によって精神を落ち着かせたいという気持ちにつながっているのではないだろうか。癒しやストレス解消などを求めるのは、瞑想だけに限られてはおらず、他にも様々な心理療法が注目..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[生命倫理]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4604/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hiromi0521]]></author>
			<category><![CDATA[hiromi0521の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Jan 2006 21:09:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4604/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4604/" target="_blank"><img src="/docs/983432113501@hc05/4604/thmb.jpg?s=s&r=1136462994&t=n" border="0"></a><br /><br />　遺伝子治療、人工授精、臓器移植と、いまや医学はいのちの誕生にまで手を加えるようになってきている。それが特定の人々によって管理されるとしたら事態は重大である。クローニングにしても、人間に応用できる技術を開発しようと、国際的に活発な研究と開発[360]<br />遺伝子治療、人工授精、臓器移植と、いまや医学はいのちの誕生にまで手を加えるようになってきている。それが特定の人々によって管理されるとしたら事態は重大である。クローニングにしても、人間に応用できる技術を開発しようと、国際的に活発な研究と開発が進められている。また。体外受精の際の余った胚からの｢ES細胞(ヒトの胚性幹細胞)｣と呼ばれる。別名｢万能細胞｣を利用することによって、白血病やパーキンソン病などの難病の治療や、人間の様々な組織や臓器がつくれる可能性があると言われている。科学技術庁はその研究を条件付で認め、そのための指針をまとめる作業を行った。しかし、本当に公開された討議がなされるかどうかを、私達は注意深く監視する必要があるのである。何よりも｢人間の尊厳｣および｢人間の保障｣を最優先し、社会・公共の責任を自覚し、専門家集団の新しい倫理基準をつくり、さらに専門家と非専門家との平等な協力作業による｢公共政策づくり｣や｢バイオエシックス委員会｣を設けての、情報公開を原則とする実験規則、指針、法律づくりを行うことが必要である。専門家以外には発言資格がないというのではなく、しろうとが専門性を尊重..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[なぜ悪いことをしてはいけないのか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4602/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hiromi0521]]></author>
			<category><![CDATA[hiromi0521の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Jan 2006 21:03:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4602/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113501@hc05/4602/" target="_blank"><img src="/docs/983432113501@hc05/4602/thmb.jpg?s=s&r=1136462605&t=n" border="0"></a><br /><br />　｢やさしさ｣、｢思いやり｣といったものは人間の性質の中で欠かせないものであると言っても過言ではないであろう。誰しも他人に優しくされたことがあるはずだ。そのとき決して嫌な気分にはならないはずだ。思いやりの気持ちを持って行動する、決して間違っ[360]<br />倫理学概論レポート
｢博愛について｣
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　｢やさしさ｣、｢思いやり｣といったものは人間の性質の中で欠かせないものであると言っても過言ではないであろう。誰しも他人に優しくされたことがあるはずだ。そのとき決して嫌な気分にはならないはずだ。思いやりの気持ちを持って行動する、決して間違った行動ではない。やはり、｢やさしさ｣、｢思いやり｣はなくてはならない人間性の一部であると考える。
　そして、誰に対しても平等に｢やさしさ｣、｢思いやり｣をあたえることこそ｢博愛｣と呼べるものであろう。まさに、｢博愛｣とは太陽のような熱であると考える。太陽は地球上の万物..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「観察の理論負荷性」「科学革命」「全体論」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431390701@hc05/4116/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rarirurero]]></author>
			<category><![CDATA[rarirureroの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 16 Dec 2005 22:03:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431390701@hc05/4116/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431390701@hc05/4116/" target="_blank"><img src="/docs/983431390701@hc05/4116/thmb.jpg?s=s&r=1134738230&t=n" border="0"></a><br /><br />　まずはハンソンの「観察の理論負荷性」から説明する。
　授業や参考資料とした本では「アヒルウサギ図」を例に、観察の際にどうしても使用してしまう理論（アヒルの理論・ウサギの理論）がある、としていた。ぱっと見て、アヒルをあらわしているようにも[356]<br />ハンソンの「観察の理論負荷性」の考え方　クーンの「科学革命」の考え方
および「全体論」的な科学の捉え方　を自身の言葉でわかりやすく解説した上で
それらの考え方について自分はどのように考えるか　述べなさい。
まずはハンソンの「観察の理論負荷性」から説明する。
授業や参考資料とした本では「アヒルウサギ図」を例に、観察の際にどうしても使用してしまう理論（アヒルの理論・ウサギの理論）がある、としていた。ぱっと見て、アヒルをあらわしているようにもウサギをあらわしているようにも見える、と言う事実が、われわれの観察は身に着けた理論を通して行われていることを示しているのだそうだ。この観察の性質を「観察の理論負荷性」と言う。ハンソンの言うのはこのような内容である。
ところで、私がこの「アヒルウサギ図」を観察した時に思ったのは「アヒルをあらわしている」「ウサギをあらわしている」に加えて「アヒルウサギ図である」ということであった。「『アヒルウサギ図』の理論」をすでに持っていた私は、ハンソン以前よりもひとつ余分(？)な認識を得たのである。これも「観察の理論負荷性」と言えるだろう。
ところでこのことは、クーンの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[功利主義の妥当性について &minus;シンガーの議論を事例に&minus;]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709401@hc05/4027/]]></link>
			<author><![CDATA[ by red]]></author>
			<category><![CDATA[redの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 23:15:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709401@hc05/4027/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709401@hc05/4027/" target="_blank"><img src="/docs/983431709401@hc05/4027/thmb.jpg?s=s&r=1134483350&t=n" border="0"></a><br /><br />（１）	問題意識
　哲学の講義の中で再三にわたって取り上げられた功利主義の発想。特に最終講義での生命倫理との関連においては、うなずかざるを得ない場面もあり深く考えさせられました。
　また自身が学んでいる国際関係学の分野の議論においても、[350]<br />功利主義の妥当性について －シンガーの議論を事例に－
問題意識
哲学の講義の中で再三にわたって取り上げられた功利主義の発想。特に最終講義での生命倫理との関連においては、うなずかざるを得ない場面もあり深く考えさせられました。
また自身が学んでいる国際関係学の分野の議論においても、常に考えさせられるのが政策決定と功利主義的発想との関係です。戦争早期終結のための原爆投下や、開発独裁といった政策決定を議論するうえで功利主義の発想は欠かせず、かつ、いつまでも自分の中で納得し切れないものでありました。
以上のような問題意識から今回このレポートを書くにあたって功利主義的発想を取り上げ、特にレジュメにあったシンガーの議論を題材としてその妥当性を議論してみようと考えました。
功利主義についての客観論
2.1功利主義とは
功利主義（Utilitarismus）＝行為の結果を有用性の原理に従い評価する倫理学。
　　　　　　　　　　　　 行為の功利主義と規則の功利主義とがある
2.2功利主義の前提
利己主義的な幸福主義であるとして非難される快楽主義は、古代から近代への過程で社会倫理的な転回をとげて、功利主義と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教における人間観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4026/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kyogen]]></author>
			<category><![CDATA[kyogenの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 23:15:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4026/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4026/" target="_blank"><img src="/docs/983431513701@hc05/4026/thmb.jpg?s=s&r=1134483349&t=n" border="0"></a><br /><br />　聖書の教えによれば、人間は良くも悪くもない白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりするというような考えはなく、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくる、としてい[360]<br />中国文化演習Ⅰ（思想）　　　　　　　　　　　　　　
キリスト教における人間観
　聖書の教えによれば、人間は良くも悪くもない白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりするというような考えはなく、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくる、としている。この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも罪から救われることはなく、罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり「罪からの救い」はないと教えている。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[風水の発展と東洋思想]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4021/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kyogen]]></author>
			<category><![CDATA[kyogenの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 22:56:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4021/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431513701@hc05/4021/" target="_blank"><img src="/docs/983431513701@hc05/4021/thmb.jpg?s=s&r=1134482162&t=n" border="0"></a><br /><br />一、「風水」について
　「風水」は、堪與、地理、陰陽、あるいは単に山とも言い、狭義としては住居の立地選択の術、広義としては「環境と地景に対する一種の宇宙論的解釈」である。
　風水術は、中国人の大地に対する特有の感覚に基礎を置いていて、大[352]<br />『風水の発展と東洋思想』
一、「風水」について
「風水」は、堪與、地理、陰陽、あるいは単に山とも言い、狭義としては住居の立地選択の術、広義としては「環境と地景に対する一種の宇宙論的解釈」である。
　風水術は、中国人の大地に対する特有の感覚に基礎を置いていて、大地は冷たい土の堆積ではなく、一個の巨大な生命体とみなされる。そこに生命を賦与するのが気であり、気とは生命体にとって活力の源泉となる生エネルギーである。人体と同様地中にも気がめぐっていると考えられていた。この地中に流れ万物をはぐくむ気を地気と呼び、地中を縦横に走る地気のルートは「地脈」と呼ばれた。各地の独自性を規定するのもこの地中の気であった。地気を環境の中に組みこみ、人間をその環境との相互作用においてとらえる発想は「地霊人傑」（または人傑地霊）の言葉を生み出した。
　風水思想では霊なる地気を特に「生気」と呼ぶ。『礼記』月令は、天（陽）気と地（陰）気の結合によってこそ物は生息するという立場で述べられているが、風水思想における生気論の典型となるものは、地気はそれ自体で完全であり、天気との協働をまたずとも万物を生育しうるとする思考である..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『哲学ファンタジー』第５章を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3925/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 00:44:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3925/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3925/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3925/thmb.jpg?s=s&r=1134402283&t=n" border="0"></a><br /><br />　私は本稿で『哲学ファンタジー』第５章に書かれているシンプリカスの「僕は、この木を楽しんでいるんです。」という言葉をめぐって繰り広げられる議論について感想を述べていく。
　私の率直な感想を述べると、本文中の議論のやりとりは大変ばかばかしい。[358]<br />『哲学ファンタジー』第５章を読んで
　私は本稿で『哲学ファンタジー』第５章に書かれているシンプリカスの「僕は、この木を楽しんでいるんです。」という言葉をめぐって繰り広げられる議論について感想を述べていく。
　私の率直な感想を述べると、本文中の議論のやりとりは大変ばかばかしい。シンプリカスは木を楽しんでいるのだから、ただそこには木という物質があって、またそれとは別にその木を楽しむシンプリカスの心もあるということ以上、事を複雑に考える必要はないと思うし（私の考えを位置づけると短絡的な二元論だろう）、また議論している人たちの間にどんな利益があるのだろうと私は思った。特に始めの哲学者による脳や神経系を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ソクラテスの幸福と政治]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3767/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mimumimu]]></author>
			<category><![CDATA[mimumimuの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Dec 2005 23:35:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3767/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3767/" target="_blank"><img src="/docs/983431500701@hc05/3767/thmb.jpg?s=s&r=1134138958&t=n" border="0"></a><br /><br />「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」（『クリトン』48b）これは「よく」という言葉を「幸福に」と言い換えることができるなら、恐らく多くの人の賛成を得られる意見だろう。
　しかしよく生きるといっても、[352]<br />　　　ソクラテスの幸福と政治――『ソクラテスの弁明』・『クリトン』・『メノン』を読んで――
「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」（『クリトン』48b）これは「よく」という言葉を「幸福に」と言い換えることができるなら、恐らく多くの人の賛成を得られる意見だろう。
しかしよく生きるといっても、何をよいとするかによってその生き方は様々である。
　ある人は、よく生きるとはなるべく苦痛を被らないこと、なるべく快楽を多く享受することと考えるだろう。
そう考えるとソクラテスが関心の範囲外として退けるお金や名誉を求めることはある人にとってはよき生なのかもしれない。
また、実際生物学的な人間の意義は、単なる遺伝子存続のための箱に過ぎず、なるべく多く自らの遺伝子を後世に伝えることが人間の最大の目的とも言えるかもしれない。
そのように考えればソクラテスが一般大衆の関心事として退けた子供の養育が人生の最大の目的であり、子供の幸福こそが自分の幸福なのかもしれない。
　一方ソクラテスにとっての善き生は、正しく生きることであった。もちろんソクラテスは、この生き方が善き生として..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[パスカルとキリスト教]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432019301@hc05/3704/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kiffalibra]]></author>
			<category><![CDATA[kiffalibraの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Dec 2005 12:16:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432019301@hc05/3704/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432019301@hc05/3704/" target="_blank"><img src="/docs/983432019301@hc05/3704/thmb.jpg?s=s&r=1133925418&t=n" border="0"></a><br /><br />　フランスの哲学者にして数学者にして物理学者であるブレーズ＝パスカル。彼の死後、遺稿が整理され出版されたものである『パンセ』を読んでいて、ふと感じたことがあったのである。
　なんと聖書からの引用が多いことか。
　私はこのときから、常に『[352]<br />月曜二限「パスカルを読む」レポート
～パスカルとキリスト教～
　フランスの哲学者にして数学者にして物理学者であるブレーズ＝パスカル。彼の死後、遺稿が整理され出版されたものである『パンセ』を読んでいて、ふと感じたことがあったのである。
　なんと聖書からの引用が多いことか。
　私はこのときから、常に『パンセ』を読むときにはキリスト教とのつながりを意識するようになった。本レポートではパスカルの思想についてキリスト教との関係という観点から述べていくことにする。
　彼の神への信仰の深さはいたるところに見られる。極端ではないかと思われるぐらいに。懐疑論的な考えや、独断論的な考え、そしてパスカルの考えによっても解決されないような難問の大部分は神によって解決される。いや、むしろすべてのことがと言ってもよい。懐疑論者であれ、独断論者であれ、あるいはそれらに属さない人であれ、パスカルは彼らを批判し、指摘し、そしてその解決を大いなる神にさせてしまう。例えば、よく議論に上がる、真理の在り処に関しては、私たちの手の届くところにはなく、ただ神の懐にのみ宿っていると断言し、私たちは神が私たちに与えてくれるほんの少し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[自由意志とは何か]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3635/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mimumimu]]></author>
			<category><![CDATA[mimumimuの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 22:00:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3635/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431500701@hc05/3635/" target="_blank"><img src="/docs/983431500701@hc05/3635/thmb.jpg?s=s&r=1133701240&t=n" border="0"></a><br /><br />自由意志とは何か。自由意志に対して自然現象が因果的に世界の運命を決定しているとする決定論とはどのような関係にあるのだろうか。
　「因果律によって生起するものは、全て常に何らかの先行要因を有することになり、全ての自然現象は因果の連鎖の中に存在[358]<br />自由意志とは何か。自由意志に対して自然現象が因果的に世界の運命を決定しているとする決定論とはどのような関係にあるのだろうか。
「因果律によって生起するものは、全て常に何らかの先行要因を有することになり、全ての自然現象は因果の連鎖の中に存在することになる。かかる自然必然性の下では、自由の存在する余地はない。だがしかし我々は人間の実践的行為を考える時、自由を前提せざるをえない。ここに周知の自由と自然の二律背反が成立することになる。」（「カント哲学の人間的地平」p.172 l.3）
我々人間の実践的行為において、自由意志とはどのような意味を有するのか。我々の行為は我々自身の意志によって決められている..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[言語学入門]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431618501@hc05/3518/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ground]]></author>
			<category><![CDATA[groundの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Dec 2005 12:56:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431618501@hc05/3518/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431618501@hc05/3518/" target="_blank"><img src="/docs/983431618501@hc05/3518/thmb.jpg?s=s&r=1133409396&t=n" border="0"></a><br /><br />　蜂のダンスやベルベット・モンキーの鳴き声、ビーバーの水面たたきといった生物学的サインと人間の言語を連続的なものとして捉えることは可能であろうか？　これは非常に難解な問いである。この問いに答えるために記号や知識の概念、さらにはグライスの「非[360]<br />哲学特殊講義　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
蜂のダンスやベルベット・モンキーの鳴き声、ビーバーの水面たたきといった生物学的サインと人間の言語を連続的なものとして捉えることは可能であろうか？　これは非常に難解な問いである。この問いに答えるために記号や知識の概念、さらにはグライスの「非自然的意味」の概念について考えていきたいと思う。
最初に記号について考える。われわれが使う記号は主に、三種類に分けられると考えられる。まずそれらについて順に説明しよう。一つ目はIconic signと呼ばれるものである。これは絵や図形などで何かを示すというものである。たとえば、タバコの絵があってその上にバッテンのマークが書かれていたとすれば、それは喫煙禁止のIconic signとなる。このようにIconic signは指示対象との自然的なつながりを持つようなsignである
　二つ目はIndex signと呼ばれるものである。これは、たとえば(熊の)足跡を見て熊の存在を察するとき、この足跡は熊のIndex signになっているといえる。あるいは置いておいたリンゴが食べられている..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[論理の世界]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431540301@hc05/3488/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mrdr377]]></author>
			<category><![CDATA[mrdr377の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 01:00:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431540301@hc05/3488/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431540301@hc05/3488/" target="_blank"><img src="/docs/983431540301@hc05/3488/thmb.jpg?s=s&r=1133280017&t=n" border="0"></a><br /><br />?．参考文献２冊を読んで考えたこと
　世の中に氾濫するデータの数々。それらはアンケート集計結果や様々な指標、ＩＱや性格診断テストなどに姿かたちを変え、社会の実態や個人の性質などの有益な情報をもたらすが、時に社会を混乱させるものでもある。そ[354]<br />Ⅰ．参考文献２冊を読んで考えたこと
　世の中に氾濫するデータの数々。それらはアンケート集計結果や様々な指標、ＩＱや性格診断テストなどに姿かたちを変え、社会の実態や個人の性質などの有益な情報をもたらすが、時に社会を混乱させるものでもある。そういった正しい情報と誤った情報が生まれてしまうのは、情報の提供側、情報を受け取る側双方に問題がある。前者は、意図的に誤った情報を流したり、故意ではなくても誤った調査・判定方法により、誤った情報を流してしまったりしている。それは、自分の主張や意見が正しいということを示したい、そして世論を誘導したいなどの私欲が含まれていて、場合に寄ってはかなり悪質にもなりうる。
後者は、そういった情報を受け取ったときに、何の疑いもなく受け入れてしまったり、違和感はあってもそれを確かめるための情報や知識が乏しいがためにその情報を容認してしまったりする。　また、情報を提供する側も、あからさまにウソの情報を流したのではばれやすくなってしまうので、ばれにくくなるように様々な小技を効かせている。
しかし、受け取る側の人間は、受け取った情報についてもっとしっかり考えれば、情報提供側の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ヴィトゲンシュタインと論理学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431659301@hc05/3371/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mika8355]]></author>
			<category><![CDATA[mika8355の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 24 Nov 2005 00:46:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431659301@hc05/3371/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431659301@hc05/3371/" target="_blank"><img src="/docs/983431659301@hc05/3371/thmb.jpg?s=s&r=1132760765&t=n" border="0"></a><br /><br />　ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』はまたたくまに20世紀前半の哲学地図を塗り替え『言語論的転回』と呼ばれる大きなうねりをもたらした。また彼の死後に刊行された『哲学探究』は20世紀後半の哲学にさらなる方向転換をもたらした。これら二冊の書[352]<br />ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』はまたたくまに20世紀前半の哲学地図を塗り替え『言語論的転回』と呼ばれる大きなうねりをもたらした。また彼の死後に刊行された『哲学探究』は20世紀後半の哲学にさらなる方向転換をもたらした。これら二冊の書物を通じてヴィトゲンシュタインは思考のスタイルも思想内容もまったく異なる二つの哲学をほとんど独力で作り上げたのである。
ヴィトゲンシュタインの魅力は、その生涯と哲学とが一体となり、切り離し難く絡み合っているところにあると言われている。ある参考資料に『優れた哲学者とは既に知られている問題に新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題にある解答を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ハカルことができないものとは何か]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431662501@hc05/3237/]]></link>
			<author><![CDATA[ by torikanoko]]></author>
			<category><![CDATA[torikanokoの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 17 Nov 2005 21:57:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431662501@hc05/3237/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431662501@hc05/3237/" target="_blank"><img src="/docs/983431662501@hc05/3237/thmb.jpg?s=s&r=1132232265&t=n" border="0"></a><br /><br />私が考える「『はかる』ことができないもの」とは「愛」である。
そこで、まずカントが時間や空間について語る「究明」という方法を参考に考える。究明とは、私たちが時間や空間とは何かを知ろうとする際に、日常言語において「時間」や「空間」という言葉[356]<br />前期レポート課題
私が考える「『はかる』ことができないもの」とは「愛」である。
そこで、まずカントが時間や空間について語る「究明」という方法を参考に考える。究明とは、私たちが時間や空間とは何かを知ろうとする際に、日常言語において「時間」や「空間」という言葉によって語られていることを反省的に列挙し、それを精緻に語りなおすという方法である。
カントにならって、日常生活を反省して、ある状態が愛であるために不可欠の条件を挙げてみる。
①相手の個体に向かっていること。言いかえれば、ほかの人とは交換不可能であること。
②相手の肉体のみならず、ひろく「心」と呼ばれているものに惹かれていること。言いかえれば、「心ある肉体」としての相手に惹かれていること。
③相手の姿を見たい、その声を聞きたい、その肌に触れたい等々、その人を「感じたい」と欲望すること。
④相手の諸属性を、その固有のあり方において「よいもの」とみなしていること。
愛の第一の条件は、かけがえのない個人に向かっていることである。マックス・シェーラによれば、私たちは相手の人格を愛するのであって、相手の属性を愛するのではない。
身体は単なる物体で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間の自由と規範]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431886601@hc05/3174/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yumika0727]]></author>
			<category><![CDATA[yumika0727の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 14 Nov 2005 13:40:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431886601@hc05/3174/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431886601@hc05/3174/" target="_blank"><img src="/docs/983431886601@hc05/3174/thmb.jpg?s=s&r=1131943227&t=n" border="0"></a><br /><br />後期のこの約４ヶ月の間、講義で様々な人の意見を聞きながら自分なりに「人間の自由と規範」について考察してきた。
まだ何の考察もしていない段階で与えられた、「自由とはどういう状態のことですか」という問いかけにたいして、私はその時「自分の望む状[356]<br />―人間の自由と規範―
　後期のこの約４ヶ月の間、講義で様々な人の意見を聞きながら自分なりに「人間の自由と規範」について考察してきた。
まだ何の考察もしていない段階で与えられた、「自由とはどういう状態のことですか」という問いかけにたいして、私はその時「自分の望む状況、もしくは環境の中に自らの身をおけること」だと答えた。つまり「自由」において重要なのは「自分の意志」であると。しかし講義を終えた今、単純にそうとは答えられないのが正直なところだ。
　
自由概念の内容整理に際してバーリンの二分法がしばしば参照されるそうだが、このバーリンの『自由論』によると、自由の概念は「～からの自由」、「拘束の不在」を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[倫理的主観主義について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3165/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kisaburou3]]></author>
			<category><![CDATA[kisaburou3の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 13 Nov 2005 17:46:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3165/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3165/" target="_blank"><img src="/docs/983431703201@hc05/3165/thmb.jpg?s=s&r=1131871588&t=n" border="0"></a><br /><br />　倫理的主観主義とは、我々がいかなる道徳上の判断をするにせよ、それは単にその人自身の個人的な感情を述べているだけであり、道徳に関する限り「客観的」に正しいことや間違いなどはないという、道徳上の判断の本性についての理論である。そしてこの理論の[360]<br />倫理的主観主義とは、我々がいかなる道徳上の判断をするにせよ、それは単にその人自身の個人的な感情を述べているだけであり、道徳に関する限り「客観的」に正しいことや間違いなどはないという、道徳上の判断の本性についての理論である。そしてこの理論の第一段階として、単純な主観主義が挙げられる。
単純な主観主義とは、ある人があることを道徳的によいとか悪いとかいうのは、彼がそれを是認、または否認しているという個人的な感情を表しているに過ぎないという考え方である。これは、ある人が「Ｘは道徳的に容認できる」「Ｘは正しい」「Ｘはよい」「Ｘは為されるべきである」と言ったとしても、それはすべて「私はＸを容認する」ということを意味し、同様に「Ｘは道徳的に容認しがたい」「Ｘは間違いである」「Ｘは悪い」「Ｘは為されるべきではない」と言ったとしても、それはすべて「私はＸを否認する」ということを意味するに過ぎないということである。
しかし、この単純な主観主義に対して二つの異論がある。第一の異論として、単純な主観主義が正しいのならば、我々は道徳上の判断において無謬である、ということが挙げられる。なぜならば、単純な主観主義に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間の観念]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3088/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cattyann320]]></author>
			<category><![CDATA[cattyann320の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2005 15:47:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3088/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3088/" target="_blank"><img src="/docs/983431757301@hc05/3088/thmb.jpg?s=s&r=1131691676&t=n" border="0"></a><br /><br />　生得観念という考えがある。私たちは生まれながらにして観念を得て、それを携えて生まれてくる、というものである。しかしながら、ロックによると、そのような観念など存在しない。彼の主張によれば、人間の精神は本来、タブラ、ラサ、つまり滑らかな板なの[360]<br />哲学基礎論レポート
人間の観念について
　　　　　　　　　　　　　　　　
生得観念という考えがある。私たちは生まれながらにして観念を得て、それを携えて生まれてくる、というものである。しかしながら、ロックによると、そのような観念など存在しない。彼の主張によれば、人間の精神は本来、タブラ、ラサ、つまり滑らかな板なのである。
では、人間の精神はどのようにして様々な観念を持つようになるのであろうか。今回のレポートではこのことについて考えて見たい。
悟性はすべての観念を経験から汲んでいる。またあらゆる認識は経験を拠り所としている。ところで、経験には二種類ある。一つは、外的対象の知覚、肉体の感覚器官によって起こるもので、感覚(sensation)と呼ばれる。もう一つは、我々の心の内面的な働きの知覚で、反省(reflexion)と呼ばれる。感覚と反省とが精神(悟性)にすべての観念を与えるのであって、それらは言わば、精神(悟性)という暗室に、観念という光が入り込む窓である。感覚によって捉えられる対象すなわち外的対象は感覚的諸性質に関する観念を与え、反省によって捉えられる対象すなわち心的生活は自分自身の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[宗教と死生観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432344101@hc05/2934/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hosi1639]]></author>
			<category><![CDATA[hosi1639の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Nov 2005 14:31:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432344101@hc05/2934/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432344101@hc05/2934/" target="_blank"><img src="/docs/983432344101@hc05/2934/thmb.jpg?s=s&r=1131341489&t=n" border="0"></a><br /><br />宗教について調べているうちに、死生観について興味をもった。そこで、宗教による死生観とは何かを調べ、現代社会をとりまく宗教について考えた。
　仏教徒である日本人には、霊魂と肉体は別のものであると考えれられている。人間の生命は肉体と結合した霊[356]<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
宗教と死生観
　宗教について調べているうちに、死生観について興味をもった。そこで、宗教による死生観とは何かを調べ、現代社会をとりまく宗教について考えた。
　仏教徒である日本人には、霊魂と肉体は別のものであると考えれられている。人間の生命は肉体と結合した霊魂の作用であり、死は肉体からの霊魂の分離であり、肉体は滅んでも霊魂は生きていると考えられている。死者の霊魂は「この世」から「他界」に往き、他界はこの世と連続し、地下、山上、海上等の身近な所に存在していると考えられている。他界は地下他界としての「冥界」や「の国」と呼ばれたり、また海上他界として「」と呼ばれたりする。人は死んでも、その霊魂は祖先の霊や神となって生き続け、不死であると考えられている。また、死霊はれていて、この世の生者に取り憑つき、ることによって、災いをもたらすと考えられている。そのために追悼儀礼、供養、鎮魂祈祷などが行われる。山上他界や海上他界の祖霊は、お盆や正月に子孫によって迎えられ、られ、供養される。死霊はこうした供儀によって、祖霊や先祖の神となると考えられており、先祖の霊や..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間性とは何か]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2738/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gen34054]]></author>
			<category><![CDATA[gen34054の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 31 Oct 2005 15:19:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2738/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2738/" target="_blank"><img src="/docs/983432155401@hc05/2738/thmb.jpg?s=s&r=1130739586&t=n" border="0"></a><br /><br />ここでは、「人間性」という言葉の持つ意味について検討した上で、その人間性に内包されると考えられる「社会性」ないし「社会力」といったものを、簡略ではあるが自分なりに考察してみたい。
　小学館の『日本国語大辞典第二版』によれば、「人間性」とは[356]<br />「人間性とは何か」
　ここでは、「人間性」という言葉の持つ意味について検討した上で、その人間性に内包されると考えられる「社会性」ないし「社会力」といったものを、簡略ではあるが自分なりに考察してみたい。
　小学館の『日本国語大辞典第二版』によれば、「人間性」とは、「人間の本性。人間としての生まれつきの性質。人間である以上、いかなる思想の持ち主でも、生まれつき持っている性質。」とある。ここでは人間性というものが後天的にいかなる変化を遂げていくものなのか（ないしは先天的かつ普遍的なものなのか）についての言及はなされていない。ただ、いかなる人間であれ、必ず持ちうるものであると表記されているのである。これはすなわち、人間特有のものとして「動物性」と対比されるものと言ってよいであろう。一方で、講談社の『日本語大辞典』によれば、「①人間としての本性。人間らしさ。人間に特有の本性。②人間だけがもつ当為・理想。ヒューマニズム。」とある。この①は前述の定義と大きな差異はないように思う。しかし②に注目すると「人間性」というものの本質が見えてくるように感じるのである。
　それについて考える前に、「社会性」、「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中国の時間と空間・仏教の宇宙観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846201@hc05/2428/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mnoriaki]]></author>
			<category><![CDATA[mnoriakiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Oct 2005 00:26:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846201@hc05/2428/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431846201@hc05/2428/" target="_blank"><img src="/docs/983431846201@hc05/2428/thmb.jpg?s=s&r=1129303599&t=n" border="0"></a><br /><br />１.　1983年生まれ【癸亥】
２.　1082年7月16日
３．
１「玄武岩」
火山岩の一。暗灰色または黒色の緻密(ちみつ)な岩石で、斑晶は斜長石・橄欖(かんらん)石・輝石など。柱状節理をもつものが多い。最も多量に存在する火山岩。名[310]<br />時間と空間（中国の時間と空間・仏教の宇宙観）レポート
　
１.　1983年生まれ【癸亥】
２.　1082年7月16日
３．
　１「玄武岩」
火山岩の一。暗灰色または黒色の緻密(ちみつ)な岩石で、斑晶は斜長石・橄
欖(かんらん)石・輝石など。柱状節理をもつものが多い。最も多量に存在す
る火山岩。名は兵庫県の玄武洞に由来。
　２「太一（たいいつ）」
　中国の古代思想で、「大一」または「泰一」「太乙」とも書く。『荀子(じゅし)』
　『荘子(そうじ)』『呂氏(りょし)春秋』『淮南子(えなんじ)』等にみえるが、　
　そこでの用例では万有を包含する大道、天地創造の混沌(こんとん)たる元気、　
　道を意味する。たとえば『呂氏春秋』大楽篇(へん)には「万物の出づる所は、
　太一に造(はじ)まり、陰陽に化す」とあり、『礼記(らいき)』礼運篇では「夫
　(そ)れ礼は必ず太一に本づく」とある。いま一つの用例は、『史記』封禅書や
　天官書にみえるもので、天神のもっとも尊いものの名、あるいはその住居紫
　微(しび)宮のことであるといい、北極星を太一というともみえる。封禅書に
　は「天神の貴きものを太一という」と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[倫理学　キルケゴールに対する論述]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2283/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Luft]]></author>
			<category><![CDATA[Luftの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 28 Sep 2005 21:13:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2283/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2283/" target="_blank"><img src="/docs/983432070601@hc05/2283/thmb.jpg?s=s&r=1127909596&t=n" border="0"></a><br /><br />1.キルケゴールの倫理思想と、その意味
ゼーレン・キルケゴールの基本的学説は、道徳には本物の客観的基準はないということ、そしてむしろ、客観的基準があると主張される学説はわれわれの道徳の基準が選択された学説であり、選択されるのみであるという[352]<br />人間論（倫理学）
1.キルケゴールの倫理思想と、その意味
ゼーレン・キルケゴールの基本的学説は、道徳には本物の客観的基準はないということ、そしてむしろ、客観的基準があると主張される学説はわれわれの道徳の基準が選択された学説であり、選択されるのみであるという事実を隠蔽する装置の役割をしている、と訴える。あるいは個人を彼の道徳的諸戒律をカントが定義した個人よりもはるかに強い意味で自分に言い聞かせるものである。「真理は主体性である。」キルケゴールはこう命題を定めることで彼の哲学的研究領域を定めたのである。それ故に、彼の全著書は価値判断と劇場、不安と絶望、恐れに懐疑、信仰、希望、そして愛の状態にある人間の精神の主体的な海図を作り上げている。また、キルケゴールは過激なプトテスタント・キリスト教を採用しており、著書の目的がそこからもうかがい知れる。というのも、キルケゴールは彼自身が「私に似通っている唯一の人はソクラテスである。私の任務はソクラテス的任務であって、キリスト者であるとは何を意味するかの概念を訂正することである。私は理想を自由に保ちつづけているので、私自身をキリスト者とは呼ばないが、しか..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学と不条理な人生]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1978/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 15:51:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1978/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1978/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1978/thmb.jpg?s=s&r=1122706302&t=n" border="0"></a><br /><br />この論文では、哲学と不条理な人生の関係について考察していこうと思う。最近は何かと｢哲学｣という言葉には、無駄に重苦しいというか近寄りがたいイメージが付着して、哲学とはなんであるかということさえ考える人が少なくなってしまったような気もする。そ[360]<br />この論文では、哲学と不条理な人生の関係について考察していこうと思う。最近は何かと｢哲学｣という言葉には、無駄に重苦しいというか近寄りがたいイメージが付着して、哲学とはなんであるかということさえ考える人が少なくなってしまったような気もする。そこで、ここはまず原点に戻りアリストテレスの著から哲学についての記述を以下に引用する。「一般に、高次の精神は低次の精神なしには存し得ず、高次の生は低次の生の凡てを含んでその上に発展する。かくの如く段階的発展的に見られた生の存在論もしくは精神の現象学に於いて、その最高の段階を現すものは学、特に哲学である。・・（略）・・手仕事をする大工よりも設計をする棟梁がより智者であると云われている。しからば最も勝れた意味に於いて智者と考えられるのは如何なるものであるか。物を個別的に知っているというのではなくて凡てを知っている者が智者である。・・（略）・・智者の有すべき智慧はこのようにして普遍的なもの、究極的なものに関する知識でなければならぬ。この知識はあらゆる他の知識の上に位し、他の目的のためでなくそれ自身のために求められる。眞に智慧の名に値するのは第一原理と第一原因..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ヘーゲルの精神現象学序論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1954/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 12:55:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1954/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1954/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1954/thmb.jpg?s=s&r=1122695708&t=n" border="0"></a><br /><br />ヘーゲルの著書、その『序論』から感じたのは、とにかく著者の沸き立つような若々しさだった。『序論』は『精神現象学』の本体が書かれた後に書かれたにもかかわらず、本体を要領よくまとめるどころか、その先へ行こうとしてしまっていて、やはりそれもまた「[360]<br />ヘーゲルの著書、その『序論』から感じたのは、とにかく著者の沸き立つような若々しさだった。『序論』は『精神現象学』の本体が書かれた後に書かれたにもかかわらず、本体を要領よくまとめるどころか、その先へ行こうとしてしまっていて、やはりそれもまた「すでにあるもの」ではない「未だないもの」へ向かっての運動になっている。行っては戻り、戻っては進み、おなじところをリングワンデリングしているかのように見えながら、しかし振り返ると確実に、以前とはわずかに違う場所に出ている、そうした運動においてしか書くことができないものをヘーゲルさんが書こうとしていることがよくわかる。もちろんこれは「意識」がすべてを経巡った後に「絶対知」という地平において自己自身へと最終的に回帰する、その循環のなかにすべてを閉じこめようとしたヘーゲル哲学に反しているのだろう。彼にとって「いまだない」ものは、実は「すでにあるもの」の視点から懐古的＝回顧的に見いだされるだけだから。それはそうなのだが、少なくとも『精神現象学』の不安定な構成と線条性に欠ける叙述のなかには、そうしたヘーゲル自身の目論みをも裏切るような要素がぐつぐつ煮えたぎってい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[プラトンとイデア]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1952/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 12:46:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1952/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1952/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1952/thmb.jpg?s=s&r=1122695208&t=n" border="0"></a><br /><br />プラトンは、ソクラテスを通じて、知と徳の一致、真理愛などを説いたが、かれの根本思想の一つは、｢イデア｣である。この世のすべての存在は、それに対応するイデアの模倣に過ぎない。そして最高のイデアは、「善」のイデアであり、それはまた神である。
[356]<br />プラトンは、ソクラテスを通じて、知と徳の一致、真理愛などを説いたが、かれの根本思想の一つは、｢イデア｣である。この世のすべての存在は、それに対応するイデアの模倣に過ぎない。そして最高のイデアは、「善」のイデアであり、それはまた神である。 　現実の民主政を、無知な大衆の支配するものと落胆していたプラトンは、著書『国家論』のなかで、理想国家の姿を描いた。それによれば、国家や人類一般の悪を根絶するためには、哲学者が君主になるか、あるいは現在の支配者が本当の意味の哲学をなして、政治と哲学とを結合させなければならない。 　その国家の最大の使命は、善のイデアを実現することにあり、個人はその国家目的にまったく適応しなければならない。財産も妻も共用であり、教育、身分および職業の選択、芸術や科学活動すべてが支配者の指導によって行われる。結婚をして子供を生む年齢までが、その指導者によって定められる、と説いた。 　プラトンの考えでは、国家そのものが一大教育機関であり、大規模な家庭にほかならなかったのですプラトンは、最も幸せな生活をするには、最も良い政治を持たねばならない、といっている。そして、最もよい政治と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間の自己意識]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1950/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 12:43:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1950/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1950/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1950/thmb.jpg?s=s&r=1122695029&t=n" border="0"></a><br /><br />自己意識とは、自己の自己に対する関係であり、この自己意識は、自己の自己の自己の自己の・・・意識というふうに無限に再帰する、円還したシステムである。たとえば日記をつける。自己の自己との対話である。ここで私たちは自己の錯綜した関係にもがくことが[360]<br />　洞窟壁画時代から既に見られたという人間の自己意識。この自己意識とは人間特有のものなのであろうか。｢自己意識｣という概念で有名なヘーゲルによれば、「動物は自己について語ること、「我は・・・」と言うことができない」とある。ヘーゲルの言う「自己意識」とは、つまり一度自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということであって、そのような「他者の視線」の獲得を経て「自己」を振り返ることができるのは人間のみで、動物は「私の視線」から出ることができないのである。この自己意識を持ち始めたときから、人間は自分とはいったい何か、自分はいったいどういう人間か、人間とは何か、と問うことを始めたのではないだろうか。つまり自己意識とは、反省のしくみ、自己改良・適応促進のシステムであるとも言える。自己意識とは、自己の自己に対する関係であり、この自己意識は、自己の自己の自己の自己の・・・意識というふうに無限に再帰する、円還したシステムである。たとえば日記をつける。自己の自己との対話である。ここで私たちは自己の錯綜した関係にもがくことがある。実際にそうした経験をしたことのあるものも多いと思う。自分が自分を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[伝える言葉]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432357601@hc05/1890/]]></link>
			<author><![CDATA[ by happyabc]]></author>
			<category><![CDATA[happyabcの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 29 Jul 2005 15:40:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432357601@hc05/1890/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432357601@hc05/1890/" target="_blank"><img src="/docs/983432357601@hc05/1890/thmb.jpg?s=s&r=1122619220&t=n" border="0"></a><br /><br />「倫理を考える」　
医療倫理の第１の原則は患者の自律性・患者の自己決定権を尊重する事です。第２の原則は患者に害をなしてはならない。第３原則が患者の利益の追求、第４の原則がJusticeで社会の公正・正義という概念から逸脱するような医療をし[342]<br />「伝える言葉」
「伝える言葉」で大江健三郎は次のように言っていた。
　日韓の未来を深く展望するためには、同じだけ深く、歴史に根ざす気持ちがなければならない」
　おそらく、大江健三郎の言う「ナショナリズム」とは国家主義的風潮を指すのかもしれない。しかし、周知のように「ナショナリズム」の第一義は、国民主義である。大江が前段で主張した「歴史に根ざす気持ち」こそがいま大事なのは当然のことである。自分も含め、もっと、日本人も歴史を知らねばならないと痛切に思う。その理由は結局、「ナショナリズム」を裏打ちしているのは歴史であるように思うからである。「伝える言葉」を読んで、さすがはノーベル文学賞受賞者だけあっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ＮＰＯによる共産主義理想の社会の実現の可能性　]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1723/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nicework]]></author>
			<category><![CDATA[niceworkの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Jul 2005 16:15:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1723/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1723/" target="_blank"><img src="/docs/983432203901@hc05/1723/thmb.jpg?s=s&r=1122448535&t=n" border="0"></a><br /><br />本論で注目したいのは、近年盛んになりつつあるNPO組織の活動による共産主義理想の社会が実現される可能性である。あまりにも大胆な発想だと思われるかもしれないが、とにかく本人なりのNPOと共産主義理想との関係についての思考であり、遠くない将来で[348]<br />ＮＰＯによる共産主義理想の社会の実現の可能性　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　序　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　近代の思想史において、大きな争論を引き起こした「マルクス思想」、つまり共産主義の思想（以下同）が重要な位置を占めている。この共産主義理想は、誕生の日から批判されており、そして、ソ連での初めて実現された共産主義制度の社会の失敗、さらに、中国での変容①などにより、世の中で、実現不可能な理想だと思われるようになっているようである。
しかし、本論で注目したいのは、近年盛んになりつつあるNPO組織の活動による共産主義理想の社会が実現される可能性である。あまりにも大胆な発想だと思われるかもしれないが、とにかく本人なりのNPOと共産主義理想との関係についての思考であり、遠くない将来でのNPOの活躍という予想の試みである。
そこで、以下に、共産主義の主な思想、局限性等を簡単に紹介した後，NPOとNPOが盛んになる背景を解説し、最後にNPOによる共産主義理想の社会..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[死という現象について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1553/]]></link>
			<author><![CDATA[ by heartheart]]></author>
			<category><![CDATA[heartheartの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 11:11:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1553/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1553/" target="_blank"><img src="/docs/983432307901@hc05/1553/thmb.jpg?s=s&r=1122343872&t=n" border="0"></a><br /><br />―第３章　「生きること」と「死ぬこと」とより（４、自殺と安楽死の問題は、生き残る人の問題である）―

　私は、今回死という現象について考えてみたいと思う。死といっても、安楽死、自殺、他殺様々な死の形態がある。先生の本でネコの安楽死につい[352]<br />哲学するネコ
―第３章　「生きること」と「死ぬこと」とより（４、自殺と安楽死の問題は、生き残る人の問題である）―
　私は、今回死という現象について考えてみたいと思う。死といっても、安楽死、自殺、他殺様々な死の形態がある。先生の本でネコの安楽死についての是非を読んで、１年前に高校の倫理の授業で、「安楽死は認めるべきか？」についてのディベートをやったことを思い出した。そこで、まず安楽死について考えてみようと思う。
　このディベートでは、賛成・反対どちらの立場につくかはあらかじめ決められていた。私は安楽死賛成の立場で議論することになった。偶然だが私の本心も一致していた。私が、安楽死を認める立場をとる最大の理由は、法的な立場からの見解だ。日本では、憲法１３条によって「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法上その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とされている。このように日本国民は、公共の福祉に反しない限り、幸福追求ができる。それならば、死ぬことがその人にとっての幸福であれば、安楽死を認めてよいのではないか？..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[他者への欲望]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1517/]]></link>
			<author><![CDATA[ by heartheart]]></author>
			<category><![CDATA[heartheartの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jul 2005 21:08:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1517/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1517/" target="_blank"><img src="/docs/983432307901@hc05/1517/thmb.jpg?s=s&r=1122293311&t=n" border="0"></a><br /><br />・他者への欲望についての回答

他者への欲望についての一節について質問頂きまして有難うございます。
最近よく話題になっております東大の名誉教授である養老猛子氏の講義を聞く機会が以前有りまして、人間の体組織は一週間もすれば完全に新しいも[348]<br />・他者への欲望についての回答
他者への欲望についての一節について質問頂きまして有難うございます。
最近よく話題になっております東大の名誉教授である養老猛子氏の講義を聞く機会が以前有りまして、人間の体組織は一週間もすれば完全に新しいものと入れ替わっている。そして人間は日々自らの記憶を失う為に人間とは日々生まれ変わっているようなものであり、鏡や他者から見られた自分の話を聞くことで自己認識を日々改め直しているという話を聞きました(講義名は｢わかる｣と言う事、というものです)この日々私自身は変わる者であると言う立場に立てばこれは私自身だけでなく欲望を抱く他者にもこの考えは生物学的に当てはまるものです(..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[現代思想から見るイデオロギー]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1323/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Jul 2005 05:14:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1323/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1323/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1323/thmb.jpg?s=s&r=1121976873&t=n" border="0"></a><br /><br />まずは「イデオロギー」という言葉が生まれた背景、そしてその定義をはっきりさせておこう。今日でもその意味で用いられる否定的な意味あいをイデオロギーという語（この言葉はマルクス主義とともに日本に輸入されたので、フランス語でも英語でもなく、通常ド[360]<br />現代思想から見る「イデオロギー」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　
まずは「イデオロギー」という言葉が生まれた背景、そしてその定義をはっきりさせておこう。今日でもその意味で用いられる否定的な意味あいをイデオロギーという語（この言葉はマルクス主義とともに日本に輸入されたので、フランス語でも英語でもなく、通常ドイツ語読みの発音が用いられている）に与えたのはナポレオンであった。当初はこの新しい学問を重視し、重用していたナポレオンであったが、徐々に彼らの教育改革、公衆道徳についての改革案に潜むリベラルで市民的な要素が自分自身の権力支配計画にとって危険なものであると気づくようになる。そこでナポレオンは、彼ら「イデオローグ」の見解など現実から遊離した空論にすぎず、それは政治的・社会的実践に全く役立たないだけでなく、無能な大衆に「主権」を与えて煽動し、謀反の原理を国民の義務として教えようとする危険な「国家と教会の敵」であると排撃するようになったのだった。
　フランスの啓蒙主義哲学者が作りだし、ナポレオンによって否定的なニュアンスを与えられたイデオロギーという言葉に、社会科学上の重要な意義を付与し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[デカルトについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432197901@hc05/1264/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yosiboo]]></author>
			<category><![CDATA[yosibooの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 21 Jul 2005 15:17:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432197901@hc05/1264/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432197901@hc05/1264/" target="_blank"><img src="/docs/983432197901@hc05/1264/thmb.jpg?s=s&r=1121926621&t=n" border="0"></a><br /><br />私がデカルトと出会ったのは、確か高校一年の夏休みだった。「方法序説」を読んで、感想文を書けという宿題が出されたからだ。その時は、何が書かれているのか、何を言わんとしているのか、全くと言っていいほど分からなかった。今再び、この本を前にして、少[360]<br />私がデカルトと出会ったのは、確か高校一年の夏休みだった。「方法序説」を読んで、感想文を書けという宿題が出されたからだ。その時は、何が書かれているのか、何を言わんとしているのか、全くと言っていいほど分からなかった。今再び、この本を前にして、少しは理解できようになった自分の成長を嬉しく思う。
　さて、このデカルトの「方法序説」は、大きく分けて六部あり、第一部では、もろもろの学問について様々な考察が示されている。第二部では、デカルトが求めた方法を含むおもな規則について示されており、第三部では、第二部で求めた方法から取り出された道徳の規則のいくつかが示されている。第四部では、神と人間精神との存在証明、第五部、第六部では、自然学や医学等の問題や説明が記されている。その中で、特に第一部、第二部が、自分の身近に感じたので、考察していくことにする。
　第一部について。ここでデカルトは、良識＝理性（真偽を判断する能力）は、人間なら誰しも等しく具えており、大事なのは多くの理性を持つことではなく、また良い精神を持っているだけでは十分でなく、理性を良く用いることだと述べている。本来、私たちは、それぞれ違う意見..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[エロースについてのプラトン的解釈と現代的考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432335201@hc05/1205/]]></link>
			<author><![CDATA[ by halume]]></author>
			<category><![CDATA[halumeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 20 Jul 2005 01:36:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432335201@hc05/1205/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432335201@hc05/1205/" target="_blank"><img src="/docs/983432335201@hc05/1205/thmb.jpg?s=s&r=1121790985&t=n" border="0"></a><br /><br />エロースとは何か。それは愛の神である。では、愛とは何か。
現代において使われる「愛」と言う言葉は、ここで語るものとはその性質を異にしている。我々が普段、愛する者、例えば恋人であったり家族であったりといった者に感じる「愛」は精神と同時に肉体[356]<br />＜はじめに＞
エロースとは何か。それは愛の神である。では、愛とは何か。
現代において使われる「愛」と言う言葉は、ここで語るものとはその性質を異にしている。我々が普段、愛する者、例えば恋人であったり家族であったりといった者に感じる「愛」は精神と同時に肉体をも欲するものであると思う。では、エロースの持つ愛とは何か。
プラトン著の「饗宴」の中で、精神に惹かれる愛は肉体や外見に惹かれる愛よりも美しいとされている。とりわけこの時代においての少年愛については、それを語るに、同性愛の精神的結びつきを重要視している。ここにはある意味、女としての疑問を抱くことを禁じえないが、不朽の名作である「饗宴」より、真実の愛とは、エロースとは何かについて、私なりの見解を述べることとする。
＜饗宴＞
この「饗宴」という作品は、冒頭部分より、アポロドーロスがグラウコーンという知人に、アリストデーモスから聞いたエロースを賛美する会合を話して聞かせるという構造になっている。さらに、語られる話の中で、ソークラテースの語るエロースはディオティーマという女賢者から聞き及んだ話であるとされているのだ。構造的にはまことに回りくどいこ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Subjective nature of peception]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1159/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:06:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1159/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1159/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1159/thmb.jpg?s=s&r=1121749596&t=n" border="0"></a><br /><br />Fundamentally, we human beings can perceive and interpret something through 2 different views, one is the objective view[120]<br />Essay Question
To what extent may the subjective nature of perception be regarded as an advantage for artists but an
obstacle to be overcome for scientists?
Fundamentally, we human beings can perceive and interpret something through 2 different views, one is the objective view and other is the subjective view. The objective view is a way to perceive something based on fact and evidence. We have to think logically and we need to be careful about personal bias in this view. If you have your own ob..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Scientific Knowledge]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1157/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:03:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1157/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1157/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1157/thmb.jpg?s=s&r=1121749436&t=n" border="0"></a><br /><br />The science is one of the important thing in our life. There are basically 3 scientific methods to know and learn someth[120]<br />Scientific Methods Essay
The science is one of the important thing in our life. There are basically 3 scientific methods to know and learn something. Those scientific methods are called &quot;The Basic Scientific Method&quot;, &quot;Falsificationism&quot; and the &quot;Scientific Revolution&quot;. Each of these scientific methods have their own benefits and problems.
First, I will talk about &quot;The Basic Scientific Method&quot;. It is a popular way to accept knowledge. We observe something first, then we make some generalizations a..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Language does not make things clear. Instead, it creates confusion]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1154/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 13:59:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1154/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1154/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1154/thmb.jpg?s=s&r=1121749180&t=n" border="0"></a><br /><br />Most common way of communication is use of &ldquo;language&rdquo;. We speak or write &ldquo;language&rdquo; to communicate with each other. We t[128]<br />*Theory of Knowledge Essay
Q. &quot;Language does not make things clear. Instead, it creates confusion.&quot; Discuss this claim. 
Most common way of communication is use of &quot;language&quot;. We speak or write &quot;language&quot; to communicate with each other. We tell our feelings using language. I think &quot;language&quot; is a necessary for our human life. However, &quot;language&quot; often does not make things clear. Instead, it creates lots of confusion because &quot;language&quot; is difficult and complex thing. Many factors can change the m..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「ニーチェ」についての私論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432215801@hc05/1066/]]></link>
			<author><![CDATA[ by thikotann]]></author>
			<category><![CDATA[thikotannの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 18 Jul 2005 11:54:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432215801@hc05/1066/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432215801@hc05/1066/" target="_blank"><img src="/docs/983432215801@hc05/1066/thmb.jpg?s=s&r=1121655252&t=n" border="0"></a><br /><br />　現在を生きることの大切さ、それを強く提唱してくれた哲学者がニーチェであると思う。ニーチェ自身の送った生涯は、安定して幸せな生涯とは言いにくい。狂気に侵されて作家活動を止めざるをえなかったという、とても残酷で過酷なものだった。それでも、ニー[360]<br />　現在を生きることの大切さ、それを強く提唱してくれた哲学者がニーチェであると思う。ニーチェ自身の送った生涯は、安定して幸せな生涯とは言いにくい。狂気に侵されて作家活動を止めざるをえなかったという、とても残酷で過酷なものだった。それでも、ニーチェの作品には、古いと感じさせることがなく、まさに現在に見合った力強さを与えてくれる力があると感じさせる。２００年近くも前に書かれた言葉であるのに、まさに今にあてはまる考え方、思想を持っていて、時代を先取りして現代を見て書いていたのではないかと思わせる程である。ニーチェが今生きてこの世界を見ていると言われても、信じられるようだ。
　まさに今生きている、ニーチェが紡いだ言葉ひとつひとつに、私ははっとさせられるものがある。その中でも、強く心を捉えられたのが次の文章である。
　もしある友が、あなたに何か悪いことをしたら、こう言うがいい。「あなたがわたしに対して犯したことを、わたしは、許す。しかし、同時に、あなたは、それをあなた自身に対しても犯したのだ。－どうしてわたしに、それを許すちからがあるだろう！」
　これは、『ツァラトゥストラはこう言った』の「同情者..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[死生観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432418101@hc05/1025/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bin0225]]></author>
			<category><![CDATA[bin0225の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 16 Jul 2005 19:27:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432418101@hc05/1025/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432418101@hc05/1025/" target="_blank"><img src="/docs/983432418101@hc05/1025/thmb.jpg?s=s&r=1121509665&t=n" border="0"></a><br /><br />死と生は同じものであり、いかに死ぬかはいかに生きるかによるものなのである。

この文章は私に死と生のあり方とは何かについて、深く考えさせられた。文章の中の百万回死んだねこは最後に人を愛すことを知り、白いねこのために生きた、それまで彼は人[352]<br />　この文章は私に死と生のあり方とは何かについて、深く考えさせられた。文章の中の百万回死んだねこは最後に人を愛すことを知り、白いねこのために生きた、それまで彼は人のために尽くそうとしたことがなく、満足した死を迎えることが出来なかったのである。人は誰かのために生きた方が、価値のある死を迎えられる。つまり死と生は同じものであり、いかに死ぬかはいかに生きるかによるものなのである。
　生きることとは単に呼吸して、宇宙空間に存在するというものではない、私たちは行動を計画された二足歩行のロボットのような生き方をしてはいけないのである。充溢した生き方をするにはどうすればいい、それは個人個人違うでしょう、でも同..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学の現在]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/909/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gorilla]]></author>
			<category><![CDATA[gorillaの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 13 Jul 2005 20:41:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/909/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/909/" target="_blank"><img src="/docs/983432245801@hc05/909/thmb.jpg?s=s&r=1121254865&t=n" border="0"></a><br /><br />「家族という名の孤独」は、現在東京都精神医学総合研究所で働いている斎藤学氏の二十余年間の経験をもとに書かれた本である。この本は全部で九章に分かれている。
第一章では１９歳の女性を例にあげ、配偶者選択の不思議さについて書いてある。どのような[356]<br />要約
「家族という名の孤独」は、現在東京都精神医学総合研究所で働いている斎藤学氏の二十余年間の経験をもとに書かれた本である。この本は全部で九章に分かれている。
第一章では１９歳の女性を例にあげ、配偶者選択の不思議さについて書いてある。どのようなことが不思議かというと、人はどんなに過酷なものであっても同じ人間関係を繰り返すというものである。
第二章では自分が必要とされることを必要とする「共依存」について書かれている。
第三章では被虐待女性の多くは虐待する夫やパートナーよりも学歴も社会的能力も高く、男のほうがコンプレックスを抱いていることや、男性が傷つける対象は最も愛している人や癒しを期待する人だということなどが書かれている。
　第四章では子供は知らず知らずのうちに両親のカウンセラーを引き受けていることや、不幸が世代を超えて伝達することが４世代に渡って不幸が続く家庭を例にあげて書かれている。
　第五章では母と娘の関係は母と息子の関係以上に危険なものだと指摘している。また人の声の質が、人を好いたり嫌ったりする要素として重要であると書かれている。
　第六章では幼児虐待について書かれている。
　..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史における解釈とその表現]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432279801@hc05/787/]]></link>
			<author><![CDATA[ by a0028281]]></author>
			<category><![CDATA[a0028281の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 07 Jul 2005 21:07:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432279801@hc05/787/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432279801@hc05/787/" target="_blank"><img src="/docs/983432279801@hc05/787/thmb.jpg?s=s&r=1120738032&t=n" border="0"></a><br /><br />「図説･現代哲学で考える＜表現･テキスト･解釈＞」にはこのようにある。
「そもそも人文科学や社会科学の研究対象は、（中略）歴史の流れの中で理解されるべき領域に属する」「その際、人文科学や社会科学の方法として、ある種の「意味理解」がおこなわ[356]<br />２００５年度　哲学基礎論Ⅰ（宮原勇教授）課題レポート
歴史における解釈とその表現
T6　1024173350 小林篤司
序
「図説･現代哲学で考える＜表現･テキスト･解釈＞」にはこのようにある。
「そもそも人文科学や社会科学の研究対象は、（中略）歴史の流れの中で理解されるべき領域に属する」「その際、人文科学や社会科学の方法として、ある種の「意味理解」がおこなわれる」「そのような「意味理解」とは、自然科学のように直ちに普遍的法則を設定して個別的事象に働く原理を解明することを目指すのではなく、まさに「一回的」にのみ生成する歴史的事象の個別の独自性、言い換えれば個性を捉えようとする作業である」
以下、この著述に従って、歴史における意味理解の方法についてみていこうと思う。それが今回のレポートの主眼である。
歴史というのはひとまず価値ある証拠を収集し、統合し、史実を確定することから始まる。史実が確定され、その上総合されても、それだけでは史実の形骸につながるから、それ
を生かし、再現しなければならない。再現はどうして行なうか。ひとは、そこに想像が作
用するという。一般的に言われ、またわれわれも実感..]]></description>

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			<title><![CDATA[キリスト教とイスラム教の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432344301@hc05/581/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bigmound]]></author>
			<category><![CDATA[bigmoundの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 23 Jun 2005 23:48:50 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432344301@hc05/581/" target="_blank"><img src="/docs/983432344301@hc05/581/thmb.jpg?s=s&r=1119538130&t=n" border="0"></a><br /><br />世界に１８億人以上もの信者がいると言われ、その聖典である聖書（新約聖書と旧約聖書）は世界１８８４ヶ国語に訳されているキリスト教は言わずと知れたイエス＝キリストが始めた宗教である。簡単にこの宗教の発生・発展を見ていくことにする。キリスト教の開[360]<br />　キリスト教とその歴史について
世界に１８億人以上もの信者がいると言われ、その聖典である聖書（新約聖書と旧約聖書）は世界１８８４ヶ国語に訳されているキリスト教は言わずと知れたイエス＝キリストが始めた宗教である。簡単にこの宗教の発生・発展を見ていくことにする。キリスト教の開祖イエス＝キリストはBC７～BC４年頃、ユダヤのベツレヘムで生まれたといわれたユダヤ教徒であった。今日ではユダヤ教とキリスト教とは明確に区別されるがイエスやその後の弟子たちの宣教当時は「ユダヤ教とは別の宗教である」という意識はあまりなかったと考えられている。彼は民衆の立場に立った布教活動を展開し隣国のヘデロ王やローマ帝国の支配に苦しむユダヤ国民の精神的な支えとなっていった。ユダヤ教が厳しい戒律を守ることによって救われると説くユダヤ教に対して、彼は「神の愛は全ての人に注がれる」「弱者こそが救われる」「神は民族や階級で人を差別しない」などの斬新で寛大な教えを説いた。これを危険視したのがユダヤ教徒やローマ帝国であり、紀元３３年にキリストは処刑されることになる。ローマ帝国が危険視した背景には、まずキリストが反ローマ運動の中心的..]]></description>

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			<title><![CDATA[国家とは]]></title>
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			<author><![CDATA[ by happyabc]]></author>
			<category><![CDATA[happyabcの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 01:43:57 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432357601@hc05/479/" target="_blank"><img src="/docs/983432357601@hc05/479/thmb.jpg?s=s&r=1119285837&t=n" border="0"></a><br /><br />さて、政治の話が出たついでに、「社会」を意味するsocietyという英語の語源を考えてみると、これは、ラテン語で「親交、友愛、絆」を意味するsocietas（ソキエタース）からできた言葉で、さらに遡れば「仲間」、「友」を表すsocius（ソ[318]<br />国家とは
コラムの「人が歴史から学ぶ最大の教訓は、人は決して歴史から学ばないということだ」この言葉に非常に感銘を受けた。確かに人は過去の戦争や民族紛争などといった戦いについて歴史から学んでいない。歴史をそれほど重要視していないのであろうか。疑問に思うところである。
さて、国家とは何を基準に国家というのかと問われても非常に難しいものである。国家という言葉で思い浮かぶのは国家権力という言葉である。例えば何か犯罪を犯し警察に捕まりそれ相当の罰を受けることを国家権力の世話になると言ったりする。これからも分かるように国家は権力を持ちそれを行使できるという存在であるということがいえる。私達が普段の生活をおくれるのも大きく言ってしまえば国家のおかげである。しかし毎日の中で国家というものを意識するということはまずないであろう。日本人はそれほどまでに国家に依存しておらず頼りきってもいないのだ。日本がひとつにまとまるということの例としてスポーツが挙げられる。「日本代表」という肩書きを背負った精鋭達が海外の国々と対戦する時、または中田やイチロー・新庄のように個人単位での海外で活躍している選手達を応援する時な..]]></description>

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