連関資料 :: 日本史
資料:422件
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日本史Ⅰ 歴史的背景をみる
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大学のあるレポート課題です。私なりにまとめたこの内容がS評価となっています。ぜひ参考にしてください。
自らが歴史的に重要だと思うできごとを取り上げて、①それについて概要を示すとともに、②そのできごとの歴史的背景と③その出来事がもたらした状況、④なぜそれを重要だと思ったかの4点について述べなさい。
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歴史 社会 古代 中世
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日本法制史 江戸時代の離婚形式
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江戸時代の離婚は果たして夫専権離婚であったのか
1夫専権離婚とは、夫は妻の意思に関わらず一方的に離婚するができることをいう。
江戸時代での幕府法によると、庶民の夫婦が離婚する場合には離縁状を必要とされており、これを受理しないで再婚した妻は髪を剃って親元に帰されるという刑罰が課されていた。また、離縁状は必ず夫が書いて妻に渡していた。これらのことなどから、夫は妻を一方的に離婚することができたといわれてきた。これが夫専権離婚説である。
しかし、果たしてそうなのか。離縁状とその返り一札について詳細に調べてみると、夫専権離婚であったということに対して疑問の余地がある。以下、これらについて述べる。
2 離縁状の構成として、離婚理由があるが、実際の離縁状の離婚理由をみてみると、「事由なし」や、「我等勝手ニ付」などがある。これらは何を意味するものなのであろうか。
(1) まず、「事由なし」について考えてみる。
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日本史2(近世初期の対外関係について)
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『近世初期の対外関係について』
室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年(一五四三年)ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝えた。これが初めて日本に来たヨーロッパ人である。これをきっかけに南蛮貿易がはじまった。南蛮の語源はポルトガル人が南から船で渡ってきて、また身なりが当時の日本の基準からすると野暮ったいと見られたためとされている。
ここにはじめて日本とヨーロッパとの関係がうまれたのである。
当時のポルトガル・スペインの海外進出は、貿易とキリスト教の布教を結びつけて進められた。キリスト教の布教は、天文十八年(一五四九年)鹿児島に上陸したフランシスコ=ザビエルによってはじまる。
織田政権下ではキリスト教は基本的に弾圧を受けずに、信長は仏教諸派やキリスト教との間に距離をおきながら全ての宗教勢力を支配下に置こうとした。南蛮貿易も積極的に行われ、ヨーロッパの文化が日本に入ってくることとなった。
織田政権下に続いて豊臣政権下でも南蛮貿易は行われていたが、土佐国にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した時、乗組員からヨーロッパ諸国がキリスト教の布教活動によって植民地拡大を狙っているという話が伝わり、
また一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、天正十五年(一五八七年)に人身売買の禁止・キリスト教宣教師の追放・キリスト教布教の厳禁といったバテレン追放令が出された。しかし、南蛮貿易の継続や宗教に関係のない南蛮人は商人以外でも来日を認めるといった内容のため、実際の効果は薄かったといわれている。秀吉の狙いとしては、禁教令の効果よりも、日本人奴隷貿易の禁止と、キリシタン大名による南蛮貿易独占を打破することであった。
キリスト教は弾圧するが、貿易は推奨しているという点からは織田政権下と相反するものである。
それとともに、豊臣秀吉は朝鮮やルソン・ゴア・高山(台湾)などに入貢・服属を要求し、これが不成功に終わると渡海朱印制度を定めた。
また、秀吉は天下統一を果たすと明を征服しようと考え、足がかりとして朝鮮侵略を試みる。天正二十年(一五九二年)に漢城を攻め取ったとの報に、秀吉はアジア征服の大構想を打ち立てる。しかし、明の援軍と朝鮮の義軍と民衆の抵抗で戦況は逆転し、文禄二年(一五九三年)に和議が起こり日本軍は引き上げる。明の講和条件に激怒した秀吉は、慶長二年(一五九七年)に朝鮮に大軍を送り込むも苦戦が続き、慶長三年(一五九八年)に秀吉の病死を機に日本軍は朝鮮から引き上げて、朝鮮出兵は終わった。
徳川家康は秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた。慶長六年(一六○一年)からは朱印状が発行され、朱印船貿易が展開した。朱印状は中国人やヨーロッパ人にも与えられたが、多くの日本商人たちが朱印船貿易によってアジア各地に進出し、根拠地として各地に日本人町をつくった。
また、ちょうど大阪の陣の頃幕府はイギリス・オランダの貿易を拡大して布教と貿易の分離を実現していった。慶長十四年(一六○七年)にはオランダと、慶長一八年(一六一一年)にはイギリスとの貿易がはじまった。
朝鮮とは慶長十四年(一六○七年)に通商条約(己酉約定)を結び、明船も慶長十六年(一六○九年)には長崎に来て、東アジア諸国・地域との交流がはじまった。
このようにポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・中国・琉球・朝鮮、日本、東南
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近世初期
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日本史1(鎌倉幕府と執権政治について)
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『鎌倉幕府と執権政治について』
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(一一九九年)1月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年(一二〇○年)に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年(一二○三年)には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。
建仁三年(一二○三年)北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年(一二○四年)に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。
翌年の元久二年(一二○五年)に時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと試みるが、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連携して時政を引退させると共に、平賀朝雅を抹殺した。この事件で「執権」は時政から義時へと移る。
北条義時は北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。政所別当の義時は建保元年(一二一三年)に和田義盛を破り、侍所別当の地位を手にして幕府内における地位を高めることに成功する。
一方、このころ朝廷では後鳥羽上皇が和歌などの芸能を通じて将軍の源実朝と深く結びつき、間接的な幕政の介入を目指していた。また武芸にも深い関心を持っていた後鳥羽は武士団を統率し、かつての後白河のような国政の主導権を発揮しようとしていた。
そのような中、武力紛争の絶えない幕府の状況は、承久元年(一二一九年)頼家の遺児の公暁が将軍の源実朝を鶴岡八幡宮にて殺害するという最悪の事態に陥る。表面的には源家の家督争いだが、その背景には義時の謀略も想定される。幕府は摂関家出身の藤原頼経を将軍に迎え、公武の融和をはかるも後鳥羽は幕府打倒の意思を固める。これが承久三年(一二二一年)の承久の乱へと続く。これは幕府側の勝利に終わり、幕府軍を率いた北条泰時・時房は六波羅に常駐し、六波羅探題が成立する。これにより幕府側の京・西国支配体制が築かれて、国政の主導は完全に幕府へと移行した。
義時の後に「執権」となった北条泰時は、義時や政子といった幕府創業世代の死去による世代交代期の混乱を防ぐために叔父の時房を「執権」の補佐役である連署にあて、有力御家人の最高合議機関である評定衆をおき、集団指導体制を確立する。
承久の乱後、急増した訴訟問題などに対して、貞永元年(一二三二年)に泰時を中心として、理非に基づく合議採決の基準を定めた御成敗式目と呼ばれる武家法が制定される。これは武家による最初の本格的成文法で、以後永く模範とされる。泰時の「執権」期の幕府の体制は、将軍専制政治より執権政治という新たな段階へ移行したと評価することができる。
仁治元年(一二四〇年)に連署時房が、仁治三年(一二四二年)には「執権」泰時が相次いで没し、次の「執権」の北条経時は病弱であったために、北条時頼に「執権」を譲った。この様な状況下、「執権」北条氏に対抗する勢力が将軍頼経周辺に形成されはじめる。当初権力基盤の弱
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