玉鬘十帖と玉鬘

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    資料紹介

    序論
     どのような物語にも、そこには作者の意図しているものがある。一つの物語につき作者は一人であるが、その物語を読む人の数は数え切れないであろう。そして、その読者一人一人による解釈というものがあり、それは必ずしも一致するとは限らない。よって、物語は作者の考えとは異なるかたちで人々に読まれてしまう場合もある。
     それは、それで良いのではないか。というのは、一文をみじん切りにし、こと細かく分析する文学者たちの説明は難しい。分かりやすい文章を複雑にしている場合もみうけられる。作者がつくったもの以上を、分析者たちが見出してしまう気すらする。しかし、これは私が理解に苦しむだけのことであって、これではいつまでも文章を深く追求することはできないであろうか。ここで、気になる文章を紹介したい。
     私はなぜこんな分かりきったような素朴なことからくどくどいわねばならないのか。(中略)物語の本質というものは何であり、それはどのようにしてとらえられるのか、物語の本質が分かって始めて成果をあげられる人物論というのは何をねらうものなのか、人物論それじたいの中から物語の本質にせまりえないのであろうか
     これは、秋山虔氏が「物語を物語としてみるということについて」の中で述べている箇所であるが、納得する部分が多くある。そして、この答えを章の最後にみつけることが出来た。以下の部分である。
     物語は物語として研究されねばならないのはいうまでもないが、物語の本性は、私たちが、めいめい独自の主体的な挑戦によって開顕する。(中略)私たちの人間について文学についての関心をぶっつけるところから、すべてが開始する、というのが私の考えかたである。
     氏の述べているのは尤もな意見である。やはり一人一人の独自的な解釈があるようだが、それは挑戦することによって初めて得ることが出来るのである。

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    序論
     どのような物語にも、そこには作者の意図しているものがある。一つの物語につき作者は一人であるが、その物語を読む人の数は数え切れないであろう。そして、その読者一人一人による解釈というものがあり、それは必ずしも一致するとは限らない。よって、物語は作者の考えとは異なるかたちで人々に読まれてしまう場合もある。
     それは、それで良いのではないか。というのは、一文をみじん切りにし、こと細かく分析する文学者たちの説明は難しい。分かりやすい文章を複雑にしている場合もみうけられる。作者がつくったもの以上を、分析者たちが見出してしまう気すらする。しかし、これは私が理解に苦しむだけのことであって、これではいつまでも文章を深く追求することはできないであろうか。ここで、気になる文章を紹介したい。
     私はなぜこんな分かりきったような素朴なことからくどくどいわねばならないのか。(中略)物語の本質というものは何であり、それはどのようにしてとらえられるのか、物語の本質が分かって始めて成果をあげられる人物論というのは何をねらうものなのか、人物論それじたいの中から物語の本質にせまりえないのであろうか
     
     これは、...

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