2-3運動量とエネルギーの比較

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    運動量とエネルギーの比較
    運動量とエネルギーの概念は 1つにまとめられないものだろうか?
    別のアプローチは可能か?
     「エネルギーとは何か」の記事を書いている途中でふと次のようなことを思った。
     エネルギー保存則は、運動量が0の状態の2つの物体がお互いを突き飛ばすことによってそれぞれが運動量を持つようになることを禁止しているようだ。  もしこの考えが、止まっている状態の2つの物体だけでなく、動いている場合にも拡張できるのならば、わざわざエネルギーなどという新しい概念を作らなくても、代わりに「運動量の絶対値の保存法則」とかを作ってやればいいわけで、より直観的に理解し易くなるのではないだろうか?
     もしこういったことが出来るなら、物理から「エネルギー」と言う言葉を完全に消し去ってやることが出来るわけで、代わりに「運動量」だけで全てを説明してやれるではないかと目論んだのである。  しかし、この試みはうまく行かなかった。 運動量だけではどうしてもエネルギー保存法則の代わりになるような法則を作ることが出来ないのである。 衝突の前後で保存する量を作ろうとすると、質量も入れる必要が出てきて、結局エネルギーと同じものを定義する羽目になってしまう。
     なぜ私がエネルギーという概念を素直に受け入れようとせずに、「運動量」だけで何とか説明できないだろうか、と抵抗するかと言うと、「エネルギー」というものが一体何なのか、うまく説明できないからである。  もちろん、定義や数式を使って説明することは出来る。 しかし、突き詰めていくと納得のいく簡単な言葉での説明が難しい。 最後には「エネルギーはエネルギーだ、慣れろ」としか言いようが無い。
     なぜ私がうまく説明できないかと言えば、それは、根本の部分でエネルギーと運動量があまりによく似ているからである。
    エネルギーと運動量は似ている!
     一体、「エネルギー」と「運動量」は、何が違うというのだろうか? 運動エネルギーだけに関して言えば、エネルギーと運動量は両方とも「運動の勢い」を表す量であって、こいつらを分解すれば両方ともただの「質量」と「速度」の組み合わせでしかない。 「運動の勢い」を表したいだけならどちらを使っても差し支えないではないか。
     それであるのに、2物体の衝突後の速度を求める時には「運動量保存則」と「エネルギー保存則」の二つの条件が必要になってくる。 もし物体が2種類の独立した全く性質の違うものをそれぞれ持っているというのならば法則が2つあってもそれほど不思議ではないのだが、なぜこの同じような意味を持つ量が別々に物体の運動を規定しているのだろうか?
     言葉を替えて言い直そう。 物体はなぜ衝突の前後で「運動量保存則」と「エネルギー保存則」の二つを律儀に守ろうとするのであろうか?  衝突の前後で「速度」がどう変化するかだけを求めたいのに、法則は2つ必要。 そこが気持ち悪さを感じる原因である。
     物体自身はこの2つの法則を別々に考えて従っているわけではないであろう。 何か一つのそうせざるを得ない仕組みが裏に隠されていて、結果として自動的に2つの保存法則を守ることになっているに違いない。 それを人間の理解しやすい形式で解釈すると2つの法則に従っているように見えるだけなのだ。 きっと。 私はそれを何とかして一つの法則として理解したいと思うのである。
    エネルギーと運動量の違い
     エネルギーが運動量と違う点は、運動していなくても「どこかに蓄えられている」事だ。 例えばバネをギュッと押し縮めた時、運動はしていないがこれ

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    運動量とエネルギーの比較
    運動量とエネルギーの概念は 1つにまとめられないものだろうか?
    別のアプローチは可能か?
     「エネルギーとは何か」の記事を書いている途中でふと次のようなことを思った。
     エネルギー保存則は、運動量が0の状態の2つの物体がお互いを突き飛ばすことによってそれぞれが運動量を持つようになることを禁止しているようだ。  もしこの考えが、止まっている状態の2つの物体だけでなく、動いている場合にも拡張できるのならば、わざわざエネルギーなどという新しい概念を作らなくても、代わりに「運動量の絶対値の保存法則」とかを作ってやればいいわけで、より直観的に理解し易くなるのではないだろうか?
     もしこういったことが出来るなら、物理から「エネルギー」と言う言葉を完全に消し去ってやることが出来るわけで、代わりに「運動量」だけで全てを説明してやれるではないかと目論んだのである。  しかし、この試みはうまく行かなかった。 運動量だけではどうしてもエネルギー保存法則の代わりになるような法則を作ることが出来ないのである。 衝突の前後で保存する量を作ろうとすると、質量も入れる必要が出てきて、結局エネルギーと同じものを定義する羽目になってしまう。
     なぜ私がエネルギーという概念を素直に受け入れようとせずに、「運動量」だけで何とか説明できないだろうか、と抵抗するかと言うと、「エネルギー」というものが一体何なのか、うまく説明できないからである。  もちろん、定義や数式を使って説明することは出来る。 しかし、突き詰めていくと納得のいく簡単な言葉での説明が難しい。 最後には「エネルギーはエネルギーだ、慣れろ」としか言いようが無い。
     なぜ私がうまく説明できないかと言えば、それは、根本の部分でエネルギーと運動量があまりによく似ているからである。
    エネルギーと運動量は似ている!
     一体、「エネルギー」と「運動量」は、何が違うというのだろうか? 運動エネルギーだけに関して言えば、エネルギーと運動量は両方とも「運動の勢い」を表す量であって、こいつらを分解すれば両方ともただの「質量」と「速度」の組み合わせでしかない。 「運動の勢い」を表したいだけならどちらを使っても差し支えないではないか。
     それであるのに、2物体の衝突後の速度を求める時には「運動量保存則」と「エネルギー保存則」の二つの条件が必要になってくる。 もし物体が2種類の独立した全く性質の違うものをそれぞれ持っているというのならば法則が2つあってもそれほど不思議ではないのだが、なぜこの同じような意味を持つ量が別々に物体の運動を規定しているのだろうか?
     言葉を替えて言い直そう。 物体はなぜ衝突の前後で「運動量保存則」と「エネルギー保存則」の二つを律儀に守ろうとするのであろうか?  衝突の前後で「速度」がどう変化するかだけを求めたいのに、法則は2つ必要。 そこが気持ち悪さを感じる原因である。
     物体自身はこの2つの法則を別々に考えて従っているわけではないであろう。 何か一つのそうせざるを得ない仕組みが裏に隠されていて、結果として自動的に2つの保存法則を守ることになっているに違いない。 それを人間の理解しやすい形式で解釈すると2つの法則に従っているように見えるだけなのだ。 きっと。 私はそれを何とかして一つの法則として理解したいと思うのである。
    エネルギーと運動量の違い
     エネルギーが運動量と違う点は、運動していなくても「どこかに蓄えられている」事だ。 例えばバネをギュッと押し縮めた時、運動はしていないがこれは元に戻ろうとする力を秘めている。 そしてこの力は物体を運動させることが出来る。
     磁石の同じ極同士を近づけた時にも、再び反発する力があり、エネルギーが蓄えられている。 運動はしていないが、エネルギーは「在る」のである。
     この蓄えられている状態のエネルギーを、運動エネルギーに変化する「潜在能力(ポテンシャル)」があるという意味で「ポテンシャル・エネルギー」と呼ぶ。 位置エネルギーはポテンシャル・エネルギーである。
     ポテンシャル・エネルギーは運動エネルギーとは意味合いが違うようだ。 しかしポテンシャル・エネルギーと運動エネルギーは相互に変換することが出来るし、これらの合計はいつも変わらないのだ。 運動エネルギーが減ればどこかにポテンシャル・エネルギーが蓄えられているし、ポテンシャル・エネルギーが減る時には運動エネルギーが増えることになる。 これは「運動量」と「エネルギー」の大きな違いである。
     また、相対性理論では E = m c2 という大変美しい公式が導かれていて、これはエネルギーが質量と同じであることを表している。 どうやらエネルギーという何かは力学で定義される以上のもっと深い意味を持っているようであり、運動量と一緒にして葬り去ってしまうにはあまりにもったいなすぎる概念なのである。 このあたりは相対論のページで詳しく議論することにしよう。
    さらに専門的には
     運動量は「力」を「時間」で積分したものであり、エネルギーは「力」を「空間座標」で積分したものである。 相対論では時間と空間座標を対等の立場のものとして考えるので、運動量もエネルギーも同じ形式で表現することができる。 この形式を使えば、エネルギーも運動量も「エネルギー・運動量テンソル」と呼ばれる一つの実体として表され、保存則も一つにまとめられる。
     運動量保存則とエネルギー保存則という2つの大切な法則が一つにまとめられるのは大変素晴らしいということで、私も初めはこの形式に持っていくつもりでいたわけだが、この形式は「力」をより基本のものとしてとらえているのであって、「運動量」をより基本のものとしてとらえる私の哲学に反する。
     自分の哲学に反するというだけならば、その哲学を捨てることも考えなければならないだろう。 ところが、どうやらエネルギーの保存というのはニュートンの運動方程式から導かれるものであって、運動量ほどには基本的な概念ではないということに最近気付き始めた。 すると、「運動量」を基本とする私の哲学は結構いい線を行っているようであって、これで推し進めたらどうなるか、というところに興味が出てきたのである。
     そして、相対論流のこのテンソルによる表現は単なる形式的な美しさや計算の簡単化を求めたものであって、根本的な理解を助けるものではないと考えるようになって来た。
     しかし、テンソル形式無しで相対論を展開できるかどうか、私にはまだ分からない。 その辺りにこれからチャレンジしてみようと思うので、微笑んでこの愚か者の挑戦を眺めていて欲しいと思う。
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/compare.html

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