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		<title>タグ“R0106”の公開資料</title>
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			<title><![CDATA[【東洋の歴史】（アジア史）科目最終試験対策【2018年90点合格】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/134048/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 28 May 2018 14:08:30 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/134048/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/134048/thmb.jpg?s=s&r=1527484110&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学「東洋の歴史」（アジア史）
科目最終試験過去問6題とその答案です。

東洋の歴史・アジア史という科目ならば
科目最終試験の問題は同一のため対応できます。
この6問の中から出題されており
これさえ勉強すれば合格できると思い[332]<br />次の事項から一つを選択し、文化の具体的内容と特徴について述べよ
➀前漢・後漢の文化　⓶明代の文化　⓷清代の文化　⓸新文化運動
➀を選択する。
漢とは紀元前3世紀末に秦が倒れ、劉邦が建国したものであり、途中王莽による「新」王朝が挟まったものの、紀元後2世紀ごろまで続いた王朝である。この王莽による中断により、「前漢」「後漢」と区別することが多い。本稿では前漢・後漢時代の学問や書道などの文化面について述べていく。
　漢初期では、無為自然を掲げる思想が広まっていたが、国の基礎が固まるにつれ儒学を学ぶものが多くなっていった。武帝は董仲舒の進言を受け入れ官吏登用制度として儒学の精神に基づくものを創設し、また五経博士を置きそのもとに弟子をつけて教育させるなど、儒学を政府公認の学問とした。いわゆる儒学の官学化である。漢代の儒学には三つの特徴があり、第一に儒学が著しく形式主義となったことだ。官学化された儒学は皇帝の尊厳化の道具として使用されたのである。第二に儒学の多様化が挙げられる。学問が儒学に統一されると、他の学派も吸収して変質せざるを得なくなった。第三は訓詁学である。これは儒学の経典の一字一句の意味を確定する学問であり、これが発達したのである。
　またこの時代は歴史学も新しい発展を見せた。司馬遷の「史記」がその代表であり、人物の伝記である紀伝体で記述し、この方法は高く評価された。後漢時代には班固が「史記」にならって、前漢の歴史書である「漢書」を記した。
　書道においては、秦代から用いられていた、隷書が漢代の公用文字使用されていた。しかし官僚組織の整備、文書行政が進展するにつれて記録や書簡にはより敏速に書くことのできる草書や行書が隷書体から生まれたとされる。一方で書写の材料は、木簡・竹簡・絹であったが、絹は高価、木簡・竹簡はその形状から筆遣いが制約されてしまい、書道の発展の妨げとなっていた。書道が本格的に発展するのは、後漢の宦官、蔡倫が木の繊維や麻くずなどを材料として安価な「紙」の製法を発明し、紙上に自由に運筆できるようになってからのことである。この紙の発明は言うまでもなく、世界中に大きな影響を与え現代でも広く普及している。
　以上のように漢代では、儒学が官学化され国の政治制度にも影響を与えていたことや、歴史学・書道において後世にも影響を与える大きな進展があったのである。
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			<title><![CDATA[東洋の歴史　試験対策　Q0102　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97918/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ハナニャン]]></author>
			<category><![CDATA[ハナニャンの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2012 19:12:10 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97918/" target="_blank"><img src="/docs/950158898355@hc12/97918/thmb.jpg?s=s&r=1350555130&t=n" border="0"></a><br /><br />これだけ何度も読んで試験に合格しました。参考にしてください。[90]<br />１．太平天国運動　
洪秀全と拝上帝会
　洪秀全は客家の出身であった。洪秀全の家は貧しかったが、彼は村塾の教師をしながら科挙に何度も挑戦した。しかし合格できず、重い熱病にかかり、その時みた夢の内容がキリスト教の伝道書『観世良言』の内容と一致していることに驚いた。そして、みずからエホバの子、イエスの弟であると確信し、地上の妖魔を打ち払い、地上に天国を建てる使命が与えられたと考えた。
　洪秀全は村塾の教師、従弟らと拝上帝会を創設し、故郷での布教を開始した。上帝をエホバと等置し、唯一無二の真の神であり、天下の男女はすべてその子として兄弟姉妹であり、その間に差別や対立や抗争があってはならないと説いた。道教・儒教・仏教などの神仏・偶像、すなわち妖魔に惑わされてはいけないと回心を訴えた。洪秀全は、自分こそが上帝から地上に救いをもたらせとの命を受けた地上の真の主であると主張し、妖魔の崇拝を持ち込んだ歴代皇帝を偽りの地上の主であると断罪した。布教の旅に出発し、客家の貧民の間に多くの信者を獲得していき、偶像破壊運動を推し進めた。1850年7月、洪秀全は会員に対し、全財産を処分して金田村に集結するよう指令した。1万人をこえる会員が集結し、持参した財産を公有の金庫である聖庫に納めた。彼らは聖庫からの支給によって生活し、男営、女営に編成されて軍事訓練を受けた。51年1月、洪秀全は正式に反清武装蜂起を宣言し、国号を太平天国とし、自ら天王となった。
太平天国の発展
　太平軍は、清朝軍との攻防戦を繰り広げながら北上し、1851年9月、広西省永安県を占領した。ここで洪秀全は、政治・軍事体制を整備・強化し、楊秀清を東王、蕭朝貴を西王、馮雲山を南王、韋昌輝を北王、石達開を翼王にそれぞれ封じるとともに官制・軍制・軍規・暦法などを制定した。各将兵には姦淫、飲酒、アヘンの吸飲、金銀の私蔵、賭博、略奪などを厳しく戒めた。周辺農村に太平天国の目的を説明し、帰依し協力する民衆には衣食を保障する一方、抵抗する地主・高利貸商人らの財産を没収した。1852年4月、清朝軍に包囲された永安を突破し北上して湖南省に進駐、53年には50万を超える軍団に発展し、南京を占領した。天王洪秀全はここを天京と改称し太平天国の首都とし、両江総督の衛門に天王府を置いて新政権を樹立した。建都後、北伐と西征を開始した。北伐軍は、天津郊外に迫り..]]></description>

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