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		<title>タグ“R0105”の公開資料</title>
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		<description>タグ“R0105”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[佛教大学 R0105日本史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120085/thmb.jpg?s=s&r=1430531630&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について
　わが国の議会の歴史をかえりみるに、それは議会の構成メンバーであった議員が所属する政党の歴史であったといっても過言ではない。ただしいつの時代においても政党が有権者の民意を吸い上げることができる集団であり得たかというとそうではない。政党を構成する議員も一人の人間であり、その人間達が作り出す政治には数々のドラマが秘められているのである。以下では、わが国の議会の黎明期ともいえる、初期議会から日清戦争後にかけての帝国議会の推移を概観し、そこにおいて政党が果たした役割を確認してみる。
１．１８８０年代の政党
明治時代の政治は、倒幕に功のあった藩閥政治家によって牛耳られていた。それに対して、自由民権運動などを通じて、藩閥以外の思想家・運動家たちが政治への参加を求めるという構図が成り立っていた。１８８１年（明治一四年）に国会開設の勅諭が出されるや、民権派により政党が結成されていく。板垣退助が中心となった自由党や、大隈重信が中心となった立憲改進党がそれである。前者はイギリス流の立憲思想を、後者はフランス流の民権思想をスローガンとしていた点にそれぞれの特徴があ..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[佛教大学 R0105日本史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120084/thmb.jpg?s=s&r=1430531629&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />鎌倉幕府と執権政治について
　鎌倉幕府はその初代将軍の源頼朝の死後、執権政治へと移行したと一般的には言われている。執権とは政所別当の中心者を指し、１２０３年（建仁三年）に政所別当となった北条時政が初代の執権とされている。そして以後約１３０年の間、北条氏により執権職が受け継がれ幕府が運営されていく。以下では、この執権を中心に進められた執権政治のあり方を、主に将軍との関係という観点から概観し、執権政治の一面を考察してみたい。
１．執権と執権政治
鎌倉時代の執権政治を考察するにおいて、執権政治というものがいつ開始したのかという点を明らかにしておく必要がある。この点に関して、執権職を代々独占した北条氏の権力基盤というものを考えてみるに、ひとえに初代将軍である源頼朝の妻である北条政子の血筋であるという血縁関係であるというよりほかはない。すなわち、北条氏は政子の存在を経由することで将軍の遠戚であった。ただし、政子自身は頼朝亡き後、承久の乱における諸御家人への演説や二代将軍頼家暗殺事件を理由とする時政排除などにおいて常に政治の中心人物となっていた。したがって、少なくとも執権政治の成立を考えるにおいて..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日本の歴史　試験対策　Q0101　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ハナニャン]]></author>
			<category><![CDATA[ハナニャンの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2012 19:12:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/" target="_blank"><img src="/docs/950158898355@hc12/97919/thmb.jpg?s=s&r=1350555130&t=n" border="0"></a><br /><br />これだけ何度も読んで試験に合格しました。参考にしてください。[90]<br />１．１９世紀における政党政治の歴史について述べよ。
最初の政党は、板垣退助らが結成した愛国公党であった。「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動の発端となった。この党は、自由民権運動の中核となっていき、後には自由党に発展した。一八八一（明治十四）年には、国会開設の勅諭が出された。そこで、板垣らが自由党を、翌年に大隈重信らが立憲改進党を結成した。自由党は後の政友会に、改進党は民政党へと引き継がれた。
初期議会（第一～第六議会）の特徴は、超然主義をかかげて軍備増強をすすめる政府と、予算削減と民力休養を主張する立憲自由党・改進党を中心とする野党勢力である民党との激しい対立であった。　
　日清戦争の終結は、ロシアを仮想敵国とする大軍拡の開始でもあった。挙国一致を経て政党も軍拡を明確に支持するようになった。自由党は、増税も容認して財政膨張を認めるが、鉄道建設など地方名望家の地域開発要求をまとめ政府に実現させようとし、伊藤内閣との提携宣言を発表し、このみかえりとして、自由党総理板垣退助が内務大臣に就任した。次の松方内閣には、大隈重信が外相として入閣しており、改進党の系譜をひく進歩党が与党の位置をしめた。このように日清戦争後には、官僚勢力と政党が明確なかたちで提携を開始した。
　しかし日清戦争後の財政膨張により地租増徴問題が政治課題として浮上してきた。松方内閣が地租増徴の方針を採用すると、進歩党は内閣との提携を断絶し、内閣は総辞職となった。第三次伊藤内閣が成立したが、同じ増税案を議会に提出すると、自由党と進歩党が連携して法案を否決し、内閣が議会を解散すると両党は合同して憲政党を組織し、内閣に対抗した。
　衆議院の絶対多数をしめる政党の出現により、伊藤博文の主張により政党指導者の大隈重信・板垣退助に内閣を組織させることになった。これは陸軍・海軍両大臣を除く全閣僚が憲政党員からなる日本初の政党内閣であった。こうして最初の政党内閣が成立したが、憲政党内の旧自由党・旧進歩党の両派は任官ポストをめぐって対立を激化させ、憲政党と憲政本党とに分裂し、隈板内閣はわずか四ヶ月で崩壊した。
　この分裂で政党操縦の自信を回復した元老・官僚勢力によって第二次山県内閣が組織された。山県内閣は議会対策として憲政党との提携を工作し、憲政党は党勢拡張の便宜を政府から与えられることを条件に内閣支持にまわり..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92340/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2012 18:09:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92340/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92340/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/92340/thmb.jpg?s=s&r=1334135399&t=n" border="0"></a><br /><br />第二設題：「初期議会から日清戦後にかけての政党について」のレポートです。

縦書き指定だったと思うので、直してお使いください。[185]<br />第二設題：初期議会から日清戦後にかけての政党について
1．自由民権運動の生成と政治結社の結成
明治六年の政変は、自由民権運動の開始と密接な関係にある。それというのも、征韓論争に敗れ下野した板垣退助や後藤象二郎らが愛国公党を設立するとともに、江藤新平、副島種臣らの力を借り、「民選議院設立建白書」を作成、提出したからである。建白書は有司専制の弊害を批判し、公論にもとづく政治を行うための国会設立を求めた。これは世論に大きな影響を与えることとなった。建白書の内容は、素朴な民主主義的潮流をも代弁したが、当初この運動を担ったのが下野した高級官僚や外国帰りの急進的知識人であったため、士族的要素の強い性格を持った。
建白書の影響は、各地に政治結社の成立となってあらわれた。高知県では板垣らにより立志社が、大阪では愛国社が、名東県では自助社が、というように、全国各地で民間の結社が結成され、後の政党の基礎となる。
こうした地域の政治的成長の中で、明治九年（一八七六）、三重県・茨城県をはじめ、全国的に地租改正反対一揆が起き、法的に請願闘争を行う地域もあらわれる。この事態を受けて、立志社は明治十年（一八七七）の..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日本史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92339/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2012 18:09:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92339/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92339/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/92339/thmb.jpg?s=s&r=1334135395&t=n" border="0"></a><br /><br />第1設題：「鎌倉幕府と執権政治について」のレポートです。


参考文献・URL一覧も載せていますので、そちらも参考にしてみてください。
[188]<br />第1設題：鎌倉幕府と執権政治について
1．鎌倉幕府の成立
文治元(一一八五)年、平氏勢力を長門国壇ノ浦で壊滅させた頼朝は、一大勢力であった奥州藤原氏を文治五(一一八九)年に滅ぼし、建久元(一一九〇)年に上洛して朝廷支配層の一員にくわわるとともに、京中および諸国の治安警察権を朝廷より認められ、頼朝とその御家人の軍事力の国家的位置づけを明確なものとした。頼朝と政治パートナーの関係にあった後白河上皇が没した後の建久三(一一九二)年には征夷大将軍の地位を獲得し、「将軍」の名目が成立する。また、幕府は、建久四(一一九三)年頃より、伊勢神宮遷宮費用の確保など朝廷財政の面でも大きな役割を果たすようになった。
　鎌倉幕府の支配機構は侍所や守護といった軍事・警察分野以外でも整備がすすめられ、寿永三(一一八四)年には頼朝家家政を司る公文所(後に政所へ発展)が京下がりの実務官人大江広元を長官(別当)に迎えて設けられ、また同じころ、訴訟受理実務を担当する問注所が朝廷実務官僚の三善康信を長官(執事)としておかれた。建久二(一一九一)年に家人所領安堵の文書を頼朝下文から頼朝政所下文に統一して切り替えたことは、幕府..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日本史設題１，２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92338/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2012 18:09:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92338/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/92338/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/92338/thmb.jpg?s=s&r=1334135392&t=n" border="0"></a><br /><br />第1設題：鎌倉幕府と執権政治について

第二設題：初期議会から日清戦後にかけての政党について


参考文献、URLも載せていますので、そちらも適宜参考にしながらお使いください。


★縦書きという指定があったと思うので、直してお使いください[336]<br />第1設題：鎌倉幕府と執権政治について
1．鎌倉幕府の成立
文治元(一一八五)年、平氏勢力を長門国壇ノ浦で壊滅させた頼朝は、一大勢力であった奥州藤原氏を文治五(一一八九)年に滅ぼし、建久元(一一九〇)年に上洛して朝廷支配層の一員にくわわるとともに、京中および諸国の治安警察権を朝廷より認められ、頼朝とその御家人の軍事力の国家的位置づけを明確なものとした。頼朝と政治パートナーの関係にあった後白河上皇が没した後の建久三(一一九二)年には征夷大将軍の地位を獲得し、「将軍」の名目が成立する。また、幕府は、建久四(一一九三)年頃より、伊勢神宮遷宮費用の確保など朝廷財政の面でも大きな役割を果たすようになった。
　鎌倉幕府の支配機構は侍所や守護といった軍事・警察分野以外でも整備がすすめられ、寿永三(一一八四)年には頼朝家家政を司る公文所(後に政所へ発展)が京下がりの実務官人大江広元を長官(別当)に迎えて設けられ、また同じころ、訴訟受理実務を担当する問注所が朝廷実務官僚の三善康信を長官(執事)としておかれた。建久二(一一九一)年に家人所領安堵の文書を頼朝下文から頼朝政所下文に統一して切り替えたことは、幕府支配の基盤を将軍政所におく方策のあらわれであった。
2．初期鎌倉幕府における権力闘争と北条氏の台頭
　幕府の支配はさまざまな機構に支えられていたものの、頼朝の時代の幕府の意志はあくまで頼朝個人の意志として示された。しかしこうした専制支配は、将軍候補を擁立した御家人集団同士の激しい権力闘争を引き起こす危険性をはらんでいた。
　正治元(一一九九)年に頼朝が没し、その三年後に長子頼家が将軍に就任すると御家人中心の政治を求める動きが強まった。幕府権力の構造矛盾を解消させるため、正治元年に頼朝の親裁停止と、有力御家人による「一三名の合議制」が成立した。しかし、将軍位をめぐる権力闘争は現実のものとなり、正治元年の梶原景時の変に始まり、幕府内部ではさまざまな事件が勃発した。こうした状況下で伊豆の北条氏が勢力を伸ばし、頼朝の妻北条政子の父である時政が将軍であった頼家を廃し、実朝を立てたことを機に幕府の実権を握った。時政の地位は執権とよばれ、子の義時に継承された。さらに義時は侍所の長官(別当)であった和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めた。これ以後、執権は北条氏一族のあいだで世襲..]]></description>

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		<item>
			<title><![CDATA[【R0105】日本史　第一・二設題レポートセット　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/]]></link>
			<author><![CDATA[ by storm3104]]></author>
			<category><![CDATA[storm3104の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 02:53:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/" target="_blank"><img src="/docs/951381166701@hc11/91206/thmb.jpg?s=s&r=1330883596&t=n" border="0"></a><br /><br />Ｂ判定でしたが、２設題セットです。学習の参考にどうぞ。①鎌倉幕府と執権政治について②初期議会から日清戦後にかけての政党について。
留意点は「鎌倉幕府自体に関する既述」「離散集合に関する内容」について、もう少し深く掘り下げてみてください。
＜[356]<br />●第一設題　　鎌倉幕府と執権政治について。
◆執権政治のはじまり
　執権政治とは、将軍（征夷大将軍）にかわって政治を執り行ったことであり、北条時政が初代となって、その体制の基を作った。
　正治元年（1199）に源頼朝が急死したことにより、長男・頼家が二代将軍として跡を継いだ。まだ年若かった頼家は武士達を統率する力がなく、そのため母である北条政子・その父の北条時政が代わりに政治を執り行うこととなった。これが執権政治のきっかけである。これが気にくわない頼家は気に入った御家人・武士達を集めて権力を取り返そうと試みるものの、1199年に梶原景時の鎌倉追放（翌年に殺害）をはじめ、1203年には頼家の弟・阿野全成が謀反の疑いで殺害され、比企能員、さらに一族が滅ぼされ、頼家の子・一幡の殺害など将軍位継承を巡る血なまぐさい事件が後を絶たなかった。
　頼家が母である北条政子、北条家よりも妻の実家比企家を頼ったことから、比企家が権力を握ることを恐れた北条氏は、将軍独裁の政治から、有力御家人十三名の合議制を成立させる。頼家の親裁を停止し、北条時政が十三人に加わり、さらに子の北条義時をも十三名の中に組み入れることに成功した。これによって頼家の権力を封じ込め、さらには頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまうのである。
　時政は、比企氏を滅ぼしたのを機に「政所別当」に就任し、三代将軍実朝の補佐役となる。すなわち、時政が名実ともに執権となり、事実上、幕府の最高の職となった。
◆承久の乱
　この頃朝廷では、後鳥羽上皇が和歌など芸能を通じて実朝と深く結びついていた。実朝は、実権を北条氏に握られていたこともあり、和歌などに傾倒していったという見方もある。金塊和歌集という和歌集も出している。しかし後鳥羽上皇は実朝との関係を機に、間接的な幕政介入の機会をうかがっていた27歳の時に右大臣の地位に就いた直後、実朝は承久元年（1219）、２代将軍頼家の遺児・公卿に、鶴岡八幡宮で殺害された。これは北条義時や三浦義村らの謀略があるといわれている。
　幕政介入の鍵であった実朝殺害によって、後鳥羽上皇は大きな衝撃を受ける。幕府は摂関家出身の九条頼経（三寅）を将軍に迎え、公武融和を図るが、後鳥羽は幕府打倒の意志を固め、承久三年（1221）、北条時政失脚後、幕府の中心にあった義時追討に出る。後鳥羽は西国に基盤を置く武士や京中警..]]></description>

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