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		<title>タグ“Q0505”の公開資料</title>
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		<description>タグ“Q0505”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
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		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論【Q0505】2017年度科目最終試験対策6題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2018 12:04:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132898/thmb.jpg?s=s&r=1519873445&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　哲学概論【Q0505】の
2017年度科目最終試験対策６題です。
過去の出題問題が以下の6パターンなので
この内容を抑えれば合格できると思います。

１.哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりながら考[318]<br />哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりながら考える。
答案
　「愛智」を哲学的な意味で最初に用いたのはピュタゴラスである。古代ギリシャの精神には自然についての思索と人間の魂についての思索の二つの流れがある。前者の中心は小アジア地方であり、早くから自然世界の原理は何であるかを探求していた。ターレスはそれを水と考えたように。これらの思想家は「イオニアの自然学者」と呼ばれる。一方でイタリアにおけるギリシャ人植民地には人間の魂を主題とする思想があった。その中心はイオニア文化圏で生まれたピュタゴラスであった。彼自身の履歴や思想は明確ではないが、彼は一種の宗教団体を主宰した。しかし彼は決して単なる宗教家ではなく、世界を数から説明しようとした最初の人物であり、周知のように彼の名がついた定理がある程の優れた数学者であった。また、彼は古代ギリシャ人の世界観であるところの世界を、秩序ある全体（コスモス）であることを明言した最初の人物でもある。
　しかし彼は今日的な意味での科学者であったわけではない。数は没価値的な記号としてではなく人間の徳のシンボルであった。ピュタゴラスにとって、数学と倫理、もっと広く言えば科学と宗教とが密接に関係しており、それぞれが無関係な別々のものではなかったのである。
　ピュタゴラスの思想には三つの中心的な概念がある。それは「観照（テオリア）」、「秩序ある宇宙（コスモス）」、「浄化（カタルシス）である。これら三つの概念は一つの過程を示している。人間の魂は宇宙に現れている秩序（コスモス）を観照して、その秩序の正しさに自身を同化することによって、永久の輪廻を離脱して、不死の境地に到達することができるのだ。
　ピュタゴラスは非常に賢明だと称えられたが、彼自身は智者に値するのはただ神のみであって、自分は愛智者であると考えた。彼の「愛智」とは世界の調和の原理の把握であり、それは輪廻している生からの魂の自由、本来的な神性の獲得のために行われているのである。これが「愛智」の担った、新しい、決定的な意味である。このピュタゴラス的な愛智がソクラテス、プラトン、アリストテレスを経て「哲学」として定着していくのである。
　ピュタゴラスにおいて、哲学と宗教が非常に近しいことを述べてきたが、このことに納得する人もいるであろう。現代日本では哲学を深刻な人生論と捉えるこ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学：＜Q0505 ＞哲学概論　第1・2投題セット【B判定】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Feb 2018 12:29:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132592/thmb.jpg?s=s&r=1518146967&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学：＜Q0505 ＞哲学概論の第1・2投題のセットです。一つのファイルの中に二つとも記載しています。
2017年度のもので共にB判定でした。
第1投題の所見「テキストの要約として及第」
第2投題の所見「絶対的な正しさなどなく、心[318]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
1.　要約
　古来より、「存在」という概念を求めて人間は様々な思想や議論を交えてきた。「在る」という言葉は日常会話において多用されておりその意味は様々であるが、我々は特に意識することなく使い分けているのであろう。アリストテレスはこれらの「在る」の分類を研究し、一つの学問として捉えている。以降その内容に対して考察を進めていく。
　『形而上学』において存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全実現態」に分類されており、それ自体に存在するという意味である本質的存在が最も基本である。またこれは、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分類され、前者は実態であり、第一義的存在である。その一方で、後者は実態が端的にあるというのに対してその実態に関して何かで「ある」という言われる存在である。
　存在はこのように第一義的に実体であり、単純物質・内部原因・限界・本質に分類されている。あるいは同様に基体・本質・普遍概念・類にも分類される。分類のされ方に多少の違いはあるものの、これらの実体には「他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの」究極の基体（個物）と、これらのそれぞれの「型式」または「形相」との二つの意味要素がある。また実体の優れた一つの意味は基体であり、「基体」にも多くの意味があり、質量・形式・この両者からなるものの三つに分類される。そして質料と形相からなる個的存在が優れた実体である。『範疇論』において、実体とは、＜この人＞と呼ばれるような、いかなる主語の述語ともならず、またいかなる主語のうちにないものを第一義的と考える。しかし第二義的にはこれら第一義的に実体と言われる個々の存在者を含む種や類もまた実体といわれるのである。つまり、実体とは第一義的に「これ」と指示され、種や類に分けることのできない数的に一となる個的存在者を意味しており、それは第一実体と呼ばれる。これに対して、実体の下で四つに分類されたうち三者の本質・普遍・類は残る一者の基体の分類の中の形相と同一とみることができ、第二実体と呼ばれる。
　また『範疇論』において、実体の最も特有な点は、数としては一であり同一でありながらも、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　哲学概論　第2設題　Q0505　A評価]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ASK-F]]></author>
			<category><![CDATA[ASK-Fの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 06 Feb 2018 23:26:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/" target="_blank"><img src="/docs/932817446863@hc17/132519/thmb.jpg?s=s&r=1517927168&t=n" border="0"></a><br /><br />2017年度にA評価で合格したレポートです。購入にあたっては以下のことを確認してください。
①丸写し、コピペ等は避けてください。法令・校則等で処罰の対象となります。
②あくまでA評価の基準を示すものであり、合格または高評価を保証するもの[340]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　我々は感覚(五感)に頼って生活している。赤い花を見る場合でも見る人の環境や身体的特徴によって影響されたりする。時には赤いリボンといった形が似たようなものと見間違うかもしれない。これほど感覚というものは不確実なものであると言える。また、自分が見ている赤い花と全く同じものを他人が見ている保障はどこにもない。感覚とは虚偽であり、何らかの存在についての認識ではなく、感覚は幻のような表象であって、理性的認識だけで真実を捉えるとするならば、我々の日常はどう捉えるべきか、感覚は何らかの真実性を持っていると考えざるを得ない。
　感覚は不確実であり、上記の通り信頼に足るものでなく、全く同じものを他人が見ている保障はどこにもないが、しかしある個人にとってその通り見えていることは確かである。感覚はその都度毎に個人にとって真であり確実である。
　一時的または個人的な感覚認識は、真の意味での認識という価値はない。そこで、普遍妥当的な知識とそれに基づいた認識が求められるべきである。プラトンの認..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　哲学概論　第1設題　Q0505　A評価]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ASK-F]]></author>
			<category><![CDATA[ASK-Fの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 06 Feb 2018 23:26:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/" target="_blank"><img src="/docs/932817446863@hc17/132518/thmb.jpg?s=s&r=1517927168&t=n" border="0"></a><br /><br />2017年度にA評価で合格したレポートです。購入にあたっては以下のことを確認してください。
①丸写し、コピペ等は避けてください。法令・校則等で処罰の対象となります。
②あくまでA評価の基準を示すものであり、合格または高評価を保証するもの[340]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　我々の日常の会話に焦点を当ててみると、存在を意味する「在る」という言葉が多くの場面で用いられている。例えば、「本がある」「概念がある」といった具合である。様々な「在る」をいろいろに分類して領域ごとに考察することはできるであろうか。また、「存在としての存在」はどのようにして成立しているのであろうか。
　哲学者であるアリストテレスが「存在としての存在」の原理研究をした学問が第一哲学(形而上学)と呼ばれる。存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能性・完全現実態としての存在に分類される。付帯的存在は、主語と述語の一般的・偶然的結びつきにおける「在る」である。本質的存在は主語と述語の必然的結びつきにおける「在る」である。真としての存在は、存在とは真であり、非存在とは偽であることを意味する。可能性・完全現実態としての存在については、本質的存在に含まれると考えることもある。存在には様々あるが本質存在において存在するという意味での存在が基本となっている。また、この意味で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０５０５　レポート　哲学概論　第２設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 20:08:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129342/thmb.jpg?s=s&r=1494932901&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
≪認識≫
　我々は感覚に導かれて生活しているが、感覚ほど不確実なものはない。行動主体によって捉え方が異なり、一つの事物を私が見ているのとまったく同じように他の人が見ているという保証はどこにもないのである。つまり、一時的・感覚的な認識は真に認識の名に値せず、何らの存在についての認識ではないと言える。とはいうものの、感覚はあまりにも生気に満ち溢れており、何らかの真実性をもっているとせざるを得ないのである。こうした議論において、ソクラテスは正義の普遍的・必然的な知識を求め、彼の弟子であるプラトンは、この倫理的・実践的な知識を、知識それ自身として探究したのである。
≪プラトンの認識論≫
　プラトンの認識論は有名な「洞窟の譬え」によって知ることができる。彼はこの比喩で四つの段階的な「存在の種類」を提示し、それらが異なる認識能力によって把握されると説いた。一つ目は壁面に投射されている影像の認識であり、二つ目はその実体として人々が持ち歩いているさまざまの摸像の認識であり、三つ目は地..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０５０５　レポート　哲学概論　第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 20:08:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129341/thmb.jpg?s=s&r=1494932900&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />第二章「存在の時間」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
《存在》
　存在を全体としてみるとき、種々に分類されうる。一般的な規定として存在は「付帯的存在」、「本質的存在」、「真としての存在」、「可能態・完全現実態としての存在」の四つに分類される。
　一つ目の「付帯的存在」とは、主語と述語との一時的、偶然的な結びつきにおける「在る」である。つまり、ある基本的な存在にたまたま何らかの属性が付帯して「在る」といわれる場合の「在る」である。二つ目の「本質的存在」とは、主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」である。それは実態・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間といった述語形態（範疇）を示す「在る」である。そして、すべての命題はこれら１０種類の「在る」へと帰することができる。なお、他の二つに関しては「存在の意味」を考えるにあたって直接関係がないため割愛する。このように、存在にはいろいろな意味があるが、「それ自体において存在するという意味での存在」である本質的存在が最も基本的である。
　また、上述の存在は「本質及び個物とし..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【Q0505】哲学概論 第一設題〔佛教大学〕]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/]]></link>
			<author><![CDATA[ by dddddb]]></author>
			<category><![CDATA[dddddbの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 25 Mar 2016 00:47:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/" target="_blank"><img src="/docs/940049707603@hc15/124165/thmb.jpg?s=s&r=1458834427&t=n" border="0"></a><br /><br />2015年度版の物です。リポートの作成にお役立てください。[79]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　・「存在としての存在」とは？
　存在というものを広い意味で見る場合、種々に分類される。一般的な規定としては存在というものは付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類される。
　一つ目の付帯的存在とは、主語と述語との一時的、偶然的な結びつきにおける「在る」である。ある基本的な存在にたまたまなんらかの説明がつくことで「在る」といわれる場合の「在る」である。二つ目の本質的な存在とは、主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」である。これは実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間を示す「在る」である。すべての事柄はこの十個の「在る」へと一般化することができる。他の二つは存在としての存在の原理を考えるにおいて関係がないので説明は割愛する。上記の二つより存在とはそれ自体において存在するという意味での存在が最も基本的である。
　上記における存在は本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分けられる。前者を説明するなら明らかにものの説明..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論第２設題Q0505]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 私のリポートは全てA判定かB判定]]></author>
			<category><![CDATA[私のリポートは全てA判定かB判定の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 08 Apr 2014 15:04:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/" target="_blank"><img src="/docs/949276790327@hc12/111754/thmb.jpg?s=s&r=1396937090&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程の合格済みレポートです。あくまでも学習の参考としてお使いください。各科目B判定以上です。テキストを中心にまとめています。[202]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　私達は感覚に導かれて生活しているが、感覚ほど不確実なものはない。感覚は不確実であり何ら信頼するにたらないが、その都度毎に個人にとって真であり確実ある。しかし、一時的・個人的な感覚的認識は真の認識とすることができず、行動の規範や普遍的な原理といった普遍的妥当な認識が必要となる。このような議論において、ソクラテスは正義の普遍的・必然的な知識を求め、プラトンは、この倫理的・実践的な知識を、知識それ自身として探究していった。
　プラトンの認識論は洞窟の譬えに表されている。その中で、存在の種類を四つに分類し、それらは段階的であることが示され、各々の存在は、各々異なる認識能力によって把握されるとしている。前二者は洞窟内の認識として影像と模像の認識であり、後二者は地上での認識として事物と太陽の認識である。また、この四種の認識は同じく「ポリティア」で直線の直喩でも示されている。
　このプラトンの四種の認識は、私達の認識能力を検討して分類されたものではなく、逆に存在が四種に分類され..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論第１設題Q0505]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 私のリポートは全てA判定かB判定]]></author>
			<category><![CDATA[私のリポートは全てA判定かB判定の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 08 Apr 2014 15:04:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/" target="_blank"><img src="/docs/949276790327@hc12/111753/thmb.jpg?s=s&r=1396937088&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程の合格済みレポートです。あくまでも学習の参考としてお使いください。各科目B判定以上です。テキストを中心にまとめています。[202]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　アリストテレスにとって存在としての存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。形而上学では存在を全体としてみるとき、存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類される。このように、「存在」には様々な意味があるが、本質的存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
　その意味での存在は、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分けられ、前者は実態であり、第一義的存在である。これに対して後者は、実体に関してなにかであるといわれる存在である。
　このように、存在は第一義的に実体であるのだが、実体にも様々な意味があり、単純物質、内的原因、限界、本質に分類することができる。また、同様に基体、本質、普遍概念、類に分類される。つまり、実体は他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート&amp;第2設題A評価レポートセット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Oct 2012 17:39:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/97816/thmb.jpg?s=s&r=1350290349&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」Ａ評価レポートセットです。
第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）の採点者の所見は、「テキストをよく再現し[354]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々のものの「型式」または「形相」との二つの意味要素である。
後者の分類のおける「本質」「普遍概念」「類」は、「基体」の分類の中の形相と同一とみることができる。そして、これは第二実体と呼ばれる。これは、定義としての即ちロゴスに即した実体であって、「主語として述語たらざるもの」として、究極的個体実態に対して、第二義的な意義を与える。
実体の名の下で四つに分類された残る一者「基体」は、質料、型式（自然）、これらの両者からなる個別的な実体の三つに分かたれる。この形相と質料から成る個的存在が優れた意味で実体である。実体とは、第一義的に「これ」として示され、類と種差とに分けることの出来ない数的に一なる個的存在者を意味する。これは、第二実体に対し、第一実体と呼ばれる。
個的存在としての実体は、静的ではなく動的である。つまり、それは「転化」するものである。「転化」には四種の過程があり、それは生成・消滅、変化、増減、移動である。後三者は厳密な意味での「運動」と呼ばれる。「転化」は以前に遡及して永..]]></description>

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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第2設題A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:42:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91054/thmb.jpg?s=s&r=1330587763&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第2設題（第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。
そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「自分なりのコメントが不[350]<br />第2設題　第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
認識論における本質的な問題は、合理論（rationalism）か経験論（emipiricism）かいう点である。すなわち、認識がすべて単に主観的（個人的）で偶然的であるのか、あるいは必然的、普遍妥当な認識があるのかという点である。普遍妥当的に真実な認識をめぐって、認識能力それ自体が検討されるところに、認識の問題が出てくる。
確かに、主観的な感覚は虚偽であり、それは何らの存在についての認識でもない。感覚は無についての幻のような表象であって、理性的認識だけが真実に存在を捉える。けれど、感覚的認識は普遍的な存在を捉えるものでは無いかもしれないが、それが全く虚偽であり無であるとすれば、わたしたちは生成・変化する存在というものをも、認識することが出来なくなってしまう。その意味では、感覚は何らかの真実性を持っているとせざるを得ないのである。
プラトンは、「洞窟の譬え」の中で、存在には四つの種類があり、それらが段階的であることを示した。一つは壁面に投射されている影像の認識..]]></description>

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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:32:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91053/thmb.jpg?s=s&r=1330587171&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。
そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「テキストをよく再現し[350]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（..]]></description>

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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　科目最終試験対策6題セット　90点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 20:05:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/90641/thmb.jpg?s=s&r=1329649501&t=n" border="0"></a><br /><br />科目最終試験に向けて、「哲学概論」「哲学概論1」の学習の要点に記された6つの課題を、教科書等に沿って、まとめたものです。  
模範解答と解答を暗記するためのキーワードを一問一答式の問題にしています。 
課題は
・哲学と宗教の関係について、主[344]<br />R0512　 「哲学概論」科目最終試験対策
1）哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例に取りながら考える。
古代ギリシャの精神には、自然についての思索と人間（の魂）についての思索という二つの流れがある。前者の中心は小アジアであり、その思想家は「イノニアの自然学者」と呼ばれる。一方、イタリアにおけるギリシャ人植民地には、人間の魂を主題とする思想があり、その中心はやはりイオニア文化圏で生まれたピュタゴラスである。但し、イオニアでの自然の探究とイタリアでの魂の探究とに分けるのは、あまりにも図式的であり、前者においても常に魂の問題も考察され、後者に会っても常に自然の考察があることに留意しておかねばならない。
ピュタゴラス自身の履歴や思索は明確ではないが、彼はクロトンで一種の宗教団体を主宰した。けれど、彼は決して単なる宗教家ではない。彼は世界を数から説明しようとした最初の人であり、周知のように優れた幾何学者であった。また、彼は古代ギリシャ人の世界観であるところの世界を秩序ある全体（コスモス）であることを明言した最初の人でもある。
しかし、彼は今日的な意味での科学者であったわけではない。数は今日的な没価値的な記号ではなく、人間の徳のシンボルでもあった。つまり、ピュタゴラスにとっては、人間の魂の在り方を問題にすることを別にして、自然世界を探求することは出来なかったのである。数学と倫理、もっと広く言えば科学と宗教は、彼においては無関係な別々なものではなかったのである。
ピュタゴラスの思想には三つの中心的な概念を数えることができる。即ち、「観照（テオリア）」「秩序ある宇宙（コスモス）」「浄化（カタルシス）」である。これらの三つの概念は、一つの過程を表している。つまり、人間の魂は宇宙に現れている秩序（コスモス）を観照して、その秩序正しさに自信を同化することによって、永劫の輪廻を離脱して不死の境に至ることが出来る。
ピュタゴラスは、智者に値するのはただ神のみであって、彼は自分を愛智者であると称した。彼の「愛智」とは、世界の調和の原理の把握であり、それは輪廻している生からの魂の自由、本来的な神性の獲得のために行われるのである。これが「愛智」の担った、新しい、しかも、将来に対して決定的な意味である。このピュタゴラス的な「愛智」が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを経て「..]]></description>

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