<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/" xmlns:activity="http://activitystrea.ms/spec/1.0/">
	<channel>
		<title>タグ“Q0101”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/Q0101/</link>
		<description>タグ“Q0101”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
		<generator uri="http://www.happycampus.co.jp/" version="1.0">happycampus rss generator</generator>
		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【佛教大学】日本の歴史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135746/]]></link>
			<author><![CDATA[ by postaf]]></author>
			<category><![CDATA[postafの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 25 Oct 2018 19:25:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135746/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135746/" target="_blank"><img src="/docs/930922670123@hc18/135746/thmb.jpg?s=s&r=1540463157&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信過程Q0101「日本の歴史」第二設題のリポートです。
2018年度にB判定で合格済です。
リポート作成の参考にしてください。[182]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について

・はじめに
　　明治初期には国民が参政を求める自由民権運動の機運が高まり、それに答える形で明治十四年（一八八一）には国会開設の勅諭が発されることとなる。これにより明治二十三年（一八九〇）に開設された第一回議会から日清戦争にかけての政党と議会のあり方を通じて、その黎明期における日本の政党政治について考察する。

・国会開設と初期議会
　　明治二十三年（一八九〇）、国会開設に伴い第一回総選挙が行われると板垣退助が起こした自由党の流れをくむ大同倶楽部、再興自由党派、愛国公党の三派が過半数を占め、大隈重信の立憲改進党と合わせて民党と呼ばれる民権運動の主役となった勢力が勝利した。自由党系三派は再び合同し、立憲自由党が組織されることとなる。この選挙結果をもとに第一回議会が開かれると、民党勢力は予算削減と民力休養を主張し、議会は民衆から離れたものであるべきだという超然主義を掲げて軍備増強に走る政府の勢力である吏党と激しく対立することとなる。軍事予算の削減や地租の改正を主張していた立憲自由党であったが、土佐出身者の派閥が買収され、政府予算案の賛成に回るなど..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【佛教大学】日本の歴史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135745/]]></link>
			<author><![CDATA[ by postaf]]></author>
			<category><![CDATA[postafの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 25 Oct 2018 19:25:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135745/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930922670123@hc18/135745/" target="_blank"><img src="/docs/930922670123@hc18/135745/thmb.jpg?s=s&r=1540463157&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信過程Q0101「日本の歴史」第一設題のリポートです。
2018年度にB判定で合格済です。
リポート作成の参考にしてください。[182]<br />鎌倉幕府と執権政治について

・はじめに
鎌倉幕府は源頼朝によって開かれた武家政権である。鎌倉幕府においては極初期には将軍家である源家による湘軍中心の政治体制が敷かれたが、次第に源頼朝の妻北条政子の一族である北条家が権勢を握ることとなった。その際に代々北条家が就任し、幕府運営における重要な役割を担った役職が執権であり、執権によって幕府運営がなされた政治体制を執権政治と呼ぶ。この執権政治のあり方を鎌倉幕府の興亡と合わせて論じることにより、中世封建社会のあり方について考察する。

・鎌倉幕府の成立と執権政治のおこり
　文治元年（一一八五）壇ノ浦において平氏勢力を、次いで文治五年（一一九〇）には奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は鎌倉を根拠地として軍事政権を確立していった。その後建久元年（一一九二）には征夷大将軍に任じられ、ここに鎌倉幕府が成立することとなる。鎌倉幕府における統治体制は、幕府の政務と財政を管轄する政所、軍事、警察機能を統括する侍所、訴訟やそれに伴う事務を担当する問注所の３つが全体を統括し、それに合わせて京における御家人の統括として京都守護、九州地方の統治のために鎮西奉行がそれぞれ置..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史【Q0101】科目最終試験過去問6題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/133305/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 24 Mar 2018 11:50:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/133305/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/133305/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/133305/thmb.jpg?s=s&r=1521859852&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　日本の歴史【Q0101】
2017年度科目最終試験の過去問6題です。

解答はテキストを中心に
わかりやすく各問800字程度で
まとめています。
学習のご参考までにどうぞ。

1.	奈良時代の政治について
2.	[286]<br />奈良時代の政治について
　奈良時代とは710年に都が藤原京から平城京に移されてから、長岡京・平安京に移されるまでの約80年間のことをいう。律令国家の建設に功績をあげた藤原氏は天皇家に近づいて権力を強めていた。729年、藤原四子が長屋王を自殺に追い込み、妹の光明子を聖武天皇の皇后にした。これが長屋王の変である。ところが四子が次々と病死し、橘諸兄は唐から帰国した玄昉と吉備真備を参画させて政治を行った。このことに反発し、740年、九州で兵をあげて藤原広嗣の乱が発生したが藤原広嗣は敗れた。
　聖武天皇はこうした不安定な社会状況の中で741年国分寺建立の詔、743年大仏造立の詔を出し、仏の力をもって国家の安定を図ろうとした。孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が光明皇太后と手を結んで政界で力を伸ばした。これに対して橘諸兄の子である橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を倒そうと橘奈良麻呂の変を起こしたが失敗した。
　その後8世紀後半、藤原仲麻呂は勢力を伸ばし淳仁天皇を即位させると恵美押勝の名をもらい、太政大臣まで登りつめた。しかし孝謙上皇は自分の病気を祈祷によって治した道鏡を寵愛した。これに反発した恵美押勝が乱を起こしたが失敗し、孝謙上皇は重祚し、称徳天皇となった。天皇からの絶大な信頼を得ている道鏡は瞬く間に権力を伸ばし法王にまで昇りつめた。そして天皇になろうとまでしたが、769年、和気清麻呂が宇佐八幡宮で信託を受け、道鏡を批判したことで天皇の怒りを買い島流しにあう事件が発生した。その後すぐに称徳天皇が倒れたことで道鏡も左遷され、この政治体制は終わった。
　その後、天智天皇の孫である光仁天皇が即位し、壬申の乱で敗れた天智の系統が復活した。（天武天皇の系統は称徳天皇で終わり）そして政権は藤原百川が握り、藤原氏の権力も復活した。そして光仁天皇の子である桓武天皇が都を遷都したことで奈良時代は終焉した。
　このように奈良時代の政治は、勢力を伸ばしていた藤原氏が政権を握るために争いを起こしていた。そんな不安定な社会状況の中、聖武天皇は国分寺や大仏を作り、称徳天皇は道鏡を寵愛するなど仏教が政治に大きな影響を与えていたことが読み取れる。
古代社会における信仰の歴史について
ここでは古代とは、平安時代までの時代のことと考える。日本の歴史において最初に信仰が見られたのは、農耕が開始された縄文時代と考えられる。豊作..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史（Q0101）第2投題【2017年度B判定】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132765/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Feb 2018 11:17:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132765/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132765/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132765/thmb.jpg?s=s&r=1518833866&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学：日本の歴史（Q0101)第2投題
2017年度B判定合格リポートです。

「投題にしたがって記述することができています。
政党の離散集合に関する内容を
もう少し充実させるべきでした。」
という所見だったので、
以上の[308]<br />初期議会と日清戦後にかけての政党について
はじめに
初期議会とは、明治二十三年（一八九〇）一一月に開かれた第一議会から、第六議会のことを指しており、その特徴は超然主義的な立場をとり軍事力拡大を目指す政府側と、予算削減や地租減税などの民力休養を求める民党側の激しい対立があったのだ。明治初期、板垣退助を中心とした自由民権運動が高まりをみせ、明治十四年（一八八一）に国会開設の勅諭が出されたことによって、日本においても議会が開かれるようになったのである。こうして誕生した日本の初期の議会政治はどのようなものであったのであろうか。本レポートでは最初の総選挙から開かれた各議会の概要、そして日清戦争後までの政党の動きに着目をしながら考察を進めていく。
初期議会の誕生と概要
明治二十三年（一八九〇）に第一回総選挙が行われた。旧自由党は大同倶楽部、再興自由党派（大同共和会系）、愛国公党系の三派にわかれて、立憲改進党と争うことになった。そして七月の総選挙では旧自由党系勢力の勝利となる。総選挙の直後には立憲自由党が再興され、旧自由党三派は合同し、これに所属する議員は一三〇人、立憲改進党は四一人の合計一七一人が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史（Q0101）：第1投題　2017年度]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132764/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Feb 2018 11:10:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132764/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132764/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132764/thmb.jpg?s=s&r=1518833415&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　日本の歴史（Q0101）の
2017年度合格リポートです。
参考文献は教科書のみで
教科書の内容をわかりやすく
まとめるように努めました。
文章の構成等参考にしていただければ
問題なく合格できると思います。

「鎌[310]<br />鎌倉幕府と執権政治について
はじめに
鎌倉幕府とは一般的に、建久三年（一一九二）に源頼朝が征夷大将軍に就任したことで成立し、正慶二年（一三三三）に足利尊氏や新田義貞らの鎌倉攻撃によって滅びたといわれている。そしてこの時代においては、源家、北条家が非常に重要な役割を担っており、特に北条家が中心となった政治体制は「執権政治」「得宗政治」と呼ばれた。「執権」とは鎌倉幕府内の役職であり、幕府の統括を担う最高位の立場であった。三代将軍源実朝の時代に北条時政がこの職に着任し、以降北条家が世襲していく形をとった。そして執権政治は「得宗政治」という新たな政治体制へと発展していき、独裁体制が強まっていった。本レポートでは鎌倉幕府成立の概略と初期時代の政治体制や執権が中心となった「執権政治」の成立、そして執権がもはや中心ではなくなった「得宗政治」について、さらには幕府の権力の衰退につながる要因となった元寇についても考察を進めていく。
鎌倉幕府と執権政治の成立
十二世紀後半、平清盛を中心とした平氏一族が勢力を拡大し、政治の中心となった。しかしこの平氏政権は主従的で支配秩序的な体制であり、その関係から取り残さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【2017年度合格リポート】Q0101 日本の歴史 第1設題 B判定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938787005757@hc15/128984/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ミスターT]]></author>
			<category><![CDATA[ミスターTの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 20 Apr 2017 20:42:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938787005757@hc15/128984/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/938787005757@hc15/128984/" target="_blank"><img src="/docs/938787005757@hc15/128984/thmb.jpg?s=s&r=1492688562&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学の通信教育課程で、2017年度にB判定にて合格したリポートです。
コードは、高等学校地理歴史、公民、中学校社会課程のQ0101です。
コードが違っても、設題が同じ場合はご参考にして頂けるかと存じます。
第1設題についてまとめて[326]<br />第一設題：鎌倉幕府と執権政治について。
一、執権
執権政治の執権とは、鎌倉幕府における職の一つである。朝廷の記録所の勾当の別称であり、この制は延久一(一〇六九)年の記録所の設置に伴うものである。勾当の事を執権と呼び始めたのは文治二(一一八六)年以後である。「執権政治」とは、第三代将軍源実朝の時代に、北条氏が政治の実権を握るようになってからを指す。執権の役職に初めて就いたのが北条時政である。執権の指す 本来の意味は政務を執ることであり、頼朝の頃には大江広元が政所別当として将軍の補佐を行い、執権と呼んでいた。後にこの政所別当が侍所別当を兼務するようになると、執権職の権限が大きくなり、鎌倉幕府独自の執権職が生まれたのである。
二、鎌倉幕府の成立
　平氏は、治承四(一一八〇)年に福原遷都を断行し、翌五(一一八一)年には宗盛を畿内及び周辺諸国の惣官職につかせるなど、自立性の高い軍事政権の道を模索していた。
　頼朝と同様に挙兵した源義仲は寿永二(一一八三)年に平氏に代わり平安京に入るも、粗暴な軍事力に頼るあまり、政治力で反平氏勢力を操る後白河上皇との対立を深め、頼朝が遣わした源義経・範頼の兵に討..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Q0101日本の歴史第２設課]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126565/]]></link>
			<author><![CDATA[ by shokosakai]]></author>
			<category><![CDATA[shokosakaiの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Oct 2016 19:01:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126565/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126565/" target="_blank"><img src="/docs/936991536288@hc16/126565/thmb.jpg?s=s&r=1475661675&t=n" border="0"></a><br /><br />Q0101日本の歴史第２設課 「初期議会から日清戦後にかけての政党について」  合格済み。 Ｂ評価ですが、 政党の離合集散に関しての内容をプラスしていただけると評価があがります。 指定教科書を中心にまためたものです。  ぜひ、参考にどうぞ。[334]<br />はじめに
　明治一四年（一八八一）十月十二日、十年後の明治二三年（一八九〇）を期して国会を開くことを宣言した。国会開設の勅輸が出されたとき、自由党結成の会合が東京府下で行われた。実際にその年に最初の会議が開かれた。こうして日本にも「公議世論」を尊重する立憲制が確立された。人々が政治に参加する制度ができる環境が生まれた。このように始まった日本の初期の議会政治はどのようなものだったのか。本レポートでは、初期議会から日清戦争後にかけて政党の動きに注目しながらこれを記述する。
一．憲法における議会
　帝国議会とは明治憲法下における、貴族院と衆議院とからなる立法機関。明治二三年（一八九〇）開設。権限は天皇の大権によって制限されていた。日本国憲法の成立により国会に改組された。帝国議会は対等の権限を持つ衆議院・貴族院の二院政であった。その権限は今日の国会に比べれば限定されたものであり、天皇の軍事大権、あるいは首相の任免権は議会の権限外におかれていた。明治二三年（一八九〇）一一月の議会開設から十年またないうちに、衆議院の第一党による政権が出現したのであるから、議会の勢力は決して弱いとはいえなかった。こ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Q0101　日本の歴史　第１設課　合格]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126564/]]></link>
			<author><![CDATA[ by shokosakai]]></author>
			<category><![CDATA[shokosakaiの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Oct 2016 18:57:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126564/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936991536288@hc16/126564/" target="_blank"><img src="/docs/936991536288@hc16/126564/thmb.jpg?s=s&r=1475661469&t=n" border="0"></a><br /><br />Q0101日本の歴史第１設課合格
「鎌倉幕府と執権政治について」
B評価ですが、鎌倉幕府自体に関する内容を付け足すと評価が上がります。
指定教科書を中心にまとめたものです。
参考にぜびどうぞ。[268]<br />はじめに
「執権」とは、鎌倉幕府の職名である。職名としてはまず朝廷の記録所の勾当の別称であり、この制は延久一年（一〇六九）の記録所の設置にさかのぼるが，勾当を執権と称したことが確認できるのは文治二年（一一八六）以後である。第三代将軍源実朝の時、北条氏が政治の実権を握るようになってからを「執権政治」というのが一般的に呼ばれるようになった。北条時政が初代の執権の役職に就いた。 本来の意味は字の通り、政務を執ることで、頼朝のころには大江広元が政所別当（長官のようなもの）として将軍の補佐を行っていて、執権と称していた。後にこの政所別当が侍所別当を兼務するようになってからはこの執権職の権限が大きくなっていって、鎌倉幕府独自の執権職が出来上がった。このような事実があるが、どのようにして「執権政治」が成立、発展したのかを今後考察する。一．鎌倉幕府における執権の成立　二．「執権政治」の成立　三．得宗専制について以上三つの項目から記述していく。
一．鎌倉幕府における執権の成立
　文治元年、平氏勢力を長門国壇ノ浦で壊滅させた頼朝は、地域的軍事政権をして鎌倉に対抗するだけの勢力を有した奥州藤原氏を文治五年に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史　試験対策　Q0101　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ハナニャン]]></author>
			<category><![CDATA[ハナニャンの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2012 19:12:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950158898355@hc12/97919/" target="_blank"><img src="/docs/950158898355@hc12/97919/thmb.jpg?s=s&r=1350555130&t=n" border="0"></a><br /><br />これだけ何度も読んで試験に合格しました。参考にしてください。[90]<br />１．１９世紀における政党政治の歴史について述べよ。
最初の政党は、板垣退助らが結成した愛国公党であった。「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動の発端となった。この党は、自由民権運動の中核となっていき、後には自由党に発展した。一八八一（明治十四）年には、国会開設の勅諭が出された。そこで、板垣らが自由党を、翌年に大隈重信らが立憲改進党を結成した。自由党は後の政友会に、改進党は民政党へと引き継がれた。
初期議会（第一～第六議会）の特徴は、超然主義をかかげて軍備増強をすすめる政府と、予算削減と民力休養を主張する立憲自由党・改進党を中心とする野党勢力である民党との激しい対立であった。　
　日清戦争の終結は、ロシアを仮想敵国とする大軍拡の開始でもあった。挙国一致を経て政党も軍拡を明確に支持するようになった。自由党は、増税も容認して財政膨張を認めるが、鉄道建設など地方名望家の地域開発要求をまとめ政府に実現させようとし、伊藤内閣との提携宣言を発表し、このみかえりとして、自由党総理板垣退助が内務大臣に就任した。次の松方内閣には、大隈重信が外相として入閣しており、改進党の系譜をひく進歩党が与党の位置をしめた。このように日清戦争後には、官僚勢力と政党が明確なかたちで提携を開始した。
　しかし日清戦争後の財政膨張により地租増徴問題が政治課題として浮上してきた。松方内閣が地租増徴の方針を採用すると、進歩党は内閣との提携を断絶し、内閣は総辞職となった。第三次伊藤内閣が成立したが、同じ増税案を議会に提出すると、自由党と進歩党が連携して法案を否決し、内閣が議会を解散すると両党は合同して憲政党を組織し、内閣に対抗した。
　衆議院の絶対多数をしめる政党の出現により、伊藤博文の主張により政党指導者の大隈重信・板垣退助に内閣を組織させることになった。これは陸軍・海軍両大臣を除く全閣僚が憲政党員からなる日本初の政党内閣であった。こうして最初の政党内閣が成立したが、憲政党内の旧自由党・旧進歩党の両派は任官ポストをめぐって対立を激化させ、憲政党と憲政本党とに分裂し、隈板内閣はわずか四ヶ月で崩壊した。
　この分裂で政党操縦の自信を回復した元老・官僚勢力によって第二次山県内閣が組織された。山県内閣は議会対策として憲政党との提携を工作し、憲政党は党勢拡張の便宜を政府から与えられることを条件に内閣支持にまわり..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史(設題2)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949913718460@hc12/94603/]]></link>
			<author><![CDATA[ by moえりかco]]></author>
			<category><![CDATA[moえりかcoの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jun 2012 20:45:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949913718460@hc12/94603/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949913718460@hc12/94603/" target="_blank"><img src="/docs/949913718460@hc12/94603/thmb.jpg?s=s&r=1340624734&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学の提出用設題に対するリポートになります。
判定はBでした。
勉強にどうぞ。[117]<br />一八九〇（明治二三）年、第一回総選挙が行われた。旧自由党系は大同倶楽部、再興自由党派（大同協和会系）、愛国公党系の三派にわかれ、改進党系勢力と争うという形になった。結果は旧自由党系勢力の勝利となり直後、立憲自由党が再興され三派は合同し議員数一三〇人にも上った。立憲改進党四一人と合わせて一七一人が民党議員であり吏党議員一二九人を大きく上回った。（大成会七九人、国民自由党五人、無所属四五人）
　同年、一一月に第一議会が開かれたが超然主義を掲げ軍備増強を進める山県内閣と予算削減と民力休養を主張する民党側との激しい対立となった。富国強兵を推し進めようとする政策に民党は明確に拒絶を示し予算を削減、その分を民力休養と公約でもあった地租軽減に充てるべきとの政策を固めるのである。しかし自由党土佐派の地租修正論によって民党内が混乱させられた。その上、土佐派が買収され民党を裏切った事により政府予算案が成立した。
　一八九一（明治二四）年に開会した第二議会は松方内閣の軍備拡張案と再び民党が対立する。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で議会紛糾し、衆議院を解散させる一因となった。そして第二回総選挙時、内務大臣品川弥..]]></description>

		</item>

	</channel>
</rss>