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		<title>タグ“B6519”の公開資料</title>
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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート&amp;第2設題A評価レポートセット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Oct 2012 17:39:09 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/97816/thmb.jpg?s=s&r=1350290349&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」Ａ評価レポートセットです。
第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）の採点者の所見は、「テキストをよく再現し[354]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々のものの「型式」または「形相」との二つの意味要素である。
後者の分類のおける「本質」「普遍概念」「類」は、「基体」の分類の中の形相と同一とみることができる。そして、これは第二実体と呼ばれる。これは、定義としての即ちロゴスに即した実体であって、「主語として述語たらざるもの」として、究極的個体実態に対して、第二義的な意義を与える。
実体の名の下で四つに分類された残る一者「基体」は、質料、型式（自然）、これらの両者からなる個別的な実体の三つに分かたれる。この形相と質料から成る個的存在が優れた意味で実体である。実体とは、第一義的に「これ」として示され、類と種差とに分けることの出来ない数的に一なる個的存在者を意味する。これは、第二実体に対し、第一実体と呼ばれる。
個的存在としての実体は、静的ではなく動的である。つまり、それは「転化」するものである。「転化」には四種の過程があり、それは生成・消滅、変化、増減、移動である。後三者は厳密な意味での「運動」と呼ばれる。「転化」は以前に遡及して永..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第2設題A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:42:43 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91054/thmb.jpg?s=s&r=1330587763&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第2設題（第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。
そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「自分なりのコメントが不[350]<br />第2設題　第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
認識論における本質的な問題は、合理論（rationalism）か経験論（emipiricism）かいう点である。すなわち、認識がすべて単に主観的（個人的）で偶然的であるのか、あるいは必然的、普遍妥当な認識があるのかという点である。普遍妥当的に真実な認識をめぐって、認識能力それ自体が検討されるところに、認識の問題が出てくる。
確かに、主観的な感覚は虚偽であり、それは何らの存在についての認識でもない。感覚は無についての幻のような表象であって、理性的認識だけが真実に存在を捉える。けれど、感覚的認識は普遍的な存在を捉えるものでは無いかもしれないが、それが全く虚偽であり無であるとすれば、わたしたちは生成・変化する存在というものをも、認識することが出来なくなってしまう。その意味では、感覚は何らかの真実性を持っているとせざるを得ないのである。
プラトンは、「洞窟の譬え」の中で、存在には四つの種類があり、それらが段階的であることを示した。一つは壁面に投射されている影像の認識..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:32:51 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91053/thmb.jpg?s=s&r=1330587171&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。
そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「テキストをよく再現し[350]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（..]]></description>

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			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　科目最終試験対策6題セット　90点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 20:05:01 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/90641/thmb.jpg?s=s&r=1329649501&t=n" border="0"></a><br /><br />科目最終試験に向けて、「哲学概論」「哲学概論1」の学習の要点に記された6つの課題を、教科書等に沿って、まとめたものです。  
模範解答と解答を暗記するためのキーワードを一問一答式の問題にしています。 
課題は
・哲学と宗教の関係について、主[344]<br />R0512　 「哲学概論」科目最終試験対策
1）哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例に取りながら考える。
古代ギリシャの精神には、自然についての思索と人間（の魂）についての思索という二つの流れがある。前者の中心は小アジアであり、その思想家は「イノニアの自然学者」と呼ばれる。一方、イタリアにおけるギリシャ人植民地には、人間の魂を主題とする思想があり、その中心はやはりイオニア文化圏で生まれたピュタゴラスである。但し、イオニアでの自然の探究とイタリアでの魂の探究とに分けるのは、あまりにも図式的であり、前者においても常に魂の問題も考察され、後者に会っても常に自然の考察があることに留意しておかねばならない。
ピュタゴラス自身の履歴や思索は明確ではないが、彼はクロトンで一種の宗教団体を主宰した。けれど、彼は決して単なる宗教家ではない。彼は世界を数から説明しようとした最初の人であり、周知のように優れた幾何学者であった。また、彼は古代ギリシャ人の世界観であるところの世界を秩序ある全体（コスモス）であることを明言した最初の人でもある。
しかし、彼は今日的な意味での科学者であったわけではない。数は今日的な没価値的な記号ではなく、人間の徳のシンボルでもあった。つまり、ピュタゴラスにとっては、人間の魂の在り方を問題にすることを別にして、自然世界を探求することは出来なかったのである。数学と倫理、もっと広く言えば科学と宗教は、彼においては無関係な別々なものではなかったのである。
ピュタゴラスの思想には三つの中心的な概念を数えることができる。即ち、「観照（テオリア）」「秩序ある宇宙（コスモス）」「浄化（カタルシス）」である。これらの三つの概念は、一つの過程を表している。つまり、人間の魂は宇宙に現れている秩序（コスモス）を観照して、その秩序正しさに自信を同化することによって、永劫の輪廻を離脱して不死の境に至ることが出来る。
ピュタゴラスは、智者に値するのはただ神のみであって、彼は自分を愛智者であると称した。彼の「愛智」とは、世界の調和の原理の把握であり、それは輪廻している生からの魂の自由、本来的な神性の獲得のために行われるのである。これが「愛智」の担った、新しい、しかも、将来に対して決定的な意味である。このピュタゴラス的な「愛智」が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを経て「..]]></description>

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