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		<title>タグ“0620”の公開資料</title>
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			<title><![CDATA[【日本史概説・日本史概論】分冊２　0621　0620]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88025/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Lir_Lir]]></author>
			<category><![CDATA[Lir_Lirの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 13:35:28 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88025/" target="_blank"><img src="/docs/955409401222@hc10/88025/thmb.jpg?s=s&r=1320986128&t=n" border="0"></a><br /><br />問１．近世の文化について、前期、中期、後期のそれぞれについて概観したい。
　前期の寛永文化は１７世紀前半に始まった。それはまさにサロンの文化といわれる。中世以来の座や寄合の文化の伝統を受け継いだもので、天皇・公家・武家・僧侶・町衆などがいくつかのサロンを形成し、それが鎖のようにつながって交友がおこなわれていた。またサロン文化の中心となったのは茶の湯と和歌であった。
　中期は諸産業の発展にともない、元録時代に実学が発展する。徐々に実際の見聞に基づく学問が求められるようになった時代である。代表的なものとして農書と本草学が挙げられる。
農書
中国の「農政全書」を学んだ宮崎安貞は全国の進んだ農業技術を見聞し、それらを踏まえて「農業全書」を著した。元禄１０年に発行されて流布し、全国に影響を及ぼしたことで地域毎の農書として東海地方の「百姓伝記」、会津地方の「会津農書」、紀州の「地方の聞書」、加賀の「耕稼春秋」「農事遺書」など以外に「鉱山至宝要録」「蚕飼蚕法記」といった技術書も書かれるようになった。
②本草学
次いで同時代の代表的なものとして本草学が挙げられる。これは薬用となる植物・動物・鉱物などに..]]></description>

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			<title><![CDATA[【日本史概説・日本史概論】分冊１　0620　0621]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88024/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Lir_Lir]]></author>
			<category><![CDATA[Lir_Lirの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 13:35:26 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88024/" target="_blank"><img src="/docs/955409401222@hc10/88024/thmb.jpg?s=s&r=1320986126&t=n" border="0"></a><br /><br />問１．国司が受領とよばれるようになる前と後について述べたい。
８世紀末より律令制の規制は徐々に崩れており、編戸された本籍地から離れる浪人も、国司子弟・王臣子孫の国内居住も進んでいった。そしてそれら王臣子孫も含めた有力農業経営者（当時の言葉で言うと「富豪の輩」、後には「大名田堵」）が台頭しはじめ、郡司とその官庁郡衙の機能が衰退していった。郡司がいなくなる訳ではないが、郡衙は消えた。
　朝廷はまだ律令制を堅持していこうとしたが、実際に国を経営する国司は、そういう現実の変化を無視出来なくなり、いわば実質律令制（律令国家）の規制緩和が地方からはじまり王朝国家へと移行していった。
　ここで「名」と「負名」という税の徴収方式について述べたい。口分田の崩壊から税の徴収が旧来の形ではうまく管理出来なくならなくなり、公田の一定範囲を「名」とし、その範囲の税の徴収をそのあたりの富豪層に請け負わせるというものであった。以上のことから「負名」とは「名田（みょうでん）徴税請負人」というような意味にあたる。建前は律令制度であるから田畑は私有地ではなくてお上のもの。地方においては国司が管理するものであるから、負名は..]]></description>

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