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		<title>タグ“鎖国”の公開資料</title>
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		<description>タグ“鎖国”の公開資料</description>
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		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

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			<title><![CDATA[慶応通信 合格レポート 日本史 2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/152230/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Green tea]]></author>
			<category><![CDATA[Green teaの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Oct 2023 12:07:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/152230/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/152230/" target="_blank"><img src="/docs/916779162102@hc22/152230/thmb.jpg?s=s&r=1696475240&t=n" border="0"></a><br /><br />合格をいただいた慶応通信日本史のレポートです。
内容は鎖国体制に関するものです。
あくまで参考資料としてお使いください。
コピペ、丸写しは禁止します。[222]<br />鎖国体制から開国までの外交
はじめに
江戸時代の初期には朱印船貿易や周辺諸国に日本人町が作られるなど、活発な外交が行われていたが、次第に海外渡航や貿易が制限され日本は鎖国体制に入った。しかし、長崎、薩摩、対馬、蝦夷これら「四つの窓口」において、日本と海外との交流は、開国されるまで継続されていた。このレポートでは第1章で鎖国体制下における対外関係、第2章では再び開国するまでの対外関係を論じる。
第1章鎖国体制下における海外との交流
1-1四つの窓口が果たしていた役割
徳川幕府の統治を脅かしかねないキリスト教の布教が広まるなどしたことが問題視され、幕府は1635年に朱印船貿易の停止に踏み切った。1641年にはオランダ人・商館を長崎に築いた人工島「出島」に移動させ、出島外への自由な往来を禁じた。中国人は長崎の十禅寺村に新設された「唐人屋敷」に住まわされた。公的な対外貿易もオランダと中国に限られるようになり、入港も長崎一港に限定した。こうして鎖国体制が確立していった。長崎には食品や布、書物など様々なものが輸入され、日本からは銀・銅・海産物などが輸出された。幕府はオランダ商館長に提出させていた、..]]></description>

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		<item>
			<title><![CDATA[歴史学　分冊２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959063934860@hc09/53874/]]></link>
			<author><![CDATA[ by happy7518]]></author>
			<category><![CDATA[happy7518の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 17 Aug 2009 00:56:07 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959063934860@hc09/53874/" target="_blank"><img src="/docs/959063934860@hc09/53874/thmb.jpg?s=s&r=1250438167&t=n" border="0"></a><br /><br />幕藩制確立期の幕府政治、主に寛永期を中心として考察する。
徳川家光は二代将軍秀忠以上の大名統制策を推し進めた将軍であった。三代将軍となった家光は、&ldquo;生まれながらの将軍&rdquo;と見栄を切り、諸大名に対する威容は、ますます高揚し、世襲体制は強化され[356]<br />幕藩制確立期の幕府政治、主に寛永期を中心として考察する。
徳川家光は二代将軍秀忠以上の大名統制策を推し進めた将軍であった。三代将軍となった家光は、&ldquo;生まれながらの将軍&rdquo;と見栄を切り、諸大名に対する威容は、ますます高揚し、世襲体制は強化される。家康は政権の世襲を示すのが主であり、秀忠は大名統制を強化するのが主でした。家光はさらに将軍権力の確立をはかり、一門・譜代を増強し、大老・老中・若年寄など幕閣の職制整備をし、幕府の政治機構と組織の確立に意を注いだ。
さらに全国の領地のうち、直轄領と旗本領を除いた大部分の地域を大名に分割し、大名統制の一環として、一国一城例の発布に続いて「武家諸法度」を改定強化し、参勤交代制を完成させる。「武家諸法度」は、新規城郭構築の禁、徒党・誓約の禁、私的婚姻の禁、服制、反逆人・殺害人関連規定なとの従来の基本条項が踏襲されたほか、大名の参勤交代の規定（第二条）、幕府の許可を得ないで軍を出すことの禁止（第四条）、音信・贈答・嫁取り、響応、家作の簡略化（第九条）など新規の重要な規定がある。参勤交代は、各藩の名を定期的に江戸に出仕させる江戸時代の大名統制のための制度である..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史　2 幕藩制確立期の幕府政治について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963281041839@hc08/18820/]]></link>
			<author><![CDATA[ by osama]]></author>
			<category><![CDATA[osamaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 28 Jan 2008 22:31:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963281041839@hc08/18820/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963281041839@hc08/18820/" target="_blank"><img src="/docs/963281041839@hc08/18820/thmb.jpg?s=s&r=1201527112&t=n" border="0"></a><br /><br />幕藩官僚制とは、近代における官僚制や官僚とはかなりギャップをもつものの、近世社会には行政、裁判、財政など一定の職務分担をもった政治機構が組織され、またそれを個人の意志としてではなく職務として執行する人的集団が存在した。こうした実態を幕藩官僚[360]<br />幕藩官僚制とは、近代における官僚制や官僚とはかなりギャップをもつものの、近世社会には行政、裁判、財政など一定の職務分担をもった政治機構が組織され、またそれを個人の意志としてではなく職務として執行する人的集団が存在した。こうした実態を幕藩官僚制ということばで表しておくことにする。
幕藩官僚制における「職」の形成は、全国統一戦のなかでかたちづくられ軍事組織を前提に、平時において行政、裁判、財政などの運営を担ういわゆる「役方」の「職」を生み出し、それと平行してそれまでの軍事組織を平時に照応する組織へと改変し「番方」の「職」を作りあげることでなされた。江戸幕府における「職」は、秀忠の死去後、家光によってかたちづくられるが、家光自身が当初から「職」形成についての明確な方針をもっていたわけではない。秀忠の死後、家光は旧年寄層の排除を試み、同時に新たな出頭人の取立てをはかろうとした。その意味では家光は、新たな出頭人政治の構築を意図したことになる。しかし、旧年寄層との確執、みずからの病、裁判、訴訟事務の滞り、より根本的には平時に即応した行政、裁判機構創設の要請など、多くの要素がからまるなかで、出頭人政..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[韃靼漂流記の時代]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428561701@hc07/16055/]]></link>
			<author><![CDATA[ by vanquish]]></author>
			<category><![CDATA[vanquishの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Dec 2007 21:39:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428561701@hc07/16055/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428561701@hc07/16055/" target="_blank"><img src="/docs/983428561701@hc07/16055/thmb.jpg?s=s&r=1197722374&t=n" border="0"></a><br /><br />①「韃靼漂流記」の時代を簡単に要約せよ
1644年４月１日。竹内藤右衛門、国田兵右衛門ら５８人が商売のため、松前に出航する。が、しかし２回の暴風雨にあい、ポシェット湾に漂着する。翌々年に清朝や李氏朝鮮の協力の元、故郷の越前に帰れた。これが韃[350]<br />①「韃靼漂流記」の時代を簡単に要約せよ
1644年４月１日。竹内藤右衛門、国田兵右衛門ら５８人が商売のため、松前に出航する。が、しかし２回の暴風雨にあい、ポシェット湾に漂着する。翌々年に清朝や李氏朝鮮の協力の元、故郷の越前に帰れた。これが韃靼漂流記の概要である。ここから鎖国後の江戸幕府と東アジアの関係が見て取れる。そして鎖国という歴史観念の見直しが必要になってくるのである。
韃靼漂流記で彼らの漂流の記録は1/3でしかない。残りは清朝の風俗が記されている。この書を読むと４つの疑問が残る。①なぜ清から直接ではなく、朝鮮から帰国したのか？②なぜ対馬に７０日間ほど滞在したのか？③帰国してからの彼らの処遇はどうだったのか？④なぜ韃靼漂流記の2/3が清朝事情なのか？というものである。
①の疑問の答えとして、当時の清には漂流民の送還体制が出来ていなかった。しかし1627年にはもう朝鮮と日本の間で漂流民を保護・送還する制度が出来ていたのだ。朝鮮に漂着すると、釜山から対馬藩へ引き渡しをされた。清はその制度に頼ったのである。続いて②だが、これはさきほどの制度の続きで、対馬藩から長崎奉行に管轄が変わり、そこ..]]></description>

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			<title><![CDATA[近世の概説]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/12335/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 29 Dec 2006 06:17:37 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/12335/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/12335/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/12335/thmb.jpg?s=s&r=1167340657&t=n" border="0"></a><br /><br />統一政権の成立と体制の整備
　豊臣秀吉の全国統一により戦国時代が終わると、徳川氏は諸法度の制定を通じて、朝廷・寺社統制をふくむ幕藩体制を確立した。
　外交では、秀吉の朝鮮侵略の後、江戸幕府は李氏朝鮮と国交を結んだが、明との国交を結んだが、明[356]<br />近世　
信長上洛（1568）～大政奉還（1867）
キーワード
江戸幕府　鎖国　幕藩体制　三大改革　大政奉還
目次
画期－社会の転換
①統一政権の成立と体制の整備
　信長～家綱（1568－1680）
②社会の変質と政治の対応
　綱吉～吉宗（1680－1750）
③社会の矛盾と支配体制の動揺
　田沼～水野（1750－1850）
④近代への移行
①統一政権の成立と体制の整備
　豊臣秀吉の全国統一により戦国時代が終わると、徳川氏は諸法度の制定を通じて、朝廷・寺社統制をふくむ幕藩体制を確立した。
　外交では、秀吉の朝鮮侵略の後、江戸幕府は李氏朝鮮と国交を結んだが、明との国交を結んだが、明との国交は実現しなかった。また、幕府は鎖国政策をとり、貿易の独占とキリスト教禁止の徹底を図った。
１．織豊政権
　ヨーロッパ人との交渉が始まった16世紀半ば頃から、戦国の争乱を克服して全国の統一をめざす気運が次第に高まってきた。群雄割拠の中で戦国大名は、天下統一のために畿内進出をはかったが、その先鞭をつけたのは尾張の織田信長であった。信長は1560年に桶狭間の戦いで今川義元を破って東海地方の実権を握り、勢いをつ..]]></description>

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			<title><![CDATA[歴史学（２分冊）～幕藩制確立期の幕府政治について～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/12251/]]></link>
			<author><![CDATA[ by minminmin]]></author>
			<category><![CDATA[minminminの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Dec 2006 22:23:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/12251/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/12251/" target="_blank"><img src="/docs/983430395101@hc06/12251/thmb.jpg?s=s&r=1167139413&t=n" border="0"></a><br /><br />家康・秀忠・家光の３代の内に江戸幕府の支配体制が整った。この支配体制を幕藩体制という。幕藩体制確立の過程として、幕府への服従を強化するため、徹底した大名の改易や転封を断行、関東は直轄領・旗本・譜代の小藩の領地で固め、東海道・畿内の要地はこれ[360]<br />家康・秀忠・家光の３代の内に江戸幕府の支配体制が整った。この支配体制を幕藩体制という。幕藩体制確立の過程として、幕府への服従を強化するため、徹底した大名の改易や転封を断行、関東は直轄領・旗本・譜代の小藩の領地で固め、東海道・畿内の要地はこれに準じ、外様の大藩は辺境地帯に移す方針で親疎・大小を入り組ませて互いに大名が連合しない体制を作った。これにより大名領との結合を弱め幕府への服従は絶対となった。
一六一五年（元和二年）に一国一城令の発布し、大名の領国には、大名が住む１つの城以外は廃城という内容で幕府の全国支配を強化。
さらに、参勤交代の制度により、大名は１年ごとに江戸と自分の領地を往復しなければならず、莫大な交通費や生活費を支出することになり、財政難となった。そのため、中央市場である大阪で、年貢米や特産品を販売して資金を稼ぐことになった。また参勤交代により５街道などの陸上交通網が整備され、物資を運ぶための水上交通網も整備されたことにより幕藩体制は経済的に安定した。
禁中并公家諸法度は、天皇と公家に対しての統制であり、初めて天皇についても定められた法であった。
このような制策により大名た..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[鎖国についての検討]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431243201@hc06/10426/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suseryna]]></author>
			<category><![CDATA[suserynaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Aug 2006 11:17:27 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431243201@hc06/10426/" target="_blank"><img src="/docs/983431243201@hc06/10426/thmb.jpg?s=s&r=1155262647&t=n" border="0"></a><br /><br />ＢＳＥ問題が発生してから、日本はアメリカ産牛肉の輸入をストップしたり、再開したと思えば、背骨付近の肉が混ざっていたからと言って再び輸入を禁止したりしたことで、飲食業界や国民の食卓にも影響を与え、振り回されてきた。日本の国民性として遠い昔から[360]<br />鎖国についての検討
　
　ＢＳＥ問題が発生してから、日本はアメリカ産牛肉の輸入をストップしたり、再開したと思えば、背骨付近の肉が混ざっていたからと言って再び輸入を禁止したりしたことで、飲食業界や国民の食卓にも影響を与え、振り回されてきた。日本の国民性として遠い昔から変わっていないのは、几帳面で大変器用であるが、その反面神経質で融通が利かないところだと思う。江戸時代に日本に1年半ほど滞在したツンベルグは、医師・植物学者として日本滞在中のことを旅行記として出版した『江戸参府随行記』の中で、日本人の疑い深さや頭の固さについて記述している。「彼らは、己の義務を極めて忠実に果たそうと努め、その筋の掟に盲目的に従おうとしており、それを自分で考えたり、任意に理解し、そして随意に状況に合わせて解釈したり、新しい創案を出したりする事はない」 。この様に昔から、日本人の特性として融通の利かない部分があると見られてきた。そんな日本人の特性が表れている最も大規模なものが鎖国だと思う。島国の日本が、外国との接触をほぼ全て遮断したことで、当時の日本だけでなく、現代の日本にまで影響している事はあるのだろうか。鎖国を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 開国と幕藩体制の崩壊について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/8568/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ｙｕｎｋａ]]></author>
			<category><![CDATA[ｙｕｎｋａの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 23 May 2006 12:03:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/8568/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/8568/" target="_blank"><img src="/docs/983431275501@hc06/8568/thmb.jpg?s=s&r=1148353435&t=n" border="0"></a><br /><br />日本は1543年、ポルトガルが鉄砲を伝えてからヨーロッパとの直接の付き合いが始まった。そして1549年にはキリスト教が伝わり、それまでは中国・朝鮮から伝わった物が多かったが、新しい考え方等が入ってきた。時代は変わり、1603年に江戸幕府が誕[336]<br />Ⅲ．近世　二幕藩体制の動揺と解体
３．開国と幕藩体制の崩壊
開国と幕藩体制の崩壊について
日本は1543年、ポルトガルが鉄砲を伝えてからヨーロッパとの直接の付き合いが始まった。そして1549年にはキリスト教が伝わり、それまでは中国・朝鮮から伝わった物が多かったが、新しい考え方等が入ってきた。時代は変わり、1603年に江戸幕府が誕生し徳川家が日本を支配するようになってから、朱印船貿易でヨーロッパとの付き合いは依然としてあった。しかし、幕府はキリスト教の「キリストを崇めよ」という教えが、日本を統治する上で邪魔であったため、さらに島原の乱などの事件があり、キリスト教を禁止し「鎖国」を行った。「鎖国」は、政治的に見ると幕府という権力が市場介入したものであった。この「鎖国」の大きな目的は、幕府の諸藩への支配を持続させるためであり、また、精神面において国民を支配するためキリスト教の禁止を徹底するためであった。諸藩がそれぞれにおいて外国と交流して経済的にも軍事的にも力を強めることは、徳川幕府が日本を統治していくには支障をきたす恐れがあったために「鎖国」をしたのである。
鎖国下において幕府は完全に国を..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[「鎖国」を巡って]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:47:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/233/thmb.jpg?s=s&r=1117716429&t=n" border="0"></a><br /><br />「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人[312]<br />「鎖国」を巡って
「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人国を鎖して国民をして国中国外に限らす敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」と訳を当てた。
「国を鎖し」「国の内外を問わず外国人と交易することを許さないこと」といったように、ケンペルは「鎖国」の概念を表現したが、はっきりと「鎖国」という言葉を使用してはいない。そもそもそれ以前の日本には「鎖国」という言葉は無く、180..]]></description>

		</item>

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