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		<title>タグ“聖書”の公開資料</title>
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		<description>タグ“聖書”の公開資料</description>
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		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【星槎大学 2023年】英語学概論Ⅱ レポート課題 評価B]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/939596825118@hc15/152763/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ゆゆたそ]]></author>
			<category><![CDATA[ゆゆたその資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2024 21:35:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/939596825118@hc15/152763/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/939596825118@hc15/152763/" target="_blank"><img src="/docs/939596825118@hc15/152763/thmb.jpg?s=s&r=1704458126&t=n" border="0"></a><br /><br />テーマ：教科書『ベーシック 新しい英語学概論』において言及されている「英訳聖書」に関しての理解を更に深めるべく、New Revised Standard Version(1989年)とContemporary English Version[234]<br />549103　英語学概論Ⅱ
テーマ：教科書『ベーシック 新しい英語学概論』において言及されている「英訳聖書」に関しての理解を更に深めるべく、New Revised Standard Version(1989年)とContemporary English Version(1995年)の「新約聖書 マタイ伝(Matthew)」を比較し、「①単語・フレーズの差異」「②文法の差異」について複数箇所指摘しなさい。それを踏まえ、「③なぜ同じような年代に翻訳された聖書であるにもかかわらず、①②で挙げたような違いが見られるのか」について論じなさい。
本レポートでは、「新約聖書　マタイ伝」のNew Revised Standard Version(1989年)とContemporary English Version(1995年)を比較し、単語や文法の違いについて複数箇所指摘し、なぜ同じような年代に翻訳された聖書であるのにもかかわらず、このような違いがあるのかについて論じる。
まず、単語の違いについて述べる。New Revised Standard Versionの単語の特徴として、1つ目に、宗教的な語..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148541/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sengoro]]></author>
			<category><![CDATA[sengoroの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 May 2022 15:11:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148541/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148541/" target="_blank"><img src="/docs/930858578376@hc18/148541/thmb.jpg?s=s&r=1653286275&t=n" border="0"></a><br /><br />キリスト教
キリスト教キリストきょう、基督教、ギリシア語: &Chi;&rho;&iota;&sigma;&tau;&iota;&alpha;&nu;&iota;&sigma;&mu;ό&sigmaf;、ラテン語: ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間と宗教_第1回]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127307/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 22 Nov 2016 00:43:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127307/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127307/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127307/thmb.jpg?s=s&r=1479742999&t=n" border="0"></a><br /><br />「人間と宗教」_第1回レポート課題
課題１
　宗教とは一体何であろうか。辞書などによると「神仏などの超自然的存在に対する信仰、教義、儀礼、組織などをもって宗教」と定義している。確かに日常生活において科学的に説明ができない現象が起きた時、我々はそれを神の仕業などといったりする。
日本において、宗教的組織はあまり良いイメージを持っていない。例えば、10年以上前に起きた地下鉄にサリンをまいて人を殺した無差別殺人や、カレーに毒物を混入させて人を殺した事件について、犯人はいずれも特定の宗教団体とよばれる組織の人間であった。近年では、宗教団体による霊感商法事件が摘発されている。宗教と聞くと悪というイメージが強い日本だが、一方、身の回りを見てみるとクリスマス、お正月、バレンタインデー、お祭りなど、習慣やイベント等において我々の生活の中には宗教に関係する事柄が多く存在する。
神のみぞ知るという言葉があるように、我々が神について語る時は人間の力だけではどうしようもなくなった時である。自分たちの力だけではなすすべが無くなった際、神は登場する。我々人間は一度死んでしまったら生き返ることができないので、「死」..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[宗教学 分冊1 日本大学　総合教育科目]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99416/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mevius169]]></author>
			<category><![CDATA[mevius169の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 20 Dec 2012 02:55:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99416/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99416/" target="_blank"><img src="/docs/lunalian/99416/thmb.jpg?s=s&r=1355939707&t=n" border="0"></a><br /><br />「キリスト教の展開、教父たちの活躍以降の動向」について
三一三年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって、多くの神学者が輩出して教議論が盛んになり、教会から使徒的信仰の代弁者と認められている教父たちが活躍した。
とくに、イエス・キリスト教の神性をめぐって、キリストは神に似ているが神ではない、とその神性を否定するアリウスと、キリストの神性を強調し、神とキリストのとの同一性を主張する教父アタナシウスとが対立した。しかし、三二五年のニカイア会議において、アタナシウス説が正統と認められ、三八一年のコンスタンティノポリス会議、四五一年のカルケドン会議を経て、「三位一体」の神観が確立された。
三位一体とは、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験の上に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの主体として現われる、とするものである。
西方教会最大の教父であるアウグスティヌスは、『告白』『三位一体論』『神の国』などの多くの著作によって、教会のサクラメントは、神の恩恵にあずかるために有効である、という教会論を説いている。
十一世紀半ばごろから、教父時代に形成された..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ヨハネによる福音書の神学的強調点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942776037845@hc14/118204/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぐっち！]]></author>
			<category><![CDATA[ぐっち！の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 19 Jan 2015 01:37:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942776037845@hc14/118204/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942776037845@hc14/118204/" target="_blank"><img src="/docs/942776037845@hc14/118204/thmb.jpg?s=s&r=1421599032&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />ヨハネによる福音書の神学に関する考察
私は「新約聖書と人間」の講義を受講し、ヨハネ福音書の受難物語が表す神学的強調点について興味を持った。このレポートではヨハネによる福音書第19章を分析し、そこからヨハネ福音書の神学的な強調点についての考察を行う。
ヨハネによる福音書の分析
　19章の始まりはイエスが鞭で打たれる場面から始まる。その後イエスは茨の冠と紫色の服を着せられ、「ユダヤ人の王、万歳」と言われ兵士に平手で打ち続けられる。この鞭で打たれる場面はマルコ、マタイ福音書よりも短く、詳細な記事に関しては無視されているが、「茨の冠」、王の着る服である「紫色の服」、「『ユダヤ人の王、万歳』という兵士の言葉」というイエスの王的威厳を強調する記事に関しては書き留められている。また、ヨハネ福音書記者はイエスの王性を強調するため、イエスが十字架につけられるまで、紫色の服にこだわり続けている。第4節からのピラトがイエスをユダヤ人の前に引き出す場面でも、「茨の冠」、「紫色の服」という記述がある。またこの場面では、「イエスは引き出された」ではなく「イエスは茨の冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると」..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[P6331　英米文学研究（レポート第１設題・第２設題）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959395285919@hc09/115514/]]></link>
			<author><![CDATA[ by whitetinypaw]]></author>
			<category><![CDATA[whitetinypawの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 06 Sep 2014 19:43:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959395285919@hc09/115514/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959395285919@hc09/115514/" target="_blank"><img src="/docs/959395285919@hc09/115514/thmb.jpg?s=s&r=1410000201&t=n" border="0"></a><br /><br />P6331　英米文学研究（レポート第１設題・第２設題）
テキストをもとにまとめたものです。

第１設題：テキストで扱われている作家から二人を選び、それらの二人に共通するトピックを自分で考えて、それに沿って内容をまとめてください
第２設題：プ[342]<br />「テキストで扱われている作家から二人を選び、それらの二人に共通するトピックを自分で考えて、それに沿って内容をまとめてください」
ジョン・ミルトン（John Milton）とジョン・バニヤン（John Bunyan）の作品はともに聖書に依拠し、彼らのピューリタンとしての視点を通して描かれている。以下では、それが作品でどのように表現されているのかについてみていきたい。タイトルは「ピューリタンが伝えようとしたもの」とする。
そもそも、なぜピューリタンが生まれたのだろうか。まずは、その歴史的背景からみていきたい。イギリスは元来、ローマ教皇を頂点に頂くカソリックであった。しかし、16世紀、当時の国王ヘンリー8世（HenryⅧ）が、自身の離婚問題に関し、それを認めないローマ教皇庁と決別したことに始まる。国王でありながら自身の婚姻についての決定権をもたなかった彼は、自らを頂点に置く英国国教会を設立したのである。時代が移り、エリザベス女王（ElizabethⅠ）が王位に立つと、彼女は、法衣の使用を含む宗教的礼拝における礼節の基準や、彼女自身が英国国教会の最高権威としてその配下に主教を置いた政府を要求した。本来、福音主義とはキリストの贖罪による救いを信仰の中心とし、儀式などの外的権威を軽視する新教的態度に過ぎなかった。しかし、彼らにとって国王を信仰の頂点に頂くこと、華美な儀式を行うことは聖書の教えに反するものであった。神が自ら書いたと信じる聖書こそがもっとも尊いと考える福音主義者たちは、聖書に権威を認めるゆえに、外部の宗教的・政治的権威のすべてを拒絶したのである。彼らは、これらの点を国会の内外から改革しようと試み、「却下」を返答として受け取ることなしに断固としてその姿勢を貫いた。彼らが後にピューリタンと呼ばれるようになる。彼らの活動は、ピューリタン運動と呼ばれ、その知識と雄弁さから彼らの代弁者となったのが若き詩人ミルトンであった。
ミルトンはその苦闘へと自らをささげるべくヨーロッパから戻ってくると、力強い言葉ですさまじい宗教的論争を書き始めた。英国国教会の儀式と政府を批判するパンフレットでは、聖書に権威を認める福音主義的理想の自由を強く訴え、古くからあるカソリック教会のみならず、英国国教会の圧政によって、その自由が踏みにじられてしまったのだと主張した。続いて、ミルトン自身が代弁者..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教における聖母マリア信仰の広がり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/91062/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mela]]></author>
			<category><![CDATA[melaの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 21:23:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/91062/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/91062/" target="_blank"><img src="/docs/955593150302@hc10/91062/thmb.jpg?s=s&r=1330604634&t=n" border="0"></a><br /><br />学部卒業論文。評価ＡＡ。[36]<br />梗概
三位一体を正統教義とするキリスト教において、プロテスタント以外の宗派は三位一体には入らないはずの聖母マリアを信仰するが、このようなマリアの存在はキリスト教正統教義の中では矛盾をしないのだろうか。またそれが、どのようにして生まれ、広まっていったのだろうか。本稿はこうした問題意識を元に、キリスト教の発展過程において聖母マリア信仰がどのように確立し、広がったのかを考察したものである。
第1章では、聖書が書き記された当時の社会で、女性がどのような存在だったのか、新約聖書及び、それ以前のユダヤ教社会に遡って考察し、新約・旧約聖書に登場する女性達とは、男性社会で虐げられていた存在ではなく、むしろ自立した存在として描かれていることを明らかにした。第2節では、正典福音書の中でイエスの母マリアはあまり取り上げられない存在であり、聖母マリア信仰とは初期のキリスト教には存在しなかったことを論じた。
第2章では、聖母マリア信仰の原型となったとされる大地母神信仰について明らかにした。第1節では、まず大地母神信仰とはどのような信仰であったかについて考察した。第2節では、ギリシア・ローマ世界において処女とは性行為の有無ではなく、女性の存在価値の絶対性を意味したため、多くの女神が処女神であったことを論じた。第3節ではその信仰がどのようにキリスト教と融合したのか、またなぜプロテスタントは聖母マリア信仰を否定するのかをルターの救済観を用いて考察した。第4節では、教会側からどのように受け止められていったかについて、公会議など歴史的な背景から明らかにした。
第3章では、民間信仰の中で語り継がれていったマリア信仰について考察した。第1節では、正統教義である三位一体に対し、民間信仰の中で三位一体の中心をなしたとされるマリアの信仰、聖家族について論じた。第2節ではヨーロッパ各地に点在する黒い聖母についてマグダラのマリア、ケルトの地母神、グアダルーペの聖母の例から、それらがなぜ黒いのか、キリスト教との融合の過程を考察した。
本稿では、キリスト教における聖母マリア信仰とは、キリスト教以前からある大地母神信仰との重層化、融合化によって生まれたことを明らかにした。聖母マリア信仰にみられる大地母神信仰の名残りが、人々の現世での生活・人生に密着した霊験を携える、機能神としての性質である。プロテスタント以外のキリス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[（神学　英語論文）What is a Gospel? The literary form and origins of the Synoptic]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950592352250@hc12/90392/]]></link>
			<author><![CDATA[ by efilyks]]></author>
			<category><![CDATA[efilyksの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 10 Feb 2012 11:31:06 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950592352250@hc12/90392/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950592352250@hc12/90392/" target="_blank"><img src="/docs/950592352250@hc12/90392/thmb.jpg?s=s&r=1328841066&t=n" border="0"></a><br /><br />HD　外国大学　神学（聖書）　小論文[50]<br />&quot;What is a Gospel? The literary form and origins of the Synoptic&quot;
The New Testament what is concerned as the Christian religious document, at the same time, the book which is read by majority in the history of the world, starts its context with four testimonials which are called the Gospels. Even the Gospels have been enjoyed by persons whose religions are Christian, these historically or politically multivalued documents are known by most of people. It is generally concerned as a kind of biography of Jesus Christ written by the third person. In reality it is usually accepted as a book is full of religious instructions or records with ancient tone that are not accustomed to modern culture. But before simply approaching the Gospels as is perceived by current cultural flows, we need to understand its genre, which is to say, the Gospels and other documents consist the New Testament should be interpreted with understanding what forms did the authors choose to communicate and deliver thei..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ミサの意義と構造について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952704044967@hc11/82100/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayaka0514]]></author>
			<category><![CDATA[ayaka0514の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 06 Jun 2011 00:01:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952704044967@hc11/82100/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952704044967@hc11/82100/" target="_blank"><img src="/docs/952704044967@hc11/82100/thmb.jpg?s=s&r=1307286110&t=n" border="0"></a><br /><br />ミサの意義と構造について書かれています。[60]<br />ミサの意義と構造について
１　はじめに
　ミサはキリスト教という１つの宗教の中で祈りの場として設けられている。ミサは誰でも参加することができる祈りの場であり、聖書や司祭の言葉を中心に自分自身や神に思いをはせながら厳かな雰囲気の中で様々なことが行われる。
このレポートでは、キリストと神を身近に感じながら祈るミサの構造とミサの意義を述べていきたいと思う。
２　ミサの構造
まずミサとはカトリック教会でおこなわれる聖体祭儀のことであり、カトリック教会のもっとも重要な典礼儀式といわれる。ミサという表現が使われるようになったのは六世紀ごろからでその頃から、教会の歴史の中で段々とラテン語が典礼に使われるようになりラテン語の「Ite，missa est」（ミサを終わります。行きましょう。）という表現が祭儀全体を示す名称となった。初代教会の時代には主イエスが御自分の記念として残された聖体の秘跡を執り行うことにちなんで「パンを裂くこと」「主の晩餐」「聖餐式」、イエスがパンとぶどう酒を弟子達に与える前に父である神にささげた感謝の祈りにちなんで「感謝の祭儀」などと呼ばれていた。また感謝の祭儀はギリシア語でエウカリスティアと呼ばれることもあった。
　現在私達が行っているミサは「ことばの典礼（ことばの食卓）」と「感謝の典礼(パンとぶどう酒の食卓)」の２つの部分から基本的に成り立っており互いに緊密に結ばれ礼拝祭儀を構成している。二世紀の半ばにはすでにこのような構造がみられ、これに加えて現行のミサでは共同体が集い、心の準備を準備をして祈りに入る「開祭」と祭儀に集まった人々を祝福し派遣する「閉祭」が整えられる。
　開祭では入祭（introitus）から始まり、会衆がいる場合ミサの始めには入祭の歌として聖歌が歌われることが多い。これは義務ではないが歌わない場合は入祭唱を唱えなければならない。その後、祭壇に表敬し司式者が挨拶をする「あいさつ」、「回心のいのり」、「あわれみの賛歌（kyrie）」、「栄光の讃歌(gloria)」と続く。あわれみの讃歌は連願に由来し、回心の祈りの大事な部分である。また、栄光の讃歌は讃歌であるため四旬節・待降節には省かれる。司祭が唱える「集会祈願」をもって開祭の儀は終了となり、ミサの間特に重要である「アーメン（その通りです。そうなりますように。）」と唱えることによって全会衆..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イメージを読む――西洋中世美術のイメージ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/]]></link>
			<author><![CDATA[ by happy365days]]></author>
			<category><![CDATA[happy365daysの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 20:26:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/" target="_blank"><img src="/docs/960846083458@hc08/77321/thmb.jpg?s=s&r=1294831585&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
　美術作品においては、作品そのものはもちろんのこと、その作品が表す物体や色のもつイメージも重要な意味を持っている。様々な物体や色に対するイメージは、時代や文化、地域、宗教によって異なっており、美術作品が表しているものを知るためには、その作品が作られた当時のイメージを知ることも必要である。
そこで、本レポートでは、西洋中世美術におけるイメージとは何かを、不可視の神を可視化して表すイコンに着目して考えたい。また、可視と考えられる動物を対象とする動物画とイメージの関係についても考察したい。
２．イメージとは
　イメージとは、ギリシア語のエイコン、ファンタスマに対応するラテン語イマゴ（imago）に由来する言葉である。美術においてイメージとは、何かによく似た「模像」、すなわちある対象を表した肖像・彫像であるとともに、その対象の象徴そのものも意味している。そのため、イメージは表す対象が不在であっても成立する。イメージとは、時空間的に離れたものと現在、可視のものと不可視のものを媒介するものなのである。
例えばキリスト教思想の中では、イメージに対して積極的な意味づけがなされ、人間は「神..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ポールオースター　アメリカ文学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73964/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 09 Nov 2010 23:49:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73964/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73964/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/73964/thmb.jpg?s=s&r=1289314179&t=n" border="0"></a><br /><br />ポール・オースター「孤独の発明」
この詩は内容だけでなく、形式も一般のものとは差異を感じる。第一章は「見えない人間の肖像」と題して(フィクションなのか自伝なのかは定かではないが)存在感の希薄な父について書かれている。また、第二章では語り手はAという三人称に変更されている。この章では、父と子をめぐる考察に加え、部屋という空間で孤独に生きた幾人もの作家の生が、彼らの文章の引用とともに示される。アメリカの東部の片田舎に引きこもり、そこからほとんど出ることもなく試作に励んだエミリーディキンソンの部屋。塔にこもり、狂気すれすれの生活で詩を書いたヘルダーリンの部屋。旧約聖書の中のヨナが、神の教えから逃亡し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ポールオースター　アメリカ文学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73945/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 09 Nov 2010 23:24:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73945/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73945/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/73945/thmb.jpg?s=s&r=1289312663&t=n" border="0"></a><br /><br />ポール・オースター「孤独の発明」
この詩は内容だけでなく、形式も一般のものとは差異を感じる。第一章は「見えない人間の肖像」と題して(フィクションなのか自伝なのかは定かではないが)存在感の希薄な父について書かれている。また、第二章では語り手はAという三人称に変更されている。この章では、父と子をめぐる考察に加え、部屋という空間で孤独に生きた幾人もの作家の生が、彼らの文章の引用とともに示される。アメリカの東部の片田舎に引きこもり、そこからほとんど出ることもなく試作に励んだエミリーディキンソンの部屋。塔にこもり、狂気すれすれの生活で詩を書いたヘルダーリンの部屋。旧約聖書の中のヨナが、神の教えから逃亡し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[礼拝レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954944558103@hc10/71561/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hlvr1314]]></author>
			<category><![CDATA[hlvr1314の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 20 Sep 2010 21:56:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954944558103@hc10/71561/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/954944558103@hc10/71561/" target="_blank"><img src="/docs/954944558103@hc10/71561/thmb.jpg?s=s&r=1284987367&t=n" border="0"></a><br /><br />ガラテヤ6:2 に書いてある、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」[172]<br />礼拝レポート
学生番号：
学部：　　グラス：E
番号：
名前： 
チャペルの日付：2010年6月7日
聖書：ガラテヤ　６：１－６
賛美歌：448
奨励：重荷を担う
奨励：竹澤知代志
説教内容の要約
ガラテヤ6:2 に書いてある、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」久しぶりに友人から連絡きて、カンボジアに出かけ、そこで小学校を建てる。しかし、当時&ldquo;私&rdquo;は74歳である。支えようと思っているけど、断れた。お金だけの援助ではなく、なすべきことをなすあう力のある人と一緒にやりたい。他の人の気づくもの、自分自身の重荷になる。そして、愛する子供にも、他人..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[なぜ中国の活字活版印刷は普及しなかったのか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955943949919@hc10/68099/]]></link>
			<author><![CDATA[ by overtaker]]></author>
			<category><![CDATA[overtakerの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 May 2010 00:02:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955943949919@hc10/68099/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955943949919@hc10/68099/" target="_blank"><img src="/docs/955943949919@hc10/68099/thmb.jpg?s=s&r=1274886179&t=n" border="0"></a><br /><br />なぜ中国の活字活版印刷は普及しなかったのか
―言語文化と活字の相性による考察―
序論
　印刷技術の発明に関しては、15世紀中頃にドイツ人のヨハネス・グーテンベルグが活字活版印刷を開発したことに始まるということが知られている。それ以前のヨーロッパでは手で書く手写本といわれるものがすべての書物の基本であったため、短時間に数百枚もの印刷ができる技術の登場はヨーロッパ中に大きな影響を与えた。グーテンベルグの活字活版印刷による最初の大規模な出版物は「四二行聖書」と呼ばれている。そして「四二行聖書」が出版されてから半世紀の間に、2万種類以上の出版物がドイツだけでなくヨーロッパ各地で出版されたといわれている。その後もこの印刷技術はヨーロッパに広く定着し、新しい文化を作り上げていった。
　しかし、グーテンベルグが活字活版印刷を発明するおよそ400年前、11世紀の中国において、すでに活字活版印刷は始まっていたのである。では、なぜ中国で発明された活字活版印刷はヨーロッパで発明されたものほどの影響を与えることができなかったのだろうか。
　中国とヨーロッパでの印刷において、最も大きな違いとして考えられるものは..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[読書ノート、エッセイ3]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/67875/]]></link>
			<author><![CDATA[ by left]]></author>
			<category><![CDATA[leftの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 22 May 2010 16:52:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/67875/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/67875/" target="_blank"><img src="/docs/962877421286@hc08/67875/thmb.jpg?s=s&r=1274514758&t=n" border="0"></a><br /><br />訪ねて見よう！日本の戦争遺産 2009年08月20日 安島 太佳由 宮崎市の市外を一望できる平和台公園に、異様な姿で空高くそびえ立つ「八紘一宇の塔」がある。宮崎の戦争遺跡を象徴するこの塔は、軍事施設でも戦災建造物でもなく、いわば戦争遂行のための精神的支柱としての役割を担っていたものだった。天皇ゆかりのこの地に、皇紀２６００年にあたる１９４０年、奉祝事業を記念して造られたものだ。八紘一宇とは、「天皇を中心とした世界制覇を成立する」という意味があり、日本の海外侵略を正当化し、国民の戦意を高揚するために用いられた標語であった。いま現在「平和の塔」と呼ばれている
禁煙セラビ――読むだけで絶対やめられる 2009年07月23日 アレン・カー, 阪本 章子 一度ニコチンに依存してしまうと、すでに洗脳されているあなたの脳の洗脳効果はさらに上がる。人は恐怖心からタバコを吸う。ニコチンを摂取しないと空虚で不安な気持ちになるのではないかという恐怖心。洗脳されているから禁煙できない。子供のとき社会から受けた洗脳は、大人になってタバコを吸い始めるとさらに強化される。そしてなにより、友達や家族や同僚からの洗脳が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教　ニグレンのアガペ論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956571374092@hc10/64733/]]></link>
			<author><![CDATA[ by amgellll000]]></author>
			<category><![CDATA[amgellll000の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Mar 2010 15:30:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956571374092@hc10/64733/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956571374092@hc10/64733/" target="_blank"><img src="/docs/956571374092@hc10/64733/thmb.jpg?s=s&r=1268634603&t=n" border="0"></a><br /><br />1936年に『エロスとアガペ』という著作を出版したスウェーデンの神学者ニグレンは、ギリシャ哲学の愛はエロスであり、エロス的な要素を含まない純粋なアガペこそが、キリスト教本来の愛であると規定し、アガペ論を論じている。本レポートにおいては、はじ[352]<br />1936年に『エロスとアガペ』という著作を出版したスウェーデンの神学者ニグレンは、ギリシャ哲学の愛はエロスであり、エロス的な要素を含まない純粋なアガペこそが、キリスト教本来の愛であると規定し、アガペ論を論じている。本レポートにおいては、はじめにニグレンのアガペ論とはどういうものかを述べ、その後、そのアガペ論に対する批判をする。
新約聖書において、キリスト教の根本モチーフである「愛」は、すべて「アガペ」というギリシャ語によって表現されている。それ故にニグレンは、キリスト教は本質的にアガペとしての愛の宗教である、という点を真っ先に指摘し、また、アガペの性格を「神の愛にかかわる限りにおけるキリスト教の愛の観念」であるとした。アガペの４つの特徴を挙げ、ニグレンのアガペ論の内容を述べる。
１、　　―　アガペは自発的で動機づけられない　―
律法主義の社会においては、律法を守る人間は、神から愛される「義人」であり、律法を破る人間は、神から憎まれる「罪人」であった。それに対し、イエスは自分の能動性に基づいて、律法主義者の非難に屈することなく、自分が愛したいと思う人々を自発的に、積極的に愛した。神が人間..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教と女性の役割]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432281101@hc05/62164/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sakuragi]]></author>
			<category><![CDATA[sakuragiの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 20 Jan 2010 15:42:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432281101@hc05/62164/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432281101@hc05/62164/" target="_blank"><img src="/docs/983432281101@hc05/62164/thmb.jpg?s=s&r=1263969732&t=n" border="0"></a><br /><br />（3,991字）[14]<br />キリスト教における女性の役割
　キリスト教の定義を一言で表すのは難しいが、どのような宗教をキリスト教と呼ぶのかを単純に考えた場合、分かりやすい特徴が3つある。「
イエス・キリストを救世主とする宗教
聖書を経典とする宗教
教会を尊重する宗教
しかし、これらの三本柱は同時に立てられたものではなく、それぞれに歴史的順序があった。まずイエス・キリストという存在が生まれ、彼は独特の教えを唱える。キリスト自身は若くして亡くなってしまったため本人の活動期間は短いが、その教えはキリストの弟子たちによって証言され、彼らを核とした集団が生まれる。この信仰集団がエルサレムを中心に発展し、初代教会となった。そして弟子たちの記憶と口伝に基づいて文書が作られ、キリストの教えは後世に伝わっていくこととなる。これらの諸文書がのちに教会によってまとめられた経典が、今日、聖書と呼ばれるものである。
　このレポートでは、初代キリスト教会だけでなく古代ギリシア・ローマ時代からの女性の役割に焦点を当てて、キリスト教を紐解いていきたいと思う。女性の宗教的役割は、古代からどのように変化していったのだろうか。そして初代教会内では、女..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[パウロの倫理観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/60027/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cozy.i]]></author>
			<category><![CDATA[cozy.iの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 29 Nov 2009 17:25:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/60027/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/60027/" target="_blank"><img src="/docs/957879994698@hc09/60027/thmb.jpg?s=s&r=1259483151&t=n" border="0"></a><br /><br />パウロの律法理解
&mdash;聖書学演習19を通して&mdash;
　パウロと言えば異邦人伝道や信仰義認が思い起こされるであろう。パウロはガラテヤ書２章１６節「・・・人は律法の実行ではなく・・・イエス・キリストへの信仰によって義とされる・・・。」やロマ書３章２８節「・・・人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」と言っている。この信仰によって義とされるという論理は律法を行って来たユダヤ教徒だけに神の救いが訪れるのではなく、異邦人たちにも神の救いは向けられている事を意味している。つまり彼の異邦人伝道の論拠ともなるのである。しかし、この律法による行いではなく信仰による義を強調し、律法を行って来たユダヤ人だけでなく、律法を知らない異邦人をも救われるとした場合、神がモーセを通して与えられた律法はどのような意味を持つのであろうか。このパウロの律法理解について、授業を振り返り、考えていきたい。
　異邦人たちがパウロの説く、キリスト教に改宗するにあたり、パウロの言った「キリストへの信仰によって義とされる」という言葉は力強かったのであろう。異邦人にとってユダヤ教の男子の割礼を含む厳格な律法..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イスラエル宗教史とアブラハム]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/57234/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cozy.i]]></author>
			<category><![CDATA[cozy.iの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Nov 2009 16:00:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/57234/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957879994698@hc09/57234/" target="_blank"><img src="/docs/957879994698@hc09/57234/thmb.jpg?s=s&r=1257404426&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[メルビル　「白鯨」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961172430105@hc08/53426/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pero0827]]></author>
			<category><![CDATA[pero0827の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 03 Aug 2009 12:33:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961172430105@hc08/53426/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961172430105@hc08/53426/" target="_blank"><img src="/docs/961172430105@hc08/53426/thmb.jpg?s=s&r=1249270431&t=n" border="0"></a><br /><br />Herman Melville 『白鯨』
「白鯨（モービー・ディック）」は未読だったが、名作中の名作と語り継がれていることは知っていた。読む前までは、エイハブ艦長と白鯨の戦いが克明に描かれたスケールの大きな復讐劇なのだと思っていたのだが、[324]<br />Herman Melville 『白鯨』
「白鯨（モービー・ディック）」は未読だったが、名作中の名作と語り継がれていることは知っていた。読む前までは、エイハブ艦長と白鯨の戦いが克明に描かれたスケールの大きな復讐劇なのだと思っていたのだが、読み進むうちに想像と違っていることに気付き、この物語の真の意味でのスケールの大きさに圧倒された。
まず、「白鯨（モービー・ディック）」の構成なのだが、主人公はエイハブではなくて、外の世界を知りたくて捕鯨船に乗りこんだ船乗りだった。彼を語り手として、エイハブ艦長と白鯨の物語が語られるのかと思っていた。しかし、彼の目線から描写される対象は、鯨の特性や、捕鯨の仕組み、捕鯨船の構造や船上での生活などで、それも特定のストーリーの中で語られる訳ではなく、日常の描写の中で、説明的に語られていた。しばらく読んで、「白鯨」は捕鯨をあつかった博物誌のようなものだと感じた。物語というよりは、まるで百科事典を読んでいるような。実際に、本文の中で、著者は本書を「論文」を呼んでいる。百科事典を読んでいるつもりになると、なるほど、色々なことがわかる本だと思った。
　時代設定でもある..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[教育名著講読（スクーリング）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/21603/]]></link>
			<author><![CDATA[ by minminmin]]></author>
			<category><![CDATA[minminminの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 01 Jun 2008 14:14:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/21603/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430395101@hc06/21603/" target="_blank"><img src="/docs/983430395101@hc06/21603/thmb.jpg?s=s&r=1212297282&t=n" border="0"></a><br /><br />子ども向けに最初に作られた絵入りの本は、１６５８年にドイツで出版された『世界図絵』である。作者のヨハン・アモス・コメニウスは、絵は子どもがものごとを学ぶのにわかりやすい方法だと考え、宇宙から動物まで様々な事物を素朴な木版画とわかりやすい文章[360]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[キリスト教とは何かについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431136501@hc06/17593/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ユウヒロ]]></author>
			<category><![CDATA[ユウヒロの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 09 Jan 2008 18:59:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431136501@hc06/17593/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431136501@hc06/17593/" target="_blank"><img src="/docs/983431136501@hc06/17593/thmb.jpg?s=s&r=1199872797&t=n" border="0"></a><br /><br />キリスト教とは何かについて、まずキリスト教とは唯一の神を信じることが重要なことであると思う。キリスト教徒は、天地の創造主であり、全世界を支配する唯一の｢神｣が存在することを信じています。この神の性質や働きは｢聖書｣に記載されている。キリスト[360]<br />キリスト教とは何かについて、まずキリスト教とは唯一の神を信じることが重要なことであると思う。キリスト教徒は、天地の創造主であり、全世界を支配する唯一の｢神｣が存在することを信じています。この神の性質や働きは｢聖書｣に記載されている。キリスト教はこの｢神｣に最大の敬意を表し、この｢神｣だけを礼拝する。｢神｣はこの世の外にいる超越的存在、空間、時間を超越した絶対他者であると考え、世界は神が何もしない所から作り出した作品であり、有と無が混在する儚いものであると認識する。
キリスト教の信仰や根源など回心の実例のうちの１人であるフランチェスコは、生地商人の長男で、物乞いにはお金を恵んだりしたが偽善の行為で斜に構えた屈折な部分をもっている。彼は十字軍に行くが、湖でらい病人を追い払った醜い自分が、十字軍に参加することにより得る地位や名誉を得て何になる？死んでしまえば同じだと考えた。教会に寝泊りをするうちに悔いを改めて回心をするようになった。もともと人間は無(物体)に執着をし、物欲がある。しかし人間は物を求めても真に安らぐことは出来ない。物は物であり、生きておらず、愛しても愛をかえしてはくれない。回心..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ユダヤ・キリスト教世界における悪魔の変遷、本当 az HC]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16043/]]></link>
			<author><![CDATA[ by せいろん]]></author>
			<category><![CDATA[せいろんの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Dec 2007 12:12:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16043/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16043/" target="_blank"><img src="/docs/ceylon_mypage/16043/thmb.jpg?s=s&r=1197688328&t=n" border="0"></a><br /><br />ユダヤ・キリスト教世界における悪魔の変遷
ユダヤ人の歴史
前１０C　　イスラエル・ユダの二王国に分裂
前８C　　　イスラエル王国滅亡（アッシリアのサルゴン２世）
前５８７　　ユダ王国滅亡　　　（ネブカドネザル）　&rarr;バビロン捕囚
その後　　　[346]<br />ユダヤ・キリスト教世界における悪魔の変遷
ユダヤ人の歴史
前１０C　　イスラエル・ユダの二王国に分裂
前８C　　　イスラエル王国滅亡（アッシリアのサルゴン２世）
前５８７　　ユダ王国滅亡　　　（ネブカドネザル）　&rarr;バビロン捕囚
その後　　　ペルシア・マケドニア・エジプト・シリア・ローマの支配　
異民族による圧政
　　　　　　アレクサンドロス大王の東征&rarr;ギリシア人の中東への進出
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　文化の混交（ヘレニズムの風潮）　
＜ディアスポラ＞の民として諸国に四散したユダヤ人&rarr;ヘレニズム化
パレスチナのユダヤ人&rarr;反抗
前２C初頭　セレウコス朝シリア（アンティオコス４世）　
ユダヤ教の根絶・ヘレニズム化政策
　　　　　　強引な弾圧
エルサレム神殿の略奪
ヤハウェ礼拝の禁止
&rArr;反撥
＜ハシディーム（敬虔派）＞の登場
&hellip;律法を遵守してユダヤ人の民族的伝統を守ろうとする保守主義者
終末論が盛んになる
&hellip;人間は善人・悪人の２種類に分かれ、現在は悪人が支配しているが世界の終わりに悪人は滅ぼされ善人が報われる
メシア思想
&hellip;終末論で、この世の終わりの際に救世主が現れ、選ばれた善..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[香りと聖書]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963688408362@hc07/15759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by グリーンティ]]></author>
			<category><![CDATA[グリーンティの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Dec 2007 15:46:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963688408362@hc07/15759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963688408362@hc07/15759/" target="_blank"><img src="/docs/963688408362@hc07/15759/thmb.jpg?s=s&r=1197441985&t=n" border="0"></a><br /><br />香りと聖書
聖書には香りに関する記述が数多く出てきます。 嗅覚は人間にとって根源的な感覚の一つであり、香りが精神や肉体にもたらす効果は、原始キリスト教の時代から認識され、重要なものとされてきました。 いくつか、例を挙げて見ましょう。 ■香を[352]<br />香りと聖書
聖書には香りに関する記述が数多く出てきます。 嗅覚は人間にとって根源的な感覚の一つであり、香りが精神や肉体にもたらす効果は、原始キリスト教の時代から認識され、重要なものとされてきました。 いくつか、例を挙げて見ましょう。 ■香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。（ルカによる福音書1：11） ■さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた（マルコによる福音書16：1） 聖書の中では、祭壇にお香を焚いたり、聖なる油を塗布するという形で、香りが利用されています。 しかし、クリスチャンの伝統の中でも、流派や教会によって、香りの使用については見解が様々に分かれています。お香や聖油が、たんに必要のないもの、もしくは異教的なものとして退けられる場合もありますが、カソリックやギリシャ正教会などでは、よく用いられているようです。英国国教会では、洗礼などには通常、聖油の塗布を行いませんが、戴冠式の際にはよい香りの聖油が重要な役割を果たしており、クリスチャンと香りの関係..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[翻訳論としてのHieronymus論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15606/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Eusebius]]></author>
			<category><![CDATA[Eusebiusの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Dec 2007 01:33:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15606/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15606/" target="_blank"><img src="/docs/963754529070@hc07/15606/thmb.jpg?s=s&r=1196785997&t=n" border="0"></a><br /><br />演習における研究ノート
15 Jun 2007
翻訳論としてのHieronymus論
翻訳をscienceとして論じるうえでのもっとも重要な点は、翻訳とはそもそもどういうphenomenonであるかを問うことである。多くの人は現代の言[272]<br />演習における研究ノート
15 Jun 2007
翻訳論としてのHieronymus論
翻訳をscienceとして論じるうえでのもっとも重要な点は、翻訳とはそもそもどういうphenomenonであるかを問うことである。多くの人は現代の言語の例を用いて論じるが、過去にどういう風に理解されてきたかも問題とすることこそ、現代における用例の変遷も含めた議論をするときには重要である。ここのメモでは、the Vulgateという西欧の聖書翻訳のnormを翻訳編集した古代のラテン教父・聖Eusebius Hieronymus (c.340-420)のPammachiusあての書簡を分析し、彼の翻訳者としての在り方を再考することを通して、現代の翻訳のあり方について考える。
I. 既成のTranslation Studies理論の問題点「word for wordかsence for senceか」
　　翻訳translationとはどういう行為であり、どのような側面を持っているか。
「直訳」と「意訳」の違いをいかに論じるかと言うことに議論が集約されてしまいがちである。
完全な語の一致を目指すことで文全体..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人間とは何か]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13236/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役海外大学院生]]></author>
			<category><![CDATA[現役海外大学院生の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Feb 2007 01:54:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13236/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13236/" target="_blank"><img src="/docs/983430954801@hc06/13236/thmb.jpg?s=s&r=1170953670&t=n" border="0"></a><br /><br />自分が教師となったときに、生徒から「人間とは何か」と聞かれたらどのように答えるだろうか。今日の社会背景や人間存在の位置づけを踏まえたうえで、生徒にとってわかりやすく答えるために、私はどのように答えたらよいだろうか。私は自分個人の考えとして次[360]<br />　自分が教師となったときに、生徒から「人間とは何か」と聞かれたらどのように答えるだろうか。今日の社会背景や人間存在の位置づけを踏まえたうえで、生徒にとってわかりやすく答えるために、私はどのように答えたらよいだろうか。私は自分個人の考えとして次の三つを提供したい。それは、人間とは第一に「他者ともに生きていく存在」、第二に「合理性を超越する存在」、そして第三に「死を意識する存在」であるという考えである。
　まず一つ目の、人間とは「他者と共に生きていく存在」であるということについて述べたい。当たり前のことであるが、人間は一人では生きていけない。人間は本来、一人で生きられる存在ではなく、家族、親類、友人といった人間社会の中で支えられて生きていく存在である。逆の例として狼に育てられた二人の少女、アマラとカマラの話が挙げられる。人間の間で育つことのなかった彼女達はなかなか狼の習性が抜けず、結局最後まで友情や愛情といったものを持たなかった。ここから、人間は、他人の愛情を受けることで生かされ、人間社会の中で育てられることで「人間」として成長するという事実を実感させられる。それゆえに、私は人間とは他者と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[聖書を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429977601@hc06/12315/]]></link>
			<author><![CDATA[ by masa924]]></author>
			<category><![CDATA[masa924の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 28 Dec 2006 13:19:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429977601@hc06/12315/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429977601@hc06/12315/" target="_blank"><img src="/docs/983429977601@hc06/12315/thmb.jpg?s=s&r=1167279595&t=n" border="0"></a><br /><br />神は第一の日に光と闇を分け、光を昼、闇を夜と呼ばれた。そして良しとされた。第二の日に大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。神は大空を天と呼ばれ、そして良しとされた。第三の日に水を一つの所に集めて、乾いた所を地、水の集まった所を[360]<br />神は第一の日に光と闇を分け、光を昼、闇を夜と呼ばれた。そして良しとされた。第二の日に大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。神は大空を天と呼ばれ、そして良しとされた。第三の日に水を一つの所に集めて、乾いた所を地、水の集まった所を海と呼ばれた。そしてこれを見て良しとされた。また、第三の日に神は、地に草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て良しとされた。第四の日に神は二つの大きな光る物と星を造り、大きい方を昼、小さい方を夜に治めさせて、これらを天の大空に置いて、地を照らさせた。神はこれを見て良しとされた。第五の日に神は水に群がる物、うごめく生き物、翼のある鳥をそれぞれ創造された。神はこれらの物を祝福して、産み、増やすように言った。第六の日に神は、御自分をかたどって人を創造された。ですから、人間と神はとても親密な関係がある。人間には、考えることができ、意志があり、選択の自由があります。また、人間は神と同じ様に権威を持っている。主なる神は、土(アダマ)の塵の人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれ、人を生きる者とな..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ジョセフ・フレッチャーの「状況倫理」の長所とその問題点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11467/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Nov 2006 09:36:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11467/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11467/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/11467/thmb.jpg?s=s&r=1163378165&t=n" border="0"></a><br /><br />ジョセフ・フレッチャーの「状況倫理」の長所とその問題点
倫理的一般原則が、様々な文化的価値観や歴史的文脈を無視したかたちで設定される時に、それは人を束縛するだけの命令となる。「愛と律法は矛盾する」などという言い回しで表現されるときの律法は[356]<br />ジョセフ・フレッチャーの「状況倫理」の長所とその問題点
倫理的一般原則が、様々な文化的価値観や歴史的文脈を無視したかたちで設定される時に、それは人を束縛するだけの命令となる。「愛と律法は矛盾する」などという言い回しで表現されるときの律法はそれに近い。フレッチャーの状況倫理は、愛の原則によって世界を相対的に捉えて決断を下していくため、現実世界の人々の価値観や方法論、歴史などが無視されることはない。現代のように価値観が多用し、急速に変化する歴史状況の中では通り一辺倒の原理原則では対応できない状況に遭遇することも少なくない。そこにおいて、フレッチャーの状況倫理の用いられる意義があるであろう。
しかし..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「カール・バルトにおける愛」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11344/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 07 Nov 2006 10:12:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11344/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11344/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/11344/thmb.jpg?s=s&r=1162861930&t=n" border="0"></a><br /><br />バルトは人間に対して与えられる神の愛を根拠にして「愛」を次のように定義している。「愛とは、排他的に神に対する愛のみではない。むしろ神に対する人間の愛でありつつ、神以外に、神と並んで、神とはまったく異なった別の対象を持っている」というのである[360]<br />「カール・バルトにおける愛」
バルトは人間に対して与えられる神の愛を根拠にして「愛」を次のように定義している。「愛とは、排他的に神に対する愛のみではない。むしろ神に対する人間の愛でありつつ、神以外に、神と並んで、神とはまったく異なった別の対象を持っている」というのである。そしてその別の対象について、聖書の証言が示すものが何かというと、「一定の歴史的関連の中で彼に与えられた人間仲間である」という。つまり、ここでの「人間」とは神の愛に応えて、愛する対象は神のみではなく、彼と同じ&ldquo;人間仲間&rdquo;である。
　そしてバルトは注意深く更に定義する。「人間そのものに対する愛、したがってすべての人間に対する愛、普遍的な人間愛というようなものについては、旧約聖書・新約聖書の一箇所においても語られていない。&ldquo;普遍的な人間愛&rdquo;というものが存在したとしても、それは観念であるか人間の心理的な志向としか考えられないものであり、神に対する愛も、人間に対する愛も「行為」という性格を持つのである。
　それではバルトの語る&ldquo;人間仲間&rdquo;とは一体どのような対象であろうか。ここで語られる愛が人道的な道徳やヒューマニズム的な人類愛と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[  宗教を超えた概念としてのキリスト教]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430056701@hc06/11126/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chaka3jimon]]></author>
			<category><![CDATA[chaka3jimonの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 15 Oct 2006 16:18:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430056701@hc06/11126/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430056701@hc06/11126/" target="_blank"><img src="/docs/983430056701@hc06/11126/thmb.jpg?s=s&r=1160896687&t=n" border="0"></a><br /><br />（はじめに）
最近に限らず、宗教というのは内戦や戦争を起こす要因の一つとなりうる。ともすれば、宗教、特に唯一神を崇めるものは私たち日本人のような多くの無信仰者にとって、なにやら排他的で教義に凝り固まった危険なモノになりかねない。
しかし[352]<br />（はじめに）
最近に限らず、宗教というのは内戦や戦争を起こす要因の一つとなりうる。ともすれば、
宗教、特に唯一神を崇めるものは私たち日本人のような多くの無信仰者にとって、なにやら排他的で教義に凝り固まった危険なモノになりかねない。
しかし、国際化が叫ばれる世の中にあって、私たちは自国の文化を理解するだけでなく、他国の文化を理解しなければならない。宗教は、それ自身を分析することによって、
その根底に流れる、地域の概念や考え方を掬うことの出来るモノのひとつであろう。
そこで、私は新約聖書における「主の祈り」を宗教的解説とはまた別に、
私たちの中で普遍的に共有されるであろう概念として解説していきたいと思う。
（「主の祈り」の特徴）
「主の祈り」は「主」イエスが弟子たちに「あなた方はこう祈りなさい」と教えた祈りの言葉である。この背景には「十戒」がある。また、イエスはこの教えを山上で行っている。（マタイ６）「山」というのは非日常のイメージ、人間を超えた力、神の象徴である。
このことから、「主の祈り」がいかにキリスト教の中でも重要な位置を占めるかが、うかがえる。
「主の祈り」には大きく分けて二つの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[神話における蛇]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/9902/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 21 Jul 2006 21:05:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/9902/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/9902/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/9902/thmb.jpg?s=s&r=1153483549&t=n" border="0"></a><br /><br />立命館大学のレポート課題です。

日本の神話に限らず、よく耳にする生き物が存在するということに気づいた。蛇は蛇神や竜と言った竜蛇神などとして、また、キリスト世界においては、旧約聖書、新約聖書を問わず、蛇はサタンの一形態であるとされ、人類最初[356]<br />神話における蛇
　「神話とは事物の起源や意義を象徴的に述べる説話であり、日常の習慣から国家までその対象は多岐にわたるが、「なぜこの世界はあるのか」、「なぜ人がいるのか」、「なぜ人は死ぬのか」というテーマなどが取り上げられる。」（引用）そしてこの神話には日本の神話に限らず、よく耳にする生き物が存在するということに気づいた。私が気づいた生き物というのは蛇である。蛇は蛇神や竜と言った竜蛇神などとして神話によく登場してくる。蛇とは昔から蛇神として考えられる白い蛇や蛇の抜け殻など、縁起の良いものとしての蛇というものも存在するが、蛇といえば長い体に毒を持ち、凶暴な性格という印象があり一般的な印象として、あまり良い印象はなく、人に畏敬の念を抱かせる存在というものではないかと思われる。また、キリスト世界においては、旧約聖書、新約聖書を問わず、蛇はサタンの一形態であるとされ、人類最初の人間であるアダムを堕落させ、失楽園へと導いたとされる悪しき動物としての悪いイメージもある。では、なぜこのような印象を持つ蛇が神格化されているのかという疑問がわいてくる。そこで今回、私は神話に深く関連していると思われる蛇につ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 「コリントの信徒への手紙　一　11章17節-30節」による聖餐論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/9550/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 Jul 2006 22:18:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/9550/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/9550/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/9550/thmb.jpg?s=s&r=1152623915&t=n" border="0"></a><br /><br />パウロはこの箇所で言及している「主の晩餐」という言葉には、現代のキリスト者が用いる「聖餐」と「愛餐」という区別は存在しない。主の晩餐の象徴するパンと杯の分配は、教会における儀式ではなく、普通の食事の一部として行なわれていた。それゆえパウロは[360]<br />「コリントの信徒への手紙　一　11章17節-30節」による聖餐論
パウロはこの箇所で言及している「主の晩餐」という言葉には、現代のキリスト者が用いる「聖餐」と「愛餐」という区別は存在しない。主の晩餐の象徴するパンと杯の分配は、教会における儀式ではなく、普通の食事の一部として行なわれていた。それゆえパウロはこの箇所で「聖餐論」を展開しているのではない。その食事の様子から明らかになるコリント教会の問題である。その問題を、「わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません」（17節）と、パウロは批判する。コリントの人々が集まる時、「お互いの間に仲間割れ」があり、「集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」ことを聞いたパウロは、彼らに対して警告をしている。「わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。」というパウロの言葉は、このコリントの人々の状況に少なからず驚きを感じていることを表している。しかしその直後の「だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」というパウロの冷静な意見からは、これも神の計画のために避けられない事態であることを認めてもいるこ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ナザレのイエス：松永希久夫『歴史の中のイエス像』を読んで［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 08 Mar 2006 06:11:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7355/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7355/thmb.jpg?s=s&r=1141765904&t=n" border="0"></a><br /><br />私がこの本を読んで最も印象に残ったのは、「イエスは神との交わりに対して、常に主体的な決断を迫っていた」という部分である。　イエスはさかんに「神の国」ということを口にした。これは国家や政治形態をもった外面的なものではなくて、内面的、精神的な[358]<br />ナザレのイエス　―松永希久夫『歴史の中のイエス像』を読んで―
　私がこの本を読んで最も印象に残ったのは、「イエスは神との交わりに対して、常に主体的な決断を迫っていた」という部分である。
　イエスはさかんに「神の国」ということを口にした。これは国家や政治形態をもった外面的なものではなくて、内面的、精神的な共同体であり、地上において始まり、終末において完成されるものである。この「神の国」を実現することが、人間の救いであるとイエスは考えていた。よって、イエスが行おうとしたのは、個人の霊魂の救済とは別のものである。
　ところで、イエスはこの「神の国」の運動を展開する上で、癒し（奇蹟）とたとえ話を頻繁に用いたが、この２つには大きな共通点があると松永は言う。
　癒しの例として、有名な「長血の女」の話をあげてみよう（マルコ５：２５～３４）。これは単なる癒し物語ではない。病気が癒されるというだけのことなら、この女がイエスを背後から触れば済むことである。しかし、彼女は病気が治った後も、その場に居続けた。このことが大変重要な意味を持つ。
　イエスは「私を必要としたのはだれか。私にさわったのはだれか」と問い..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「人間としてのイエス」を語るということ［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 07 Mar 2006 23:47:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7347/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7347/thmb.jpg?s=s&r=1141742846&t=n" border="0"></a><br /><br />「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」＝「イエス・キリスト」と[360]<br />「人間としてのイエス」を語るということ
　「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」＝「イエス・キリスト」という意味で使われることも少なくないからだ。
　しかし、少なくとも、今回このレポートを書くにあたって、私が参照した「人間としてのイエス」を主題にすえた本は、いずれも「ナザレのイエス」という項目を必ず備えていた。これは、今までの他のキリスト教の本には見られなかったことである。
　そこで、本レポートにおいては、単に「イエス・キリスト」についてではなく、「人間としてのイエス」を語るということはどういうことか、について考察してみたい。というのは、「人間としてのイエス」について書かれた本を読み進めるうちに、私は次第にある違和感を抱かざるを得なくなっていったからである。
　イエスを歴史的にとらえようとする学問的・批判的研究は、１８世紀後半のドイツで開始された。そして、西暦２０００年を目前にした昨今（とは言え、イエスの生誕は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[愛すべき「十二使徒」とその役割についての一考察［早稲田・文学部・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 04 Mar 2006 02:20:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/7202/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/7202/thmb.jpg?s=s&r=1141406451&t=n" border="0"></a><br /><br />イエスを語る時、必ずついてくるのが十二使徒たちの物語である。果たして彼らの存在は、どのような意味を持っていたのだろうか。　イエスが生まれてから約２０００年の月日が流れ、近年、奇跡を次々と起こす伝説的なイエスではなく、「ナザレのイエス」「人[358]<br />愛すべき「十二使徒」とその役割についての一考察
　イエスを語る時、必ずついてくるのが十二使徒たちの物語である。果たして彼らの存在は、どのような意味を持っていたのだろうか。
　イエスが生まれてから約２０００年の月日が流れ、近年、奇跡を次々と起こす伝説的なイエスではなく、「ナザレのイエス」「人間イエス」の研究が非常に盛んになってきている。少なからぬ研究者が、約２０００年前のイエスの生活・言動について、様々な仮説――それは時に大胆でさえある――を立て、論じている。
　けれども、私に言わせればそれは、どうも「ヤボなこと」である。「十二使徒の検証を通じて、『人間イエス』を考察する」というこの授業の目的を考えれば、こんなことを言っていてはいけないのかもしれないが、私はやはりイエスには「エラい人」でいて欲しいし、そのままで十分ではないかと思えるのだ。なぜならば、「人間イエス」のその先に見えてくるはずのものは、わざわざそれを暴かなくとも、十二使徒たちが十分にその役割を担ってくれていると考えるからだ。キリスト教は、そして聖書は、あらかじめそこまでお膳立てをしてくれていると私は思う。
　十二使徒はイエスと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[最も小さき者の友として]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431164301@hc06/5023/]]></link>
			<author><![CDATA[ by thekitayon]]></author>
			<category><![CDATA[thekitayonの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 18:36:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431164301@hc06/5023/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431164301@hc06/5023/" target="_blank"><img src="/docs/983431164301@hc06/5023/thmb.jpg?s=s&r=1137058615&t=n" border="0"></a><br /><br />　マタイによる福音書２５章には対の物語として二者が登場する。一方が祝福を受ける者、もう一方が呪われた者である。イエスは国民を善良な羊と呪われた山羊に分けた。当時は、羊の方は財産的に重要であったが、一見すると、羊と山羊は見分けがつきにくい。イ[360]<br />最も小さき者の友として
　マタイによる福音書２５章には対の物語として二者が登場する。一方が祝福を受ける者、もう一方が呪われた者である。イエスは国民を善良な羊と呪われた山羊に分けた。当時は、羊の方は財産的に重要であったが、一見すると、羊と山羊は見分けがつきにくい。イエスが人々を分けた境目、つまり救われるかどうかの基準は純粋な愛に依るところが大きい。ところが、祝福を受けるべきとされた者たちは、自分の良き業を知らなかった。それは、あまりにも小さいものにすぎなかったからだろう。私たちは「小さな業の重さ」を理解できないゆえに、自分を大きく見せようとしてあれもこれもしたと、自分の業の大きさを誇る。愛を実現するためには偽善がつきまとわりやすく、本当の愛とは愛したことに気付かないほどのものである。イエスが私たちに示している教訓は、「かかわる」ということから始まると私は思う。人に人とのかかわりを持たせるものは思いやりという心である。また、私はマタイの福音書２５章４０節の「私の兄弟であるこの最も小さい者」はキリストの弟子を指すと考える。彼らはキリストと同じように苦しみ、迫害を受け、飢えや渇きや弱さの中に立..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Myth in the Bible: the Book of Joshua]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/4300/]]></link>
			<author><![CDATA[ by marierock]]></author>
			<category><![CDATA[marierockの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Dec 2005 02:27:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/4300/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/4300/" target="_blank"><img src="/docs/983431336301@hc05/4300/thmb.jpg?s=s&r=1135445233&t=n" border="0"></a><br /><br />　In the Book of Joshua, there are a lot of the attacks and the distribution of the lands to the tribes. Joshua is a succ[122]<br />　　　　　　　　　　Myth in the Bible: the Book of Joshua
2005/07/08
In the Book of Joshua, there are a lot of the attacks and the distribution of the lands to the tribes. Joshua is a successor of Moses and tells the God&#039;s words to Israelite people. And these God&#039;s words through Joshua are about social things and individual things. In this point of view, the Book of Joshua is about the social charters and individual identity.
First, I mention the social charters. As I said above, Joshua is a successor of ..]]></description>

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			<title><![CDATA[チャペルレポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432287301@hc05/1080/]]></link>
			<author><![CDATA[ by dakara]]></author>
			<category><![CDATA[dakaraの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 18 Jul 2005 17:02:43 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432287301@hc05/1080/" target="_blank"><img src="/docs/983432287301@hc05/1080/thmb.jpg?s=s&r=1121673763&t=n" border="0"></a><br /><br />そのあと、牧師が聖書のコリントの使徒の手紙二、六章一、二節３３１ページを朗読。&ldquo;わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた[360]<br />第三回チャペルレポート
今回の礼拝は、いつもどおり六割ぐらい席が埋まったような状態であった。最初に賛美歌の262番を牧師の人が歌った、いくらよく聞いても学生で歌っている人はいるようには聞こえなかった。この状況では歌える人も歌うのは難しい出だろうと思う。
そのあと、牧師が聖書のコリントの使徒の手紙二、六章一、二節３３１ページを朗読。&ldquo;わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。&rdquo;と..]]></description>

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