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		<title>タグ“第一次世界大戦”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6/</link>
		<description>タグ“第一次世界大戦”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【慶應通信】 西洋史 2025 第一次世界大戦]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/908180203898@hc25/155091/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Aonisai]]></author>
			<category><![CDATA[Aonisaiの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 15 Jul 2025 04:51:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/908180203898@hc25/155091/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/908180203898@hc25/155091/" target="_blank"><img src="/docs/908180203898@hc25/155091/thmb.jpg?s=s&r=1752522676&t=n" border="0"></a><br /><br />慶應通信合格レポート　西洋史 2025
課題：第一次世界大戦期の諸側面の中からテーマを一つ選べ
※丸写は禁じます。
※参考程度にお使いください。
※剽窃等に関しては当方は一切関知致しません。
※添削内容に従って内容を変更しておりま[330]<br />歴史（西洋史）2025年
「第一次世界大戦期の芸術と政治の関係&mdash;フランスにおける精神の動員をめぐって」
文化史的にみて第一次大戦は、19世紀ヨーロッパ的な意味でのハイカルチャーが、アプリオリにハイカルチャーたり得なくなった戦争である。(1)大戦期の芸術家は、戦争によって突きつけられた芸術の有用性や自律性への問いと向き合い、様々な軋轢を抱えながら活動を行なった。本レポートでは、戦前から戦後まで、芸術が「精神の動員」とどのように向き合ったのかをフランス文学史を中心に概括する。
大戦前の「ベル・エポック」は、1900年のパリ万博に象徴されるような経済・技術発展と同時に世紀末のデカダンスにみられるような強烈な「終わりの意識」に彩られた時代であった。戦前のアヴァンギャルドは、その「終わりの意識」を「始まりの意識」へと転化させることを主要な原理のひとつとしていた。(2)
1909年、詩人マリネッティが『フィガロ』紙に「未来派宣言」を発表する。速度と機械の美を讃美したことで有名なこの宣言であるが、前文では、自動車が道路脇の溝に落ち、泥まみれになるという情景が描写される。このようにして自動車に託されたものについて、久保は次のように指摘している。「マリネッティは、同時代に産業や機械の美を讃美した人々と異なり、自動車を鑑賞の対象としての芸術作品としてではなく、むしろそのような意味での芸術作品という概念そのものを破壊する装置としてとらえており、それによって芸術と生を行動のうちに一体化することを試みたのである」(3)
一方で、世紀末/デカダンスに特有の解体と衰退の意識は、ナショナリズムや古典復興とも結びつき、フランスでは『モンジョワ！』のような愛国主義と保守色の強いアヴァンギャルド運動が盛り上がった。(4)また、詩人アポリネールが『アルコール』（1913年）の冒頭に置いた長編詩「地帯」は、表現にみられる新しさへの志向とともに、キリスト教と教皇を「モダン」の極地と位置付けるような新しさと伝統の両義性を持っていた。(5)
これらのアヴァンギャルドは、過去との切断を意識するものであれ、伝統との連続性を意識するものであれ、ともに戦争と軍隊を美的なものとみなしていた。(6)マリネッティが『未来派政治横領』（1913年）で、戦争こそ世界の最良の衛生法だと宣言するように、未来派にとって芸術的行為と政..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[＜歴史学分冊２＞日本大学通信2018-17年度]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935683811279@hc16/137077/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ホワイトウイング]]></author>
			<category><![CDATA[ホワイトウイングの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 06 Mar 2019 12:13:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935683811279@hc16/137077/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/935683811279@hc16/137077/" target="_blank"><img src="/docs/935683811279@hc16/137077/thmb.jpg?s=s&r=1551842036&t=n" border="0"></a><br /><br />講評：オスマン時代から説き始め、ケマルの「世俗化」政策とその核となる国民経済づくりに至るまでがよく説明されていると思います。また「時代」背景、「地域」特性を考えようとする視点も、確認できるリポートとなっています。全体として、第一次世界大戦期[360]<br />課題：通信教育教材「歴史学（第４～８部）」から時代及び地域から共通する１～２名の人物を選び、彼ら
の生きたところの時代概観及び地域のあり方を論述しなさい。なお、リポートのはじめに、選択した人物名・
地域名・時代を明記すること。 
「ムスタファ・ケマル（アタテュルク）／トルコ・近代史」 
トルコ共和国は、信仰宗教の９割以上がイスラム教徒の国だ。ともなれば、イスラム根幹の「六信五行」の
下、女性はスカーフで肌を隠し、男性はターバン、娯楽・遊興は法度、飲酒や豚肉他、一部食材の飲食禁止等、
中東諸国と同様に厳しい戒律を遵守するイメージだが、実際には先進国を思わせる自由な装いや繁華街、昼夜
の外出外泊も自由、店舗出店規制も殆ど無い。また、宗教・宗派間対立や混乱も聞かれず、まさに「イスラム
らしくないイスラム教徒の国」と称される。そこには共和国が、かつてのオスマン帝国の様な宗教国家ではな
く政教分離し、民主的で「世俗的」な社会的法治国家（憲法３条）を掲げ、且つ、この「世俗国家」の原則は
不変（憲法４条）と宣言したからだ。かつての 600 年以上続いた巨大宗教帝国は解体、政教分離に転換した共
和国建..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[慶應法学部（通信）合格レポート『西洋外交史』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/124287/]]></link>
			<author><![CDATA[ by KEIGI]]></author>
			<category><![CDATA[KEIGIの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 Apr 2016 13:08:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/124287/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/124287/" target="_blank"><img src="/docs/938478183489@hc15/124287/thmb.jpg?s=s&r=1459570131&t=n" border="0"></a><br /><br />西洋における外交の変容について論じています。
とりわけ戦後における外交を多角的な点から論じます。[142]<br />■西洋外交史
はじめに
　本レポートでは第二次世界大戦後において外交がどのように変質していったのかを論じる。そのために第一章では、まず第二次世界大戦にいたるまでの外交の特質を簡単にまとめ、これが戦後の外交に対しどのような影響を与えたのかを示したい。第二章で戦後外交の変容を、イデオロギー外交の変質という観点から、歴史に即しつつ、論じていく。また第三章では、戦後外交の変容を、個別・具体的な観点――外交アジェンダ、外交制度、情報技術の三点――から論じていく。
　そして最後に、外交の多様化こそ戦後外交の大きな変質であるという結論に達したい。
第一章　第２次世界大戦までの外交
■旧外交時代
　いわゆる古来から行われてきた外交が成熟し、『旧外交』というひとつの類型として捉えられるようになったのは、19世紀に入ってからである。この時代の外交の特質は、〈秘密外交〉と〈宮廷外交〉に代表される。すなわち、宮廷および貴族階級という非公開的な世界において、駐在大使のごとき職業外務官が行う外交である。
　この時代の外交において重視されたのは〈勢力均衡〉であった。勢力均衡とは、「各国の利益と国力の分析に基づいて自国の利益の増進をはかりながら必要な妥協を行う」ものである。とりわけウィーン体制（1814-1815年）以降、イギリス、ロシア、フランス、プロイセン、オーストリアといった主要な大国が、平時に集まって紛争を解決するための外交協議（コングレス）を行い、欧州協調と呼ばれる勢力均衡を図っていった。
■旧外交の弱点
　しかしながらこのよう旧外交はつまるところ非民主的であり、「人民の利害を無視して政治的都合から国家をチーズのように切り分ける」ようなものであった。これはかならずしも20世紀以降にみられる民主主義の高まりには相容れないものである。
　また勢力均衡による安定が必ずしも平和に結びつかないという問題もあった。すなわち旧外交の勢力均衡とは、「平和を維持しようとするためではなく、自らの独立を維持しようとするため」であったといえる。したがって、1815年のウィーン会議で再度ポーランドが事実上分割されたことにみられるように、大国以外の中小国の独立が保証されているとはいえなかった。
■新外交の時代
　そこで20世紀に入ると、旧外交は歴史的背景を以て衰退し、アメリカを中心とした『新外交』の時代に突入す..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史メディアMB最終試験]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948342340104@hc12/118317/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pikolyn]]></author>
			<category><![CDATA[pikolynの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 26 Jan 2015 03:18:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948342340104@hc12/118317/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948342340104@hc12/118317/" target="_blank"><img src="/docs/948342340104@hc12/118317/thmb.jpg?s=s&r=1422209888&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史メディアMB最終試験の合格レポートです。丸写しはせず、あくまでも参考レポートとしてご利用下さい。

参考資料　日大通信教科書　「歴史学」[202]<br />【歴史メディア最終試験】　　 
（※選択問題4を選択）
4．第一次世界大戦の勃発とオーストリア・ドイツ・イギリス３か国それぞれの外交政策との関係についてまとめなさい。
-----------------------------------------------------------
　第一次世界大戦の発端はオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたサラィエボ事件であった。この事件は戦争を始めるのに十分な理由であったが、オーストリアの外交政策はこれを機にそれまでの平和強調政策から、強硬な戦争政策へと転じ、それがヨーロッパ大戦の勃発に繋がった訳ではなかった。なぜならオーストリアは サラィエボ事件よりもっと前からスラブ民族に対する攻撃的外交政策を実行し、その外交政策は強硬な現状打破の政策だったからである。ドイツの支援を得てオーストリアの積極的・攻撃的外交政策は結果的に、ヨーロッパ大陸戦争へと拡大し、第一次大戦の発端となった。オーストリアはヨーロッパ強調ではなく、武力を用いた単独行動に自国の大国としての存続をかけていた。1908年のボスニア危機で、青年トルコはボスニア・ヘルツェゴヴィ..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日大通信　外交史　分冊１　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s-aor-i]]></author>
			<category><![CDATA[s-aor-iの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Sep 2014 20:21:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/" target="_blank"><img src="/docs/942884723944@hc14/115958/thmb.jpg?s=s&r=1411384917&t=n" border="0"></a><br /><br />ヴェルサイユ体制とその崩壊について述べよ
　第一次世界大戦は、アメリカの参戦により、英仏側が勝利し、その後六個の平和条約が調印された。パリ講和会議にて、ドイツとはヴェルサイユ条約(1919年6月28日)、オーストリアとはサン・ジェルマン条約(1915年9月10日)、ブルガリとはニュイーイ条約(1919年11月27日)、ハンガリーとはトリアノン条約(1920年6月４日)、トルコとはセーブル条約(1920年８月10日)である。しかし、セーブル条約はトルコが調印を拒んだため、別にローザンヌ条約(1923年７月23日)が調印された。
　ヴェルサイユ条約は、単に旧敵国との講和事項だけでなく、第一編国際連盟規約(これにより国際連盟は正式に成立された)、第一三編労働など、全般的な国際平和機構、国際労働機構の設立を記載したものであったため、これに基づいた国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれる。ヴェルサイユ条約により、ドイツは片務的最恵国条款や幾多の財政上、通商上の義務や制限が強制され、過酷な賠償義務が負わされ、通商上、財務上の諸制限が課せられた。そして連合国の軍隊がこの条約履行に対する保障として15カ年..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Z1303 教科教育法社会１　第2設題　A判定レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78456/]]></link>
			<author><![CDATA[ by collaborate]]></author>
			<category><![CDATA[collaborateの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 01 Feb 2011 18:58:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78456/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78456/" target="_blank"><img src="/docs/955297788195@hc10/78456/thmb.jpg?s=s&r=1296554289&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。
(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />中学校社会科の単元から任意で１単元を選び、その単元について指導の概要を説明しなさい。その際、生徒の学習活動を具体的にイメージして論述すること。
Ⅰ.単元名とその指導概要
1.単元名　
　単元名は、「第一次世界大戦とアジア・日本」とする。
2.単元目標
　単元の目標は、①第一次世界大戦前後の国際情勢のあらましを理解させる、②第一次世界大戦前後の世界で国際協調の動きや民族運動の高まりがみられたことに気付かせることにある。
　この単元では、ヨーロッパに大打撃を与えた第一次世界大戦をスタートとして、それが世界や日本に与えた影響を学習していく。その際、年表を使い、第一次世界大戦前後の歴史の流れを大まかにつかんだあとで、具体的な事例について調べ学習を行うことによって歴史認識を深めたい。
3.単元で認識させたい内容
　この単元は、ヨーロッパ列強の帝国主義政策が引き起こした第一次世界大戦を出発点として、その後の世界協調の動きや民族自決の機運の高まり、日本の政治・外交・社会への影響を扱う。学習指導要領では、近現代の日本と世界のねらいのなかで、「第一次世界大戦前後の国際情勢のあらましを理解させるとともに、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋史２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/70754/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おぐらあん]]></author>
			<category><![CDATA[おぐらあんの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 15:48:06 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/70754/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/70754/" target="_blank"><img src="/docs/955567768837@hc10/70754/thmb.jpg?s=s&r=1282891686&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学西洋史第2題「第一次世界大戦に至る国際関係の推移について考察せよ」A判定レポートです。[137]<br />R0508西洋史　第２題　A判定レポート
第一次世界大戦に至る国際関係の推移について考察せよ
　
　プロイセン国王ヴィルヘルム1世により、プロイセン王国の首相と外相に任命されたビスマルクはドイツ統一の立役者であった。ビスマルクは富国強兵政策のもと普墺戦争、普仏戦争に勝利してドイツを統一させたが、ドイツ統一後はオーストリアやロシアをはじめとする周辺諸国への関係維持に努めた。オーストリア・ロシアとは三帝協定、三帝協商を結び、さらにはオーストリア・イタリアとは三国同盟を締結した。関係回復を見込めないフランスに対してはこれらの協定・同盟によりフランスを孤立させた。ビスマルクが外交によりヨーロッパに小緊張状態を敷くことにより、ヨーロッパ諸国は小康状態が生まれた。
ビスマルクは、周辺諸国が帝国主義のもと海外に進出し、アジアやアフリカに進出して行く中で、各国のドイツに対する警戒を解くために対外進出には慎重な態度で臨んでいた。
帝国主義とは、19世紀以降の列強による世界の分割・再分割を推進する政策とその背景にある思想のことをいう。ヨーロッパでは産業革命が起こり、19世紀半ば以降高度成長が続いた。しかし..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[レクイエムの特徴]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961831453959@hc08/22446/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mastercourse02]]></author>
			<category><![CDATA[mastercourse02の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 14 Jul 2008 13:46:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961831453959@hc08/22446/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961831453959@hc08/22446/" target="_blank"><img src="/docs/961831453959@hc08/22446/thmb.jpg?s=s&r=1216010780&t=n" border="0"></a><br /><br />レクイエムとはラテン語で、葬儀、鎮魂ミサを意味している。儀式に音楽とはつきものであり、レクイエムのための曲は多数書かれていた。儀式は、歌詞は原則としてラテン語の同じものを用いるという風に決められた1つの約束事に沿った音楽のもとで行われる。し[358]<br />]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[第一次世界大戦後の日本経済]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/16647/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 26 Dec 2007 21:09:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/16647/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/16647/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/16647/thmb.jpg?s=s&r=1198670989&t=n" border="0"></a><br /><br />第一次世界大戦後の日本経済

１．戦後恐慌
日本経済は、原内閣の時代に、第一次世界大戦による大戦景気の繁栄から一転して、戦後恐慌とその後の沈静期へと急転換を遂げた。大戦景気は、国際物価が沸騰し、しかもアジアから欧米の商品が姿を消し、代わって[354]<br />第一次世界大戦後の日本経済
目次
１．戦後恐慌
２．関東大震災と金融恐慌
３．昭和恐慌と高橋財政
キーワード　日本経済史　戦後恐慌　第一次世界大戦　金融恐慌　関東大震災　昭和恐慌　高橋是清　
１．戦後恐慌
日本経済は、原内閣の時代に、第一次世界大戦による大戦景気の繁栄から一転して、戦後恐慌とその後の沈静期へと急転換を遂げた。大戦景気は、国際物価が沸騰し、しかもアジアから欧米の商品が姿を消し、代わって広大な市場を日本品が独占して輸出が急激に拡大するなかで発生した。しかし、賃金上昇が物価に立ち遅れた都市の労働者をはじめとする低所得階層は、この景気からは取り残された。そこに1918(大正7)年には米価が暴騰し、生活は一層困難になった。この年に全国的に発生した米騒動の原因はここにあった。
大戦が終結し、列強諸国の生産力が回復すると、軍需品の需要が途絶え、1920(大正9)年3月、東京・大阪の株式市場の大暴落がきっかけで戦後恐慌に襲われた。政府は、日本銀行・大蔵省による大規模な救済融資を行い、約半年で沈静化したものの、繊維・米など各種商品価格も暴落を続け、大戦中に大胆な取引を行い、巨利を収めた成..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428990401@hc07/15669/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ケスト]]></author>
			<category><![CDATA[ケストの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 08 Dec 2007 01:49:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428990401@hc07/15669/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428990401@hc07/15669/" target="_blank"><img src="/docs/983428990401@hc07/15669/thmb.jpg?s=s&r=1197046183&t=n" border="0"></a><br /><br />☆第一次世界大戦にいたる国際関係の推移について考察せよ。

　普仏戦争後の1873年、ビスマルクはフランスとロシアの接近を妨げる目的で、ドイツ・ロシア・オーストリアからなる三帝同盟を作り上げた。1877年の露土戦争の後、ビスマルクの調停でひ[340]<br />第一次世界大戦にいたる国際関係の推移について考察せよ。
■三国同盟と三国協商の成立
　普仏戦争後の1873年、ビスマルクはフランスとロシアの接近を妨げる目的で、ドイツ・ロシア・オーストリアからなる三帝同盟を作り上げた。1877年の露土戦争の後、ビスマルクの調停でひらかれたベルリン会議でロシアの南下が阻止されると、ロシアとドイツの関係は悪化したが、ビスマルクは露仏間の提携防止を重視して、1877年ロシアと独露再保障条約を結んだ。しかし1890年にビスマルクが引退すると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム２世はこの条約の延長を拒否し、これをきっかけにロシアとフランスが接近し露仏同盟が結成された。
　すでに1882年には、北アフリカでフランスと対立を深めていたイタリアがオーストリアに接近し、ビスマルクの下でフランスを孤立化させる外交政策を採っていたドイツとともに三国同盟が結成されており、露仏同盟はこの三国同盟を対抗する形となった。
　一方、&rdquo;光栄ある孤立&rdquo;を掲げてた国家と同盟関係を結ばずにいたイギリスは、義和団事変以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていた。遠く離れた中国で利権の維持に当たるの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[第一次大戦中および大戦後数多く発症したシェル・ショックの意味するところは何か]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431274701@hc06/11983/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mogura]]></author>
			<category><![CDATA[moguraの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Dec 2006 10:22:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431274701@hc06/11983/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431274701@hc06/11983/" target="_blank"><img src="/docs/983431274701@hc06/11983/thmb.jpg?s=s&r=1165627377&t=n" border="0"></a><br /><br />「第一次大戦中および大戦後数多く発症した
シェル・ショックの意味するところは何か」
第一次世界大戦
シェル・ショック〈戦争神経症〉を理解するに当たって、まず、第一次大戦について話をする必要がある。
１９０８年、オーストリアはボスニアを併合し[352]<br />「第一次大戦中および大戦後数多く発症した
シェル・ショックの意味するところは何か」
第一次世界大戦
シェル・ショック〈戦争神経症〉を理解するに当たって、まず、第一次大戦について話をする必要がある。
１９０８年、オーストリアはボスニアを併合し、現地のスラブ系住人から反感を買っていた。１９１４年６月２８日、オーストリア＝ハンガリー帝国皇太子一行が、ボスニアの首都サラエボを訪れた。その時のパレードの最中に、スラブ人の過激派の青年に銃殺された事件（サラエボ事件）から、帝国主義の世界大戦が始まった。
この時は、「戦争はクリスマスまでには終わるだろう」というのが世間の一致した見方であり、誰も疑わなかった。だから、新兵の身体的適性や、産業・軍需両面のバランスまでは、考えられてはいなかったし、志願兵もたくさんいた。イギリスでは志願者が押し寄せた「８月の熱狂」という現象までおきた。これは多くが中流階級かそれ以上であり、戦争に対する支持率は裕福な階層に多いと言える。これは愛国心や、生活に対する余裕がそうさせている。
大量虐殺
戦争はクリスマスまでには終わらなかった。年を越し、１９１５年に入ると、膠着状態に..]]></description>

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			<title><![CDATA[第一次世界大戦について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429369501@hc06/11605/]]></link>
			<author><![CDATA[ by genbaku]]></author>
			<category><![CDATA[genbakuの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Nov 2006 15:31:34 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429369501@hc06/11605/" target="_blank"><img src="/docs/983429369501@hc06/11605/thmb.jpg?s=s&r=1164090694&t=n" border="0"></a><br /><br />　1914年に、ボスニアの首都サラエボを訪れていたオーストリア皇太子夫婦が、セルビアの青年によって暗殺された。当時は、少数民族のナショナリズムとヨーロッパ列強の利害が絡み合っていて、緊張が高まってバルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれて[352]<br />　1914年に、ボスニアの首都サラエボを訪れていたオーストリア皇太子夫婦が、セルビアの青年によって暗殺された。当時は、少数民族のナショナリズムとヨーロッパ列強の利害が絡み合っていて、緊張が高まってバルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれていた。サラエボ事件がきっかけで、火がついてしまったのである。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、強大な国々は次々に軍隊を導入していき、戦争に参加をしていった。ドイツ、オーストリア、ハンガリーの同盟国側にはブルガリア、オスマン帝国がつき、英仏露の連合国側には、日英同盟により参戦した日本、イタリアなどがたった。イタリアは、未回収のイタリアについて、英仏露と秘密条約を結び、三国同盟を取り止めて1915年に参戦することになった。サラエボ事件がきっかけとなり、各国がいろいろな国と同盟を結んでいたことが原因となり、一つの国が戦いを始めると、他の国が同盟により参戦することになり、各国の植民地をも巻き込んで、この戦争は、史上初の世界大戦となっていった。ヨーロッパは、互いに競争しながら、協合していた。19世紀頃までは、戦争は、道徳的な犯罪ではない。当時の戦争は、主..]]></description>

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			<title><![CDATA[国際関係史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430631701@hc06/9328/]]></link>
			<author><![CDATA[ by limewire]]></author>
			<category><![CDATA[limewireの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Jul 2006 17:48:51 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430631701@hc06/9328/" target="_blank"><img src="/docs/983430631701@hc06/9328/thmb.jpg?s=s&r=1152002931&t=n" border="0"></a><br /><br />１、	はじめに
　第一次世界大戦の直接的な原因は1914年の7月危機にあるとされる。発端となったのは、1914年6月28日に起こった、セルビア人とクロアティア人の民族主義集団によるオーストリア・ハンガリー国の王位継承者フランツ・フェルディナ[332]<br />7月危機はなぜ戦争まで発展したか－同盟体制が原因か－
はじめに
　第一次世界大戦の直接的な原因は1914年の7月危機にあるとされる。発端となったのは、1914年6月28日に起こった、セルビア人とクロアティア人の民族主義集団によるオーストリア・ハンガリー国の王位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺である。かつてのトルコ領土ボスニアの首都サラエボは、1878年以来オーストリア・ハンガリー国によって管理され1908年に併合されていた。よってスラブ人によるオーストリア・ハンガリー国に対する国民的反感は強く、国王、大統領、指導的政治家などの暗殺事件は珍しくなかった。またこの暗殺事件より約1ヶ月たってからオーストリアからセルビアの方に最後通牒が送られた。このことからもオーストリアのこの暗殺事件に激怒して第一次世界大戦に踏み切ったとは考えにくい。
　この7月危機がどのようにして戦争まで発展してしまったのか、各国の思惑もみながら考えていきたい。その際同盟関係が第一次大戦を引き起こしたということも念頭に置き、同盟関係にも注意を払い、それがどのように戦争に関与したかみていくことにする。
２、オースト..]]></description>

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			<title><![CDATA[ 書評：エミリオ・ルッス・著、柴野均・訳『戦場の一年』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/7834/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kana609]]></author>
			<category><![CDATA[kana609の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 09 Apr 2006 14:19:44 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/7834/" target="_blank"><img src="/docs/983431882401@hc05/7834/thmb.jpg?s=s&r=1144559984&t=n" border="0"></a><br /><br />1.	要約
この本は、著者ルッスが、イタリア軍の将校として従軍した第一次世界大戦の一年間（1916年5月〜1917年7月）を後に振り返って書いた記録である。

1916年5月、開戦以来、ルッスの所属する旅団はカルソに留まっていた。塹壕[312]<br />エミリオ・ルッス・著、柴野均・訳『戦場の一年』（白水社、2001）
要約
この本は、著者ルッスが、イタリア軍の将校として従軍した第一次世界大戦の一年間（1916年5月～1917年7月）を後に振り返って書いた記録である。
1916年5月、開戦以来、ルッスの所属する旅団はカルソに留まっていた。塹壕から塹壕へと攻略が続く日々は、兵士を極端に疲弊させていた。オーストリア軍に防衛線を破られたため、ルッスらの大隊はアジアーゴ高原地帯の山裾へ向かう。高原地帯の道は地元の難民達で溢れている。ルッスらは初めて戦争で追いやられる地元民を見ることになる。
6月5日にルッスらはフレンツェーラ渓谷に到着するが、情報が足りないため、ある大隊と接触し、ルッスがそこのアッバーティ中佐へ情報を交換しに向かうが、現在イタリア軍がフィオール山に陣地を作っていることのみが分かる。
オーストリア軍はフレンツェーラ渓谷の出口に陣取っている。イタリア軍はアルプス兵団の諸大隊をフィオール山へ配置しており、ルッスらの大隊もそこへ向かう。途中マルガでオーストリア軍の銃撃に阻まれ、ルッスは近くの赤十字の治療所でアルプス兵団の司令官ストリン..]]></description>

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			<title><![CDATA[日露戦争以降太平洋戦争に至るまでのオーストラリアの対日政策について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430744401@hc06/6995/]]></link>
			<author><![CDATA[ by akiokun]]></author>
			<category><![CDATA[akiokunの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 18 Feb 2006 01:43:30 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430744401@hc06/6995/" target="_blank"><img src="/docs/983430744401@hc06/6995/thmb.jpg?s=s&r=1140194610&t=n" border="0"></a><br /><br />　日露関係が悪化の一途をたどり、一触即発で戦争状態になるのではないかとの観測は、ロンドン発の外電を連日掲載していた新聞を通じて、逐一報道されていた。日露戦争は１９０４年２月８日に発生し、１９０５年５月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が壊[360]<br />日露戦争以降太平洋戦争に至るまでのオーストラリアの対日政策について
１．親日論の台頭
　日露関係が悪化の一途をたどり、一触即発で戦争状態になるのではないかとの観測は、ロンドン発の外電を連日掲載していた新聞を通じて、逐一報道されていた。日露戦争は１９０４年２月８日に発生し、１９０５年５月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が壊滅的被害を受け、９月５日にアメリカのポーツマスで講和条約が調印されて日本の勝利という形で幕を閉じたが、オーストラリアは戦略論と北海でおきたイギリスのトロール船が砲撃を受けたドッカー・バンク事件による反ロシア感情の裏返しから日本に熱いエールを送り、親日論が急速に台頭した。
　それをあらわすものが１９０２年に締結された第一次日英同盟だが、これはイギリスとオーストラリアの利益が一致したものだといえる。
　第一に、日英同盟は世界のバランスからみてイギリスと英帝国に利益をもたらすことである。南下するロシアをくい止める抑止効果をもつ点で、当時のバートン首相は「オーストラリア連邦にとってきわめて有益である」と全面賛成を展開した。また、同盟は「世界平和を保障する」ものであり、英帝国..]]></description>

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