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		<title>タグ“無神論”の公開資料</title>
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		<description>タグ“無神論”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[「自分は宗教には関わっていない」と考える日本人について［東京学芸大学・教育学部・日本宗教学・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6808/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 15 Feb 2006 11:18:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6808/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6808/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/6808/thmb.jpg?s=s&r=1139969885&t=n" border="0"></a><br /><br />授業の中で、「言語の分節機能によって、日本人は宗教的行動をしているのにも関わらず、『自分は宗教には関わっていない』と考えてしまうメカニズムがある」というお話があった。だが、それでも私は、そう考えている日本人はやはり「宗教に関わってはいない」[360]<br />「自分は宗教には関わっていない」と考える日本人について
　授業の中で、「言語の分節機能によって、日本人は宗教的行動をしているのにも関わらず、『自分は宗教には関わっていない』と考えてしまうメカニズムがある」というお話があった。だが、それでも私は、そう考えている日本人はやはり「宗教に関わってはいない」のだと考える。
　たしかに、日本人は、初詣、葬式、墓参り、地鎮祭など、宗教的な行動をいろいろと行ってはいる。しかし、それらはあくまで習俗、社会的慣習として行っているものであり、強いて言えば「宗教的である」だけなのであって、「宗教に関わる」こととは区別されなければならない。「言語の分節機能によって、偏見の色眼鏡をかけてしまうことになる」というのであれば、「宗教的である」ことを「宗教に関わる」ことととらえることもまた、別の意味での色眼鏡をかけているのであって、偏見と誤解のもととなる危険性をはらんでいると、私はあえて主張したい。
　歴史を振り返る時、人類はその原初から常に何らかの形で宗教とともに歩んできたと言ってよい。ゆえにそれは、長い歴史の濾過作用によって、文化や民俗の中に深く入り込んでいる。だか..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人を惹きつけるものとしての宗教]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2294/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cmm83300]]></author>
			<category><![CDATA[cmm83300の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Oct 2005 23:00:28 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2294/" target="_blank"><img src="/docs/983431937801@hc05/2294/thmb.jpg?s=s&r=1128434428&t=n" border="0"></a><br /><br />人間を人間たらしめるもの、人間が人間たる所以を表すものとして、知恵を備えたという意味での「叡智人（ホモ・サピエンス）」（リンネ）、道具を用いるという意味での「工作　　　　　　　　人（ホモ・ファーベル）」（ベルクソン）、遊ぶという意味での「遊[360]<br />人を惹きつけるものとしての宗教
　　　　　　　　　　　　　
人間を人間たらしめるもの、人間が人間たる所以を表すものとして、知恵を備えたという意味での「叡智人（ホモ・サピエンス）」（リンネ）、道具を用いるという意味での「工作　　　　　　　　人（ホモ・ファーベル）」（ベルクソン）、遊ぶという意味での「遊戯人（ホモ・ルーデンス）」（ホイジンガ）といった言葉があることは誰でもよく知っているであろう。　（エピローグ冒頭）
これらの言葉については高校のときの倫理の授業で学んだ記憶がある。わかりやすく言い換えれば、「叡智人」つまり知恵を持つ人という言葉は、ギリシア以来の理性（ロゴス）を重視する伝統に基づいて「考える能力を持つ」ものとして人間の特徴を示した言葉であり、「工作人」という言葉は人間の道具を用いる技術を持つものとしての側面をとらえた言葉である。そして「遊戯人」という言葉は実用的な目的を離れて純粋にその過程を楽しむ遊びこそ、人間のつくりあげた文化の源泉であるとする見方を表した言葉である。これをわかりやすく言い換えると、遊びそのものの本質は人間存在にとって根源的なものであるということである。その..]]></description>

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