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		<title>タグ“歴史”の公開資料</title>
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		<description>タグ“歴史”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[&ldquo;The Dream of the father of the piano&rdquo;]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/5514/]]></link>
			<author><![CDATA[ by marierock]]></author>
			<category><![CDATA[marierockの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 Jan 2006 23:40:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/5514/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431336301@hc05/5514/" target="_blank"><img src="/docs/983431336301@hc05/5514/thmb.jpg?s=s&r=1137681633&t=n" border="0"></a><br /><br />Gravicembalo col piano e forte; this is the proper name of an instrument that is called piano today. Of course, there we[120]<br />&quot;The Dream of the father of the piano&quot;
Gravicembalo col piano e forte; this is the proper name of an instrument that is called piano today. Of course, there were the precursors to the piano. The representatives of those were the dulcimer, the clavichord, and the harpsichord. After they had invented, a musical instrument technician in Italy, Baltolomeo Cristofori, invented gravicembalo col piano e forte. His work, piano, is well known to everyone however the person, Baltolomeo Cristofori is not k..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ジャマイカの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431265201@hc06/4960/]]></link>
			<author><![CDATA[ by worldwide]]></author>
			<category><![CDATA[worldwideの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 13:44:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431265201@hc06/4960/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431265201@hc06/4960/" target="_blank"><img src="/docs/983431265201@hc06/4960/thmb.jpg?s=s&r=1137041085&t=n" border="0"></a><br /><br />　Ｊａｍａｉｃａ　ｗａｓ　ｄｉｓｃｏｖｅｒｉｅｄ　ｂｙ　ｃｏｌｏｎｂｕｓ，Ａｎｄ　ｈｅ　ａｓｋｅｄ　ｔｏ　Ａｒａｗａｋｕ　ｉｎｄｉａｎ　ｔｈａｔ　［Ｗｈａｔ　ｉｓ　ｔｈｉｓ　ｉｓｌａｎｄ　ｎａｍｅ？］　Ｉｎｄｉａｎ　ｓａｉｄ　ｔｈａｔ　［ｔ[360]<br />　　
Ｊａｍａｉｃａ　ｗａｓ　ｄｉｓｃｏｖｅｒｉｅｄ　ｂｙ　ｃｏｌｏｎｂｕｓ，Ａｎｄ　ｈｅ　ａｓｋｅｄ　ｔｏ　Ａｒａｗａｋｕ　ｉｎｄｉａｎ　ｔｈａｔ　［Ｗｈａｔ　ｉｓ　ｔｈｉｓ　ｉｓｌａｎｄ　ｎａｍｅ？］　Ｉｎｄｉａｎ　ｓａｉｄ　ｔｈａｔ　［ｔｒｅｅ　ａｎｄ　ｗａｔｅｒ　ｅａｒｔｈ　ＺＡＩＭＡＣＡ］　Ｔｈｉｓ　ｉｓ　ａ　ｄｅｒｉｖａｔｉｏｎ　ｏｆ　Ｊａｍａｉｃａ．
Ｉｎ　ｔｈｅ　１５０９　Ｊａｍａｉｃａ　ｗａｓ　ｃｏｌｏｎｙ　ｂｙ　Ｓｐａｉｎ．　Ａｒａｗａｋｕ　ｉｎｄｉａｎ　ｗｅｒｅ　ｄｅｓｔｒｕｃｔｉｏｎ　ｂｙ　ｔｈｉｓ　ｅｆｆｅｃｔ．　Ｓｏ，　Ａｆｒｉｃａｎ　ｗｅｒｅ　ｔａｋｅｎ　ｏｕｔ　ｆｒｏｍ　Ｗｅｓｔ　Ａｆｒｉｃａ　ａｓ　ｓｌａｖｅ．　Ｉｎ　ｔｈｉｓ　ｔｉｍｅ，　ｓｌａｖｅｌｙ　ｔｒａｄｅ　ｗａｓ　ｐｒｏｓｐｅｒｏｕｓ．Ｉｎ　ｔｈｅ　１６５５，　Ｊａｍａｉｃａｎ　ｃｏｌｏｎｙｒｉｇｈｔ　ｃｈａｎｇｅｄ　Ｓｐａｉｎ　ｔｏ　Ｅｎｇｌａｎｄ．　Ｉｎ　ｔｈｉｓ　ｔｉｍｅ，　Ｊａｍａｉｃａｎ　ｍａｄｅ　Ｂｌｕｅ　ｍｏｕｎｔａｉｎ　ｃｏｆｆｅｅ，ｒａｍ，　ａｎｄ　ｓｕｇａｒ　ｉｎｄｕｓｔ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[健康的な食事について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/10860/]]></link>
			<author><![CDATA[ by carameltea]]></author>
			<category><![CDATA[caramelteaの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 31 Aug 2006 17:11:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/10860/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/10860/" target="_blank"><img src="/docs/983430069701@hc06/10860/thmb.jpg?s=s&r=1157011883&t=n" border="0"></a><br /><br />バランスの良い食事とは
「バランスの良い食事が大切」とはよく言われることですが、実際どのような食事をそう言うのかよくわからない人が多いのでは？　身体が必要としている栄養素をまんべんなく摂るには、厚生労働省が定める&rdquo;１日の栄養所要量&rdquo;を目安[356]<br />前書き
私がこのテーマを選んだのは誰もが興味を持っているであろう食事に関することを調べて、このレポートを読んだ人がすぐにでも「健康的な食事」というものを意識してくれたらと思ったからです。
健康的な食事というテーマの中でも特に「洋食」を選んだ理由は現代に生きる私たちのような１０代、２０代の若い人たちは和食よりもマクドナルドなどのジャンクフードやパスタやピザなどといった洋食を食べる機会のほうが多いだろうと思ったからです。というのも私は和食系の食べ物が麺類とお寿司を除いて全般的に嫌いで、朝も昼も夜も洋食ばかり食べているため、和食よりも洋食のほうがよっぽど親しみがあり、調べたいと思ったのです。
班のテーマ「食と健康」
バランスの良い食事とは
「バランスの良い食事が大切」とはよく言われることですが、実際どのような食事をそう言うのかよくわからない人が多いのでは？　身体が必要としている栄養素をまんべんなく摂るには、厚生労働省が定める&rdquo;１日の栄養所要量&rdquo;を目安にしたいところですが、誰でもわかる簡単な目安があります。それが主食、主菜、副菜、汁物を組み合わせたスタイルです。
もうひと知識！
 脂質(とく..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[EU統合の歴史的経緯]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430407701@hc06/12073/]]></link>
			<author><![CDATA[ by このは]]></author>
			<category><![CDATA[このはの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 15 Dec 2006 09:26:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430407701@hc06/12073/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430407701@hc06/12073/" target="_blank"><img src="/docs/983430407701@hc06/12073/thmb.jpg?s=s&r=1166142373&t=n" border="0"></a><br /><br />「ＥＵ統合は歴史的にどのような経緯を持っているか。」　
　EUは従来のECを基礎として、1993年11月、マーストリヒト条約に基づき設立されたが、その最も重要な目的として、平和の維持・確立といった現実的な要請が挙げられる。EUを不戦共同体と[334]<br />「ＥＵ統合は歴史的にどのような経緯を持っているか。」　
　EUは従来のECを基礎として、1993年11月、マーストリヒト条約に基づき設立されたが、その最も重要な目的として、平和の維持・確立といった現実的な要請が挙げられる。EUを不戦共同体として、ヨーロッパに平和を実現することは、人々の願いであり、古来よりヨーロッパでは戦火が耐えなかったことを考えれば容易に理解できる。ヨーロッパでの平和論の興隆は30年戦争が勃発していた16世紀ごろにすでに見られる。とりわけ、ブルボン家のアンリ4世の宰相シェリー公爵が唱えた「グランド・デザイン（大計画）」は後世に影響力を残した。その後、国際舞台で平和の実現のため..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会科における日本史の位置づけについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役海外大学院生]]></author>
			<category><![CDATA[現役海外大学院生の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Feb 2007 01:48:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/" target="_blank"><img src="/docs/983430954801@hc06/13235/thmb.jpg?s=s&r=1170953330&t=n" border="0"></a><br /><br />社会科における日本史の位置づけについて
アメリカの学校では歴史の時間を大変に重んじており、週に５時間も６時間も教えるのが当たり前だという。その上、「歴史が浅い国」と言われるにも関わらず、歴史の教科書は日本のそれと比べてものすごく分厚い。ま[356]<br />社会科における日本史の位置づけについて
アメリカの学校では歴史の時間を大変に重んじており、週に５時間も６時間も教えるのが当たり前だという。その上、「歴史が浅い国」と言われるにも関わらず、歴史の教科書は日本のそれと比べてものすごく分厚い。また、イギリスにホームステイしていた時に驚かされたのは、わずか小学１年生の子供が、「○○はxx年に建国されて、そのときの王は△△だった」ということを暗唱していた、ということであった。このように、世界各国では、歴史の授業は算数や国語と同等に重要視されていて、国民のアイデンティティーの一部となっていることがわかる。
もちろん、日本でも義務教育で歴史を学習するのだが、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[東京裁判の再考から現代に至るまでの史観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428996101@hc07/13179/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nobnob]]></author>
			<category><![CDATA[nobnobの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Feb 2007 02:22:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428996101@hc07/13179/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428996101@hc07/13179/" target="_blank"><img src="/docs/983428996101@hc07/13179/thmb.jpg?s=s&r=1170782550&t=n" border="0"></a><br /><br />―東京裁判の再考から現代に至るまでの史観―
―序文―
１９４５年（昭和２０年）８月１５日、太平洋戦争が終結し敗戦国として日本の位置づけが決定された。この史実は過去の日本が過ちを犯したという根元となり、今日のゼミの研究会や公共の場で討議する事[356]<br />―東京裁判の再考から現代に至るまでの史観―
―序文―
１９４５年（昭和２０年）８月１５日、太平洋戦争が終結し敗戦国として日本の位置づけが決定された。この史実は過去の日本が過ちを犯したという根元となり、今日のゼミの研究会や公共の場で討議する事などはそうそう容易いものではなく排他的に扱われる。特に若年層の歴史観からは、この様な戦争史を再考することや是か非かについての意見を発議する事それ事態がタブーとされている風潮が現実に存在している。なぜこの様な非常に重要な日本史の出来事を認識しより深く検証されないのか？浅薄な知識では触れてはいけないのか？平和ボケや個人主義の蔓延によるものか？２００４年を迎え、およそ戦後６０年を一年後に控えた日本を今一度捉えなおして見る価値があるはずだ。それは老若男女を問わず今生きている平和な現状を享受している傍ら、太平洋戦争を思考から切り離して考える事は日本人自身の歴史観を否定していると私は感じその意識の欠如を危惧するからである。
―東京裁判からパル判決書を含め時代考察をしてみるー
太平洋戦争敗戦以後、日本はGHQに占領され戦争責任の追及と共に日本社会の民主主義を推し進..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[福祉改革の歴史的位置と性格　]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:42:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13132/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13132/thmb.jpg?s=s&r=1170686538&t=n" border="0"></a><br /><br />福祉改革の歴史的位置と性格　
第１節　福祉改革の歴史的位置
１、国際社会の動向と福祉改革問題
　６０年代中ごろから７０年代中ごろの時期、先進資本主義諸国は高度な経済成長の恩恵を享受し、社会保障、社会福祉の改善をみた。しかし、オイルショック以[354]<br />福祉改革の歴史的位置と性格　
第１節　福祉改革の歴史的位置
１、国際社会の動向と福祉改革問題
　６０年代中ごろから７０年代中ごろの時期、先進資本主義諸国は高度な経済成長の恩恵を享受し、社会保障、社会福祉の改善をみた。しかし、オイルショック以降の経済不況によって、福祉国家批判を機軸とし政策転換をせまられた。だが、この政策転換に対して国民の反発が起こらなかった。その理由は、６０年代において国民のすべてが高度経済成長の受益者として体制内化されており、中間層として存在していたからである。かれらは、中産階級的、道徳主義的価値の尊守を要求する姿勢を強め、貧困低所得層に対する批判を強めた。よって、新保守主義的思想を下支えしたのは、こうした保守化した中間層に他ならなかった。
２、戦後社会福祉の展開と福祉改革
　わが国における福祉改革の特徴は、第二次臨時行政調査会の答申を論拠に外在的に与えられたが、ほどなく、内在化され、自己改革の好機として捉えなおされた。古川の分類における第Ⅰ期（1945～1959）においては、生活保護法を中心とした生活保障システムが国民皆保険会年金体制をもって社会保険を中心とする恒久..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[窪田静太郎にみる各種制度概念の検討]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13130/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:31:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13130/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13130/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13130/thmb.jpg?s=s&r=1170685884&t=n" border="0"></a><br /><br />窪田静太郎にみる各種制度概念の検討－社会的制度・社会政策・社会衛生・社会事業－
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　目次
　　はじめに
　　第１章　窪田論文の概観－時代背景と窪田論文－
　　　第１節　原始蓄積期
　　　第２[348]<br />窪田静太郎にみる各種制度概念の検討－社会的制度・社会政策・社会衛生・社会事業－
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　目次
　　はじめに
　　第１章　窪田論文の概観－時代背景と窪田論文－
　　　第１節　原始蓄積期
　　　第２節　産業資本確立期
　　　第３節　日本帝国主義形成期
　　　第４節　独占資本主義確立期
第２章　窪田論文の分析－先行研究をもとに－
　　 第１節　吉田久一の見解
第２節　横山和彦の見解
　第３節　仲村優一の見解
　　　第４節　野口友紀子の見解
　第３章　窪田の制度概念の検討－社会的制度・社会政策・社会衛生・社会事業－
　 　第１節　窪田論文の分析視角
第２節　各制度の対象
　 　第３節　まとめと今後の課題
　 　　　　　　　
はじめに
窪田静太郎は、「明治期以降の救済事業官僚の代表的人物」（吉田[1990：94]）であり、「わが国の草創期の社会事業を築き上げた偉大な功労者」（平田[1980：i]）である。さらに、「官僚中もっとも社会問題に造詣が深く、とくに社会的弱者保護の社会行政の開拓に精進し、貧窮への社会的対応策に没頭」した窪田は、「実務と理論の両..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[復興期における社会保障制度の整備]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13129/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:22:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13129/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13129/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13129/thmb.jpg?s=s&r=1170685355&t=n" border="0"></a><br /><br />復興期における社会保障制度の整備
第１項　保健医療行政の進展
　日本医療団の解散後、厚生省は、今後の地域における医療機関の体系的整備の在り方について検討を重ねた。昭和２３年、医療制度審議会は「医療機関の整備改善方策」について、公共医療機関に[356]<br />復興期における社会保障制度の整備
第１項　保健医療行政の進展
　日本医療団の解散後、厚生省は、今後の地域における医療機関の体系的整備の在り方について検討を重ねた。昭和２３年、医療制度審議会は「医療機関の整備改善方策」について、公共医療機関によって国民医療を充足することという内容の答申をした。これは、戦中戦後の医療供給が極めて不足したことを反映した、医療供給の確保と二重投資の回避を目的としたものであった。しかし、医療機関の整備は、統一的な計画に基づいて計画的に行われなかったため医療機関の適正配置という観点からは十分ではなかった。
　終戦によって「健兵健民」の政策目標は消滅した。戦後の結核対策は、早期発見と治療に重点をおいた。身体検査、届出制度、予防接種、化学療法剤などによって、結核による死亡率は激減し、治療期間も短縮された。そういった状況の中、昭和２５年の社会保障制度審議会の勧告は、戦後の我が国の社会保障制度の在るべき方向を示すとともに、その中で結核対策を体系化し、それ以後の結核対策の在り方を方向づけることとなった。昭和２６年には新しい「結核予防法」が制定され、それまでの予防と隔離という..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[労働省及び社会保障制度審議会の設置]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13128/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:18:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13128/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13128/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13128/thmb.jpg?s=s&r=1170685119&t=n" border="0"></a><br /><br />労働省及び社会保障制度審議会の設置
　戦後の労働行政の改革は、連合国の対日政策における主要な施策のひとつであり、労働省の設置は、占領開始時からのGHQの基本方針であった。昭和２０年、マッカーサー元帥は、民主化五大改革を指示したが、この中に労[352]<br />労働省及び社会保障制度審議会の設置
　戦後の労働行政の改革は、連合国の対日政策における主要な施策のひとつであり、労働省の設置は、占領開始時からのGHQの基本方針であった。昭和２０年、マッカーサー元帥は、民主化五大改革を指示したが、この中に労働組合の結成促進がうたわれていた。これを受けて、政府は労務法制審議会を設置し、労働組合法案の作成について諮問した。同委員会は労働組合法案についての答申を行ったが、その答申の附帯決議の中で、労働行政機構を整備拡充し、速やかに労働省を創設することが掲げられた。昭和２１年来日したGHQ労働諮問委員会は、我が国の一般的労働事情、労働行政機構、社会保険制度について詳細..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会保険制度の立直しと新制度の設立]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13127/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:16:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13127/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13127/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13127/thmb.jpg?s=s&r=1170684982&t=n" border="0"></a><br /><br />社会保険制度の立直しと新制度の設立
　太平洋戦争によって、我が国は経済的にも社会的にも大きな被害を受けたが、社会保険制度も戦後の混乱の中で存亡の危機に立たされることになった。なかでも物価高騰の影響は甚大であった。昭和２０年代の前半は、社会保[358]<br />社会保険制度の立直しと新制度の設立
　太平洋戦争によって、我が国は経済的にも社会的にも大きな被害を受けたが、社会保険制度も戦後の混乱の中で存亡の危機に立たされることになった。なかでも物価高騰の影響は甚大であった。昭和２０年代の前半は、社会保険制度にとってもこうした制度崩壊の危機からの脱出を懸命に試みた時期であった。
戦争による工場・機械の破壊、終戦に伴う軍需工場の閉鎖などによる失業者の増大と戦後の急激な物価上昇は、被用者保険である健康保険制度を崩壊の危機に陥れた。終戦直後の数年間は、何よりも健康保険の制度自体を守ることが最大の課題であった。その後の数年間、物価の上昇や保険診療の急激な増加及び医..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[緊急援護体制の整備と保健医療行政]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13126/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:14:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13126/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13126/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13126/thmb.jpg?s=s&r=1170684841&t=n" border="0"></a><br /><br />緊急援護体制の整備と保健医療行政
　終戦とともに緊急課題となった引揚援護であるが、その業務は、厚生省が引き受けることになり、陸海軍人軍属の復員、一般邦人の引揚、在外日本人の帰国援護の３つの分野であった。一般邦人の引揚げは、内地に全く身寄りの[358]<br />緊急援護体制の整備と保健医療行政
　終戦とともに緊急課題となった引揚援護であるが、その業務は、厚生省が引き受けることになり、陸海軍人軍属の復員、一般邦人の引揚、在外日本人の帰国援護の３つの分野であった。一般邦人の引揚げは、内地に全く身寄りの無い者等「無縁故者」も含んでおり、引揚後の生活問題が深刻であった。一時的な援護体制では、とうてい経済的自立生活を営むことは難しく、昭和２１年には生活困窮者生活援護要綱の実施が通知された。引揚者のみならず、全ての人が生活困窮という事実に基づいて区別することなく生活の援護が行われることとなる。
　GHQは、昭和２０年、指令第１号によって、災害と飢えの緩和に返還物資等を用いることの実施責任官庁として厚生省が指定され、以後救済行政は厚生省が責任をもって行うことになった。SCAPIN333、SCAPIN 404には基本的姿勢として、第一に救済用物資の配給は国が責任をもって行うこと、第二に旧陸海軍人を特別扱いしてはならないこと、第三に生活の困窮度を基準にすること、が掲げられる。それに対して政府は、生活困窮の国民全部を対象とする最低生活保障、国民援護に関する新立法..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[昭和２０年代の社会保障制度の整備]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13125/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:10:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13125/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13125/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13125/thmb.jpg?s=s&r=1170684613&t=n" border="0"></a><br /><br />昭和２０年代の社会保障制度の整備
第１項　戦後期の社会保障の状況
昭和２０年８月１５日に終戦を迎えたわが国は、大量の失業者と極度の食糧不足により、ぎりぎり飢えをしのぐ暮らしであった。連合国軍の占領下で、GHQは我が国の非軍事化とその徹底のた[350]<br />昭和２０年代の社会保障制度の整備
第１項　戦後期の社会保障の状況
昭和２０年８月１５日に終戦を迎えたわが国は、大量の失業者と極度の食糧不足により、ぎりぎり飢えをしのぐ暮らしであった。連合国軍の占領下で、GHQは我が国の非軍事化とその徹底のための民主化政策を推し進めた。「治安維持法」の廃止、憲法の改正、地方自治の改革、いわゆる「普通選挙法」の改正、経済の改革、教育の自由主義化などあらゆる分野に及んだ。
憲法においては、国民が「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を有することを明記し、そのために国は「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とした。戦後我が国の社会保..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[昭和40年からの福祉行政の展開]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13124/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:05:28 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13124/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13124/thmb.jpg?s=s&r=1170684328&t=n" border="0"></a><br /><br />昭和40年からの福祉行政の展開
第１項　児童福祉対策の展開
昭和４９年以降、出生数・出生率ともに急激な減少傾向を示した。昭和５６年、人口問題研究所の人口推計が発表され、今後の社会が高齢化社会であると同時に児童の少ない社会であること、老人問題[352]<br />昭和40年からの福祉行政の展開
第１項　児童福祉対策の展開
昭和４９年以降、出生数・出生率ともに急激な減少傾向を示した。昭和５６年、人口問題研究所の人口推計が発表され、今後の社会が高齢化社会であると同時に児童の少ない社会であること、老人問題であると同時に極めて重大な児童の問題であること、次代を担う児童の健やかな育成がますます重要になること、が予想された。
このような認識を踏まえ、中央児童福祉審議会は「今後のわが国児童家庭福祉の方向について」の意見具申を行った。出生数減少の外的要因の軽減、家庭保健の重要性、子育てのもつ社会的意義の評価、地域における遊び場確保、子どもを交えた地域活動の育成等、子どもの健全育成の環境づくり、情報文化の進展に対応した児童の健全育成などが指摘された。
昭和５５年から昭和５６年にかけて、ベビーホテルと呼ばれる無認可の保育施設で乳幼児の死亡事故が相次ぎ、大きな社会問題となる。厚生省は、ベビーホテルへの規制を行う一方で、昭和５６年「児童福祉法」改正の附帯決議を受けて、多様化する保育需要に対応し、乳児院等の活用、夜間保育事業のモデル化、延長保育特別対策、年度途中入所の円..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[衛生行政の展開]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13123/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 23:02:06 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13123/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13123/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13123/thmb.jpg?s=s&r=1170684126&t=n" border="0"></a><br /><br />衛生行政の展開 
第１項　健康づくり・疾病予防対策の進展
第一次石油危機後、我が国経済は安定成長に移行し、過大な社会保障費用負担が懸念されるようになってきた。こうして公衆衛生分野でも従来の行政施策を踏襲するだけでなく、国民の生活環境の変化・[354]<br />衛生行政の展開 
第１項　健康づくり・疾病予防対策の進展
第一次石油危機後、我が国経済は安定成長に移行し、過大な社会保障費用負担が懸念されるようになってきた。こうして公衆衛生分野でも従来の行政施策を踏襲するだけでなく、国民の生活環境の変化・健康観の変遷を背景とした保健需要の多様化に対処し、治療から予防へ、更に積極的な健康対策を導入することが考えられるようになった。
昭和５２年、渡辺厚相は、「１億国民総健康づくり」を提唱した。これを受けて、昭和５３年度の厚生省予算の最重点項目として、「国民健康づくり対策」が取り上げられ、国民の総合的な健康づくりを目指して積極的な対策が講じられることとなった。その..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[高齢化社会に対応した医療保険・年金制度等の確立]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13122/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:58:28 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13122/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13122/thmb.jpg?s=s&r=1170683908&t=n" border="0"></a><br /><br />高齢化社会に対応した医療保険・年金制度等の確立 
第１項　老人保健法の創設と改正
昭和４８年の老人医療費無料化制度により、老人医療費は著しく増加した。それに伴い、国民健康保険制度の負担が著しく高まり、保険者団体は、各保険者間の公平な負担を求[354]<br />高齢化社会に対応した医療保険・年金制度等の確立 
第１項　老人保健法の創設と改正
昭和４８年の老人医療費無料化制度により、老人医療費は著しく増加した。それに伴い、国民健康保険制度の負担が著しく高まり、保険者団体は、各保険者間の公平な負担を求める声を高めた。また、老人医療費無料化制度は、医療資源の非効率な活用をも生み出した。さらに、疾病治療に偏った姿を改め、予防やプライマリ・ケアを重視し、積極的な健康づくりを目指す包括保健体制の確立が求められた。
こうした背景のもと、「老人保健法」は、昭和５７年に成立した。「老人保健法」の成立によって、疾病の予防、治療、機能回復訓練等の各種保健事業の総合的実施、老人の加入率の違いに伴う各保険集団間の老人医療費負担の格差を公平化すること、老人医療費への一部負担の導入などが図られることとなった。壮年期からのヘルス事業を進めるとともに、社会連帯の精神に基づき老人医療費を各医療保険制度が共同して負担するという、我が国医療保険史上でも画期的な制度であった。これによって老人医療費の費用負担の公平化が図られ、老人医療費による国民健康保険への重圧は緩和されることとなった..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[高齢化時代の社会保障]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13121/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:55:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13121/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13121/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13121/thmb.jpg?s=s&r=1170683712&t=n" border="0"></a><br /><br />高齢化時代の社会保障
第１項　人口高齢化と社会保険費用負担の増大
昭和５０年代、核家族化の進行、一世帯平均人員の減少、同居率の低下等の現象は続き、また、既に高度経済成長期に進行していた婦人の社会進出や就労も引き続き進行した。これは、扶養意識[356]<br />高齢化時代の社会保障
第１項　人口高齢化と社会保険費用負担の増大
昭和５０年代、核家族化の進行、一世帯平均人員の減少、同居率の低下等の現象は続き、また、既に高度経済成長期に進行していた婦人の社会進出や就労も引き続き進行した。これは、扶養意識の変化とあいまって、高齢者に対する私的扶養機能を弱め、それだけ社会的扶養への依存を高めることを意味した。こうして老人扶養の問題が低所得階層のみならず、一般世帯においても大きな問題となっていった。このような背景のもと、年金費用、医療費、老人福祉費は、増加の一途をたどることとなる。
人口高齢化が将来の社会保障費用負担に与える深刻な影響は、昭和５０年代以降、ますま..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[経済基調の変化と人口高齢化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13120/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:51:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13120/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13120/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13120/thmb.jpg?s=s&r=1170683506&t=n" border="0"></a><br /><br />経済基調の変化と人口高齢化 
第１項　石油危機後の物価上昇と社会保険費用の拡大
　昭和４８年に起こった石油危機は、著しい物価上昇をもたらし、我が国をパニック状態に陥れた。この「狂乱物価」に伴って、老人、心身障害者、母子家庭、低所得者等の社会[354]<br />経済基調の変化と人口高齢化 
第１項　石油危機後の物価上昇と社会保険費用の拡大
　昭和４８年に起こった石油危機は、著しい物価上昇をもたらし、我が国をパニック状態に陥れた。この「狂乱物価」に伴って、老人、心身障害者、母子家庭、低所得者等の社会的弱者と言われる人たちに対する各種社会保障給付水準が大幅に引き上げられることとなった。また、社会保障給付費の国民所得に対する割合も急速に増加した。
社会保障制度審議会は、昭和４８年、「当面する社会保障の危機回避のための建議」を行い、インフレーションによる所得分配の不公正を是正するため、社会保障制度のもつ所得再分配機能を強化することを要望した。同じ時期に、国民生活審議会総合部会は、「物価上昇下の分配等の歪み是正等について」と題する中間報告で、低所得者層に対する社会的不公正の是正を提言した。こうして、物価の高騰に対処して各種社会保障給付の金額改定が行われた。
第２項　安定成長への移行と行財政改革
昭和４９年度後半には、物価安定化の徴候がみえ始めると同時に需要の低迷、生産活動の低下、雇用の減退、企業収益の悪化等がみられ、経済不況が深刻になってきた。その結果..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[高齢化時代の社会保障改革]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13118/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:48:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13118/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13118/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13118/thmb.jpg?s=s&r=1170683320&t=n" border="0"></a><br /><br />高齢化時代の社会保障改革
　高度経済成長期を通じて、我が国の社会保障制度は制度的には西欧諸国と遜色のないものとなった。昭和４８年の第一次石油危機による石油価格の高騰は、物価を急上昇させるとともに、企業収益を圧迫し、高度経済成長の終焉をもたら[358]<br />高齢化時代の社会保障改革
　高度経済成長期を通じて、我が国の社会保障制度は制度的には西欧諸国と遜色のないものとなった。昭和４８年の第一次石油危機による石油価格の高騰は、物価を急上昇させるとともに、企業収益を圧迫し、高度経済成長の終焉をもたらした。我が国経済は、主として輸出の増加を通じて安定成長に移行することとなった。
この時期において、人口高齢化の速度は早まっていった。また、高度経済成長期を通じて家庭の扶養機能が低下したことから、老人扶養の問題が低所得階層のみならず一般世帯においても大きな問題となっていった。年金費用を含む社会保障給付費が増加し、その負担も増加することが予測され、将来の社会保障..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[戦時下の社会事業と軍事援護]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13117/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:44:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13117/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13117/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13117/thmb.jpg?s=s&r=1170683055&t=n" border="0"></a><br /><br />戦時下の社会事業と軍事援護
社会事業法の制定
　日華事変以後、戦時体制化が進んでいく中で、戦時下の「銃後生活」対策として社会事業が拡大されるとともに、国の社会事業に対する監督が強化されていく。社会事業の多くは民間の社会事業施設であり、経営難[356]<br />戦時下の社会事業と軍事援護
社会事業法の制定
　日華事変以後、戦時体制化が進んでいく中で、戦時下の「銃後生活」対策として社会事業が拡大されるとともに、国の社会事業に対する監督が強化されていく。社会事業の多くは民間の社会事業施設であり、経営難となるものが多かった。昭和13年「社会事業法」により、民間社会事業に対する保護助成と国の指導監督が強化された。
医療保護法の制定
　兵力・労働力の基礎として国民の体位の向上が重視され、生活困窮者の医療保護についても強化が図られる。救護法等によるそれまでの医療内容では十分ではなく、社会事業団体や方面委員から改善が求められた。昭和16年「医療保護法」が制定され、従来からの生活困窮者に対する医療保護事業を統合整理し、政府の管理の下に統一的に行われることとなる。一方、救護法の分散化傾向は、この法律の出現によってますます強まる。
児童保護・母子保護対策の推進
　大正末期から、生計中心者を失い生活の困難を来している母子に対して保護を求める運動が婦人団体等により行われ始める。このような運動のなかで、昭和12年「母子保護法」が成立する。貧困のため生活が困難であったり..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会保険制度の展開]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13116/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:41:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13116/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13116/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13116/thmb.jpg?s=s&r=1170682904&t=n" border="0"></a><br /><br />社会保険制度の展開
国民健康保険制度の成立
　昭和13年、医療費の軽減に重点を置いた「国民健康保険法」が成立する。成立した要因として、国民体位の低下に対する危機意識の高まり、兵力・労働力の涵養対策、といったことが挙げられる。
国民皆保険運動[350]<br />社会保険制度の展開
国民健康保険制度の成立
　昭和13年、医療費の軽減に重点を置いた「国民健康保険法」が成立する。成立した要因として、国民体位の低下に対する危機意識の高まり、兵力・労働力の涵養対策、といったことが挙げられる。
国民皆保険運動の進展
　国民健康保険制度は順調に普及したが、長期戦の様相を呈するなかで「健兵健民策」の重要度が増し、更なる拡大が図られた。昭和17年、国民皆保険政策を遂行するため「国民健康保険法」の改正が行われる。この後、いったんはほぼ国民皆保険が達成され、戦後の皆保険制度への礎石となる。
健康保険法の改正（家族給付の創設と結核給付期間の延長）
　昭和2年施行の健康保険制..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国家総動員体制と労働行政]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13115/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:39:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13115/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13115/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13115/thmb.jpg?s=s&r=1170682772&t=n" border="0"></a><br /><br />国家総動員体制と労働行政
国家総動員法の制定
　厚生省設立後の労働行政の基本的課題は、戦争遂行のための労働力供給体制の確立である。各種の統制の中心となったのは、昭和13年制定の「国家総動員法」である。この法によって、労働・物資・貿易・企画・[352]<br />国家総動員体制と労働行政
国家総動員法の制定
　厚生省設立後の労働行政の基本的課題は、戦争遂行のための労働力供給体制の確立である。各種の統制の中心となったのは、昭和13年制定の「国家総動員法」である。この法によって、労働・物資・貿易・企画・価格統制等々、経済活動のあらゆる分野にわたり人的・物的資源のすべてを戦争遂行のために動員する権限が政府に与えたれた。
職業紹介事業の国営化
　わが国は、戦時体制下における重化学工業における膨大な労働力需要によって、著しい労働力不足に陥った。民間の労働力供給事業による旧来の労働力調達機構を改めることを目的に、昭和13年「職業紹介法」が改正される。市町村営の職業紹介所を国営にし、民営のものは許可制にされた。しかし、大きな成果はなく、次第に直接的な労働力調達方法がとられるようになる。
労働者の移動防止策と国民徴用令
　労働力不足によって生じた労働力の移動により、賃金の高騰や適正配置を損なうといった問題が生じた。政府は、労働移動を防止しようと、昭和14年「国民徴用令」によって、不急産業の雇用を制限するなどの策を講じた。その後も、労働者の移動防止については、一..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[健兵健民政策と衛生行政]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13114/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:37:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13114/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13114/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13114/thmb.jpg?s=s&r=1170682634&t=n" border="0"></a><br /><br />健兵健民政策と衛生行政
戦時下の衛生行政の課題
　戦時体制がとられるようになると、大正期以降問題とされた、結核死亡率・乳幼児死亡率、栄養状態の改善などの課題に加え、国防の目的のための人口増加、体力向上が衛生行政に要求される。昭和13年「国家[352]<br />健兵健民政策と衛生行政
戦時下の衛生行政の課題
　戦時体制がとられるようになると、大正期以降問題とされた、結核死亡率・乳幼児死亡率、栄養状態の改善などの課題に加え、国防の目的のための人口増加、体力向上が衛生行政に要求される。昭和13年「国家総動員法」の下で、厚生省の課題も兵力・労働力供給の維持・確保となる。それによって、「健兵健民」政策と呼ばれるような衛生行政全般にわたる包括的対応が必要とされる。戦時中は国民の生命・健康には著しく不利な状況であったが、衛生行政においては、この「健兵健民」という強力な統制が働くことにより、全国民を対象とした体系的改革が進められることとなる。戦後、強権的な統制手段は廃止されたが、施策の技術的手法は、戦後福祉国家としてわが国が再生・発展していく過程で有用な手段として活用されることとなる。
保健所法の制定
　大正5年の保健衛生調査会の設置を契機にいくつかの保健指導機関が出現したことが、保健所法制定の有力な側面運動となる。政府においても、欧米諸国の保健指導施設の調査が行われる。内務省衛生局もその必要性を認識し、昭和12年保健所法が制定された。保健所の業務は、住民..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[厚生省の創設]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13113/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:33:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13113/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13113/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13113/thmb.jpg?s=s&r=1170682435&t=n" border="0"></a><br /><br />厚生省の創設
第１項　戦時体制への移行
　第２編の時期は、昭和１３年厚生省創設から昭和２０年ポツダム宣言の受諾までであって、昭和１２年日華事変の拡大、更に太平洋戦争という戦争の時代である。
いわゆる「日華事変」前夜の状況
　わが国は、昭和６[352]<br />厚生省の創設
第１項　戦時体制への移行
　第２編の時期は、昭和１３年厚生省創設から昭和２０年ポツダム宣言の受諾までであって、昭和１２年日華事変の拡大、更に太平洋戦争という戦争の時代である。
いわゆる「日華事変」前夜の状況
　わが国は、昭和６年に始まった満州事変、昭和７年の満州国建国によって、経済が回復し、世界恐慌から脱出する。列強がブロック経済化を始めるとともに、わが国は、朝鮮や満州に進出し経済圏域の拡大を図る。昭和１１年、２・２６事件を契機に成立した広田内閣では、陸海軍大臣現役制が復活するなど、「国防の充実」が最重要国策とされた。昭和１２年近衛内閣では、財政経済三原則が発表され、国際収支の均..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会保障制度の拡充と「福祉元年」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13112/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:29:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13112/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13112/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13112/thmb.jpg?s=s&r=1170682145&t=n" border="0"></a><br /><br />社会保障制度の拡充と「福祉元年」
１、　社会保障制度拡充の背景
高度経済成長によって、第２次・第３次産業の就業人口が増加するとともに失業率が低下し、我が国に完全雇用に近い状態が出現した。これに伴って労働力不足が顕著となり、国民所得の増加とと[356]<br />社会保障制度の拡充と「福祉元年」
１、　社会保障制度拡充の背景
高度経済成長によって、第２次・第３次産業の就業人口が増加するとともに失業率が低下し、我が国に完全雇用に近い状態が出現した。これに伴って労働力不足が顕著となり、国民所得の増加とともに雇用者の賃金や農業所得が上昇した。また、物価の上昇もみられた。その結果、就業できない者若しくは一定の社会保障給付によって生活する者に対する生活援護問題が大きな政策課題となった。
昭和３０年代後半から昭和４０年代にかけて、国民生活の個人消費部門におけるモノの豊かさに比べ住宅や生活環境の未整備、社会保障の低水準、公害、交通難、物価の上昇などいわゆる高度経済成..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[公害問題への対応]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13111/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:24:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13111/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13111/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13111/thmb.jpg?s=s&r=1170681885&t=n" border="0"></a><br /><br />公害問題への対応
第１項　国による公害対策の着手
　公害問題は、明治初期から生じていたが、国による対策としては工場法、鉱業法によることとされた。経済成長とともに公害の発生は複雑化、大規模化していった。昭和３０年代から本格的に注目されるように[356]<br />公害問題への対応
第１項　国による公害対策の着手
　公害問題は、明治初期から生じていたが、国による対策としては工場法、鉱業法によることとされた。経済成長とともに公害の発生は複雑化、大規模化していった。昭和３０年代から本格的に注目されるようになった公害問題は、世界の工業国に共通の現象であったが、我が国の場合、狭い国土に巨大な産業が立地したこと、産業の成長も他に例のない急速なものであったことから、その公害現象も特に深刻なものとなった。
昭和３０年代には、四日市コンビナートの大気汚染、水俣病の発見、製紙工場排水による東京湾の漁業被害など公害による社会問題が相次ぎ、補償を求める住民や漁民の運動も広がっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会保障各制度の進展]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13110/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:20:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13110/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13110/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13110/thmb.jpg?s=s&r=1170681658&t=n" border="0"></a><br /><br />社会保障各制度の進展
第１項　結核対策の進展と成人病・難病対策の推進
　昭和３０年代には、結核対策は、全国民を対象に予防、早期診断、早期治療、および医療費の面までも包括したシステム的手法がとられた。伝染病は急速に減少し、これに代わり成人病、[356]<br />社会保障各制度の進展
第１項　結核対策の進展と成人病・難病対策の推進
　昭和３０年代には、結核対策は、全国民を対象に予防、早期診断、早期治療、および医療費の面までも包括したシステム的手法がとられた。伝染病は急速に減少し、これに代わり成人病、精神障害、難病などが国民医療上の問題となっていった。昭和２５年まで死亡原因の第１位を占めていた結核は、昭和２６年に脳卒中にその席を譲り、昭和３３年以後は、悪性新生物、心疾患、脳血管疾患の３つの成人病で上位３位を占め続けることとなった。
昭和２７年ごろから成人病について、治療方法のみならず、早期発見、集団検診、健康管理などについて研究を進めていたが、各種の施策の推進にもかかわらずなお増加の傾向にあり、その予防や治療に決定的な方法は確立されていなかった。こうして従来の結核に代わって成人病の医療費が国民医療費に占める割合を増加させていくこととなった。
昭和３０年ごろから原因不明の神経病として発生が認められたスモンは、昭和４２年ごろに全国的に多発し、大きな社会問題となった。昭和４４年にスモン調査研究協議会を組織し検討を開始したが、スモンとの関係が疑われたキノ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[皆保険・皆年金体制の形成]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13109/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:15:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13109/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13109/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13109/thmb.jpg?s=s&r=1170681355&t=n" border="0"></a><br /><br />第２節　皆保険・皆年金体制の形成
第１項　国民皆保険体制への歩み
昭和２５年に社会保障制度審議会が行った「社会保障制度に関する勧告」の中で、一般国民に対する国民健康保険制度を数年中に全国民に適用することが提言された。昭和３０年には、社会保障[356]<br />第２節　皆保険・皆年金体制の形成
第１項　国民皆保険体制への歩み
昭和２５年に社会保障制度審議会が行った「社会保障制度に関する勧告」の中で、一般国民に対する国民健康保険制度を数年中に全国民に適用することが提言された。昭和３０年には、社会保障制度審議会に医療保障問題に関する諸問題を総合的に検討するための特別委員会が設置、昭和３０年、厚生省が立案した社会保障５か年計画では、昭和３１年から昭和３５年に至る間に医療保障の完遂を目標とすることとされた。昭和３０年に発足したいわゆる「七人委員会」は、健康保険と船員保険の赤字対策を精力的に検討すべての国民が医療保障を受けられるようにすべきであるとし、国民健康..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[昭和４０年代の社会保障の状況]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13108/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:12:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13108/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13108/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13108/thmb.jpg?s=s&r=1170681129&t=n" border="0"></a><br /><br />昭和４０年代の社会保障の状況
我が国経済は昭和３９年から昭和４０年にかけて、当時戦後最大と言われた不況に陥ったものの、昭和４０年代には昭和３０年代を上回るような高度経済成長を続けた。欧米の企業と対等に競争していくために、昭和３５年の「国民所[358]<br />昭和４０年代の社会保障の状況
我が国経済は昭和３９年から昭和４０年にかけて、当時戦後最大と言われた不況に陥ったものの、昭和４０年代には昭和３０年代を上回るような高度経済成長を続けた。欧米の企業と対等に競争していくために、昭和３５年の「国民所得倍増計画」を受けて、昭和３７年に全国総合開発計画が策定された。我が国の国際競争力は急速に強化され、昭和４０年代に入ると、戦後一貫して赤字だった国際収支にも黒字基調が定着するようになった。昭和４３年には自由主義諸国の中で国民総生産が第２位の経済大国となった。
しかし、このような高度経済成長に伴う社会の変動は、さまざまな新しい問題を生むことにもなった。大気汚染..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[昭和３０年代の社会保障の状況]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13107/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 22:09:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13107/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/13107/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/13107/thmb.jpg?s=s&r=1170680968&t=n" border="0"></a><br /><br />昭和３０年代の社会保障の状況
　昭和３０年代は、神武景気、岩戸景気といった設備投資を中心とした大型景気が続いた。産業構造は、重化学工業中心へと一変し、昭和３０年代後半には労働力不足が生じた。労働者の賃金は高騰し、生活水準が大幅に上昇した。そ[358]<br />昭和３０年代の社会保障の状況
　昭和３０年代は、神武景気、岩戸景気といった設備投資を中心とした大型景気が続いた。産業構造は、重化学工業中心へと一変し、昭和３０年代後半には労働力不足が生じた。労働者の賃金は高騰し、生活水準が大幅に上昇した。そのなかで、低所得層や被保護世帯では高度経済成長の恩恵をあまり受けることができなかった。厚生行政においては、一般的繁栄の中で貧困に陥っている人々の生活の擁護、貧困から立ち上がる施策の推進、一般的繁栄に取り残される恐れのある人々及び老人、身体障害者、母子家庭など稼得能力を失い又は制限されている人々の生活を、経済の発展に対応して向上させていく措置を講ずることに特に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国民皆年金実現の背景]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13002/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pumpkinhead]]></author>
			<category><![CDATA[pumpkinheadの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Feb 2007 14:51:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13002/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13002/" target="_blank"><img src="/docs/983430526501@hc06/13002/thmb.jpg?s=s&r=1170395463&t=n" border="0"></a><br /><br />１９５０年代に入ると、医療分野での国民皆保険が進められるのに伴って国民皆年金の実現が求められるようになっていった。これを受けて１９５９年には国民年金法が制定され、同年から保険料負担がない福祉年金が、そしてその２年後には加入者が保険料を負担す[360]<br />１９５０年代に入ると、医療分野での国民皆保険が進められるのに伴って国民皆年金の実現が求められるようになっていった。これを受けて１９５９年には国民年金法が制定され、同年から保険料負担がない福祉年金が、そしてその２年後には加入者が保険料を負担する国民年金が実施された。この国民年金がこれまで受給の対象外であった５名未満の企業の労働者、農林漁業従事者、自営業者などをも加入対象としたことにより、本格的な国民皆年金の体制が確立されたのである。また同年には通算年金制度も創設された。これにより職業移転に伴う加入期間のリセットが廃止され、職業が変わったことで異なる年金制度へ移っても、これまでの各年金制度への加入..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[厚生年金の危機]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13001/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pumpkinhead]]></author>
			<category><![CDATA[pumpkinheadの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Feb 2007 14:43:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13001/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13001/" target="_blank"><img src="/docs/983430526501@hc06/13001/thmb.jpg?s=s&r=1170394988&t=n" border="0"></a><br /><br />終戦直後から１９４９年まで続いた激しいインフレによって将来の給付に備えた保険料の積立金の大半が失われ、厚生年金保険はその実質的な価値を失った。同様にすでに給付の始まっていた障害年金や遺族年金なども購買力を失っており、年金制度はその存続すら危[360]<br />終戦直後から１９４９年まで続いた激しいインフレによって将来の給付に備えた保険料の積立金の大半が失われ、厚生年金保険はその実質的な価値を失った。同様にすでに給付の始まっていた障害年金や遺族年金なども購買力を失っており、年金制度はその存続すら危ぶまれる事態に追い込まれた。
１９４７年、業務上の障害に対する労働者災害補償保険制度（労災）が発布されたことに伴い、政府は厚生年金保険から労災部門を切り離すことを決断した。さらに、当時はまだほとんど受給者のいなかった老齢年金の年額を低水準に引き下げることで、これに見合った保険料の大幅な値下げを行うという非常措置をとった。　　　　　
１９５４年の新厚生年金保険..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[公的年金制度の黎明]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13000/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pumpkinhead]]></author>
			<category><![CDATA[pumpkinheadの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Feb 2007 14:38:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13000/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430526501@hc06/13000/" target="_blank"><img src="/docs/983430526501@hc06/13000/thmb.jpg?s=s&r=1170394680&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の年金制度は欧米諸国と比べて歴史が浅く、明治時代の軍人恩給がその始まりとされている。１８７５年には海軍軍人の恩給が、その翌年には陸軍軍人の恩給が開始され、続いて１８８４年には文官にも恩給制度が適用された。恩給の給付は本来国家に忠誠を尽く[360]<br />日本の年金制度は欧米諸国と比べて歴史が浅く、明治時代の軍人恩給がその始まりとされている。１８７５年には海軍軍人の恩給が、その翌年には陸軍軍人の恩給が開始され、続いて１８８４年には文官にも恩給制度が適用された。恩給の給付は本来国家に忠誠を尽くした軍人や役人に対する恩賞という意味で、雇用主である国が従業員である役人に退職年金を給付するというものであった。そのため個人の所得を社会全体で保障しようとする今日の年金制度の仕組みとは異なるものである。その後１９２３年には、恩給法により軍人恩給及び文官恩給の給付額の水準の統一が図られた。また１９０５年に八幡製鉄所で初の共済組合制度が設立されると、これまで恩給..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[戦後日本経済の概要について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430302101@hc06/12985/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s01ch1]]></author>
			<category><![CDATA[s01ch1の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Feb 2007 20:59:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430302101@hc06/12985/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430302101@hc06/12985/" target="_blank"><img src="/docs/983430302101@hc06/12985/thmb.jpg?s=s&r=1170331161&t=n" border="0"></a><br /><br />　戦後日本経済の概要について
終戦後、1945年8月15日の敗戦から半世紀以上過ぎ、日本は戦後民主主義のもとで世界に類をみない目覚しい経済成長を成し遂げた。その過程を経済史としてここに記述する。
日本はGHQによって、農地改革、労働改革、財[336]<br />　戦後日本経済の概要について
終戦後、1945年8月15日の敗戦から半世紀以上過ぎ、日本は戦後民主主義のもとで世界に類をみない目覚しい経済成長を成し遂げた。その過程を経済史としてここに記述する。
日本はGHQによって、農地改革、労働改革、財閥解体を要として3つの経済民主化経済政策が行われた。
農地改革は占領政策の中で最も徹底的で経済の民主化で成功した改革だ。小作人が自作農となることで勤労意欲が高まり、農業生産高が飛躍的に上昇した。それにつれて農民の所得も増え、購買力も高まり、内需拡大の原動力となった。1950年代後半から1960年代にかけて、三種の神器と呼ばれる電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビなどの電気製品が農村にも普及した。
また労動改革によって、日本の労働者は団体行動権、団体交渉権、争議権の労働三権が保証されて、使用者と労働者の関係が改善された。
財閥解体にしては、三井、三菱、住友、安田などの四台財閥が解体され、企業の自由な競争が促された。もし財閥解体がなければソニーやホンダなどの企業が参入する余地はなかったとされる。
1949年3月、インフレーション抑制のために経済安定九原則に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中等社会科教育概論?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429098901@hc07/12753/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lt002059]]></author>
			<category><![CDATA[lt002059の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Jan 2007 13:15:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429098901@hc07/12753/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429098901@hc07/12753/" target="_blank"><img src="/docs/983429098901@hc07/12753/thmb.jpg?s=s&r=1169439335&t=n" border="0"></a><br /><br />　　皇軍と沖縄
皇軍と呼ばれ戦った兵士たちは何を思い死んでいったのか。日本は神の国である。と戦時中に教育され、その事を信じて育ち、ある種異常なほどの愛国心を持っていた。現在
日本では教育基本法の中に愛国心を取り入れようとしている。戦時中特攻[356]<br />　　皇軍と沖縄
皇軍と呼ばれ戦った兵士たちは何を思い死んでいったのか。日本は神の国である。と戦時中に教育され、その事を信じて育ち、ある種異常なほどの愛国心を持っていた。現在
日本では教育基本法の中に愛国心を取り入れようとしている。戦時中特攻隊は天皇に命を捧げた。勇敢に戦った戦士として靖国神社に祀られている。では本当に勇敢だったのであろうか。
　日本でアメリカ軍が上陸したのは沖縄だけである。そこでの皇軍と呼ばれた日本軍は皇軍とは呼べない行動をとっている。1944年に沖縄に水上特攻隊が設置される。陸軍が編成したベニヤ板製の船艇に自動車のエンジンをつけて、目標に体当たりするというものであった。この部隊は敵が出現すれば出て行くはずであった。陸上戦の訓練も準備もないに等しいものであった。天覧の栄に俗したとその特攻隊魂で散っていった。ほんとに勇敢に散っていったのか。その無意味にも思える特攻魂で住民を巻き込み多くの被害を出した。戦場は劣勢に陥った。そこで皇軍は各自持っていた手榴弾二個しか頼みの綱はなかった。住民を集め、二、三十がひとかたまりで折り重なった。死にきれなかった住民は棍棒で頭を殴られ命を落..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[都市・パリに見る地域の変化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429231201@hc07/12711/]]></link>
			<author><![CDATA[ by romi1611]]></author>
			<category><![CDATA[romi1611の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 19 Jan 2007 21:00:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429231201@hc07/12711/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429231201@hc07/12711/" target="_blank"><img src="/docs/983429231201@hc07/12711/thmb.jpg?s=s&r=1169208033&t=n" border="0"></a><br /><br />都市・パリに見る地域の変化
　夏期休暇中にフランスはパリに数週間だけ滞在した。ありとあらゆる場所に足を運んだが、パリは観光名所として名高い場所のみならず街並みだけを切り取って見ても素晴らしい風景が広がっていた。また、パリには様々な時代に建て[358]<br />都市・パリに見る地域の変化
　夏期休暇中にフランスはパリに数週間だけ滞在した。ありとあらゆる場所に足を運んだが、パリは観光名所として名高い場所のみならず街並みだけを切り取って見ても素晴らしい風景が広がっていた。また、パリには様々な時代に建てられた建築物が点在しており、中に入れずともただ眺めて思考しているだけで退屈することはなかった。
パリはセーヌ川に浮かぶシテ島を中心に、中世以降日ランスの首都としてまたヨーロッパ最大の都市としてこれまで大きな発展を遂げてきた場所である。現在のパリの都市構造は、１９世紀のナポレオン３世とセーヌ県知事オスマンによる大改造によってほぼ決定された。都市の骨格となるルーブル宮から凱旋門にいたる中心軸や、上下水道、緑地や広場が整備されたオスマン時代の大改造の他にも、現在まで多数の都市計画が実践され、歴代国王や王室建築家によって蓄積された多くの歴史的記念建造物や、古い街区の改修・保存と近代的な改造計画とが並行して行われてきた。幾度もの改造を経てきたパリには、ローマ期から中世、近現代にわたる全ての時代の建築が存在し、そのような建築が構成する都市に見られる新旧の調和や多..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会科学とは]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432297001@hc05/11854/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bestinme]]></author>
			<category><![CDATA[bestinmeの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 03 Dec 2006 22:10:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432297001@hc05/11854/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432297001@hc05/11854/" target="_blank"><img src="/docs/983432297001@hc05/11854/thmb.jpg?s=s&r=1165151432&t=n" border="0"></a><br /><br />　SPIなどでも記載されている分野の一つに社会科学という分野がある。この「社会科学」という言葉の本質がいったい何なのかは説明ができるだろうか。つまり、社会に科学性が存在するか否かということである。たいていの人に社会科学とは何かと聞くと、決ま[354]<br />　SPIなどでも記載されている分野の一つに社会科学という分野がある。この「社会科学」という言葉の本質がいったい何なのかは説明ができるだろうか。つまり、社会に科学性が存在するか否かということである。たいていの人に社会科学とは何かと聞くと、決まって答えるのが、「政治・経済とか勉強する学問」などと個々の領域でしか表現できずに定義づけられないのだ。この分野の他に自然科学、人文科学があるが、本稿では社会科学の定義についてのべていきたいと思う。
　この「社会科学」という言葉を広辞苑で調べてみると、「社会現象を対象として研究する科学の総称。政治学・法律学・経済学・社会学・歴史学・文化人類学およびその他の関係..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[言葉としての「自立」とその歴史的背景　明治期における自立観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/11689/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikipa]]></author>
			<category><![CDATA[rikipaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Nov 2006 01:27:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/11689/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757101@hc05/11689/" target="_blank"><img src="/docs/983431757101@hc05/11689/thmb.jpg?s=s&r=1164385634&t=n" border="0"></a><br /><br />言葉としての「自立」とその歴史的背景　－明治期における自立観－
言葉としての「自立」
　まず、われわれが日常的に用いている「自立」という言葉の意味はどうであるのか。一般的な国語辞典である『広辞苑（第5版）』では「他の援助や支配を受けず自分の[354]<br />言葉としての「自立」とその歴史的背景　－明治期における自立観－
言葉としての「自立」
　まず、われわれが日常的に用いている「自立」という言葉の意味はどうであるのか。一般的な国語辞典である『広辞苑（第5版）』では「他の援助や支配を受けず自分の力で身をたてること。ひとりだち。」とある。また、『大辞林（第2版）』では、「他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立。」とある。
　われわれは日常生活においてこのように、「親からひとりだちして生計をたてる」といった意味で「自立」を用いており、「他からの援助や支配を受けない」「自分の力で」ということが含まれている。そして、それを理想の状態あるいは望ましい状態としてとらえているのである。
　このような意味で「自立」を捉えた場合、それに近い意味の言葉として「自助」が挙げられる。『広辞苑（第5版）』には「自分で自分の身を助けること。他人に依頼せず、自分の力で自分の向上・発展を遂げること」とあり、『大辞林（第2版）』には「他の力に依存せず、独力で事をなすこと」とある。
　このように「自助」と同様の意味で「自立」が用いられ、それが理想の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[基礎教育?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429423901@hc06/11319/]]></link>
			<author><![CDATA[ by impreza9191]]></author>
			<category><![CDATA[impreza9191の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 06 Nov 2006 15:54:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429423901@hc06/11319/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429423901@hc06/11319/" target="_blank"><img src="/docs/983429423901@hc06/11319/thmb.jpg?s=s&r=1162796078&t=n" border="0"></a><br /><br />欧米における教育の源流は古代ギリシア・ローマにまで遡る。ギリシアの代表的な都市スパルタとアテナイでは少数の自由民が奴隷を支配し、かつ外敵とも戦う必要があった為軍事教育が全てにおいて優先され、男子は良き戦士になる為女子は良き戦士の母となるため[360]<br />「教育の目的の歴史的変遷について述べよ。」
　欧米における教育の源流は古代ギリシア・ローマにまで遡る。ギリシアの代表的な都市スパルタとアテナイでは少数の自由民が奴隷を支配し、かつ外敵とも戦う必要があった為軍事教育が全てにおいて優先され、男子は良き戦士になる為女子は良き戦士の母となるための教育がなされていた。
　その後ソクラテスによって人間性尊重の考え方が生まれる。その考えは弟子のプラトンに受け継がれさらに彼は芸術の教育的意義を認めた。また、一部の制約があるが「教育とは一部の特権階級のものでは無く一般人に対しても同じく必要である」という近代的教育思想の源流を生み出したのも彼の注目すべき点と言える。
　ローマ時代の教育目的はギリシア時代のそれの延長上に考えられるが、国家への奉仕だけでは無く具体的な生活に役に立つものを学ぶことも教育目的とされた。この傾向は具体性を求める法律を発達させることになった。
　中世に入るとカトリック教会の教育支配により来世の為の教育が主張されるようになり、階級制の限界があるにせよかつて求められた人との調和というような個人的なものは否定されるようになった。そんな中学問..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本人の世界観とキリスト教の世界観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432264501@hc05/10960/]]></link>
			<author><![CDATA[ by justin]]></author>
			<category><![CDATA[justinの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 21 Sep 2006 16:11:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432264501@hc05/10960/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432264501@hc05/10960/" target="_blank"><img src="/docs/983432264501@hc05/10960/thmb.jpg?s=s&r=1158822664&t=n" border="0"></a><br /><br />「日本人の世界観」とは日本の文化と伝統である。これ以外には絶対にあり得ない。日本の文化と伝統は長い過去の歴史において、世界の多くの国々から学びとりそれを育成して来た。この過去の業績を大切にしなければならない。外から来るものをただ拒むのではな[360]<br />日本人の世界観とキリスト教の世界観
　「日本人の世界観」とは日本の文化と伝統である。これ以外には絶対にあり得ない。日本の文化と伝統は長い過去の歴史において、世界の多くの国々から学びとりそれを育成して来た。この過去の業績を大切にしなければならない。外から来るものをただ拒むのではなく、それを統合発展させる道こそ、我々民族に与えられたものなのである。日本人は古来より自然を愛しこれを育んで来た。自然界のあらゆるものに神が宿っているものとしてこれを敬い大切にしてきた。自然の恩恵を神とする精神文明を守り育ててきたのである。「日本人の世界観」とはまずなによりも、この神と一体となった日本民族の信念でなければならない。それが日本人の世界観の基本をなすものである。神・国家・家、それらが一体となってこそ日本人は日本的世界観を自分のものとすることができる。万世一系の天皇、私たちの国の体系の基本である日本的世界観は長い日本の歴史の中に『道』として存在して来たのである。この『道』を広く世界に紹介し進めることこそ我々の使命である、と考えていたかつての戦前の日本人はこれを「八紘一宇」の精神と呼び、その信念を貫いて戦っ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 精神医療の歴史を踏まえ、精神医学の概念について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430758301@hc06/10861/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pastel]]></author>
			<category><![CDATA[pastelの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 31 Aug 2006 17:20:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430758301@hc06/10861/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430758301@hc06/10861/" target="_blank"><img src="/docs/983430758301@hc06/10861/thmb.jpg?s=s&r=1157012438&t=n" border="0"></a><br /><br />「精神医療の歴史を踏まえ、精神医学の概念について述べよ。」
１．西洋の歴史
古代ギリシャの時代には、精神障害は病気と見なされていたようであった。しかし、中世になるとキリスト教が広まり、精神障害は病気ではなく、悪魔の仕業・神の罰であるとい[352]<br />「精神医療の歴史を踏まえ、精神医学の概念について述べよ。」
１．西洋の歴史
　古代ギリシャの時代には、精神障害は病気と見なされていたようであった。しかし、中世になるとキリスト教が広まり、精神障害は病気ではなく、悪魔の仕業・神の罰であるという宗教的な考えが常識となってしまった。その為、多くの精神障害者は一般社会から迫害され、寺院の地下室等に鎖で繋がれたり、魔女狩りと称して火あぶりにされるなど、不当な扱いを受けたのである。
　18世紀になってから、精神障害者の治療、管理がようやく医師の手に委ねられるようになったが、その当時はまだ監禁・収容が中心であった。そのような時代の中で、1793年にフランスのピセートル精神病院の院長になったP.ピネルは、精神障害者を鎖から解放し病める人間として扱ったのである。それにより、このような認識がヨーロッパ各地に広がっていった。19世紀前半にはイギリスで、W.テュークが｢ヨーク診療所｣を設立し、精神障害者の人間性の尊重・自由・労働を強調し、いわゆる｢道徳療法｣を始めた。また、同じくイギリスのJ.コノリーが、精神障害者に対し｢無拘束の原則｣を確立した。このように、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[教育史上の重要人物]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10570/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lka9i3ak]]></author>
			<category><![CDATA[lka9i3akの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 17 Aug 2006 23:51:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10570/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10570/" target="_blank"><img src="/docs/983431673501@hc05/10570/thmb.jpg?s=s&r=1155826309&t=n" border="0"></a><br /><br />ソクラテス産婆術( 問答法) 「汝自身を知れ」
開発主義「徳は知なり」
プラトン『国家篇』アカデメイアを建設
アリストテレス『政治学』リュケイオンを建設
コメニウス『大教授学』「あらゆる人にあらゆることを教える」
ロック『教育に関[332]<br />人物名 キーワード 説明・補足
ソクラテス 産婆術 ( 問答法 ) 「汝自身を知れ」
開発主義 「徳は知なり」
プラトン 『国家篇』 アカデメイアを建設
アリストテレス 『政治学』 リュケイオンを建設
コメニウス 『大教授学』 「あらゆる人にあらゆることを教える」
ロック 『教育に関する考察』 「健全な精神は健全な身体に宿る」
ルソー 『エミール』 「造物主の手をはなれるときはすべてのものが善であるが、
人間の手に移されるとすべてものが悪となる」
カント 『教育学講義』 「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」
「人間は教育によってはじめて人間になる」
コンドルセ 『公教育の本質と目的』 「国民教育は公権力の当然の義務である」
ペスタロッチ 『隠者の夕暮れ』 「玉座の上にあっても木の葉の蔭に住まっても同じ人間、
その本質からみた人間、そも彼は何であるか」
『白鳥の歌』 「生活が陶冶する」
ヘルバルト 『一般教育学』 「私は教授のない教育などというものの存在を認めない
し、また逆に、教育しないいかなる教授も認めない」
ツィラー ヘルバルト学派 五段階教授法
（分析 総合 連合..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[同和問題の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10569/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lka9i3ak]]></author>
			<category><![CDATA[lka9i3akの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 17 Aug 2006 23:48:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10569/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673501@hc05/10569/" target="_blank"><img src="/docs/983431673501@hc05/10569/thmb.jpg?s=s&r=1155826124&t=n" border="0"></a><br /><br />1582 豊臣秀吉、太閤検地を行い兵農を分離
1588 刀狩令を発布、兵農分離を促進( 近代の身分制度の基盤を築く)
1603 徳川幕府の下で士農工商という身分制度が確立
1716 享保の改革( この頃から身分制度が強化される)
1[290]<br />同和問題の歴史
豊臣秀吉、 を行い兵農を分離 1582 太閤検地
( 近代の身分制度の基盤を築く) 1588 刀狩令を発布、兵農分離を促進
徳川幕府の下で という身分制度が確立 1603 士農工商
( この頃から身分制度が強化される ) 1716 享保の改革
( 差別が拡大強化される ) 1778 穢多 非人 ・ の風俗矯正を布告
( 岡山藩は財政難により、服装は渋染にせよと命令したが、差別された人々は団結し、命令を取りやめさせた ) 1855 渋染一揆
第 号 公布 1871 61 太政官布告 （解放令 ）
( 初の全国的戸籍 廃止された旧身分が再び記載された ) 1872 壬申戸籍編成
三好伊平次、備作平民会結成 1902
大江卓、帝国公道会結成 1914
( 自らの手で差別と貧困からの解放を実現するため、経済的・職業自由を要求 1922 全国水平社結成
「人の世に熱あれ、人間に光あれ。」という水平社宣言を採択 )
中央融和事業協会 に改善団体・融和団体が合併 1927 ( &larr;結成は 年 ) 1925
( 全国水平社の歴史と伝統を受け継ぎ、部落差別の撤廃と人権社会確立が目的 ) 1..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国富論　第一篇前半レジュメ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430668701@hc06/10561/]]></link>
			<author><![CDATA[ by xjapan]]></author>
			<category><![CDATA[xjapanの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 17 Aug 2006 13:55:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430668701@hc06/10561/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430668701@hc06/10561/" target="_blank"><img src="/docs/983430668701@hc06/10561/thmb.jpg?s=s&r=1155790531&t=n" border="0"></a><br /><br />第一章	分業
分業―生産力増大
農産物生産力
フランス＞ポーランド
価格と品質
ポーランド＞フランス
製造業生産力
品質・価格・生産力
工業国＞農業国
分業による生産力の向上の原因
?技術増進
?他の仕事に移るときの習[310]<br />国富論　第一篇　前半　レジュメ
分業
分業―生産力増大
農産物生産力
フランス＞ポーランド
価格と品質
ポーランド＞フランス
製造業生産力
品質・価格・生産力
工業国＞農業国
分業による生産力の向上の原因
技術増進
他の仕事に移るときの習得（時間）コストの節約
機械の発明
精神を単一の方向に向けている方が集中できる
分業はなぜおこるのか
ものを交換するから
&rArr;契約によって成り立つ
人間は社会的動物
自分の生産物余剰を他人と交換して生きる
分業は市場の大きさによって制限される
分業と市場規模は比例
第四章　貨幣の起源と使用
貨幣・・・交換する際、誰もが拒否しないような商品
金属貨幣・・重い、図る..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 社会政策の時代区分]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/10391/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sugiyama]]></author>
			<category><![CDATA[sugiyamaの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 09 Aug 2006 11:37:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/10391/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/10391/" target="_blank"><img src="/docs/983432196501@hc05/10391/thmb.jpg?s=s&r=1155091058&t=n" border="0"></a><br /><br />社会政策の時代区分

　社会政策の時代区分は大きく4つの区分に分かれる。第一の区分は家父長制的社会政策期であり、絶対主義の時代がこれに該当する。この時期は資本主義の勃興期であり、、社会政策は資本主義による社会変化を抑えようとする地主の利[350]<br />社会政策の時代区分
　社会政策の時代区分は大きく4つの区分に分かれる。第一の区分は家父長制的社会政策期であり、絶対主義の時代がこれに該当する。この時期は資本主義の勃興期であり、、社会政策は資本主義による社会変化を抑えようとする地主の利害を反映したものであった。具体的には浮浪と貧困を罰し、中世的秩序を保持しようとした労働者規正法や家父長制的に救済を行おうとした救貧法といった政策が採られた。
　第二の区分は自由主義的社会政策の時代である。この時代は産業革命後、資本主義が発展し、自由主義的思想が経済政策のみならず、社会政策にも反映されるようになる。この時期の社会政策の特徴は資本家の利害を擁護するもの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日米開戦に至る過程について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 26 Jul 2006 02:35:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/10016/thmb.jpg?s=s&r=1153848921&t=n" border="0"></a><br /><br />目次
１．はじめに
２．日中戦争の長期化
３．中国情勢を巡る日米対立
４．日米交渉の開始
５．おわりに
参考引用文献

１．はじめに
　日本は1931年の満州事変以降、軍部が政治の主導権を握り、アジア大陸への軍事的発展を進めていき、無謀な対[334]<br />日米開戦に至る過程について
目次
１．はじめに
２．日中戦争の長期化
３．中国情勢を巡る日米対立
４．日米交渉の開始
５．おわりに
１．はじめに
　日本は1931年の満州事変以降、軍部が政治の主導権を握り、アジア大陸への軍事的発展を進めていき、無謀な対米戦争へ突入し敗れて、戦後再出発を図ることとなる。
　歴史にもしもは禁物であるが、果たして日本は無謀な対米戦争を阻止する機会というものはあったのだろうか。このことを踏まえつつ、本稿では日米開戦に至る過程について中国情勢を巡る日米対立を交えながら述べていく。
２．日中戦争の長期化
日中戦争は1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた日本軍が、何者かから射撃を加えられたことで始まった日中両軍の軍事衝突が発端になった。
この軍事衝突を巡って停戦への話し合いが始まり、局地紛争として処理されるに見えたが、この時日本陸軍の内部には｢この機会に中国軍に対して鉄槌を加えるべし｣という強硬論が有力になり、政府は華北への派兵を決定した。以後中国側に一撃を加えて、それによって華北での日本の基盤を固める必要があるという考え方が政府中央で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[朝鮮の歴史と文化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431718301@hc05/9906/]]></link>
			<author><![CDATA[ by baikun]]></author>
			<category><![CDATA[baikunの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 22 Jul 2006 01:28:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431718301@hc05/9906/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431718301@hc05/9906/" target="_blank"><img src="/docs/983431718301@hc05/9906/thmb.jpg?s=s&r=1153499327&t=n" border="0"></a><br /><br />僕がこのレポートを書く際に取り上げた書籍は「朝鮮短編小説撰」である。まず、幼い頃より小説が好きで、というよりは詩とはほとんど関わりがなく鑑賞文などが付いていないとせっかくのこの時期の人々の残そうとしたメッセージや時代背景などを読み取ることが[360]<br />僕がこのレポートを書く際に取り上げた書籍は「朝鮮短編小説撰」である。まず、幼い頃より小説が好きで、というよりは詩とはほとんど関わりがなく鑑賞文などが付いていないとせっかくのこの時期の人々の残そうとしたメッセージや時代背景などを読み取ることが難しく小説の方がダイレクトにそれが伝わってくると思ったのがこれを選んだ理由である。現に今回の題材選びは正解だったと思うし、僕なりに考えさせられるところはあったと思う。また、図書館やら紀伊国屋の全店（関東地区）を調べてもらったがこれの上巻しか読むことができなかったことが残念であった。
最後まで読んでみて、迷ったのだが「笞刑」と「金講師とT教授」が強烈に印象に残..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「『気』で読む中国思想」を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429899901@hc06/9898/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rikumusu]]></author>
			<category><![CDATA[rikumusuの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 21 Jul 2006 08:01:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429899901@hc06/9898/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429899901@hc06/9898/" target="_blank"><img src="/docs/983429899901@hc06/9898/thmb.jpg?s=s&r=1153436473&t=n" border="0"></a><br /><br />日本人私たち、特に若年層にはほとんど馴染みのない、『気』というものをフィルターとして中国の歴史をながめた本書は、膨大な歴史書の中でも鮮烈なメッセージを放っているように思う。私たちが知っている中国の偉人たちのほとんどが著書の中で『気』について[360]<br />「『気』で読む中国思想」を読んで
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
中国の歴史に触れようとする時、他の地の歴史と比較して驚くのは、そのアプローチの可能性が実に多様であることだ。歴史区分の方法、文化芸術宗教思想、民族の歴史、文字の歴史、女性史、偉人の伝記など様々なテーマの組み合わせによって、その数は図り知れないものとなっている。
日本人私たち、特に若年層にはほとんど馴染みのない、『気』というものをフィルターとして中国の歴史をながめた本書は、膨大な歴史書の中でも鮮烈なメッセージを放っているように思う。私たちが知っている中国の偉人たちのほとんどが著書の中で『気』について自らの見解を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[児童福祉の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431482801@hc05/9218/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hinafumi]]></author>
			<category><![CDATA[hinafumiの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 27 Jun 2006 16:24:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431482801@hc05/9218/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431482801@hc05/9218/" target="_blank"><img src="/docs/983431482801@hc05/9218/thmb.jpg?s=s&r=1151393083&t=n" border="0"></a><br /><br />わが国最初の児童救済は、聖徳太子が設けた悲田院で、孤児・捨て子の救済に当てたとされる。江戸時代には､堕胎や間引き、捨て子などが行われたが、1767年に「間引き禁止令」が出された。
明治時代に入ると､1868年「堕胎禁止令」が布告され､18[336]<br />■児童福祉の歴史
　わが国最初の児童救済は、聖徳太子が設けた非田院で、孤児・捨て子の救済に当てたとされる。江戸時代には､堕胎や間引き、捨て子などが行われたが、1767年に「間引き禁止令」が出された。
明治時代に入ると､1868年「堕胎禁止令」が布告され､1871年には「棄児養育米給与方」や「三子出産の貧困者への養育料給与方」が制定される。児童福祉施設では、1879年福田会育児院、1872年仁慈堂、1874年浦上養育院、1887年岡山孤児院（石井十次）1890年博愛社（小橋勝之助）などがある。非行・犯罪に対する対応では､不良少年などを保護する家庭学校などが設けられ､感化教育を行うべく1900年「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[縄文人の生活]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430203801@hc06/9187/]]></link>
			<author><![CDATA[ by un11m1t3d]]></author>
			<category><![CDATA[un11m1t3dの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 24 Jun 2006 23:35:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430203801@hc06/9187/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430203801@hc06/9187/" target="_blank"><img src="/docs/983430203801@hc06/9187/thmb.jpg?s=s&r=1151159745&t=n" border="0"></a><br /><br />約1万2千年前から、日本は縄文文化が広がっていた。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁、植物の採取と調理、後には栽培など、様々な手段と工夫を用いて生活をしていた。三内丸山遺跡を例にあげて述べる。　
　三内丸山[352]<br />約1万2千年前から、日本は縄文文化が広がっていた。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁、植物の採取と調理、後には栽培など、様々な手段と工夫を用いて生活をしていた。三内丸山遺跡を例にあげて述べる。　
　三内丸山遺跡は、青森県の郊外にある。推定される範囲は約35ヘクタールと広大で、住居・墓・倉庫語・ゴミ捨て場・祭祀の空間などの様々な施設が、一定の場所に整然と配列され、計画的な集落づくりが行われていた。集落の存続期間は約1500年間ときわめて長い。また、出土遺物品の数も膨大で、豊富な情報が埋蔵されている。
　遺物として、縄文式土器や竪穴式住居が多く見つかっている。狩猟具..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 広島市中心部の移り変わり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9145/]]></link>
			<author><![CDATA[ by binkanboy]]></author>
			<category><![CDATA[binkanboyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Jun 2006 04:10:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9145/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9145/" target="_blank"><img src="/docs/983430219101@hc06/9145/thmb.jpg?s=s&r=1150917008&t=n" border="0"></a><br /><br />私は自分の出身地である、広島県広島市について調査しました｡しかし広島市全域にすると、大変広くなってしまうため、現在の広島市の中心街である広島城の周辺に調査範囲を限定しました｡その地域の江戸時代から現在への町並みの変化を中心に調査しました｡[358]<br />広島市中心部の
　　　移り変わり
私は自分の出身地である、広島県広島市について調査しました｡しかし広島市全域にすると、大変広くなってしまうため、現在の広島市の中心街である広島城の周辺に調査範囲を限定しました｡その地域の江戸時代から現在への町並みの変化を中心に調査しました｡
　はじめに、今回調査した広島市の中心部の地理的特徴として、東と北と西の三面を山に囲まれ、南は海に向かって開かれた地域であり、中国山地に源を発している太田川が、河口付近でくも手に分かれて三角州を形成していて、その三角州上に発展している事がある。広島の市街地に入ると、太田川は次第に分流をして、六筋にもなっている｡
現在の広島の中心市街地は、広島城があることからわかるように、かつては城下町として栄えていた｡その広島城は１５９９年に毛利元就の孫の、輝元によってつくられた。それから城下町として栄え始め、江戸時代では南北３．８キロ、東西３．５キロで人口は約５万人にもなった。広島城が建てられたころから、太田川の分流の治水も始まり、城下町は川に分断されて六つに分かれていた｡加えて、多くの堀と二本の運河も存在していた｡そして、広島城南..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 文京区の都市計画と歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by binkanboy]]></author>
			<category><![CDATA[binkanboyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Jun 2006 03:13:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9132/" target="_blank"><img src="/docs/983430219101@hc06/9132/thmb.jpg?s=s&r=1150913604&t=n" border="0"></a><br /><br />文京区は東京都23区の中心部に位置し、古くからの史跡・文化財、由緒ある公園、植物園等を多く擁し、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉など多くの文人ゆかりの地でもあり、緑豊かな文化の香り高いまちとして発展してきた。
私は東京ドームや後楽園，東京大学な[352]<br />文京区の都市計画と歴史
　文京区は東京都23区の中心部に位置し、古くからの史跡・文化財、由緒ある公園、植物園等を多く擁し、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉など多くの文人ゆかりの地でもあり、緑豊かな文化の香り高いまちとして発展してきた。
私は東京ドームや後楽園，東京大学など，歴史と関係が深い水道橋から後楽一丁目，本郷について調べることにした。地図を見ても分かるように水道橋は江戸の頃から水道橋と名前がついており，これは東京都の水道の歴史と大きく関係している。
豊臣秀吉の小田原攻めの後，徳川家康が関東を領有することになった。家康は江戸を関東支配の本拠地と決めたが，家康が始めて入国した頃（1590年）の江戸は寒村だった。台地には小さな川や湧き水があったが，低地では井戸を掘っても，その水質は塩分が強くて飲料水として使用できなかった。江戸の町に住む人々の生活用水を確保することが重要であると考えた家康は，江戸入国に当たって，家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じ，小石川上水を造ったといわれている。「小石川上水」（後の神田上水）は関口で分水され、小日向台、小石川台のすそをまいて元水戸藩邸、現在の「後楽園..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 東京の都市成立の歴史と現在の交通問題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9127/]]></link>
			<author><![CDATA[ by binkanboy]]></author>
			<category><![CDATA[binkanboyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Jun 2006 02:54:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9127/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9127/" target="_blank"><img src="/docs/983430219101@hc06/9127/thmb.jpg?s=s&r=1150912476&t=n" border="0"></a><br /><br />私は現代の都市問題について、具体例として日本の首都東京を考えてみようと感じました｡まず始めに、近代から現在にかけての、都市計画の行われ方の変容を考えて、次に現代の東京の都市問題について考えました｡
　日本で近代的な都市整備が行われるように[356]<br />　
東京の都市成立の歴史と現在の交通問題
　私は現代の都市問題について、具体例として日本の首都東京を考えてみようと感じました｡まず始めに、近代から現在にかけての、都市計画の行われ方の変容を考えて、次に現代の東京の都市問題について考えました｡
　日本で近代的な都市整備が行われるようになったのは、明治維新によって、日本が近代的な国家に向かって歩みだした時からであった｡明治５年に東京が大火に襲われたこともあり、その後の明治２１年に市区改正条例が公布され、完璧なものではないが、都市計画が制度として明確に定められた｡この条例の制定によって、都市全体について計画や事業のあり方が定められた｡しかし、市区改正条例による都市整備の計画は長期的な計画であったため、短期的な修正が求められ、また社会情勢の変化もあり、主として市街鉄道敷設のための中心部の道路整備にとどまった｡
　第一次世界大戦から、日本の産業が急激に発展し、人や工業の都市集中が盛んになった｡そのために、計画的な整備の必要性が高まり、大正８年に市区改正条例に代わって都市計画法と市街地建築物法が制定された｡これによって、建築と都市についての本格的な..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 新都市開発]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9107/]]></link>
			<author><![CDATA[ by binkanboy]]></author>
			<category><![CDATA[binkanboyの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 21 Jun 2006 17:47:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9107/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430219101@hc06/9107/" target="_blank"><img src="/docs/983430219101@hc06/9107/thmb.jpg?s=s&r=1150879656&t=n" border="0"></a><br /><br />１：東京の一極集中を解決するために
　高度経済成長、オリンピックと1960年代は日本も戦後の貧しさから抜け、大きく成長していった時期である。そのころ、東京の人口も年々増え続け、1962年には1000万人を超え、首都高速、新幹線、モノレール[332]<br />１：東京の一極集中を解決するために
　高度経済成長、オリンピックと1960年代は日本も戦後の貧しさから抜け、大きく成長していった時期である。そのころ、東京の人口も年々増え続け、1962年には1000万人を超え、首都高速、新幹線、モノレールなどあらゆる都市インフラが整備された。そうした東京の状況は、東京への人口集中を助長し、交通問題、住居不足などの都市問題を生んだ。
　このような東京の過密や一極集中を防ぐために、政府は1956年に首都圏整備委員会を設置し、東京都内にある大学や官公庁を東京から100km圏内のある場所に移して東京の人口を削減し、残された土地を有効利用し過密問題を解決しようとする「研究学園都市構想」を提案した。
２：筑波に新都市が開発された経緯
　首都圏整備委員会は、その候補地の条件として
首都圏内の東京からおよそ70kmから100km離れている
3000ha以上の土地
として、富士山麓、赤城山麓、那須高原、筑波山麓の4つが候補としてあがった。しかし、その中から筑波地区が選ばれた理由として
東京に近く、本省へ日帰り可能であった。
　筑波は東京から約60kmと他の候補地よりも近..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[  アショーカ王のダルマ政治]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431079801@hc06/8695/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rkcpp554]]></author>
			<category><![CDATA[rkcpp554の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Jun 2006 11:15:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431079801@hc06/8695/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431079801@hc06/8695/" target="_blank"><img src="/docs/983431079801@hc06/8695/thmb.jpg?s=s&r=1149128133&t=n" border="0"></a><br /><br />アショーカ王は、王位継承後しばらくの間、領土を拡大するための政策を推進して、即位してから8年後にカリンガ国を征服した。けれども、この戦争は数十万人もの犠牲者を出してしまったのである。ここでアショーカ王は、この戦争でバラモンや他の宗教者、道徳[358]<br />ダルマの政治の開始
　アショーカ王は、王位継承後しばらくの間、領土を拡大するための政策を推進して、即位してから8年後にカリンガ国を征服した。けれども、この戦争は数十万人もの犠牲者を出してしまったのである。ここでアショーカ王は、この戦争でバラモンや他の宗教者、道徳的に正しい生活をおくっている民衆が犠牲者になにかしらなってしまったことに心を痛め、悲痛と感じるようになったという。そして、後悔の念から多くの死傷者を出す武力征服策を放棄して、「ダルマによる勝利こそ最大の勝利」であると思い、熱心にダルマを遵奉し、ダルマを愛慕し、官吏や人民にダルマを教示する決意を固めたと公言している。私が思うに、こうしたダルマの政治の開始はアショーカ王の仏教信仰と密接に関係していると思う。
アショーカ王はカリンガ戦争後ほどなく仏教信者となって、最初の1年間は熱心な信者ではなかったが、態度を改め、仏教教団に近づき熱心に努力するようになった。そして、アショーカ王が最初に発布した小磨崖法勅は、王が仏教信仰を深めた過程を官吏や民衆に示し、彼らを教導しようとしたものであった。また、仏教教団に近づいて熱心に努力した1年余りの間..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[何故歴史の勉強をしなければならないのか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/8663/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 北川]]></author>
			<category><![CDATA[北川の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 29 May 2006 16:12:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/8663/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/8663/" target="_blank"><img src="/docs/983430351901@hc06/8663/thmb.jpg?s=s&r=1148886756&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史、というのは過去に起こったことを勉強する学問である。
「過去を知る」というのは勉強だけでなく、人が生きていく中で最も基本的な行動だ。人間は自分のことにしろ他のもののことにしろ、過去を知らなければ生きていくことはできない。
　生き物に[352]<br />「何故歴史の勉強をしなければならないのか」
　歴史、というのは過去に起こったことを勉強する学問である。
「過去を知る」というのは勉強だけでなく、人が生きていく中で最も基本的な行動だ。人間は自分のことにしろ他のもののことにしろ、過去を知らなければ生きていくことはできない。
　生き物には学習能力というものがあって、過去に自分がやったことを記憶しているからこそ、向上できる。例えば、何か問題が起こったときに、行動に五つの選択肢A,B,C,D,Eがあったとする。最初はどの選択肢を選べばいいのかわからない。行動Bを選び、その結果問題が解決されれば同じ問題が起こったときもその通りにしていれば良い。問題が解決..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[岸信介と日米安保条約改定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/8380/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 May 2006 01:23:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/8380/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/8380/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/8380/thmb.jpg?s=s&r=1147623809&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
　本発表では、戦後首相として安保改定を実行した岸信介について発表する。具体的には岸が安保改定構想を抱くに至った岸の考えや、安保改定に対しての国民的反発について見ていこうと思う。
２．岸信介について
　(１)岸信介のプロフィール[350]<br />岸信介と日米安保条約改定
目次
１．はじめに
２．岸信介について
(１)岸信介のプロフィール　　(２)岸信介内閣の政策
３．日米安保条約改定の経過
(１)日米安保条約について　　(２)安保改定交渉の開始　　
(３)安保改定阻止国民会議の結成　　(４)安保改定反対の論拠　　(５)安保闘争の経緯　　
(６)Ｕ２型機撃墜事件　　(７)５・１９の強行採決　　(８)反対運動の拡大
４．高度経済成長の時代へ
５．おわりに～今後の課題
参考・引用文献
１．はじめに
　本発表では、戦後首相として安保改定を実行した岸信介について発表する。具体的には岸が安保改定構想を抱くに至った岸の考えや、安保改定に対しての国民的反発について見ていこうと思う。
２．岸信介について
　(１)岸信介のプロフィール
　岸信介(1896～1987)
　戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導。東条内閣では商工大臣を務めた。そのため戦後、Ａ級戦犯容疑者として逮捕された。公職追放が解けると、新憲法に象徴される戦後体制の打破と反共体制の確立を目指して政界復帰する。日本民主党、自由民主党の幹事長を就任後、首相の座に就いて安保改定を強行..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『図書館の興亡』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430609001@hc06/7767/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sachie1984]]></author>
			<category><![CDATA[sachie1984の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 01 Apr 2006 11:23:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430609001@hc06/7767/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430609001@hc06/7767/" target="_blank"><img src="/docs/983430609001@hc06/7767/thmb.jpg?s=s&r=1143858183&t=n" border="0"></a><br /><br />&quot;The English Common Reader&quot; の第四章The Social Background(社会的背景)の冒頭部には次のように書かれている。（１９世紀イギリスでは、大きな社会変化を背景に、大衆の人々の読書が広まっていった。）[258]<br />　　『図書館の興亡』を読んで
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
&quot;The English Common Reader&quot; の第四章The Social Background(社会的背景)の冒頭部には次のように書かれている。（１９世紀イギリスでは、大きな社会変化を背景に、大衆の人々の読書が広まっていった。）&quot;The mass reading publiic developed in nineteenth-century England against a background of profound social change.&quot;　１９世紀以前のイギリスの歴史において、本を読むという行為は貴族だけに限られたものであり、一般大衆のすることとは見做されていなかった。しかし１９世紀になり、本を読むという行為が一般的なものとして広まったのは、知識の普及だけではなく、さまざまな社会的意味をもっていることに違いないであろう。本講義の中で、どういう過程で本を読む行為が広まっていったか、また読書がどのように社会に影響を与えたのかを&quot;The English Common Reader&quot;を通し知る事がで..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【早稲田大学】教育実習の報告]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/7698/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 【現役私立中教師】daisuke]]></author>
			<category><![CDATA[【現役私立中教師】daisukeの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 23 Mar 2006 19:23:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/7698/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/7698/" target="_blank"><img src="/docs/983431933401@hc05/7698/thmb.jpg?s=s&r=1143109438&t=n" border="0"></a><br /><br />１、	教壇実習、教材研究
　最初の1週間は授業の見学をした。このとき感じたことは、歴史の授業は興味深いエピソードや雑談がないと教科書さえ開かない生徒がいるということである。そこで生徒の興味のも持てる授業をすることを目指し教材研究を行った。[352]<br />教育実習(中２歴史的分野)の報告　　　　　　　
教壇実習、教材研究
　最初の1週間は授業の見学をした。このとき感じたことは、歴史の授業は興味深いエピソードや雑談がないと教科書さえ開かない生徒がいるということである。そこで生徒の興味のも持てる授業をすることを目指し教材研究を行った。
　教科書では1行しか書かれていない史実のために本を読み理解を深めることが必要だった。関が原の戦いの場面のプリント配布、江戸時代の寛永通宝のモデルをつくってクイズを行った。また被差別民族の所でも現在(2005年)の部落問題も取り上げ、興味・関心を生徒がもてるよう留意した。
　授業では、教材研究をしっかり行ったことで自信..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[道徳教育の変遷]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7437/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ryo1987221]]></author>
			<category><![CDATA[ryo1987221の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 10 Mar 2006 22:25:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7437/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7437/" target="_blank"><img src="/docs/983431259101@hc06/7437/thmb.jpg?s=s&r=1141997149&t=n" border="0"></a><br /><br />　西洋教育思想史にでは当初から道徳教育は、教育課程の真の中核をなすものとしてみられてきた。この頃から道徳教育は教育の中心的特質であったといえる。今日の日本の教育の目的が人格の完成を目指すということになっているように、あらゆる学問や芸術や技術[360]<br />「道徳教育の変遷」
　西洋教育思想史にでは当初から道徳教育は、教育課程の真の中核をなすものとしてみられてきた。この頃から道徳教育は教育の中心的特質であったといえる。今日の日本の教育の目的が人格の完成を目指すということになっているように、あらゆる学問や芸術や技術やスポーツなどの技能の向上にしても、それらの学業を通じて学問や芸術や技術を自己実現や社会や人類の福祉に活用できるような道徳的教養人の育成が教育という営みの社会的な存在理由であった。このことは、西洋教育史上のすべての偉大な教育思想家や教育実践家に共通してみられる特徴である。
　古代ギリシャのソクラテス（４６９～３９９、ＢＣ）にとって、徳とは善についての知識であった。元来、徳は、ギリシァ語の語源では力とか男らしさを意味し、そこから道徳的な意味を持つようになった。したがって、それは常に確実に道徳的理想あるいは法則に従って意思を決定することができる人格能力であった。
　プラトン（４２７～３４７、ＢＣ）においても、教育の目的は徳への知識能力を神から賜った人を訓練して、有徳な人にする知識を習得させることであった。教育は善についての観念的知識か..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ ジョン・ロックにおける子どもの教育論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7431/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ryo1987221]]></author>
			<category><![CDATA[ryo1987221の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 10 Mar 2006 21:45:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7431/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431259101@hc06/7431/" target="_blank"><img src="/docs/983431259101@hc06/7431/thmb.jpg?s=s&r=1141994715&t=n" border="0"></a><br /><br />　ジョン・ロックの提唱した教育論、すなわち紳士教育とは一体どのようなものであろうか。
　まず、『紳士が健全な身体と道徳と知識を持っている者』であることを押さえなければならない。そしてそれを最終目標としたのが紳士教育である。ロックは紳士が『[356]<br />「ジョン・ロックにおける子どもの教育論」
　ジョン・ロックの提唱した教育論、すなわち紳士教育とは一体どのようなものであろうか。
まず、『紳士が健全な身体と道徳と知識を持っている者』であることを押さえなければならない。そしてそれを最終目標としたのが紳士教育である。ロックは紳士が『理性、宗教、良きしつけを基礎として育成されるものとした』。そしてそれは『日々の道徳教育機関である家庭によって達成しうる』と説いた。すなわち、ロックは家庭教育こそ教育の原点であると考えたのである。
では、その紳士を目標とした教育はどのようなものだったのか。ロックは、子どもは生まれたその時には善でも悪でもなく、まだ白紙で無の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[百済史における倭との関係について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7176/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuueri]]></author>
			<category><![CDATA[yuueriの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Mar 2006 16:28:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7176/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430739001@hc06/7176/" target="_blank"><img src="/docs/983430739001@hc06/7176/thmb.jpg?s=s&r=1141284512&t=n" border="0"></a><br /><br />現在友好関係があまり思わしくない朝鮮半島の北朝鮮・韓国との日本の関係性を考える上で、「戦争」というのは避けては通れない問題だと思う。今回は朝鮮史の中でも百済史とのことなので、当時朝鮮半島の中では比較的日本(倭国)とも友好的だったといわれてい[356]<br />百済史における倭との関係について
　現在友好関係があまり思わしくない朝鮮半島の北朝鮮・韓国との日本の関係性を考える上で、「戦争」というのは避けては通れない問題だと思う。今回は朝鮮史の中でも百済史とのことなので、当時朝鮮半島の中では比較的日本(倭国)とも友好的だったといわれている百済と倭国の関係(主に当時の交流と白村江の戦い)について調べ、レポートとして提出することにする。
　まず、百済の成立とその概要を見てみることにする。正確な百済の成立年代はまだ分かっていないが、少なくとも3世紀後半から4世紀初頭に起こった国だといわれている。百済の建国には諸説があり、未だにその歴史は謎につつまれたままである。『朝鮮半島の考古学』の第6章で早乙女さんはこう書いている。馬韓の50余国のうち伯済国が成長して百済となった。『晋書』四夷伝馬韓条をみると、太煕元年(290年)に晋に上献したのを最後に馬韓は中国資料から姿を消し、再登場したときには、百済という名称にかわり、咸安2年(372年)に晋に使いを送っている(『晋書』簡文帝紀)。おそらくこの間に百済が成立したとみてよい。その後、百済は朝鮮半島に同時期にあった..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[小学校６年生社会科学習指導案]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7106/]]></link>
			<author><![CDATA[ by harumonen]]></author>
			<category><![CDATA[harumonenの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2006 18:46:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7106/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7106/" target="_blank"><img src="/docs/983430726801@hc06/7106/thmb.jpg?s=s&r=1140860771&t=n" border="0"></a><br /><br />〔単元〕明治維新「新しい日本」（１／６）
〔目標〕
江戸時代から明治時代に至るまでの時代の流れを理解する。
〔展開〕
児童・生徒の学習活動	教師の関わり
★導入本時の目標「江戸時代から明治時代までの流れを復習しよう」江戸時代ってど[338]<br />本時の学習指導案
〔単元〕明治維新「新しい日本」（１／６）
〔目標〕
江戸時代から明治時代に至るまでの時代の流れを理解する。
〔展開〕
児童・生徒の学習活動 教師の関わり ★導入
本時の目標
「江戸時代から明治時代までの流れを復習しよう」
江戸時代ってどんな時代だったかな？
ワークを埋めながら思い出す。
②鎖国
③士農工商
⑥参勤交代
江戸時代の文化（学問・芸術など）を教科書から探してワークに書き込む。
&rarr;発表する。
⑭⑮⑯⑰を資料集や教科書から探す。
⑱函館旅行を思い出しながら「五稜郭の戦い」を理解する。
明治時代になって変わったことを教科書から探してワークに書き込む。
次回：明治時代を詳しく勉強しよう。 ワークシートの配布
教師が説明を入れながら記号に言葉を埋める。
子どもたちの質問や疑問を子どもたちの中で解決させる。
板書
本時の学習指導案
〔単元〕明治維新「新しい日本」（２／６）
〔目標〕
明治時代の政策や文化、工業などを通し、明治政府がめざした日本を考える。
〔展開〕
児童・生徒の学習活動 教師の関わり ★導入
本時の目標
「明治政府はどんな日本を目指したのだろう？」
前回使..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Effects of the Woman Ruler in the Middle Age]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431865301@hc05/7092/]]></link>
			<author><![CDATA[ by duck]]></author>
			<category><![CDATA[duckの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 24 Feb 2006 08:29:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431865301@hc05/7092/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431865301@hc05/7092/" target="_blank"><img src="/docs/983431865301@hc05/7092/thmb.jpg?s=s&r=1140737351&t=n" border="0"></a><br /><br />What surprised me about Queen Elizabeth I after watching the movie, was that Elizabeth I had great power as a leader of [120]<br />What surprised me about Queen Elizabeth I after watching the movie, was that Elizabeth I had great power as a leader of her country even though she was a female. Even in today&#039;s society, women&#039;s status is not always equal to men&#039;s status, I imagine that women&#039;s status was much lower in the past. It of course can be different in the other parts of the world and in other traditions.
The initial reason that Elizabeth became a queen was that Henry VIII did not have male heirs; it was not because she..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会科研究授業細案]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7080/]]></link>
			<author><![CDATA[ by harumonen]]></author>
			<category><![CDATA[harumonenの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Feb 2006 21:37:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7080/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430726801@hc06/7080/" target="_blank"><img src="/docs/983430726801@hc06/7080/thmb.jpg?s=s&r=1140611878&t=n" border="0"></a><br /><br />〔導入〕
Ｔ：「今日はある絵を持ってきました。」絵を張る
Ｃ：「ノルマントン号！」「沈没した船の絵！」「海賊船」「ペリー」
●めくりを取り、ノルマントン号事件という名を明示する。
Ｔ：「この絵をみて分かったことや、気がついた事を言っ[344]<br />社会科研究授業細案
教科書・資料集はしまっておく。
〔導入〕
Ｔ：「今日はある絵を持ってきました。」絵を張る
Ｃ：「ノルマントン号！」「沈没した船の絵！」「海賊船」「ペリー」
●めくりを取り、ノルマントン号事件という名を明示する。
Ｔ：「この絵をみて分かったことや、気がついた事を言ってください」
●指名する。
Ｃ：「外国人が船の上にいて、日本人が溺れている」「遠くに船が沈没している」「船の上の人はイギリス人ではないか」
●教師はその理由なども広いながら、ノルマントン号事件を具体化していく。
Ｔ：「何人日本人がなくなったか知っている人はいるかい？」
Ｃ：「100人」「1000人」
Ｔ：「実は25人です。」（少ないじゃんという声）
このクラスの半数以上が死んでしまった。
Ｑイギリス人はどんな刑に処せられたでしょう？
Ｃ：「死刑」「無期懲役」「無罪」「禁固100年」『25人も殺したら今なら・・・』
●重いほうから順番に挙手してもらう。
Ｔ：「正解は無罪だったのです。」
Ｃ：「ほ～ら」「ええ？！」
Ｔ：「おかしいでしょ？だからその当時もおかしいと訴えて、もう一度裁判をしました。すると今度はどん..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[オリンピックの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6287/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sugiyama]]></author>
			<category><![CDATA[sugiyamaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 05 Feb 2006 17:02:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6287/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432196501@hc05/6287/" target="_blank"><img src="/docs/983432196501@hc05/6287/thmb.jpg?s=s&r=1139126570&t=n" border="0"></a><br /><br />(1)古代オリンピック
・紀元前９世紀頃からヘレニズム文化圏の宗教行事として行われる。
・オリンピアの祭典には「聖なる休戦」として戦争中でも参加。
・392年にローマのテオドシウス帝がキリスト教を国教に&rarr;393年に終焉
(2)近代オ[320]<br />１．オリンピックの歴史
　(1)古代オリンピック
　　・紀元前９世紀頃からヘレニズム文化圏の宗教行事として行われる。
　　・オリンピアの祭典には「聖なる休戦」として戦争中でも参加。
　　・392年にローマのテオドシウス帝がキリスト教を国教に&rarr;393年に終焉
　
　(2)近代オリンピックの成立
　　・クーベルタン男爵が1892年、「古代オリンピックの概念を生かし平和の為の祭典を行う」というオリンピック復興の意思を明らかにする。
　　・1894年、アテネ大会の開催とIOCの設立が決定される。
・1896年、第1回アテネ大会が開催
　　・第四回ストックホルム大会前にスウェーデンのバルクIOC委員は「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[台湾の戦後と民主化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430920001@hc06/6185/]]></link>
			<author><![CDATA[ by keikog]]></author>
			<category><![CDATA[keikogの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Feb 2006 21:59:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430920001@hc06/6185/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430920001@hc06/6185/" target="_blank"><img src="/docs/983430920001@hc06/6185/thmb.jpg?s=s&r=1138885198&t=n" border="0"></a><br /><br />　1945年8月15日、太平洋戦争が終わると、ポツダム宣言により日本の主権は本州をはじめとする主要な島々のみとなった。これにより、カイロ宣言中にある「日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」が達成されたのである。こう[346]<br />・台湾の戦後と民主化
1945年8月15日、太平洋戦争が終わると、ポツダム宣言により日本の主権は本州をはじめとする主要な島々のみとなった。これにより、カイロ宣言中にある「日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」が達成されたのである。こうして台湾は、形式上は中華民国の一部となったものの、台湾と中国本土は簡単には統一できるものではなかった。
台湾が「光復」（中国語で自民族の土地・人民を取り戻すこと）されるべき土地であることが決まると、蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、戦後の台湾接収に備えていた。陳儀は、重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接収組織の中核を編成し、１０月２５日に台北公会堂にて台湾受講式典を行った。この式典で、陳儀は蒋介石の代理として最後の台湾総督であった安藤利吉から降服を受けるとともに、台湾と澎湖諸島の中華民国編入を宣言し、台湾行政長官公署を正式に発足させた。以後、台湾ではこの１０月２５日が「光復節」とされている。この光復節により中華民国を回復した男性及びその子孫を「本省人」、それによらず中華民国国籍を持ち、かつ台湾に居住する男..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[川勝平太『富国有徳論』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430914201@hc06/5866/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hapisare]]></author>
			<category><![CDATA[hapisareの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Jan 2006 19:01:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430914201@hc06/5866/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430914201@hc06/5866/" target="_blank"><img src="/docs/983430914201@hc06/5866/thmb.jpg?s=s&r=1138442488&t=n" border="0"></a><br /><br />冒頭から次のような言葉が出てきて、うんざりする。
　明治の指導者は日本百年の大計として富国強兵をかかげました。現代の観点からその批判をおこなうのはたやすいでしょう。しかし、その国是のもとに、日本は、ほかのアジアのほとんどの地域が植民地にな[356]<br />『富国有徳論』を読んで――川勝平太『富国有徳論』中公文庫
　冒頭から次のような言葉が出てきて、うんざりする。
　　明治の指導者は日本百年の大計として富国強兵をかかげました。現代の観点からその批判をおこなうのはたやすいでしょう。しかし、その国是のもとに、日本は、ほかのアジアのほとんどの地域が植民地になるなかにあって、ひとり政治的独立をまもり、かつ経済発展に成功した非西洋諸国で唯一の国となりました。それはアジア（東洋）史における奇跡であり、世界史にのこる偉業です。（本書13頁）
歴史を学ぶ意味は、過去から学び、現在においてよりよい指針を導くためである。過去を
美化し、現代からの観点からの批判を「たやすい」から止めろというのが、およそ学者の言
うこととは思えない。日本が「富国強兵」の国是のもとで、いかに多くのアジアの他の地域
に苦痛を与えたかを踏まえた上で、「世界史に残る偉業」などと能天気に喜んでいる神経は理
解に苦しむ。そしてまた、次のように言う。
　　日本も明治維新で富国強兵にのりだし、東アジアに支配権をのばして大国化をめざし近隣諸国に功罪なかばするすさまじい影響を与えました。（本書15..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カウンセリングの歴史と課題について述べ、これからのカウンセラーに必要な資質とは何か述べよ。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954001@hc06/5826/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kohhhhh]]></author>
			<category><![CDATA[kohhhhhの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Jan 2006 23:59:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954001@hc06/5826/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954001@hc06/5826/" target="_blank"><img src="/docs/983430954001@hc06/5826/thmb.jpg?s=s&r=1138373985&t=n" border="0"></a><br /><br />1.	カウンセリングとは
　カウンセリングとは、基本的には健康的で社会的な適応状態にあった人が、家族関係や学校や職業生活などの社会的活動において、何らかの問題を抱えて精神的・心理的な苦痛にある場合の心理的な相談援助であり、クライエントの自[350]<br />「カウンセリングの歴史と課題について述べ、これからのカウンセラーに必要な資質とは何か述べなさい」
カウンセリングとは
カウンセリングとは、基本的には健康的で社会的な適応状態にあった人が、家族関係や学校や職業生活などの社会的活動において、何らかの問題を抱えて精神的・心理的な苦痛にある場合の心理的な相談援助であり、クライエントの自己表現と自己理解の促進を中心に展開される技法である。
カウンセリングを行う目的
カウンセリングを行う目的は、クライエントの自己理解を深めたり、問題解決能力を引き出すことが中心となるが、なかでも特に自己表現と自己理解を重視する。クライエントが自分の状態を認知的・精神的に十分表現でき、さらに現在抱えている問題を含めた「自己」というものをトータルに理解できるようになった時、現在の問題や葛藤を解決する力をクライエントが取り戻すことができた、と考えられているからである。
その上で、クライエントが自分で責任を取り、自分自身の内的資源や外的資源を見出し、それを用いるように援助することが、カウンセリングを行う事の究極の目的なのである。
カウンセリングの歴史
　今日的な意味のカウン..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の律令中央官制における「四等官制度」について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431512401@hc05/5819/]]></link>
			<author><![CDATA[ by piyopiyo]]></author>
			<category><![CDATA[piyopiyoの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Jan 2006 23:24:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431512401@hc05/5819/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431512401@hc05/5819/" target="_blank"><img src="/docs/983431512401@hc05/5819/thmb.jpg?s=s&r=1138371883&t=n" border="0"></a><br /><br />（本文）
　以下において、日本の律令中央官制における「四等官制度」について説明することにする。
　まず、律令制とは何かということを先に述べておくが、律令制とは律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制のこと[352]<br />（本文）
　以下において、日本の律令中央官制における「四等官制度」について説明することにする。
　まず、律令制とは何かということを先に述べておくが、律令制とは律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制のことである。中国の隋・唐の法体系を取り入れて成立したものである。二官八省を中心とする中央官制、国郡里制による地方行政組織が整い、公地・公民を原則として官僚による土地・人民支配が確立した。人民を良民・賤民(せんみん)に二大別し、班田収授の法により耕地を与える代わりに租・庸・調・雑徭などを課して中央および地方の財源とした。荘園制が発達する九世紀末から一〇世紀ごろには実質が失われた。また、中央官制とは、第二次大戦前の中央官庁の設置・名称・組織機能などに関する規定のことである。これは、勅命によって定められ、内閣官制・各省官制などに分かれていた。現在は法律で定められ、国家行政組織法・各省設置法が当時のこれに当たると考えられている。
　この律令制において、諸官司（役人）の四等級の官を定めている。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じよう)・主典(さかん)がおかれていて、四..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フランス語の数字の数え方について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430965601@hc06/5711/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ryofujimori]]></author>
			<category><![CDATA[ryofujimoriの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 25 Jan 2006 18:19:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430965601@hc06/5711/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430965601@hc06/5711/" target="_blank"><img src="/docs/983430965601@hc06/5711/thmb.jpg?s=s&r=1138180773&t=n" border="0"></a><br /><br />　フランス語では、数字の７０をsoixante et dix ,80をquatre-vingts,90をquatre-vingt-dixという、日本語や英語などから見たら変わった数え方をしている。これは、２０進法に基づいた数え方であるようだ[258]<br />フランス語の数字の数え方について
フランス語では、数字の７０をsoixante et dix ,80をquatre-vingts,90をquatre-vingt-dixという、日本語や英語などから見たら変わった数え方をしている。これは、２０進法に基づいた数え方であるようだが、７０未満の数では日本同様の１０進法が用いられている。
このことから、フランス語が歴史的にどのような変化をしていったのかさぐってみた。
フランス語はもともと、ガリア語（現在は死語）というケルト語の一種が話されていた地域に、ローマ帝国の侵入によりもたらされたラテン語が定着した。ガリアで広がったラテン語そのものも、ローマ支配の５..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[スターリンについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110801@hc06/5588/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sweet8sweet]]></author>
			<category><![CDATA[sweet8sweetの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Jan 2006 09:56:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110801@hc06/5588/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431110801@hc06/5588/" target="_blank"><img src="/docs/983431110801@hc06/5588/thmb.jpg?s=s&r=1137805000&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　高校3年生の春に世界史の授業で&ldquo;世界まる見え&rdquo;の番組のビデオを見た。タイトルは『20世紀の独裁者』で、ヒトラーや毛沢東、スターリンについて放送されていて、その中でも私は特にスターリンに興味を持った。その感想文として、ビデオを見[350]<br />『スターリンはなぜ恐怖政治を行ったか』
はじめに
　高校3年生の春に世界史の授業で&ldquo;世界まる見え&rdquo;の番組のビデオを見た。タイトルは『20世紀の独裁者』で、ヒトラーや毛沢東、スターリンについて放送されていて、その中でも私は特にスターリンに興味を持った。その感想文として、ビデオを見終わった後にまとめたノートがある。そこには「もしかしたらこの世で一番孤独な一生を送ったのは彼かもしれない。本当はまわりがすごく怖かったのだろう。だから73年間も鉄のよろいを身に付けてきたのだろう。だれか一人でも彼を強く抱きしめて一言言えばよかったのに。&ldquo;強がらなくていいのだよ&rdquo;って」と綴られていた。当時の私は、スターリンに相当な刺激を受けた。もちろん彼の行為を肯定するわけではない。あれだけ多くの人の命を奪うことは決して許されないことなのだから。しかし、彼の中で何が引き金となり、あれだけの恐ろしいことを行ってしまったのか関心がある。
　彼が生前残した言葉の中で「一人の死の死は悲劇だが、大量の死は統計でしかない」という言葉がある。この言葉にも私はすごく大きな意味を感じる。今後、世界でこのようなことを繰り返さないために..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会福祉援助の歴史について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432240601@hc05/5172/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ケイユウ]]></author>
			<category><![CDATA[ケイユウの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Jan 2006 01:38:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432240601@hc05/5172/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432240601@hc05/5172/" target="_blank"><img src="/docs/983432240601@hc05/5172/thmb.jpg?s=s&r=1137170312&t=n" border="0"></a><br /><br />個別援助技術の歴史
　1922年にリッチモンドは、「ソーシャル・ケースワークは、人間と社会環境との間を個別に意識的に調整することを通して、パーソナリティを発達させる諸過程から成り立っている。」と定義した。それは、社会関係の中でより良い適応が[350]<br />個別援助技術の歴史
1922年にリッチモンドは、「ソーシャル・ケースワークは、人間と社会環境との間を個別に意識的に調整することを通して、パーソナリティを発達させる諸過程から成り立っている。」と定義した。それは、社会関係の中でより良い適応が図られるように人間関係を調整する事である。このリッチモンドの社会診断の流れを引き､フロイトは精神分析学の概念と方法を積極的に取入れ、個別援助技術の基礎理論を位置づけ、診断主義の流れを形成した。
1947年に診断主義の理論をパワーズは、｢ソーシャル・ケースワークは、利用者とその環境の全体又はその一部の間に、より良い調整をもたらすのに、適当な個人のもつ能力及びコミュニティの資源を動員する為、人間関係についての科学的知識と対人関係における技能を活用するアートである。｣と定義したここでいうアートは、ケースワークの過程で生まれてくる創造的な要素を指している。この診断主義の理論は、様々な時代の要請と議論の影響を受けて変化した。1960年代にホリスは、心理的、社会的な｢治癒｣を環境調整・心理的支持・明確化・洞察の４つに分類し体系化した。これは現代の社会福祉援助技術の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史と宗教]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431161801@hc06/5053/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 02v063]]></author>
			<category><![CDATA[02v063の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 20:48:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431161801@hc06/5053/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431161801@hc06/5053/" target="_blank"><img src="/docs/983431161801@hc06/5053/thmb.jpg?s=s&r=1137066520&t=n" border="0"></a><br /><br />【先生のお話メモ】
スリランカの仏教 &larr;滅びかけていたのがタイのお坊さんの援助を得て復活。
僧王 &larr;王様が認める、お坊さんの中で一番偉い人。
挫折を知った人の方が良い。
先生はお釈迦様の骨(宝石や石)を持っている。
仏教に貢献した[332]<br />歴史と宗教
【先生のお話メモ】
スリランカの仏教 &larr;滅びかけていたのがタイのお坊さんの援助を得て復活。
僧王 &larr;王様が認める、お坊さんの中で一番偉い人。
挫折を知った人の方が良い。
先生はお釈迦様の骨(宝石や石)を持っている。
仏教に貢献した人は国葬。大臣が来て火葬。燃え尽きるまで見ている。
日本の棺桶はせいぜい2、30万で安っぽい。スリランカの棺桶は給料一月分で彫刻がすごい。
先生は死ぬときはスリランカで死にたい。友達が沢山スリランカにいる。
インド &rarr;カースト制。差別がある。
お酒を造る人、宝石を磨く人、理髪店の人は大抵身分が低い。お坊さんは身分が高い。
ココナツの木 &rarr;庭に20本も生えて..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[障害者問題に２１世紀について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432299701@hc05/4978/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tomoriayano]]></author>
			<category><![CDATA[tomoriayanoの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jan 2006 14:45:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432299701@hc05/4978/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432299701@hc05/4978/" target="_blank"><img src="/docs/983432299701@hc05/4978/thmb.jpg?s=s&r=1137044736&t=n" border="0"></a><br /><br />　１９８１年の国際障害者年に続き、国連総会は、障害者の完全参加と平等および権利保護の獲得を目的とした「障害者の関する世界行動計画」を採択したことを想起し、「アジア太平洋障害者の１０年」を宣言し、北京での同「１０年」開始の会議において、「障害[360]<br />障害者問題に２１世紀について
１９８１年の国際障害者年に続き、国連総会は、障害者の完全参加と平等および権利保護の獲得を目的とした「障害者の関する世界行動計画」を採択したことを想起し、「アジア太平洋障害者の１０年」を宣言し、北京での同「１０年」開始の会議において、「障害者の完全参加と平等に関する宣言」および「１０年」行動課題を採択することを通した障害者の完全参加と平等を実現させるための継続的な決意をも想起したのだ。コミュニケーション、教育、訓練と雇用、リハビリテーションサービスにおいて、「１０年」の目標を達成するための政策ガイドラインを設定した「１０年」行動課題が総会で採択された。１９９５年に開催された世界社会開発サミットは、「社会開発に関するコペンハーゲン宣言の中」で、障害者は世界最大のマイノリティーのひとつとして、貧困、失業および社会的孤立にしばしば追い込まれていることを指摘した。同宣言は、各国政府が国連の「障害者の機会均等化に関する標準規則」を促進し、どう規則の実地のための戦略を策定すべきであることを提言したのだ。
　障害を持つ人に関する国際条例や「障害者総合福祉」、「差別禁止法」..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[道徳教育の歴史的変遷について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432102901@hc05/4790/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yutakan0323]]></author>
			<category><![CDATA[yutakan0323の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 10 Jan 2006 16:37:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432102901@hc05/4790/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432102901@hc05/4790/" target="_blank"><img src="/docs/983432102901@hc05/4790/thmb.jpg?s=s&r=1136878629&t=n" border="0"></a><br /><br />1）古代の道徳教育思想
　紀元前５世紀頃、教育史上はじめて提示された道徳教育に関する問題は「徳は教えられるか」であった。ソクラテスは「徳が知識で教えうるもの」だとすれば、「徳という事柄について、その教師となりうるのはどんな人か」と考えた。[354]<br />道徳教育の歴史的変遷について
1）古代の道徳教育思想
　紀元前５世紀頃、教育史上はじめて提示された道徳教育に関する問題は「徳は教えられるか」であった。ソクラテスは「徳が知識で教えうるもの」だとすれば、「徳という事柄について、その教師となりうるのはどんな人か」と考えた。しかし徳には教師はないため、徳は教えられないものだということになる。徳は知識ではなく知見であり、具体的な行為において具体的に学ぶよりほかはない。ゆえにソクラテスは「徳の教師はない」としている。
　対してプロタゴラスは徳を教えられるものと主張した。徳が懲罰などで他律的に教えられている事実に注目したのだ。彼の道徳教育は家庭での躾、教師..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Athenian Democracy]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4576/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 Jan 2006 15:38:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4576/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/4576/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/4576/thmb.jpg?s=s&r=1136443107&t=n" border="0"></a><br /><br />　The political system of ancient Athens was a democracy, which involved all of its citizens and not merely their represe[122]<br />Athenian Democracy
The political system of ancient Athens was a democracy, which involved all of its citizens and not merely their representatives by giving them daily access to civic affairs and political power. Both decision-making and decision-enforcing were the duty of every citizen, and not just of those elected by them or of their leaders. The citizens of Athens were directly involved not only in government matters but also in matters of justice, as there was no separation of powers in anc..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日欧の接点について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431666801@hc05/4093/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cc02403]]></author>
			<category><![CDATA[cc02403の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 15 Dec 2005 16:59:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431666801@hc05/4093/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431666801@hc05/4093/" target="_blank"><img src="/docs/983431666801@hc05/4093/thmb.jpg?s=s&r=1134633565&t=n" border="0"></a><br /><br />私は、竹内佐和子さんの｢ヨーロッパ的発想とは何か｣から、日欧の接点について論じていきたいと思います。
  まず、この本には著者である竹内佐和子さんのフランスに滞在しているときの様々な経験や、そこで起こった主な出来事やそのときに感じた彼女の[352]<br />日欧の接点について 　　　　　
私は、竹内佐和子さんの｢ヨーロッパ的発想とは何か｣から、日欧の接点について論じていきたいと思います。
まず、この本には著者である竹内佐和子さんのフランスに滞在しているときの様々な経験や、そこで起こった主な出来事やそのときに感じた彼女の心情が細かく書かれていました。私は、ヨーロッパ文化コースを選択しており１年生の頃からフランス語を履修しています。以前からフランスに関して多くの興味を持っていたため、この本の内容に強く惹かれていくには時間がかかりませんでした。
　その中でも、フランス人と日本人のライフスタイルの違いと接点に注目してみました。まず、フランス人には日曜日の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平城宮跡]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 00:53:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3927/thmb.jpg?s=s&r=1134402788&t=n" border="0"></a><br /><br />１．平城宮について
　平城宮跡は奈良盆地の北辺、奈良山丘陵の南山麓から平野部に展開する平城京の中枢機構であり、平城京域の北辺中央に位置する。
　平城京のメインストリートである朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていた。朱雀門をくぐると天皇の住居[356]<br />平城宮跡
１．平城宮について
　平城宮跡は奈良盆地の北辺、奈良山丘陵の南山麓から平野部に展開する平城京の中枢機構であり、平城京域の北辺中央に位置する。
　平城京のメインストリートである朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていた。朱雀門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式を行う平城宮がある。平城宮の周囲には大垣がめぐり、朱雀門をはじめ１２の門が存在した。
　平城宮の内部には政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園など幾つかの区画に別れていた。その中でも都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化があった。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿（第一次大極殿）が、奈良時代後半になると東側の区画に建てられた。（第二次大極殿）
　他にも、ほぼ正方形と考えられてきた平城宮が、実は東部に張り出し部分（東院）を持つことが分かったことや、その隅に奈良時代の庭園を発見したことなどは発掘調査による大きな成果といえる。
　　２．遺跡の保存整備について
　昭和３７年に起こった電鉄車庫建設計画は、宮跡の存亡に関わる危機であっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アメリカの奴隷制度の背景]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Dec 2005 19:41:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/3759/thmb.jpg?s=s&r=1134124865&t=n" border="0"></a><br /><br />映画『アミスタッド』の歴史的、社会的な背景にあるものは「奴隷制度」に関わる、アメリカ合衆国の南北の対立であった。
　啓蒙思想の普及にともない人道的主義的な見地が広まり奴隷社会から抜け出そうとしていた時代であった。そしてついに1833年にはイ[350]<br />アメリカの奴隷制度の背景
　
この映画の歴史的、社会的な背景にあるものは「奴隷制度」に関わる、アメリカ合衆国の南北の対立であった。
啓蒙思想の普及にともない人道的主義的な見地が広まり奴隷貿易の廃止が徐々に叫ばれるようになっていき、奴隷社会から抜け出そうとしていた時代であった。そしてついに1833年にはイギリスで奴隷制廃止法が成立した。こうして奴隷貿易は衰退していくが、奴隷制度自体は消えたわけではなかった。アメリカ合衆国では綿花貿易が大きく成長し、綿花のプランテーションのある南部地方において綿花の収穫量の大幅な増加に伴って、労働力としての奴隷の需要が増加していった。しかし、すでに奴隷制の廃止法を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会科指導案「立憲国家の始まりと日清・日露戦争」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431535301@hc05/3502/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ryot24]]></author>
			<category><![CDATA[ryot24の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 17:17:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431535301@hc05/3502/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431535301@hc05/3502/" target="_blank"><img src="/docs/983431535301@hc05/3502/thmb.jpg?s=s&r=1133338628&t=n" border="0"></a><br /><br />１）	単元名　立憲国家の始まりと日清・日露戦争
２）	単元について　
　立憲政治のはじまり・大日本帝国憲法の特色を学習し、理解することは今後の日本史の学習において日本国内はもとより、海外にも多大な影響があり重要な意味があると考える。
[344]<br />第二学年一組　社会科学習指導案
単元名　立憲国家の始まりと日清・日露戦争
単元について　
立憲政治のはじまり・大日本帝国憲法の特色を学習し、理解することは今後の日本史の学習において日本国内はもとより、海外にも多大な影響があり重要な意味があると考える。
またこの学習により、明治時代の政治と現代の政治との違いに関心を持つことは、来年度の公民の学習においても非常に重要な意味を持つと考える。
３）教科の課題と授業の関連
　　
既習事項を活用して学習を進めることで、既習事項の定着状況を評価し今後の指導の参考。
基礎の定着を最優先課題とし、学習形態・評価方法を工夫する。
　　
生徒の実態　（男子：18　女子：17　計：35）
普段の生活は活発で、クラス全体の関係は良好である。学習面においてはまじめに集中して参加しているが、「間違った事を言いたくない」という心理からか、あまり挙手や発表、質問などが出ない。
【アンケート結果】
１社会科の授業について答えてください。
ア、大好き(1)　イ、好き(7)　ウ、普通（17）　エ、嫌い（7)　 オ、大嫌い(1)
２地理と歴史ではどちらが好きですか。
ア、歴史(..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[最初から壬辰倭乱をとめることができたか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pugpug27]]></author>
			<category><![CDATA[pugpug27の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 15:26:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/" target="_blank"><img src="/docs/983431710501@hc05/3500/thmb.jpg?s=s&r=1133331960&t=n" border="0"></a><br /><br />朝鮮時代の歴史において、最も大きな戦争だと言えるのはやはり壬辰倭乱であろう。まず、この戦争の場所が朝鮮であったということだけで、被害の大きさを予想できるだろう。この戦争によって、当時の人口が三分の一に減少し、有名な書籍や絵などの国宝級の文化[360]<br />最初から壬辰倭乱をとめることができたか
朝鮮時代の歴史において、最も大きな戦争だと言えるのはやはり壬辰倭乱であろう。まず、この戦争の場所が朝鮮であったということだけで、被害の大きさを予想できるだろう。この戦争によって、当時の人口が三分の一に減少し、有名な書籍や絵などの国宝級の文化財もたくさん損失され、国家全体に多大な影響を与えた。もっとも大変だったのは農地面積が減ったことにより、当然国家の租税収入が減り、国民の生活も厳しくなった。それにより、どんどん人情味がなくなり、冷酷な社会になっていった。更に、その時に伝染病がはやった事で、最悪の状態であったと言える。
ちなみに、日本はこの戦争によって、朝..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[渤海文化について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ujimikan1203]]></author>
			<category><![CDATA[ujimikan1203の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 22 Nov 2005 21:08:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/" target="_blank"><img src="/docs/983432074601@hc05/3331/thmb.jpg?s=s&r=1132661327&t=n" border="0"></a><br /><br />　渤海国とは、高句麗が唐に滅ぼされた後に、北朝鮮から支那東北部、ロシア沿海地方にかけて存在した広大な国家で、二百数十年間続いた。唐の影響を持ちながらも高句麗の文化を受け継ぎ、独特の渤海文化を興しその繁栄ぶりは北朝鮮の歴史のなかでも光輝くもの[360]<br />渤海文化の特色
　渤海国とは、高句麗が唐に滅ぼされた後に、北朝鮮から支那東北部、ロシア沿海地方にかけて存在した広大な国家で、二百数十年間続いた。唐の影響を持ちながらも高句麗の文化を受け継ぎ、独特の渤海文化を興しその繁栄ぶりは北朝鮮の歴史のなかでも光輝くものであった。
渤海は満洲と韓半島を同時に領土にした国々だ。 満洲や韓半島で起きたどの国も持つことができなかった特徴である。
高句麗は早くから周辺多くの国や族属と多様な関係を結んだ。4~6世紀には中国王朝の権威を認めながらも遊牧民であるキタイ族、 大興の中領山脈に居住した族属、 そして本来狩猟族だった水路などを従えるとか影響力を行使して大勢力圏を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Keith　Thomas　『歴史と文学』第1章歴史と文学の要約]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kisaburou3]]></author>
			<category><![CDATA[kisaburou3の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 13 Nov 2005 17:58:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/" target="_blank"><img src="/docs/983431703201@hc05/3167/thmb.jpg?s=s&r=1131872304&t=n" border="0"></a><br /><br />　現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。

　歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知るこ[352]<br />現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。
　歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知ることは不可能に近いと主張してきた。また社会学者も、状況の真偽のわからない文学史料など歴史学者にとって無用の長物に過ぎないと主張している。さらに、文学史料は降服不可能なほどサンプリングが難しいため、文学史料にあらわれた証拠は簡単に計量化できないという経済学者の主張も存在する。このように、歴史学をより「科学的」なものにしようと努力している今世紀の歴史家は、想像の産物である文学に対して非常に冷淡な態度を表明していて、文学史料を史実として歴史に援用することなどは杜撰極まりない方法であると信じて疑わないのである。
　一方現代の文学学者も、歴史の援用には好意的ではない。最近の文学批評は、作品出版当時の状況や作者の生活、読者とその反応を採りあげるいわば伝統的な研究から、現代の読者と文学作品との直接的なつながりを重視し、文学の自立性を確立する方向に傾いている。そして、文学の自..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[精神医療と法]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3096/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cattyann320]]></author>
			<category><![CDATA[cattyann320の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2005 16:09:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3096/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431757301@hc05/3096/" target="_blank"><img src="/docs/983431757301@hc05/3096/thmb.jpg?s=s&r=1131692993&t=n" border="0"></a><br /><br />１、精神障害者の強制入院
Ａ、日本における精神障害者の取り扱いの概略史
　わが国における最初の精神障害者の取り扱いに関する法律は１９００年の精神病者監護法である。その内容は、主に治安の要請のために精神障害者の私宅監置室、公的監置室または[352]<br />要旨
流れ
精神障害者福祉と法　　岩井宣子　著
精神医療と法　　
精神障害者の強制入院
A日本における精神障害者の取り扱いの概略史
B強制入院の根拠
Ⅰパレンス・パトリエにもとづくもの
Ⅱポリス・パワーにもとづくもの
Ⅲ最も拘束の少ない代替策の検討の必要性
Ⅳ基準の明確性
Ⅴ修正８条との関係
Ⅵ「障害をもつアメリカ人に関する法律（ADA）」
C入退院手続き
Ⅰ入院手続き
Ⅱ退院手続き
精神医療と法について、岩井宣子著の「精神障害者福祉と司法」をよんで、第二次世界大戦後、精神障害者の憲法上持つ権利の擁護を巡って発展してきたアメリカの判例を参考としつつ、精神障害者の人権の意味、内容、その実質的保護のための手続きのあり方、社会の保安の要請との調和などの問題について、検討し、わが国の法制とその運用方法の改善可能性について探る。
まず、精神障害者の強制入院からその問題点を読み取る。まず強制入院の根拠として、パレンス・パトリエとポリス・パワーについてとりあげ、それに関係する様々な条件について考察する。
次に強制入院の条件、手続きと法との関係について、入院手続き、退院手続きにおいての法や判例から論ず..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史教科書採択問題を考える]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2739/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gen34054]]></author>
			<category><![CDATA[gen34054の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 31 Oct 2005 15:22:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2739/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432155401@hc05/2739/" target="_blank"><img src="/docs/983432155401@hc05/2739/thmb.jpg?s=s&r=1130739753&t=n" border="0"></a><br /><br />「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した扶桑社の教科書採択を巡って、激しい議論がなされている。肯定的意見もある一方で、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んで美化し、神話を史実のように語るなど、極端な歴史観をもった教科書であるとして学校教育には相[360]<br />「歴史教科書採択問題を考える」
　「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した扶桑社の教科書採択を巡って、激しい議論がなされている。肯定的意見もある一方で、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んで美化し、神話を史実のように語るなど、極端な歴史観をもった教科書であるとして学校教育には相応しくないとの批判がある。そこで以下では、歴史教科書採択の現状に触れたうえで、教育現場ではどういった対応をおこなうべきかという点に言及する。
　教科書採択にあたっては、現行では各教育委員会に最終的な決定権がある。教科書採択は、国民の税金をどのようにして使用するのかという重大な意味を持つ、公的な行為であるためである。これに対し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たまもん]]></author>
			<category><![CDATA[たまもんの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 16 Oct 2005 21:19:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/" target="_blank"><img src="/docs/983431837301@hc05/2479/thmb.jpg?s=s&r=1129465186&t=n" border="0"></a><br /><br />私が見た歴史博物館
　私が今回見てきたのは「江戸東京博物館」である。1993年3月28日、東京都墨田区横綱1&minus;4&minus;1にオープンしたこの博物館は東京ドーム約二倍分の延床面積を誇り、常設展示室は約9000?という広さを持っている。この広さを生[326]<br />私が見た歴史博物館
　私が今回見てきたのは「江戸東京博物館」である。1993年3月28日、東京都墨田区横綱1－4－1にオープンしたこの博物館は東京ドーム約二倍分の延床面積を誇り、常設展示室は約9000㎡という広さを持っている。この広さを生かし、内部では江戸や東京の街を再現した展示を行うなどしている。また、分館として「江戸たてもの園」が武蔵小金井に開設されており、こちらはその名の通り江戸･東京の歴史的な建物を復元･保存している施設である。
　そして江戸東京博物館は施設それ自体の形がかなり特異な物となっているのだが、これはすぐ近くにある両国国技館との調和を考えたものといわれている。そのデザインモチ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[酸性雨　〜その原因と歴史〜]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2342/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mamo2819]]></author>
			<category><![CDATA[mamo2819の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Oct 2005 21:10:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2342/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2342/" target="_blank"><img src="/docs/983432113701@hc05/2342/thmb.jpg?s=s&r=1129119009&t=n" border="0"></a><br /><br />石炭や石油などの化石燃料を燃やすと、硫黄酸化物や窒素酸化物が発生する。火力発電所や工場の排煙、車の排気ガスからこれらの酸化物が発生し、大気中に放出され、雲粒に取りこまれ、太陽光線によって複雑に化学変化を起こし、最終的に硫酸や硝酸に変化し、雨[360]<br />酸性雨　～その原因と歴史～
　石炭や石油などの化石燃料を燃やすと、硫黄酸化物や窒素酸化物が発生する。火力発電所や工場の排煙、車の排気ガスからこれらの酸化物が発生し、大気中に放出され、雲粒に取りこまれ、太陽光線によって複雑に化学変化を起こし、最終的に硫酸や硝酸に変化し、雨などの降下物に混じって地上に降り注ぐ。これが酸性雨である。広く酸性霧、酸性雪を含む。雨などに取りこまれた場合は&ldquo;湿性降下物&rdquo;といい、そのまま地上に降下する場合を&ldquo;乾性降下物&rdquo;という。有害酸化物が雨に混じることだけでなく、地上に沈殿することが問題のため、酸性沈殿物（Acid Depositon）として問題をとらえ直す動きもみられる。 
pH（ピー・エイチ／ペーハー）は、&ldquo;7&rdquo;で中性を表す。7より数字が小さいと酸性、逆に大きくなると、アルカリ性となる。通常の雨の場合、pHは5.6を示し、これ以下の値を示す雨を、&ldquo;酸性雨&rdquo;と呼んでいる。ちなみに、オレンジジュースのpHは、およそ3.5、酢が、pH3.0である。pH5.0～6.0でも魚類に影響が出て、4.5で朝顔に斑点ができる。針葉樹に深刻な被害が見られた欧米では、pH4.0～5..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史の意味と研究方法の偏移]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Luft]]></author>
			<category><![CDATA[Luftの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 28 Sep 2005 21:00:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/" target="_blank"><img src="/docs/983432070601@hc05/2282/thmb.jpg?s=s&r=1127908838&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史とは、人が人を生み子孫を残していく中で、遺伝情報に含まれない人類の記憶。文化や政治の時間の流れの中で、過去にあらゆる事象が起きたということの証である。漢字の意味上、「歴」は「次々に巡り歩く」という意を持っている。また、「時を経る」とか「[360]<br />歴史の意味と研究方法の偏移
歴史とは、人が人を生み子孫を残していく中で、遺伝情報に含まれない人類の記憶。文化や政治の時間の流れの中で、過去にあらゆる事象が起きたということの証である。漢字の意味上、「歴」は「次々に巡り歩く」という意を持っている。また、「時を経る」とか「数える」という意味も孕んでいる。一方の「史」もともと、「天体の運行を計算して暦を作る人」を表し、それが転じて「歴史的な計算を司る人物や書物など」を意味するようになった。すなわち、漢字の意味という観点から「歴史」の意味を定義するならば、「過去の事象を時間の概念にてまとめ上げたもの」ということになるだろう。
E.T.カーは『歴史とは何か』のなかで「歴史は、確かめられた事実の集成からなる」と記述した。現在という時点の視点から立って、過去というかつての現在を眺めたときの事実。もちろん見逃しや取るに足らない過去もあり、現在から離れた過去であるほど霞んで見えるし、ハッキリしない部分が多く出てくる。だが、過去より引き継がれた史料などの情報を用いて、過去に何があったのかを明確に判断しなければならない。では過去の事象が歴史的であると思われる..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[精神病者の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431973701@hc05/2264/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nanashi774]]></author>
			<category><![CDATA[nanashi774の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 19 Sep 2005 13:08:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431973701@hc05/2264/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431973701@hc05/2264/" target="_blank"><img src="/docs/983431973701@hc05/2264/thmb.jpg?s=s&r=1127102901&t=n" border="0"></a><br /><br />西暦六一四年作られた養老律令では、
?　一眼の視力障害の「一目盲（ひとつめみず）」、聴覚障害の「両耳聾（ふたつみみきかず）」などの「残疾（ぜんしち）」、
?　重度の精神障害・精神病と思われる「癡（おろかひと）」、言語障害をもった「 （お[346]<br />まえがき
２００２年「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」（心神喪失者等医療観察法）」が可決され、翌年から公布・施行された。これは、２００１年、精神病院の通院歴のある男が小学校に乱入し、児童を殺傷した事件がきっかけとなって作られた法律だという。「心神喪失の状態で、重大犯罪にあたる行為を行った者」を裁判官と精神保健審判員が審議して「再犯の恐れがある」と判断した者を、本人の同意なく「措置入院」･･･実質的な監禁するもので、心神喪失者への「刑罰」の意味合いが濃い。
私はこの法案が、心神喪失者を犯罪者予備軍のように扱っているような気がして、また、この法案が精神障害者への不理解を反映しているように思え、そして新たな偏見や差別を植えつけてしまうのではないかと心配に思う。そこで、精神病・精神障害者の差別の歴史について調べたい。
なお、授業でさまざま上げられたように、精神病にも様々あり、またその様々なもののうちにも程度の軽いものや重いもの、治りやすいものや治りにくいもの等、さまざまであるがここでは一括して「精神病」とする。
律令時代の精神病
西暦六一四年作られた養老..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[情報処理演習]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432302101@hc05/2184/]]></link>
			<author><![CDATA[ by meronnpannda]]></author>
			<category><![CDATA[meronnpanndaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 22:49:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432302101@hc05/2184/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432302101@hc05/2184/" target="_blank"><img src="/docs/983432302101@hc05/2184/thmb.jpg?s=s&r=1122817798&t=n" border="0"></a><br /><br />コンピュータの歴史を辿ると計算機から始まる。フランスのパスカルをはじめ、ライプニッツ（ 1646～1716 ）などが手動の計算機を発明し､バベッジ( 1792～1871 )や後の技術者によって改良がくり返され、時代と共にその使用目的も多様化[316]<br />　「コンピュータおよびインターネットの発達の歴史と現状についてまとめ、今後のインターネットの展望について論ぜよ。」
1.コンピュータの歴史
コンピュータの歴史を辿ると計算機から始まる。フランスのパスカルをはじめ、ライプニッツ（ 1646～1716 ）などが手動の計算機を発明し､バベッジ( 1792～1871 )や後の技術者によって改良がくり返され、時代と共にその使用目的も多様化し、現在のコンピュータへと発展した。コンピュータの歴史は大きく５つに分類することができる。
第1世代コンピュータは真空管方式で、世界最初のコンピュータ ENIAC は、アメリカ合衆国で開発された。これは、1946年に真空管を演算素子に用い、真空管を18,800 本使用して重量30トン床面積は約 450㎡と巨大なコンピュータであった。第二次大戦中、大砲の弾道は温度、風向き、風速によって変化することから、膨大な量の計算が必要になり、軍事開発されたものである。その後も主に軍事において多目的に使用するため改良が続いた。
　第２世代コンピュータ（1960～1965年）は、トランジスタを演算素子に用い、コンピュータの性能が飛..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[沖縄における言語教育と歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432167801@hc05/1671/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuzuktm]]></author>
			<category><![CDATA[yuzuktmの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Jul 2005 00:13:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432167801@hc05/1671/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432167801@hc05/1671/" target="_blank"><img src="/docs/983432167801@hc05/1671/thmb.jpg?s=s&r=1122390783&t=n" border="0"></a><br /><br />近代化と言語教育
明治から戦前までの琉球方言と標準語、言語教育について調べました。

言葉を操作することは、それを話す人間自身を操作することにつながる。
統一国家のできあがる過程、あるいは統一国家の中に組み入れられる過程で共通する言[344]<br />沖縄における言語教育と歴史
近代化と言語教育
明治から戦前までの琉球方言と標準語、言語教育について調べました。
言葉を操作することは、それを話す人間自身を操作することにつながる。
統一国家のできあがる過程、あるいは統一国家の中に組み入れられる過程で共通する言語に関心が寄せられるのは沖縄だけに限られる特殊な現象ではない。
しかし沖縄その中でも際立って特徴的である。『普通語』『共通語』という熟語を教育的、社会的に熟させたのは沖縄県がどの国よりも早かったのである。
『なぜ早かったのか？』････それは近代化を急ぐ沖縄積極的前向き思想とそういう思想を生み出した社会基盤に起因している。
1 　沖縄の言語 　沖縄の言語生活は重構造になっている。まず島ごとの各地の方言があり、その上に方言間の共通語である首里語がかぶさり、さらにその上にほぼ東京の言葉を指標にした共通語が重なっている。歴史の流れとともに共通語は様々に変化していくが、それは言語生活の表層にある文化語であって、基礎には沖縄諸方言の中の共通語である首里語が存在していた。独特な歴史を持つ沖縄は、他の日本の地域よりも毅然とした母国語とよそ者である..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本のケースワークの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1599/]]></link>
			<author><![CDATA[ by minione]]></author>
			<category><![CDATA[minioneの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 17:21:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1599/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1599/" target="_blank"><img src="/docs/983432174801@hc05/1599/thmb.jpg?s=s&r=1122366099&t=n" border="0"></a><br /><br />日本におけるセツルメント運動は、1896年に「岡山博愛会」がはじまり、翌年夏、トインビーホールを見学してきた片山潜によって、東京神田三崎町に「キングスレー館」として開始された。片山潜はその中で、幼稚園の設立、渡米案内、労働者教育等々の事業を[352]<br />グループワークの母胎となったＹＭＣＡやセツルメント運動は、日本にも早くから紹介されている。
　ＹＭＣＡは1880年に東京に設立され、その後大阪、横浜、神戸、が創立され、内村鑑三、新渡戸稲造、新島襄など当時の社会を代表する青年、青年牧師など20歳代の青年たちがＹＭＣＡ運動を興した。ＹＭＣＡは、青少年の余暇活動に取り組んでいたが、社会福祉援助活動の専門技術として集団援助技術をとらえるという考え方はまだ成立していなかった。
日本におけるセツルメント運動は、1896年に「岡山博愛会」がはじまり、翌年夏、トインビーホールを見学してきた片山潜によって、東京神田三崎町に「キングスレー館」として開始された。片..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[グループワークの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1598/]]></link>
			<author><![CDATA[ by minione]]></author>
			<category><![CDATA[minioneの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 17:17:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1598/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1598/" target="_blank"><img src="/docs/983432174801@hc05/1598/thmb.jpg?s=s&r=1122365838&t=n" border="0"></a><br /><br />我が国に最も大きな影響を与えている北米のグループワークは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのＹＭＣＡ運動やセツルメント運動を主要な源流とするものである。19世紀後半の欧米では、都市に人口が集中し、スラム街が発生し、婦人や年少者の長時間労[348]<br />我が国に最も大きな影響を与えている北米のグループワークは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのＹＭＣＡ運動やセツルメント運動を主要な源流とするものである。19世紀後半の欧米では、都市に人口が集中し、スラム街が発生し、婦人や年少者の長時間労働による病気など、社会問題が一挙に表面化していた。
　このような状況下、青少年の精神を改善するという趣旨のもと、ウイリアムズ（G.Williams）を中心とする12人の勤労青年によって「ＹＭＣＡ」がロンドンに誕生（1844年）した。ＹＭＣＡでは余暇をレクリエーションやクラブ活動に使うよう指導し、生活改善に努力を注いだ。この活動は多くの人に受け入れられ、世界に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ケースワークの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1595/]]></link>
			<author><![CDATA[ by minione]]></author>
			<category><![CDATA[minioneの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 17:13:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1595/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432174801@hc05/1595/" target="_blank"><img src="/docs/983432174801@hc05/1595/thmb.jpg?s=s&r=1122365602&t=n" border="0"></a><br /><br />ケースワークの先行形態は、1869年にロンドンで設立されたＣＯＳ（Charity　Organization　Society）に見出す事ができる。1869年はビクトリア朝の繁栄の末期にあたり、ロンドンでは、乞食、浮浪者、母子世帯、孤児などが増[292]<br />ケースワークの先行形態は、1869年にロンドンで設立されたＣＯＳ（Charity　Organization　Society）に見出す事ができる。1869年はビクトリア朝の繁栄の末期にあたり、ロンドンでは、乞食、浮浪者、母子世帯、孤児などが増大していた。彼らに対して公的には救貧法があったが、救済の機能を期待できるものではなかった。このような状況の中で、慈善の組織化と改善が叫ばれ、ロンドンＣＯＳが設立された。このロンドンＣＯＳは、貧困者を救済の「価値のある貧民」と「価値のない貧民」とに区別し、前者のみを対象とし、後者は公的院内救済の対象と考えた。道徳的に改善の見込みのある前者に対しては、友愛訪問員が家庭を訪問し、貧困の原因とされた道徳的欠陥の発見に努め、友情に基づく適切な助言を与え、貧困者が貧困から抜け出せるように援助した。この考え方の背景には、貧困を個人の責任と考える自由主義的貧困観があった。
ロンドンＣＯＳは独自の活動として貧困者世帯への友愛訪問をおこなった。貧困者の調査や面接相談、家庭訪問という現在の社会福祉援助の原型となった点で、社会福祉の近代化と職業化の歴史にとって極めて重要なも..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フォション]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1225/]]></link>
			<author><![CDATA[ by komatu]]></author>
			<category><![CDATA[komatuの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 20 Jul 2005 17:24:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1225/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1225/" target="_blank"><img src="/docs/983432354101@hc05/1225/thmb.jpg?s=s&r=1121847892&t=n" border="0"></a><br /><br />1886年、商人オーギュスト・フォションが30歳の時パリのマドレーヌ広場で小さな食品店を開店します。

メルシャンは、今後日本のワインが生き残っていくためには
海外でのワイン販売も視野にいれた積極的な活動が必要だとして
海外市場での[332]<br />2005/6/3　
卒業論文
◆フォションの歴史◆
創業者はノルマンディー地方に生まれたオーギュスト・フォションです。
1886年、商人オーギュスト・フォションが30歳の時パリのマドレーヌ広場で小さな食品店を開店します。
1907年にレストラン部門を加えたことがきっかけで有名になりましたが、
息子の代になり、一度は破産します。
1951年にイリゾフとボニーの２人がフォションを購入し、名前を残して営業を再開します。
1998年にはフランスの投資会社バァルドが買収しました。
フォションの店舗は、現在地にある１店だけですが、
紅茶の建物だけで売上げの半分を稼ぎ出します。
◆フォションの特徴◆
「この店だけでしか手に入らない、最高級の食料品だけを提供すること」
「あらゆる好みのグルメに対応できる品揃えをすること」
の二つをモットーにしたフォションは、
高級食料品店としての名声を早くから手にしました。
その後、
「フォションに行けば無いものはないない」
とまで言われて、店は瞬く間に大きくなり、世界中のグルメに知られるようになります。
今やフォションの名は、単なる食料品店だけに留まらず、
世界のブ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[How did the Bolsheviks made their rule more secure?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 13:57:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1153/thmb.jpg?s=s&r=1121749074&t=n" border="0"></a><br /><br />How did the Bolsheviks made their rule more secure?


 The Bolsheviks made their rule secure in many ways. However, I[120]<br />How did the Bolsheviks made their rule more secure?
The Bolsheviks made their rule secure in many ways. However, I think mainly there were 3 main factors, which made the Bolsheviks&#039; rule more secure. Those factors are &quot;dealing with opposition&quot;, &quot;support from the people&quot; and the &quot;Red Army&#039;s strength&quot;.
First, the Bolsheviks tried hard to remove their opposition. They banned other parties and all newspapers were censored. Moreover, some leaders of other political parties were arrested. The Bolshevi..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[水道の歴史探訪]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432282701@hc05/873/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yumin]]></author>
			<category><![CDATA[yuminの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 12 Jul 2005 08:56:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432282701@hc05/873/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432282701@hc05/873/" target="_blank"><img src="/docs/983432282701@hc05/873/thmb.jpg?s=s&r=1121126209&t=n" border="0"></a><br /><br />水は身近にあるが、東京都水道歴史館の見学を参考に、江戸時代から現代に至るまでの水道の歴史について考えてみる。

水道施設や水質等、現代のものに関しては昨年調べたので、ある程度知識があったが、歴史という観点で水道を見たのは始めてだった。よ[352]<br />水道の歴史探訪(東京都水道歴史館)
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　水は身近にあるが、東京都水道歴史館の見学を参考に、江戸時代から現代に至るまでの水道の歴史について考えてみる。
１．考察
　　〈新たに得た知識〉
水道施設や水質等、現代のものに関しては昨年調べたので、ある程度知識があったが、歴史という観点で水道を見たのは始めてだった。よって歴史的な面で新たに得た知識は多かった。
　　　まず、水道の起源が江戸時代であったこと、また、明治時代に近代水道を導入し、新たな水道の歴史が刻まれたことは、今回始めて知った。その上、水道管といえば固く冷たいイメージしかないが、最初は木でできていたというのは意外だった。新たに知ったことは細かく言えばきりがないが、例えば近代水道に変えた理由や、前近代水道と近代水道との違いなどは、この見学で始めて知り、考えさせられた。また見学を通して、水道は社会的な歴史背景とともに改良されていったということが、よく分かった。水道の発展経過を表す地図や実際の水道管を見ることで、視覚的にも捕らえることができたと思う。
　　　また、現代の水質管理システムに..]]></description>

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			<title><![CDATA[鰻の天然物と養殖物の特徴]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/500/]]></link>
			<author><![CDATA[ by koyazi]]></author>
			<category><![CDATA[koyaziの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 17:30:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/500/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/500/" target="_blank"><img src="/docs/983432355201@hc05/500/thmb.jpg?s=s&r=1119342618&t=n" border="0"></a><br /><br />さっぱりとした中にも深みがある味
・大きさに関わらずどんなに脂がのっていても小骨が気にならない、軽い味

・捕れた時期、捕れた川の餌の状況、生息している川の水質によって味が異なりアタリ・ハズレの差が大きい
・身体によい生餌を食べて[341]<br />鰻の天然物と養殖物の特徴
【天然物】
男性的で筋肉質
余分な脂がなく、あっさりと脂くどくないので食べ..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[うなぎの歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/499/]]></link>
			<author><![CDATA[ by koyazi]]></author>
			<category><![CDATA[koyaziの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 17:25:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/499/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432355201@hc05/499/" target="_blank"><img src="/docs/983432355201@hc05/499/thmb.jpg?s=s&r=1119342319&t=n" border="0"></a><br /><br />江戸で蒲焼の全盛期を迎える。当時「江戸前大蒲焼番付」が発行され、評判を競った。（&ldquo;江戸前&rdquo;とは元々蒲焼に用いられた言葉であり、それが寿司に転化していった。）「うなぎ蒲焼は天明のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初めて売出す」『世のすが[360]<br />　　　　　　【うなぎの歴史】　　　　　　　　　
先史時代
古墳からの出土品に鰻があるが、調理方法は不明。
鰻は生で食べると血液中に毒素があり舌を刺す味と生臭さがあるため、
鰻料理が普及したのは旧石器時代末期、火を使うことが発明されてからとされる。
７５９年 鰻が文献として最初に出てくるのは、万葉集
「石麻呂に我物申す　夏痩せによしというものぞ　むなぎ捕り喫せ」
大伴家持
鰻は強い生命力で海辺から川、湖、沼、山奥の池にもいるため各地で食されたが、鰻は油が強くしつこい為下等魚でおかずではなく薬、栄養食として酢味噌や辛子酢で食されていた。
１３９９年 鰻の蒲焼が初めて文献（鈴鹿家記）に登場 江戸時代 鰻の蒲焼の出現　（この頃はまだ、ご飯の上に鰻を乗せる食べ方ではなかった。）
鰻は高価な食べ物で、町人は「町で駕籠に乗るのと鰻を食べるのが最高の贅沢」と言われていたほどの高級品だった。
鰻が高価であった理由の一つとして、関東では醤油が作られず、上方からの高価な下り醤油（薄口）しかなかったことが挙げられる。
元禄時代（1688～1704年） 江戸に鰻の辻売りや、鰻屋が現れる。
銚子で大豆に小麦を入れ..]]></description>

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