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		<title>タグ“日本史入門”の公開資料</title>
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		<description>タグ“日本史入門”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

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			<title><![CDATA[日本史入門課題１（2019年～2022年度）日本大学通信教育部]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/]]></link>
			<author><![CDATA[ by うさカラス]]></author>
			<category><![CDATA[うさカラスの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 30 Apr 2020 15:03:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/" target="_blank"><img src="/docs/924609881582@hc20/140587/thmb.jpg?s=s&r=1588226639&t=n" border="0"></a><br /><br />日本史入門課題１です。合格レポートです
課題　平安時代の御霊会について考察しなさい
参考程度で宜しくお願いします。
丸写しは厳禁です
皆様の参考になれたら幸いです。[242]<br />　日本最大の祭の一つとされている京都の祇園祭は、正式に言うと「祇園御霊会」という。
　御霊会は、魂鎮めの祭ともいわれ、災害や疾病をもたらす怨霊を鎮め、安心して暮らせるような生活を確保するための祭であった。
現在も行われている山鉾巡行は華麗な姿を見せている山や鉾であるが、本来の役割は洛中を浮遊したり疫害をもたらす怨霊を吸い寄せる「神の依代」であった。
　祇園御霊会が何故旧暦六月（七月）に行なわれてきたかというと、四月頃は田を耕したり、始まって五月の田植え、水管理や草取りをするので農作業するのが大変な時期であった。本州の農家では冬作麦の収穫と養蚕を同時に行わなければならなかったので、本当に過酷な時期であったことがわかる。
　更に、この時期は食糧の収穫できない時期でもあった。秋にとれた米がなくなり、五月か六月頃の冬作麦の収穫に命をつながざるを得ない状況であったのである。
　六、七月は梅雨という時期に入るので、食糧の欠乏と過酷な農作業とによる肉体の弱体化や梅雨という気候条件が重なった時は、多くの住民たちに疫病をもたらし、前年の米や冬作麦が不作で収穫が減少すると飢餓に陥る状況になる。
　平安京に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】日本史入門（Q20100）課題２【2019~2022年度】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930550912810@hc18/139634/]]></link>
			<author><![CDATA[ by こびぃー]]></author>
			<category><![CDATA[こびぃーの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 10 Feb 2020 00:30:07 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930550912810@hc18/139634/" target="_blank"><img src="/docs/930550912810@hc18/139634/thmb.jpg?s=s&r=1581262207&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】日本史入門（Q20100）課題２【2019~2022年度】

日本史入門、課題２の合格リポートです。

丸写しは厳禁です。あくまでリポート作成の参考程度としてください。
ご使用は自己責任でお願いいたします。[292]<br />日本史入門（科目コードQ20100）課題２

【課題】
　明治末期から昭和初期までの唱歌の特徴について考察しなさい。

〈ポイント〉
　日露戦争後、唱歌の歌詞に日本を意識する言葉が含まれるようになること、この時期の唱歌に国家主義的、軍事主義的な要素がみられることなど、唱歌を通して国民の意識と戦争を結び付けるような機能を果たしていたことを具体的な事例をあげて説明すれば良い。

〈キーワード〉
　国定教科書、国家主義的、軍事教材、「われは海の子」

（以下本文）
　日本は日清戦争、日露戦争と、欧米帝国主義の流れにのまれ、二度の戦争を経験したことにより、第二期国定教科書の唱歌の内容も戦争を支えるものとなった。
　明治四十年、小学校例が改正され、これによって尋常化は唱歌を必修科目とすることに定められた。そして明治四十四年より小学校の唱歌は、国定教科書によることとなった。ここに初めて全国の唱歌教育の統一を見たのである。唐澤富太郎『教科書の歴史』によれば、第二期の国定教科書に採用された尋常科三年から六年までの唱歌八十曲を分類すると、①ナショナリズム、ミリタリズム的色彩が強いもの（二十八曲）、②自然..]]></description>

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			<title><![CDATA[【日大通信】日本史入門（Q20100）課題１【2019~2022年度】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930550912810@hc18/139633/]]></link>
			<author><![CDATA[ by こびぃー]]></author>
			<category><![CDATA[こびぃーの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 10 Feb 2020 00:30:06 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930550912810@hc18/139633/" target="_blank"><img src="/docs/930550912810@hc18/139633/thmb.jpg?s=s&r=1581262206&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】日本史入門（Q20100）課題１【2019~2022年度】

日本史入門、課題１の合格リポートです。

丸写しは厳禁です。あくまでリポート作成の参考程度としてください。
ご使用は自己責任でお願いいたします。[292]<br />日 本 史 入 門 （ 科 目 コ ー ドQ20100 ） 課 題 １ 【 課 題 】 平 安 時 ..]]></description>

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			<title><![CDATA[日本史入門　分冊２　合格レポ★]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952807328853@hc11/111380/]]></link>
			<author><![CDATA[ by shiro_con]]></author>
			<category><![CDATA[shiro_conの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 24 Mar 2014 17:45:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952807328853@hc11/111380/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952807328853@hc11/111380/" target="_blank"><img src="/docs/952807328853@hc11/111380/thmb.jpg?s=s&r=1395650712&t=n" border="0"></a><br /><br />教材の筆者がいう、「重商主義」と「農本主義」について説明しなさい。[99]<br />日本の社会は、少なくとも江戸時代までは農業社会だったと我々は認識し、当然のように百姓イコール農民と考えてきた。しかし実際、百姓は決して農民と同義ではなく、多くの非農業民を含んでおり、そのことを考慮に入れると、これまでの常識とは全く違った社会の実態が浮かび上がってくる。
　では、なぜ私達は百姓というと農民と思い込んできてしまったのだろうか。その原因の一つは、「日本」を国号とした日本列島最初の本格的国家である、「律令国家」が、水田を基礎に置き、土地に対する課税によって国家を支えるという制度を決めたことにある。
　この国家は、人民を戸籍に載せ、六歳以上の全ての男女に水田を与え、それを課税の基礎として祖、調、庸、その他の租税を賦課徴収した。海民にまで水田を与えたことから、この国家は全ての百姓を農民、稲作民ととらえようとする強い意志を持っていたことが伺える。しかし、この時期の日本列島の社会には、かなりの比重で海民、山民がおり、既に交易や手工業に携わる人々も活動していて、自給自足の集落など存在しなかったと言ってよい。
　十世紀に起こった政治的反逆は国家の租税制度や地方制度の実態を大きく変化させ、..]]></description>

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			<title><![CDATA[日本史入門　分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/104693/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 06 Jul 2013 00:29:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/104693/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/104693/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/104693/thmb.jpg?s=s&r=1373038164&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代後期の時期における我が国の海上交通ルート、河川交通ルートの発達状況について[123]<br />日本史入門
王朝国家体制による変化
十世紀に入ると政府は班田の実施をあきらめ国衙の保持する土地台帳を基準とし、徴税を行わせるようになった。そして、徴税権、国内の検田権、裁判権を国司に委任し、固定化した官物の貢納を完全に請け負わせるようになった。これにより国司、受領による租税の請負体制、それぞれの国の長官が国家に納めるべき一定額の租税の納入を独自に行う体制が軌道にのり、これまでの官僚制的な地方制度は、まったく実質がなくなる。
また、官司組織の解体と変質のなかから下級の官人の中には受領の下で弁済使となり、貢納物を立て替え、原初的な手形の機能を持った切符、切下文、替米等を運用し、富を集める人もあらわれた。さらにまた、本来官司のもとに組織されていた多様な手工業者や運送業者、山民・海民などの職能民も、このころ独自な職能集団となり、官司の寄人という立場を保ちつつ、広く社会の中で自らの職能活動を展開しはじめる。こうした体制の形成が可能であったのは、前提に安定した海や川による交通の活発化があり、様々な物資や人々が自在に動ける状況が発展していたからと考えられる。
独立国家と海上交通ルート
一方、935年..]]></description>

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