<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/" xmlns:activity="http://activitystrea.ms/spec/1.0/">
	<channel>
		<title>タグ“日本史”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/</link>
		<description>タグ“日本史”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
		<generator uri="http://www.happycampus.co.jp/" version="1.0">happycampus rss generator</generator>
		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[植民地統治における枢密院の関わり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/922226439468@hc21/143129/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みこぷん]]></author>
			<category><![CDATA[みこぷんの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 08 Feb 2021 17:44:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/922226439468@hc21/143129/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/922226439468@hc21/143129/" target="_blank"><img src="/docs/922226439468@hc21/143129/thmb.jpg?s=s&r=1612773884&t=n" border="0"></a><br /><br />植民地統治の問題は、日本の近代にとって非常に重要な問題である。私たちにとって過去の出来事ではあるものの、この問題について日本人として考えることは重要であると考える。なぜなら、これは現在、そして未来の日本と朝鮮半島の関係にも関わってくる問題だ[360]<br />植民地統治における枢密院の関わり

1．はじめに
　植民地統治の問題は、日本の近代にとって非常に重要な問題である。私たちにとって過去の出来事ではあるものの、この問題について日本人として考えることは重要であると考える。なぜなら、これは現在、そして未来の日本と朝鮮半島の関係にも関わってくる問題だからである。今回は、植民地統治について考えるにあたって立法機関であった枢密院に焦点を当てて、枢密院がそれぞれの過程でどのような役割を果たしたのかについて検討する。

2．枢密院の設立とその役割
　枢密院は大日本帝国憲法が制定された際に設置された、天皇の最高諮問機関である。これは、政治的長老や行政経験者などの枢密顧問によって構成された。憲法付属法令の改正などに関しては、事前に枢密院に相談することが求められていたため、事実上政府の政策決定に大きな影響を与えていた。皇室典範や憲法の改正に関する事項、条約改正、緊急勅令、戒厳の実施などを行う際には、枢密院への諮問を行わなければならず、植民地立法に関しても影響力を持っていた。
　
3．日露戦争後の戦後体制
　朝鮮を植民地にするという考えは日露戦争後に定まった。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史 第３課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930734452233@hc18/140859/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サブロー777]]></author>
			<category><![CDATA[サブロー777の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 07 Jun 2020 14:17:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930734452233@hc18/140859/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930734452233@hc18/140859/" target="_blank"><img src="/docs/930734452233@hc18/140859/thmb.jpg?s=s&r=1591507034&t=n" border="0"></a><br /><br />化政文化についての説明です。判定Ｂでした。[63]<br />中央大学法学部通信教育課程 
Word 用レポート原稿用紙（ダウンロード用） 
1 / 4 
201904-1 
１ 化政文化とは、１８世紀末から１９世紀初頭にかけて江戸の庶民を中心に繁栄した文
化である。化政は１８０４年から１８１７年の元号である文化と、その次の元号となる文
政（１８１８年から１８２９年まで）の元号から名付けられた。 
もともと上層階級向けであった歌舞伎、そして現世を題材にした文学などが江戸の下層
町民を含む庶民を中心に流行し、それはやがて地方にも拡充した。 
例えば遊郭を題材にした洒落本として山東京伝の「通言総籬」や、現代の恋愛小説に相
当する人情本である為永春水の「春色児梅誉美」、コメディに相当する滑稽本としての十返
舎一九の「東海道中肘栗毛」といった書籍の他にも、葛飾北斎で有名な浮世絵などの絵画
も流行した。 
中には幕藩体制の矛盾を指摘して、それを批判的に表現した作品もあり庶民に喜ばれた。
後の寛政の改革により、風紀の乱れの要因であるとして取締りの対象となるものもあっ 
たが、後述のとおり水野忠成の失脚や将軍家斉のし好もあってか途絶えることはなかった。 
化政..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q5101　日本史概論　第２設題　リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140324/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のちちを]]></author>
			<category><![CDATA[のちちをの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Apr 2020 13:00:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140324/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140324/" target="_blank"><img src="/docs/929308359985@hc18/140324/thmb.jpg?s=s&r=1586750433&t=n" border="0"></a><br /><br />☆2023年度も「参考になった」とのお声を複数寄せていただきました☆
2020年度佛教大学通信教育課程の合格リポートです。
科目コードが違っていても設題が同じであればお役に立てると思います。あくまで参考程度になされますようお願い致します[336]<br />初期議会から日清戦争後にかけての政党について。

明治一四（一八八一）年、帝国議会の国会開設を見越して活発に政党が組織された。同年の政変によって政府を追放された大隈重信はイギリス流の漸進的な議会政治を目指す立憲改進党を結成する。一方、同年一〇月には国会開設の勅諭を受けて板垣退助を代表とした民権派が自由党盟約を決議し、自由党が成立する。自由党はフランス流の急進的自由主義を掲げた。政府はこれらに対抗して立憲帝政党を結成させている。自由民権運動を展開した前二つの政党は民党、政府よりの姿勢を示す立憲帝政党は吏党と呼ばれた。
第一回の帝国議会を迎える前に民党は解党あるいはそれに等しい状況に陥る。自由党は秩父事件を契機に内部対立が収束不可能になり明治一七（一八八五）年に解党する。立憲改進党でも組織改革を巡って内部で紛糾し、大隈らが離党し党は実質的に崩壊する。
明治二三（一八九〇）年に第一回総選挙があった。旧自由党系は大同倶楽部・再興自由党派・愛国公党派の三つに分かれ、改進党系勢力と議席を争った。総選挙では旧自由党系勢力が勝利を収めた。総選挙直後に旧自由党勢力である九州同志会・大同倶楽部・愛国公党が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q5101　日本史概論　第１設題　リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140323/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のちちを]]></author>
			<category><![CDATA[のちちをの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Apr 2020 13:00:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140323/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140323/" target="_blank"><img src="/docs/929308359985@hc18/140323/thmb.jpg?s=s&r=1586750433&t=n" border="0"></a><br /><br />☆2023年度も「参考になった」とのお声を複数寄せていただきました☆
2020年度佛教大学通信教育課程の合格リポートです。
科目コードが違っていても設題が同じであればお役に立てると思います。あくまで参考程度になされますようお願い致します[336]<br />鎌倉幕府と執権政治について。

執権政治とは、鎌倉時代に源氏の嫡流の将軍ではなく、執権北条氏が幕府の実権を握り、幕政を運営した体制のことをいう。
正治元（一一九九）年の源頼朝の死後、彼の妻の北条政子とその父時政は幕政の実権の掌握を図った。次代将軍源頼家の将軍位は剥奪され、彼の弟である実朝が将軍として担がれた。時政は初代執権と政所別当を兼任することになった。ここに北条氏による執権政治の萌芽が見られる。また、時政は幕府権力の構造矛盾を解消させるために有力御家人の合議制を発案した。しかし、将軍位をめぐる権力闘争が絶たれることはなかった。その後、時政とその実子義時との間で確執が生まれる。
元久二（一二〇五）年に義時が二代目執権に就任した。彼も政所別当を兼任し、建保元（一二一三）年には和田義盛のもっていた侍所別当の地位をも奪取し、幕府内における北条氏の地位を高め、事実上、幕府の最高職となった。承久元（一二一九）年には幕政へ積極的に関与するようになった将軍実朝が頼家の遺児である公暁に殺害される事件が発生する。これは源氏の台頭を疎んだ義時や三浦義村の陰謀といわれている。その後公暁も殺害され、源氏の嫡..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史概説　分冊１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932468830305@hc17/137382/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mt21]]></author>
			<category><![CDATA[mt21の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 03 Apr 2019 20:39:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932468830305@hc17/137382/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932468830305@hc17/137382/" target="_blank"><img src="/docs/932468830305@hc17/137382/thmb.jpg?s=s&r=1554291552&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポートになります。[36]<br />【報告課題】
一．乙巳の変から持統天皇までの政治の動向についてのべよ。
二．藤原北家の台頭から白河院政までの政治の動向についてのべよ。
三．中世後期の寄合の文化を略述せよ。

一．乙巳の変から持統天皇までの政治の動向についてのべよ。
　乙巳の変は飛鳥時代の六四五年に中大兄皇子と中臣鎌足らにより、蘇我蝦夷と入鹿父子を宮中で討ち、入鹿の暗殺と蝦夷を自害に追い込み、蘇我氏が滅ぼされたできごとのことである。この時代の天皇は皇極天皇であるが、六二二年に聖徳太子が死去すると、豪族である蘇我氏を抑えることができず、それによって蘇我氏が暴政を行っていた状況であった。政変によって蘇我氏を滅亡させ、皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は皇太子となり、阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足をそれぞれ左大臣、右大臣、内臣に任命された。この一連の流れが大化の改新であり、日本で初めて律令制が導入されたできごとである。その後、皇極天皇が重祚し、斉明天皇として即位するが、友好国の百済の救援のために行動するが、現地で崩御した。その後、中大兄皇子が天皇の代わりとして政治を行うが、六六八年に天智天皇として即位した。六七..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古墳時代の国家形成史上の位置について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953058467948@hc11/134938/]]></link>
			<author><![CDATA[ by TomoeShike]]></author>
			<category><![CDATA[TomoeShikeの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Aug 2018 21:14:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953058467948@hc11/134938/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953058467948@hc11/134938/" target="_blank"><img src="/docs/953058467948@hc11/134938/thmb.jpg?s=s&r=1534076059&t=n" border="0"></a><br /><br />考古学通論のレポートです。授業をふまえてのレポートです。Ｂ評価頂いています。[114]<br />1 
古墳時代の国家形成史上の位置について 
＜初めに＞ 
レポートを書くにあたって、何とも大きなテーマ（授業そのものの命題？）を出題されてし
まった、と考え込んでしまった。というのも授業を受講するまで、「古墳時代」という言葉を聞いた
のは７年ぶりで、中、高校と海外にいた私にとっては「大きいお墓が一杯ある時代だ」というレベル
で思考能力が止まっていたのである。というのも、小学校の頃に習った教科書には「原始時代」&rarr;「縄
文時代」&rarr;「弥生時代」&rarr;「古墳時代」と目次に書いてあり、時代ごとに暗記するよう学んだ。しか
し、歴史上、実際は「時代」という区分をどこで区切るのかはとても難しい。実際、妹から借りた今
現在の高校の日本史の教科書（⑥）には「原始･古代」という章に上記の４つの時代が「時代」とは
かかれず、流れとして書かれている。これらの事実の上で、文献を読んでいる間に、「古墳時代」は
その前に興った倭と弥生時代との関係はとても濃いものであり、また、「流れ」として繋がっている
のは区分するのが難しいからだろうということが解ってきたので、倭と弥生時代の流れから、また古
墳時代について調べてから、飛鳥時代に繋がるヤマト政権について調べてみることにした。なお、（）
内の番号、ページ数は最後のページにある「参考文献」の本リストにあるものからの引用や、参考ペ
ージを示してある。 
＜「倭と弥生時代」の墓と権力と暮らしの様子＞ 
「倭」とはそもそも、中国･朝鮮からみての日本の古称である（⑥）。古代から中世
にかけて中国の各王朝から日本を指す際に用いられたものであるという。古代中国では、日本列島に
住んでいた日本人を倭人と呼び、そこに形成された小さな国々を総称して倭国と呼んでいた。 
倭と呼ばれるようになったのは、弥生時代になってからだといわれている。弥生時代の始ま
りには様々な意見がある。代表的なのが「弥生土器」の出現と、稲作の開始によるもの、とする二つ
である。私は「弥生土器」の出現が弥生時代の始まりとして、昔、小学校で学んだが現在は稲作の開
始の説が強いようだ（⑥）。この弥生時代も、前、中、後の３期や、５期に分けて研究されることが
多い（⑤）。稲作は西日本に、中国から朝鮮半島経由して水田稲作や水稲耕作が始まり、北海道と南
西諸島を除く（⑥Pg12）日本列島で食料採取から食糧生産..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史（太平洋戦争と戦後改革）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マイメロ3w]]></author>
			<category><![CDATA[マイメロ3wの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 14 Mar 2018 11:55:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/" target="_blank"><img src="/docs/933623106078@hc17/133198/thmb.jpg?s=s&r=1520996154&t=n" border="0"></a><br /><br />太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争のことをいう。1941年12月８日午前２時、日本軍は攻撃の３０分前に届くはずの最終通牒が届いていないにもかかわらず、ハ[326]<br />太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争のことをいう。1941年12月８日午前２時、日本軍は攻撃の３０分前に届くはずの最終通牒が届いていないにもかかわらず、ハワイのアメリカ軍基地真珠湾に攻撃をかけ、それを機にアメリカは太平洋・大西洋、アジア・ヨーロッパへの参戦を決める。こうして、本来のイギリスとアメリカの対立から、戦域は拡大、長期化していき、太平洋戦争は始まった。1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカ軍の反撃を受け、日本軍は４つの空母を失うという大敗をした。その後戦時下の国民の生活は戦争が長引くにつれて生活必需品への統制がすすめられ、食料品や日用品は劇的に減り、人々の生活を圧迫した。１９４４年からはアメリカ軍機による本土の無差別空襲が始まった。アメリカは国民の遷移喪失をねらい人口密集地を中心に全面的に空襲を実施した。軍事施設・軍需工場にとどまらず、住宅地、主要都市が次から次へと空襲を受けた。資材労働力が不足し、日本経済は、麻痺状態に陥り、女子学生でさえも軍事工場等に動員させた。さらに国民生活は一層..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史（古代国家の文化と特徴）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133197/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マイメロ3w]]></author>
			<category><![CDATA[マイメロ3wの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 14 Mar 2018 11:53:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133197/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133197/" target="_blank"><img src="/docs/933623106078@hc17/133197/thmb.jpg?s=s&r=1520996033&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の古代国家はどのように形成されたのだろう。ここでは、古代国家は、３世紀の卑弥呼の段階を経て、５世紀の倭の五王の段階までをいい、奈良時代に完成した律令国家にいたるまでの前史のことを扱う。この時代の初期国家形成の時代について述べる。[348]<br />日本の古代国家はどのように形成されたのだろう。ここでは、古代国家は、３世紀の卑弥呼の段階を経て、５世紀の倭の五王の段階までをいい、奈良時代に完成した律令国家にいたるまでの前史のことを扱う。この時代の初期国家形成の時代について述べる。
（１）旧石器から縄文へ
　石器時代には打製石器の旧石器時代と磨製石器の新石器時代の二つに分けられるが、テキストでは、「日本における旧石器文化は、岩宿遺跡（群馬県）の更新世の関東ローム層（赤土）から相沢忠洋によって打製石器が発見されて、その存在があきらかになった。」（注１）と述べられている。
　約１万年前に海面が上昇し日本列島が形成され人類は石器を主な道具を使用し生活する時代が訪れ、約１万５０００年前から縄文時代が始まる。縄文時代とともに新たな土器が誕生し、円筒土器文化の成立、竪穴式住居に１世帯が住み、数世帯が集まるという集落があらわれるようになり、土偶、石棒などの遺物や貝塚などの遺跡、抜歯、死者埋葬等の風習もあらわれ、弥生時代へと変遷する。
（２）弥生時代の社会
　弥生時代を前期、中期、後期と分けると初期に水稲農耕がはじまり、大きな変革があった。その背景..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 Q0101 日本の歴史 第一設題【2017年度 B判定 合格 リポート】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mamimu03]]></author>
			<category><![CDATA[mamimu03の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Dec 2017 23:44:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/" target="_blank"><img src="/docs/932184071672@hc17/132040/thmb.jpg?s=s&r=1514385852&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程でのリポートです。2017年度にB判定で合格しました。

日本の歴史　第一設題
コード：Q0101（コードが異なっていても、設題が同様の場合はご参考にしていただけるかと思います。）

あくまでもリポートの構成等の参[320]<br />鎌倉幕府と執権政治について。
はじめに
　壇ノ浦の戦いにおいて源氏が平氏を滅ぼし、源頼朝が征夷大将軍に任命されたことで鎌倉幕府は成立した。鎌倉幕府では武士が主体となる政治が行われることとなる。しかし、源氏による支配は短く終わり、鎌倉幕府において長期にわたり実権を握ったのは北条家であった。彼らは執権として幕府内で強固な権力を握った。本リポートでは鎌倉幕府と執権政治の成立と展開から鎌倉時代とはいかなる時代であったのかを考察する。
武士の起こりと鎌倉時代の始まり
日本史における武士の起こりは奈良時代の公地公民崩壊が起因している。時代と共に口分田は不足し、その解消を目的として743年に墾田永年私財法が施行されたが寄進により貴族や寺社は所有する荘園を増やし、国には税が入らず貴族や寺社が富を手に入れ、国や地方の政治は乱れた。治安の悪化に伴い自衛の必要が高まり、武士の起源である武装した農民が発生した。やがて彼らは集団を作り武士団となった。平安時代末には桓武天皇の血をひく平氏と清和天皇の血をひく源氏による大決戦の結果、源氏が勝利を収めた。建久三（一一九二）年、源頼朝が征夷大将軍の地位を獲得したことで「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【慶應通信】文学部レポート 新・日本史特殊Ⅱ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/937792097189@hc16/131046/]]></link>
			<author><![CDATA[ by autoFunk]]></author>
			<category><![CDATA[autoFunkの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Oct 2017 15:51:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/937792097189@hc16/131046/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/937792097189@hc16/131046/" target="_blank"><img src="/docs/937792097189@hc16/131046/thmb.jpg?s=s&r=1508741508&t=n" border="0"></a><br /><br />新・日本史特殊Ⅱ、2単位
レポートテーマ： キリシタン時代のスペイン系托鉢修道会（ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティノ会）の活動について述べなさい
注意：このレポートを自分のものとして提出することを禁じます。ご自身のレポート作成の[348]<br />序
托鉢修道会とは、13世紀、修道院の封建領主化や富裕化への批判から生まれたローマ・カトリック教会における修道会の1つの形態である。清貧と信仰に生きるために個人的な資産を持たず、信者からの托鉢により活動することが托鉢修道会の特徴である。
キリシタン時代に日本で活動したスペイン系托鉢修道会は、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会であり、本レポートでは、それら修道会の活動について、まずは全体について論じ、続いてそれぞれの修道会について個別に論じる。
スペイン系托鉢修道会の日本での布教
16世紀後半、日本でのキリスト教布教は、教皇グレゴリオ十三世の勅書によりイエズス会に限定されており、他の修道会の入国と布教活動は禁止されていた。この勅書の廃止を目指す運動が、フィリピン諸島で活動するスペイン系托鉢修道会、特にフランシスコ会によって積極的に推進されたが、彼らは勅書を無視してフィリピン総督使節の名目で来日し、公然と布教していた(1)。
勅書廃止運動の結果、1600年に教皇クレメンテ八世は勅書に修正を加え、すべての修道会がゴアとマカオを経由して日本へ入国できることとなり、すでにフィリピン・メキシコなどのスペイン領を経由して日本に入国している修道士の退去を命じた。このことにより、スペイン系托鉢修道会は条件付きながら日本での活動が認められ、布教活動が活発化することになる(2)。
スペイン系托鉢修道会の活動範囲は、すでにイエズス会による布教の実績がある、九州から畿内の西日本に加えて、東海、関東、東北までに広がることになる。この背景として、西日本の地域では先行のイエズス会との競合が予想されるために、他の新しい地域の開拓が必要であったことと、スペイン船のマニラから北米への航路が日本近海の太平洋を北上するため、太平洋に面した東日本への寄港、貿易が布教活動との交換条件になると考えられたことにある(3)。
貿易と布教活動の保護を交換条件とし、それを接点として政治的支配層との関係を結ぶという手法は、これまでイエズス会が行ってきた手法と共通している。
16世紀末より、キリスト教布教に変化が見られた。政治的支配層に対する布教から、民衆、弱者への布教が重視されるようになる。これは豊臣秀吉による伴天連追放令と、イエズス会の布教方針に批判的なスペイン系托鉢修道会の活動開始に起因するものであった(4..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[徒然草の女性観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933836483725@hc17/129559/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hiro45678]]></author>
			<category><![CDATA[hiro45678の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 30 May 2017 00:04:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933836483725@hc17/129559/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933836483725@hc17/129559/" target="_blank"><img src="/docs/933836483725@hc17/129559/thmb.jpg?s=s&r=1496070290&t=n" border="0"></a><br /><br />徒然草。枕草子、方丈記とあわせて「日本三大随筆」と評される古典の名著である。誰しもその名を一度は耳にしたことがあるだろう。内容は知らないが、名前だけは知っている、そんな人も多かろう。
　教育の現場でも、古典学習の教材として多く用いられる。[356]<br />徒 
然 
草 
の 
女 
性 
観 
一
、
序 
文 
徒
然
草
。
枕
草
子
、
方
丈
記
と
あ
わ
せ
て
「
日
本
三
大
随
筆
」
と
評
さ
れ
る
古
典
の
名
著
で
あ
る
。
誰
し
も
そ
の
名
を
一
度
は
耳
に
し
た
こ
と
が
あ
る
だ
ろ
う
。
内
容
は
知
ら
な
い
が
、
名
前
だ
け
は
知
っ
て
い
る
、
そ
ん
な
人
も
多
か
ろ
う
。 
教
育
の
現
場
で
も
、
古
典
学
習
の
教
材
と
し
て
多
く
用
い
ら
れ
る
。
私
自
身
も
中
学
校
時
代
に
序
段
、「
徒
然
な
る
ま
ま
に
、
日
暮
ら
し
硯
に
向
か
ひ
て
、
心
に
う
つ
り
ゆ
く
由
無
し
事
を
そ
こ
は
か
と
な
く
書
き
付
く
れ
ば
、
あ
や
し
う
こ
そ
物
狂
ほ
し
け
れ
」
を
暗
唱
さ
れ
ら
れ
た
記
憶
が
あ
る
。
と
は
い
え
、
中
学
、
高
校
を
通
じ
て
学
ん
だ
徒
然
草
と
い
え
ば
、
思
い
起
こ
さ
れ
る
の
は
、
暗
唱
と
お
約
束
の
品
詞
分
解
。
扱
っ
た
段
も
、
全
二
百
四
十
三
段
の
う
ち
の
ほ
ん
の
一
握
り
で
あ
っ
た
。
故
に
、
古
典
文
学
と
し
て
と
い
う
よ
り
は
古
典
学
習
の
教
材
と
し
て
、
読
み
楽
し
む
と
い
う
よ
り
は
読
み
解
く
も
の
と
し
て
学
ん
で
き
た
の
で
あ
る
。
一
文
を
読
む
の
に
何
分
も
要
し
、
全
体
を
「
解
く
」
頃
に
は
憔
悴
し
き
っ
て
し
ま
う
。
こ
う
い
っ
た
教
育
を
六
年
間
み
っ
ち
り
受
け
て
き
た
ら
そ
れ
は
、「
古
典
は
つ
ま
ら
な
い
」
と
い
う
考
え
に
至
っ
て
も
致
し
方
な
い
の
で
あ
ろ
う
。 
更
に
、
限
ら
れ
た
授
業
時
間
の
中
で
、
時
間
の
掛
か
る
読
み
解
き
学
習
を
行
っ
て
い
れ
ば
、
必
然
的
に
扱
う
古
典
の
数
は
限
ら
れ
て
し
ま
う
。
徒
然
草
だ
け
を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０１０１　レポート　日本の歴史　第２設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129334/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 19:26:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129334/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129334/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129334/thmb.jpg?s=s&r=1494930374&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について。
「明治六年政変」で下野した板垣退助は国会開設を政府に要求する「民選議院設立建白書」を提出した。それは立志社や愛国社といった政治結社として具現化され、さらに徴兵制や地租改正による不満や、天賦人権論等によって民主的思想の輪郭を掴んでいた国民たちを自由へと駆り立て、自由民権運動、ひいては国会開設請願運動へと発展する。その後、「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起き、「明治十四年の政変」を経て、明治一四年（一八八一）に「国会開設の詔」が発せられた。これによって十年後の国会開設が約束されたのである。
以下に初期議会から日清戦争にかけて、頻繁に離合集散を行った政党と議会の流れを整理していく。
《帝国憲法発布と初期議会の幕開け》
　明治二二年（一八八九）に「大日本帝国憲法」が発布された。近代的な体裁を採用した憲法ではあったものの、神聖不可侵の天皇が統治権を持つという天皇主権を基本原則としており、議会制の機能は極めて弱いものであった。また、軍も天皇の直属であり、内閣の統制外であった。議会は二院制をとり、上院としての貴族院の構成は華族・勅選議員・多額納税議員か..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０１０１　レポート　日本の歴史　第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129333/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 19:26:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129333/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129333/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129333/thmb.jpg?s=s&r=1494930371&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />鎌倉幕府と執権政治について。
　平氏を滅ばした源頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を形成した。鎌倉時代はこれまで目立たなかった関東が、近畿と並んで日本の中心となる場所として焦点が当てられた時代でもあった。以降、我が国の歴史は近畿と関東の二つの舞台を中心に繰り広げられる。そして、将軍となった源頼朝ではあったが、実権を掌握していくのは源一族ではなく、執権として政権を担った北条氏であった。以下に鎌倉幕府の一世紀半を、執権政治の成立と展開を通して考察していく。
《鎌倉幕府と執権政治の成立過程》
　鎌倉幕府の構造はシンプルである。地方を治めるために、国ごとの武士の責任者である「守護」を設置し、各荘園には「地頭」を設置した。中央に関しては、御家人という「侍所」、財政を管理する「政所」、裁判を行う「問注所」を設置した。そして、これらを束ねるのが「将軍」であり、その下に「執権」という将軍の補佐等を行う役職があった。執権は北条氏が代々世襲し、鎌倉幕府滅亡までに計十六もの執権を輩出する。なお、位が上の将軍に代わり、この執権が中心となって国家を収める政治形態を「執権政治」という。
　鎌倉幕府初期の頼朝の治..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史②A 課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115040/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マグリビー]]></author>
			<category><![CDATA[マグリビーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Aug 2014 16:43:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115040/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115040/" target="_blank"><img src="/docs/942563243004@hc14/115040/thmb.jpg?s=s&r=1408693387&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。

課題
「古代国家の成立から院政の時代までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。
魏志倭人伝・邪馬台国・大宝律令・摂関政治・院政」
(インターネット上の東洋大学シ[348]<br />古代において、日本列島は中国から倭・倭国と称された。三世紀末の中国の歴史書『三国志』中の東夷伝に当時の日本列島の民族、倭人（日本人）の地理や風俗などについて書かれている。これが所謂『魏志倭人伝』である。『魏志倭人伝』には、当時の倭に女王卑弥呼が治める邪馬台国を中心とした国が存在し、また、邪馬台国に属さない国として、対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国が存在していたと記されている。
　三世紀中後半から七世紀頃までは古墳時代と呼ばれ、三世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まり、関東から西日本に掛けて地域的な政治集団が連合してヤマト王権を形成した。また、三世紀半ばから五世紀にかけて、中国の史書から倭国に関する記録がなくなり、日本の歴史で4世紀は「文献史料の空白期」 となっている。そのため、邪馬台国とヤマト王権との関係は判然としない。
　古墳時代を経て、六世紀末、初の女帝となる推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが官僚制の強い政治基盤を築きあげた。彼らは冠位十二階や十七条憲法の制定などを通じ、王権の革新を積極的に推し進めた。また、六世紀中頃に日本に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史②B 課題２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115039/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マグリビー]]></author>
			<category><![CDATA[マグリビーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Aug 2014 16:43:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115039/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115039/" target="_blank"><img src="/docs/942563243004@hc14/115039/thmb.jpg?s=s&r=1408693385&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。

課題
「室町幕府四代将軍足利義持の時代から江戸幕府の成立までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。
嘉吉の乱・下剋上・戦国大名・織豊政権・江戸幕府」
(インター[348]<br />足利義満の死後、4代将軍の足利義持は義満の政策から転換し、保守的体制を築いた。貴族的色彩が強まった義満晩年の幕府の政策に対し、武士の不満が高まっていたことから、こうした政策の転換がなされたが、義満の時代に比して将軍の権力が低下し、土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとって苦境の時代となった。義持は子である義量に将軍職を譲るが義量が早世し、義持自身も後継者の決定を待たずに亡くなる。こうして、6代将軍はくじ引きで選ばれることとされ、義満の子である義円が還俗して６代将軍となった。義教は失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復興を目指し、義満に倣った政策を展開する。義教は儀礼形式や訴訟手続きといった庶務を義満時代のものを復活させると、参加者の身分・家柄が固定化された評定衆・引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とした。また、管領を経由して行っていた守護大名への諮問を将軍が直接諮問に変え、中央集権化し、義持の代から中断していた勘合貿易を再開し、経済政策を強化し、幕府の再興を図った。しかしながら、急進的な政治姿勢が反発を呼び込み、赤松満祐により義教が暗殺される..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史②B 課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115038/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マグリビー]]></author>
			<category><![CDATA[マグリビーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Aug 2014 16:43:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115038/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115038/" target="_blank"><img src="/docs/942563243004@hc14/115038/thmb.jpg?s=s&r=1408693383&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。

課題
「建武政権の成立から室町幕府三代将軍足利義満の時代までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。
建武政権・観応の擾乱・守護大名・南北朝の合一・日本国王」
([348]<br />元寇以来の政局不安により、鎌倉幕府は武士層からの信頼を失い主従関係は崩壊していた。一方で、朝廷においては大覚寺統と持明院統が対立し、両統迭立が行われ、１３１８年に大覚寺統の後醍醐天皇が即位する。後醍醐は自身への集権化、皇統の統一を図るために、両派の排除と倒幕計画を企てていた。討幕計画は、１３２４年の正中の変、１３３１年の元弘の乱と発覚し、元弘の乱で後醍醐天皇は隠岐島に流されると、幕府の支持を受け持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕計画に呼応した楠木正成や護良親王らに加え、幕府側の御家人、新田義貞や足利高氏らが朝廷側へ寝返った。
　１３３３年に後醍醐が隠岐を脱出し、伯耆国において挙兵すると足利高氏は、京都の六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は、鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして倒幕を達成した。後醍醐天皇は、光厳天皇の皇位を否定し、新政を開始した。六波羅攻撃を主導した足利高氏は、上洛した武士を指揮し、京都支配を先導した。高氏は鎮守府将軍に任命されると、名を「尊氏」と改めることとなる。
　１３３４年には、年号が「建武」と定められ、大内裏の造営のための「二十分の一税」などが計画さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史②A 課題２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115037/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マグリビー]]></author>
			<category><![CDATA[マグリビーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Aug 2014 16:43:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115037/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942563243004@hc14/115037/" target="_blank"><img src="/docs/942563243004@hc14/115037/thmb.jpg?s=s&r=1408693381&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポート。レポート執筆の参考にご使用ください。

課題
「武士の登場から鎌倉幕府の滅亡までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。
荘園・御家人・守護・地頭・御成敗式目」
(インターネット上の東洋大学シ[338]<br />奈良時代、律令制に基づく統治により、国衙機構が戸籍を編纂し、朝廷の統治領域全体に対し強力な支配を行った。しかしながら、平安時代に地方での階層分化が進み、その中で成り上がった少数の富豪百姓が零細百姓層を支配下に収めていくようになった。十世紀には国衙機構の戸籍に基づく支配、又、政権の維持に必要な税の徴収を行うことは放棄され、派遣された受領が大きな権限を持ち、富豪百姓層を介した地方支配、徴税を行う王朝国家体制が確立したのである。この王朝国家体制の下で、国衙軍制を担う兵士として、武士は誕生した。十一世紀に荘園公領制が成立すると、荘園と公領の間に武力紛争が多発し、武士が荘園の管理者として任命され、地方を実行支配することとなった。
　平安時代末期、平清盛は朝廷の内紛による保元の乱と平治の乱における武功で武家政治の基礎を築き、武士としては初めて太政大臣の地位に着いた。しかしながら、政権を得た清盛は天皇の外戚となり、政権は清盛の一族で朝廷の官位を占めるなど、それまでの摂関政治と変わらず、こうした専制政治に対し、貴族や他の武士の不満が高まった。一一八○年、後白河法皇の子、以仁王は源氏に対して、平氏追討..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星大学】日本史概説_合格レポート（2単位目）2016～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128824/]]></link>
			<author><![CDATA[ by masaike19881221]]></author>
			<category><![CDATA[masaike19881221の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Apr 2017 18:23:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128824/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128824/" target="_blank"><img src="/docs/936015621638@hc16/128824/thmb.jpg?s=s&r=1491384222&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学通信教育部 社会科 
日本史概説 2単位目合格レポート 2016年度～


【課題】
ひとつの時代を取り上げ、時代から時代の変化、または時代内での変動について、その画期と変化の特徴（どのような変化が起こったのか、何が原因か、など）に[332]<br />日本史概論_単位 2 
＜ 1、課題 ＞ 
ひとつの時代を取り上げ、時代から時代の変化、または時代内での変動について、その画
期と変化の特徴（どのような変化が起こったのか、何が原因か、など）について説明しな
さい。 
＜ 2、本文 ＞ 
昭和時代内における変動について取り上げる。昭和時代は太平洋戦争における敗戦を画
期に国の在り方が根本的に変化した時代である。その変化は様々な分野におよび到底説明
しきれるものではないが、本問においては①主権のあり方、②基本的人権のあり方、③戦
争のあり方の 3 つの観点から説明する。 
まず①について、戦前の日本において国民主権は認められていなかった。日本は 1889 年
に制定された大日本帝国憲法でアジア初の立憲君主国家となったが、立法権、行政権、司
法権などは天皇が有し、国会（帝国議会）の開設による議会政治が行われたものの、選挙
で選ばれた代表者から成る衆議院と非公選の貴族院が同格として扱われ（ただし予算先議
権は衆議院が持つ）、当初は選挙資格が制限されるなど国民の主権はほとんど認められなか
った。後に大正時代において政党内閣の成立や「大正デモクラ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星大学】社会・地理歴史科教育法2_合格レポート（2単位目）2012～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128398/]]></link>
			<author><![CDATA[ by masaike19881221]]></author>
			<category><![CDATA[masaike19881221の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 03 Mar 2017 20:56:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128398/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936015621638@hc16/128398/" target="_blank"><img src="/docs/936015621638@hc16/128398/thmb.jpg?s=s&r=1488542178&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学通信教育部 社会科 
社会・地理歴史科教育法2 2単位目合格レポート 2012年度～


【課題】
地理・日本史・世界史のひとつを選択し、中学社会科または高等学校地歴科について、具体的な学習内容を想定しながら学習指導・授業[320]<br />社会・地理歴史科教育法２_単位２ 
＜1、課題＞ 
地理・日本史・世界史のひとつを選択し、中学社会科または高等学校地歴科について、具体的な学習内容を想定
しながら学習指導・授業計画を立てよ。 
＜2、本文＞ 
【対象】：中学社会科の日本史に関する授業 
【授業テーマ】：織田信長の統一事業 
授業目標：①戦国時代から日本の再統一の流れの中で信長の果たした役割を知る（知識・理解） 
②統一事業の中で信長が行った事業について考察し、当時の社会に与えた影響を説明できる（思考・判断・表現） 
【概要】：織田信長は桶狭間の戦いで今川氏に勝利した後、天下統一を目指し、鉄砲の三段撃で有名な長篠の戦
いなどの数々の戦に勝利し、その基礎を作った。本能寺の変で亡くなった後も、豊臣秀吉が受け継いで天下統一
を成し遂げた。このように戦に強い大名という印象を持つ生徒は多いと思うが、一方で南蛮貿易、楽市楽座、関
所の廃止といった革新的な経済政策を行った一面もある。天下統一という日本史上における重要な出来事につい
て知るとともに、信長が行った個々の政策を取り上げて考察することで歴史に対する興味関心を喚起したい。 
【..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　　第二設題　2016　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128318/]]></link>
			<author><![CDATA[ by butu]]></author>
			<category><![CDATA[butuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2017 13:23:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128318/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128318/" target="_blank"><img src="/docs/934915351867@hc17/128318/thmb.jpg?s=s&r=1487996634&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学、日本史のレポートです。
1発合格で、B評価をいただきました。[99]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について。
【第一回総選挙】
　明治二十三年(一八九〇)、日本で第一回の総選挙が行われた。当時の有権者は国税を一五円以上納めている男子四万人のみであり、総人口四〇〇〇万人の役一割にのみ有権が与えられていた。また、身分に関係なく満三十歳以上の者に立候補権が与えられたことから、貴族院多額納税者議員選出の雰囲気が崩れ、全国から約一五〇〇人の立候補者が出ている。この時の政党として、旧自由党系は、大同倶楽部、愛国公党、再興自由党の三派にわかれ、改進党勢力と争い、総選挙では勝利を収めている。その後、旧自由党三派は九州進歩党を含め、立憲自由党の結成を行っており、ここに所属する議員は一三〇人、さらに立憲改進党に四一人が当選しており民党が過半数を獲得することになっている。
【初期議会時期の政党】
　総選挙の同年十一月、第一議会が開かれた。この時、超然主義で軍事増強を進める政府と予算削減や民力休養を主張する民党が対立する形となっており、第四議会までこの傾向は続いている。第一議会の焦点は、主に国家予算であり、立憲自由党は政費節減を行い、それを選挙公約であった地租軽減策に用..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　　第一設題　2016　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128317/]]></link>
			<author><![CDATA[ by butu]]></author>
			<category><![CDATA[butuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2017 13:23:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128317/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128317/" target="_blank"><img src="/docs/934915351867@hc17/128317/thmb.jpg?s=s&r=1487996634&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学、日本史のレポートです。
1発合格で、B評価をいただきました。[99]<br />鎌倉幕府と執権政治について
【鎌倉幕府の成立】
　治承四年（一一八〇）、以仁王の命旨を受けた源頼朝は武士集団の支持を得て、南関東に覇権を確立し、鎌倉に拠点を定めた。この時、全国的内乱の嵐であったが、その状況で幕府支配の足場を築き、源頼朝を首長とする軍事政権としての鎌倉幕府が成立した。そして、文治元年(一一八五)壇ノ浦で平氏一族を滅亡させ、建久元年（一一九〇）上洛し、朝廷支配層の一員に加わることや治安警察権を認められることで、幕府は軍事力の国家的位置づけが明確となる。その後の建久三年（一一九二）源頼朝が征夷大将軍の地位を獲得し、江戸幕府まで続いた武家政権の象徴となる「将軍」の名目が成立する。鎌倉幕府を支配する骨格は文治元年(一一八五)に設置された守護・地頭の実現によって支えられており、特に地頭は全国支配の支柱であった。また、公家政権と武家政権、朝廷と幕府による二重構造の政治は、この時代に確立されたものと考えられる。
【執権政治の始まり】
　頼朝時代の幕府では、頼朝個人の意思が大きな力を持っており、そのような専制支配を基盤とする体制は、その後に権力闘争を引き起こす原因となった。実際、正治..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　佛教大学　試験対策　2016]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128300/]]></link>
			<author><![CDATA[ by butu]]></author>
			<category><![CDATA[butuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2017 13:01:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128300/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128300/" target="_blank"><img src="/docs/934915351867@hc17/128300/thmb.jpg?s=s&r=1487995305&t=n" border="0"></a><br /><br />日本史の試験対策6題です。 大切な部分は下線やマーカーをしております。 2016年に試験を受け、一発で合格しました。 去年受けたばかりなので、最新版と思います。 
日本史　佛教大学 2016 試験対策[268]<br />・執権政治の展開について述べよ。 
建仁三年(1203)将軍実朝のもとで北条時政が初代執権職に就任し、建保元年(1213)、二代目執権である北条義時が政所・侍所両別当を兼任した時期が実質的な執権政治の始まり。
承久元年(1219)実朝が暗殺され、朝廷や幕府に波紋が広がった。この時、北条政子が上皇の皇子を将軍として迎え入れたいとの申し出に対し、幕府の自壊を期待していた上皇はそれを拒否しており、朝廷と幕府の間に亀裂を生んでいる。その後、承久三年(1221)、承久の乱が起こる。しかし、わずか一か月にして幕府軍は京都に乱入、上皇軍は四散し、幕府の完勝でその幕を閉じた。承久の乱では、幕府内部における将軍専制体制派と執権政治派との決戦でもあり、後者が勝利したことによって執権政治の確立に繋がっている。
承久の乱後、武家政権が大きく政治の主導権を握り、安定的な幕政の秩序構築を行う為に様々な制度が置かれており、最高合議機関の評定衆や御成敗式目51ヵ条を定め、裁判規範を定立させている。これらの制度改革により、将軍専制政治から執権政治の移行が確立。
その後、相次ぐ北条氏一門の逝去により、北条時頼が執権の時代では、その権力を掌握するため様々な抗争が起き、建長四年（1252）に皇子を将軍に迎えることで新たな権威作りに成功し、北条氏一門に権力が集中した。また、この時、北条氏一門の長は得宗と呼ばれることとなり、執権職の力は薄れ、得宗による政治が中心となっていく。
　得宗専制政治の特徴として、「執権政治の中核を占める合議体であった評定の有名無実化である。」。その表れは、文永三年（1267）、執権・連署が重事を決裁する制度が導入されていることから、評定の無実化が表れている。また、得宗専制政治では引付廃止や徳政令、越訴奉行の新設・廃止など、幕府の基盤となる御家人層を保護するための対策が行われているが、いずれも数年で反故となっている。そして、得宗専制政治を行うにあたって、当時の将軍であった宗尊が二五歳という危険な年齢に達したことから、京都に追放する事件が起きている。これは、将軍を飾りものと考える得宗専制政治の思想が表面化した事件であると考えられる。しかし、このような対策と体制は、北条権力を無限に専制化せざるをえない要因となり、それと共に反逆思想を持つ人々も増加し、それが要因となり幕府滅亡。
　初の武..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[マレー沖海戦について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935436931035@hc16/127356/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 肺胞壊死ニキ]]></author>
			<category><![CDATA[肺胞壊死ニキの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 24 Nov 2016 12:44:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935436931035@hc16/127356/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/935436931035@hc16/127356/" target="_blank"><img src="/docs/935436931035@hc16/127356/thmb.jpg?s=s&r=1479959048&t=n" border="0"></a><br /><br />マレー沖海戦について
１．はじめに
マレー沖海戦を『国史大辞典』で引いてみると「太平洋戦争開戦初頭に生起した、イギリス東洋艦隊の戦艦二隻に対する海空戦。昭和１６年（１９４１）１２月８日、日本陸軍が海軍の護衛のもとにマレー半島のシンゴラ・パタニー・コタバルに上陸したことを知ったイギリス東洋艦隊司令官長フィリップス提督は、戦艦プリンス＝オブ＝ウェールズとレパルズを率い、駆逐艦四隻に護衛させてシンガポールを出撃し、日本軍の船団泊地の攻撃を企図した。サイゴン付近の飛行場に展開していた松永貞市少将の指揮する日本海軍の中型陸上攻撃機８８機は、１２月１０日午後、攻撃を断念してクヮンタン沖を南下中のイギリス艦隊を猛攻し、雷撃と爆撃によって２戦艦を撃沈した。ハワイ海戦は停泊艦隊に対する奇襲であったが、マレー沖海戦は戦闘準備を完成して航行中の戦艦に対する航空部隊の強襲であり、それまで各海軍国が信じていた戦艦至上主義を根底から覆す結果となった。」とある。
ここでとくに重要なのは最後の戦艦至上主義を根底から覆したことである。戦艦至上主義とは、戦艦同士の砲撃戦によって海戦ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本法制史Ⅱ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935921449093@hc16/126506/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役法律事務所職員]]></author>
			<category><![CDATA[現役法律事務所職員の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 29 Sep 2016 17:15:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935921449093@hc16/126506/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/935921449093@hc16/126506/" target="_blank"><img src="/docs/935921449093@hc16/126506/thmb.jpg?s=s&r=1475136926&t=n" border="0"></a><br /><br />日本法制史レポート、江戸時代の武家諸法度について法制史的観点から、約4000字で論じています[130]<br />「日本法制史Ⅱ－中世・近世・近代」
江戸時代に定められた「武家諸法度」中、「元和令」「寛永令」「天和令」の内容を比較しつつ、それらの内容から投影される、徳川将軍家と諸大名の統治関係の変遷について説明しなさい。
　江戸幕府が最初の本格的な法整備を行ったのは、１６１５（慶長２０）年７月の武家諸法度の制定による。これを元和令と呼ぶ。その後、原則的には将軍の代替わりごとに発布されたが、１６３５（寛永１２）年の改訂（寛永令と呼ぶ）、１６８３（天和３）年の改訂（天和令と呼ぶ）などを経て、１７１７（享保２）年の改訂以後は改訂されることなく踏襲された。初期の武家諸法度が重要視されるのは、その改訂が徳川将軍家と諸大名との統治関係を反映されたものであったからである。
　まず、最初に発布された元和令の内容は次のようになっていた。
文武弓馬之道専相嗜むべきこと
群飲逸遊を制すべきこと
法度に背く輩は国々に隠し置くべからざること
国々の大名小名並びに諸給人相抱ふる士卒叛逆殺害人たるを告ぐることあらば速やかに追い出すべし
自今以後国人の外他国の者を交ぜ置くべからざること
諸国居城は修理たりといえども必ず言上すべし、況や新儀の構営は堅く停止せしむること
隣国に於いて新儀を企て徒党を結ぶ者之あらば早く言上すべき事
私に婚姻を結ぶべからざる事
諸大名参勤作法の事
（１０）衣装の品混雑すべからざる事
（１１）雑人ほしいままに乗輿すべからざる事
（１２）諸国諸侍倹約を用いらるべき事
（１３）国主は政務の器用を選ぶべき事
　元和令の諸法度は、１６１４（慶長１９）年に大坂冬の陣、１６１５（慶長２０）年の大坂夏の陣で、関ヶ原の合戦後の懸案だった最大敵対勢力の豊臣氏を滅ぼした直後に発布されたものである。第１条は武家としての心構えを説いたもので、「神皇正統記」に依拠している。元和令は、武家の頂点に立った徳川幕府が最初に発布したものであり、その権威を示すという性格も持っていたため、古典を引用する必要があったものと考えられる。第６条の城の無断修繕と新規築城の禁止、第８条の私婚の禁止、第９条の参勤交代の作法など、諸大名を統制するという幕府権力を誇示し、「元和円武」を知らしめるという強気の姿勢が伺える。
ただし、第２条の群飲逸遊の制限、第３条の法令違反者の隠匿禁止、第５条の他国者の召し抱え禁止については、元和令のみに..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第一設題　合格　A判定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124851/]]></link>
			<author><![CDATA[ by relax]]></author>
			<category><![CDATA[relaxの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 08 May 2016 21:51:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124851/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124851/" target="_blank"><img src="/docs/962649622816@hc08/124851/thmb.jpg?s=s&r=1462711915&t=n" border="0"></a><br /><br />鎌倉幕府と執権政治について。
テキスト、学習指導要領、中学校社会、高校日本史の教科書を参考にしました。
本論分の記述
　リポート作成の留意点で、年代は和年号と西暦を併記することとあった。和年号に関しては大覚寺統と持明院統で違いがある 。なお[352]<br />鎌倉幕府と執権政治について。
　本論分の記述
　リポート作成の留意点で、年代は和年号と西暦を併記することとあった。和年号に関しては大覚寺統と持明院統で違いがある 。なお大覚寺統と持明院統のどちらが正統であるかについては、今回の課題から離れたものであるため、大覚寺統と持明院統の両方とも記述するものとする。
またページ数が限られているため、記述の１度目は併記とし、２度目以降は西暦とする。
　
鎌倉幕府内における執権
政所の長官を執権とよんだが，のちに侍所の長官もかねるようになり，鎌倉幕府政治の中心となった。源頼朝の死後，鎌倉幕府（以下、幕府と省略する）の実権は，頼朝の妻政子と，その父北条時政の手にうつった。北条氏は有力な御家人をつぎつぎに倒し，源氏の将軍が３代で絶えた後は，京都から形ばかりの将軍を迎え，代々執権の地位を独占して政治を行った。北条氏で初代の執権になったのは北条時政で，２代北条義時は承久の乱に勝利し朝廷の力をおさえ，執権政治の基礎を築いた。３代北条泰時は最初の武家法の御成敗式目を制定し 、５代時頼は引付衆をおいて御家人の裁判を改善し，このころに執権政治が確立した。北条氏の家督を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R0105日本史第２設題 合格　A判定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124778/]]></link>
			<author><![CDATA[ by relax]]></author>
			<category><![CDATA[relaxの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 05 May 2016 06:15:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124778/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124778/" target="_blank"><img src="/docs/962649622816@hc08/124778/thmb.jpg?s=s&r=1462396524&t=n" border="0"></a><br /><br />初期議会から日清戦後にかけての政党について
テキストをまとめました。
高校の日本史の教科書を参考にしました。
第一回総選挙
１８９０（明治２３）年に第１回衆議院議員総選挙が行われた。[265]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について
第一回総選挙
１８９０（明治２３）年に第１回衆議院議員総選挙が行われた。旧自由党系は大同倶楽部、再興自由党派（大同協和会系）、愛国公党系の三派に分かれ、改進党系勢力と争った。そして七月の総選挙では旧自由党系勢力の勝利となった。総選挙直後、立憲自由党が再興され、旧自由党系三派は合同した。第一議会が召集された段階での所属党派別の議員数は、立憲自由党１３０名、立憲改進党４１名、大成会７９名、国民自由党５名、無所属４５名である。立憲自由党・立憲改進党の野党勢力である民党１７１名が、大成会・国民自由党・無所属の与党勢力である吏党１２９名を大きく上回り勝利した 。
第一議会
１８９０（明治２３）年１１月に第一議会が開会した。第１回総選挙に続き、第一議会も第一次山県有朋内閣である。第一議会から第四議会までは、超然主義とかかげて軍備増強を進める政府と、予算削減と民力休養と主張する民党側との激しい対立であった 。
山県首相は、主権線のみにとどまらず、その利益線の確保を主張し、そのためには陸海軍の政費増強の必要性を力説した。
民党は、軍備拡張を行なう膨大な予算に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【玉川大学】日本史「聖武天皇」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hatosaburou]]></author>
			<category><![CDATA[hatosaburouの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 03 Jul 2015 11:12:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/" target="_blank"><img src="/docs/951608480399@hc11/120901/thmb.jpg?s=s&r=1435889544&t=n" border="0"></a><br /><br />※このレポートは、玉川大学通信教育部・科目名「日本史」平成24年度課題の合格済レポートです。

教員による評価・批評は以下の通りです。

＜評価＞
A（合格）

＜批評＞
大仏建立は国家プロジェクトです。現代においては、この[322]<br />課題
　「なぜ、聖武天皇は庶民の生活を圧迫してまで遷都を繰り返し、国分寺・国分尼寺や大仏を造らせたのか。また、世の中の乱れを仏教（宗教）の力で解決できると考えたのか」
なぜ、この課題を発見したか
　聖武天皇による度重なる遷都や、国分寺・国分尼寺や大仏の建立は庶民の生活をかなり圧迫した。世の中を治める目的のためとはいえ、国分寺・国分尼寺や大仏を造らせた結果、庶民を苦しめ、世の中を乱したのではないかと思った。なぜ、国分寺・国分尼寺の建立に留まらず、あれほどの巨大な大仏を造ることにこだわったのだろうか、また、世の中の乱れを仏教（宗教）の力で解決できると思ったのはなぜなのだろうかと疑問に思った。政治や経済の力ではなく、宗教で解決できると思ったのはなぜだろうかと。現代感覚からすると、宗教で解決できるとは思えなかったからである。
何をどのように調べたか。　
　前述の課題に対して、「古代は、政治と宗教が、分けることのできない、密接な関係にあった時代であった」「政治力がなかったため、宗教の力に頼る他なかった」という仮説を立てて調査した。
　「聖武天皇」「国分寺」「国分尼寺」「大仏建立」のキーワードを百..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 R0105日本史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120085/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120085/thmb.jpg?s=s&r=1430531630&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について
　わが国の議会の歴史をかえりみるに、それは議会の構成メンバーであった議員が所属する政党の歴史であったといっても過言ではない。ただしいつの時代においても政党が有権者の民意を吸い上げることができる集団であり得たかというとそうではない。政党を構成する議員も一人の人間であり、その人間達が作り出す政治には数々のドラマが秘められているのである。以下では、わが国の議会の黎明期ともいえる、初期議会から日清戦争後にかけての帝国議会の推移を概観し、そこにおいて政党が果たした役割を確認してみる。
１．１８８０年代の政党
明治時代の政治は、倒幕に功のあった藩閥政治家によって牛耳られていた。それに対して、自由民権運動などを通じて、藩閥以外の思想家・運動家たちが政治への参加を求めるという構図が成り立っていた。１８８１年（明治一四年）に国会開設の勅諭が出されるや、民権派により政党が結成されていく。板垣退助が中心となった自由党や、大隈重信が中心となった立憲改進党がそれである。前者はイギリス流の立憲思想を、後者はフランス流の民権思想をスローガンとしていた点にそれぞれの特徴があ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 R0105日本史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120084/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120084/thmb.jpg?s=s&r=1430531629&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />鎌倉幕府と執権政治について
　鎌倉幕府はその初代将軍の源頼朝の死後、執権政治へと移行したと一般的には言われている。執権とは政所別当の中心者を指し、１２０３年（建仁三年）に政所別当となった北条時政が初代の執権とされている。そして以後約１３０年の間、北条氏により執権職が受け継がれ幕府が運営されていく。以下では、この執権を中心に進められた執権政治のあり方を、主に将軍との関係という観点から概観し、執権政治の一面を考察してみたい。
１．執権と執権政治
鎌倉時代の執権政治を考察するにおいて、執権政治というものがいつ開始したのかという点を明らかにしておく必要がある。この点に関して、執権職を代々独占した北条氏の権力基盤というものを考えてみるに、ひとえに初代将軍である源頼朝の妻である北条政子の血筋であるという血縁関係であるというよりほかはない。すなわち、北条氏は政子の存在を経由することで将軍の遠戚であった。ただし、政子自身は頼朝亡き後、承久の乱における諸御家人への演説や二代将軍頼家暗殺事件を理由とする時政排除などにおいて常に政治の中心人物となっていた。したがって、少なくとも執権政治の成立を考えるにおいて..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星過去問＆解答例】日本史概説]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120142/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 100tr]]></author>
			<category><![CDATA[100trの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 06 May 2015 22:35:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120142/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120142/" target="_blank"><img src="/docs/946941203283@hc13/120142/thmb.jpg?s=s&r=1430919301&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学科目終了試験、日本史概説の過去問と解答例です。
２０１４、１５年度はこの中からほぼ使い回しで出題されています。
今後もその傾向は変わりません。
解答を事前にまとめておくことで試験を突破しましょう。[300]<br />作成者：１００ｔｒ
明星大学科目終了試験　過去問＆解答例
日本史概説
*
*
*
*
******以下、問題と解答例******
*
*
1.縄文時代の特徴について、旧石器時代との道具の変化に注目して説明しなさい。
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。旧石器時代は石を打ち砕いてつくられた打製石器を使用し、たて穴式住居に住んでいたが、縄文時代は土器や他の石材で擦ることにより磨いて凹凸を極力なくした磨製石器を使用し、食料の調理や保存なども行われていた。特に縄文時代には大型の建物をつくり、縄で模様をつけた土器や祀に使う祭具なども使用されていた。 
2.3世紀から5世紀にかけての日本と中国との外交関係の特徴について説明しなさい。
3世紀〜5世紀頃の中国は「漢」&rarr;「三国(魏・呉・蜀)」&rarr;「晋」と移り変わり、主に日本とは、漢や三国の魏との外交があったとされている。まず漢の時代、日本の福岡付近にあった小国「倭の奴国」が漢に使いを送り、光武帝から金印を授けられたことが、後漢書という5世紀に書かれた漢の歴史書に記録されている。また、3世紀の日本は卑弥呼を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【２科目】【明星過去問＆解答例】日本史概説、外国史概説]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120139/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 100tr]]></author>
			<category><![CDATA[100trの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 06 May 2015 22:34:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120139/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946941203283@hc13/120139/" target="_blank"><img src="/docs/946941203283@hc13/120139/thmb.jpg?s=s&r=1430919299&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学科目終了試験、日本史概説と外国史概説の過去問と解答例セットです。
２０１４、１５年度はこの中からほぼ使い回しで出題されています。
今後もその傾向は変わりません。
解答を事前にまとめておくことで試験を突破しましょう。[327]<br />作成者：１００ｔｒ
明星大学科目終了試験　過去問＆解答例　【２科目】
日本史概説，外国史概説
*
*
*
日本史概説
*
******以下、問題と解答例******
*
*
1.縄文時代の特徴について、旧石器時代との道具の変化に注目して説明しなさい。
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。旧石器時代は石を打ち砕いてつくられた打製石器を使用し、たて穴式住居に住んでいたが、縄文時代は土器や他の石材で擦ることにより磨いて凹凸を極力なくした磨製石器を使用し、食料の調理や保存なども行われていた。特に縄文時代には大型の建物をつくり、縄で模様をつけた土器や祀に使う祭具なども使用されていた。 
2.3世紀から5世紀にかけての日本と中国との外交関係の特徴について説明しなさい。
3世紀〜5世紀頃の中国は「漢」&rarr;「三国(魏・呉・蜀)」&rarr;「晋」と移り変わり、主に日本とは、漢や三国の魏との外交があったとされている。まず漢の時代、日本の福岡付近にあった小国「倭の奴国」が漢に使いを送り、光武帝から金印を授けられたことが、後漢書という5世紀に書かれた漢の歴史書に記録されている。また、3世紀の日本は卑弥呼を中心に30余りの小国が連合していたといわれる邪馬台国という国が、魏との交流をしていたのが中国の歴史書の一部である魏志倭人伝に記録されている。なお、魏志倭人伝には卑弥呼のことも記されており、当時の日本の歴史を知ることのできる貴重な資料である。
3.天武・持統天皇時代の政治の特徴について説明しなさい。
天武天皇は天智天皇の弟で、天皇に即位する前は大海人皇子といった。天武天皇は天智天皇を助けて改新政治を推し進めたが、672年の壬申の乱で大友皇子をたおした後に飛鳥で即位し、天皇の地位を高める政治を強力に進め、浄御原律令や国史の編纂、富本銭と呼ばれる銅銭の製作などを始めた。持統天皇は天智天皇の子で天武天皇の皇后である。天武天皇の死後即位して天皇となり、最初の本格的な都である藤原京を完成させるなど律令国家の完成につくした。その後、701年の大宝律令の制定により政治のしくみが整えられ、律令政治と呼ばれる貴族を中心に律令に基づく政治が行われた。
4.武士とは何か、その発生を含めて説明しなさい。
武士は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した宗家の主人を頂点..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史②]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117679/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gtkimuchan]]></author>
			<category><![CDATA[gtkimuchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 03 Jan 2015 16:26:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117679/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117679/" target="_blank"><img src="/docs/947489642217@hc13/117679/thmb.jpg?s=s&r=1420269991&t=n" border="0"></a><br /><br />大学に提出するレポートとして作成したもので、よい評価を頂きました。テスト勉強の参考にもなれば嬉しいです。[156]<br />外敵に国土を侵されたことのない東海の島国にとって蒙古襲来は延々と語りつがれる大事件であった。。一騎で立ち向かう日本の武士に対して集団戦法を用いて戦う蒙古軍。毒矢やてつはうなどが使われ、今まで日本の武士達が見たことも経験したことのないような戦いの末、神風（台風）が吹いてなんとか国難を逃れたといわれている。叶わぬ時の神頼みともいえる神風はその後も盛んに語られ、第二次世界大戦の特攻隊の名前にも用いられることにもなった。今回はこの蒙古襲来について、果たして神風は吹いたのか、またもし吹かなかったら日本はどうなっていたのだろうかという点について考察していきたい。
ことの発端は文永五年、蒙古の皇帝フビライが通商を求めて国書を日本に送ってきたことに始まる。時の意執権北条時宗は「所詮、諜状の体、無礼なるよりにて」と拒絶。フビライはその後、七年間に六度の元・高麗諜使を派遣したが、日本側はそれをすべて峻拒黙殺したのである。
業を煮やしたフビライは高麗で反乱を起こしていた三別抄が鎮圧されたのを受けて、朝鮮を日本侵略の拠点として日本遠征を決断する。世にいう文永の役である。約三万人とも言われる元・高麗の混成軍は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117678/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gtkimuchan]]></author>
			<category><![CDATA[gtkimuchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 03 Jan 2015 16:26:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117678/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947489642217@hc13/117678/" target="_blank"><img src="/docs/947489642217@hc13/117678/thmb.jpg?s=s&r=1420269990&t=n" border="0"></a><br /><br />大学に提出するレポートとして作成したもので、よい評価を頂きました。邪馬台国論争について考察したものです。
弥生時代のテスト勉強の参考にもなれば嬉しいです。[229]<br />今なおその所在がはっきりとしないまぼろしの国、邪馬台国。そして、これまたはっきりとした素性の分からない女王卑弥呼。日本国家の始まり、あるいは大和朝廷の起源という点で自分自身とても興味があり、改めて色々な学説を比べて見て、自分なりの見解を出してみたいと思った。
　今回邪馬台国について考察する論点は大きく二つである。一つ目は、邪馬台国はどこにあったのかということ。二つ目は卑弥呼の死後「壹興」という女性が後を継ぐことになるが、その後、邪馬台国はどうなったか。さらに言えば四世紀から、奈良盆地に誕生する大和政権と邪馬台国は関係があるのかということである。
邪馬台国の存在を記した魏誌倭人伝の内容は魏の使いが二三〇年頃、邪馬台国を訪問したときの紀行文と、その後の邪馬台国から魏国への報告の二つを情報源に書かれている。特に邪馬台国の所在を探るのに重要なのが、魏の使者の紀行文である。これには、魏国から朝鮮半島、対馬、壱岐を経て、九州の伊都国に至る方向と距離が記述されている。しかし、魏の使者は、伊都国までは足を運びながら、肝心の邪馬台国には、実際に足を運んでいない。そこから先は、伝聞形式で、周辺の国々の方向..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[＜2013～2016年課題＞明星大学　通信教育　教育学部　　日本史２（WJ1140）　１単位目　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113435/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ろっく５４]]></author>
			<category><![CDATA[ろっく５４の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 13 Jun 2014 17:55:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113435/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113435/" target="_blank"><img src="/docs/945057058497@hc13/113435/thmb.jpg?s=s&r=1402649745&t=n" border="0"></a><br /><br />★明星大学　通信教育　教育学部　　日本史２（WJ1140）　１単位目　合格レポート
○使用テキスト：教養の日本史　第２版（東京大学出版会）
○成績　合格
○講評　１・２ともよく書かれているレポートです。田沼政治は現代の資本主義社会に通じるよ[342]<br />★明星大学　通信教育　教育学部　　日本史２（
WJ1140
）　１単位目　合格レポート
○使用テキスト：教養の日本史　第２版（東京大学出版会）
○成績　合格
○講評　１・２ともよく書かれているレポートです。田沼政治は現代の資本主義社会に通じるような政策を
　　　　　　とっていました。農本主義的な三大改革と対比させて理解するようにしてください。
○１単位目　１．田沼意次の政治の内容と歴史的意義・問題点について論述せよ。
　　　　　　　　２．元禄文化と化政文化を比較しつつ論述せよ。
○レポート本文
１．田沼意次は 
10 
代将軍・徳川家治の時代
、
幕府の財政
を
再建
する
ため
に
、政策を出したである。
その
彼
った政治とは
いったい
どういったものだったのだろうか。
　時代は、３改革をたにもら成
それなりに
出すこときたのはの改革
の
あり
、
その後
の財政は改善
し
なかった。
に
は、
もちろん
家代のもある幕す
る
ために
のかっていたということも大きい。幕府、大名
や
とも、は家格をしなければ
ならすることきなかった。こうした社会の改革
をこときなかったことが
、
的..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[＜2013～2016年課題＞明星大学　通信教育　教育学部　　日本史２（WJ1140）　２単位目　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113414/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ろっく５４]]></author>
			<category><![CDATA[ろっく５４の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 12 Jun 2014 18:55:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113414/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/113414/" target="_blank"><img src="/docs/945057058497@hc13/113414/thmb.jpg?s=s&r=1402566955&t=n" border="0"></a><br /><br />★明星大学　通信教育　教育学部　　日本史２（WJ1140）　２単位目　合格レポート

○使用テキスト：教養の日本史　第２版（東京大学出版会）
○成績　合格

○講評　１・２ともよく書かれているレポートです。明治維新は日本史上最大の改革です。[338]<br />★
明星大学　通信教育　教育学部
　　日本史２
（
WJ1140
）　２単位目　合格レポート
○
使用テキスト：教養の日本史　第２版
（東京大学出版会）
○
成績　合格
○
講評　１・２ともよく書かれているレポートです。
明治維新は日本史上最大の改革です。問題点も含めて
　　　　　よく理解するようにしてください。
○
１単位目　１．明治維新の歴史的意義について論述せよ。
　　　　　　　　２．朝鮮戦争前後の政治・経済的変化について論述せよ。
○レポート本文
１．明治維新は、鎌倉以来続いてきた武家政権に終止符を打った画期的な政治改革である。の
らへとした歴史とると、から明治変化はに
である。
　は権であった。はのとていたでは
権った。のもとにとされていた。革もの位置づけは変化したと郡
はされ、新たな政権はそのまま使用できた。
　日本の、は、大ととのでされた。は、、司
の権、はをするをていた。の権で、
だった。しかし、のはにていた。経済の新よって、政の維も
した。も藩も、新たな変化にしようとで、も改革をた。しかし武的・的
で、で、さらにはなかった。
　のには、このすることあった。のとの
よう..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[＜2013～2016年課題＞明星大学（通信教育）教育学部　日本史 1（WJ1130）　１単位目　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/110941/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ろっく５４]]></author>
			<category><![CDATA[ろっく５４の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 08 Mar 2014 17:27:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/110941/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945057058497@hc13/110941/" target="_blank"><img src="/docs/945057058497@hc13/110941/thmb.jpg?s=s&r=1394267241&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学（通信教育）教育学部　日本史 1（WJ1130）　１単位目　合格レポートです。

1600字程度で提出したところ、記述が少ないとの指摘を受けました。
日本史は2000字程度まで記述してから提出されることをお勧めします。[301]<br />明星大学（通信教育）教育学部　日本史
1
（
WJ1130
）　１単位目　合格レポート
使用テキスト：教養の日本史第２版（竹内誠・佐藤和彦・君島和彦・木村茂光編）東京大学出版会
○成績　合格
○講評　１・２とも基本的な点は述べられていますが、少し記述が少ないようです。
　用紙いっぱいを使用するようにしてください。
○課題　１．　五世紀の日本と中国の関係について、倭の五王を中心に論述せよ。
　　　　　 ２．　都城制について、平城京を中心としてその問題点も含めて論述せよ。
○レポート本文
１　紀元１００年前後の時点において、倭国は誕たとられる。３世紀後ら倭の五王の
時るまで、倭国と中国のはえていた..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[京都を他の都市と比較する]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/944274535529@hc14/110299/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たびがら]]></author>
			<category><![CDATA[たびがらの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Feb 2014 15:41:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/944274535529@hc14/110299/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/944274535529@hc14/110299/" target="_blank"><img src="/docs/944274535529@hc14/110299/thmb.jpg?s=s&r=1391582501&t=n" border="0"></a><br /><br />観光都市である京都が他の都市と比較しても歴史的建造物や文化遺産などが数多く現存していることに起因するようである。観光資源である歴史的な建築物を残すため、京都は景観と現代的な建築との関係性を守るさまざまな取り組みがなされていたのである。この取[360]<br />行政と市民からみる京都らしさ
筆者が京都にまで通学するようになり、まず驚いたのが建築物の違いである。高層ビルなどがなく、町家を改装したカフェやレストランなど京都らしさを感じるものが数多く存在する。中でも、一番衝撃的だったのはファーストフード店やコンビニエンスストアなどの看板の色使いやサイズの違いであった。これは、観光都市である京都が他の都市と比較しても歴史的建造物や文化遺産などが数多く現存していることに起因するようである。観光資源である歴史的な建築物を残すため、京都は景観と現代的な建築との関係性を守るさまざまな取り組みがなされていたのである。この取り組みは行政による拘束力を伴った法的根拠にも由来している。例えば、京都市は、国によって「文化財保護法」「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」といった施策と併せ、「国際観光文化都市」の指定を受けている。京都市独自の景観条例は、2005年の景観法施行を背景として実行力を伴う形になったのではないか。以降、賛否両論の議論が続きながらも、条例による規制は年々厳格化していることからも明らかである。今では、無秩序的であった屋外広告..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史B学習指導案]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949820925404@hc12/104036/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chikuta]]></author>
			<category><![CDATA[chikutaの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 Jun 2013 10:56:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949820925404@hc12/104036/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949820925404@hc12/104036/" target="_blank"><img src="/docs/949820925404@hc12/104036/thmb.jpg?s=s&r=1370915772&t=n" border="0"></a><br /><br />◆2013年春に私が研究授業で作成・使用したものです。（私は現在私立高校に勤務しています）
◆エクセルデータにつき、上の表示では改ページが正しく表示されていませんが、実際はＡ４用紙2枚におさまるようにしてあります。
◆単元は明治時代の条約改[346]<br />ハ 
リュウイテン メイ 
学校名 
シドウ 
ジョウ 
日時 ガッコウ ２．使用教材 
メイ シヨウ 
ニチジ 授業者 ４．生徒観 
ジュギョウ キョウザイ 
カン 
３．教材観 
キョウザイ 
セイト 
13:00～13:50 ナカ 
エイゾウ 
ノコ 
がけたい。また、様々な作業（手を動かすこと）を通して、生徒授業参加・吸収の場にしたいと考える。 
平成25年3月16日（土） 
ヘイセイ 
大単元 タカ 
ズ 
トウ 
モチ 
アタマ 
ダイ ジ 
１．単元名 
タンゲン 
タンゲン カン ５．指導観 
小単元 
シャ 
ネン 
ツキ 
ド 
ニチ 
ホン 
ショウ タンゲン 指導上の留..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史Ｂ 単位認定論文]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102365/]]></link>
			<author><![CDATA[ by aaasfa]]></author>
			<category><![CDATA[aaasfaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Apr 2013 14:21:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102365/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102365/" target="_blank"><img src="/docs/948962408395@hc12/102365/thmb.jpg?s=s&r=1365139263&t=n" border="0"></a><br /><br />一九一二年十二月、長州出身者である桂太郎が内閣総理大臣になる。藩閥政治と批判され、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが、憲政擁護会を作り、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとして第一次護憲運動を起こした。桂は立憲国民党の過半数を離党することにより党を分裂させ、天皇の詔勅により立憲政友会をとり静めようとした。しかし、翌年二月九日の憲政擁護第三大会に二万人集まり、桂は激化を恐れ辞職した。藩閥政治の行き詰まりを示し、民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例である。
　一九一三年二月、薩摩閥・海軍出身の山本権兵衛が立憲政友会と連携し内閣を組閣した。政党内閣を望んだ世論を裏切る結果となり、尾崎行雄は離党し政友会の中心である原敬が内務大臣として入閣した。文官任用令の改正、行財政整理を行い、第二次西園寺内閣が倒れるきっかけとなった軍部大臣現役武官制を改正し、「現役に限る」という規定を削除した。世論は、営業税・織物消費税・通行税の悪税の廃止を求めた。議会で海軍の増強と増税の予算が審議されていた時期に、海軍高官の収賄事件であるシーメンス事件が発覚し、総辞職にまで追い込まれた。
　一九一四年、大隈..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史Ｂ　 課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102364/]]></link>
			<author><![CDATA[ by aaasfa]]></author>
			<category><![CDATA[aaasfaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Apr 2013 14:21:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102364/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102364/" target="_blank"><img src="/docs/948962408395@hc12/102364/thmb.jpg?s=s&r=1365139262&t=n" border="0"></a><br /><br />江戸時代の百姓についてのリポートです。 あくまで参考にしてください。[100]<br />近世初期に幕府が設置した藩は、給人知行所の支配を廃止し、村は大名領主が管理することになる。荘園制度により土地の所有者が複雑になり、用益が不安定で地域によって偏差が生じた。豊臣秀吉による太閤検地は、百姓が独自に築いた生活共同体を軸として、小さな村をとりまとめて編成したり、広大な土地の村を分画したりして、荘園制度を崩壊させ、複雑化していた土地と農民を村毎に分属させた。山林や漁場は、基本的に周辺の村に入会地として所属した。
　子どもらは十五歳になれば、一人前の村人として認められ、男は若者組、女は娘組に属しその中で仲間との交流を深め、集団の規律を学んだ。若者組は、若衆宿という共同生活のための施設を所有した。その一員は、村の力仕事を率先して行い、消防や警察などの役割や、村の神社の祭礼も担い、村のために協力し合う。
　村内の上層階層以外の百姓は、経営が不安定であるために、土地を質入れして借金した。その際に借金の返済期限に請戻しが出来なくとも、質入れした土地は質流れされない慣行が全国各地で起きた。返済期限が過ぎた後、元金さえ支払えば請戻し出来、始めから請戻し期限を設定しないことさえもある。貸す側の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史Ｂ 課題2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102359/]]></link>
			<author><![CDATA[ by aaasfa]]></author>
			<category><![CDATA[aaasfaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Apr 2013 00:06:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102359/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948962408395@hc12/102359/" target="_blank"><img src="/docs/948962408395@hc12/102359/thmb.jpg?s=s&r=1365087996&t=n" border="0"></a><br /><br />自由民権運動についてのリポートです。 あくまで参考にしてください.[95]<br />一八七三年、板垣退助らは武力で朝鮮を開国させるか、させないかを議論した征韓論争で敗れ下野した。翌年に板垣らは、東京で愛国公党を設立し、明治政府の藩閥官僚主義に対する批判と民撰議院の設立を求める民撰議院設立建白書を提出した。イギリス人のブラックが、民撰議院設立建白書を新聞に取り上げ、日本中で民撰議院設立についての論争が起きた。政府は民撰議院を設立することに対して、まだその時期ではないとして認めなかった。愛国公党は、江藤新平が佐賀の乱に加担したために崩壊した。
　西郷隆盛と板垣らが、明治六年の政変で下野したために、政府の影響力が弱まっていたので、一八七五年、伊藤博文は下野していた板垣と木戸孝允と大阪で話し合い、段階的に立憲政体を構築すること、政府に二人が復帰することを決めた。政府は、立法機関である元老院と審判権を持つ大審院と地方官を集め、話し合う会議をすることが記載された立憲政体の詔書を発表した。しかし、必ずしも実行する必要がなかったために、板垣は参議を辞任した。
　民撰議院設立に対する意見が様々な新聞で取り上げられ、自由民権運動は高揚した。一八七五年、政府はその高揚の対策として、新聞な..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史設題　１・２セットB評価　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/101323/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みっちゃん]]></author>
			<category><![CDATA[みっちゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 Mar 2013 13:55:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/101323/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/101323/" target="_blank"><img src="/docs/955990722919@hc10/101323/thmb.jpg?s=s&r=1362200120&t=n" border="0"></a><br /><br />教科書・参考資料を参考に作成したオリジナルレポートです。レポート作成の参考にして下さい。丸写し不可でお願いします。[171]<br />第１設題『鎌倉幕府と執権政治について。』
第２設題『初期議会から日清戦後にかけての政党について。』
第１設題
はじめに
鎌倉幕府は源頼朝によって創立された武家政権である。その成立時期に関しては、頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年（１１９２）説・頼朝が守護地頭の設置を勅許された文治元年（１１８５）説・頼朝が宣旨によって東国支配権を承認された寿永二年（１１８３）説などがあるが、現在の学説では文治元年説が最も有力だとされている。このレポートでは、鎌倉幕府の成立と展開を把握するにあたり、多元的な幕府の統治構造の中でも執権政治に注目してまとめていきたいと思う。
執権政治とは
鎌倉幕府において、執権は将軍の補佐として政務を統括する職務であり、初代執権は北条時政が務めた。時政は元々桓武平氏であったため、流刑中の頼朝の監視役を任されていた弱小豪族である。しかし、娘の政子と頼朝が結婚した後は頼朝側につき、陰謀計謀を物ともせずに他の有力豪族と対等の立場まで北条家を引き上げた。そして、二代執権の北条義時は、父の手法を引き継いで北条氏の事績を高めた。しかし、源氏最後の血筋である三代将軍実朝が暗殺されると、公卿から推戴された二歳の将軍が幕府の頂点に座った。そして、幼将軍に代わって頼朝の妻であった北条政子が事実上幕政の実権を握る事になる。この時、二代執権の義時も政子と共に幕政に携わるが、まだこの時期においては執権政治の確立はなされていない。いわゆる北条氏が世襲制によって執権地位を独占し、幕府の実権を掌握する政治体制としての執権政治が成立するのは、尼将軍政子が亡くなってからの事となる。次章では、執権政治が成立するまでの流れを確認していきたい。
北条氏専制への流れ
初期の鎌倉幕府
平氏が滅亡して鎌倉幕府が成立すると、頼朝の専制支配を基調とした幕政体制が出来上がった。しかしこの体制は将軍候補を擁立した御家人同士の権力闘争を引き起こし、頼朝没後は将軍位をめぐる争いが更に顕著になっていった。そして、幕府内部の対立が緊迫した承久元年（１２１９）に、三代将軍実朝が公卿によって暗殺されるという事件が発生する。この事件は、実朝を通じて間接的に幕政に介入し、国政の主導権を握ろうとしていた後鳥羽上皇にも大きな影響を与えた。後鳥羽上皇は、幕府成立後も鎌倉における武家政権（将軍独裁）と、京都における公家政権（院政..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[教員採用試験対策：社会科学②日本史編お試し版]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959126901630@hc09/98448/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hagepin56]]></author>
			<category><![CDATA[hagepin56の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 14 Nov 2012 19:15:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959126901630@hc09/98448/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959126901630@hc09/98448/" target="_blank"><img src="/docs/959126901630@hc09/98448/thmb.jpg?s=s&r=1352888149&t=n" border="0"></a><br /><br />試作中の日本史版です。
おそらく完成版は３０ページほどになるかと思いますが、
その内最初の２ページをお試し版としてアップします。[188]<br />１．１世紀～６世紀中頃まで
な奴こく国王
後漢：光武帝
な奴こく国王
後漢：光武帝
１世紀
朝貢外交
金印
　　「かんのわの漢委なの奴こくおう国王」：福岡博多湾で発見
ご後かんしょ漢書とういでん東夷伝
卑弥呼
（邪馬台国）
魏
卑弥呼
（邪馬台国）
魏
３世紀
朝貢外交
　金印
　　「しん親ぎ魏わ倭おう王」
　銅鏡　　　　　：奈良県桜井市、箸墓古墳
ぎ魏し志わじんでん倭人伝
倭の五王
（大和政権）
倭の五王
（大和政権）
５世紀
＋くだら百済
くだら百済
巨大化
巨大化
こうく高句り麗
＋
しらぎ新羅
こうく高句り麗
＋
しらぎ新羅
　　　　　　　　　　　　　　前方後円墳へ
　　　　　　　　　..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史概説分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/98360/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 日大のクレイジータイガー]]></author>
			<category><![CDATA[日大のクレイジータイガーの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 08 Nov 2012 18:21:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/98360/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/98360/" target="_blank"><img src="/docs/951309246590@hc11/98360/thmb.jpg?s=s&r=1352366510&t=n" border="0"></a><br /><br />次の二問について、すべて答えなさい。一、近世の文化について、前期の寛永文化、中期の実学の発展、後期の洋学の発展のそれぞれについて概観しなさい。二、明治六年政変と明治十四年政変における板垣退助と大隈重信の下野から隈板内閣の成立までの政治過[356]<br />一、近世の文化について、前期の寛永文化、中期の実学の発展、後期の洋学の発展のそれぞれについて概観しなさい。
　十七世紀前半の寛永文化はサロン文化と呼ばれている。中世以来の座や寄合の伝統を受け継ぎ、身分や階層ごとにサロンが形成され、それが連鎖したかのように交友が行なわれた。サロン文化の中心となったのが数寄屋風書院などで行なわれる茶の湯と和歌であった。「かぶき」の時代も終焉を迎え、「きれいさび」と呼ばれる穏やかな優美さの精神があふれた。
　本阿弥光悦や俵屋宗達が残した作品も寛永文化の美意識を代表している。彼らは好んで『源氏物語』や『伊勢物語』、『枕草子』や『古今和歌集』などの古典文学を題材に選び、日本版ルネサンスに貢献した。さらに木活字による製版が始まり、仏教書や学問書の出版が行なわれた。また仮名草子や俳楷書、往来物なども出版され、都市部だけではなく農村部にも広く普及していった。寛永文化はまさに啓蒙時代への先駆けであった。
　十七世紀後半の元禄時代には、諸産業の発達に伴い、人々の日常生活に役立つ実学が発展した。まず農業では農業技術が体系的に論じられた農書が作られた。『農業全書』を著した宮崎..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[江戸時代の生活と経済について述べよ。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950873175358@hc12/98051/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ラルース]]></author>
			<category><![CDATA[ラルースの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 27 Oct 2012 00:00:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950873175358@hc12/98051/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950873175358@hc12/98051/" target="_blank"><img src="/docs/950873175358@hc12/98051/thmb.jpg?s=s&r=1351263607&t=n" border="0"></a><br /><br />判定A[7]<br />江戸時代の生活と経済について述べよ。
　普段の生活ではあまり意識はしないが、いつでも経済と密接に関わっている。他人のつくった物を食べ、他人のつくった物を着たり、使ったりする。他人なしの生活では生きていけないと言えるほどである。つくる人、集める人、運ぶ人、売る人などのさまざまな人の手を経て私たちの手元に物が届く。その代金はつくる人、集める人、運ぶ人、売る人へ遠回りに渡っていく。世の中は「もの」と「金」が数え切れない人と人をつなげているのである。この「もの」と「金」の流れが経済であるからつねに経済と密接に関わっているわけである。この流れは江戸時代でも同じであった。
1．農民と米本位経済
　しかし、現代と江戸の経済には異なることが一つある。幕府が農民に米を年貢として納めさせ、これを武士に給料として配分し、武士はもらった米を現金に換えるという流れをとっていたことである。現代では給料も税金も金で支払うが、江戸時代では米は金の代わりとなる部分が多くあり、「米遣いの経済」あるいは「米本位経済」とも呼ばれており、これが江戸時代の経済の基本であった。
　武士の給料だけでなく幕府の財政も米に頼っていたため..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【H25.26年度対応】0620/0621日本史概説・概論＜分冊1＞日本大学通信教育部／評価Ｓ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/98013/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おっちん]]></author>
			<category><![CDATA[おっちんの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Oct 2012 12:37:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/98013/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/98013/" target="_blank"><img src="/docs/953129414172@hc11/98013/thmb.jpg?s=s&r=1351049854&t=n" border="0"></a><br /><br />【参考文献】王朝政治／森田室町の王権／今谷明http://www14.plala.or.jp/hiro_1/nihon/tyuusei/005.htmhttp://www.ktmchi.com「10世紀以降の受領と国司」[182]<br />国司とは、古代から中世の日本で、律令制社会において、中央から派遣され、諸国の政務を管掌した地方官をさす。大化の改新時に始まり、当初は国宰と呼ばれ、全国一律に設置されず、上層には国宰を統括する大宰が設置された。その後7世紀末までに令制国の制度が確立するのに伴い国司が全国的に配置されるようになった。
７０１年の大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成され、中央集権的な律令制が布かれた。国司は非常に重要な位置に置かれ、戸籍の作成、租庸調の収取などが職務にあたり、律令制の理念を日本全国に貫徹することが求められていた。
平安時代になると、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。それは、律令制的な統治方法でなくても、一定の租税を徴収することが可能になったからである。一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない国司（遥任）が多数現れるようになり、代わりに現地赴任する国司の中の最高責任者が受領と呼ばれるようになった。平安時代中期以降、開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【H25.26年度対応】0620/0621日本史概説・概論＜分冊２＞日本大学通信教育部／評価Ｓ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/97886/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おっちん]]></author>
			<category><![CDATA[おっちんの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2012 00:12:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/97886/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/97886/" target="_blank"><img src="/docs/953129414172@hc11/97886/thmb.jpg?s=s&r=1350486755&t=n" border="0"></a><br /><br />【参考資料】概論 日本歴史／佐々木潤之助、佐藤信ら著http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96[143]<br />1.前期、安土桃山時代にはヨーロッパの新しい異文化がもたらされた。種子島での鉄砲伝来はじめ、ヨーロッパの地理学・天文学・医学や航海術・印刷術、ヨーロッパ風の服装・食物・器物など多様な文化が流入した。イエズス会などの宣教師たちがキリスト教の布教を進めたのもこの頃である。十七世紀前半、「元和偃武」により「かぶき」の時代は終わり、秩序化の時代が始まった。この寛永文化はサロン文化とも言われ、中世以来の座や寄合の文化を受け継ぎ、天皇・公家・武家らがいくつかサロンを形成した。主に、茶の湯と和歌が中心になり、繊細優美な山荘や別荘に赴き、交遊を楽しんだとされる。立花も愛好され、二代目池坊専好が、優美で繊細な作風を示し、広く受け入れられた。
中期には、政権が安定し、鎖国により外国と隔絶された日本では、再び独自の文化が発達した。寺子屋や藩校の普及により読み書き算盤が広く浸透し、幕府奨励の儒学のほかに本草学などの自然科学が育った。諸産業の発展に伴い、元禄時代には実学が発展する。人々の生活に役立つ学問、理論や古典の解釈でなく、実際の見聞にもとづく学問が求められるようになった。農業では、宮崎安貞の「農業全書」や..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[専修大学教職社会科必修日本史a]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948876677435@hc12/96258/]]></link>
			<author><![CDATA[ by かつおのえぼし]]></author>
			<category><![CDATA[かつおのえぼしの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Aug 2012 23:49:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948876677435@hc12/96258/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948876677435@hc12/96258/" target="_blank"><img src="/docs/948876677435@hc12/96258/thmb.jpg?s=s&r=1345560550&t=n" border="0"></a><br /><br />2011年度専修大学教職中学社会科教員免許必修科目日本史の課題レポート。
歴史的差別をテーマにした指導案の作成。[158]<br />２０１１教職日本史a
前期レポート課題
前期講義の感想
えた・ひにんというワードについて、小中高と授業を受けてきて特に注目して考えたこともなかった。受験ワードの一つくらいにしか思っていなかった。それは自分が実際に部落差別という状況に関わった、あるいは見聞きしたことがなかったためである。身分制度は江戸時代で終わり、身分解放令によって階級差別はほぼなくなったものだと信じていたこともある。調べてみると、現在でも関西方面では被差別地域が存在することを知り、驚いた。学校教育のなかで、関東地方では寝ている子を起こすなという状態ではあるが、改めてどのようなものか学ぶ機会として良いと思う。
高等学校総合科目：..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 2011年度 R0105 日本史 第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93903/]]></link>
			<author><![CDATA[ by へんとう]]></author>
			<category><![CDATA[へんとうの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 Jun 2012 16:20:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93903/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93903/" target="_blank"><img src="/docs/956203737974@hc10/93903/thmb.jpg?s=s&r=1338621647&t=n" border="0"></a><br /><br />2012年度 Q0101 日本の歴史と同じ課題です。

初期議会から日清戦後にかけての政党について。[124]<br />この資料について
課題名
2011年度 R0105 日本史 第二設題：初期議会から日清戦後にかけての政党について。
この資料は佛教大学通信教育部の2011年度のレポート課題に対して、私なりの理解、解釈に基づいて書いたものです。
以降この科目を履修される方が、この資料を参考にしてより良い理解の下にレポートを作成出来るよう、参考資料としてこのレポートを提供させて頂きます。
初期議会から日清戦後にかけての政党について。
　明治初期の自由民権運動を背景として国会開設を求める運動が高まり、一八八一(明治一四)年に国会開設の勅諭が出された。この勅諭によって一八九〇年までに国会を開設することが定められ、実際に一八九〇年に初めての国会が開かれる事となった。
まずは第一議会に先駆けて、一八九〇(明治二三)年に第一回衆議院議員総選挙が行われた。旧自由党系は大同倶楽部、再興自由党派(大同協和会系)、愛国公党系の三派に分かれ、改進党系勢力と争った。そして七月の総選挙では旧自由党系勢力の勝利となった。総選挙直後、立憲自由党が再興され、旧自由党系三派は合同した。第一議会が召集された段階での所属党派別の議員数は、立..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 2011年度 R0105 日本史 第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93902/]]></link>
			<author><![CDATA[ by へんとう]]></author>
			<category><![CDATA[へんとうの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 Jun 2012 16:20:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93902/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/93902/" target="_blank"><img src="/docs/956203737974@hc10/93902/thmb.jpg?s=s&r=1338621647&t=n" border="0"></a><br /><br />2012年度 Q0101 日本の歴史と同じ課題です。

鎌倉幕府と執権政治について。[100]<br />この資料について
課題名
2011年度 R0105 日本史 第一設題：鎌倉幕府と執権政治について。
この資料は佛教大学通信教育部の2011年度のレポート課題に対して、私なりの理解、解釈に基づいて書いたものです。
以降この科目を履修される方が、この資料を参考にしてより良い理解の下にレポートを作成出来るよう、参考資料としてこのレポートを提供させて頂きます。
鎌倉幕府と執権政治について。
　まずは鎌倉幕府そのものの成立から見ていく。鎌倉幕府の成立時期については、「幕府」の解釈の違いなどにより、いくつかの説が展開されている。
具体的なものとして以下の六通りを挙げる。(1)一一九二(建久三)年七月&hellip;頼朝の征夷大将軍就任時(2)一一九〇(建久元)年十一月&hellip;頼朝が右近衛大将に任命された時(3)一一八五(文治元)年十一月&hellip;頼朝が守護・地頭の任命権獲得時(4)一一八四(元暦元)年十月&hellip;頼朝が公文所・問注所を設置した時(5)一一八三(寿永二)年十月&hellip;頼朝が東国支配権を朝廷から承認された時(6)一一八〇(治承四)年十一月&hellip;頼朝が侍所を設置し、鎌倉に支配の根拠を構えた時
まず(1)(2)は語源論的解釈であり、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[08830日本史第２分冊]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954703356904@hc10/91618/]]></link>
			<author><![CDATA[ by slyly0078]]></author>
			<category><![CDATA[slyly0078の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 18 Mar 2012 17:41:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954703356904@hc10/91618/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/954703356904@hc10/91618/" target="_blank"><img src="/docs/954703356904@hc10/91618/thmb.jpg?s=s&r=1332060114&t=n" border="0"></a><br /><br />マッカーサーの日本統治と池田勇人の計画
私は、占領下におけるマッカーサーの日本統治、高度成長を支えた池田勇人の国民所得倍増計画と外交について論じていきたいと思う。
まずは，言わずと知れたマッカーサーである。確かに私自身、マッカーサーという名前は日本史で習ったし、戦後を題材に取り上げたメディアでは、必ずと言っていいほどマッカーサーの名前が出てくる。戦後日本にはかかせないアメリカ人である。私は、彼の間接統治を評価したい。なぜなら、現在日本が戦争に巻き込まれずにいて、平和憲法を作れたのも彼のおかげだと思うし、当時趨勢であった天皇制の廃止をくいとめ、象徴という形で日本に残したからだ。つまりマッカーサーは、現在の日本の土台を作ったと言っても過言ではない。
私は特に、マッカーサーの平和憲法を取り上げたい。その二つの大きな柱として、天皇制の存続と、戦争放棄がある。どちらもマッカーサーが熱く推したものである。
しかし、なぜ彼は天皇制をおしたのであろうか。それは、天皇というのは日本国民にとってはきわめて重要な人であったし、これを否定すると日本の統治が難しくなるという点を考慮したのであろう。そして、彼自身..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【R0105】日本史　第一・二設題レポートセット　佛教大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/]]></link>
			<author><![CDATA[ by storm3104]]></author>
			<category><![CDATA[storm3104の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 02:53:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/91206/" target="_blank"><img src="/docs/951381166701@hc11/91206/thmb.jpg?s=s&r=1330883596&t=n" border="0"></a><br /><br />Ｂ判定でしたが、２設題セットです。学習の参考にどうぞ。①鎌倉幕府と執権政治について②初期議会から日清戦後にかけての政党について。
留意点は「鎌倉幕府自体に関する既述」「離散集合に関する内容」について、もう少し深く掘り下げてみてください。
＜[356]<br />●第一設題　　鎌倉幕府と執権政治について。
◆執権政治のはじまり
　執権政治とは、将軍（征夷大将軍）にかわって政治を執り行ったことであり、北条時政が初代となって、その体制の基を作った。
　正治元年（1199）に源頼朝が急死したことにより、長男・頼家が二代将軍として跡を継いだ。まだ年若かった頼家は武士達を統率する力がなく、そのため母である北条政子・その父の北条時政が代わりに政治を執り行うこととなった。これが執権政治のきっかけである。これが気にくわない頼家は気に入った御家人・武士達を集めて権力を取り返そうと試みるものの、1199年に梶原景時の鎌倉追放（翌年に殺害）をはじめ、1203年には頼家の弟・阿野全成が謀反の疑いで殺害され、比企能員、さらに一族が滅ぼされ、頼家の子・一幡の殺害など将軍位継承を巡る血なまぐさい事件が後を絶たなかった。
　頼家が母である北条政子、北条家よりも妻の実家比企家を頼ったことから、比企家が権力を握ることを恐れた北条氏は、将軍独裁の政治から、有力御家人十三名の合議制を成立させる。頼家の親裁を停止し、北条時政が十三人に加わり、さらに子の北条義時をも十三名の中に組み入れることに成功した。これによって頼家の権力を封じ込め、さらには頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまうのである。
　時政は、比企氏を滅ぼしたのを機に「政所別当」に就任し、三代将軍実朝の補佐役となる。すなわち、時政が名実ともに執権となり、事実上、幕府の最高の職となった。
◆承久の乱
　この頃朝廷では、後鳥羽上皇が和歌など芸能を通じて実朝と深く結びついていた。実朝は、実権を北条氏に握られていたこともあり、和歌などに傾倒していったという見方もある。金塊和歌集という和歌集も出している。しかし後鳥羽上皇は実朝との関係を機に、間接的な幕政介入の機会をうかがっていた27歳の時に右大臣の地位に就いた直後、実朝は承久元年（1219）、２代将軍頼家の遺児・公卿に、鶴岡八幡宮で殺害された。これは北条義時や三浦義村らの謀略があるといわれている。
　幕政介入の鍵であった実朝殺害によって、後鳥羽上皇は大きな衝撃を受ける。幕府は摂関家出身の九条頼経（三寅）を将軍に迎え、公武融和を図るが、後鳥羽は幕府打倒の意志を固め、承久三年（1221）、北条時政失脚後、幕府の中心にあった義時追討に出る。後鳥羽は西国に基盤を置く武士や京中警..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日本史概説・日本史概論】分冊２　0621　0620]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88025/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Lir_Lir]]></author>
			<category><![CDATA[Lir_Lirの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 13:35:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88025/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88025/" target="_blank"><img src="/docs/955409401222@hc10/88025/thmb.jpg?s=s&r=1320986128&t=n" border="0"></a><br /><br />問１．近世の文化について、前期、中期、後期のそれぞれについて概観したい。
　前期の寛永文化は１７世紀前半に始まった。それはまさにサロンの文化といわれる。中世以来の座や寄合の文化の伝統を受け継いだもので、天皇・公家・武家・僧侶・町衆などがいくつかのサロンを形成し、それが鎖のようにつながって交友がおこなわれていた。またサロン文化の中心となったのは茶の湯と和歌であった。
　中期は諸産業の発展にともない、元録時代に実学が発展する。徐々に実際の見聞に基づく学問が求められるようになった時代である。代表的なものとして農書と本草学が挙げられる。
農書
中国の「農政全書」を学んだ宮崎安貞は全国の進んだ農業技術を見聞し、それらを踏まえて「農業全書」を著した。元禄１０年に発行されて流布し、全国に影響を及ぼしたことで地域毎の農書として東海地方の「百姓伝記」、会津地方の「会津農書」、紀州の「地方の聞書」、加賀の「耕稼春秋」「農事遺書」など以外に「鉱山至宝要録」「蚕飼蚕法記」といった技術書も書かれるようになった。
②本草学
次いで同時代の代表的なものとして本草学が挙げられる。これは薬用となる植物・動物・鉱物などに..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日本史概説・日本史概論】分冊１　0620　0621]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88024/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Lir_Lir]]></author>
			<category><![CDATA[Lir_Lirの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 13:35:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88024/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955409401222@hc10/88024/" target="_blank"><img src="/docs/955409401222@hc10/88024/thmb.jpg?s=s&r=1320986126&t=n" border="0"></a><br /><br />問１．国司が受領とよばれるようになる前と後について述べたい。
８世紀末より律令制の規制は徐々に崩れており、編戸された本籍地から離れる浪人も、国司子弟・王臣子孫の国内居住も進んでいった。そしてそれら王臣子孫も含めた有力農業経営者（当時の言葉で言うと「富豪の輩」、後には「大名田堵」）が台頭しはじめ、郡司とその官庁郡衙の機能が衰退していった。郡司がいなくなる訳ではないが、郡衙は消えた。
　朝廷はまだ律令制を堅持していこうとしたが、実際に国を経営する国司は、そういう現実の変化を無視出来なくなり、いわば実質律令制（律令国家）の規制緩和が地方からはじまり王朝国家へと移行していった。
　ここで「名」と「負名」という税の徴収方式について述べたい。口分田の崩壊から税の徴収が旧来の形ではうまく管理出来なくならなくなり、公田の一定範囲を「名」とし、その範囲の税の徴収をそのあたりの富豪層に請け負わせるというものであった。以上のことから「負名」とは「名田（みょうでん）徴税請負人」というような意味にあたる。建前は律令制度であるから田畑は私有地ではなくてお上のもの。地方においては国司が管理するものであるから、負名は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の歴史　第二設題　（佛教大学　通信）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/79444/]]></link>
			<author><![CDATA[ by み-こ]]></author>
			<category><![CDATA[み-この資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 04 Mar 2011 18:54:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/79444/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/79444/" target="_blank"><img src="/docs/955757101877@hc10/79444/thmb.jpg?s=s&r=1299232448&t=n" border="0"></a><br /><br />初期議会から日清戦後にかけての政党について。[66]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について。
　第一回総選挙
一八九〇（明治二三）年に、第一回衆議院議員総選挙が行われた。旧自由党系は大同倶楽部、再興自由党派（大同協和会系）、愛国公党系の三派に分かれ、改進党系勢力と争った。そして七月の総選挙では旧自由党系勢力の勝利となった。総選挙直後、立憲自由党が再興され、旧自由党系三派は合同した。第一議会が召集された段階での所属党派別の議員数は、立憲自由党一三〇名、立憲改進党四十一名、大成会七十九名、国民自由党五名、無所属四十五名である。立憲自由党・立憲改進党の野党勢力である民党一七一名が、大成会・国民自由党・無所属の与党勢力である吏党一二九名を大きく上回り勝利した 。
第一議会
一八九〇（明治二三）年十一月に第一議会が開会された。初代議長に立憲自由党の中島信行を、初代副議長に大成会の津田真道を選出し、貴族院議長は伊藤博文、副議長は東久世通禧が就任した。
　十二月に山県有朋は施政方針演説を行い、「列強、特にロシアの脅威に対するためには、主権線と利益線の防衛が必要である」と強調し、その分の軍費（五年間に五三〇万円）を加えた一般会計歳出額八三三二万円と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R0105　日本史　レポート第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955223212624@hc10/70555/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たんたかたん]]></author>
			<category><![CDATA[たんたかたんの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 18 Aug 2010 10:03:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955223212624@hc10/70555/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955223212624@hc10/70555/" target="_blank"><img src="/docs/955223212624@hc10/70555/thmb.jpg?s=s&r=1282093423&t=n" border="0"></a><br /><br />北条家と執権政治についてです。[45]<br />鎌倉幕府と執権政治について
　源頼朝が、関東を平定し、平氏を滅亡させたことにより、武士として政治の実権を握ることとなる。全国に守護と地頭を置き、朝廷の支配と相容れる形で鎌倉に幕府を開いた。それ以降、政治の中心が京都に戻るまでの約150年間を鎌倉時代とする。
　鎌倉時代の初期、すなわち源頼朝が政権を握っていた時期は、主に関東を中心とする東日本の支配であった。西国は朝廷の管轄であり、地頭の設置も東国と旧平氏領に限られた。それでも鎌倉を中心とする関東の武士団を統率するために侍所、行政を担当する公文所（政所）、司法を担当する問注所を設置し自らは征夷大将軍となり鎌倉幕府の礎を築いた。
　正治元年（１１９９）に頼朝が逝去したのちは、後継者をめぐって幕府内での権力者争いがはげしくなる。二代目の将軍となったのは頼朝の嫡男である頼家だったが、齢十八ということを考慮し、幕府は「十三人の合議制」と呼ばれる有力御家人たちの話し合いによって政治を進めることとした。この有力御家人の中心となったのが、頼朝の妻である北条政子の父、北条時政であった。時政は、他の有力御家人を滅ぼし、二代目将軍頼家を暗殺し、その弟である実..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　　1限　08830科目試験集]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51841/]]></link>
			<author><![CDATA[ by anthem]]></author>
			<category><![CDATA[anthemの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 01 Jul 2009 13:04:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51841/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51841/" target="_blank"><img src="/docs/962350986988@hc08/51841/thmb.jpg?s=s&r=1246421051&t=n" border="0"></a><br /><br />科目試験の問題をまとめました。
集められていない日付の試験問題は残念ですがないです。
第４回科目試験　平成２1年９月１３日施行　1時限
08830　日本史
幕末以降における、日本の近代化過程について説明しなさい。
第３回科目試験　平成２1年[334]<br />科目試験の問題をまとめました。
集められていない日付の試験問題は残念ですがないです。
第４回科目試験　平成２1年９月１３日施行　1時限
08830　日本史
幕末以降における、日本の近代化過程について説明しなさい。
第３回科目試験　平成２1年７月１８日施行　1時限
08830　日本史
応仁・文明の乱について、多面的に論じなさい。
第２回科目試験　平成２１年６月１４日施行　1時限
08830　日本史
上方（かみがた）を中心に開花した元禄文化について、論じなさい。
第７回科目試験　平成２1年１月１０日施行　1時限
08830　日本史
応仁・文明の乱について、説明しなさい。
第６回科目試験　平成２０年..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本外交史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/66817/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 10 May 2010 20:20:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/66817/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/66817/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/66817/thmb.jpg?s=s&r=1273490418&t=n" border="0"></a><br /><br />ワシントン体制下の協調外交
　日本は、大戦終結後のパリ平和会議に史上初めて世界五大国の一つに列せられることとなる。しかし、国際連盟の創設など旧秩序を否定して自由主義的な変革を目指すアメリカの新外交に困惑することとなる。とくに大戦中に日本がドイツから奪取した山東利権は、米中両国の反対で暗礁に乗り上げたが、最終段階でかろうじて承認された。この結果、中国では、五・四運動(1919.5)が発生して反日運動が激化し、日中関係が決定的に悪化したばかりでなく、日米関係の対立もさらに深刻化したのである。
1920年代は、世界大戦や革命が相次いだ激動期の10年代と、イデオロギーや国益が火花を散らす抗争期の30年代との谷間に位置する比較的安定した時代であった。それはこの時期ヴェルサイユ体制とともに、アジア・太平洋地域にワシントン体制と呼ばれる新国際秩序が維持されたためである。日本はこの時期、アジア唯一の大国として認められ、ワシントン会議では従来の日米対立要因を払拭し、英米両国と協調して新体制を維持するグローバル国家へと発展した。20年代の日本外交をリードした幣原外交と田中外交は、対中国外交で好対照を示した..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[１９世紀の政党の歴史について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60476/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 19:29:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60476/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60476/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/60476/thmb.jpg?s=s&r=1260181764&t=n" border="0"></a><br /><br />試験対策にどうぞ[24]<br />１９世紀の政党の歴史について述べよ。
国会開設の勅諭が出されると１０月１８日に自由党盟約を決議し、総理板垣退助以下の組織を決定し自由党が成立する。下野した大隈らはその翌年、立憲改進党を組織する。
民権運動を弾圧する過程で政府は立憲制度の準備をすすめていた。渡欧した伊藤博文は
起草責任者となり、１８８９年大日本帝国憲法として発布された。
帝国憲法の内容は議会制、内閣制、司法権の独立、臣民の権利義務などを制定し、一応、近代的な体裁を採用したが、神聖不可侵の天皇が統治権をもつという天皇主権を基本原則とし、議会制の機能はきわめて弱かった。
８９年に衆議院議員選挙法が公布され、９０年に第一回の総選挙が始..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古代社会における信仰の歴史について述べる]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60475/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 19:29:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60475/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60475/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/60475/thmb.jpg?s=s&r=1260181764&t=n" border="0"></a><br /><br />試験対策にどうぞ[24]<br />古代社会における信仰の歴史について述べる。
仏教は、７世紀後半には全国にひろがり、奈良時代に入る頃から仏教はしだいに民衆にもひろまっていく。僧尼令は勝手な民間布教を禁じている。しかし行基は弾圧されながら、橋を架け池を造るなどの社会事業を通して教えを広めていった。
聖武天皇は天平一三（七四一）年に国分寺創建の詔、天平一五年には大仏造立の詔をだす。
仏教の力をかり、すべての民を「知識」とすることによって、社会の新たな結集を図ろうとしたものと言える。
古くからの神々は山・川・雷などの自然神が中心で、地域ごとにさまざまな神がまつられていた。大陸から伝わった道教・陰陽道の要素を取り入れ、仏教からの影響も..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[開国をめぐる政治過程について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60474/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 19:29:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60474/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60474/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/60474/thmb.jpg?s=s&r=1260181762&t=n" border="0"></a><br /><br />試験対策にどうぞ[24]<br />開国をめぐる政治過程について述べよ。
弘化元（一八四四）年、オランダ国王親書がもたらされ、開国してはどうかと勧告してきた。幕府はこれを拒否したが、フランス船・イギリス船が琉球に来航して開国・通商を要求するなど、幕府の「鎖国」政策を揺るがす事件が起こる。
度重なる他国の開国要求に対し、幕府は拒否をしてきたが、嘉永六（一八五三）年、アメリカのペリーは浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府は朝鮮・琉球以外の国書を受理しない従来の方針を破って正式に受け取り、翌年に回答すると約束してとりあえず退却させた。その直後にはロシアからの開国の要求もあった。
ペリーは翌年、ふたたび来航し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学課題レポートA判定　１２個　総集編 　お値打ち３０％引き]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/64805/]]></link>
			<author><![CDATA[ by relax]]></author>
			<category><![CDATA[relaxの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 17 Mar 2010 17:03:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/64805/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/64805/" target="_blank"><img src="/docs/962649622816@hc08/64805/thmb.jpg?s=s&r=1268813013&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学課題レポートA判定　１２個　総集編
　佛教大学の課題レポートでA判定のみのレポートを集めました。
　自然地理学第１設題、自然地理学第２設題、社会学概論第１設題、社会学概論第２設題、総合演習、地誌学第１設題、地誌学第２設題、日本史第１[352]<br />佛教大学課題レポートA判定　１２個　総集編
　佛教大学の課題レポートでA判定のみのレポートを集めました。
　自然地理学第１設題、自然地理学第２設題、社会学概論第１設題、社会学概論第２設題、総合演習、地誌学第１設題、地誌学第２設題、日本史第１設題、日本史第２設題、教育実習、教育実習２、教育実習３のレポートを１つに総編集したものです。
佛教大学課題レポート　総合演習
資料内容の説明
　この資料は、佛教大学の総合演習（スクーリング科目）の講義で出題された課題レポートです。判定はA判定です。
　佛教大学以外の方も、ご活用ください。内容は、在日外国人です。
第１章　在日外国人
第１節　本論分の構成
本論分では、在日外国人について述べる。その中でも、在日韓国・朝鮮人及び韓国人、中国人に焦点を当てる。
第２節　在日韓国・朝鮮人、韓国人
友人の韓国人が、東京都にある朝鮮学校で２年間教師をしていた。見学をした際、生徒や教師にも会った。日本人の私を歓迎してくれた。
　帰国した友人を訪ねてソウルを訪れた。日本人観光客が多く、日本のDVDなども販売されていた。２泊３日の短い滞在であったが、日本人の私に対して、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　08830　[大化の改新]]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/61930/]]></link>
			<author><![CDATA[ by anthem]]></author>
			<category><![CDATA[anthemの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 15 Jan 2010 00:43:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/61930/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/61930/" target="_blank"><img src="/docs/962350986988@hc08/61930/thmb.jpg?s=s&r=1263483812&t=n" border="0"></a><br /><br />七世紀中頃、日本では「大化の改新」と呼ばれる大改革があった。それはこれまでの制度からまったく別の制度へと移行するための政治改革の流れの一つの転機であり、それが為されるまでに多大な時間を必要としたものであった。
　当時の東アジアには、隋・唐と巨大な中央集権国家が誕生していた。そして、唐の東方進出に対抗する為に朝鮮半島の三国（百済・高句麗・新羅）は権力を中央に集中させていた。この情報と共に、遣隋使として隋に渡った留学生が帰国し、唐の強大な国力やそれを生み出した律令法に基づく中央集権体制についての情報や文化を体験談として朝廷に伝えた。それにより、倭は早急な対応が必要とされていた。
　一方倭の内情はというと、当時の制度は氏姓制度と呼ばれ、中央や地方の大小様々な氏がそれぞれ朝廷の大王（天皇）から承認された姓を持ち、朝廷での職務を世襲して土地・人民を私物として支配する体制であった。また朝廷内では、蘇我氏が絶対的な権力を掌握していた頃で、その政治は専横政治であった。しかし、時期天皇の資格を持っていた山背大兄王とその一族を蘇我入鹿が亡き者とした事件をきっかけに、蘇我氏の専横に対して諸氏族は不満を募ら..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[初期議会から日清戦後にかけての政党について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60471/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 19:21:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60471/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60471/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/60471/thmb.jpg?s=s&r=1260181279&t=n" border="0"></a><br /><br />日本史のレポートです、参考にどうぞ。[54]<br />初期議会から日清戦後にかけての政党について。
１８９０（明治２３）年におこなわれる日本
最初の衆議院議員総選挙を前に、旧民権派の
再結集が進み、これに対抗する政府側では、
すでに憲法発布直後に黒田清隆首相が、政府
の政策は政党の意向によって左右されてはな
らないという超然主義の立場を声明していた。
しかし、旧民権派が総選挙に大勝し、第一回
帝国議会（第一議会）では、立憲自由党と立
憲改進党などの民党が衆議院の過半数を占め
た。
第一議会がひらかれると、超然主義の立場を
とる第一次山県内閣は、予算問題で政費節減
や民力休養を主張する民党に攻撃されたが、
自由党の一部を切りくずして予算を成立させ
た。山県は予算案の説明で国境としての「主
権線」とともに朝鮮を含む「利益線」の防衛
のための陸海軍増強の必要を力説した。
次の第二議会では、第一次松方正義内閣が
民党と衝突して衆議院を解散した。
１８９２（明治２５）年の第二回総選挙に
際して、松方正義内閣は、内務大臣の品川弥
二郎を中心に激しい選挙干渉をおこなって政
府支持者の当選につとめたが、民党の優勢を
くがえすことはできずに、第三議会終了後..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[鎌倉幕府と執権政治]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60470/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 19:21:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60470/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/60470/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/60470/thmb.jpg?s=s&r=1260181277&t=n" border="0"></a><br /><br />日本史のレポートです、参考にどうぞ。[54]<br />鎌倉幕府と執権政治
鎌倉幕府の政治は主に①鎌倉殿独裁政治②執
権政治（合議制含む）③得宗専制政治の三期
に区分される。
１１９１（正治１）年にすぐれた指導者であ
る頼朝が将軍独裁の体制で運営していたが、
頼朝の死後、若い頼家とその弟の実朝の時代
になると統率力に欠け、御家人中心の政治を
求める動きが強まった。また、有力な御家人
の間で政治の主導権をめぐって激しい争いが
続き、多くの御家人が滅んでいった。その中
で勢力を伸ばしたのが伊豆の北条氏である。
１２０３（建仁３）年、頼朝の妻で尼将軍と
いわれた北条政子の父である北条時政は、若
き将軍の頼家を廃し、弟の実朝を立てて幕府
の実権を握る。この時政の地位は執権と呼ば
れ、子の義時に継承されたが、さらに義時は
侍所の長官（別当）であった和田義盛を滅ぼ
し、政所と侍所の別当を兼ねて地位を固めた。
これ以後、政所別当と侍所別当を兼ねる者が
執権となり北条氏一族の間で世襲されるよう
になる。
一方、京都の朝廷では、幕府の成立と勢力の
拡大に直面し、政治の立て直しが行われる。
その中心にあったのが後鳥羽上皇である。上
皇は分散していた荘園を手中に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961601201198@hc08/60030/]]></link>
			<author><![CDATA[ by コージー]]></author>
			<category><![CDATA[コージーの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 29 Nov 2009 18:07:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961601201198@hc08/60030/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961601201198@hc08/60030/" target="_blank"><img src="/docs/961601201198@hc08/60030/thmb.jpg?s=s&r=1259485628&t=n" border="0"></a><br /><br />設　題
　鎌倉幕府と執権政治について。
　治承４（１１８０）年８月、平時の乱後に配流された伊豆で以仁王の令旨を受け兵を挙げた源頼朝は、源氏としてのその権威を利用して領主権力の拡大をめざす関東武士団の支持をえて、またたくまに南関東に覇権を確立、１０月鎌倉に拠点を定め、１１月に和田義盛を侍所に別当に任じる。内乱の真っ直中に政府支配の足場が築かれたのである。
　後白河上皇が新たなパートナーに選択したのは頼朝であった。後白河は寿永２（１１８３）年１０月に東海道・東山道の支配を委ねる宣旨を頼朝に発し、かれのえた権力基盤を公認するとともに、大量の平家没官領をあたえて幕府財政基盤の確立を助けた。頼朝もまた全国的規模の軍事支配体制
づくりにむけて後白河との交渉を利用し、対立関係にはいった義経に後白河が頼朝追討令を発したことへの責任追求を突破口に、文治元（１１８５）年、諸国の守護・地頭設置を実現する。このときに頼朝のえた権威の一つの兵粮米徴収は公家・寺社の反対により翌年停止され、また地頭設置についても謀反人とされた義経・源行家の所領に限定され、守護の職権も謀反人・殺害人のつい歩、京都大番役の催促に限定さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[民権運動と政党の変革について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59934/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Nov 2009 15:45:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59934/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59934/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/59934/thmb.jpg?s=s&r=1259390700&t=n" border="0"></a><br /><br />※課題６　民権運動と政治の変革について詳しく述べなさい。
　まず最初に、民権運動の歴史は1874年、愛国公党の板垣退助らが左院に「民選議員設立建白書」を提出したことから始まった。建白書は、薩長藩閥による有司専制を批判した上で、民選議院の設立を要求するものであった。議会の設立については、下野した高級官僚や知識人が中心となって支持していたこともあって、当初は士族的要素の強いものであったが、その後、次第に国民に考え方が浸透していき、自由民権運動の気運が高まる契機となっていった。
　そして、1881年になると、「北海道開拓使官有物払い下げ事件」が起こる。これは、開拓使長官の黒田清隆が、政商の五大友厚に格安で官有物払い下げを行おうとした事件である。この事件が公に晒されると、たちまち政府への強い批判が起こり、自由民権運動が盛り上がる結果となった。そこで伊藤博文は、民権派の大隈を罷免し、事件への対応として国会開設の必要性を認め、「国会開設の勅諭」を出した。
　こうした折に国会期成同盟は、板垣退助を初代総理とする日本で最初の政党である自由党を結成する。また、先の政変で下野した大隈重信も、議院内閣制の実..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[大名領国の発達と室町幕府の関係について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59933/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Nov 2009 15:44:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59933/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59933/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/59933/thmb.jpg?s=s&r=1259390699&t=n" border="0"></a><br /><br />※課題５　大名と鎖国の政治について、室町時代を中心に述べよ。
　　
まず最初に、室町時代においては、駿河から長門までを将軍が、東国を鎌倉公方が、九州を九州探題が治めており、それらの統括のもとで守護が国を支配していた。そして、幕府は、南北朝の争乱の続く中で、治安の安定を図るために守護の機能を強化した。
まず、守護の権限について見てみると、鎌倉時代では、軍事や警察面に限定されていたが、室町時代になると、新たに刈田狼藉の検断権と使節遵行権が守護の職権として付与された。刈田狼藉とは、土地の所有を主張するため実力で稲を刈ってしまうことであり、武士の間の所領紛争にともなって発生した。また、使節遵行権は、所領をめぐる裁判について幕府の裁定を執行する権限である。ほかにも兵粮料所給与権や闕所地預置権などが与えられ、この時代の守護は軍事・警察・経済とあらゆる面で広範な機能が付与されることとなった。このことを背景として、守護は領国内の国人、土地、人民に対して一元的な支配を行っていく守護領国制がとられていくようになるのである。そのため、時には幕府をも凌ぐ家が出現することもあった。なお、室町時代の守護は鎌倉時代..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[執権政治の展開について述べよ(2)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59932/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Nov 2009 15:44:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59932/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/59932/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/59932/thmb.jpg?s=s&r=1259390697&t=n" border="0"></a><br /><br />※課題４　鎌倉時代以降の著明な政治体制について述べなさい。
まず最初に鎌倉時代は、源頼朝が幕府を開いてからおよそ150年に渡って続き、1333年の新田義貞の鎌倉攻めによって幕を閉じた。そして、その150年の中でも、頼朝が存命中のはじめの18年を過ぎてからは、北条氏による執権政治の体制がとられていったのである。
頼朝の死後において、当初こそ宿老十三名による合議制が敷かれていたが、そのことによって源将軍家の権力が弱体化すると、次に幕府の中で強い発言権を持ったのは、頼朝の妻北条政子と、その父北条時政であった。時政は、頼朝の第一の重臣で、その血縁から急速に勢力を伸ばしたのである。源実朝が征夷大将軍の頃になると時政は、大江広元とともに政所の別当の職に就いていたが、ここに執権政治の始まりを見ることができる。
その後、第二代執権となったのが、時政の息子の義時である。義時は、執権としての才能にあふれており、和田義盛など敵対する者を排除する一方で、温情ある人間性でもって着実に勢力を伸ばし始めた。そして、この頃から政所の別当とともに侍所の長官も兼任するようになり、以降は、二つの役職を備えて執権と称されるよ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[明治時代の考古学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59409/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zenimaru]]></author>
			<category><![CDATA[zenimaruの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 10:41:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59409/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59409/" target="_blank"><img src="/docs/957586691839@hc09/59409/thmb.jpg?s=s&r=1258940479&t=n" border="0"></a><br /><br />第三　明治時代の考古学
　一　明治時代初期
８．弥生式土器の発見と人類学会の創立

●	弥生式土器の発見
1844（明治17）年の3月に、つぼい坪井しょうごろう正五郎はありさか有坂しょうぞう鉊蔵・しらいこう白井光たろう太郎とともに[324]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第二設題　アヘン戦争から義和団運動にいたるまでの時期に、清朝政府が列強に奪われた諸権益について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959115953431@hc09/56209/]]></link>
			<author><![CDATA[ by toi-toi-toi]]></author>
			<category><![CDATA[toi-toi-toiの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Oct 2009 16:52:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959115953431@hc09/56209/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959115953431@hc09/56209/" target="_blank"><img src="/docs/959115953431@hc09/56209/thmb.jpg?s=s&r=1255420369&t=n" border="0"></a><br /><br />アヘン戦争から義和団運動にいたるまでの時期に、清朝政府が列強に奪われた諸権益について、具体的な事例をふまえながら述べなさい。
　清朝政府は17世紀後半にはロシア帝国と東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させたネルチンスク条約[354]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[執権政治の展開について述べよ(2)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55812/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 19:30:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55812/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55812/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55812/thmb.jpg?s=s&r=1254306624&t=n" border="0"></a><br /><br />●課題2（執権政治の展開について述べよ。）
鎌倉時代は、源頼朝が幕府を開いてからおよそ150年に渡って続き、1333年の（新田義貞）の鎌倉攻めによって幕を閉じた。そして、その150年の中でも、頼朝が存命中のはじめの18年を過ぎてからは、「[330]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[鎖国の形成過程について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55811/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 19:30:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55811/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55811/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55811/thmb.jpg?s=s&r=1254306622&t=n" border="0"></a><br /><br />●課題４　鎖国の形成過程について述べよ。
　鎖国とは、江戸幕府が外交や貿易など外国との関係を制限し、孤立した状態のことである。初代将軍の徳川家康の時代は、外国との外交や貿易に積極的な政策を取っていたが、秀忠の時代になるとそれは一転し、鎖国[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[19世紀の政党の歴史について述べよ。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55810/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 19:30:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55810/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55810/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55810/thmb.jpg?s=s&r=1254306621&t=n" border="0"></a><br /><br />●課題（19世紀の政党の歴史について述べよ。）
　まず最初に日本における政党の歴史は、1881年の自由党の結成にはじまる。自由党の結成までの経過を振り返ると、元々は1874年の（愛国公党）の時代にまでさかのぼる。（愛国公党）は板垣退助を中[336]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[奈良時代の政治]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55809/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 19:30:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55809/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55809/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55809/thmb.jpg?s=s&r=1254306619&t=n" border="0"></a><br /><br />●課題3（奈良時代の政治について述べよ。）
まず初めに奈良時代とは、710年の平城京遷都から794年の平安京遷都までを指す時代区分である。この時代の政治の最も主要な特徴は、（天武・持統・文武朝）において進められてきた律令制度が完成したこと[342]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第1分冊[一揆、打ちこわしの世界]]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51679/]]></link>
			<author><![CDATA[ by anthem]]></author>
			<category><![CDATA[anthemの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 28 Jun 2009 00:12:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51679/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51679/" target="_blank"><img src="/docs/962350986988@hc08/51679/thmb.jpg?s=s&r=1246115528&t=n" border="0"></a><br /><br />第一分冊　日本史　
略題&lt;近世&gt;
近世」
の各章１から６から興味ある項目を自由に選択して論述しなさい。選んだ各章のタイトルを記載する事。
-----------------------------------------------[246]<br />第一分冊　日本史　
略題&lt;近世&gt;
近世」
の各章１から６から興味ある項目を自由に選択して論述しなさい。選んだ各章のタイトルを記載する事。
--------------------------------------------------------
江戸時代では大きな飢饉が三回あり、百姓一揆が起きる背景となる。農民が、租税の減免や、専売制度の緩和・撤廃を要求したのだが、多くの領主は財政難のため農民の要求にはほとんど応じなかった。こうしたことにより百姓一揆が起こることになるのだが、江戸時代の百姓一揆は、一般農民を指導者として各村々の農民が団結した大規模な一揆となった。
幕府や諸藩は農民の要求の一部を認めることもあったが、ほとんどの場合は指導者を厳罰に処し、武力で鎮圧することが一般的ではあった。このような一揆の考え方は様々な一揆の状況を詳しくみると様子が変わってくる。
一六九二年、佐渡では全島の村名主を奉行所に集め、田地を実際に耕作している者の名前とその収穫高を申告させて、その申告をもとに検地を行い、年貢はそれまでのニ万三千石から四万石へと変更された。つまり約二倍に膨れ上がる事になったの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第2分冊[核危機の時代、オイルショック]]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51680/]]></link>
			<author><![CDATA[ by anthem]]></author>
			<category><![CDATA[anthemの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 28 Jun 2009 00:12:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51680/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/51680/" target="_blank"><img src="/docs/962350986988@hc08/51680/thmb.jpg?s=s&r=1246115529&t=n" border="0"></a><br /><br />第２分冊　日本史
略題&lt;近代・現代&gt;
「第四部近世」の各章一から十から興味ある項目を自由に選択して論述しなさい。　選んだ各章のタイトルを記載する事。
第四部近代・現代　十　核危機の時代
-----------------------[294]<br />第２分冊　日本史
略題&lt;近代・現代&gt;
「第四部近世」の各章一から十から興味ある項目を自由に選択して論述しなさい。　選んだ各章のタイトルを記載する事。
第四部近代・現代　十　核危機の時代
---------------------------------------------------------
二〇〇八年、日本経済は石油資源の高騰に揺れ動く事になる。こうした石油資源の高騰は今に始まった事ではない。今から三十五年前の一九七三年、第一次オイルショックが起こる。現在のようにマネーゲームの影響ではなく、国際情勢の煽りを受けて石油の価格高騰が起こる事になる。こうした資源をめぐる問題はこれから先の未来でも起こることでもある。
さて第一次オイルショックの概要だが、一九七三年十月アラブ諸国とイスラエルとの間で第四次中東戦争が勃発から始まる。アラブ産油国でつくるＯＰＥＣが原油価格の大幅引上げ、原油生産の削減、イスラエル支持国への輸出禁止を実施したため発生した。
その結果、石油輸入価格が高騰し、石油への依存、エネルギー多消費型で成長を遂げてきた日本の経済は打撃を受ける事になる。田中角栄内閣が掲げた列..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36255/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 00:49:06 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36255/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36255/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/36255/thmb.jpg?s=s&r=1234194546&t=n" border="0"></a><br /><br />「初期会議から日清戦争にかけての政党について。」
政党とは、政治において政策や主張に共通点のある者同志が集まって、意見の集約と統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けての活動として、政権を担当もしくは目標とし、議会の運営の基本単位にな[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36254/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 00:49:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36254/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36254/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/36254/thmb.jpg?s=s&r=1234194544&t=n" border="0"></a><br /><br />「鎌倉幕府と執権政治について」
鎌倉幕府、執権政治の順に、考えて見る。
まずは、鎌倉幕府について考えてみる。
鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任官されて始まったとされていた。
しかしながら、源頼朝の権力・統治[330]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【論文】明治憲法に対する伊藤の考えと憲法改正]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961545757273@hc08/32954/]]></link>
			<author><![CDATA[ by eigojyuku]]></author>
			<category><![CDATA[eigojyukuの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 28 Dec 2008 02:08:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961545757273@hc08/32954/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961545757273@hc08/32954/" target="_blank"><img src="/docs/961545757273@hc08/32954/thmb.jpg?s=s&r=1230397726&t=n" border="0"></a><br /><br />明治憲法に対する伊藤の考えと憲法改正 
プロローグ 
初めに、参考文献を読んでレポートなり論文を書くのが本筋であることは大いに承知しているが、
あえてそうではなく、稚拙な考えではあるが受験生時代に私が大日本帝国憲法を勉強するにあたって
考え[348]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史 試験対策]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/28119/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yutyan0304]]></author>
			<category><![CDATA[yutyan0304の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 29 Oct 2008 18:01:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/28119/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/28119/" target="_blank"><img src="/docs/962565630823@hc08/28119/thmb.jpg?s=s&r=1225270880&t=n" border="0"></a><br /><br />・19世紀における政党政治の歴史について述べよ。 
・執権政治の展開について述べよ。 
・奈良時代の政治について述べよ。 
・開国をめぐる政治過程について述べよ。 
・中世から近世の農民生活について述べよ。 
・古代における信仰の[326]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本後紀からみる皇位継承問題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961684892255@hc08/22798/]]></link>
			<author><![CDATA[ by HALEX]]></author>
			<category><![CDATA[HALEXの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 01 Aug 2008 14:31:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961684892255@hc08/22798/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961684892255@hc08/22798/" target="_blank"><img src="/docs/961684892255@hc08/22798/thmb.jpg?s=s&r=1217568686&t=n" border="0"></a><br /><br />「日本後紀からみる皇位継承問題」
☆大同元年～弘仁元年とはどのような時代なのか？
大同元年（806年）に平城天皇（兄）が即位するが、病弱だったこともあり、僅か3年で天皇の座を弟に譲る。
大同五年（810年）に嵯峨天皇（弟）が即位し、元[334]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「踊る男女の埴輪は何の為に作られたのか」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/19629/]]></link>
			<author><![CDATA[ by carameltea]]></author>
			<category><![CDATA[caramelteaの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 21 Feb 2008 18:03:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/19629/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430069701@hc06/19629/" target="_blank"><img src="/docs/983430069701@hc06/19629/thmb.jpg?s=s&r=1203584609&t=n" border="0"></a><br /><br />「踊る男女の埴輪は何の為に作られたのか」
　　　　　　　
　この埴輪は1930年に埼玉県江南町にある野原古墳群の前方後円墳から出土した埴輪で、いかにもリズムをとって踊っているように見えることから東京帝宝博物館の後藤守一氏によって「踊る男女像[348]<br />「踊る男女の埴輪は何の為に作られたのか」
　　　　　　　
　この埴輪は1930年に埼玉県江南町にある野原古墳群の前方後円墳から出土した埴輪で、いかにもリズムをとって踊っているように見えることから東京帝宝博物館の後藤守一氏によって「踊る男女像」と名付けられました。大きい方の埴輪は高さ63.2cmで顔の左右に小円を開けて耳を表現しています。小さい方は高さ56.8cmで頭部にふりわけ髪と顔の左右には蝶型の角髪を結い、左腰に紐を下げ、後腰には鎌を差しています。この小さい方の埴輪が男性であると考えられています。また、出土した他の遺物や、埴輪の作り方から６世紀後半に作られたものだと考えられます。
　まず、はじめにそもそも埴輪というものは何の為に作られたのかということについてですが、これについては現在でも様々な議論が繰り返されています。
　１つ目の有力な説は殉死代用説です。人や馬の形を模した埴輪がどうして墳墓に立てられるようになったかというその起源は、『日本書紀』に次のように語られています。
二十八年の冬十月の丙寅の朔にして庚午に、天皇の母弟、倭彦命薨ります。 　十一月の丙申の朔にして丁酉に、倭彦命..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史1(鎌倉幕府と執権政治について）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15176/]]></link>
			<author><![CDATA[ by manila]]></author>
			<category><![CDATA[manilaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Nov 2007 13:13:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15176/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15176/" target="_blank"><img src="/docs/983430621101@hc06/15176/thmb.jpg?s=s&r=1195272831&t=n" border="0"></a><br /><br />『鎌倉幕府と執権政治について』
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年（一一九九年）１月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御[356]<br />『鎌倉幕府と執権政治について』
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年（一一九九年）１月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年（一二〇○年）に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年（一二○三年）には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。
建仁三年（一二○三年）北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年（一二○四年）に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。
翌年..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史2（近世初期の対外関係について）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15175/]]></link>
			<author><![CDATA[ by manila]]></author>
			<category><![CDATA[manilaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Nov 2007 13:13:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15175/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15175/" target="_blank"><img src="/docs/983430621101@hc06/15175/thmb.jpg?s=s&r=1195272791&t=n" border="0"></a><br /><br />『近世初期の対外関係について』
室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年（一五四三年）ポルトガル人が種子島に[358]<br />『近世初期の対外関係について』
室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年（一五四三年）ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝えた。これが初めて日本に来たヨーロッパ人である。これをきっかけに南蛮貿易がはじまった。南蛮の語源はポルトガル人が南から船で渡ってきて、また身なりが当時の日本の基準からすると野暮ったいと見られたためとされている。
ここにはじめて日本とヨーロッパとの関係がうまれたのである。
当時のポルトガル・スペインの海外進出は、貿易とキリスト教の布教を結びつけて進められた。キリスト教の布教は、天文十八年（一五四九年）鹿児島に上陸したフランシスコ＝ザビエルによってはじまる。
織田政権下ではキリスト教は基本的に弾圧を受けずに、信長は仏教諸派やキリスト教との間に距離をおきながら全ての宗教勢力を支配下に置こうとした。南蛮貿易も積極的に行われ、ヨーロッパの文化が日本に入ってくることとなった。
織田政権下に続いて豊臣政権下でも南蛮貿易は行われていたが、土佐国にスペ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[社会科における日本史の位置づけについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役海外大学院生]]></author>
			<category><![CDATA[現役海外大学院生の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Feb 2007 01:48:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430954801@hc06/13235/" target="_blank"><img src="/docs/983430954801@hc06/13235/thmb.jpg?s=s&r=1170953330&t=n" border="0"></a><br /><br />社会科における日本史の位置づけについて
アメリカの学校では歴史の時間を大変に重んじており、週に５時間も６時間も教えるのが当たり前だという。その上、「歴史が浅い国」と言われるにも関わらず、歴史の教科書は日本のそれと比べてものすごく分厚い。ま[356]<br />社会科における日本史の位置づけについて
アメリカの学校では歴史の時間を大変に重んじており、週に５時間も６時間も教えるのが当たり前だという。その上、「歴史が浅い国」と言われるにも関わらず、歴史の教科書は日本のそれと比べてものすごく分厚い。また、イギリスにホームステイしていた時に驚かされたのは、わずか小学１年生の子供が、「○○はxx年に建国されて、そのときの王は△△だった」ということを暗唱していた、ということであった。このように、世界各国では、歴史の授業は算数や国語と同等に重要視されていて、国民のアイデンティティーの一部となっていることがわかる。
もちろん、日本でも義務教育で歴史を学習するのだが、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[博物館レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12485/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayamine]]></author>
			<category><![CDATA[ayamineの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2007 23:41:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12485/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12485/" target="_blank"><img src="/docs/983432223901@hc05/12485/thmb.jpg?s=s&r=1168008070&t=n" border="0"></a><br /><br />私が見た歴史博物館―佐野市郷土博物館―
栃木県における自由民権運動の中心地であり、またその中心人物として知られる田中正造を輩出した土地でもある佐野市は、地域に残された史料・史跡を活用して郷土の先覚者たる田中正造の軌跡を市民に示すと共に佐野市[358]<br />私が見た歴史博物館―佐野市郷土博物館―
栃木県における自由民権運動の中心地であり、またその中心人物として知られる田中正造を輩出した土地でもある佐野市は、地域に残された史料・史跡を活用して郷土の先覚者たる田中正造の軌跡を市民に示すと共に佐野市の歴史を総合的に学習できる施設として、１９８３年、栃木県佐野市大橋町に佐野市郷土博物館を開設した。
展示ホール１０５．６㎡、常設展示室２９８．２㎡の広さを持つ郷土博物館には、他に毎年春・秋の二度行われる企画展示の際に使用される企画展示室（１３６．８㎡）、そして一面でこの博物館の中核を成す田中正造に関する展示が常設的に行われている特別展示室（１００㎡）が設けられている。
常設展示では旧石器時代の打製石器、弥生土器、古墳出土品、鎧兜、江戸時代の史料や明治以降の近代産業の歴史に至るまでを通史的に扱っているのであるが、「郷土資料館」の名に相応しく、地元「天命宿」と日光例幣使、近代の地域産業などに関する地域史料が大々的に取り扱われている。
さて、天命宿と日光例幣使であるが、天命宿とは中世から「西の芦屋、東の天命」と並び称されたという鋳物業の盛んな町であり、御所..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[近世城郭に関する考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayamine]]></author>
			<category><![CDATA[ayamineの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2007 23:34:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/" target="_blank"><img src="/docs/983432223901@hc05/12484/thmb.jpg?s=s&r=1168007690&t=n" border="0"></a><br /><br />進級して本格的に城に興味を持ち始めた私は、今年５月に会津若松城を訪れた。鶴ヶ城（会津若松城の俗称）北口でバスを降り、高い石垣に囲まれた北出丸へと入ると、石垣の上に天守閣が顔を出している。そして北出丸の反対側の門・西門は、堀の向こうに天守閣が[360]<br />進級して本格的に城に興味を持ち始めた私は、今年５月に会津若松城を訪れた。鶴ヶ城（会津若松城の俗称）北口でバスを降り、高い石垣に囲まれた北出丸へと入ると、石垣の上に天守閣が顔を出している。そして北出丸の反対側の門・西門は、堀の向こうに天守閣が良く見えるベストスポットである。
しかし、城郭構造の初歩を学んだ現在の目で見るとこれはおかしいではないか。北出丸から天守閣の写真が良く撮れる城など、堅城とは到底言い難い。
戊辰戦争の激戦地となった会津若松城は、余りに長大過ぎた惣構えこそ役に立たなかったが、城郭部分のみの防御で１ヶ月以上も篭城に耐えたという堅城であったはずである。
　幸い会津若松城の正保城絵図はすぐに見つけることができたが、それによる往時の会津若松城の姿は、北出丸は横矢掛けのきく２箇所の虎口に守られ、郭を成す石垣の上には更に屋根付きの塀が乗っていたことが分かる。
これならば北出丸から天守閣を見透かされることは無い。それどころか、屋根付きの塀と虎口、そしていくつかの櫓を伴うと、この出島は急に堅固な防壁へと変貌する。これは本丸に続く他の２つの出島・西出丸、二の丸においても同じであるから、周..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 会津の戊辰戦争について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayamine]]></author>
			<category><![CDATA[ayamineの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2007 23:20:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/" target="_blank"><img src="/docs/983432223901@hc05/12483/thmb.jpg?s=s&r=1168006859&t=n" border="0"></a><br /><br />会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実[354]<br />会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実際には膨大な犠牲を払った。何故この悲劇は防げなかったのであろうか。この抵抗は本当に正しかったのであろうか。
会津藩の立場
会津藩はいかにして徹底抗戦へと追い詰められたのであろうか。幕末に会津藩が立たされていた立場を分析したい。
まず、会津藩の佐幕傾向がいつ、どのような経緯で固まったのであろうか。
会津藩は奥州会津若松、鶴ヶ城を居城に持つ、公称２３万石の大藩である。藩祖は２代将軍徳川秀忠の第４子、３代将軍家光の異母弟である保科正之である。保科正之は幼少の家綱の後見役を任せられるなど家光からの信頼厚く、２００年の後に会津藩が幕府を支持する下地を作った人物とみられる。
寛文８年（１６６８）４月１１日に保科正之が江戸屋敷にて首席家老・田中正玄に授けて会津藩の方針を示したという「家訓１５カ条」 に因れば、
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[個人金融通帳の文献について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429415401@hc06/11360/]]></link>
			<author><![CDATA[ by psycho5155]]></author>
			<category><![CDATA[psycho5155の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 08 Nov 2006 02:09:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429415401@hc06/11360/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429415401@hc06/11360/" target="_blank"><img src="/docs/983429415401@hc06/11360/thmb.jpg?s=s&r=1162919386&t=n" border="0"></a><br /><br />１．目録データ
○文書名　村役場通知書
○日付　昭和二十一年四月十六日
○宛先　各部落会長
○形態　横冊　
○数量　１
２．内容要約
個人金融通帳の記載方法等その使用方法に関する件。
個人通帳の配布に関しては御配意のことと思[328]<br />火曜３限　日本史史料学レポート
１．目録データ
○文書名　村役場通知書
○日付　昭和二十一年四月十六日
○宛先　各部落会長
○形態　横冊　
○数量　１
２．内容要約
個人金融通帳の記載方法等その使用方法に関する件。
個人通帳の配布に関しては御配意のことと思われますが、大蔵省から記載方法および使用方法に関して左記の通り（㈠および㈡）通牒がありました。㈠の項については部落員に周知のことと思います。御配意の通り、個人通帳は本日二十一日一斉に交付があります。
金融処置令の規定によって封鎖預金の払戻しを受けようとする者は、取引金融機関に従来の米穀通帳に替わって個人金融通帳を提出して払戻しを請求すること。ただし、初めて個人金融通帳を使用する場合、これと共に米穀通帳を取引金融機関に提出すること。
「世帯主及世帯員名」の欄には米穀通帳の例に準じて、生計を同じくする同居の世帯主および世帯員氏名その他必要事項を記載し、組長の認印を求めること。
「支払年月日」の欄「預金引出の目的」の欄および「支払金額」の欄は封鎖預金等の払戻を受けようとする個人において記入すること。
封鎖預金等の払戻しを受けようとする個人は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[武士の誕生と性質]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429787001@hc06/10372/]]></link>
			<author><![CDATA[ by murabitok]]></author>
			<category><![CDATA[murabitokの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 08 Aug 2006 19:09:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429787001@hc06/10372/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429787001@hc06/10372/" target="_blank"><img src="/docs/983429787001@hc06/10372/thmb.jpg?s=s&r=1155031783&t=n" border="0"></a><br /><br />「武士の成立」というテーマを考えるとき、まずは「武士」の定義を考えなければならない。そして、その定義を満たしたときに初めて「武士が成立した」と言えるだろう。
ではここで、私の考える武士の定義を述べたいと思う。私が考える武士の定義は「天皇や[356]<br />「武士の成立」というテーマを考えるとき、まずは「武士」の定義を考えなければならない。そして、その定義を満たしたときに初めて「武士が成立した」と言えるだろう。
ではここで、私の考える武士の定義を述べたいと思う。私が考える武士の定義は「天皇や貴族などの日本古来の権力に頼らず、武力で日本を支配しようとした者」というものである。そこで、ここでは私の考える定義を満たした時を「武士の成立」として考えていきたいと思う。
　それではまずはじめに、７世紀から８世紀の律令国家の時代について述べようと思う。この時代は、「武官」と呼ばれる役職があったが、あまり文官との区別がされていなかった。しかし、朝鮮などの対外戦や、東北地方の蝦夷への対内戦を意識してからか、軍制が強化されていった。例えば、中央では衛士府や兵衛府、衛門府といった武力を持つ役職が現れ、地方では、徴兵制などの制度により、約千人規模の軍隊が六十六ヶ国に存在していた。さらに、政治事件が起こるとすぐに軍隊が出動し、内戦に持ち込み鎮圧するという、まさに「武力優位の軍隊の時代」であった。
しかし７９２年に「健児の制」が出されると、今まで優位いた軍隊が力を弱..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[伊勢神宮]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/8894/]]></link>
			<author><![CDATA[ by firsts]]></author>
			<category><![CDATA[firstsの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 11 Jun 2006 21:21:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/8894/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430926101@hc06/8894/" target="_blank"><img src="/docs/983430926101@hc06/8894/thmb.jpg?s=s&r=1150028504&t=n" border="0"></a><br /><br />・概要
伊勢神宮は大きく外宮と内宮の二つに分かれている。外宮は別名を豊受大神宮といい、食物の神である豊受大神が祀られている。そして内宮の別名は皇大神宮といい、最高神であり、太陽の神でもある天照大神（天照坐皇大御神）が祀られている。また別宮[356]<br />伊勢神宮
・概要
伊勢神宮は大きく外宮と内宮の二つに分かれている。外宮は別名を豊受大神宮といい、食物の神である豊受大神が祀られている。そして内宮の別名は皇大神宮といい、最高神であり、太陽の神でもある天照大神（天照坐皇大御神）が祀られている。また別宮と呼ばれる特に重要な宮が、内宮に10社、外宮に4社ある。さらに摂社が内宮に27社、外宮に16社、末社が内宮に16社、外宮に8社、そして所管社が内宮に14社、外宮に4社ある。これら合計101社の総体が伊勢神宮である。
伊勢神宮は本来天皇が直接参拝する所であったため、鎌倉時代以前は一般からの寄進物は全て拒否していたという。現在でも一般参拝客は正殿内部を見ることは出来ない。
ちなみに『伊勢神宮』とは本来の呼び名ではない。正式にはただ『神宮』とだけいう。『伊勢』は『神宮』を修飾しているわけではなく、『神宮』のある場所を説明しているだけなのである。
・式年遷宮
伊勢神宮には二つの殿地があり、一方の殿地に社殿が健在なうちにもう一方の殿地に新しい社殿を建てる。そして古い御殿から新しい御殿へ、神うつしの行事、すなわち遷宮祭を行った後、古い社殿を撤去している。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「神仏習合」はいつから起こったか［東京学芸大学・教育学部・日本歴史学・評価A］]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6784/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kenjiro55]]></author>
			<category><![CDATA[kenjiro55の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Feb 2006 23:57:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6784/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430795301@hc06/6784/" target="_blank"><img src="/docs/983430795301@hc06/6784/thmb.jpg?s=s&r=1139929046&t=n" border="0"></a><br /><br />日本宗教（史）を語るとき、必ず出てくるテーマの一つに「神仏習合」がある。仏教が６世紀半ばに公式に伝来したのち、８世紀の奈良時代から神仏習合の状態が徐々に形成され、１０世紀頃の平安後期になって本地垂迹説（神は仏が仮の姿をとってこの世に現れたも[360]<br />「神仏習合」はいつから起こったか
　日本宗教（史）を語るとき、必ず出てくるテーマの一つに「神仏習合」がある。仏教が６世紀半ばに公式に伝来したのち、８世紀の奈良時代から神仏習合の状態が徐々に形成され、１０世紀頃の平安後期になって本地垂迹説（神は仏が仮の姿をとってこの世に現れたものであると考える）として完成されたと一般には説明される。
　しかしながら、「習合」という状態は、『広辞苑（第五版）』によれば「相異なる教理などを折衷・調和すること」である。仏教以前の原始神道と、その後の仏教の受容の過程を考えるとき、果たして「習合が徐々に形成された」という見方が適切かどうか、私は疑問に思う。
　仏教以前の日本においては、いわゆる「原始神道」の信仰が民俗的な意味で普及していた。「民俗的な意味で」と述べたが、これは古代の日本人にとって「神道という宗教」としてとらえられてはいなかったからである。鎌田東二『神と仏の精神史』によれば、「神道」という語は『日本書紀』に登場するよりも前に中国の『易経』のなかにあり、ゆえにわが国に独自のものでも固有のものでもないという。
　この原始神道は、極めてアニミズム的な要素を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【早稲田大学】摂関政治から見る中世日本]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 【現役私立中教師】daisuke]]></author>
			<category><![CDATA[【現役私立中教師】daisukeの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Feb 2006 01:15:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/" target="_blank"><img src="/docs/983431933401@hc05/6712/thmb.jpg?s=s&r=1139847355&t=n" border="0"></a><br /><br />藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ（安和の変）、政治的地位を[354]<br />摂関政治から見る中世日本
藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ（安和の変）、政治的地位を確立した。藤原北家は、摂政、関白を独占したため、摂関家と呼ばれるようになった。10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
　摂関政治おいては、摂関が天皇をないがしろにして専制をふるったかのようなイメージが作られたこともあったが、実際に天皇の政務を代行できたのは、天皇幼少時の摂政だけであり、幼少の天..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本における歴史人口学の重要性に関して]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cow2005]]></author>
			<category><![CDATA[cow2005の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 18:27:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/" target="_blank"><img src="/docs/983432226001@hc05/2003/thmb.jpg?s=s&r=1122715634&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史人口学はまだ日が浅い学問で、資料そのものの収集が困難なこと、データベース作成に非常に手間とお金がかかること、などの問題点があるが、「ボトムアップの学問」の視野を有しているというこの特色は、これからも大いに重要視されるべきだと感じる。[354]<br />日本における歴史人口学の重要性に関して
　日本における歴史人口学を学んで得たことの一つとして、歴史を見つめ直す新しい視野の存在、というのが挙げられる。今まで当たり前のこととされてきた歴史的事実の新たな側面を見たり、現代に生きる自分たちの生活が、実は、遠く離れた昔から育まれてきた何かによって形成されていることを知ったり&hellip;。このように、この新しい歴史的視野というのは、歴史の既成概念を打ち壊し、それ自身をより身近で、生き生きとしたものに感じさせてくれる。またそれに加えて、新たに知った歴史の面白さは、資料の読み解きにある。こんなものから一体何が分かるの？と思うような、古くて一見何の価値もなさそうな古資料から、次々と新しい事実が洗い出されていく。これが実に面白い。しかもそれらは、しっかり数字にのっとっていて、理論的であり、分かりやすいのだ。
　こうして私は、歴史を新たな視点から掘り下げ、かつ理論的な方法で探っていくという面白さを知った上で、今回のレポートを書くにあたって一冊の本を選び出した。速水融の「歴史人口学で見た日本」である。背表紙の概要を読み、「人口の観点から歴史を見直そうとする&hellip;」という..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[首相の権限]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1235/]]></link>
			<author><![CDATA[ by heartheart]]></author>
			<category><![CDATA[heartheartの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 20 Jul 2005 20:10:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1235/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432307901@hc05/1235/" target="_blank"><img src="/docs/983432307901@hc05/1235/thmb.jpg?s=s&r=1121857805&t=n" border="0"></a><br /><br />☆	戦前
・	総理の選ばれ方：明治憲法に総理、内角についての記述はなく、大老・長老政治化が時期首相を誰にするかと天皇に伝え、天皇が組閣の命令（大命降下）し首相を任命
・	総理の権限の支え：天皇の信任
・	総理の位置付け：明治憲法５５条[340]<br />現代宰相論
＜首相の権限＞
戦前
総理の選ばれ方：明治憲法に総理、内角についての記述はなく、大老・長老政治化が時期首相を誰にするかと天皇に伝え、天皇が組閣の命令（大命降下）し首相を任命
総理の権限の支え：天皇の信任
総理の位置付け：明治憲法５５条が定めているように天皇の輔弼
総理の地位：天皇の信任があれば誰でもよく、明治憲法下では総理は各大臣との首班とされ、憲法上総理大臣は国務大臣の１人に過ぎない扱い。首班とは、同輩中の主席ということであるので首相は大臣の首を切れないため、内閣は閣内不一致でよくつぶれた。
戦後
総理の選ばれ方：憲法１０３条に明文化され、国民が国会議員を選び、国会の多数派により..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「鎖国」を巡って]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:47:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/233/thmb.jpg?s=s&r=1117716429&t=n" border="0"></a><br /><br />「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人[312]<br />「鎖国」を巡って
「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人国を鎖して国民をして国中国外に限らす敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」と訳を当てた。
「国を鎖し」「国の内外を問わず外国人と交易することを許さないこと」といったように、ケンペルは「鎖国」の概念を表現したが、はっきりと「鎖国」という言葉を使用してはいない。そもそもそれ以前の日本には「鎖国」という言葉は無く、180..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『中世寺院と民衆』第二章　中世寺院の多様性と階層性]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:16:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/228/thmb.jpg?s=s&r=1117714567&t=n" border="0"></a><br /><br />○ 中世寺院は多様な寺院形態が存在した
○ 階層性のある社会的秩序を持つ寺院	
○山寺と修験者&hellip;寺院ネットワークを形成
○職人層など半僧半俗の人々の存在[219]<br />日本史演習2004年5月13日
『中世寺院と民衆』第二章　中世寺院の多様性と階層性
要点
○ 中世寺院は多様な寺院形態が存在した
勧進聖・遁世者の寺院・笈箱・民家や道端の石仏
○ 階層性のある社会的秩序を持つ寺院 
権門寺院・府中寺院・郡鎮守・郡内寺院・荘内寺院・村落寺院
○ 山寺と修験者&hellip;寺院ネットワークを形成
職人層など半僧半俗の人々の存在
興味
修験者の存在が、中世の人々の情報源となっていたことに興味を持った。修験者の組織力についてはちらと聞いたことがある。修行という同じ目的を持ったもの同志、その結束は固かったのだろう。
こうした山寺ネットワークの提供する情報について、どれだけの速さで伝..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇号の成立について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 00:29:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/168/thmb.jpg?s=s&r=1116602991&t=n" border="0"></a><br /><br />「古事記」や「日本書紀」によると、神武天皇以下すべての天皇が「天皇」号で呼称されている。しかし、天皇号で呼ばれるようになった時期についての説は二つに大別される。
一つは七世紀はじめの推古朝(五九三年〜六二八年)からとする説で、もう一つは天[352]<br />&lt;天皇号の成立について&gt; 
「古事記」や「日本書紀」によると、神武天皇以下すべての天皇が「天皇」号で呼称され
ている。しかし、天皇号で呼ばれるようになった時期についての説は二つに大別される。
一つは七世紀はじめの推古朝(五九三年～六二八年)からとする説で、もう一つは天武朝(六
七二年～六八六年)からとする説である。いずれせよ、「天皇」号を使用するようになったの
は七世紀に入ってからのことであるから、初代を神武天皇と呼ぶのは妥当ではないという
ことになる。戦前は推古朝使用開始説が通説であったが、戦後になって天武天皇以降に「天
皇」号が成立したという説が有力化し、次第に通説となりつつある。 
推古朝使用開始説は、津田左右吉によって提唱されたものであり、法隆寺金石文に「天
皇」号の記述があることから、推古朝に天皇号が用いられていたと主張する。しかし、こ
の主張に対してはいくつかの批判がある。大山誠一は「天皇」号の使用開始は天武朝が通
説であるとした上で、法隆寺金石文の記述は天武朝に追刻されたものであるして、以下の
ように主張する。 
『疑問の第一は、文中（薬師像銘）の天皇号である。天皇号の成..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[伊賀国について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 May 2005 04:53:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/147/thmb.jpg?s=s&r=1116273194&t=n" border="0"></a><br /><br />【中世】
　伊賀国 4 ヵ郡のうち，とくに北伊賀の阿拝，山田両郡は 11 世紀末以降，平正盛，忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり，平家の一族・郎等が勢力を築いていた。しかし，治承・寿永の内乱は伊賀国の政治状況を一変させる。
1184[330]<br />伊賀国について
旧国名。 伊州。現在の三重県西部にあたる。 
【古代】
　東海道の西端に位置する下国 (《延喜式》)。
当初は伊勢国に属し，680 年 (天武 9) に 4 郡を割いて分国したと伝える。 
《和名抄》によれば，阿拝 (あえ)，山田，伊賀，名張の 4 郡 18 郷からなり，田数は 4051 町 1 段 41 歩。
国府は上野市印代の東部に比定され，
国分寺址はその約 3km南の同市西明寺に残る。
一宮は上野市敢国 (あえくに) 神社。
律令制以前より大和南部の磯城，泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが，平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居，柘植 (つげ) を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ，
平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主 (私領主) も出現したが，
その没落後は平安末期にかけて，東大寺，興福寺，春日社，伊勢神宮，摂関家などの所領が数多く立てられた。 
【中世】
　伊賀国 4 ヵ郡のうち，とくに北伊賀の阿拝，山田両郡は 11 世紀末以降，平正盛，忠盛..]]></description>

		</item>

	</channel>
</rss>