<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/" xmlns:activity="http://activitystrea.ms/spec/1.0/">
	<channel>
		<title>タグ“文明”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E6%96%87%E6%98%8E/</link>
		<description>タグ“文明”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
		<generator uri="http://www.happycampus.co.jp/" version="1.0">happycampus rss generator</generator>
		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[読む『注文の多い料理店』観る『注文の多い料理店』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95092/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 鞠文庫]]></author>
			<category><![CDATA[鞠文庫の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 Jul 2012 23:15:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95092/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95092/" target="_blank"><img src="/docs/949162249076@hc12/95092/thmb.jpg?s=s&r=1342707324&t=n" border="0"></a><br /><br />宮澤賢治『注文の多い料理店』の舞台上演を観劇した所感を手がかりに、用言が持つ自己表出性への、体言の持つ指示表出性への傾きが、演劇のせりふとして口にされる中でどの様に趣を異にするのか検証する。[285]<br />読む『注文の多い料理店』・観る『注文の多い料理店』
　「イギリスの兵隊のかたち」「白熊のやうな犬」「山が物凄い」など、この物語には、他の作家の作品にもみられるとは言い難いような、独特の表現が多々見受けられる。分析とは例えば、これら一つ一つの表現のもつ不可解さを、謎解きすることから始められるべきだろう。ところが私にはそのモチベーションが生まれなかった。なぜなら、私にとって、それらは謎ではなく、ただただ納得させられる表現でしかなかったからだ。
　「イギリスの兵隊のかたち」と書かれていれば「あぁ、イギリスの兵隊のいでたちだったのだ」と思い「白熊のやうな犬」と書かれていれば、「そりゃ高そうだなぁ」と考え「山が物凄い」と書かれていれば「そんなに物凄かったのか」と感じ入るだけだ。疑問を差し挟む余地がない。
　この状況は、レポートを課された大学生としては、非常に好ましくないものなのではなかろうかと、やや悩んだ。このままでは、読書感想文しか書けない。論理を発展させる可能性を感じられない。そんなとき、次の文章に出会った。
　　（筆者の住む）町は山とほぼ接しており、わたしたちは日課のように裏山へ出かけて行..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋世界によるイスラーム誤認]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53389/]]></link>
			<author><![CDATA[ by camsa10]]></author>
			<category><![CDATA[camsa10の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 02 Aug 2009 00:42:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53389/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53389/" target="_blank"><img src="/docs/958518609389@hc09/53389/thmb.jpg?s=s&r=1249141378&t=n" border="0"></a><br /><br />西洋世界によるイスラーム誤認の一例にしてその最大のものの一つとして、「自由」の価値についての認識の相違がある。「自由」の価値概念は西洋とイスラーム世界において根本的に異なるため、しばしばその誤認と無理解は衝突を生み、またその原因にも関心が払[360]<br />　西洋世界によるイスラーム誤認の一例にしてその最大のものの一つとして、「自由」の価値についての認識の相違がある。「自由」の価値概念は西洋とイスラーム世界において根本的に異なるため、しばしばその誤認と無理解は衝突を生み、またその原因にも関心が払われていないため、事態は深刻さを増しているのが現状である。以下ではその相違点に着目した上で、「和解」のための端緒を考えていきたい。
　西洋世界は近代化の過程で、人間の理性にもとづく価値体系・社会規範を築き上げ、宗教から脱し合理化していく過程こそが人類の進歩だとみなすようになった。その過程で登場したのが、現在の欧米諸国が掲げる自由と民主主義という理念であった。西洋世界は宗教から脱し神から離れること、すなわち世俗化することが「自由」を意味していたといえる。
一方、イスラームの信仰の中に生きているムスリムにとって、イスラーム規範つまり「神の法」こそが歴史的に唯一絶対の価値であり続け、人間の手による社会の進歩などは認めることはなかったため、民主主義や「個人の自由」といった概念に特別な価値を見出すことはなかった。ムスリムにとっての「自由」はイスラームの実践、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[地球規模文明はどのような条件のもとに構想しうるか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430097501@hc06/14347/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chasek]]></author>
			<category><![CDATA[chasekの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 16 Sep 2007 16:09:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430097501@hc06/14347/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430097501@hc06/14347/" target="_blank"><img src="/docs/983430097501@hc06/14347/thmb.jpg?s=s&r=1189926586&t=n" border="0"></a><br /><br />地球規模文明はどのような条件のもとに構想しうるか
　&ldquo;地球規模文明&rdquo;とは何なのか。まずはその定義付けをしたい。文明とは、文化的同一性であり、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広く、個人が強く識別するところの最も広範囲なアイデンティティに[358]<br />地球規模文明はどのような条件のもとに構想しうるか
　&ldquo;地球規模文明&rdquo;とは何なのか。まずはその定義付けをしたい。文明とは、文化的同一性であり、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広く、個人が強く識別するところの最も広範囲なアイデンティティに相当するものであり、宗教との結びつきが強いものである。よって地球規模文明とは、その構成要素を世界中の人々が共有可能であり、宗教の枠を超越した文明であると定義する。
　現在の資本主義社会の下で、２割の人々が富み、残りの８割の人々が貧困に喘いでいる。このような不公平な状態では、どれだけグローバリゼーションが進んでも地球規模文明は生まれないだろう。それどころか、経..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 文明と文化のバランス]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429821101@hc06/10065/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuus0715]]></author>
			<category><![CDATA[yuus0715の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 Jul 2006 23:04:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429821101@hc06/10065/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429821101@hc06/10065/" target="_blank"><img src="/docs/983429821101@hc06/10065/thmb.jpg?s=s&r=1154009083&t=n" border="0"></a><br /><br />　人の自然との関わり方は２種類ある。文化と文明という二つである。この二つは前者は自然に向かい合い自然の脅威に晒されながらも自然に聞き従おうとする態度、である。簡単に言うと自然と共に生きていく、共存しながら生きていくということである。もうひと[360]<br />文明と文化のバランス
　人の自然との関わり方は２種類ある。文化と文明という二つである。この二つは前者は自然に向かい合い自然の脅威に晒されながらも自然に聞き従おうとする態度、である。簡単に言うと自然と共に生きていく、共存しながら生きていくということである。もうひとつ、後者は自然から逃避しながら生きてゆくことである。なぜ文明が自然からの逃避になるかというと、文明が自然の持つ原理をおしつけ、捻じ曲げて人間の都合に従わせるものだからだ。たとえばヒーター、クーラーなんかは文明の利器として上げられる。夏は暑く冬は寒いという自然の原理を押し付け、捻じ曲げて夏は涼しく、冬は暖かくしている。これは自然からの逃避といえるだろう。文化と文明、人間はほかの動物と違って生まれ持ったものだけでは生きてゆくことができないからやはり文明は必要であると思う。しかし現代では文化と文明のバランスがとても崩れているように感じる。文明に偏りすぎているのだ。言い換えると人間が文明に頼りすぎであると思われる。文明は自然の原理を押さえつけるものだから、このままこの状態がひどくなっていくと自然は潰れ人間も自然の死に巻き込まれていくと思..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[  「文明の衝突」と「孤独な超大国」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431094101@hc06/7868/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mitarai226]]></author>
			<category><![CDATA[mitarai226の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 Apr 2006 02:00:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431094101@hc06/7868/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431094101@hc06/7868/" target="_blank"><img src="/docs/983431094101@hc06/7868/thmb.jpg?s=s&r=1144688411&t=n" border="0"></a><br /><br />ハンチントンの「文明の衝突」を再読してみると、なるほど彼の指摘は見事に的得ていると改めて感じる。冷戦が終結し、今後は自由主義か共産主義かのイデオロギーや経済上の対立が国家間の戦争の原因になるのではなく、文明間の差異によって戦争が起きることの[360]<br />「文明の衝突」と「孤独な超大国」に関するレポート
　
　ハンチントンの「文明の衝突」を再読してみると、なるほど彼の指摘は見事に的得ていると改めて感じる。冷戦が終結し、今後は自由主義か共産主義かのイデオロギーや経済上の対立が国家間の戦争の原因になるのではなく、文明間の差異によって戦争が起きることの可能性が高まっていると彼は言う。そのため、文明上のラインが今後の紛争ラインと同義なものであるとも言う。ここでいう文明の対立の構図は大きく分けてしまえば、二つに分かれる。西欧文明と非西欧文明の二つだ。西欧文明とはヨーロッパを中心に北米の国家が作り上げるものであり、非西欧文明は細かく再分化していくことが可能である多種多様なものである。現在においてこの論文が見直される理由は、論文中に指摘されている暴力のラインがイスラム文明とのラインであるという点であると考えられる。９・１１テロ以降はイスラム圏に対する攻撃が止むことはなく、世界の注目を集める一方である。ハンチントンの指摘はズバリ的中したことになる。ただ一つ暴力のラインという事に関して言えば、国際的テロ集団の活躍により従来の国家対国家の戦争（つまりはライ..]]></description>

		</item>

	</channel>
</rss>