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		<title>タグ“平安”の公開資料</title>
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		<description>タグ“平安”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[国文学史Ⅰ_課題1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/149255/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kz355]]></author>
			<category><![CDATA[kz355の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 07 Aug 2022 20:26:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/149255/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/149255/" target="_blank"><img src="/docs/920554918266@hc21/149255/thmb.jpg?s=s&r=1659871571&t=n" border="0"></a><br /><br />2022年度までのレポート課題によるものです。加藤周一氏の『日本文学史序説上』を基礎とし、大陸文化の「日本化」された結果が万葉集と古今集にどのように表れているか考察しています。[256]<br />一．日本文学史上の境界点
　『日本文学史序説上』において、加藤周一氏は七九四年の平安遷都から一〇世紀初頭にかけてのおよそ百年間がそれまでに輸入された大陸文化の「日本化」の時期であると指摘した。たしかに、この時代にはかな文学の成立、律令制から摂関制への政治体制の移行、空海と最澄による真言宗・天台宗の開派など、それまで中国大陸から輸入した文化や制度をそのまま日本で用いていた飛鳥時代や奈良時代の文化と比較して、それらを消化し、日本独自のものとしての枠組みが生まれた時代だといえる。これらのような「日本化」という現象は文学においてどのような影響をもたらしたか。「日本化」の定着以前の作品である『万葉集』と定着以降の作品である『古今和歌集』を比較して考える。
二．『万葉集』について
　『万葉集』は、その正確な時期は不明であるものの、そこに収録された歌はおよそ七世紀前半から七五九年までのものとされている。この年代は加藤氏が指摘するところの「日本化」以前の年代である。『万葉集』に収録された歌は「雑歌」「相聞」「挽歌」の三種類に分けられるが、本稿において着目するのは男女間の恋を題材とした「相聞」である。
..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信　2019〜2022年度　美術史 分冊1 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chamuu]]></author>
			<category><![CDATA[chamuuの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Apr 2021 15:38:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/" target="_blank"><img src="/docs/928256103383@hc19/143650/thmb.jpg?s=s&r=1617345525&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信 2019年〜2022年度　美術史　分冊１ 合格レポート

当レポートは2019年に合格したものです。
あくまで参考程度としてお使い下さい。
丸写しなどはご遠慮下さいませ。[238]<br />美術史分冊１

平安時代前期、空海によって唐から密教がもたらされると日本でも密教美術の制作がはじまった。密教彫刻と密教絵画について作例をあげて述べなさい。 

〈ポイント〉
平安時代になると最澄と空海が新しい仏教を求めて唐へ渡り、空海は最新の密教を学んで密教経典や 曼荼羅などを日本へ持ち帰りました。空海を始まり として平安時代に制作された密教彫刻や密教絵画に ついて作例をあげて述べること。

〈キーワード〉 空海、唐、曼荼羅 
	
　延歴二十三年（八〇四年）第十六次遣唐使一行として還学生最澄、留学生空海が唐に渡った。最澄は仏典を収集して一年後に帰国。一方、空海は長安に入り当時密教の中心人物であった青龍寺・東塔院の恵果に会い、その才能を見込まれたのか、空海の予備知識と情報収集の成果は別として結果、恵果から大乗真言密教のすべてを伝授された。恵果によると『大日経』と『金剛頂経』を基にして雑密と大乗仏教を合体させ、呪法から宇宙の究極の価値まで説き明かした宗教体系を作り上げた。
そしてそれを図画化したのが両海（胎蔵界・金剛界）曼茶羅であった。恵果はわずか一年程で空海に伝授した後入滅する。中国での..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史入門課題１（2019年～2022年度）日本大学通信教育部]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/]]></link>
			<author><![CDATA[ by うさカラス]]></author>
			<category><![CDATA[うさカラスの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 30 Apr 2020 15:03:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/924609881582@hc20/140587/" target="_blank"><img src="/docs/924609881582@hc20/140587/thmb.jpg?s=s&r=1588226639&t=n" border="0"></a><br /><br />日本史入門課題１です。合格レポートです
課題　平安時代の御霊会について考察しなさい
参考程度で宜しくお願いします。
丸写しは厳禁です
皆様の参考になれたら幸いです。[242]<br />　日本最大の祭の一つとされている京都の祇園祭は、正式に言うと「祇園御霊会」という。
　御霊会は、魂鎮めの祭ともいわれ、災害や疾病をもたらす怨霊を鎮め、安心して暮らせるような生活を確保するための祭であった。
現在も行われている山鉾巡行は華麗な姿を見せている山や鉾であるが、本来の役割は洛中を浮遊したり疫害をもたらす怨霊を吸い寄せる「神の依代」であった。
　祇園御霊会が何故旧暦六月（七月）に行なわれてきたかというと、四月頃は田を耕したり、始まって五月の田植え、水管理や草取りをするので農作業するのが大変な時期であった。本州の農家では冬作麦の収穫と養蚕を同時に行わなければならなかったので、本当に過酷な時期であったことがわかる。
　更に、この時期は食糧の収穫できない時期でもあった。秋にとれた米がなくなり、五月か六月頃の冬作麦の収穫に命をつながざるを得ない状況であったのである。
　六、七月は梅雨という時期に入るので、食糧の欠乏と過酷な農作業とによる肉体の弱体化や梅雨という気候条件が重なった時は、多くの住民たちに疫病をもたらし、前年の米や冬作麦が不作で収穫が減少すると飢餓に陥る状況になる。
　平安京に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義（分冊２）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/]]></link>
			<author><![CDATA[ by けっけっ]]></author>
			<category><![CDATA[けっけっの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 13 Mar 2019 11:47:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/" target="_blank"><img src="/docs/952855190597@hc11/137103/thmb.jpg?s=s&r=1552445277&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代と、院政鎌倉時代以降の文献からそれぞれ一つずつ選び、本文を引用し、国語史的特色を説明しなさい。
本文の引用が正確になされ、個々の指摘も的確です。よくまとめられています。とお褒めを頂きました。[296]<br />国語学講義

0 314　分冊２

平安時代の文献『源氏物語』夕顔より国語史的特徴を説明する。

「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[71日本史第1課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></link>
			<author><![CDATA[ by misohan]]></author>
			<category><![CDATA[misohanの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 16 Sep 2016 13:22:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/" target="_blank"><img src="/docs/936153742693@hc16/126359/thmb.jpg?s=s&r=1473999758&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。[130]<br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。
奈良時代から平安時代への移行期は天智天皇の曾孫の光仁天皇であったが天武天皇の孫の聖武天皇の娘の称徳天皇が継承者を立てずに亡くなったため天皇に擁立された。光仁天皇は聖武天皇の娘を皇后としてその息子を皇太子にしたが政争に巻き込まれ排除された。結局、百済系渡来人の高野新笠の子の桓武天皇が光仁天皇の後を継いだ。桓武天皇が天武系の平城京から天智系の新たな都である長岡京や平安京を建設し中国の皇帝儀式を採用し系統の違いを強調しようとした。桓武天皇は平安京造営と蝦夷征討をおこないい坂上田村麻呂を征夷大将軍にして東北地方に派遣、胆沢城や志波城を築き北上川沿いを軍事的に制圧、古代日本国家の北限とした。しかしこの2大事業で国力が衰え農民の負担軽減のため雑徭半減、班田手続きを6年一回から12年一回に、兵役を九州や特定地域を除き廃止し地方有力者の郡司の子らを兵士にする健児の制を開始した。桓武天皇は弟に早良親王がいたが息子を次の天皇にしたかったため長岡京造営責任者藤原種継暗殺事件に絡み死に追いやられた。その結果平城天皇が即位..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[美術史分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mevius169]]></author>
			<category><![CDATA[mevius169の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 07 Nov 2013 10:56:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/" target="_blank"><img src="/docs/lunalian/107650/thmb.jpg?s=s&r=1383789401&t=n" border="0"></a><br /><br />美術史　分冊2
日本大学　総合教育科目
　平安時代後期は、王朝時代ともいわれ、みやびな宮廷文化が華やかに形づくられた時代である。造形芸術の領域においても日本的な抒情を展開させ、主題や表現の和様化が進められた。ここでは、その平安時代後期における彫刻と絵画についてその特徴を見ていく。
定朝は平安後期の藤原彫刻を代表する一代の名匠である。定朝の確実な遺品は、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像のみであるが、文書等により数多くの造仏を 行ったことが知られており、その中で築き上げた「定朝様式」が、日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻の上に決定的な影響を及ぼした。
定朝は平安前期の密教系、木彫系、木心乾漆系、檀像系といった多彩な彫刻様式を見事に集大成し、真に和様と呼ぶにふさわしい仏像彫刻の一典型を完成した。尊容満月の如しと賞讃され、正に藤原時代を象徴する典雅な定朝様式は、慈悲にあふれる仏の理想の姿を完壁に具現した基準作として、永く造仏の模範と仰がれたのである。
定朝はまた、技法の面でも、十世紀までの彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造から、数本の木を組み合わせて造る寄木造の手法を生み出してい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】国語学講義_分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Mar 2015 20:16:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119140/thmb.jpg?s=s&r=1426936582&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】国語学講義_分冊2　 H25-26年度課題 合格リポートです。「平安時代と、鎌倉室町時代の文献からそれぞれ一つずつ選び、まずひとつづきの200字程度の本文を引用し、その中に見出される国語史的特色（その時代らしさ）を説明しなさい。[334]<br />平安時代に用いられた主な文章は、純漢文、変体漢文、宣命体、片仮名宣命体、平仮名文の五種類である。これらの中で、平安時代に入り新たに成立した文章は、片仮名宣命体と平仮名文である。平仮名文は和文とも言い、漢文に対して平仮名の文章の類型を指すが、実際には平仮名にわずかな漢字、漢語を交えているのが普通であろう。奈良時代の万葉仮名の流れを引き、平安時代になって平仮名の成立に伴い誕生した文章である女性の日記、随筆、消息などや、主として女性を相手とする歌物語や作り物語などに使用された。平仮名文は、漢文が公的な文章であるのに対して、私的な文章であった。また平仮名文は、漢文訓読の文章が文語的であるのに対し、口語的で、当時の貴族の女性のことばにかなり近いものであった。
　この時期の平仮名文による主な作品としては『竹取物語』『伊勢物語』『枕草子』『源氏物語』『土佐日記』などがある。これらの中で『竹取物語』や『土佐日記』などは男の作品と思われる。平仮名文としては早い時期のものではあるが、漢文訓読の語彙や語法が散見され、女性の手になる平仮名文との間に大きな差異を示している。
　ここで『源氏物語』の文章から、平..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】国文学史１_分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Mar 2015 10:51:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119132/thmb.jpg?s=s&r=1426902686&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通教】国文学史１_分冊1　 H25-26年度課題 合格リポートです。「『風土記』も成立と特徴について説明しなさい。また、テキストに「『出雲風土記』の国引きの物語などは、この地方の語部の語り口と伝えていると思われる古い国語の表現を示し、[340]<br />まず『風土記』の成立についてだが、『続日本史』によると、元明天皇の和銅六年（七一三年）、諸国にその国の産物・地味・地名の起源・古老の伝承などを報告せよ、との官命が出された。ここに「風土記」の語は見えないが、この官命に応じて諸国の回答した報告書（解文という）が、のちに『風土記』と呼ばれるようになったと言われている。編集者の困惑と苦難を反映してか、提出の時期はかなり遅速の幅があったようで、延長三年（九二五年）には再度、提出が求められている。
こうして奈良時代から平安初期の段階で、数十か国の風土記が出来上がったはずなのだが、「風土記」は平安時代に入って次第に散逸し、そのうち今日まで大部が伝えられているものは、常陸・出雲・播磨・豊後・肥後の五つのみであり、その他は後の諸書に引用されている逸文に過ぎない。五国の風土記に先後はあるが、だいたい奈良時代に成立したものと推定され、逸文には後代の要約・改作と疑われるものも少なくないが、他方、原文のままの断片として認められるものも相当ある。
　『風土記』とその逸文には、皇室や貴族に伝えられたものとは系統を別にする地方民間の説話が含まれていて、それだけに野趣..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義_分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Mar 2015 13:43:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119042/thmb.jpg?s=s&r=1426308218&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】国語学講義 分冊1 合格レポートです。
H25-26年度課題「次のA・Bに掲げた事項から、それぞれ一つずつ選び、800字～1000字程度で説明しなさい。
A：音便の発生とその表記
B：片仮名の成立と用法上の位相
を選択しています[312]<br />音便の発生とその表記についてであるが、音便が現れ始めたのは、平安時代とされており、コの仮名の甲類乙類の区別の消滅とほぼ時を同じく発生したとされる。奈良時代にすでに存在していたという説もある。『万葉集』に記載のある「加伊」や「麻宇之」などを
「カキ」「マヲス」などの音便と捉える考え方であるが、異論もあり、確実な例とは言い得ないようである。
　音便とは、発生の便宜上、語中または活用語尾の一部分に起こった音の変化のことで、イ音便、ウ音便、促音便、撥音便がある。築島裕博士氏の『平安時代語新論』や『平安時代の国語』の音韻の項に、確実な用例が提示されている。これらによると、イ音便、ウ音便、促音便、撥音便の例は、平安時代初期の訓点資料に見出せる。しかし、イ音便のうち、サ行四段活用のイ音便の誕生は、一時期下った中期になって現れるようである。また、ウ音便のうち、形容詞の連用形の所見も九世紀末の『周易抄』であったとされている。なお、撥音便形には、ナ行・ラ行から生じた/n/音便（舌内撥音便）とマ行・バ行から生じた/m/音便（唇内撥音便）の二種類があったらしい。『土佐日記』を見ると、「し・こ」（死んじ児）、「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義　分冊２　2012　合格レポート　日本大学通信教育]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947055634295@hc13/107010/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yumeno]]></author>
			<category><![CDATA[yumenoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 05 Oct 2013 11:48:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947055634295@hc13/107010/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947055634295@hc13/107010/" target="_blank"><img src="/docs/947055634295@hc13/107010/thmb.jpg?s=s&r=1380941326&t=n" border="0"></a><br /><br />課題　奈良時代平安時代のいずれかと、院生鎌倉時代以降の文献からそれぞれ一つずつ選び、まず一続きの２００字程度の本文を引用し、その中に見出される国語史的特色(その時代らしさ)を説明しなさい。なお、引用した本文は何を参照したか明記すること。　合[356]<br />国語学講義　分冊２　平成２４年報告課題
&lt;奈良時代平安時代のいずれかと、院生鎌倉時代以降の文献からそれぞれ一つずつ選び、まず一続きの２００字程度の本文を引用し、その中に見出される国語史的特色(その時代らしさ)を説明しなさい。なお、引用した本文は何を参照したか明記すること。&gt;
　平安時代成立の『源氏物語』おり、国語史的特徴を説明する。
　　いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々、めざましきものにおとしそねみたまふ。同じほど、それより下﨟の更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕えにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、
　文体は、平安時代に成立した、万葉仮名を草体化して作られた平仮名と漢字の交じり文である。人物を指す人称代名詞において、自称の面では「我」とあり、この時代には、「わ」「われ」が中心であった。不定称では、「いづれ」が使用されていて、同じ平安時代成立の『蜻蛉日記』でも、「いづれ」が使われてい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[言語と文化Ⅱ　第1課題（評価A）・第2課題（評価C）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104380/]]></link>
			<author><![CDATA[ by クランティ]]></author>
			<category><![CDATA[クランティの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 Jun 2013 18:05:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104380/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104380/" target="_blank"><img src="/docs/947124227044@hc13/104380/thmb.jpg?s=s&r=1372323900&t=n" border="0"></a><br /><br />・第1設題
第1課題
第1期の日本古代音楽の特質について、具体例を挙げて説明しなさい。
第2課題第1設題
音楽が平安朝物語文学の中で、どのような役割を果たしているのか、具体的に説明しなさい。

・講評
第1課題
第1期の特質をよく理解してい[330]<br />第１課題第１設題
本小論は、第一期の日本古代音楽は宗教・政治と密接な関係にあり、呪術的であったことが特質であることを目的とする。そのためにまず、本論文で使用する「音楽」の語義について説明する。次いで具体例を挙げて、宗教・政治との関係について明らかにする。
　古代の音楽は現代における娯楽とは全く違い、たいへん神秘的な意味をもっていた。そのため当時の「音楽」の語義とは神を招き、その声を聞く。または死者の蘇生・鎮魂を意味したのである。
　こうした当時の音楽が宗教・政治と密接な関係にあったとするには具体例が必要だ。それを知る手掛かりとして、古事記の神功皇后説話をみてみよう。
これは神功皇后の新羅討伐のときに仲哀天皇が自ら琴を弾いて神託を請う場面である。ところが、神託を疑った仲哀天皇は琴を弾くのをやめてしまう。そして神事で西方の国をみることができなかったので、神の怒りを買い急逝してしまうのである。これは架空の説話であると考えられているが、何らかの事実の反映としてみてよいだろう。つまり、神を呼ぶ神聖な儀式では、政治の主導権を握る天皇のような人物が琴を弾く役割を担っていたと推測できるのである。また神..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[聖徳大学_通信教育_保育科＿文学レポート【A評価】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947040287885@hc13/102111/]]></link>
			<author><![CDATA[ by NAIST]]></author>
			<category><![CDATA[NAISTの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Mar 2013 12:26:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947040287885@hc13/102111/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947040287885@hc13/102111/" target="_blank"><img src="/docs/947040287885@hc13/102111/thmb.jpg?s=s&r=1363922791&t=n" border="0"></a><br /><br />課題：テーマ2　恵み　「地蔵浄土・鼠浄土・おむすびころりん（変遷）、笠地蔵（種類）」
評価：A[135]<br />昔話は時代とともに変化し、また、様々な種類が存在する。しかし、その核心となるモチーフやメッセージは変わらずに語り継がれる。今回、その変遷及び種類とメッセージについてまとめる。
変遷及び種類について
地蔵浄土・鼠浄土・おむすびころりん〔変遷〕
これらの話は、爺または婆が鼠の穴に落ちて他界へ行き、恩寵を受けて帰ってくる。それを見た隣の爺と婆が恩寵欲しさに同様の行動を取るが、欲深いため失敗するというもの。
行き先
爺または婆が鼠の穴に落ちて行った世界は、地蔵浄土においては地獄であり、鼠浄土及びおむすびころりんにおいては鼠の穴となっている。
古代の日本人は他界を、生命の根源を表す「根の国」と黄泉の国である「妣の国」と考えていた。「古事記」においては、大国主命が根の国で試練を克服し、宝物を貰ってこの世に生還する話があり、古代の人々は根の国には祖霊が居て、苦痛を与える一方で恩寵が与えられると信じていた。また、試練を受けた大国主命が火炎に包まれた際、鼠から火よけの呪文を教えて貰い、鼠の穴に落ちて助かるという話がある。このことから、鼠の穴はこの世と他界とをつなぐ穴だったと考えられていた。
地蔵浄土にお..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安時代の語彙]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のんたそ]]></author>
			<category><![CDATA[のんたその資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 Jan 2013 12:19:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/" target="_blank"><img src="/docs/947515749504@hc13/100378/thmb.jpg?s=s&r=1359170351&t=n" border="0"></a><br /><br />源順の著作『和名類聚抄』をもとに、身体語彙について検討し、平安時代の語彙のあり方を考えるミニレポートです。[159]<br />平安時代中期、源順によって編まれた『和名類聚抄』を中心に、平安時代の語彙について考えてみたい。
　『和名類聚抄』は、漢語を見出しとして掲げ、漢籍を典拠としてその意を示し、相応する和訓を付したものが、意義分類でまとめられた、百科事典に近い国語辞典である。この辞書の、内臓語彙について検討してみたい。　　
現在、私達が使用している、心臓（シンゾウ）、肝臓（カンゾウ）、脾臓（ヒゾウ）、肺（ハイ）、腎臓（ジンゾウ）等の内臓語彙は、すべて漢語を音読みしたものである。『和名類聚抄』に掲載されている漢語の内臓名の表記は、現在とほぼ同じだが、その読みは大きく異なっている。心臓は、心（ココロ）、肝臓は、肝（キモ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義②]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 14 Dec 2012 10:39:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/99275/thmb.jpg?s=s&r=1355449174&t=n" border="0"></a><br /><br />奈良平安時代と院政鎌倉時代以降の文献から見出される国語史的特色（その時代らしさ）について[132]<br />平安時代の文献『源氏物語』「桐壺」より、【年月に添へて御息所の御ことをおぼし忘る
ゝ折なし。慰むやとさるべき人〃をまゐらせたまへど、なずらひにおぼさるゝだにいとかたき世かなとうとましうのみよろづにおぼし成ぬるに、先帝の四の宮の、御かたちすぐれたまへる聞こえ高くをはします、（中略）三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそいとようおぼえてをひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御かたち人になん」】
平安時代を代表するこの作品は、当時の口語を反映する会話文で成り立っている。「ひらがな」を用いた和文体が特徴的で、音韻に関しては、音便の発生が大きな特色である。
　まず、ウ音便については「ク」・「ヰ」・「グ」・「ガ」が「ウ」に転じるか、「ウ」の音節が挿入されたと考えられる点については、引用文から「疎ましう」と「いとよう」の「う」の部分、また「親しう」の「う」の部分が適合していると思われる。いずれも、「疎ましく」・「いとよく」・「親しく」の「く」が「う」に転用したものと考えられる。
　語彙に関しては、奈良時代には既に借用語として導入されていたとされる、平安時代における漢語の使用..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 11:05:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/92485/thmb.jpg?s=s&r=1334628309&t=n" border="0"></a><br /><br />万葉仮名と音便の発生について（合格対象分）[63]<br />Ａ．万葉仮名
　日本には、もともと日本語を表記する文字がなかったため、中国語を表記する漢字を借用し、その読みを話し言葉の文字として表現しようとした。例えば、中国語で「阿」や「
安」は【あ】という音なので、【あ】と発音する時にその文字をあてた。名称の由来は、仮に音だけをあてる文字で、主に日本最古の歌集である『万葉集』に多く用いられたとされることから&ldquo;万葉仮名&rdquo;と呼ばれるようになったとされるが、実際には記紀万葉に使用された仮名全般のことを指す。ほかに｢真仮名｣とも呼ばれたり、当時は男性が使用していたこともあり、「男仮名」とも呼ばれていた。
　このように、漢字の字音や字訓を表意的に使用して表記した仮名のことを「万葉仮名」という。万葉仮名には、漢字の音読みを借用した「借音」という読みと、漢字の訓読みを利用した「借訓」という読みがある。例えば、『万葉集』の中では、前者は「余能奈可波」を「よ・の・な・か・は（世の中は）」と音で読み、後者は「春過而」を「はる・すぎ・て（春過ぎて）」と訓で読まれている。 
　また、現代では一音節で一つの発音だが、万葉仮名には一字を二音で表すものと、二字を一音で表すも..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79168/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lampway]]></author>
			<category><![CDATA[lampwayの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 15 Feb 2011 18:12:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79168/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79168/" target="_blank"><img src="/docs/958457868540@hc09/79168/thmb.jpg?s=s&r=1297761147&t=n" border="0"></a><br /><br />『平安時代後期仏教の特質を論ぜよ。』
南都六宗と新京の二宗
　平安時代の仏教は、南都六宗に対して創始されていった仏教の宗派である、二宗派が中心である。その一つは最澄が開いた天台宗で、もう一つは空海が開いた真言宗である。そして、これらとともに12世紀頃、良忍が天台宗の教えから独立して、大念佛寺を総本山として開いた融通念仏宗である。
　そもそも、当時は古京の六宗とも言われる南都六宗が、国家と強い結びつきを持ち、且つ腐敗が進んでいた。当時の桓武天皇は、平城京からの長岡京への遷都を考えていたが、これも南都六宗の影響力を抑えるためということも含まれていると考えられる。
　本来、遷都する際は、諸大寺もそろって都に移るのが通例であるが、桓武天皇が行った遷都の際は、南都六宗の諸大寺は移転せず、政治の中心からも隔絶された。また、新都には新しく羅城門の東西に東寺と西寺を設け、この両寺が都を鎮護するものだと考えられた。
　つまり桓武天皇は、奈良仏教を完全につぶそうとしたわけではないが、影響力を最小限に抑え、ともすれば新たな宗派の登場を期待したと考えられる。
最澄と空海の登場
　新しい仏教として登場してきたの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史　第2設題　A判定レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/]]></link>
			<author><![CDATA[ by collaborate]]></author>
			<category><![CDATA[collaborateの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 01 Feb 2011 18:58:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/" target="_blank"><img src="/docs/955297788195@hc10/78454/thmb.jpg?s=s&r=1296554288&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。
(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />平安時代後期仏教の特質を論ぜよ。
　平安時代後期の仏教の特質は、①政治からのかい離、②実践修行の重視、③民間信仰への移行があげられる。本稿では、以上の点に留意しながら、平安時代から鎌倉時代にかけての仏教の変遷を追う。
　
　一章　奈良仏教からの発展
　平安仏教は、現在の宗派仏教の始まりといえるが、その基礎を築いたのが、最澄（七六七～八二二）である。最澄の主張は、奈良仏教への反省・批判が出発点となっている。その批判は、
　①理論中心で実践がなく、形式化されている。
　②国家権力と結びついている。
　③成仏できる者とできない者とがいる。
というものであった。
　奈良仏教は、南都六宗による鎮護国家のための教義研究中心であり、そのため朝廷と学問僧との癒着が仏教の形骸化を生む。最澄の思想は、一乗思想に基づいており、そこでは、「一切衆生悉有仏性」（『法華経』）であるため、すべての人が仏性を持ち、成仏できるという思想である。法相宗の徳一との三乗一乗論争(弘仁八年(八一七年))にあるように、限られたもののみが成仏できる三乗思想とは相反する思想であった。
　一方、同時代に高野山に真言宗を開いたのが、空海..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[かな書法②]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 17 Jan 2011 13:42:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/77490/thmb.jpg?s=s&r=1295239320&t=n" border="0"></a><br /><br />古筆についての説明
※必要キーワード全てを盛り込んだ要点まとめになっています。[116]<br />かなは、今から約千年以上前の平安時代に生まれ、平安のかなは総称して古筆と呼ばれている。かなの特徴は、曲線的構造をもっていることと、連綿遊子をもとに表現されている点である。かなは、糸のような細い線でつながっており、活字では表現できない曲線的な旋律を基調としている。
高野切古今集は、一〇四九年頃に書かれた現存最古の古今和歌集の写本である。平安時代中期（西暦九〇五年）に編纂され、醍醐天皇の命令による勅撰集である。
「高野切」の高野は高野山（こうやさん）を指しており、古筆の一部が一時的に高野山にあったことからそう名づけられた。豊臣秀吉が、比叡山をはじめ勢力のあった寺院の焼き討ちをしていた時期に、高野山文珠院の高僧だけが秀吉を説き伏し、焼き討ちを免れることができたようである。そのときに秀吉から巻九の一部が高野山にもたらされたとされている。
「切」（きれ）は、完本に対して一部しか存在しないものをいう。高野切は三名の能書家が手分けして書いており、それぞれを第一種（藤原行経）・第二種（源兼行）・第三種（藤原公経）と呼ばれている。
高野切の特徴は、行がまっすぐで行間がほぼ一定しており、一首を二行書きして..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[刑法論文答案練習社会的法益放火罪]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960151950503@hc09/77013/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lawyer-business]]></author>
			<category><![CDATA[lawyer-businessの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 02 Jan 2011 02:31:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960151950503@hc09/77013/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960151950503@hc09/77013/" target="_blank"><img src="/docs/960151950503@hc09/77013/thmb.jpg?s=s&r=1293903107&t=n" border="0"></a><br /><br />刑法論文答案練習　社会的法益　放火罪
～複数建造物の一体性～
【問題】
　Ｘは、本殿・社殿・社務所・守衛詰め所等の複数の建造物が木造の回廊によって接続しているＡ神社の一部である祭具庫付近で、深夜に放火し、祭具庫および接続する本殿を炎上させた。放火地点と人が現住していた社務所・守衛詰め所まではおよそ200メートル離れていた。
【問題点】
・・・外観上、現住性の認められる建物部分とそうでない複数の建物部分から構成されている場合、いかなる要件のもとで、全体を一体なものとして一個の現住建造物と認めることができるのか。建造物の一体性の判断基準が問題となる。
【見解】
○　建造物の一体性の判断基準
　・・..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安貴族の生活]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75285/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Nov 2010 15:42:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75285/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75285/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/75285/thmb.jpg?s=s&r=1290580949&t=n" border="0"></a><br /><br />平安貴族の生活　―武士との比較―
　　　　　　　　　　　　　　　　　　
はじめに
　貴族と言えば、華やかで豪華絢爛な暮らしが思い浮かばれる。しかしながら必ずしもその見識が正しいとは限らない。本稿では、貴族らの生活と武士のそれと比較することによって、新たな見解すなわち貴族の生活の苦難な面を発見することを試みようと思う。また、ここでは｢武士｣を鎌倉時代のものと定義する。
１、貴族の住居と武士の住居
　平安時代の貴族の住居としてあまりにも有名な、「寝殿造」。貴族らは、紛れもない寝殿造の住居で生活していた。特徴を挙げてみよう。まず主屋である寝殿を南向きに建て、その東西、北などに対屋(たいのや)を配し、その間を渡殿でつないでいた。そして建物は母屋の周囲を廂(ひさし)がめぐり、さらに一段下がったすのこがとりまいた。また、母屋の片側端には壁で塗りこめられた塗籠(ぬりごめ)があり、敷地の北側には倉などが置かれることが多かったようである。建物は板敷きで、固定的な間仕切りが無く、几帳や屏風、簾(すだれ)などで仕切っていた。廂とすのこを隔てる役割を持ち、風雨を遮るものが蔀(しとみ)で、上半分だけを突き上げて開けるのが半蔀(はじとみ)、上等のものは格子と呼ばれた。これらの特徴を総合すると、湿気の多い日本の夏には適した開放的な空間ではあるが、隙間風が多いため冬は寒かったであろうと想像出来る。
　一方で武士の住居の特徴を挙げてみよう。まず主殿(しゅでん)と呼ばれる建物では、主人が客と会ったり、さまざまな儀式が行われた。さらに主殿には，主人の馬をつなぐ上馬屋(かみうまや)があった。主殿の中は板ばりで、藁であんだ座布団にすわった。部屋をとりかこんで板ばりの廊下が作られ、廊下を通って部屋を行き来し、そして特別な儀式などのときは座布団のかわりに畳が使われた。その主殿の周りは深い堀と柵で囲まれ、外から敵が入りにくいようになっていた。堀にはせまい橋がかかり，渡りきったところに門と柵，さらにその奥に館に入る門があって，二重に守られていたようだ。また納屋とよばれる建物では、地面を３ｍほど掘り下げ、平らな土間にしていた。出入り口が小さく、窓もないのでうす暗くなっているが、中には米、みそ、梅の漬物などを蓄えていたらしい。そして武士にとって必要不可欠な武器をつくるのが鍛冶工房だ。竪穴で、９０ｃｍほど掘り下げた仕..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　仏教文学概論　設題２（Ａ判定）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74953/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kyokatt_912]]></author>
			<category><![CDATA[kyokatt_912の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Nov 2010 18:14:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74953/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74953/" target="_blank"><img src="/docs/957236580345@hc09/74953/thmb.jpg?s=s&r=1290417285&t=n" border="0"></a><br /><br />『三国伝記』巻十二第三「恵心院源信僧都事」における唱導文学的特徴について述べよ。[120]<br />『三国伝記』巻十二第三「恵心院源信僧都事」における唱導文学的特徴について述べよ。
『三国伝記』は室町中期、沙弥玄棟の撰によるもので十二巻三百六十話からなる説話集である。天竺（インド）・震旦（中国）・本朝（日本）三国の仏教説話を主体に、当代の現実も混じえ、絢爛たる文体で語られる。
天竺の僧・梵語坊と大明の俗漢字郎、本朝の遁世僧・和阿弥という三人が丁亥年の八月十七日夜に東山の清水寺に参会し、月が出るまでの間の余興に物語を語り合ったという体裁をとる。
　これの巻十二第三にある「恵心院源信僧都事」という説話は、源信について語る「説草」に拠ったものと考えられる。説草とは、説話集の形にはまだ至らない、説話を単体として記録したもので、「説草」あるいは「小さな説話本」と称される。その形態から見て、僧侶が懐中して説経の場に持ち込んだものであろう。
「まことに説経僧の手控えこそが実は説話文学を生む有力な地盤であった。そういう手控えが更に修正され、大成されると説話文学集を産んできたわけである」（『室町文学の世界　面白の花の都や』p.48、岡見正雄、岩波書店、平成八年）
　この説話集と唱導の関係が、まさにその..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文学史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73962/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 09 Nov 2010 23:24:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73962/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/73962/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/73962/thmb.jpg?s=s&r=1289312675&t=n" border="0"></a><br /><br />日本文学史～羅生門を読んで～
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」、この言葉には物事の善悪を越えて「現実」というものが詰まっていると私は思う。物語に登場する下人は常に右頬の大きなニキビを気にしているが、最後には右頬から手を離し、悪事に手を染める。このニキビは下人にとって正義感の強い青年としての象徴的なもので、それから手を離すことは、「悪に対する反発」を捨てることにつながる。老婆が言った一言は下人を悪の道に歩ませたが、これがはたして本当に悪事かどうかは断定できない。辞書的な定義で言えば、正義とは人の道にかなっていて正しいことを言う。ということは「ひと」を殺めること、は当然正義とは程遠い。そしてその「ひと」には当たり前ながら自分も含まれる。正義を貫き通すとこが必ずしも正義とは限らない、逆説的ではあるがこれが「現実」である。老婆の「わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、餓死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていたことも悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本語学概論①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956006966382@hc10/69044/]]></link>
			<author><![CDATA[ by roolrool]]></author>
			<category><![CDATA[roolroolの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 01:10:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956006966382@hc10/69044/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956006966382@hc10/69044/" target="_blank"><img src="/docs/956006966382@hc10/69044/thmb.jpg?s=s&r=1278691841&t=n" border="0"></a><br /><br />「仮名遣い」について述べよ。
　&rArr;仮名遣いとは、国語を仮名で表す場合、どんな仮名を用いるかについての決まりである。仮名は平安初期に完成したといわれており、仮名で文字を綴る仮名文はこの時代に始まっている。平仮名・片仮名が用いられ始めた頃は、一つの音節に対して一つの仮名が対応していたため、仮名遣いの問題は起こらなかった。しかし、時間の経過とともに平安中期以降から音韻が変化し、「い・え・お」と「ゐ・ゑ・を」の音が同音となり、さらに語中・語尾の「は・ひ・ふ・へ・ほ」と「わ・ゐ・う・ゑ・を」の音が同音となったため、一つの音韻に対して二つないしは三つの仮名が存在する事態が生じた。さらに「は」行については文頭にある場合は「は」行の発音であるのに、文頭以外では「わ」行の転呼音で読まれるという複雑な使い分けが生まれた。こういった混乱の中で仮名遣いの整理の必要性が高まったのである。
１．定家仮名遣い
定家仮名遣いとは、平安時代後期の貴族藤原定家が記した歌論・拾遺愚草や下官集に始まる歴史的仮名遣いのはしりであり、仮名遣いの一種である。
藤原定家は自身の持つ古典（平安初期）と当時（平安後期）の文書（歌）を比べ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[選択疑問文「ＡやＢや」における係り結び]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/]]></link>
			<author><![CDATA[ by spoon]]></author>
			<category><![CDATA[spoonの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 May 2010 11:43:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/" target="_blank"><img src="/docs/956085710987@hc10/66865/thmb.jpg?s=s&r=1273545783&t=n" border="0"></a><br /><br />日本語の表現１　　平成二十年　--
選択疑問文「ＡやＢや」における係り結び
はじめに
係助詞「や」「か」の違いの明確化を試みる研究は多々みられる。しかし、このような研究からは、それぞれが係り結び構文である必要性は見えてこない。係り結びという特殊な技法を使うからには、そこに何らかの特別な意味があるはずである。ここでは、「や」「か」の違いを見つつ、「ＡやＢや」の文型が係り結び構文となる場合の特徴について考えてみたい。
一、「疑い」と「問い」
「や」と「か」の違いを明確にする際、音の印象の違いを指摘する研究もある。
松尾氏（一九三六）は、「や」「か」の違いは、「語法上の問題といふよりは、寧ろ修辞上の問題であつて、音調の相違が基本になつて居る」とし、「や」は「柔らかく優しい音」で「親しむべき感じ」があり、「か」は「強く硬い音」で「迫る様な詰るやうな感じが伴ふ」としている。疑問詞を伴う疑問文は、「おぼろげの一般的の問ではない」ため、「か」を用いるということである。こういった効果は、柔らかく優しい音の「や」では発生しないとしている。
また、「や」「か」の比較では、しばしば「疑い」と「問い」という概..]]></description>

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			<title><![CDATA[美術史（科目コード0019)　分冊2　合格　日本大学通信　]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/64885/]]></link>
			<author><![CDATA[ by trek]]></author>
			<category><![CDATA[trekの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 21 Mar 2010 02:43:23 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/64885/" target="_blank"><img src="/docs/961003089747@hc08/64885/thmb.jpg?s=s&r=1269107003&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代の密教彫刻と密教絵画について、それぞれ作例をあげて述べなさい。参考文献有り[123]<br />平安時代前半の彫刻は素材や作風の上で奈良時代の彫刻と大きく変わる。延暦年間（七八二～八〇六）の制作とみられる奈良新薬師寺の薬師如来像や、延暦一二年（七九三）頃の京都神護寺の薬師如来像は新時代の劈頭を飾る記念すべき違例で、両像とも素木の一木から躰部を彫り出し、衣文を鋭く深く入れ、見る者に力強く迫りくる彫像である。このような新しい木彫像が造立される背景にはいろいろな事情が考えられるが、一つには当代に尊敬されはじめた山林修行者が籠って仏道に励む山林を神聖なものとし、そこに生える木々に山林修行者が身につけたと同じ呪力を感じ、それを　怖する気持が社会的に大きく盛り上がってきたことがあろう。霊威を強く感じさせるために彫りは深く鋭く彫られた。
　彫りの深く鋭い一木彫成像が前半における彫像の主流を占め、稜角の鋭い大波と鎬を立てた鋭い小波とが交互に彫刻する翻波式と呼ばれる衣文の表現形式が効果的に多用されるようになる。さらにこの時期の彫像を特色づけるものは空海が唐で習得し請来した真言密教にもとづく新しい密教彫像であり、その曼荼羅的な群像表現である。
空海は弘仁一〇年（８１９）から一五年頃に高野山金剛峯寺..]]></description>

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			<title><![CDATA[宗教学（科目コード0014)　分冊1　合格　日本大学通信]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/64873/]]></link>
			<author><![CDATA[ by trek]]></author>
			<category><![CDATA[trekの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 21 Mar 2010 02:43:09 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/64873/" target="_blank"><img src="/docs/961003089747@hc08/64873/thmb.jpg?s=s&r=1269106989&t=n" border="0"></a><br /><br />仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに六世紀の初めに信奉されていたと考えられるが，五三八年、百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときが仏教公伝とされる。摂政聖徳太子の推古朝に，仏法興隆の道がひらけた。太子は仏教に深く帰依し，法華･勝鬘･維摩の三経の注釈書，いわゆる「三経義疏」を著した。五九四年、有名な三宝興隆の詔が出され，これを契機に臣 ･連などの豪族が競って寺を建て，またその第二条に「篤く三宝を敬え」の有名な文言がある十七条憲法は今日偽斤説が主張されるが，それでも太子の政治思想が，仏教を根幹に置いて，その普遍的な教理思想のなかで国家統一を志向したことは確かであろう。
　そのようななか奈良時代の仏教は国家仏教の性格をますます強めた。中国で形成された抑舎 ･三論 ･成実･法相･華厳･律の六つの宗派，いわゆる南都六宗が留学僧などによって，この時代に奈良の寺院に伝えられた。奈良の都に多くの大寺が建立されたのも，この時代の特色である。
　ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年，入唐求法して持ち帰った最澄の天台宗，空海の真言宗がこれである。だが，南都仏教も平..]]></description>

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			<title><![CDATA[国文学史Ⅰ②分冊]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/]]></link>
			<author><![CDATA[ by oniwaban_hime]]></author>
			<category><![CDATA[oniwaban_himeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Dec 2009 01:04:26 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/" target="_blank"><img src="/docs/962368413739@hc08/60838/thmb.jpg?s=s&r=1260893066&t=n" border="0"></a><br /><br />「平家物語」という作品は、保元の乱・平治の乱勝利後の平家と、敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を描いた軍記物語である。「祇園精舎の鐘の声&hellip;」の有名な書き出しをはじめとして、広く人々に浸透している。
物語の作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられ、定かではないが、「徒然草」によれば、延暦寺の慈円のもとに扶持されていた信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人の生仏が作ったとされている。仏教界の中心人物であり、「愚管抄」を書いた慈円と、公家である行長、東国の武士社会との関わりが深い生仏が提携していることからも、他の古典作品とは異なる物語の成り立ちや歴史観の複雑さが伺われる。
　「平家物語」の時代背景は平安時代後期で、保元の乱・平治の乱を通じて武士の政治的地位が上昇した時代である。両乱の後の、源平合戦が長期に渡り続き、最終的に治承・寿永の乱を経て源家の鎌倉幕府が勝利し、貴族中心であった平安時代は終結する。今までの貴族の摂関政治が衰え、度重なる内乱による社会的動乱期であったこの時代は、治安の..]]></description>

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			<title><![CDATA[平安京]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59843/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ainha]]></author>
			<category><![CDATA[ainhaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Nov 2009 22:48:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59843/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59843/" target="_blank"><img src="/docs/957534289179@hc09/59843/thmb.jpg?s=s&r=1259329684&t=n" border="0"></a><br /><br />平安京遷都
平安京地理的背景歴史的背景[56]<br />平安京　７９４年　桓武天皇
歴史的背景
平城京は寺院勢力が政治に介入し政治が乱れていた。桓武天皇は政治と仏教勢力との決別を図り、政治再建のため794年山背国葛野、愛宕両郡の地につくられた平安京に遷都した。
平安京遷都の背景を語る前に平安京遷都にいたる遷都の経緯を説明する。784年（延暦3年）桓武天皇は平城京から長岡京への遷都した。これは桓武天皇が天智系の天皇であり、天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。また、長岡の地は桓武天皇の実母の実家に近く、ゆかりのある地であった。しかし長岡京造営責任者であった藤原種継が暗殺され(785年)、その後天皇家に不幸が続き、呪われた都といわれ、遷都から僅か9年後の793年（延暦12年）の1月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言した。
平安京への遷都を天皇に建議したのは和気清麻呂である。平安京造営伝説によれば、和気清麻呂が狩りに際して天皇を東山にお連れし、高台から三方の囲まれた盆地を指し示せば、遷都の場所が決定し、また山が城をなすような地形から、この地「山背(やましろ)の国」..]]></description>

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			<title><![CDATA[日本仏教史第２設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59034/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sgw5k]]></author>
			<category><![CDATA[sgw5kの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 16 Nov 2009 23:14:59 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59034/" target="_blank"><img src="/docs/958446455597@hc09/59034/thmb.jpg?s=s&r=1258380899&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

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			<title><![CDATA[日本仏教史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:37:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56693/thmb.jpg?s=s&r=1256481464&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日本仏教史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:37:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56692/thmb.jpg?s=s&r=1256481462&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歌物語について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 29 Sep 2009 22:55:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55774/thmb.jpg?s=s&r=1254232504&t=n" border="0"></a><br /><br />※設題１　歌物語について、代表的な作品をあげて具体的に述べよ。
　まず最初に、歌物語で代表的なものに「伊勢物語」が挙げられる。成立時期に諸説があるが、おおむね（平安時代初期）だとされる。その一部に、「万葉集」の「左注」や、「古今和歌集」など[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[犬食文化について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/9825/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 北川]]></author>
			<category><![CDATA[北川の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 19 Jul 2006 00:51:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/9825/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351901@hc06/9825/" target="_blank"><img src="/docs/983430351901@hc06/9825/thmb.jpg?s=s&r=1153237912&t=n" border="0"></a><br /><br />　平安京の人々の生活を学んで驚いたことは、やはり犬の肉を食べていたということだった。中国などで犬を食べるという話はきいたことがあったが、日本で食べられていたとはまったく知らなかった。
しかしすこし調べてみると、東アジアでは犬を食べるという[356]<br />「犬食文化について」
　平安京の人々の生活を学んで驚いたことは、やはり犬の肉を食べていたということだった。中国などで犬を食べるという話はきいたことがあったが、日本で食べられていたとはまったく知らなかった。
しかしすこし調べてみると、東アジアでは犬を食べるということは特に珍しい話ではなく、むしろ食べないほうが珍しい話であるという。
農村的社会、都市的社会では犬は敬意の対象ではなく、卑しまれるか食の対象だった。
一方犬を食べない地域には二種類の考え方があり、一つは犬を生活の友としてみなす考え方。もう一つは犬を穢れたものとみなす考え方である。前者は牧畜、遊牧、狩猟社会に多く見られ、後者は都市的社会で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 平安時代における色]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430357401@hc06/8564/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sristmk0407]]></author>
			<category><![CDATA[sristmk0407の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 23 May 2006 08:01:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430357401@hc06/8564/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430357401@hc06/8564/" target="_blank"><img src="/docs/983430357401@hc06/8564/thmb.jpg?s=s&r=1148338916&t=n" border="0"></a><br /><br />　物語・日記文学研究では乳母や召人、讃岐典侍や後深草院二条などの女性を中心に中古・中世を学びました。その中で、女性たちにとって身近な関心ごとというのは衣装、さらには衣服の色の組み合わせであったのではないかと思います。紫式部日記の「正月十五日[360]<br />　物語・日記文学研究では乳母や召人、讃岐典侍や後深草院二条などの女性を中心に中古・中世を学びました。その中で、女性たちにとって身近な関心ごとというのは衣装、さらには衣服の色の組み合わせであったのではないかと思います。紫式部日記の「正月十五日　敦良親王御十五日の祝い」では、『その日の人の装束、いづれとなく尽くしたるを、袖口のあはひ悪ろう重ねたる人しも、御前の物とり入るとて、そこらの上達部、殿上人に、さしい出でてまぼられつることとぞ、のちに宰相の君など、口惜しがりたまふめりし。さるは悪しくもはべらざりき。ただあはひの褪めたるなり。小大輔は紅一襲、上に紅梅の濃き薄き五つを重ねたり。唐衣、桜。源式部は濃きに、また紅梅の綾ぞ着てはべるめりし。織物ならぬを悪ろしとにや。それあながちのこと。顕証なるにしもこそ、とり過ちのほの見えたらむ側目をも選らせたまふべけれ、衣の劣りまさりは言ふべきことならず。』とあり、衣服が悪口の種になっていることが分かる。また、源氏物語「玉鬘」の、源氏が妻たちに新年に装う晴れ着を送る場面では、紫の上に葡萄（赤紫）色の小袿・紅梅のうわぎ表着・濃い紅梅色のかさね、 明石の姫君には..]]></description>

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