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		<title>タグ“平安時代”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3/</link>
		<description>タグ“平安時代”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

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			<title><![CDATA[佛教大学　政治文化史（2023年）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153438/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 駆け出しの教員]]></author>
			<category><![CDATA[駆け出しの教員の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 01 May 2024 15:13:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153438/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153438/" target="_blank"><img src="/docs/912354818963@hc24/153438/thmb.jpg?s=s&r=1714544010&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信教育課程での【政治文化史】合格レポートです。

参考文献
・日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」  坂上康俊
株式会社講談社

リポート作成の助けになればと思います。

丸写しは厳禁となります。
本リポート[314]<br />政治文化史
設題　平安時代は日本の古代から中世社会へ移行する過渡期である。テキストを熟読し、特に天皇や政治機構・政治形態の側面に焦点を当てて、律令国家から国家がいかに変容していったのか、まずは指定テキストの概要をまとめた上で、自身の考えるところを論述しなさい。

日本における律令制度は、中国の唐の制度を参考にして整備された。律令制度は中央集権的な政治体制であり、国家行政や法律を統一的に管理することを目的とした。しかし、平安時代に入ると律令制度の中央集権的な政治体制は限界を迎え、地方政治や武士の台頭が新たな政治力を生んだ。本レポートでは、天皇や政治機構・政治形態の側面に焦点を当て、律令国家から国家がいかに変容したのかを記述していく。

【天皇のありかたと権威の確立】
律令国家の中央集権体制では天皇が政治の最高権威となり、天皇を中心とした政治機構をつくりあげていた。よって、中央集権体制の政治を行うためには天皇の権威が確立されていなければならなかった。9世紀には天皇のありかたが変貌した。その変貌により天皇のありかたは相違なる2つの方向性があった。一つは中国の皇帝像への接近であり、二つ目は、中..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信　2019〜2022年度　美術史 分冊1 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chamuu]]></author>
			<category><![CDATA[chamuuの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Apr 2021 15:38:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/" target="_blank"><img src="/docs/928256103383@hc19/143650/thmb.jpg?s=s&r=1617345525&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信 2019年〜2022年度　美術史　分冊１ 合格レポート

当レポートは2019年に合格したものです。
あくまで参考程度としてお使い下さい。
丸写しなどはご遠慮下さいませ。[238]<br />美術史分冊１

平安時代前期、空海によって唐から密教がもたらされると日本でも密教美術の制作がはじまった。密教彫刻と密教絵画について作例をあげて述べなさい。 

〈ポイント〉
平安時代になると最澄と空海が新しい仏教を求めて唐へ渡り、空海は最新の密教を学んで密教経典や 曼荼羅などを日本へ持ち帰りました。空海を始まり として平安時代に制作された密教彫刻や密教絵画に ついて作例をあげて述べること。

〈キーワード〉 空海、唐、曼荼羅 
	
　延歴二十三年（八〇四年）第十六次遣唐使一行として還学生最澄、留学生空海が唐に渡った。最澄は仏典を収集して一年後に帰国。一方、空海は長安に入り当時密教の中心人物であった青龍寺・東塔院の恵果に会い、その才能を見込まれたのか、空海の予備知識と情報収集の成果は別として結果、恵果から大乗真言密教のすべてを伝授された。恵果によると『大日経』と『金剛頂経』を基にして雑密と大乗仏教を合体させ、呪法から宇宙の究極の価値まで説き明かした宗教体系を作り上げた。
そしてそれを図画化したのが両海（胎蔵界・金剛界）曼茶羅であった。恵果はわずか一年程で空海に伝授した後入滅する。中国での..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義（分冊２）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/]]></link>
			<author><![CDATA[ by けっけっ]]></author>
			<category><![CDATA[けっけっの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 13 Mar 2019 11:47:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/137103/" target="_blank"><img src="/docs/952855190597@hc11/137103/thmb.jpg?s=s&r=1552445277&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代と、院政鎌倉時代以降の文献からそれぞれ一つずつ選び、本文を引用し、国語史的特色を説明しなさい。
本文の引用が正確になされ、個々の指摘も的確です。よくまとめられています。とお褒めを頂きました。[296]<br />国語学講義

0 314　分冊２

平安時代の文献『源氏物語』夕顔より国語史的特徴を説明する。

「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[W0103　社会福祉史　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></link>
			<author><![CDATA[ by allA]]></author>
			<category><![CDATA[allAの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2018 16:59:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/" target="_blank"><img src="/docs/934207734182@hc17/133579/thmb.jpg?s=s&r=1523433540&t=n" border="0"></a><br /><br />w0103　社会福祉史　リポート第2設題

評価Ａ

｢レポートの書式がきちんととられていて、設題の意図・意味することの理解も結語も適切である｣とのコメントを頂きました。

テキスト以外にも参考文献を記載していますので、リポート[324]<br />｢前近代(第一段階)における仏教の救済(慈悲の実践)についてその内容と特徴を論述しなさい。｣

はじめに
　仏教における慈悲とは、人間同士の愛他理念を内包する宗教実践である。人々を｢自他不二｣とみる実践が、対象とする人々に福祉をもたらし、結果として、福祉の実践となったのである。日本においても、六世紀に仏教が伝来して以来、社会構造の変化の中であり方を大きく変えながら、慈悲の実践に福祉は見出されてきた。
本稿では、前近代における、国家的慈恵による福祉実践と比較をした上で、仏教の救済による福祉実践の内容と特徴について述べる。
前近代の社会背景
　各時代の制約を受けながら展開されてきた生活の共同の営みは、福祉の歴史でもある。福祉のあゆみは大きく三つの段階に区分することができる。前近代はこの第一段階にあたり、共同体の規制や身分制を前提とした政治的、宗教的共済や共同体内部の共済を中心とする時代である。
前近代では、人間が生きていくための社会共同が人格を無視し、個人の自立的判断を認めない共同体により地域社会の規則を強制され、権力者により支配される抑圧的構造があった。この前近代の福祉は、人間解放を認め..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[M6106 日本語学概論　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127461/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Dec 2016 21:07:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127461/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127461/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127461/thmb.jpg?s=s&r=1480594079&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学2016年度　教職　国語　書道　Ａ評価　参考に。[76]<br />M6106　日本語学概論　第一設題
　　「仮名づかい」について述べなさい。
「仮名づかい」とは何かについて、指定されているテキストp.91では「仮名遣いとは、国語を仮名で書き表す場合、どんな仮名を用いるかについてのきまりである。」と記載されている。仮名遣いと聞いて、一般的に思いだされるのは平安時代中期以降、音韻が変化し、それまで区別されていた「い・え・お」と「ゐ・ゑ・を」の音が同じになってしまったことや語中や語尾に使われる「は・ひ・ふ・へ・ほ」と「わ・ゐ・う・ゑ・を」の同音の仮名表記についてややこしいという印象である。これらの仮名を示すには２種類以上の仮名が使われることになり、両者を区別することが難しくなっていった。そもそも「仮名づかい」とは音としての言葉を「仮名」を使用することで書き表す手段である。平仮名・片仮名が生まれた当時は、一音節には一つの仮名が対応していたため、仮名づかいの問題は生じなかった。では、なぜこのようなややこしい表記が現代でもたまに見られるのか、逆に仮名を使用するときにどのように使用すれば正しいのか、などが頭に浮かぶ。おそらく時代によってその書き方に差異が生じるとい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[71日本史第1課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></link>
			<author><![CDATA[ by misohan]]></author>
			<category><![CDATA[misohanの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 16 Sep 2016 13:22:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/" target="_blank"><img src="/docs/936153742693@hc16/126359/thmb.jpg?s=s&r=1473999758&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。[130]<br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。
奈良時代から平安時代への移行期は天智天皇の曾孫の光仁天皇であったが天武天皇の孫の聖武天皇の娘の称徳天皇が継承者を立てずに亡くなったため天皇に擁立された。光仁天皇は聖武天皇の娘を皇后としてその息子を皇太子にしたが政争に巻き込まれ排除された。結局、百済系渡来人の高野新笠の子の桓武天皇が光仁天皇の後を継いだ。桓武天皇が天武系の平城京から天智系の新たな都である長岡京や平安京を建設し中国の皇帝儀式を採用し系統の違いを強調しようとした。桓武天皇は平安京造営と蝦夷征討をおこないい坂上田村麻呂を征夷大将軍にして東北地方に派遣、胆沢城や志波城を築き北上川沿いを軍事的に制圧、古代日本国家の北限とした。しかしこの2大事業で国力が衰え農民の負担軽減のため雑徭半減、班田手続きを6年一回から12年一回に、兵役を九州や特定地域を除き廃止し地方有力者の郡司の子らを兵士にする健児の制を開始した。桓武天皇は弟に早良親王がいたが息子を次の天皇にしたかったため長岡京造営責任者藤原種継暗殺事件に絡み死に追いやられた。その結果平城天皇が即位..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[美術史分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mevius169]]></author>
			<category><![CDATA[mevius169の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 07 Nov 2013 10:56:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/107650/" target="_blank"><img src="/docs/lunalian/107650/thmb.jpg?s=s&r=1383789401&t=n" border="0"></a><br /><br />美術史　分冊2
日本大学　総合教育科目
　平安時代後期は、王朝時代ともいわれ、みやびな宮廷文化が華やかに形づくられた時代である。造形芸術の領域においても日本的な抒情を展開させ、主題や表現の和様化が進められた。ここでは、その平安時代後期における彫刻と絵画についてその特徴を見ていく。
定朝は平安後期の藤原彫刻を代表する一代の名匠である。定朝の確実な遺品は、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像のみであるが、文書等により数多くの造仏を 行ったことが知られており、その中で築き上げた「定朝様式」が、日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻の上に決定的な影響を及ぼした。
定朝は平安前期の密教系、木彫系、木心乾漆系、檀像系といった多彩な彫刻様式を見事に集大成し、真に和様と呼ぶにふさわしい仏像彫刻の一典型を完成した。尊容満月の如しと賞讃され、正に藤原時代を象徴する典雅な定朝様式は、慈悲にあふれる仏の理想の姿を完壁に具現した基準作として、永く造仏の模範と仰がれたのである。
定朝はまた、技法の面でも、十世紀までの彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造から、数本の木を組み合わせて造る寄木造の手法を生み出してい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】国語学講義_分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Mar 2015 20:16:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119140/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119140/thmb.jpg?s=s&r=1426936582&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】国語学講義_分冊2　 H25-26年度課題 合格リポートです。「平安時代と、鎌倉室町時代の文献からそれぞれ一つずつ選び、まずひとつづきの200字程度の本文を引用し、その中に見出される国語史的特色（その時代らしさ）を説明しなさい。[334]<br />平安時代に用いられた主な文章は、純漢文、変体漢文、宣命体、片仮名宣命体、平仮名文の五種類である。これらの中で、平安時代に入り新たに成立した文章は、片仮名宣命体と平仮名文である。平仮名文は和文とも言い、漢文に対して平仮名の文章の類型を指すが、実際には平仮名にわずかな漢字、漢語を交えているのが普通であろう。奈良時代の万葉仮名の流れを引き、平安時代になって平仮名の成立に伴い誕生した文章である女性の日記、随筆、消息などや、主として女性を相手とする歌物語や作り物語などに使用された。平仮名文は、漢文が公的な文章であるのに対して、私的な文章であった。また平仮名文は、漢文訓読の文章が文語的であるのに対し、口語的で、当時の貴族の女性のことばにかなり近いものであった。
　この時期の平仮名文による主な作品としては『竹取物語』『伊勢物語』『枕草子』『源氏物語』『土佐日記』などがある。これらの中で『竹取物語』や『土佐日記』などは男の作品と思われる。平仮名文としては早い時期のものではあるが、漢文訓読の語彙や語法が散見され、女性の手になる平仮名文との間に大きな差異を示している。
　ここで『源氏物語』の文章から、平..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義_分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Mar 2015 13:43:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119042/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119042/thmb.jpg?s=s&r=1426308218&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通信】国語学講義 分冊1 合格レポートです。
H25-26年度課題「次のA・Bに掲げた事項から、それぞれ一つずつ選び、800字～1000字程度で説明しなさい。
A：音便の発生とその表記
B：片仮名の成立と用法上の位相
を選択しています[312]<br />音便の発生とその表記についてであるが、音便が現れ始めたのは、平安時代とされており、コの仮名の甲類乙類の区別の消滅とほぼ時を同じく発生したとされる。奈良時代にすでに存在していたという説もある。『万葉集』に記載のある「加伊」や「麻宇之」などを
「カキ」「マヲス」などの音便と捉える考え方であるが、異論もあり、確実な例とは言い得ないようである。
　音便とは、発生の便宜上、語中または活用語尾の一部分に起こった音の変化のことで、イ音便、ウ音便、促音便、撥音便がある。築島裕博士氏の『平安時代語新論』や『平安時代の国語』の音韻の項に、確実な用例が提示されている。これらによると、イ音便、ウ音便、促音便、撥音便の例は、平安時代初期の訓点資料に見出せる。しかし、イ音便のうち、サ行四段活用のイ音便の誕生は、一時期下った中期になって現れるようである。また、ウ音便のうち、形容詞の連用形の所見も九世紀末の『周易抄』であったとされている。なお、撥音便形には、ナ行・ラ行から生じた/n/音便（舌内撥音便）とマ行・バ行から生じた/m/音便（唇内撥音便）の二種類があったらしい。『土佐日記』を見ると、「し・こ」（死んじ児）、「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ムサビ　美術論　過去問　テスト対策　模範解答〈過去問つき〉]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115932/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s-aor-i]]></author>
			<category><![CDATA[s-aor-iの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Sep 2014 19:08:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115932/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115932/" target="_blank"><img src="/docs/942884723944@hc14/115932/thmb.jpg?s=s&r=1411380539&t=n" border="0"></a><br /><br />テスト対策用のノートです。数年分の過去問を分析して、要点をまとめてあります。[114]<br />【縄文・弥生時代】
縄文・弥生時代の美術と権力の表象についてまとめよ
●縄文時代
　縄文時代は日本列島の美術が外部からの影響や情報にさらされず、独自の発展をとげた唯一の時代である。この時代、人々は主に狩猟、漁労、採集によって生活していたが、近年の研究では、この時代既に栽培農耕が行われ、人々は豊かな食生活をしていたことが明らかになっている。
　木製品や繊維製品などの有機遺物は土中で遺存しにくいため、この時代の出土遺物は土器・土偶を初めとする土製品、石器などの石製品、骨角製品が中心となる。
　土器は時代や地域によって様式にかなりの相違があり、多くの形式に区分されているが、全般的な特色として言えることは、いわゆる縄文（縄紋とも書く）を初めとした各種文様で器面を加飾し、祭祀用途の強い器種は容器としての機能性に因われない華美な装飾が施される。
　縄文は、棒に撚り紐を様々な形に巻き付けた施文具を焼成前の器面に押し当て、転がすことによって生ずるもので、紐の巻き付け方によって様々な土器文様が生まれる。
　火焔式土器は、口縁部には鶏冠ないし王冠を思わせる複雑な形状の装飾を付し、器面にも粘土紐の貼り付けで複雑な文様を表している。
　後期から晩期にかけては、施した縄文の一部を磨り消して平滑にし、「地」と「文様」の区別を鮮明にした「磨消縄文」が現れる。器形や装飾も中期の呪術的で装飾過剰なものから次第に洗練されたものになり、製作者の美意識の変化が窺われる。晩期の土器は用途に応じて器種・器形も変化に富み、現代の急須と同形の土器などもある。
　土偶は現実の人体の比例とは全く異なった姿に表され、辛うじて人物像と認識できる段階までデフォルメされたものが多く、独特の造形感覚で作られている。様々な呪術的意図をもって製作されたものと考えられているが、妊娠した女性や女神を表現した土偶などは豊穣祈願の意図をもって作られたものであると考えられている。
●弥生時代
　前代との大きな相違は、日本列島の文化が外来の文化や技術の影響を受けるようになったことであり、稲作農耕と金属器が中国大陸からもたらされ、文化は新たな時代に入った。文明の進化に伴い、支配者と被支配者が分化したのもこの時期である。
　縄文式土器に見られた過剰な装飾は影を潜め、弥生式土器は器形、文様ともに温和で洗練されたものが多く見られるようになった。土..]]></description>

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			<title><![CDATA[ムサビ　美術論　課題1　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115891/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s-aor-i]]></author>
			<category><![CDATA[s-aor-iの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 20 Sep 2014 22:37:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115891/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115891/" target="_blank"><img src="/docs/942884723944@hc14/115891/thmb.jpg?s=s&r=1411220268&t=n" border="0"></a><br /><br />やまと絵の定義の変容についてまとめなさい。
　平安時代前期、東寺食堂千手観音像の納入品である檜扇に描かれていた墨絵、樹木と飛鳥、下草などを点々と描いた小画には、やまと絵につながるやわらびた画趣がみられる。
　奈良時代から平安前期にかけて、日本の絵画は中国の絵画表現に強い影響下にあった。しかし、平安時代後期になると、唐代絵画の模範・学習によって得られた技法や表現の中から日本的な心情に馴染むものが選択され、次第に唐画の直模から離れて、細やかな描写を目指し始めた。このような和様表現は、目に親しい日本の景物を大画面に描く、やまと絵の展開が大きく関わっていた。天喜元年に完成した、平等院○○堂の扉絵・壁画には、来迎諸尊の背景として四季の風物が魅力的に描かれ、11世紀半ばのやまと絵大画面の構成と、四季の情趣への細やかさを感じられる。
　９世紀末から11世紀にかけて流行した屏風歌は、日本の名所や四季・月次の風物を描く屏風絵に対して詠まれた和歌であるが、このようなやまと言葉は、ともに細やかで身近な情趣の表現媒体として、その表現を深めていく。このような日本の風物を大画面に描くものを、当時やまと絵と呼び、従..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安時代の語彙]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のんたそ]]></author>
			<category><![CDATA[のんたその資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 Jan 2013 12:19:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100378/" target="_blank"><img src="/docs/947515749504@hc13/100378/thmb.jpg?s=s&r=1359170351&t=n" border="0"></a><br /><br />源順の著作『和名類聚抄』をもとに、身体語彙について検討し、平安時代の語彙のあり方を考えるミニレポートです。[159]<br />平安時代中期、源順によって編まれた『和名類聚抄』を中心に、平安時代の語彙について考えてみたい。
　『和名類聚抄』は、漢語を見出しとして掲げ、漢籍を典拠としてその意を示し、相応する和訓を付したものが、意義分類でまとめられた、百科事典に近い国語辞典である。この辞書の、内臓語彙について検討してみたい。　　
現在、私達が使用している、心臓（シンゾウ）、肝臓（カンゾウ）、脾臓（ヒゾウ）、肺（ハイ）、腎臓（ジンゾウ）等の内臓語彙は、すべて漢語を音読みしたものである。『和名類聚抄』に掲載されている漢語の内臓名の表記は、現在とほぼ同じだが、その読みは大きく異なっている。心臓は、心（ココロ）、肝臓は、肝（キモ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義②]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 14 Dec 2012 10:39:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/99275/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/99275/thmb.jpg?s=s&r=1355449174&t=n" border="0"></a><br /><br />奈良平安時代と院政鎌倉時代以降の文献から見出される国語史的特色（その時代らしさ）について[132]<br />平安時代の文献『源氏物語』「桐壺」より、【年月に添へて御息所の御ことをおぼし忘る
ゝ折なし。慰むやとさるべき人〃をまゐらせたまへど、なずらひにおぼさるゝだにいとかたき世かなとうとましうのみよろづにおぼし成ぬるに、先帝の四の宮の、御かたちすぐれたまへる聞こえ高くをはします、（中略）三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそいとようおぼえてをひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御かたち人になん」】
平安時代を代表するこの作品は、当時の口語を反映する会話文で成り立っている。「ひらがな」を用いた和文体が特徴的で、音韻に関しては、音便の発生が大きな特色である。
　まず、ウ音便については「ク」・「ヰ」・「グ」・「ガ」が「ウ」に転じるか、「ウ」の音節が挿入されたと考えられる点については、引用文から「疎ましう」と「いとよう」の「う」の部分、また「親しう」の「う」の部分が適合していると思われる。いずれも、「疎ましく」・「いとよく」・「親しく」の「く」が「う」に転用したものと考えられる。
　語彙に関しては、奈良時代には既に借用語として導入されていたとされる、平安時代における漢語の使用..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】0981 かな書法 分冊２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956404662697@hc10/93203/]]></link>
			<author><![CDATA[ by contrabaka1984]]></author>
			<category><![CDATA[contrabaka1984の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 09 May 2012 09:37:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956404662697@hc10/93203/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956404662697@hc10/93203/" target="_blank"><img src="/docs/956404662697@hc10/93203/thmb.jpg?s=s&r=1336523825&t=n" border="0"></a><br /><br />課題「三筆三跡の時代ではどのような変化がもたらされたかについて説明しなさい」
合格リポートです。参考にどうぞ。[163]<br />我が国に漢字がもたらされた上代の後、仏教の伝来した飛鳥時代に写経が広く行われたことにより、日本の書道は急速な発展を見た。この時代、遣隋使により大陸から多くの書が渡来したが、聖武天皇の時代（奈良時代　七〇一～七五六）になって王羲之の書が伝来したという記録が『正倉院文書』に残されている。
　王羲之は東晋の政治家・書家であり、その貴族的でいて力強い書は書道の最高峰と呼び声高く、書聖と崇められるほどであった。日本においてもそれは同様であり、聖武天皇や光明皇后をはじめとする貴族社会で尊重されたのである。具体的には、律令制度下の教育機関である大学寮に書博士という役職が設置されたことが挙げられる。ここには後に「書道」と呼ばれる学科が形成されたが、早い段階で衰退している。
　平安時代に入っても我が国の書道は王羲之の影響下にあったが、この時代に日本は三人の能書を得ることになる。それが所謂「三筆」と呼ばれる弘法大師空海・嵯峨天皇・橘逸勢の三人である。先にも触れたとおり当時の書道は王羲之に範をとったものであったが、空海や伝教大師最澄（彼もまた、特筆すべき能書であった）が遣唐船で大陸に渡り、顔真卿をはじめ唐..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 11:05:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/92485/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/92485/thmb.jpg?s=s&r=1334628309&t=n" border="0"></a><br /><br />万葉仮名と音便の発生について（合格対象分）[63]<br />Ａ．万葉仮名
　日本には、もともと日本語を表記する文字がなかったため、中国語を表記する漢字を借用し、その読みを話し言葉の文字として表現しようとした。例えば、中国語で「阿」や「
安」は【あ】という音なので、【あ】と発音する時にその文字をあてた。名称の由来は、仮に音だけをあてる文字で、主に日本最古の歌集である『万葉集』に多く用いられたとされることから&ldquo;万葉仮名&rdquo;と呼ばれるようになったとされるが、実際には記紀万葉に使用された仮名全般のことを指す。ほかに｢真仮名｣とも呼ばれたり、当時は男性が使用していたこともあり、「男仮名」とも呼ばれていた。
　このように、漢字の字音や字訓を表意的に使用して表記した仮名のことを「万葉仮名」という。万葉仮名には、漢字の音読みを借用した「借音」という読みと、漢字の訓読みを利用した「借訓」という読みがある。例えば、『万葉集』の中では、前者は「余能奈可波」を「よ・の・な・か・は（世の中は）」と音で読み、後者は「春過而」を「はる・すぎ・て（春過ぎて）」と訓で読まれている。 
　また、現代では一音節で一つの発音だが、万葉仮名には一字を二音で表すものと、二字を一音で表すも..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　日本仏教史　合格レポート（平安時代）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/86929/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みっちゃん]]></author>
			<category><![CDATA[みっちゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 18 Oct 2011 11:19:37 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/86929/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955990722919@hc10/86929/" target="_blank"><img src="/docs/955990722919@hc10/86929/thmb.jpg?s=s&r=1318904377&t=n" border="0"></a><br /><br />教科書、参考文献などをもとに作成したオリジナルレポートです。参考にして下さい。[117]<br />第２設題　平安時代後期仏教の特質を論ぜよ
はじめに
平安時代は、桓武天皇が長岡京から平安京へ都を再び戻した延暦十三年（七九四）から、鎌倉幕府が成立する建久三年（一一九二）までの約四百年間を占める。平安仏教は奈良時代に行き詰まった律令政治を改め、天皇中心の集権体制を再建するために、奈良の学派仏教に対して、実践を中心とした仏教に変化していく。　　　　
また、平安仏教の代表格である最澄の天台宗と空海の真言宗の成立は、事実上の現代の宗派仏教の始まりと言えるだろう。そして、それらの宗派仏教が藤原氏を筆頭とする貴族社会に浸透していく過程の中に、平安仏教の特質が含まれているものと思う。
平安仏教の成立と発展
奈良時代末期、道鏡という僧侶は法体の身分でありながら孝謙天皇の寵愛を受けて実質上の政権掌握者となり、強引な仏教政治で盛んに造寺造仏を行い国の困窮を招いた。この結果、僧侶が富や権力と深い関わりを持った事で奈良仏教は急速に堕落傾向を見せ始めていく。そして、時の天皇であった光仁天皇は、歴代の天武系天皇の崇仏政治が国を混乱させている事を問題視し、仏教改革を行って新たな仏教環境を整えていこうとした。私は、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史　第2設題　A判定レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/]]></link>
			<author><![CDATA[ by collaborate]]></author>
			<category><![CDATA[collaborateの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 01 Feb 2011 18:58:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955297788195@hc10/78454/" target="_blank"><img src="/docs/955297788195@hc10/78454/thmb.jpg?s=s&r=1296554288&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。
(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />平安時代後期仏教の特質を論ぜよ。
　平安時代後期の仏教の特質は、①政治からのかい離、②実践修行の重視、③民間信仰への移行があげられる。本稿では、以上の点に留意しながら、平安時代から鎌倉時代にかけての仏教の変遷を追う。
　
　一章　奈良仏教からの発展
　平安仏教は、現在の宗派仏教の始まりといえるが、その基礎を築いたのが、最澄（七六七～八二二）である。最澄の主張は、奈良仏教への反省・批判が出発点となっている。その批判は、
　①理論中心で実践がなく、形式化されている。
　②国家権力と結びついている。
　③成仏できる者とできない者とがいる。
というものであった。
　奈良仏教は、南都六宗による鎮護国家のための教義研究中心であり、そのため朝廷と学問僧との癒着が仏教の形骸化を生む。最澄の思想は、一乗思想に基づいており、そこでは、「一切衆生悉有仏性」（『法華経』）であるため、すべての人が仏性を持ち、成仏できるという思想である。法相宗の徳一との三乗一乗論争(弘仁八年(八一七年))にあるように、限られたもののみが成仏できる三乗思想とは相反する思想であった。
　一方、同時代に高野山に真言宗を開いたのが、空海..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[かな書法②]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 17 Jan 2011 13:42:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/77490/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/77490/thmb.jpg?s=s&r=1295239320&t=n" border="0"></a><br /><br />古筆についての説明
※必要キーワード全てを盛り込んだ要点まとめになっています。[116]<br />かなは、今から約千年以上前の平安時代に生まれ、平安のかなは総称して古筆と呼ばれている。かなの特徴は、曲線的構造をもっていることと、連綿遊子をもとに表現されている点である。かなは、糸のような細い線でつながっており、活字では表現できない曲線的な旋律を基調としている。
高野切古今集は、一〇四九年頃に書かれた現存最古の古今和歌集の写本である。平安時代中期（西暦九〇五年）に編纂され、醍醐天皇の命令による勅撰集である。
「高野切」の高野は高野山（こうやさん）を指しており、古筆の一部が一時的に高野山にあったことからそう名づけられた。豊臣秀吉が、比叡山をはじめ勢力のあった寺院の焼き討ちをしていた時期に、高野山文珠院の高僧だけが秀吉を説き伏し、焼き討ちを免れることができたようである。そのときに秀吉から巻九の一部が高野山にもたらされたとされている。
「切」（きれ）は、完本に対して一部しか存在しないものをいう。高野切は三名の能書家が手分けして書いており、それぞれを第一種（藤原行経）・第二種（源兼行）・第三種（藤原公経）と呼ばれている。
高野切の特徴は、行がまっすぐで行間がほぼ一定しており、一首を二行書きして..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[選択疑問文「ＡやＢや」における係り結び]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/]]></link>
			<author><![CDATA[ by spoon]]></author>
			<category><![CDATA[spoonの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 May 2010 11:43:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66865/" target="_blank"><img src="/docs/956085710987@hc10/66865/thmb.jpg?s=s&r=1273545783&t=n" border="0"></a><br /><br />日本語の表現１　　平成二十年　--
選択疑問文「ＡやＢや」における係り結び
はじめに
係助詞「や」「か」の違いの明確化を試みる研究は多々みられる。しかし、このような研究からは、それぞれが係り結び構文である必要性は見えてこない。係り結びという特殊な技法を使うからには、そこに何らかの特別な意味があるはずである。ここでは、「や」「か」の違いを見つつ、「ＡやＢや」の文型が係り結び構文となる場合の特徴について考えてみたい。
一、「疑い」と「問い」
「や」と「か」の違いを明確にする際、音の印象の違いを指摘する研究もある。
松尾氏（一九三六）は、「や」「か」の違いは、「語法上の問題といふよりは、寧ろ修辞上の問題であつて、音調の相違が基本になつて居る」とし、「や」は「柔らかく優しい音」で「親しむべき感じ」があり、「か」は「強く硬い音」で「迫る様な詰るやうな感じが伴ふ」としている。疑問詞を伴う疑問文は、「おぼろげの一般的の問ではない」ため、「か」を用いるということである。こういった効果は、柔らかく優しい音の「や」では発生しないとしている。
また、「や」「か」の比較では、しばしば「疑い」と「問い」という概..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文学史Ⅰ②分冊]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/]]></link>
			<author><![CDATA[ by oniwaban_hime]]></author>
			<category><![CDATA[oniwaban_himeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Dec 2009 01:04:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/" target="_blank"><img src="/docs/962368413739@hc08/60838/thmb.jpg?s=s&r=1260893066&t=n" border="0"></a><br /><br />「平家物語」という作品は、保元の乱・平治の乱勝利後の平家と、敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を描いた軍記物語である。「祇園精舎の鐘の声&hellip;」の有名な書き出しをはじめとして、広く人々に浸透している。
物語の作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられ、定かではないが、「徒然草」によれば、延暦寺の慈円のもとに扶持されていた信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人の生仏が作ったとされている。仏教界の中心人物であり、「愚管抄」を書いた慈円と、公家である行長、東国の武士社会との関わりが深い生仏が提携していることからも、他の古典作品とは異なる物語の成り立ちや歴史観の複雑さが伺われる。
　「平家物語」の時代背景は平安時代後期で、保元の乱・平治の乱を通じて武士の政治的地位が上昇した時代である。両乱の後の、源平合戦が長期に渡り続き、最終的に治承・寿永の乱を経て源家の鎌倉幕府が勝利し、貴族中心であった平安時代は終結する。今までの貴族の摂関政治が衰え、度重なる内乱による社会的動乱期であったこの時代は、治安の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史第２設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59034/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sgw5k]]></author>
			<category><![CDATA[sgw5kの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 16 Nov 2009 23:14:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59034/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59034/" target="_blank"><img src="/docs/958446455597@hc09/59034/thmb.jpg?s=s&r=1258380899&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[仏教史概説　鎌倉期の仏教を全体像としてどう捉えるべきかを論述しなさい]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957857365916@hc09/57963/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tantakatan]]></author>
			<category><![CDATA[tantakatanの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 09 Nov 2009 19:09:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957857365916@hc09/57963/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957857365916@hc09/57963/" target="_blank"><img src="/docs/957857365916@hc09/57963/thmb.jpg?s=s&r=1257761356&t=n" border="0"></a><br /><br />①鎌倉期の仏教を全体像としてどう捉えるべきかを論述しなさい。
鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。旧仏教と呼ばれる平安時代からある真言宗などは、お金のある人にできる、難しくて貴族的であったが、当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:37:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56693/thmb.jpg?s=s&r=1256481464&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歌物語について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 29 Sep 2009 22:55:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55774/thmb.jpg?s=s&r=1254232504&t=n" border="0"></a><br /><br />※設題１　歌物語について、代表的な作品をあげて具体的に述べよ。
　まず最初に、歌物語で代表的なものに「伊勢物語」が挙げられる。成立時期に諸説があるが、おおむね（平安時代初期）だとされる。その一部に、「万葉集」の「左注」や、「古今和歌集」など[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[和歌における視覚効果]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429159401@hc07/12677/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chihirolle]]></author>
			<category><![CDATA[chihirolleの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 18 Jan 2007 19:09:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429159401@hc07/12677/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429159401@hc07/12677/" target="_blank"><img src="/docs/983429159401@hc07/12677/thmb.jpg?s=s&r=1169114986&t=n" border="0"></a><br /><br />平安宮廷文学における視覚効果　
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり、花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きと[358]<br />平安宮廷文学における視覚効果　
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり、花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
　和歌は、交信の手段など、心情を表すものとして捉えられることができる。しかし、この『古今集』仮名序の冒頭で述べられているように、それだけとは限らず、むしろ「自己と対立的でさえある外在的な物や人などを表す言葉をもとりこんでいるのが、一般的」だと認識するほうが正しいようだ。（『歌われた風景』）そこで、平安文学で詠まれる心情ではなく、視覚的・映像的なもの、色彩に着目していきたい。
　歌謡、催馬楽においても和歌と同じように視覚効果を見出すことができよう。色彩効果が強く、そしてわかりやすくあらわれているのは「梅が枝」である。頭の中に思い浮かぶ、「梅」からイメージされる赤と、雪の白・白銀という美しい対比。この時点で「梅が枝」は絵画的な働きかけを持っているといえる。そしてさらに、最初の「梅が枝に　来居る鶯」と最後の「雪は降..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安貴族の師弟教育]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351501@hc06/8597/]]></link>
			<author><![CDATA[ by megutan]]></author>
			<category><![CDATA[megutanの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 May 2006 17:00:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351501@hc06/8597/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430351501@hc06/8597/" target="_blank"><img src="/docs/983430351501@hc06/8597/thmb.jpg?s=s&r=1148457645&t=n" border="0"></a><br /><br />『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑ歌手たのみて侍れば、艶になりぬる人は、いとす[360]<br />平安貴族の師弟教育
一　平安女子の教養
二　平安男子の教養
三　平安時代の初等教育
一、平安女子の教養
『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑ歌手たのみて侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、自ずからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ。』
　前記した一節は『紫式部日記』の中で、清少納言について紫式部が書いている部分である。この二人は互いに著書の中で悪口を並べ立てているが、紫式部曰く「清少納言は女だてらに利口ぶって漢字を書いているけれど、よく見れば間違っているところも多い。他人から抜きん出ていようと心にかけている人はろくでもない事になるだけである」つまりは女でありながら間違いの多い眞字を書きちらしている清少納言ははしたない女である、と紫式部は書いている。
　「一という字さえ読めないふり」と言われるように、当時..]]></description>

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			<title><![CDATA[七夕の由来　七夕ものがたり・乞巧奠・民間の七夕とのかかわりについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3671/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Dec 2005 23:15:17 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3671/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/3671/thmb.jpg?s=s&r=1133792117&t=n" border="0"></a><br /><br />　夏の風物詩である七夕は、牽牛・織女の七夕ものがたりと、中国伝来の乞巧奠の風習とが習合したものであると言われている。この七夕ものがたりと乞巧奠について概説しながら、現在の日本の七夕に至るまでを述べていく。
　この七夕ものがたりの内容は「機[356]<br />　夏の風物詩である七夕は、牽牛・織女の七夕ものがたりと、中国伝来の乞巧奠の風習とが習合したものであると言われている。この七夕ものがたりと乞巧奠について概説しながら、現在の日本の七夕に至るまでを述べていく。
この七夕ものがたりの内容は「機織仕事をしていた織女が、牽牛と結婚した途端に、仕事をしなくなってしまった。それに腹を立てた織女の父が彼女に腹を立て、二人を天の川を挟んで引き裂いてしまい、年に一度だけ七月七日の夜に、天の川で会うことを許した」というものである。いろいろな七夕説があると言われているが、最もよく知られる七夕のものがたりの原型であると考えられている。　『荊楚歳時記』の記述によれば「七月七日、牽牛・織女、聚会の夜と為す」とあり（参考文献一七八頁）後漢の時代に成立した物語と言われている。万葉集で天の河などこのものがたりをモチーフにした歌が、歌われていることから、万葉集が歌われ始めた時代にはすでに、このものがたりは日本に伝来していたと考えられる。
持統天皇（六四五～七〇二）の時代には七月七日にこの七夕ものがたりと日本古来の棚機姫の信仰が融合された、歌を詠む宴が日本ではあったのである。..]]></description>

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			<title><![CDATA[夏越の祓（六月祓）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3670/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Dec 2005 23:08:32 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3670/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/3670/thmb.jpg?s=s&r=1133791712&t=n" border="0"></a><br /><br />　日本人はお祓いという言葉をよく口にするが、その有名なお祓いの一つに六月祓という伝統行事がある。この行事について起源と意義について述べてみる。
　この六月祓は天武天皇（六三一〜六八八）の頃より始まったとされる。平安時代には六月の晦日に、天[356]<br />　日本人はお祓いという言葉をよく口にするが、その有名なお祓いの一つに六月祓という伝統行事がある。この行事について起源と意義について述べてみる。
　この六月祓は天武天皇（六三一～六八八）の頃より始まったとされる。平安時代には六月の晦日に、天子は節折の儀を行い、百官らは西刻（午後六時）に朱雀門に集まり着座し、ここで祝師が祝詞を読み、皆祓を受け祓物を大川に流した。このようにして、すべての人が犯した罪を祓い清めた。
現在の六月祓の特徴である、茅の輪くぐりが始められた時期は、判断が難しい。『備後風土記逸文』で北海の神・武塔神より命じられ、茅の輪を腰につけた者が厄を逃れることができたという神話より、用いられるようになったのが由来とされている。『日本年中行事辞典』には、藤原忠道の詩が次のように記述されている。「未知何物号菅祓、結草如輪令首蒙」鈴木棠三氏は、この詩から推測できるように「平安末期には茅の輪を首にかけ呪具として扱っていたと思われる」と述べている。（参考文献四七一頁）
儀式として古代には宮中でも私邸でも行われていた祓であるが、祓自体は『古事記』にもイザナミノミコトの部分に禊祓に関する記述があ..]]></description>

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			<title><![CDATA[正月の伝統行事]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3668/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Dec 2005 23:03:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3668/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3668/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/3668/thmb.jpg?s=s&r=1133791403&t=n" border="0"></a><br /><br />　正月は一年でも、伝統行事の多い月である。正月の伝統行事を説明しながら、何故正月に伝統行事が多いのか、その理由について述べてみたい。
　主な伝統行事を元日より追って述べると、まず現在も皇居で毎年行われている四方拝が挙げられる。これは当日天[356]<br />正月は一年でも、伝統行事の多い月である。正月の伝統行事を説明しながら、何故正月に伝統行事が多いのか、その理由について述べてみたい。
主な伝統行事を元日より追って述べると、まず現在も皇居で毎年行われている四方拝が挙げられる。これは当日天皇が、午前五時半に束帯を着し神嘉殿の南側に出御し、皇大神宮・豊受大神宮・天神地祇・天地四方・山稜を拝し、安泰を祈る儀式である。唐より伝来した陰陽思想の影響を受けたもので、平安の嵯峨天皇時代の成立より常に行われていた宮廷行事である。
次に七日には七草粥があり、春の七草を入れて炊いた粥を食べ健康を祈願する。この日に七草の羹を食べて年中の邪気を避けるという、中国より伝来した七草羹という儀式が、室町時代以降に現在の七草粥となったものである。平安時代には現在の七草ではないが子日に若菜つみ、または若菜羹をいただく行事などが行われていた。これ自体は日本古来、民間で行われていた行事であったものが宮中行事として用いられたものであると言われている。
　十五日に行われる左義長は、日本各地で現在も見られる火祭りである。十四日または十五日に、長い竹を三・四本組んで立て、正月に飾った..]]></description>

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			<title><![CDATA[罷申を含む国司の赴任過程について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Jun 2005 23:30:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/551/thmb.jpg?s=s&r=1119450615&t=n" border="0"></a><br /><br />罷申は、任国赴任に際しての挨拶で、赴任儀ともいう。この罷申には2つの種類ある。1つは、摂政・関白や大臣のもとへ貢物（志）をもって赴任の挨拶をしに訪問すること。もう1つは、蔵人を通して天皇に赴任の挨拶をすることである。
　国司の任官は、毎年[350]<br />罷申を含む国司の赴任過程について
　授業の発表時に、私は補足説明として「罷申」について発表した。ただこの時は、レジュメに書いたのはたったの数行、しかも内容は辞書に書いてあるような簡単なもので、あとは儀式書をただ読んだだけだった。よって今回のレポートでは、この罷申についてもう少し調べてみようと思った。だが調べていくと、国司の赴任・交替に関する一連の動きの中で、罷申はあまり重要視されていないようで、このことについての先行研究も見つけられなかった。そこで今回は、国司の除目から任国へ下るまでの過程を追って、そのなかで罷申についても述べてみたいと思う。
1．国司と受領
　国司の赴任過程を追うまえに、国司と受領の違いについてまとめておきたい。私が授業時に引用した『西宮記』や『侍中群要』には、罷申についての条文が国司ではなく、「受領赴任事」や「受領罷申事」と受領という言葉を使っていた。
　まず、国司は、国守を示す場合と、任国に赴く守・介・掾・目の四等官を示す場合の2通りあった。
　受領というのは、もともとは新任国司が前の国司から国衙の政務を交替して、受け継ぐ行為のことを言った。それが遙任の国司が出て..]]></description>

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