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		<title>タグ“帝京”の公開資料</title>
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		<description>タグ“帝京”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[地域情報（欧米Ⅳ）_第4回レポート課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127289/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 21 Nov 2016 23:32:48 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127289/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127289/thmb.jpg?s=s&r=1479738768&t=n" border="0"></a><br /><br />地域情報（欧米Ⅳ）_第4回レポート課題
「複合社会」という言葉はオランダの社会学者であるファーニバルが最初に使用した。同一の政治単位内に二つ以上の要素または社会体制が隣接して存在しながら，互いに混合･融合することがないような社会を複合社会と呼んだ。ここでいう要素とは宗教的要素，人種的要素などさまざまである。例えば、アイルランドでは住民は宗教的に明瞭に区分され、アメリカ合衆国では人種的複合状態が存在する。
　そしてテキスト『文明の表象　英国』の第3章では20世紀に注目して、1981年の2つの事件を分析しており、1997年のブレア政権の成立を、なぜイギリス国民の健全で賢明な選択として歓迎できるのかを論じている。
テキストでは現代イギリスという複合社会において政治の主導権を行使しようとする集団について主眼が置かれているが、ひとつ注意しなければいけないことは、現代イギリスの主要な主導権の潮流にはリベラリズムと社会民主主義との二つがあって、本質的に別個の世界をなす民のモラルをめぐってこの両者が競合し交渉するあいだに、イギリスの政治と民主主義が展開してきたことである。
そこで重要な人物がサッチャー..]]></description>

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			<title><![CDATA[地域情報（欧米Ⅳ）_第3回レポート課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127288/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 21 Nov 2016 23:32:46 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127288/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127288/thmb.jpg?s=s&r=1479738766&t=n" border="0"></a><br /><br />地域情報（欧米Ⅳ）_第3回レポート課題
　18世紀から始まった産業革命から、イギリスの歴史は工業化に入ったといえる。産業革命によってまず綿工業にはじまった生産の機械化と工場制度は、それ以後19世紀から20世紀にかけて他のすべての工業へと広がり、それとともに都市化が進展して、イギリスの社会はそれまで農業社会だったものが工業社会へと変わっていった。
　工業化というのは、経済成長の過程、国民総生産や総所得の年々の成長として現わされる。例えば、今では衰えがみえてきているが、中国が猛烈な勢いで経済成長を遂げている。それは主に国が工業化を推し進めてきたからである。「世界の工場」という異名をほしいままにしてきた中国は、過去10年間において経済成長率年平均10.6%を維持してきた。2011年3月に行われた「全国人民代表大会」では経済成長率の目標をそれまで8％だったものを7.5％に減らすなど、高成長に一定の区切りをつけているが、以前中国の勢いは収まっていない。日本も戦後の1960年代に年10%以上の経済成長率を経験しているが、イギリスは19世紀に、世界最先進国として世界最初の経済成長の時代を経験している..]]></description>

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			<title><![CDATA[地域情報（欧米Ⅳ）_第2回レポート課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127287/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 21 Nov 2016 23:32:44 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127287/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127287/thmb.jpg?s=s&r=1479738764&t=n" border="0"></a><br /><br />地域情報（欧米Ⅳ）_第2回レポート課題
　2008年9月、アメリカの投資銀行「リーマン・ブラザーズ」が経営破たんした。「サブプライムローン」と呼ばれる低所得者向けの住宅ローンを販売していたが、住宅バブル崩壊によって大量の焦げ付きが起き、それを買っていた世界中の金融機関・投資家が大損をし、それを販売していたリーマン・ブラザーズは倒産した。そして、この時大統領であったブッシュはリーマン・ブラザーズを救済することはなく、これを機に世界中の金融機関同士が疑心暗鬼になり、お金の流れがストップしてしまう。一連の流れは「リーマンショック」と呼ばれ、今でも景気回復の足かせとなっている。
　リーマンショックは日本にも大きな影響を及ぼし、その時少しばかり上向きかけた日本の景気を後退させることとなった。話題となったのが派遣業界だ。各会社がリーマンショックによる業績不良で、それまで雇っていた契約社員を大量に解雇してしまった。突然仕事と住む場所を失った多くの失業者は生活保護を余儀なくされている。
　日本の取っている経済体制である資本主義体制は、自由な経済活動、競争社会が主な特徴だが、その結末が大量の失業者を出し..]]></description>

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			<title><![CDATA[地域情報（欧米Ⅳ）_第1回レポート課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127286/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 556049]]></author>
			<category><![CDATA[556049の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 21 Nov 2016 23:32:42 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945369397040@hc13/127286/" target="_blank"><img src="/docs/945369397040@hc13/127286/thmb.jpg?s=s&r=1479738762&t=n" border="0"></a><br /><br />地域情報（欧米Ⅳ）_第1回レポート課題
　江戸時代から戦後に至るまでの日本人のイギリス認識の変遷について、テキストではA、B、Cと3つの段階に分けて説明している。それに沿って日本人のイギリス認識はどのような変化をたどってきたのか述べる。
　A段階である16世紀半ば～17世紀前半、日本は鎖国政策を敷いていた。鎖国とは「外国との貿易や交通をやめ、国をとざすこと（＊１）」である。つまりこの時代、外国文化は国内に入って来なかったということである。鎖国によって海外の進んだ文化や技術が入らなくなり、世界の進歩から取り残されることとなったが、日本独自の文化や産業が発達するようになった。鎖国下の中でも長崎だけは貿易を続けていたのでまったく外国と交流が無かったわけではないが、外国文化に触れることのできた人は限られた人物だけだったという。
　B段階は幕末開国～1970年頃である。この時代、1853年にアメリカ合衆国の黒船に乗ったペリーが浦賀に来航し、開国を迫った。ペリー来航によって1854年に日米和親条約を結び、下田と函館を開港、1958年に日米修好通商条約を結び横浜・神戸が開港し、開国への道が進む。しか..]]></description>

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			<title><![CDATA[教科教育法　地理歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116554/]]></link>
			<author><![CDATA[ by a97036]]></author>
			<category><![CDATA[a97036の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 20 Oct 2014 12:29:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116554/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116554/" target="_blank"><img src="/docs/983428388701@hc07/116554/thmb.jpg?s=s&r=1413775773&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。
(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />日露戦争と韓国併合について
日露戦争は、日本とロシアとの戦いで、帝国主義戦争であった。
宣戦布告と戦闘が始まった日を生徒に聞きます。宣戦布告は1904年２月10日、戦闘は、２月8日に始まった。
配布した地図を見て、どこで戦われたか調べて答えさせる。朝鮮と満州。あと日本海です。
日露戦争は、日本とロシアの戦争なのに、日本やロシアが戦場となっていません。宣戦布告の文には、両国とも平和のために戦争すると言っています。
この戦争で日清戦争よりも多くの死傷者が出ている。これは、日本もロシアも外国からたくさんのお金を借りているのがわかる。そこまで戦うには、三国干渉で遼東半島を中国に返させ、それを自分のも..]]></description>

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			<title><![CDATA[教科教育法社会・地理歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116553/]]></link>
			<author><![CDATA[ by a97036]]></author>
			<category><![CDATA[a97036の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 20 Oct 2014 12:21:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116553/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428388701@hc07/116553/" target="_blank"><img src="/docs/983428388701@hc07/116553/thmb.jpg?s=s&r=1413775277&t=n" border="0"></a><br /><br />資料に関する説明及び紹介文句を入力してください。(検索、露出及び販売にお役立ちます)[123]<br />高校社会科という教科が実施されたのが、1948年からである。高校社会科は、青少年に社会生活を理解させ、経験を広め、深めようとするものである。
　高校1年の社会科は、現実生活の問題をベースとしている。高校２・３年生の社会科は、学問の系統を踏まえたものであるが、時事問題は、例外である。でも実際に行われたのが、1949年で、東洋史、西洋史、人文地理、時事問題が実施された。
　1951年版は、1947年版と同じ「一般社会科」「選択社会科」という構造である。「一般社会科」「時事問題」は融合科目に、日本史、世界史、人文地理は系統科目になった。
　高校1年は、一般社会科で、高校２・３年は、日本史、世界史、人文地理、時事問題の中から1科目選択するものであった。
　1955年版は、社会が政治・経済・社会に加えて新たに倫理という人生観や行為の基準となる思想について設けた。
　日本史は中学校よりも高い歴史認識を与え、日本史を深く理解させる。
　世界史は世界の諸民族、諸国家が互いに交渉しながら発展してきたことを認識させる。
　人文地理は日本および世界が当面している諸問題に重点を置いて、国際関係について理解さ..]]></description>

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