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		<title>タグ“室町”の公開資料</title>
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		<description>タグ“室町”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[【H25.26年度対応】0620/0621日本史概説・概論＜分冊1＞日本大学通信教育部／評価Ｓ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/98013/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おっちん]]></author>
			<category><![CDATA[おっちんの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Oct 2012 12:37:34 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953129414172@hc11/98013/" target="_blank"><img src="/docs/953129414172@hc11/98013/thmb.jpg?s=s&r=1351049854&t=n" border="0"></a><br /><br />【参考文献】王朝政治／森田室町の王権／今谷明http://www14.plala.or.jp/hiro_1/nihon/tyuusei/005.htmhttp://www.ktmchi.com「10世紀以降の受領と国司」[182]<br />国司とは、古代から中世の日本で、律令制社会において、中央から派遣され、諸国の政務を管掌した地方官をさす。大化の改新時に始まり、当初は国宰と呼ばれ、全国一律に設置されず、上層には国宰を統括する大宰が設置された。その後7世紀末までに令制国の制度が確立するのに伴い国司が全国的に配置されるようになった。
７０１年の大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成され、中央集権的な律令制が布かれた。国司は非常に重要な位置に置かれ、戸籍の作成、租庸調の収取などが職務にあたり、律令制の理念を日本全国に貫徹することが求められていた。
平安時代になると、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。それは、律令制的な統治方法でなくても、一定の租税を徴収することが可能になったからである。一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない国司（遥任）が多数現れるようになり、代わりに現地赴任する国司の中の最高責任者が受領と呼ばれるようになった。平安時代中期以降、開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危..]]></description>

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			<title><![CDATA[日本の文化と歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/90132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kino77happy]]></author>
			<category><![CDATA[kino77happyの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 31 Jan 2012 23:45:53 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/90132/" target="_blank"><img src="/docs/960471950769@hc08/90132/thmb.jpg?s=s&r=1328021153&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の文化と歴史
1.　日本における言葉遊びの文化について
言葉遊びになぞなぞがある。なぞなぞは平安時代には謎物語、謎々語と呼ばれていた。「なぜだろう」という問いかける形で始まる物語で、児童教育の方法であったと考えられる。それより以前、万葉集には、中国から伝わった字謎という析字による謎を使った長歌を笠金村が詠んでいる。このような字謎や謎物語に遊戯的な技法が加えられ、言葉遊びとしてのなぞなぞが形成された。なぞなぞの構成技法に連歌の影響をうけている技法がある。連歌は和歌の一種で、二条良基が著した筑波問答には「歌を二人していふを連歌とは申なり。」とあり、二条良基によって連歌の基礎が確立された。連歌は和歌の上句と下句を交互に詠み連ねるもので、連歌には賦物という手法があった。「野中の雪」（柚の木）は賦物の三字中略を逆さに使ったものである。なぞなぞは鎌倉時代を下ってから連歌の影響が出ている。言葉遊びとしては鎌倉時代中期ごろより流行しはじめた宴曲というものがある。今様のような叙情小曲でなく、叙事的な中長編歌謡である。宴曲というのは、ただ歌うだけでなく、その中に知識や情報を入れているものであり、宴会な..]]></description>

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			<title><![CDATA[室町将軍御所の展開]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431047801@hc06/13749/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sirica]]></author>
			<category><![CDATA[siricaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 May 2007 17:16:45 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431047801@hc06/13749/" target="_blank"><img src="/docs/983431047801@hc06/13749/thmb.jpg?s=s&r=1180167405&t=n" border="0"></a><br /><br />〇室町将軍御所の展開―上御所・下御所―
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
平氏の時代から、武士の住む場所は六波羅の辺りであった。武士の時代と言えども、鎌倉時代の終わりまでは武士は京都の真ん中には住めなかったのであ[356]<br />〇室町将軍御所の展開―上御所・下御所―
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
平氏の時代から、武士の住む場所は六波羅の辺りであった。武士の時代と言えども、鎌倉時代の終わりまでは武士は京都の真ん中には住めなかったのである。後醍醐天皇による建武新政期になり、地方の武士が洛中に入り込むが住む場所がないので貴族の作りかけの家、つまりは人の家を奪い取った（私宅点定）様子は『二条河原落書』にもある。
足利尊氏・直義の二頭政治期になり、将軍である尊氏は天皇を守る為に天皇と共に六波羅&rarr;押小路高倉（のちの等待寺）&rarr;土御東洞院&rarr;二条万理小路へと住居を変えていった。一方、直義は尊氏初期のパートナーのであり、実弟である。直義の屋敷は三条坊門で固定。尊氏は主従制的支配権を持っていたが、直義は統治権的支配権を持っていたので直義の周囲には多くの有力武士が集住していた。幕政の中心である直義の住む三条坊門が事実上の幕府であったと言える。しかし、この段階ではまだ将軍御所ではなかった。
尊氏が息子の義詮に政権を渡そうとした為に納得のいかない直義と尊氏の争い、観応の擾乱で直義が殺され、失脚した後、尊氏..]]></description>

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			<title><![CDATA[日野富子]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サカマ]]></author>
			<category><![CDATA[サカマの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Aug 2006 16:15:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/" target="_blank"><img src="/docs/983429731901@hc06/10534/thmb.jpg?s=s&r=1155712500&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　
室町幕府八代将軍足利義政の妻にして九代将軍義尚の生母、日野富子。彼女は、応仁の乱のきっかけを作った人物と言われ、後には政治に口を挿み、更に素晴らしく巧みに金を稼いだ。そのため、多くの文献で彼女は「女性史上一、二を争う悪妻」[352]<br />中世文学史　　日野富子について
はじめに
　
室町幕府八代将軍足利義政の妻にして九代将軍義尚の生母、日野富子。彼女は、応仁の乱のきっかけを作った人物と言われ、後には政治に口を挿み、更に素晴らしく巧みに金を稼いだ。そのため、多くの文献で彼女は「女性史上一、二を争う悪妻」や「金と権力の権化」などとあまり良くない評価がなされている。しかし本当に富子はそれほど稀代の悪女であったのか疑問に思うところがあった。そこで今回このレポートで彼女の生涯の中で主だった事件について検証し、日野富子という人物にせまっていきたいと思う。
一、御台所としての富子
　富子は十六歳のとき生家・日野家から将軍の御台所となるため室町御所へと嫁いだ。日野家はそれほど格の高い家柄でもなかったのだが、天皇の准母にまでのぼりつめた三代将軍義満の正室日野康子の頃より、将軍家には日野家の者が正室として迎えられしきたりが続いていた。そういった経緯で富子は八代義政のもとへ嫁いできたのだが、それで彼女はまず義母であり、叔母である重子と義政の乳母であり妾同然の存在であった今参局の思惑に出くわす。この二人は富子が世継ぎを宿すか否かで左右される立..]]></description>

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