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		<title>タグ“女性像”の公開資料</title>
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		<description>タグ“女性像”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[漱石『こころ』にあらわれる女性像と恋愛像]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430775401@hc06/8240/]]></link>
			<author><![CDATA[ by えっこ]]></author>
			<category><![CDATA[えっこの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 May 2006 14:31:19 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430775401@hc06/8240/" target="_blank"><img src="/docs/983430775401@hc06/8240/thmb.jpg?s=s&r=1146807079&t=n" border="0"></a><br /><br />漱石の女性像と恋愛像について、その転換期と考えられる『こころ』を中心に置いて考えていきたい。
　『それから』から『こころ』までの作品における女性は、「寡黙な女性」であった。言葉を奪われ、自らは語らず、男によって勝手に解釈される存在であった[356]<br />漱石『こころ』にあらわれる女性像と恋愛像

　夏目漱石の女性像と恋愛像について、その転換期と考えられる『こころ』を中心に置いて考えていきたい。
　『それから』から『こころ』までの作品における女性は、「寡黙な女性」であった。言葉を奪われ、自らは語らず、男によって勝手に解釈される存在であったのだ。そこには、「まなざす男」と「まなざされる女」という構図があり、女性は、「謎めく」「不気味」「純白」といった多義性を備えた存在であった（この「純白」という部分については、武田充啓「無垢なるものの行方（一）―夏目漱石『こゝろ』を中心に―」（2003）を後ほど参照する）。この特徴は『こころ』においても極めて顕著であり、川島秀一（2000）も「漱石の女性表現―文化テクストとしての〈漱石〉―」の中で、『こころ』について以下のように論じている。

　　そしてここで、他のどの作品にもまして特徴的なのは、その「お嬢さん」という女は、その恋愛の渦中にありながら、その言葉はまったくと言っていいほどに締め出されています。逆に言いますと、そこに繰り広げられる男の世界とその物語は、そのようにして〈女〉の言葉を締め出し閉ざすことを前提に成り立っています。

　確かに、この『こころ』（特に「下　先生と遺書」について）は、二人の男の女性をめぐる話であるにもかかわらず、当の女性の言葉、つまり当人の意思というものが全然前面に出てこない。ただし、このことは女性が男性に対して力を持たないということを意味しているわけではなく、男同士のコミュニケーションから排除された「お嬢さん」が、同時にそのコミュニケーションを脅かす存在でもある。「先生」は自身の抱く恋心について、「K」の模倣か、あるいは「お嬢さん」の「技巧」によるものかと思い悩むことになるのである。
また川島は、同作品について以下のようにも語っている。

　　しかし、この『こころ』というテクストは、もう一つの〈男と女の物語〉を潜ませていることに注意したいと思います。つまり、〈私〉という若いもう一人の〈男〉にまつわった物語に関してです。（中略）最も身近なところでは、その男は、そこに残された女とどのような関係を結ぶことになるのか。女の側から言いますと、「私」という男との関係も含めて、それまで自分の言葉を閉ざされ続けてきた《女》に、どのような《言葉》が与えられることにな..]]></description>

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			<title><![CDATA[レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の描く女性像の意味]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/5427/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 Jan 2006 09:38:46 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/5427/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/5427/thmb.jpg?s=s&r=1137458326&t=n" border="0"></a><br /><br />立命館大学　　　　ヨーロッパ文化史今回の講義を通して私がテーマとして注目し、設定したものはレオナルド・ダ・ヴィンチと彼の描く女性像の類似性についてである。レオナルド論においてフロイトは「聖アンナと聖母子」という彼の作品の中にいくつかの[354]<br />ヨーロッパ文化史ⅡL
レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の描く女性像の意味
今回の講義を通して私がテーマとして注目し、設定したものはレオナルド・ダ・ヴィンチと彼の描く女性像の類似性についてである。なぜこれを私がテーマとして選んだのかというと、それはフロイトのレオナルド論を知ったことをきっかけとして、私が疑問を抱いたからである。レオナルド論においてフロイトは「聖アンナと聖母子」という彼の作品の中にいくつかの不可思議な点を発見している。それをレオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出から分析していき、その絵画の謎を解明しようとしたものであった。そして私が疑問を抱いたのはこの不可思議な点に関連しているものである。その不可思議な点とは、まず聖アンナと聖母マリアの関係が挙げられる。この二人の姿勢や位置関係、そして年齢差の感じられないことである。そして微笑みの表現や聖母マリアと幼子キリストの関係、判じ絵の存在などが挙げられるのである。これらの点を幼年期のある思い出から分析し、解明しようとしていたのであるが、このほぼ同じ時期に彼の代表作と言っても過言ではない作品「モナ・リザ」も描いている。この二つの絵画..]]></description>

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			<title><![CDATA[エヴァとマリアと女性像]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/4793/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 10 Jan 2006 19:13:11 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/4793/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/4793/thmb.jpg?s=s&r=1136887991&t=n" border="0"></a><br /><br />立命館大学　　美学・芸術社会学EVAとAVEはアナグラムになっていることなどから女性の二面性の可能性などを視野にいれ、女性とはどのようなものとしてあらわされ、どのような位置におかれていたのかを考察し、述べています。その他の資料h[334]<br />エヴァとマリアと女性像
美学・芸術社会学L
　私が今回、考察したことはエヴァに始まる女性像というものについてである。一番印象に残っていることは「男性は肯定形で表象され、女性は否定形で表象される」という言葉である。これには自身が女性であるということもあって大変なショックと憤りのようなものを感じた。なぜ男性は肯定形であって、女性は肯定形ではなく否定形で表されるのか。このことについて考察したことを以下に述べる。そのことを考えるにあたって、まずは女性とは具体的にどのようなものとして表され、どのような位置に置かれていたのかを整理していくことにする。
女性はキリスト教の中でエヴァとマリアという対象的な二人の人物に二分されている。原罪を犯し、楽園を追放される原因となったり、パンドラの箱を開けてしまった者、つまり女性は諸悪の根源とされてきた。つまりエヴァは女性そのものなのである。しかし対称的にイエス・キリストを生む聖母マリアが反ロゴスであるエヴァであってはいけないという考えから、マリアは絶対に処女懐胎をしなければならなかったのである。聖母マリアは女性いうその段階を飛ばして「母そのもの」でなければならな..]]></description>

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