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		<title>タグ“太平洋戦争”の公開資料</title>
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		<description>タグ“太平洋戦争”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[国文学講義Ⅵ(現代)_課題1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/150654/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kz355]]></author>
			<category><![CDATA[kz355の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 17:10:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/150654/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/920554918266@hc21/150654/" target="_blank"><img src="/docs/920554918266@hc21/150654/thmb.jpg?s=s&r=1675411800&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の戦争文学（太平洋戦争当時）の動向について概要をまとめました。付随する課題として火野葦平『麦と兵隊』の感想文があります。[186]<br />一．日本における戦争文学
　一九三一年九月一八日に発生した柳条湖事件を皮切りに日本は戦争への道を歩んだ。社会の混乱を通じて日本文学はどのように変化していったのだろうか。
　戦時下の世となる前の昭和初頭、日本の文学界はモダニズム文学とプロレタリア文学のふたつの思潮が占めていた。大正末期、関東大震災の辺りからヨーロッパの芸術思潮が影響を及ぼし始め、新感覚派、新興芸術派といった文壇が生まれた。横光利一の『頭ならびに腹』はその代表例である。一方で、一九二八（昭和三）年に全日本無産者芸術連盟が結成され、文学をはじめプロレタリア芸術の運動が進められた。その機関誌「戦旗」には小林多喜二の『蟹工船』（昭和四）や徳永直の『太陽のない街』（昭和四）が掲載された。その後プロレタリア文学運動の中心は一九三一（昭和六）年に日本プロレタリア文化聯盟へと移るものの、プロレタリア文学を芸術と捉えるか、あるいは階級闘争に向けての大衆感化の手段として捉えるかの考え方の違いで組織内の対立が多発し、日本のプロレタリア文学は衰退し、転向文学へと変化していった。転向文学の代表作としては、島木健作の『癩』や中野重治の『村の家』が挙..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史（太平洋戦争と戦後改革）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マイメロ3w]]></author>
			<category><![CDATA[マイメロ3wの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 14 Mar 2018 11:55:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933623106078@hc17/133198/" target="_blank"><img src="/docs/933623106078@hc17/133198/thmb.jpg?s=s&r=1520996154&t=n" border="0"></a><br /><br />太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争のことをいう。1941年12月８日午前２時、日本軍は攻撃の３０分前に届くはずの最終通牒が届いていないにもかかわらず、ハ[326]<br />太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争のことをいう。1941年12月８日午前２時、日本軍は攻撃の３０分前に届くはずの最終通牒が届いていないにもかかわらず、ハワイのアメリカ軍基地真珠湾に攻撃をかけ、それを機にアメリカは太平洋・大西洋、アジア・ヨーロッパへの参戦を決める。こうして、本来のイギリスとアメリカの対立から、戦域は拡大、長期化していき、太平洋戦争は始まった。1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカ軍の反撃を受け、日本軍は４つの空母を失うという大敗をした。その後戦時下の国民の生活は戦争が長引くにつれて生活必需品への統制がすすめられ、食料品や日用品は劇的に減り、人々の生活を圧迫した。１９４４年からはアメリカ軍機による本土の無差別空襲が始まった。アメリカは国民の遷移喪失をねらい人口密集地を中心に全面的に空襲を実施した。軍事施設・軍需工場にとどまらず、住宅地、主要都市が次から次へと空襲を受けた。資材労働力が不足し、日本経済は、麻痺状態に陥り、女子学生でさえも軍事工場等に動員させた。さらに国民生活は一層..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[マレー沖海戦について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/935436931035@hc16/127356/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 肺胞壊死ニキ]]></author>
			<category><![CDATA[肺胞壊死ニキの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 24 Nov 2016 12:44:08 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/935436931035@hc16/127356/" target="_blank"><img src="/docs/935436931035@hc16/127356/thmb.jpg?s=s&r=1479959048&t=n" border="0"></a><br /><br />マレー沖海戦について
１．はじめに
マレー沖海戦を『国史大辞典』で引いてみると「太平洋戦争開戦初頭に生起した、イギリス東洋艦隊の戦艦二隻に対する海空戦。昭和１６年（１９４１）１２月８日、日本陸軍が海軍の護衛のもとにマレー半島のシンゴラ・パタニー・コタバルに上陸したことを知ったイギリス東洋艦隊司令官長フィリップス提督は、戦艦プリンス＝オブ＝ウェールズとレパルズを率い、駆逐艦四隻に護衛させてシンガポールを出撃し、日本軍の船団泊地の攻撃を企図した。サイゴン付近の飛行場に展開していた松永貞市少将の指揮する日本海軍の中型陸上攻撃機８８機は、１２月１０日午後、攻撃を断念してクヮンタン沖を南下中のイギリス艦隊を猛攻し、雷撃と爆撃によって２戦艦を撃沈した。ハワイ海戦は停泊艦隊に対する奇襲であったが、マレー沖海戦は戦闘準備を完成して航行中の戦艦に対する航空部隊の強襲であり、それまで各海軍国が信じていた戦艦至上主義を根底から覆す結果となった。」とある。
ここでとくに重要なのは最後の戦艦至上主義を根底から覆したことである。戦艦至上主義とは、戦艦同士の砲撃戦によって海戦ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本外交史　大東亜戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋戦争、どの呼称がふさわしいか？]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943159768142@hc14/115206/]]></link>
			<author><![CDATA[ by subciety]]></author>
			<category><![CDATA[subcietyの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Aug 2014 21:27:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943159768142@hc14/115206/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943159768142@hc14/115206/" target="_blank"><img src="/docs/943159768142@hc14/115206/thmb.jpg?s=s&r=1409142466&t=n" border="0"></a><br /><br />日本外交史
テーマ：大東亜戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋戦争、どの呼称がふさわしいか？
　
大東亜戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋戦争、同じ戦争のことを指す言葉なのに呼び方がいくつもある。始めはまったく理解が出来なかった。が、吉次先生によると、これらの戦争をどう呼ぶかよって、その人の立場認識が変わってくるようだ。実に面白い。ドラマ、ガリレオを意識している訳ではないが、心の底からそう思った。
　そこで、私はこの戦争の呼称についてそれぞれの立場認識なども詳しく調べつつ、資料から得た情報を基に、一番どの呼称が正しいのかを論じてみようと思う。（なお、このレポートについては15年戦争、第二次世界大戦、昭和戦争などは字数の制限があるため到底収まらないと判断して抜きとし、12月8日以降の戦争を対象とする「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」で争うことにする。）
　「大東亜戦争」から説明していきたい。「大東亜戦争」というのは、欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序をアジアに樹立するというもの。つまり、大東亜共栄圏を確立するため日本が主体的に戦った戦争という意味合いを持ってい..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[火垂るの墓と太平洋戦争]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75278/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Nov 2010 15:42:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75278/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75278/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/75278/thmb.jpg?s=s&r=1290580942&t=n" border="0"></a><br /><br />「火垂るの墓」から見る太平洋戦争と人々の生活
ジブリ作品「火垂るの墓」からみる太平洋戦争と人々の生活
1、はじめに
　アニメーション映画「火垂るの墓」はスタジオジブリによって1988年に公開された作品である。他のジブリ作品と異なり、本作品は高畑勲監督のリアリズム志向によって戦時下の状況がデフォルメされることなく比較的リアルに描写されている為、その後のアニメーションの戦争描写に大きな影響を与えた。あらすじは以下のとおりである。
　空襲警報が鳴り響く昭和20年の神戸。母を先に逃がし、4歳の妹節子と共に庭に家財を埋める14歳の清太。埋め終えた後に急いで海岸に出てみると、見慣れた町が火の海に飲まれ、見渡す限りの焼け野原になっていた。母を探していた清太は「母はケガをして病院にいる」という話を聞く。清太が会いに行くとそこには包帯でグルグル巻きにされた母の姿があった。母が亡くなったことを妹にいえないまま、西宮の小母さんの家で面倒を見てもらうことになった。ただでさえ厳しい食糧事情の中、突然増えた二人の兄妹の面倒をみなくてはならなくなった小母は「何もしないみなし児の面倒を見るのは・・・」と意地悪を言う。迷惑をかけない様に母の残していた貯金をおろし自炊を始めた二人だが、毎晩のように夜泣きをする節子をついに厄病神呼ばわりされ、肩身の狭い思いをした二人は小母の家を出ていくことにする。川沿いの防空壕で兄妹二人、池でタニシを捕り、山で薪を拾い、明かりは蛍という自給自足の生活をしていた。しかしそんな生活も、いつしか食料が底をつき始め、節子が極度の栄養失調になってしまう。妹を助けたい一心で、清太は畑泥棒を始める。そして西宮にも、追い討ちをかけるようについに空襲が襲ってくる。最後の貯金で食料を買うため町へ出た清太。そこで日本の降伏と連合艦隊に参加していた父の死を知ることになる。今やたった一人の家族となってしまった節子を救うために、急いで二人の家である防空壕に戻ると節子は意識が朦朧としており、ドロップと間違えておはじきを口に入れて横になっていた。清太は節子のために食事を用意するが、節子はそのまま目を覚ますことはなかった。ついに一人になった清太は戦争孤児達で溢れ返る三ノ宮駅の構内で息を引き取るのだった。
あらすじの通り、映画自体は主人公の少年清太とその妹節子がたどる悲しい運命を中心に描かれている。し..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日米関係史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19180/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 05 Feb 2008 05:53:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19180/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19180/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/19180/thmb.jpg?s=s&r=1202158431&t=n" border="0"></a><br /><br />日米関係史
目次
１．日米間の国交開始　(19世紀初頭～19世紀後半)
２．帝国主義の時代　(20世紀初頭)
３．世界恐慌から日米終戦に至るまで　(1929～45年)
４．第二次世界大戦後の日米関係　(1945～年)
５．まとめ
[283]<br />日米関係史
目次
１．日米間の国交開始　(19世紀初頭～19世紀後半)
２．帝国主義の時代　(20世紀初頭)
３．世界恐慌から日米終戦に至るまで　(1929～45年)
４．第二次世界大戦後の日米関係　(1945～年)
５．まとめ
　本稿では、19世紀初めから始まった日本とアメリカの関係と交渉の流れと重要事項を外交・経済の両面に目を当てて整理していきたいと思う。
１．日米間の国交開始　(19世紀初頭～19世紀後半)
　アメリカは、19世紀に中国との通商や捕鯨のために、西太平洋方面に進出し、その中で日本近海にも出没するようになった。こうした状況下で幕府が出したものが、1825(文政8)年の異国船打払令である。1837年にモリソン号が日本の漂流民を送還して通商を求めたが、幕府の現地役人は、異国船打払令に基づきこれを撃退した。異国船打払令は、アヘン戦争の情報に接した水野忠邦が、天保の薪水給与令を発するまで効力をもった。
　1846年には東インド艦隊司令長官ビッドルが江戸湾に来航し通商を求めたが、目的を達せずに帰国した。1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航して強い態度で幕府に開国を迫り、翌年..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[歴史研究初歩]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429018601@hc07/12980/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hakoshozo]]></author>
			<category><![CDATA[hakoshozoの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Feb 2007 20:09:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429018601@hc07/12980/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429018601@hc07/12980/" target="_blank"><img src="/docs/983429018601@hc07/12980/thmb.jpg?s=s&r=1170328187&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史研究初歩：太平洋戦争中の機動部隊の戦果
　本レポートでは、太平洋戦争中の日本海軍機動部隊の戦果と損害、意義について報告する。戦果より考察できることは、初期においては、米海軍部隊への損害は多分に多いのに比して日本海軍機動部隊の損耗率は低く[358]<br />歴史研究初歩：太平洋戦争中の機動部隊の戦果
　本レポートでは、太平洋戦争中の日本海軍機動部隊の戦果と損害、意義について報告する。戦果より考察できることは、初期においては、米海軍部隊への損害は多分に多いのに比して日本海軍機動部隊の損耗率は低く、後期においては、米海軍部隊への損害は極端に減少する一方、日本海軍機動部隊の損耗率が格段に上がっていることである。日本海軍機動部隊の損耗と米海軍部隊の損害は表裏一体の関係にあると言えるだろう。これらに関して考えられる原因として、ベテラン搭乗員の戦死により搭乗員の技量低下、戦術の拙劣、VT信管等兵器技術の向上等が上げられるだろう。搭乗員の教育体制、戦術への態度、兵器開発についての今後の課題であろう。
真珠湾奇襲
参加空母 赤城・加賀・飛龍・蒼龍・翔鶴・瑞鶴 
参加機数 約５００機(実際の出撃は３５０機) 
戦果 戦艦４隻を含む６隻撃沈、戦艦４隻を含む３６隻損傷
航空機３９８機中２３１機を破壊 
損害 飛行機２９機未帰還、乗員戦死５４人、機上戦死１人 
意義 アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与え、戦争の初期作戦(各植民地への上陸作戦)を容易にした。 
インド..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[アジア太平洋戦争]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429036601@hc07/12905/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nagasanai]]></author>
			<category><![CDATA[nagasanaiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 29 Jan 2007 21:16:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429036601@hc07/12905/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429036601@hc07/12905/" target="_blank"><img src="/docs/983429036601@hc07/12905/thmb.jpg?s=s&r=1170072987&t=n" border="0"></a><br /><br />　アジア・太平洋戦争とはなんだったのかという問いについて、「ブロック経済の拡大」という観点から考えてみたいと思う。ブロック経済とは世界恐慌以後、イギリス、フランス、アメリカ、日本の各列強が、自身の友好国（植民地など）を含めて世界を分割し、関[360]<br />　アジア・太平洋戦争とはなんだったのかという問いについて、「ブロック経済の拡大」という観点から考えてみたいと思う。ブロック経済とは世界恐慌以後、イギリス、フランス、アメリカ、日本の各列強が、自身の友好国（植民地など）を含めて世界を分割し、関税障壁によって、自ブロック内での生産の保護、増大を図ったものである。日本の円ブロックの場合、ブロックの拡大は3段階に分けられる。第一段階として、1931年の満州事変の勃発に端を発する中国東北戦争にかかわる日満ブロックの形成。さらに1930年代の中国への軍事介入による日満支ブロックへの拡大。そして、アジア・太平洋戦争の開戦の契機となる東南アジア進出による大東亜共栄圏のブロックへの拡大である。
　まず、日満円ブロックの形成についてみていく。ブロックの拡大の意図は、資源の問題と市場制約の突破のための植民地圏の確保、自給経済圏の構築にある。1931年からの満州事変により中国東北部に傀儡政権である満州国を樹立した日本は、1920年代に低迷していた資本輸出を朝鮮・満州に対するものを増やし、30年代に入って回復させる。満州での産業開発は対ソ戦を想定した軍需産業の建..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日米開戦に至る過程について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 26 Jul 2006 02:35:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/10016/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/10016/thmb.jpg?s=s&r=1153848921&t=n" border="0"></a><br /><br />目次
１．はじめに
２．日中戦争の長期化
３．中国情勢を巡る日米対立
４．日米交渉の開始
５．おわりに
参考引用文献

１．はじめに
　日本は1931年の満州事変以降、軍部が政治の主導権を握り、アジア大陸への軍事的発展を進めていき、無謀な対[334]<br />日米開戦に至る過程について
目次
１．はじめに
２．日中戦争の長期化
３．中国情勢を巡る日米対立
４．日米交渉の開始
５．おわりに
１．はじめに
　日本は1931年の満州事変以降、軍部が政治の主導権を握り、アジア大陸への軍事的発展を進めていき、無謀な対米戦争へ突入し敗れて、戦後再出発を図ることとなる。
　歴史にもしもは禁物であるが、果たして日本は無謀な対米戦争を阻止する機会というものはあったのだろうか。このことを踏まえつつ、本稿では日米開戦に至る過程について中国情勢を巡る日米対立を交えながら述べていく。
２．日中戦争の長期化
日中戦争は1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた日本軍が、何者かから射撃を加えられたことで始まった日中両軍の軍事衝突が発端になった。
この軍事衝突を巡って停戦への話し合いが始まり、局地紛争として処理されるに見えたが、この時日本陸軍の内部には｢この機会に中国軍に対して鉄槌を加えるべし｣という強硬論が有力になり、政府は華北への派兵を決定した。以後中国側に一撃を加えて、それによって華北での日本の基盤を固める必要があるという考え方が政府中央で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[神風の若鷹たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 8492leader]]></author>
			<category><![CDATA[8492leaderの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Dec 2005 14:41:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/" target="_blank"><img src="/docs/983431479001@hc05/3708/thmb.jpg?s=s&r=1133934100&t=n" border="0"></a><br /><br />?　最初に
質問。あなたは国のために生命を捨ててまで戦えるか。
　答え。とてもではないが、出来ない。
　もしこの様な質問をされたら、私はこう答えるだろう。アクション漫画やアニメなどでたまに「生命を捨てて戦う」という台詞を見かけるが、そ[346]<br />Ⅰ　最初に
質問。あなたは国のために生命を捨ててまで戦えるか。
　答え。とてもではないが、出来ない。
もしこの様な質問をされたら、私はこう答えるだろう。アクション漫画やアニメなどでたまに「生命を捨てて戦う」という台詞を見かけるが、それはあくまでも作られた物語上での空想に過ぎない。実際に行動として起こせる人など皆無であろう。「出来る」という人も中には居るかもしれないが、それは「出来る気がする」と錯覚しているのだ。私は生まれてから一度たりとも、戦争という特殊な状況に置かれた経験がない。かつて日本が経験した太平洋戦争も、もはや終戦から５０年以上もの歳月が過ぎ去っており、私に限らず戦後生まれ、特に若い世代にとっては本や映像から伝わってくる過去の出来事、という認識しか持っていないのがごく一般的であろう。
だが戦争は確かにあったのだ。私と同年代、さらにそれ以下のまさに少年とも呼べる者たちが、青春を謳歌すべき時期にその生命を国のために捧げて戦ったのである。そして冒頭の質問を実際に実行した若きパイロット達がいた。
神風特攻隊である。
Ⅱ　特攻隊の発祥
この戦争は、勝つ要素が素人目にもほとんど無かった。..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[太平洋戦争　エレクトロニクス戦]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nobufuta]]></author>
			<category><![CDATA[nobufutaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 19:31:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/" target="_blank"><img src="/docs/983432065701@hc05/3630/thmb.jpg?s=s&r=1133692265&t=n" border="0"></a><br /><br />　マリアナ沖のエレクトロニクス戦で日本が大敗した事はよく知られている。ではこのエレクトロニクス戦の勝敗を決定したものは何だったのだろうか。当時の日本は確かに科学技術的に見てアメリカより劣っていたかもしれない。しかし、ゼロ戦の存在などを考える[360]<br />太平洋戦争～エレクトロニクスが戦を制す～
　マリアナ沖のエレクトロニクス戦で日本が大敗した事はよく知られている。ではこのエレクトロニクス戦の勝敗を決定したものは何だったのだろうか。当時の日本は確かに科学技術的に見てアメリカより劣っていたかもしれない。しかし、ゼロ戦の存在などを考えると、原因はそれだけではないように思える。単純に言うと、戦うということをどう考えていたか、という点において、両国には違いが存在していたのではないか。
　パールハーバーの戦い以来の航空攻撃戦において、まずアメリカは守りの研究を進め、F6FヘルキャットやVT信管付きの対空砲火をつくりだした。これは己を省みる姿勢から、客観的..]]></description>

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			<title><![CDATA[いかに日本の開戦が導かれたか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432340601@hc05/597/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ちゆう]]></author>
			<category><![CDATA[ちゆうの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 24 Jun 2005 23:19:09 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432340601@hc05/597/" target="_blank"><img src="/docs/983432340601@hc05/597/thmb.jpg?s=s&r=1119622749&t=n" border="0"></a><br /><br />Ｃ・ソーンが『米英にとっての太平洋戦争』第1章で、「だが英米両国の政府上層部には、日本はアメリカやイギリスの有する潜在的な力に挑戦するほど愚かではないと信じこんでいる人びとがいた」と述べているように、英米陣営では「日本は攻撃してくるわけはな[358]<br />いかに日本の開戦が導かれたか
　
Ｃ・ソーンが『米英にとっての太平洋戦争』第1章で、「だが英米両国の政府上層部には、日本はアメリカやイギリスの有する潜在的な力に挑戦するほど愚かではないと信じこんでいる人びとがいた」と述べているように、英米陣営では「日本は攻撃してくるわけはない」と思いこんでいる節があった面は否めない。その一因には自信とアジアへの差別があったことはソーンが述べている通りであろう。ところが日本、特に日本軍上層部は戦争をする気でいたのである。現在、冷静に見れば日本とアメリカが戦争して日本が勝てるとは到底思えないのであるが、この時期になぜ日本は対連合国開戦に至ったのであろうか。
　日中戦争が泥沼化し、中国を支援するアメリカを中心に、日本への経済制裁が強まり、アメリカ、イギリス、中国、オランダのＡＢＣＤ包囲網が作られると、日本は石油や鉄等の資源が急速に不足しはじめた。そこで、近衛文麿内閣は、1941年7月に陸軍の主張する南部仏印進駐により資源を獲得しようとした。この結果アメリカは7月25日に在米日本資産凍結令、8月1日に石油全面禁輸という強硬な報復措置に出たのであるが、近衛首相も..]]></description>

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