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		<title>タグ“天皇”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E5%A4%A9%E7%9A%87/</link>
		<description>タグ“天皇”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

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			<title><![CDATA[慶應通信　日本史1　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/155134/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Green tea]]></author>
			<category><![CDATA[Green teaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 19 Jul 2025 12:46:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/155134/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/916779162102@hc22/155134/" target="_blank"><img src="/docs/916779162102@hc22/155134/thmb.jpg?s=s&r=1752896802&t=n" border="0"></a><br /><br />慶應通信日本史、大化の改新に関する合格レポートです。
コピペ禁止。あくまで参考資料としてご活用ください。[155]<br />ヤマト政権における地方支配の変遷
「大化の改新」は7世紀半ばに起こった政治改革であり、天皇（大王）を中心とした支配体制を持つ中央集権、律令国家の確立を目的としていたとされている。このレポートでは、大化の改新により、それまでの豪族による地方支配がどのように変遷していったのかを論じる。
　1　大化の改新と地方豪族
1-1　改新の詔
中大兄皇子と中臣鎌足が豪族、蘇我氏本家を滅亡させた「乙巳の変」を起こし、中大兄皇子の叔父である孝徳天皇が即位した翌年の646年、朝廷は年号を「大化」とし、遷都した「難波宮」から律令国家樹立へ向けた基本方針として「改新の詔」を発布した。改新の詔の第一条では、天皇が設置していたヤマト政権の直轄地「屯倉」や私有民「子代」を廃止すると共に、豪族の「田荘」や「部民」も廃止し、今後は「全ての土地と民は天皇が所有する」とされた。吉川は部民廃止について「部民制の廃止こそが大化改新の中核をなしており」と述べている。また私有地、私有民を奪われた豪族には朝廷より「食封」を与えることとした。【公地公民制】。第二条では、都の設置される畿内や国・評（のちに郡）の地方行政組織に、国司・評造（..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【佛教大学】_85点_政治文化史_科目最終試験]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154811/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gassan]]></author>
			<category><![CDATA[gassanの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 May 2025 14:18:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154811/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154811/" target="_blank"><img src="/docs/909497833794@hc25/154811/thmb.jpg?s=s&r=1746163138&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信の政治文化史2025年度の最終科目試験に合格（85点）したレポートです。限られた試験時間ですので、参考にしていただき、有効活用いただければと思います。[231]<br />政治文化史
1.摂関政治という政治形態と貴族社会の特質について、指定テキストの内容を踏まえて論述しなさい。なお、「一上」、「受領功過定」というキーワードを必ず1回以上使用すること。

参考文献
『日本歴史06　道長と宮廷社会』大津透著　講談社文庫

摂関政治の政治形態について
　摂政と関白は、平安時代における重要な政治職であり、摂関政治を支える中心的な役割を担っていた。指定テキストでは山川出版社刊の『日本史広辞典』を引用し、摂政は、「勅命をうけて天皇にかわって国政を執り行うことおよび執る者をいう。平安時代以降の藤原良房に始まる人臣摂政は、藤原氏がおもに幼少の天皇の外戚として国政を代行したもので、のちには天皇が幼少の間は摂政が、成人後は関白がおかれるのが通例となった。権限は、詔書・論奏の御画の代筆をはじめ、叙位・任官を行い、官奏を聴くなど、天皇とかわりなかった」と言われる。同じく関白は、「天皇の大政統理の権を補佐する職掌・地位。職掌の中核は奏聞・宣下に先だって政務関係文書に目を通すこと（内覧）であるが、おのずから天皇の最終的な諮問相手としても機能した」と記されている。このように、天皇が未..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【佛教大学】85点_Q5417_政治文化史_リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154807/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gassan]]></author>
			<category><![CDATA[gassanの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 May 2025 14:04:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154807/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154807/" target="_blank"><img src="/docs/909497833794@hc25/154807/thmb.jpg?s=s&r=1746162272&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信の政治文化史2024年度の合格リポート（85点）です。リポート作成の参考にしてください。[138]<br />■設題
平安時代は日本の古代から中世社会へ移行する過渡期である。テキストを熟読し、特に天皇や政治機構・政治形態の側面に焦点を当てて、律令国家から国家がいかに変容していったのか、まずは指定テキストの概要をまとめた上で、自身の考えるところを論述しなさい。
　なお、テキストの概要をまとめる上で、重要と思われる個所をテキストから必ず3ヶ所以上引用し、引用箇所を明記（例えば、坂上〇〇ページ、大津△△ページ）すること。

１．はじめに
　日本の律令制度は、奈良時代の大宝律令の制定によって完成し、天皇を中心とする中央集権体制を確立した。しかし、平安時代に入ると、その制度は次第に形骸化し、変容を遂げていった。今回、天皇のあり方、律令国家の軍事機構と軍縮、政治機構・政治形態、徴税理論の転換に焦点を当て、律令国家がどのように変容していったのかを論じる。

２．天皇のあり方の変化
　律令国家において天皇の権威は国家の統治基盤であったが、9世紀には天皇のあり方に２つの異なる方向性が見られた。１つは中国の皇帝像に接近する動きであり、もう１つは古来の天皇像への回帰である。
即位儀礼の変化はこの象徴的な例であり、そ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[星槎大学　４４１０１１０日本史Ⅰ　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/]]></link>
			<author><![CDATA[ by SEISAreport]]></author>
			<category><![CDATA[SEISAreportの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Dec 2024 16:38:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/" target="_blank"><img src="/docs/933808348058@hc17/154226/thmb.jpg?s=s&r=1733902734&t=n" border="0"></a><br /><br />星槎大学 日本史Ⅰのレポートです。 参考としていかがでしょうか。 この内容をそのままコピペしたり丸写ししたりするのではなく、少しでも変えた方が良いです。[222]<br />４４１０１１０日本史Ⅰ
レポートのテーマ（２０００字～３０００字）教科書①と②から1つずつ、自らが歴史的に重要だと思うできごとを取り上げ(計２つ)、①それについて概要を示すとともに、②そのできごとの歴史的背景（なぜそれがおこったのか）と、③そのできごとがもたらした状況（それによってどのような変化があったのか）、④その出来事の歴史的意義（その出来事の前後（②③）を見渡して、現在ではなく、その時代においてその出来事が起こることはどのような意義があったか）、の４点について述べなさい。
古代：摂関政治の確立と展開中世：北条氏の専制体制の確立
①古代において摂関政治の確立は、８世紀後半には一般的であった女帝が譲位制の成立や幼帝即位が可能になったことで終焉したことにより始まる。始まりは９世紀後半に摂政・関白の地位に就いた藤原良房らによるものであった。当時貴族の間では子どもの養育や後見は母方の親戚が行うという慣行があった。幼帝の即位が続く中、天皇の外戚の地位を獲得し、自身の娘である中宮に自身を摂関などに任命させることで政治的主導権を握った。これにより、摂関政治が確立し、後に摂政と関白の役割が明確に区..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[S5541 日本史概論レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920153330113@hc21/145881/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 虎ック野郎3431]]></author>
			<category><![CDATA[虎ック野郎3431の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 28 Sep 2021 14:31:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/920153330113@hc21/145881/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/920153330113@hc21/145881/" target="_blank"><img src="/docs/920153330113@hc21/145881/thmb.jpg?s=s&r=1632807068&t=n" border="0"></a><br /><br />S5541 日本史概論 第１設題 
鎌倉幕府と執権政治について。 
はじめに 
鎌倉幕府は，今まで天皇が政権をとっていたものとは違い，武士が政治を行う日本最初
の武家政権である。源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝は，征夷大将軍の地位を獲得し，
長く武家支配の象徴となる「将軍」の名目が成立した。しかし，実際に実権を掌握してい
くのは源一族ではなく，執権として政権を担った北条氏であった。この鎌倉幕府の政治体
制は，将軍専制政治から執権政治，そして，得宗専制政治へと展開される。執権政治とは，
将軍専制政治のあとにおける，執権・北条氏が幕府の実権を握り，幕政を運営した政治体
制のことを指す。ここでは鎌倉幕府の歴史を，この三段階を前提としつつ，執権政治の成
立と得宗専制政治への展開を通して考察していく。 
１．将軍専制政治から執権政治へ 
1185 年，壇ノ浦で平氏勢力を壊滅させた源頼朝は，1192 年に征夷大将軍の地位を獲得し
「将軍」となった。この鎌倉幕府は，源頼朝によって開かれた日本最初の武家政権であっ
たが，頼朝の専制支配を基調とする鎌倉幕府の体制は，頼朝の死後に将軍候補を擁立した
御家人集団同士の激しい権力闘争を引き起こすこととなる。 
1199 年の源頼朝の死後，その長子頼家が後を継ぐものの，頼家の専制がひどく，政務を
任せることに不安を抱いた北条時政をはじめとする有力御家人がその活動を制限し，「十三
人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治
体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし，将
軍位を争う権力闘争の根は絶たれることはなかった。こうして有力御家人らによる権力闘
争が現実のものとなり，1200 年に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討
伐し，1203 年には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まっ
たと言えるだろう。 
源頼家が重病に陥ると，北条時政と政子は，源頼家の弟である源実朝を将軍として担い
だ。そして北条時政は，大江広元と並んで政所別当に就任するとともに将軍の実朝を補佐
して「執権」という地位に就き，政治の実権を握ることになる。 
この頃，幕政への介入を図っていた後鳥羽上皇は新しい親衛隊「西面武士」を設置し，
力を朝廷側にもつけたり..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信　2019〜2022年度　美術史 分冊1 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chamuu]]></author>
			<category><![CDATA[chamuuの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Apr 2021 15:38:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/928256103383@hc19/143650/" target="_blank"><img src="/docs/928256103383@hc19/143650/thmb.jpg?s=s&r=1617345525&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信 2019年〜2022年度　美術史　分冊１ 合格レポート

当レポートは2019年に合格したものです。
あくまで参考程度としてお使い下さい。
丸写しなどはご遠慮下さいませ。[238]<br />美術史分冊１

平安時代前期、空海によって唐から密教がもたらされると日本でも密教美術の制作がはじまった。密教彫刻と密教絵画について作例をあげて述べなさい。 

〈ポイント〉
平安時代になると最澄と空海が新しい仏教を求めて唐へ渡り、空海は最新の密教を学んで密教経典や 曼荼羅などを日本へ持ち帰りました。空海を始まり として平安時代に制作された密教彫刻や密教絵画に ついて作例をあげて述べること。

〈キーワード〉 空海、唐、曼荼羅 
	
　延歴二十三年（八〇四年）第十六次遣唐使一行として還学生最澄、留学生空海が唐に渡った。最澄は仏典を収集して一年後に帰国。一方、空海は長安に入り当時密教の中心人物であった青龍寺・東塔院の恵果に会い、その才能を見込まれたのか、空海の予備知識と情報収集の成果は別として結果、恵果から大乗真言密教のすべてを伝授された。恵果によると『大日経』と『金剛頂経』を基にして雑密と大乗仏教を合体させ、呪法から宇宙の究極の価値まで説き明かした宗教体系を作り上げた。
そしてそれを図画化したのが両海（胎蔵界・金剛界）曼茶羅であった。恵果はわずか一年程で空海に伝授した後入滅する。中国での..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[W0103　社会福祉史　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></link>
			<author><![CDATA[ by allA]]></author>
			<category><![CDATA[allAの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2018 16:59:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/" target="_blank"><img src="/docs/934207734182@hc17/133579/thmb.jpg?s=s&r=1523433540&t=n" border="0"></a><br /><br />w0103　社会福祉史　リポート第2設題

評価Ａ

｢レポートの書式がきちんととられていて、設題の意図・意味することの理解も結語も適切である｣とのコメントを頂きました。

テキスト以外にも参考文献を記載していますので、リポート[324]<br />｢前近代(第一段階)における仏教の救済(慈悲の実践)についてその内容と特徴を論述しなさい。｣

はじめに
　仏教における慈悲とは、人間同士の愛他理念を内包する宗教実践である。人々を｢自他不二｣とみる実践が、対象とする人々に福祉をもたらし、結果として、福祉の実践となったのである。日本においても、六世紀に仏教が伝来して以来、社会構造の変化の中であり方を大きく変えながら、慈悲の実践に福祉は見出されてきた。
本稿では、前近代における、国家的慈恵による福祉実践と比較をした上で、仏教の救済による福祉実践の内容と特徴について述べる。
前近代の社会背景
　各時代の制約を受けながら展開されてきた生活の共同の営みは、福祉の歴史でもある。福祉のあゆみは大きく三つの段階に区分することができる。前近代はこの第一段階にあたり、共同体の規制や身分制を前提とした政治的、宗教的共済や共同体内部の共済を中心とする時代である。
前近代では、人間が生きていくための社会共同が人格を無視し、個人の自立的判断を認めない共同体により地域社会の規則を強制され、権力者により支配される抑圧的構造があった。この前近代の福祉は、人間解放を認め..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[S0621日本史(第１設題)佛教大学通信教育課程]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931866048372@hc18/132385/]]></link>
			<author><![CDATA[ by JBLL]]></author>
			<category><![CDATA[JBLLの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Jan 2018 21:44:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931866048372@hc18/132385/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931866048372@hc18/132385/" target="_blank"><img src="/docs/931866048372@hc18/132385/thmb.jpg?s=s&r=1516797891&t=n" border="0"></a><br /><br />B判定合格をいただいたレポートになります。ご自身の学びの参考になさってください！[118]<br />「鎌倉幕府と執権政治について。」
一、武士の地位確立の変遷
　十世紀になると、都や地方では武士が成長しはじめる。武士はもともと弓矢や馬術など、戦いの技術に優れた都の武官や地方の豪族たちで、朝廷や国府の役人となって、天皇の住まいや役所の警備、犯罪の取り締まりなどを担当していた。もとはさほど位が高いわけではなかった武士も、都では貴族に仕えて屋敷を警備したり、都の武士が地方の役職に就いたりするなど、武士は都と地方を行き来しながら、朝廷や国府での役職や貴族とのつながりを通じて、社会の中での地位を高めていったのである。
　やがて地方の武士たちは、貴族を主人にむかえ、多くの家来を従えて武士団を作るほどに成長した。十世紀の中ごろ、北関東では平将門が、瀬戸内海地方では藤原純友が、朝廷の政治に不満を感じて、それぞれ周辺の武士団を率いて大きな反乱を起こしたのは武士の成長の現れである。一方で朝廷も、別の武士団の力によって、この反乱をおさえることができたため、武士の力が認められるようになる。
　成長した武士団の中でも、桓武天皇の子孫である源氏と平氏が有力で、十一世紀後半には、東北地方の武士どうしの争いをきっか..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 Q0101 日本の歴史 第一設題【2017年度 B判定 合格 リポート】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mamimu03]]></author>
			<category><![CDATA[mamimu03の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Dec 2017 23:44:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932184071672@hc17/132040/" target="_blank"><img src="/docs/932184071672@hc17/132040/thmb.jpg?s=s&r=1514385852&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程でのリポートです。2017年度にB判定で合格しました。

日本の歴史　第一設題
コード：Q0101（コードが異なっていても、設題が同様の場合はご参考にしていただけるかと思います。）

あくまでもリポートの構成等の参[320]<br />鎌倉幕府と執権政治について。
はじめに
　壇ノ浦の戦いにおいて源氏が平氏を滅ぼし、源頼朝が征夷大将軍に任命されたことで鎌倉幕府は成立した。鎌倉幕府では武士が主体となる政治が行われることとなる。しかし、源氏による支配は短く終わり、鎌倉幕府において長期にわたり実権を握ったのは北条家であった。彼らは執権として幕府内で強固な権力を握った。本リポートでは鎌倉幕府と執権政治の成立と展開から鎌倉時代とはいかなる時代であったのかを考察する。
武士の起こりと鎌倉時代の始まり
日本史における武士の起こりは奈良時代の公地公民崩壊が起因している。時代と共に口分田は不足し、その解消を目的として743年に墾田永年私財法が施行されたが寄進により貴族や寺社は所有する荘園を増やし、国には税が入らず貴族や寺社が富を手に入れ、国や地方の政治は乱れた。治安の悪化に伴い自衛の必要が高まり、武士の起源である武装した農民が発生した。やがて彼らは集団を作り武士団となった。平安時代末には桓武天皇の血をひく平氏と清和天皇の血をひく源氏による大決戦の結果、源氏が勝利を収めた。建久三（一一九二）年、源頼朝が征夷大将軍の地位を獲得したことで「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[71日本史第1課題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></link>
			<author><![CDATA[ by misohan]]></author>
			<category><![CDATA[misohanの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 16 Sep 2016 13:22:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/936153742693@hc16/126359/" target="_blank"><img src="/docs/936153742693@hc16/126359/thmb.jpg?s=s&r=1473999758&t=n" border="0"></a><br /><br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。[130]<br />平安時代の政治史について4期に分けて、それぞれの政権の特徴と主要人物について述べなさい。
奈良時代から平安時代への移行期は天智天皇の曾孫の光仁天皇であったが天武天皇の孫の聖武天皇の娘の称徳天皇が継承者を立てずに亡くなったため天皇に擁立された。光仁天皇は聖武天皇の娘を皇后としてその息子を皇太子にしたが政争に巻き込まれ排除された。結局、百済系渡来人の高野新笠の子の桓武天皇が光仁天皇の後を継いだ。桓武天皇が天武系の平城京から天智系の新たな都である長岡京や平安京を建設し中国の皇帝儀式を採用し系統の違いを強調しようとした。桓武天皇は平安京造営と蝦夷征討をおこないい坂上田村麻呂を征夷大将軍にして東北地方に派遣、胆沢城や志波城を築き北上川沿いを軍事的に制圧、古代日本国家の北限とした。しかしこの2大事業で国力が衰え農民の負担軽減のため雑徭半減、班田手続きを6年一回から12年一回に、兵役を九州や特定地域を除き廃止し地方有力者の郡司の子らを兵士にする健児の制を開始した。桓武天皇は弟に早良親王がいたが息子を次の天皇にしたかったため長岡京造営責任者藤原種継暗殺事件に絡み死に追いやられた。その結果平城天皇が即位..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法 第1課題 第1設題 評価A]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946343500564@hc13/125730/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ちーのすけ]]></author>
			<category><![CDATA[ちーのすけの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 12 Aug 2016 02:30:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946343500564@hc13/125730/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946343500564@hc13/125730/" target="_blank"><img src="/docs/946343500564@hc13/125730/thmb.jpg?s=s&r=1470936658&t=n" border="0"></a><br /><br />第1課題、第1設題
評価:A
提出:2012/12/06

参考文献
・日本国憲法/斎藤静敬
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;(聖徳大学通信教育部)12.02.01
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;[引用:P.9.10.14]
・憲法要説/斎藤静敬
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;[237]<br />第1課題　第1設題
　日本国憲法が施行されたのは1947年。今からおよそ70年も前のことである。憲法は、「国家の根本原則すなわち国家の統治組織および統治作用に関する基本的なあり方などについて定めている」ものである。ここでは、天皇の権能について述べていく。
　天皇の地位は、明治憲法のときの規定とは異なるものになった。憲法では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴でもあって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(第一条)と規定されている。
　天皇主権から国民主権に変わり、主権者であった天皇は「象徴としての天皇」と根本的に変更された。象徴とは、「無形的、抽象的なものを表現する有..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇の権能]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948006872076@hc12/109030/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ニンジロー]]></author>
			<category><![CDATA[ニンジローの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 20 Dec 2013 08:00:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948006872076@hc12/109030/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948006872076@hc12/109030/" target="_blank"><img src="/docs/948006872076@hc12/109030/thmb.jpg?s=s&r=1387494025&t=n" border="0"></a><br /><br />日本国憲法
合格　評価S　聖徳大学通信教育学部
日本国憲法第4条に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と記されている。

参考文献
日本国憲法　斎藤静敬　聖徳大学　平成13年4月1日
日本国憲法[336]<br />第1課題第1設題 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　日本国憲法第4条に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と記されている。　　　　　　　　　　　　　　　　　
＿この「国事」と「国政」の二つの事柄が意味するものとは何か。またどういう言葉の関係性があるのか、疑問に思う点がある。まず「国事」とは辞書に記されているように、国家に直接関係する事柄。特に政治に関わる事柄と記されている。次に「国政」とは一国の政治。立法・司法・行政のすべてを含むと書かれている。具体的には、文化的な行事に関係することには関わるが、それ以外の政治的な行事には特別な場合や、危機的状況を除いて極力関わらないということではないかと推測される。　　
　国事行為の内容として第6条「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。」とある。内閣総理大臣の地位は内閣の独任制の長官として、他の国務大臣の任免権など強い権限を持つ。もちろん2項目の最高裁
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（1）
　第1課題第1設題 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【玉川大学】日本史「聖武天皇」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hatosaburou]]></author>
			<category><![CDATA[hatosaburouの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 03 Jul 2015 11:12:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951608480399@hc11/120901/" target="_blank"><img src="/docs/951608480399@hc11/120901/thmb.jpg?s=s&r=1435889544&t=n" border="0"></a><br /><br />※このレポートは、玉川大学通信教育部・科目名「日本史」平成24年度課題の合格済レポートです。

教員による評価・批評は以下の通りです。

＜評価＞
A（合格）

＜批評＞
大仏建立は国家プロジェクトです。現代においては、この[322]<br />課題
　「なぜ、聖武天皇は庶民の生活を圧迫してまで遷都を繰り返し、国分寺・国分尼寺や大仏を造らせたのか。また、世の中の乱れを仏教（宗教）の力で解決できると考えたのか」
なぜ、この課題を発見したか
　聖武天皇による度重なる遷都や、国分寺・国分尼寺や大仏の建立は庶民の生活をかなり圧迫した。世の中を治める目的のためとはいえ、国分寺・国分尼寺や大仏を造らせた結果、庶民を苦しめ、世の中を乱したのではないかと思った。なぜ、国分寺・国分尼寺の建立に留まらず、あれほどの巨大な大仏を造ることにこだわったのだろうか、また、世の中の乱れを仏教（宗教）の力で解決できると思ったのはなぜなのだろうかと疑問に思った。政治や経済の力ではなく、宗教で解決できると思ったのはなぜだろうかと。現代感覚からすると、宗教で解決できるとは思えなかったからである。
何をどのように調べたか。　
　前述の課題に対して、「古代は、政治と宗教が、分けることのできない、密接な関係にあった時代であった」「政治力がなかったため、宗教の力に頼る他なかった」という仮説を立てて調査した。
　「聖武天皇」「国分寺」「国分尼寺」「大仏建立」のキーワードを百..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法第1課題第1投題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940930474120@hc15/119784/]]></link>
			<author><![CDATA[ by annmnaaa]]></author>
			<category><![CDATA[annmnaaaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 18 Apr 2015 00:39:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940930474120@hc15/119784/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/940930474120@hc15/119784/" target="_blank"><img src="/docs/940930474120@hc15/119784/thmb.jpg?s=s&r=1429285154&t=n" border="0"></a><br /><br />『憲法要説』（成文堂）斎藤静敬　1998年[55]<br />第1課題　第1設題
　まず、日本国憲法において天皇は、「日本国の象徴」（1条）であるとされている。象徴とは、抽象的な思想・観念・事物などを理解しやすく表す具体的な存在をいう。例えば、鳩が平和の象徴や百合の花が純潔の象徴とされること同じである。
　大日本帝国憲法と日本国憲法とでは、天皇の持つ権力が大きく異なるのだ。 まず、大日本帝国憲法において天皇は、天皇大権と呼ばれる以下の権利を持っていたのである。
一つ目に統治権である。主権が天皇にあることを意味している。 
二つ目に立法権。大日本帝国憲法では、国会ではなく天皇が唯一の立法機関であって、国会はあくまでもそれを補佐するものと定められていた。 
..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史学 分冊1 日本大学　総合教育科目]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99411/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mevius169]]></author>
			<category><![CDATA[mevius169の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 20 Dec 2012 01:57:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99411/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/lunalian/99411/" target="_blank"><img src="/docs/lunalian/99411/thmb.jpg?s=s&r=1355936252&t=n" border="0"></a><br /><br />「明治天皇・乃木希典・石田伝吉-日本・近代史」
　まず始めに、この三人に共通する生きた時代は、「明治」と言われた時代である。明治とは、明治天皇在位の年号であり、１８６８年９月８日から１９１２年７月３０日までを言うが、この「明治」へと移り変わる中、日本ではさまざまな変遷があった。徳川慶喜が政権を朝廷に返上した大政奉還、武家政治の廃止、地租改正、秩禄処分、廃藩置県などを含む、明治維新と云われる、天皇を中心とする新政府を成立させる動きがあった。
　明治天皇の皇位継承は、この明治維新とほぼ重なり、近代国家建設の象徴的存在として期待された。１８８７年には、大日本帝国憲法の発布により、名実ともに立憲君主となり、緊急勅令、官制の制定、文武官の任免、宣戦・講話・条約の締結や、軍隊の最高指揮権などの、大権を有する存在となった。こうした国家体制とともに天皇を絶対君主とした日本は、海外への進出を始めていった。
　１８９４年八月一日、清国への宣戦の詔勅がだされ日清戦争が開始し、つづいて、１９０４年二月十日には、日露戦争が始まった。
日露の戦いにおいて勝利した帝国日本は、列強に肩を並べ、世界の「一等国」となる。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】国文学史１_分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hyxxx]]></author>
			<category><![CDATA[hyxxxの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Mar 2015 10:51:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/943981993355@hc14/119132/" target="_blank"><img src="/docs/943981993355@hc14/119132/thmb.jpg?s=s&r=1426902686&t=n" border="0"></a><br /><br />【日大通教】国文学史１_分冊1　 H25-26年度課題 合格リポートです。「『風土記』も成立と特徴について説明しなさい。また、テキストに「『出雲風土記』の国引きの物語などは、この地方の語部の語り口と伝えていると思われる古い国語の表現を示し、[340]<br />まず『風土記』の成立についてだが、『続日本史』によると、元明天皇の和銅六年（七一三年）、諸国にその国の産物・地味・地名の起源・古老の伝承などを報告せよ、との官命が出された。ここに「風土記」の語は見えないが、この官命に応じて諸国の回答した報告書（解文という）が、のちに『風土記』と呼ばれるようになったと言われている。編集者の困惑と苦難を反映してか、提出の時期はかなり遅速の幅があったようで、延長三年（九二五年）には再度、提出が求められている。
こうして奈良時代から平安初期の段階で、数十か国の風土記が出来上がったはずなのだが、「風土記」は平安時代に入って次第に散逸し、そのうち今日まで大部が伝えられているものは、常陸・出雲・播磨・豊後・肥後の五つのみであり、その他は後の諸書に引用されている逸文に過ぎない。五国の風土記に先後はあるが、だいたい奈良時代に成立したものと推定され、逸文には後代の要約・改作と疑われるものも少なくないが、他方、原文のままの断片として認められるものも相当ある。
　『風土記』とその逸文には、皇室や貴族に伝えられたものとは系統を別にする地方民間の説話が含まれていて、それだけに野趣..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[明治・大正・昭和～ 政治・経済・教育～歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430112301@hc06/113621/]]></link>
			<author><![CDATA[ by worst1]]></author>
			<category><![CDATA[worst1の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Jun 2014 11:52:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430112301@hc06/113621/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430112301@hc06/113621/" target="_blank"><img src="/docs/983430112301@hc06/113621/thmb.jpg?s=s&r=1403491933&t=n" border="0"></a><br /><br />明治・大正・昭和激動の時代
～ 政治・経済・教育・生活・趣味・戦争について ～
【 目　次 】
１．政治分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ 2
　　　　　　　　　　　　　
２．教育分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ16
　　　　　　　　　　　　　
３．生活分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ20
　　　　　　　　　　　　　
４．経済分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ40
　　　　　　　　　　　　
５．趣味分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ45
　　　　　　　　　　　　　
６．戦争分野　　　　　　　　　　　　　　　　　・・・　Ｐ64
■ 政治分野
１、日本の歴代総理大臣
　
名前
在職期間
在職日数
政権基盤
初代
伊藤博文（1）
1885/12/22～1888/04/30
861日
　
2代
黒田清隆（1）
1888/04/20～1889/10/25
544日
　
3代
山県有朋（1）
1889/12/24～1891/05/06
499日
　
4代
松方正義（1）
1891/05/06～1892/08/08
461日
　
5代
伊藤博文（2）
1892/08/08～1896/08/31
1485日
　
6代
松方正義（2）
1896/09/18～1898/01/12
482日
進歩党
7代
伊藤博文（3）
1898/01/12～1898/06/30
170日
　
8代
大隈重信（1）
1898/06/30～1898/11/08
132日
憲政党
9代
山県有朋（2）
1898/11/08～1900/10/19
711日
憲政党
10代
伊藤博文（4）
1900/10/19～1901/05/10
204日
立憲政友会
11代
桂太郎（1）
1901/06/02～1906/01/07
1681日
　
12代
西園寺公望（1）
1906/01/07～1908/07/14
920日
立憲政友会
13代
桂太郎（2）
1908/07/14～1911/08/30
1143日
　
14代
西園寺公望（2）
1911/08/30～1912/12/21
480日
立憲政友会
15代
桂太郎（3）
1912/12/21～1913/02/20
62日
　
16代
山本権兵衛（1）
1913/02/20～1914/04..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法の象徴天皇制について説明しなさい。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945053294212@hc13/108704/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mee2]]></author>
			<category><![CDATA[mee2の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 04 Dec 2013 15:13:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945053294212@hc13/108704/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945053294212@hc13/108704/" target="_blank"><img src="/docs/945053294212@hc13/108704/thmb.jpg?s=s&r=1386137589&t=n" border="0"></a><br /><br />憲法（日本国憲法）「日本国憲法の象徴天皇制について説明しなさい。」
評価：A
文字数：2,428[128]<br />象徴天皇制については、日本国憲法第１条で「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。象徴という表現が抽象的なため、何を意味するのかを明確にしておく必要がある。象徴とは、抽象的な概念や思想を理解しやすいよう具体的なものにたとえるときに用いる言葉であり、鳩は平和の象徴であるという表現が一例として挙げられる。１条で規定されている象徴としての天皇もこの用法と同じである。
　大日本帝国憲法下では、第１条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」より、統治権は天皇にあったことが確認できる。終戦後、占領国アメリカは新憲法制定にあたり、天皇制をどのように扱うかが大きな問題と考えた。それまでの天皇制を廃止し、天皇政治から民主政治が行われるように変えようとしたのだが、天皇制の歴史や日本国民の感情を考慮して天皇制を存続させることにした。これは、あくまで戦争責任を日本国に負わせ、民主主義を平和的に構築するために考えられた仕組みである。天皇制を存続させるかわりに、天皇に政治的な権限を与えず、国事行為のみを行うように日本国憲法で規定した（憲法４..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[憲法：大阪芸短リポート評価【Ａ優】日本国憲法の象徴天皇制について説明しなさい。NJ06～14対応]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951261933213@hc11/105891/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 空飛ぶパンダ]]></author>
			<category><![CDATA[空飛ぶパンダの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 21 Aug 2013 21:07:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951261933213@hc11/105891/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951261933213@hc11/105891/" target="_blank"><img src="/docs/951261933213@hc11/105891/thmb.jpg?s=s&r=1377086854&t=n" border="0"></a><br /><br />日本国憲法の象徴天皇制について説明した。[60]<br />リポート、学校名：大阪芸術短期大学、学科名：通信課程、保育科 
科目名 ： 憲法、作成日：平成２５年５月、成績：Ａ（優） 
キーワード＝大阪芸短、保育科、リポート、日本国、憲法、象徴、天皇、 
参考文献：「憲法」、畑 雅弘 著、大阪芸術大学短期大学部通信教育部 発行 
設題：日本国憲法の象徴天皇制について説明しなさい。 
　わが国の天皇制については、統治権力のない日本の象徴と定義する。 
これを憲法で明確に定めた国家というのは、日本以外にほとんど無い。 
　立憲君主制の国として、イギリスやスウェーデンが挙げられるが、 
どちらの国も統一的な憲法典は存在していない。 
　また、第二次世界大戦以前は、天皇を中心とする絶対君主制であった。 
敗戦時に天皇を闇に葬らずに、象徴として活用する手法は正解である。 
　いくら、天皇を無力化したところで、長年天皇崇拝してきた日本国民 
を納得させるためにも、日本の象徴として外交やセレモニーで活躍して 
もらえば、その姿も国民が見て落ち着くだろうし、心なごむ所である。 
　さて、その天皇制については、日本国憲法第1章にうたわれている。 
その第１条から第..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q0701　日本仏教史　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945970123249@hc13/105262/]]></link>
			<author><![CDATA[ by atago]]></author>
			<category><![CDATA[atagoの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 29 Jul 2013 11:03:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945970123249@hc13/105262/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945970123249@hc13/105262/" target="_blank"><img src="/docs/945970123249@hc13/105262/thmb.jpg?s=s&r=1375063393&t=n" border="0"></a><br /><br />合格したレポートです。参考にしてください。[63]<br />奈良時代の仏教の特質を論ぜよ
日本への仏教伝来については二説存在する。『元興寺縁起』による538年とも『日本書紀』による521年とも言われている。いずれにしても朝鮮半島から諸国に伝播していた仏教にが、朝廷に伝えられ、これが動機となって当時の豪族を二分して争うほどの関心を呼び起こしたこと、そしてやがて古代の氏族制社会が崩壊して律令国家へと転換する重要な契機となったことは重要視しなければならない。しかし、もちろん仏教渡来の初期における一般部族の信仰は、「他国の神」「蕃神」「仏神」であり、『日本書紀』の仏教伝来記に記されているように、「無量無辺の福徳の果報」を将来する呪術的対象であり、僧侶はエキゾチックな呪術者、呪医として迎えられた面も強かった。しかし、聖徳太子の出現は、日本仏教の受容に決定的な性格づけをしたものとして、重要な意味を持っている。『日本書紀』の聖徳太子に関する記事には、多分に釈迦の転用と見られるものや、種々の神話的著彩が施されているものや、太子の著作と伝えられる三経義疏についても、近年問題提起がなされている。聖徳太子が制定した十七憲法にもその色彩は大きくでている。そして、大化の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法　第1課題（評価S）・第2課題（評価S）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104393/]]></link>
			<author><![CDATA[ by クランティ]]></author>
			<category><![CDATA[クランティの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 Jun 2013 21:45:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104393/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947124227044@hc13/104393/" target="_blank"><img src="/docs/947124227044@hc13/104393/thmb.jpg?s=s&r=1372337156&t=n" border="0"></a><br /><br />・課題
第1課題第1設題
天皇の機能について説明しなさい。

第2課題第1設題
司法権の独立について説明しなさい。

・講評
第1課題
課題に対して、よく整理して記述されております。できればP,3以下の天皇の機能　すなわち国事行為6条①②、[324]<br />第１課題第１設題
本論文は、天皇の権能について説明することを目的とする。そのためにまず、象徴としての天皇の地位について説明する。次に、大日本帝国憲法・日本国憲法における天皇の地位・権限を比較し、天皇の権能を明らかにする。そして最後に日本国憲法6･7条の国事行為について示し、天皇の権能の説明とする。
日本国憲法は天皇の統治権の総攬を否定し、その地位を象徴としてのみ認めている。まずは象徴としての天皇の地位をみてみよう。はじめに象徴ということでその定義を明確にすると、象徴とは無形・抽象的なものを表す有形・具体的なものをさしている。例えば、平和は鳩・国家なら国旗といったようにである。
象徴としての天皇の地位であるが、これは大日本帝国憲法下での天皇の二面性である統治面・象徴面から創設されたものだ。つまり、この統治面が否定されたことによって、前面に出た象徴面が日本国憲法の「象徴としての天皇」となったのである。
では大日本帝国憲法・日本国憲法における天皇の地位・権限とはなんであろうか。つぎはこれらを比較して天皇の権能をみてみよう。
大日本帝国憲法は、わが国で最初に作られた近代的成文憲法である。憲法の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『古事記』～ヤマトタケルの悲劇～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100379/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のんたそ]]></author>
			<category><![CDATA[のんたその資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 Jan 2013 12:31:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100379/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/947515749504@hc13/100379/" target="_blank"><img src="/docs/947515749504@hc13/100379/thmb.jpg?s=s&r=1359171117&t=n" border="0"></a><br /><br />『古事記』の倭建命の章を検討し、ヤマトタケルは、最後死して白鳥となって翔けていくが、「英雄であるはずのヤマトタケルはなぜ死なねばならなかったのか」という点について、ヤマトタケルの悲劇性を軸に論じたミニレポートです。[321]<br />景行天皇のとして生まれ、その「建く荒き情」をもって辺境をめぐり、全国平定に】貢献したヤマトタケルは、なぜ死ななければならなかったのか。
　ヤマトタケル説話は、小碓命の兄殺しから始まる。父景行天皇は、小碓命に、朝夕の大御食に出てこない兄大碓命を「泥疑教へ覚せ」と命じた。しかし、五日経っても大碓命が参上しないので、天皇は小碓命に、まだ教え諭していないのではないかと問うと、「すでに泥疑為」と答えた。不審に思った天皇が、「いかにか泥疑つる」と問うと、「朝けに厠に入りし時、待ち捕へてつかみひしぎて、その枝を引きかきて、薦に裏みて投げ棄てつ。」と平然と答えたのであった。それを聞いた天皇は、小碓命の「建く..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文学史・分冊１【日本大学通信教育・国文学・合格レポート・２０１２】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949913111368@hc12/99005/]]></link>
			<author><![CDATA[ by micchan2000]]></author>
			<category><![CDATA[micchan2000の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Dec 2012 16:26:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949913111368@hc12/99005/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949913111368@hc12/99005/" target="_blank"><img src="/docs/949913111368@hc12/99005/thmb.jpg?s=s&r=1354692407&t=n" border="0"></a><br /><br />課題内容
漢詩文の盛行から和歌文学の興盛となった原因や上限、さらに興盛によって成立した作品の特徴について説明しなさい。

なお、当方、2013年採用の教員採用試験に合格しました。お買い上げいただいた方でご希望であれば、簡単にではありますが、[346]<br />平安時代（七九四年～）が始まって百年は、漢詩文が盛んであって、当時の文学を代表していた。この頃には、仮名文字が次第にできていた時期でもあったが、当初仮名は、女文字と言われ、主として女性が和歌・詞書・手紙などを書くことといった私生活の中で使うものであった。しかし、そんな和歌が漢詩文に代わって文学界の表面に現れるようにあったのは、八八〇年前後とされている。
和歌・仮名文学が文学の中心となったのは、次に挙げることだと考える。
一、唐風文化から日本風文化への転換。
奈良時代から平安時代初期は、唐の影響が強い文化が発展した。そのきっかけは、奈良時代において、遣隋使に代表されるように、日本人が大陸と交流を持つようになったことである。それによって、これまでの氏族制度を改め、天皇中心の律令制国家が形成されていったわけである。そして、同時に漢字・漢文が伝来され、文学はもちろん建築においても影響された。つまり、唐風文化が日本の文化形成に多大な影響を与えたわけである。ところが、時が流れ、遣唐使の廃止や唐の衰退、そして摂関政治に見られる日本の皇族の安定といったことが起きたことによって、唐風文化を受け継ぎながら..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[戦前日本における皇族とはどのような存在であり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954329484821@hc10/86879/]]></link>
			<author><![CDATA[ by コクタン]]></author>
			<category><![CDATA[コクタンの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Oct 2011 21:58:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/954329484821@hc10/86879/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/954329484821@hc10/86879/" target="_blank"><img src="/docs/954329484821@hc10/86879/thmb.jpg?s=s&r=1318683487&t=n" border="0"></a><br /><br />●戦前日本における皇族とはどのような存在であり、終戦時においてどのような役割を果たし、またその後、占領下でどのような変化があったのか。
そもそも「皇族」の定義は、旧皇室典範によってその範囲を定められた、皇統に属する天皇の一族とされた。（天皇は皇族ではないとされた。）皇族の構成員は、「皇后・太皇太后・皇太后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王」であるとされた。皇族は天皇と合わせて「皇室」を形成した。皇族は皇統が途絶えそうになったとき、皇位を継承するという役割を持っていた。要するに、宮家は皇統を安定的させるために創設された制度であったと言える。
終戦時には皇族..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[枕草子とは]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83189/]]></link>
			<author><![CDATA[ by BOOOOO]]></author>
			<category><![CDATA[BOOOOOの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 18 Jul 2011 17:47:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83189/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83189/" target="_blank"><img src="/docs/952871529578@hc11/83189/thmb.jpg?s=s&r=1310978822&t=n" border="0"></a><br /><br />『枕草子』と清少納言
　私は、以前から興味を持っていた清少納言の随筆『枕草子』について調べてみました。この『枕草子』は内容・形式が自由な三百段以上の章段から成る随筆で、清少納言が日々の思いを書き綴った作品です。そのため、清少納言の人柄や性格が随所に見られ、とても読みやすい作品だと思いました。では、この『枕草子』について見ていきたいと思います。
①作者～清少納言～について
　この『枕草子』の作者である清少納言は清原元輔の末娘として生まれます。父である清原元輔は第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』を撰集した「梨壺の五人」の一人であり、曽祖父にあたる清原深養父もまた勅撰集に入集するような名高い歌人です。清少納言はこのような歌人の家柄の中、父が老年の時の娘ということもあり、非常に可愛がられて育てられたようです。この清少納言は『枕草子』の中で歌はあまり得意ではないと記されていますが、当時の女性としては珍しい漢文の教養に優れていたようです。そして、清少納言が十六、七歳のとき橘氏の長男である橘則光と結婚し、翌年には長男則長を出産します。しかし、則長の出産後、父の清原元輔も亡くなり、清少納言と橘則光は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[相撲と天皇に関するレポート。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952740854954@hc11/81970/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lemoneds]]></author>
			<category><![CDATA[lemonedsの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 01 Jun 2011 17:49:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952740854954@hc11/81970/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952740854954@hc11/81970/" target="_blank"><img src="/docs/952740854954@hc11/81970/thmb.jpg?s=s&r=1306918188&t=n" border="0"></a><br /><br />古代からの相撲と天皇の関わりについてのレポート。
「A」評価。[90]<br />国家形成論
後期レポート
題名：相撲と天皇。
　「相撲」という類型のスポーツは、日本でのみのスポーツではなく、イギリス、スペイン、アメリカなどの欧米や韓国、モンゴルなどのアジアなどの世界的なスポーツである。もちろん、各国ごとにルールややり方などは少々異なっている。換言すれば、相撲というスポーツは異なる空間で、異なる方式で発展してきたのである。例えば、スペインでの相撲は格闘技に近い一方、イギリスでは相撲の伝統の儀礼と形式が強調される。他方、日本での相撲は一段と複雑である。それは、天皇制や宮中儀式など日本ならではの伝統的な要素と深く関連している。
　現代の日本における相撲を説明するためには、このスポーツが江戸時代の都市文化は無論、農村文化の底辺から湧き出すあるものを反映していることは看過してはならない。相撲は本来、収穫の豊作を祈願する農耕儀礼から始まったという説が有力であるが、言い換えれば、元来はスポーツとしての性格よりは「神を祀ること」としての意味が大きかった。農業を重視した昔には土地のことが何よりも重要なことであったため、力の強い「力士」たちに土地に宿っている悪霊を踏んで治めさせたが、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[憲法MB　理解度チェック１　合格　日本大学通信　メディア]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/80762/]]></link>
			<author><![CDATA[ by trek]]></author>
			<category><![CDATA[trekの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 23 Apr 2011 10:09:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/80762/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961003089747@hc08/80762/" target="_blank"><img src="/docs/961003089747@hc08/80762/thmb.jpg?s=s&r=1303520991&t=n" border="0"></a><br /><br />問題１：国会は「国権の最高機関」であるとはいかなる意味か。 
「国会は、国権の最高機関である」（憲法第４１条前段）。明治憲法においては、天皇が統治権
の総攬者であることから、これを最高機関と称した。しかし、現行憲法では、権力分立制の原則
の下に、国会が他の国家機関の意思に対して優越することを意味するわけではない。憲法は、権
力相互の抑制と均衡をねらって、内閣に衆議院の解散権を与え（憲法第６９条）、裁判所に違憲
審査権を認めている（憲法第８１条）。それにもかかわらず、国会が国権の最高機関であるとは、
明治憲法における天皇の最高機関性を否定すると同時に、国民を代表する国会を国政の中心に位
する重要..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇の権能]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953345724321@hc11/80355/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sho-toku]]></author>
			<category><![CDATA[sho-tokuの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 01:36:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953345724321@hc11/80355/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953345724321@hc11/80355/" target="_blank"><img src="/docs/953345724321@hc11/80355/thmb.jpg?s=s&r=1301848598&t=n" border="0"></a><br /><br />聖徳大学・通信教育
「日本国憲法」第１課題第１設題。※Ａ評価。
末尾に参考文献記載。[122]<br />【課題】天皇の機能について説明しなさい。（1600字）
第１課題　第1設題
　大日本帝国憲法は、神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であった。まず、主権が天皇に存することを基本原理とし、この天皇の地位は天皇の祖先である神の意思に基づくものとされた。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)とは、この天皇主権の原理を明示したものである。また、天皇は、神の子孫として神格を有するとされ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)と定められた。さらに、天皇は、「国ノ元首ニシテ統治権を総覧」(4条)する者、すなわち、立法・司法・行政などすべての国の作用を掌握し統括する権能を有する者とされた。
　これに対し日本国憲法では、前文で「日本国民は、&hellip;ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とし、1条では、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。
大日本帝国憲法において、主権者であり統治権の総覧者であった天皇は、日本国憲法では国民主権主義の下で日本国及び日本国民統合の象徴となり、政治的権能は一切もたない存在とな..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法☆第一課題☆]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953959281349@hc11/79814/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ﾏﾏちゃん]]></author>
			<category><![CDATA[ﾏﾏちゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 18 Mar 2011 15:29:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953959281349@hc11/79814/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953959281349@hc11/79814/" target="_blank"><img src="/docs/953959281349@hc11/79814/thmb.jpg?s=s&r=1300429752&t=n" border="0"></a><br /><br />第１課　第１設題
日本国憲法において天皇は国の象徴としての地位のみをもたれている。これは国民主権の原理を取り入れたものであり、大日本帝国憲法の天皇制と大きく変わったものである。
大日本帝国憲法における天皇は主権者であり、「国の元首にして統治権を総括」する地位であった。つまり、第日本帝国憲法において、天皇は統治面と象徴面の二面性を持った存在であった。しかし、日本国憲法においては、統治面が否定され、単に国の象徴として存在となったのである。よって天皇は元首でもなくなったのである。
日本国憲法は天皇制について憲法第一条で「この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と明示しているが、これは国民の総意..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79167/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lampway]]></author>
			<category><![CDATA[lampwayの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 15 Feb 2011 18:12:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79167/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79167/" target="_blank"><img src="/docs/958457868540@hc09/79167/thmb.jpg?s=s&r=1297761146&t=n" border="0"></a><br /><br />『奈良時代の仏教の特質を論ぜよ。』
鎮護国家の思想と聖武天皇の政策
　奈良時代の仏教は、飛鳥時代の聖徳太子によって基礎が確立されたのを受け、その後の諸大寺の建立と留学僧の帰国により諸宗が伝えられ、躍進的な発展を遂げた。特に諸国に国分寺や国分尼寺を建立しようとしたことや、廬舎那仏、つまり東大寺にある大仏を建造しようとしたことは、鎮護国家思想によるものである。
　鎮護国家思想とは、仏教の力を借りることで国を護ろうとするものである。具体的には、諸国に国分寺や国分尼寺を建立し、僧寺には二十僧、尼寺には十尼を配置した。また、国分寺には『法華経』や『金光明経』などの経典を十部おき、これとは別に金字の『金光明経』の写しを一部、塔ごとに納めた。諸国に国分寺や国分尼寺を置いたのは、地方政治を行うために国府が置かれたのと同様に、諸国の精神的な意味での支えが必要であったからである。すなわち、国家に全国を統治する中央政府が存在するように、国分寺にも中央を表す寺が存在し、それが奈良の東大寺である。そして、国分尼寺のこれに当たるのが法華寺である。
　これとともに鎮護国家を打ち立てるためのもう一つの一大事業が、前述..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信歴史学レポートI]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78112/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cabby]]></author>
			<category><![CDATA[cabbyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 Jan 2011 22:42:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78112/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78112/" target="_blank"><img src="/docs/955247566252@hc10/78112/thmb.jpg?s=s&r=1296135774&t=n" border="0"></a><br /><br />日本近代史は、一般的に幕末から昭和の戦争終了までの時代を指すが、日本の国家史において大きな転機になった時代といえる。中でも政治的・産業的・文化的に大変革のあった明治という時代が、どのようなものであったか、この時代と深く関わった2人の人物を、[358]<br />「明治天皇・乃木希典&minus;日本・近代史」
　日本近代史は、一般的に幕末から昭和の戦争終了までの時代を指すが、日本の国家史において大きな転機になった時代といえる。中でも政治的・産業的・文化的に大変革のあった明治という時代が、どのようなものであったか、この時代と深く関わった2人の人物を、西南戦争を通してみていきたい。
　１８７３年、西郷隆盛が、特権剥奪された旧士族たちの不満を外に向けるために、征韓論を主張するも、大久保利通らの反対にあい政府を去る。このとき明治天皇は自立的な判断を下してはおらず、あくまでも岩倉方の意見を強制されている。西郷の辞職後、近衛兵将校が次々と辞職し、西郷に殉じるものはあっても、天皇に忠誠を誓うものは居なかった。
　１８７７年西郷隆盛は西南戦争を起こす。先の政府分裂の際、近衛兵を引き止められずに示唆を舐めたが、なお西郷に信頼を寄せていた。２６歳を迎えていた天皇の心には西郷を思いやる気持ちがあり、西郷との直接対決をさけようとしたとされる。
　時を同じくして、長州出身の乃木は、第十四連隊長として、西郷率いる薩摩軍と激戦の中にいた。この戦いにおいて乃木の人生を左右する出来事が起..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信歴史学レポート1 「日本・近代史」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78111/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cabby]]></author>
			<category><![CDATA[cabbyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 27 Jan 2011 22:35:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78111/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955247566252@hc10/78111/" target="_blank"><img src="/docs/955247566252@hc10/78111/thmb.jpg?s=s&r=1296135325&t=n" border="0"></a><br /><br />「明治天皇・乃木希典&minus;日本・近代史」
　日本近代史は、一般的に幕末から昭和の戦争終了までの時代を指すが、日本の国家史において大きな転機になった時代といえる。中でも政治的・産業的・文化的に大変革のあった明治という時代が、どのようなものであった[358]<br />「明治天皇・乃木希典&minus;日本・近代史」
　日本近代史は、一般的に幕末から昭和の戦争終了までの時代を指すが、日本の国家史において大きな転機になった時代といえる。中でも政治的・産業的・文化的に大変革のあった明治という時代が、どのようなものであったか、この時代と深く関わった2人の人物を、西南戦争を通してみていきたい。
　１８７３年、西郷隆盛が、特権剥奪された旧士族たちの不満を外に向けるために、征韓論を主張するも、大久保利通らの反対にあい政府を去る。このとき明治天皇は自立的な判断を下してはおらず、あくまでも岩倉方の意見を強制されている。西郷の辞職後、近衛兵将校が次々と辞職し、西郷に殉じるものはあっても、天皇に忠誠を誓うものは居なかった。
　１８７７年西郷隆盛は西南戦争を起こす。先の政府分裂の際、近衛兵を引き止められずに示唆を舐めたが、なお西郷に信頼を寄せていた。２６歳を迎えていた天皇の心には西郷を思いやる気持ちがあり、西郷との直接対決をさけようとしたとされる。
　時を同じくして、長州出身の乃木は、第十四連隊長として、西郷率いる薩摩軍と激戦の中にいた。この戦いにおいて乃木の人生を左右する出来事が起..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『巫女の文化』～第四章「兄と妹の物語」を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955342918529@hc10/77958/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ねこぱんつ]]></author>
			<category><![CDATA[ねこぱんつの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 24 Jan 2011 17:44:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955342918529@hc10/77958/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955342918529@hc10/77958/" target="_blank"><img src="/docs/955342918529@hc10/77958/thmb.jpg?s=s&r=1295858655&t=n" border="0"></a><br /><br />文学者倉塚曄子の同著を読んでの批評です。文学的視点ではなく、民俗学の立場から述べてあります。文字数も多く、完成度は高いと思われます。[198]<br />『巫女の文化』倉塚曄子著/平凡社(1979)～第四章「兄と妹の物語」を読んで 
初めに 
本レポートを書くにあたって、まず本書の第四章「兄と妹の物語」の本文に沿ってその内
容主旨を述べ、それに伴う批評を後に述べる。そしてその発展として、琉球(沖縄)における
ヒメヒコ制についても論点を置くことにする。 
Ⅰ.内容主旨 
(1) 兄と妹の絆 
沖縄では霊能で結ばれた特殊な兄妹関係が歴史時代を通じて今まで保たれ続けてきた。
しかし本土においてもそれは記紀に残されてあるように、歴史時代の始まりの頃までは存
在していたことが分かる。 
記紀に示されるいくつかの特殊な兄妹関係から、妹が兄の力になろうとした点に共通点
を見出すことができ、これらの妹と兄の絆の強さというのは人類学的(p.192 ℓ9)、系譜的に
も示されている。そして、この絆を軸として成立したものがヒメヒコ制(p.193 ℓ9)といわれ
るものであり、つまりは政治的、宗教的支配権の兄妹(姉弟)による分掌体制(p.193 ℓ8)であ
る。ヒメヒコ制の長い伝統の線上に実現したとみられるヒミコとその宗女壱与による統治
はその一典型として挙げることができる。 
(2) イイトヨノ郎女 
折口信夫によると、古事記における原文の返り点を従来の位置から動かせば、イイトヨ
ノ郎女は雄略系の王統から再び王権を奪い返し、殺された兄オシハノ王の子らを王位につ
けるという内容が読み取れるという。筆者はこれに対し、大方の賛成を示すが、イイトヨ
ノ郎女が宮廷高巫であると同時に二王子との強い血縁関係を持っていたという点に主な重
点を置く。記紀においても、書紀ではイイトヨノ郎女(オバ)が単なる皇位の空白期間を埋め
る中継ぎの役であるかのように示されているのに対し、古事記ではイイトヨノ郎女が即位
したかどうかなどの点が曖昧になっているために、筆者はここからオバ(イイトヨノ郎女)
とオケ・ヲケ二王子との関係により重点がおかれているのだという。またこのような古事
記の表記からも、古事記がオイに対するオバの話、つまり「妹」の霊能について語ろうと
している、と筆者は述べている。 
(3) 古代のオバとメイ 
ここでは古代の系譜を用いてオバとメイの関係における重要性を説く。 
まず、葛城氏の系譜から、二代にわたってオバ・メイの関係にある者が皇妃になってい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[女性たち～卑弥呼と北条政子を例に～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75281/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kengo0430]]></author>
			<category><![CDATA[kengo0430の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 24 Nov 2010 15:42:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75281/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958595957307@hc09/75281/" target="_blank"><img src="/docs/958595957307@hc09/75281/thmb.jpg?s=s&r=1290580945&t=n" border="0"></a><br /><br />「武士たちの裏で活躍した女性たち
～卑弥呼と北条政子を例に～」
はじめに
今日、時代劇映画などが海外でも注目・評価され、その存在がまたクローズアップされつつある日本の「武士」。切腹や「武士は食わねど高楊枝」など、彼らの生きざまは気高く美しいものだとされてきた。確かに彼らの生き方には泰然として、現代人にはない「死に対する意識」の高さなどが感じられる。しかし彼らは一人で生き、一人で事をなし、そして死んでいったのだろうか。必ず彼らの隣には妻、もしくはそれに相当するような女性の影があったはずである。彼女たちはいつでも彼らと共に生き、死んでいったはずなのに、歴史上に名を残したものは男のそれに比べると格段に少ない。さかのぼってみれば、たとえ有名ではなくとも男たちを影で支えていた女性が多く存在していたことは明白な事実である。
そこで本稿では、表舞台で活躍した男(武士)たちを支えていた、もしくは発展的に政治をも動かした、または一般に名前の挙がるような歴史的にも有名な女性を何人か例として挙げ、その共通点や性格・素性、特徴・背景、彼女たちを取り巻いていた環境、そして彼女たちに深く関わった事件、乱等々を示し、比較し、それらのことから自らの意見を述べてみたいと思う。
(１)卑弥呼と邪馬台国
①卑弥呼の一生
諸国から共立された邪馬台国の女王。鬼道(呪術)を事としたので巫女か。２３９(景初３)年大夫難升米を帯方郡経由で洛陽(魏)に遣使、冊封を受け、「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡百枚などを賜った。死に際して大きな塚に葬られたという。『魏志』倭人伝に彼女のことが詳しく書かれている。
②邪馬台国
成立：邪馬台国は二世紀後半の倭国大乱を経て、女王・卑弥呼の宗教的権威(シャーマン)の下に三十余ヵ国の連合体として成立したとされている。
背景：遣使の理由は、魏の権威を背景に連合の統治と狗奴国(※１)との抗争を有利にすすめるためだったと言われている。
統治形態：世襲王権の未成立(共立)
元男王&rarr;卑弥呼&rarr;男王&rarr;壹与(十三歳)
この王の移り変わりは『魏志』倭人伝にも詳細が記されている。卑弥呼の死後、邪馬台国は男王を立てたが再び内乱がおこり、千人ほどの犠牲者が出た。そこで卑弥呼の一族で十三歳の壹与という少女を女王にしたら内乱はおさまったという。この壹与も卑弥呼同様、シャーマンだったと考えてよいだろう。また、卑弥呼..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中学校歴史的分野学習指導案 単元　鎌倉幕府①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/75209/]]></link>
			<author><![CDATA[ by anthem]]></author>
			<category><![CDATA[anthemの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 23 Nov 2010 23:25:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/75209/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962350986988@hc08/75209/" target="_blank"><img src="/docs/962350986988@hc08/75209/thmb.jpg?s=s&r=1290522312&t=n" border="0"></a><br /><br />社会科（歴史的分野）学習指導略案
日時　平成●●年●月●日（●）　第●限
対象　　●年●組
Ⅰ　単元名　鎌倉幕府の成立
Ⅱ　単元の目標
古代国家の崩壊と鎌倉幕府政権の成立の過程を理解し、武士の支配（封建制）について考察し、社会や経済の特色と合わせてその本質を理解する。鎌倉幕府の二元的支配の状況を考察し、その克服の過程を理解する。またその一方で二重支配を受ける農民の暮らしを理解し、農業の発達、商業の発達により貨幣経済が発達していったことを理解する。
単元の評価基準
■関心・意欲・態度
古代政権崩壊と武家政権の成立の過程及び、武家政権の本質についての関心と課題意識を高め、意欲的に追究している。
■思考・判断
古代政権崩壊と武家政権の成立の過程及び、武家政権の本質について課題を見いだし、武士の土地支配と公武関係について多面的・多角的に考察している。
■資料活用の技能・表現
古代政権崩壊と武家政権の成立の過程及び、武家政権の本質について文献や絵画などの諸資料を活用することを通して、歴史的事象を追究する方法を身に付けるとともに、追究し考察した過程や結果を適切に表現している。
■知識・理解
古代政..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　仏教文学概論　設題１（Ｂ判定）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74952/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kyokatt_912]]></author>
			<category><![CDATA[kyokatt_912の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Nov 2010 18:14:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74952/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/74952/" target="_blank"><img src="/docs/957236580345@hc09/74952/thmb.jpg?s=s&r=1290417285&t=n" border="0"></a><br /><br />「霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな（行基）」「かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな（婆羅門）」の贈答歌を解釈せよ。[243]<br />「霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな（行基）」「かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな（婆羅門）」の贈答歌を解釈せよ。
『拾遺和歌集』等に見られる印度僧菩提僊那（ボディセーナ、婆羅門僧正）と行基の贈答は、東大寺の大仏（毘盧遮那仏）開眼供養が執り行われた際の様を詠んだものとされる。
　この開眼供養の場面は、『東大寺大仏縁起』（東大寺蔵）に見ることができる。当然ながら、褐色の肌で表現された導師こそが菩提僊那、つまり婆羅門僧正であると判る。
　婆羅門僧正（七〇四～七六〇）はインド南部の生まれといわれ、諸経を研究した明晰な頭脳は、インド十六国にその名声を伝えたとされる。中国の五台山に祀られた文殊菩薩を慕って中国に渡ったところ、日本から来た遣唐使と会う。これが天平五（七三三）年のことである。僧正は大使・多治比真人広成と僧・理鏡等に要請され、林邑国（現ベトナム中部）の僧・仏徹、唐僧・道璿らと共に日本に渡った。 　幾度か東渡を試みて、僧正が漸く大宰府に着いたのが天平八年五月十八日である。それから東上し、難波に着いたのが同年八月八日。時の聖武天皇は勅を発し、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史概説　分冊１　日大通信　合格]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/]]></link>
			<author><![CDATA[ by acidblack]]></author>
			<category><![CDATA[acidblackの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 31 Aug 2010 22:22:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/" target="_blank"><img src="/docs/959269842037@hc09/70879/thmb.jpg?s=s&r=1283260971&t=n" border="0"></a><br /><br />※参考資料としてお使いください。[48]<br />律令国家から王朝国家体制への転換について述べる。律令国家は積極的に蝦夷支配をすすめ、多くの城柵が東北地方各地におかれた。支配に服した蝦夷の一部は俘囚として内地に送られ、逆に東国を中心とする内地の民が柵戸として移住させられ開墾にあたった。城柵では蝦夷に対する饗給も行われ、帰順をすすめた。こうした中央勢力との接触で蝦夷社会では急速な農耕化と階層分化がすすめ、内部には政治的支配層が生まれつつあった。蝦夷社会の支配をめぐり、成長しつつある在地勢力と中央勢力が正面衝突することとなった。唐が衰退し新羅との緊張がゆるむという国際関係の変化も、蝦夷に大規模な軍事力をふりむけることを可能にした。征夷軍は首長阿弓流為の軍に大敗するが、その後、坂之上田村麻呂が登用され、ようやく延暦二十一年、蝦夷社会の中心地である北上川中流域に胆沢城を築き、氾濫はほぼ鎮圧された。藤原緒嗣の進言によって、以後の征討は中止され、蝦夷の内民化がすすんだ。次に蔵人所の成立について述べる。八百十年、上皇が平城遷都をくわだてるにいたって、嵯峨は上皇側近の藤原仲成・薬子の兄弟を討ち、平城上皇は出家して皇権の分裂は解消された。以後、公的には..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【聖徳大学】日本国憲法　第１課題第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958965974420@hc09/70281/]]></link>
			<author><![CDATA[ by harukaruhahaha]]></author>
			<category><![CDATA[harukaruhahahaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 07 Aug 2010 03:25:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958965974420@hc09/70281/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958965974420@hc09/70281/" target="_blank"><img src="/docs/958965974420@hc09/70281/thmb.jpg?s=s&r=1281119123&t=n" border="0"></a><br /><br />課題：天皇の権能について説明しなさい。
評価：Ａ
講評：象徴としての天皇(象徴とは何か、象徴としての地位&hellip;）について、さらに説明する必要があるとのことでした。[233]<br />第１課題 第１設題
天皇の権能は、明治憲法下と現行憲法下とでは大きく異なる。大日本帝国憲法の時代は、天皇は主権者であり、「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する地位にあった。しかし1946年11月3日に発布された日本国憲法によって、それまでの日本における天皇の位置づけは180度転換する。国民主権を原則とする日本国憲法においては、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」と位置付けられたのだ。もともと大日本帝国憲法においても、天皇は統治面と象徴面との二面性を持っていたのだが、日本国憲法によって統治面が否定されたことによって、象徴面が前面に出てくることとなった。
象徴としての地位のみを持つこととなった天皇は、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[冠位十二階から律令官制への変遷]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958737723639@hc09/66291/]]></link>
			<author><![CDATA[ by burlfish]]></author>
			<category><![CDATA[burlfishの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 28 Apr 2010 19:49:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958737723639@hc09/66291/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958737723639@hc09/66291/" target="_blank"><img src="/docs/958737723639@hc09/66291/thmb.jpg?s=s&r=1272451792&t=n" border="0"></a><br /><br />「冠位十二階から律令官制への変遷」
はじめに　　
推古朝以前、大和王権が成立した５～６世紀の時代は、天皇（大君・大王）のもとに、最高位の執政官として大臣、大連が任ぜられ、大夫という官僚群を率いて行政を行っていた。大臣は臣という姓をもつ一族の代表という意味で、大連は連系族の代表者だったのである。
大臣に任ぜられた一族は葛城臣、蘇我臣、平群臣などで、これらの一族は共に武内宿禰を祖先と称する同族意識を持ち、大和盆地に本拠地をもつ豪族だった。これに対して大連は、大伴連、物部連から選ばれたのだが、大臣が葛城、蘇我、平群のごとく大和盆地の地名を冠して呼ばれていたのに対して伴・部などという伴造・部民そのものの名を氏としている。いずれも職業集団を率いて古くから天皇家に奉仕してきた豪族だった。
６世紀の終わりから７世紀代に入ると、中国では南北朝を統一した随が成立し、強大な統一中央集権国家が出現し、周辺国の一つであった日本も天皇を中心とした統一国家を志向するようになってきたのである。そしてこの動向を積極的に推進したのが、かの聖徳太子であった。聖徳太子は、このような時代背景の中、今までの世襲的、民族的な官僚..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇の権能について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66162/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bunntann]]></author>
			<category><![CDATA[bunntannの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 23 Apr 2010 07:59:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66162/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66162/" target="_blank"><img src="/docs/kmitukonoheya/66162/thmb.jpg?s=s&r=1271977160&t=n" border="0"></a><br /><br />通信教育のレポートです。あくまで参考にお願いします。一部変えただけや、そのまま写したりは、違反になり処罰の対象となります。天皇の権能について述べています。[231]<br />天皇の権能について
　天皇の権能について大日本帝国憲法と日本国憲法を歴史背景を交えながら比較し説明していく。その前に、権能とは、国家または地方公共団体の機関に法令上認められている能力をいい、権限や権利、あるいは権利の個々権能（使用・収益・処分）の意味にも使用される。
　本題であるが、大日本帝国憲法（明治憲法）が出来た歴史背景について述べる。当時、天皇主権体制の中央集権国家を目指していた明治政府は、伊藤を中心として憲法の調査研究をした結果、ドイツ系の憲法を参考にすることに決めた。その理由は、君主の力が強くて議会の力が弱い、つまり国民から選ばれた（民選）議会を認めながらも、その権限を大幅に制限した上で、中央集権政府と天皇の権力を最大限に発揮したいと考える政府の支配的考えにドイツ系の憲法が最も適していると判断したためである。そのため、出来上がった大日本帝国憲法では、天皇は主権者にして神聖不可侵の存在であり、強大な権限を有するものになっている。すなわち天皇大権というものがあり、大日本帝国憲法の規定で保障された天皇の政治上の権限があった。統治権の外に、国務大権、統帥大権、皇室大権に分類される。そ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[司法権の独立について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66161/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bunntann]]></author>
			<category><![CDATA[bunntannの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 23 Apr 2010 07:59:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66161/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kmitukonoheya/66161/" target="_blank"><img src="/docs/kmitukonoheya/66161/thmb.jpg?s=s&r=1271977160&t=n" border="0"></a><br /><br />通信教育のレポートです。あくまで参考にお願いします。一部変えただけや、そのまま写したりは、違反になり処罰の対象となります。司法権の独立について述べています。[234]<br />司法権の独立について
　権力がひとつの機関に集まりすぎると、権力が濫用されて国民の人権が侵される恐れがある。それを防ぐ考えとして、フランスの思想家モンテスキューが「法の精神」（１７４８年）の中で主張した三権分立論がある。国家の権力を区別して、それらを異なった機関に担当させ、相互に牽制させて国民の基本的権利を保障しようとする政治組織の原理で、一般には立法・行政・司法の三権に分けることから三権分立制と呼ばれている。日本においては、明治憲法下の司法権は、天皇主権の原理に立ち、天皇の大権を翼賛する機関であった（大日本帝国憲法５７条1項）ため司法権の独立は完全ではなかった。例えば、裁判も民事と刑事だけに限定されており、行政事件においては、これら通常裁判所のほかに、行政機関たる行政裁判所が設けられ、ここでその裁判が行われた。しかし、日本国憲法に変わってからは、国民主権の原理（日本国憲法前文、1条）に立ち、立法権を国会に（第４１条）、行政権を内閣に（第６５条）、司法権を裁判所に（第７６条）分属させ、三権分立の原理を実現している。司法権は、立法権・行政権と並んで、国家の機能のひとつであるが、立法府や行..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文学文化概説B1課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64674/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64674/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64674/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64674/thmb.jpg?s=s&r=1268408873&t=n" border="0"></a><br /><br />まず、九世紀文学文化の特色についてだが、九世紀は、七世紀に開始された遣唐使派遣が続いていたことからわかるように、唐文化がいまだ日本に影響を及ぼしていた時代である。九世紀の大半はそれが文学にも現れており、漢詩が盛んであった。嵯峨天皇の命による『凌雲集』、等の勅撰三集をはじめとして、空海の『性霊集』がその代表である。一方で、和歌は『続日本後紀』の中に散見するものの書物としては成立したものはない。このように、九世紀の大半においては、漢詩が文学の中心になっていた。その漢詩文化の中心を担っていたのが嵯峨天皇である。天皇は、朝廷において絶対の権威を持っていた。天皇は、『凌雲集』等に約百首の漢詩を残し、また三蹟の一人として名を残すなど文化人でもあり、その天皇が漢詩文化をリードしていたのである。
　しかし、九世紀の最後半になると、その状況に変化が起きる。和歌が再興してくるのである。要因としては、遣唐使派遣停止を象徴とする、唐文化の影響の衰退である。遣唐使派遣停止は寛平六年（八九四）のことであるが、それ以前からも約半世紀、遣唐使は派遣されておらず、少しずつ、唐文化の影響は薄れていた。その一方の国風と呼..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文学文化概説A１課題２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64673/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64673/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64673/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64673/thmb.jpg?s=s&r=1268408872&t=n" border="0"></a><br /><br />『万葉集』全二十巻の概略と一、二巻の配列上の特色についてであるが、まず、概略から述べる。『万葉集』は、一巻から十六巻の第一部と、十七巻から二十巻の第二部に分類することができる。第一部は、天平十六年（七四四）までの歌が収められ、相聞、挽歌、雑歌の部立がされており、すべてではないが年代順に配置されている。第二部は、冒頭部に第一部から洩れた天平十六年の四月に大伴家持が詠んだ歌など、三十二首を配置し、その後ろに天平十八年（七四六）の正月から天平宝字三年（七四六）の正月一日までの歌を部立せずに、年代順に収めている。また、第一部はさらに細かく分類することができ、一巻から六巻は、有間皇子事件などの歴史上の事件に関わる歌が多く収められるなど、「小万葉」と呼ばれ、『万葉集』の中核をなしている。七巻から十二巻は、それぞれ「柿本人麻呂家集」などの歌集から歌を集めて構成されている。また、歌の配列も年代というよりも、歌われた対象や、表現方法で分類されている。十三、十四巻は読み人知らずの歌を集めており、十五、十六巻は、物語性を全面に打ちだした歌が収められている。
　次に、一、二巻の配列の特徴として、五三番歌まで..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文学文化概説A1課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64672/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64672/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64672/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64672/thmb.jpg?s=s&r=1268408871&t=n" border="0"></a><br /><br />まず、大和政権成立以前の日本文化のあり方についてであるが、第一の特徴は、西日本の方が文化的な発展が早いという点である。例えば弥生式土器を見てみると、もっとも古い遠賀川式は北九州から瀬戸内海を経由して、伊勢湾にいたる地域で、中期のものでは、北九州で須玖式、近畿では櫛目式が、中部地方から関東にかけては、栗林式がそれぞれ発見されている。このように、北九州から近畿にかけての地域は中部以東に比べ、古い時期から弥生式土器が使用され、その種類も多様である。このような差異は、朝鮮半島との距離ということに由来する。当時は、中国を中心とする大陸が文化的に日本より発展しており、その文化が日本に流入することにより、古代日本は文化的に発展してきたからである。朝鮮半島のからの渡来人が北九州に上陸し、そこを基点として、東へと伝播していくという状態だったのである。
　また、青銅器の地域分布にも、この時代の文化的特徴が見られる。青銅器は縄文式土器と同様、朝鮮半島経由で日本に伝来したものである。伝来時期は紀元前二世紀といわれ、当初は武器として用いられていたが、後に祭祀用として用いられるようになる。その祭祀用青銅器が、北..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[作家作品研究上代課題４]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64667/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64667/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64667/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64667/thmb.jpg?s=s&r=1268408866&t=n" border="0"></a><br /><br />万葉集の時期区分であるが、古くは賀茂真淵の五区分説や、島木赤彦氏、西郷信綱氏等の三区分説等があるが、沢潟久孝氏、森本治吉氏等が提唱する四区分説がもっとも広く受け入れられている。そしてその四区分とは、①舒明天皇即位（六二九）から壬申の乱（六七二）まで四十四年間②壬申の乱から平城京遷都（七一〇）までの三十三年間③平城京遷都から聖武天平五年（七三三）までの二十四年間④天平五年から、天平宝字三年（七五九）までの二十七年間という時期区分となっている。
　次に各時期の特徴について述べたい。まず第一期であるが、二番歌「大和には　群山あれど　とりよろふ　天の香具山　登り立ち　国見をすれば　国原は　煙立つ立つ　海原は　鴎立つ立つ　うまし国ぞ　蜻蛉島　大和の国は」という歌から特徴を見ていく。まず、国見という行為は天皇の農耕予祝儀礼であり、そこにまず呪術性が見られる。そして、天皇個人としてではなく集団の代表として国見を行なうわけであり、それを歌にするという集団性も見られ、国原、海原という土と水という自然の根本を見て、それにより大和国を賛美するという自然との融合もみられるのである。この時期の特徴として挙げら..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[作家作品研究上代課題３]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64666/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64666/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64666/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64666/thmb.jpg?s=s&r=1268408865&t=n" border="0"></a><br /><br />『日本書紀』記述から、有間皇子の変についてみてみたい。ことのきっかけは斉明天皇が牟髏の湯に行幸に出、その留守官を任された蘇我赤兄の讒言による。赤兄は皇子に大きな倉を建て民衆の財産を集めた。莫大な費用を使い長い水路を造った。船で石を運び丘を造った。という三点を天皇の失政として皇子に語った。すると皇子は赤兄が自分に味方してくれると思い、我が人生で始めて兵を用いるときがきた。と答えている。皇子はこの時点で謀反を決意したことになる。少し判断が早過ぎないだろうか。翌々日に、赤兄の家を訪ね楼で話合いをするのであるが、決意表明はその時でもよかったはずである。十九歳だったとはいえ、聡明であったと評される皇子にしては安直すぎるようである。そしてその夜に赤兄に裏切られ、自邸で寝ているところを捕らえられ、行幸先の牟髏の湯に送られる。そこで、中大兄皇子の問いに対し皇子は、天と赤兄だけが知っている。自分は何も知らない。と答えている。中大兄皇子は皇子を送り返すが、途中丹比小沢連国襲という人物に皇子を殺害させてしまう。その他にも処分された人々がいたが、赤兄に対する処罰は記載されていない。おそらく無罪とされたのであ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[作家作品研究上代課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64664/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kosino]]></author>
			<category><![CDATA[kosinoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 00:47:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64664/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958976010830@hc09/64664/" target="_blank"><img src="/docs/958976010830@hc09/64664/thmb.jpg?s=s&r=1268408863&t=n" border="0"></a><br /><br />『古事記』と『日本書紀』におけるヤマト
タケルと父の景行天皇との関係の相違を中心
にこの課題について考えてみたい。『古事記』
では征西の場面で、小碓命（ヤマトタケル）
が天皇に兄の大碓命の説得を命じられたが、
捕まえ手足をちぎり、こもに詰めてしまう。
このことから天皇はヤマトタケルの性格が荒
いことを恐れ、遠ざける様に、熊曽討伐に送
り出している。そして、帰還に際しては特に
記述はない。一方『日本書紀』においては、
十六歳のヤマトタケルを熊曽征伐に派遣する
とだけ、記述され、兄を殺害したという説話
は出ていない。さらに天皇は、ヤマトタケル
を征伐に派遣する前に、熊曽討伐を行なって
いる。そして、天皇はヤマトタケルの功績を
褒め、寵愛したとなっている。
　次に東征の場面であるが、『古事記』では、熊曽、出雲建の討伐を終え、帰還してすぐ、ヤマトタケルに東国十二道の平定を命じる。ヤマトタケルは、伊勢神宮で斎王をしていた叔母の倭姫命に天皇は私が死ぬことを望んでおられる。と泣いて訴えながら出征していく。一方『日本書紀』では、東征の指揮者にヤマトタケルは兄を推薦するが、兄は戦場を恐れ、逃げてしまう..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959057041094@hc09/62759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by underMt1110]]></author>
			<category><![CDATA[underMt1110の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Jan 2010 10:04:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959057041094@hc09/62759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959057041094@hc09/62759/" target="_blank"><img src="/docs/959057041094@hc09/62759/thmb.jpg?s=s&r=1264554261&t=n" border="0"></a><br /><br />奈良時代の仏教の特質を論ぜよ。
　聖徳太子によって基礎付けられた仏教は、その後諸大寺の建立と留学僧の帰朝による諸宗の招来によって、躍進的な発展を遂げた。奈良時代に伝来した諸宗を総括して奈良の六宗と称する。六宗とは華厳、法相、三論、律、倶舎、成実である。
三論と成実の二宗はともに空宗であって、その伝来は中国においても日本においても同時に行われている。わが国への伝来は、古来慧灌、智蔵をもって第一伝、第二伝としている。慧灌は元興寺に住して三論を弘めた。智蔵は慧灌に就いて学び、法隆寺においてその教を弘めた。その門下に道慈がいる。道慈は入唐し、吉蔵の法孫元康から三論の秘奥を受け、また善無畏に密教を学び、大安寺において三論を布した。以上のごとく、智蔵は慧灌に、道慈は智蔵について各三論の教えを受けたが、さらに中国に渡って伝えるところがあったため、慧灌を第一伝、智蔵を第二伝、道慈を第三伝といい、わが国の三論を三伝という。智光、礼光は三論の学者であると同時に浄土宗の願生者としても知られている。智光の浄土帰入の因縁を伝えるものは『日本往生極楽記』などであって、礼光が晩年言語を絶して観想を凝らすこと数年に及..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安京]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59843/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ainha]]></author>
			<category><![CDATA[ainhaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Nov 2009 22:48:04 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59843/" target="_blank"><img src="/docs/957534289179@hc09/59843/thmb.jpg?s=s&r=1259329684&t=n" border="0"></a><br /><br />平安京遷都
平安京地理的背景歴史的背景[56]<br />平安京　７９４年　桓武天皇
歴史的背景
平城京は寺院勢力が政治に介入し政治が乱れていた。桓武天皇は政治と仏教勢力との決別を図り、政治再建のため794年山背国葛野、愛宕両郡の地につくられた平安京に遷都した。
平安京遷都の背景を語る前に平安京遷都にいたる遷都の経緯を説明する。784年（延暦3年）桓武天皇は平城京から長岡京への遷都した。これは桓武天皇が天智系の天皇であり、天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。また、長岡の地は桓武天皇の実母の実家に近く、ゆかりのある地であった。しかし長岡京造営責任者であった藤原種継が暗殺され(785年)、その後天皇家に不幸が続き、呪われた都といわれ、遷都から僅か9年後の793年（延暦12年）の1月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言した。
平安京への遷都を天皇に建議したのは和気清麻呂である。平安京造営伝説によれば、和気清麻呂が狩りに際して天皇を東山にお連れし、高台から三方の囲まれた盆地を指し示せば、遷都の場所が決定し、また山が城をなすような地形から、この地「山背(やましろ)の国」..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[源義経の生涯]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960229036775@hc09/59820/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gzvr89k_t]]></author>
			<category><![CDATA[gzvr89k_tの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Nov 2009 18:37:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960229036775@hc09/59820/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960229036775@hc09/59820/" target="_blank"><img src="/docs/960229036775@hc09/59820/thmb.jpg?s=s&r=1259314676&t=n" border="0"></a><br /><br />源義経の生涯
１１５９年源義朝の９男として生まれました。幼少のころは、牛若丸という名前だった。 この年の１２月に平治の乱が起こる。
保元の乱により溝を深めた後白河上皇の近臣達の争いと、源氏・平氏両家の対立が結びつき勃発した争乱。平清盛 が熊野山詣のため京を留守にしている隙をついて、藤原信頼と源義朝が挙兵。後白河院と二条天皇を幽閉し、クーデターは成功したかに見えたが、義朝挙兵の話を聞きつけた清盛が急ぎ熊野から帰京し、後白河院と二条天皇を救出。更に清盛は義朝追討の院宣を受け、内裏を占拠する義朝軍に攻撃を仕掛け、源氏軍を追い出す。拠り所を失った義朝は平氏の本拠地である六波羅に攻め入るが、激しい合戦の末に惨敗。源氏の敗北後、信頼は仁和寺に逃げ込み助けを請うも許されず、六条河原にて斬首。義朝は敗走中に家人の手にかかり殺されてしまう。この平治の乱により源氏は衰退し、平氏全盛の時代が訪れるのであった。義朝の息子・頼朝は助命され伊豆へ配流、義経 は将来僧になる約束で鞍馬寺へと預けられる。
１１７４年鞍馬寺からにげ出し、奥州平泉の藤原秀衡のもとにいく。近江・鏡の宿で元服、名を「源九郎義経」とする。
その..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[万葉集]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59532/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ainha]]></author>
			<category><![CDATA[ainhaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 22:43:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59532/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957534289179@hc09/59532/" target="_blank"><img src="/docs/957534289179@hc09/59532/thmb.jpg?s=s&r=1258983826&t=n" border="0"></a><br /><br />大伯皇女及び有間皇子の和歌の鑑賞[48]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[戦争体験者による戦前の教育の象徴とされるものの思い出について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59435/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zenimaru]]></author>
			<category><![CDATA[zenimaruの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 10:41:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59435/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59435/" target="_blank"><img src="/docs/957586691839@hc09/59435/thmb.jpg?s=s&r=1258940515&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　今回、この課題を作成するに当たり母方の祖父に話を聞いた。祖父は今年75歳。東京に一人暮らしである。祖父は二十歳過ぎに徴兵され満州に技術者として送られた。もともと祖父は、ラジオやテレビに関する物書きの仕事をしており、その知識と技[352]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇「元首」論批判についての感想]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59403/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zenimaru]]></author>
			<category><![CDATA[zenimaruの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 10:41:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59403/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59403/" target="_blank"><img src="/docs/957586691839@hc09/59403/thmb.jpg?s=s&r=1258940470&t=n" border="0"></a><br /><br />天皇を「元首」として扱おうと策を巡らす前に、私は、｢天皇とはなんなのか？」ということについて、その根本から考え直すべきだと思っている。それには、我々日本人は何時の時代から天皇家の支配下に置かれたかを知ることが大切とは言うものの、その天皇家の[360]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59033/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sgw5k]]></author>
			<category><![CDATA[sgw5kの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 16 Nov 2009 23:14:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59033/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958446455597@hc09/59033/" target="_blank"><img src="/docs/958446455597@hc09/59033/thmb.jpg?s=s&r=1258380897&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本法制史　律令国家の行政機構]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959040017808@hc09/58545/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ikkhsy1979]]></author>
			<category><![CDATA[ikkhsy1979の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 13 Nov 2009 12:51:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959040017808@hc09/58545/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959040017808@hc09/58545/" target="_blank"><img src="/docs/959040017808@hc09/58545/thmb.jpg?s=s&r=1258084289&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法第九条の成立過程]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/58923/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 13:03:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/58923/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/58923/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/58923/thmb.jpg?s=s&r=1258257780&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ゼミレポート「森首相」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431157801@hc06/57926/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kibayashi]]></author>
			<category><![CDATA[kibayashiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 09 Nov 2009 10:13:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431157801@hc06/57926/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431157801@hc06/57926/" target="_blank"><img src="/docs/983431157801@hc06/57926/thmb.jpg?s=s&r=1257729235&t=n" border="0"></a><br /><br />「森内閣」についてまとめた。[42]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文化論　設題１・紀貫之の作品と生涯について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958149952954@hc09/57497/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 910kyuto]]></author>
			<category><![CDATA[910kyutoの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 06 Nov 2009 17:05:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958149952954@hc09/57497/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958149952954@hc09/57497/" target="_blank"><img src="/docs/958149952954@hc09/57497/thmb.jpg?s=s&r=1257494703&t=n" border="0"></a><br /><br />設題１．紀貫之の作品と生涯を述べなさい
（１）	紀貫之の生涯
紀貫之は蔵人望行の子として貞観年代に生まれる。和歌のほか書道にも優れていた。８９３年（寛平五）９月、菅原道真が「新撰万葉集」を撰進。「新撰万葉集」に作品が載る。この年ころまで[350]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史　第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:37:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56693/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56693/thmb.jpg?s=s&r=1256481464&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:37:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56692/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56692/thmb.jpg?s=s&r=1256481462&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『昭和天皇』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960826561932@hc08/56389/]]></link>
			<author><![CDATA[ by よもぎだ]]></author>
			<category><![CDATA[よもぎだの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Oct 2009 20:04:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960826561932@hc08/56389/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960826561932@hc08/56389/" target="_blank"><img src="/docs/960826561932@hc08/56389/thmb.jpg?s=s&r=1255777498&t=n" border="0"></a><br /><br />『昭和天皇』を読んで
　1986年11月23日、昭和天皇は、宮中祭祀の一つ、新嘗祭に出席した。御年85歳の昭和天皇にとって、この祭祀に出席することは体力的にも非常に困難を要するものである。それにもかかわらず、天皇は宮中祭祀にこだわり続けた[336]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[法学概論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/56061/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gensuke]]></author>
			<category><![CDATA[gensukeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Oct 2009 00:36:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/56061/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/56061/" target="_blank"><img src="/docs/958138276142@hc09/56061/thmb.jpg?s=s&r=1254843391&t=n" border="0"></a><br /><br />法学概論

・平和主義
・天皇象徴制
・刑事手続きと人身の自由
・経済的自由と社会権
・信教の自由
・行政法の基本原理

上記の事柄それぞれについて250～1000字程度でまとめました。[256]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歌物語について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zbf32097]]></author>
			<category><![CDATA[zbf32097の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 29 Sep 2009 22:55:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959541612001@hc09/55774/" target="_blank"><img src="/docs/959541612001@hc09/55774/thmb.jpg?s=s&r=1254232504&t=n" border="0"></a><br /><br />※設題１　歌物語について、代表的な作品をあげて具体的に述べよ。
　まず最初に、歌物語で代表的なものに「伊勢物語」が挙げられる。成立時期に諸説があるが、おおむね（平安時代初期）だとされる。その一部に、「万葉集」の「左注」や、「古今和歌集」など[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[憲法論　象徴天皇制 　リポート評価【A】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54755/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 7034]]></author>
			<category><![CDATA[7034の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 09:54:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54755/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54755/" target="_blank"><img src="/docs/958743720306@hc09/54755/thmb.jpg?s=s&r=1251852843&t=n" border="0"></a><br /><br />日本国憲法では、第１条において「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と規定を置いている。これは天皇制が戦前の大日本帝国憲法の第１条である「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあ[360]<br />　日本国憲法では、第１条において「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と規定を置いている。これは天皇制が戦前の大日本帝国憲法の第１条である「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように天皇主権から新憲法の国民主権へと移行したことが理解できる。
終戦直後、新憲法を制定するに当たり、天皇制をどのように扱うかが大きな問題であり、扱い方によっては日本の国民感情に触れてしまい大変な結果をまねいてしまう状態も予想することができた。天皇主権であった戦前の日本を国民主権である民主政治に変えようとするのは、戦争で日本を占領したアメリカである。
アメリカは天皇から政治的な権限を与えないようにし、形式的、儀式的な国事を行わせる事に限定した。天皇制度の廃止という極論は、今後の戦後日本復興において有益ではないと考え存続させた。天皇制を存続させるにあたり、また戦前のような天皇主権にならないように、あくまで国民主権が基本にある天皇制という位置づけを日本国憲法第１条から読み取ることができる。
では、政治的な権限を失い、国事行為を行うことに限定した天皇制..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本仏教史１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959784554071@hc09/53675/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ganpon]]></author>
			<category><![CDATA[ganponの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 09 Aug 2009 02:40:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959784554071@hc09/53675/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959784554071@hc09/53675/" target="_blank"><img src="/docs/959784554071@hc09/53675/thmb.jpg?s=s&r=1249753249&t=n" border="0"></a><br /><br />奈良時代の仏教の特質を論ぜよ
　　いわゆる奈良仏教というものは、飛鳥・白鳳時代から奈良時代にかけて発展を遂げたものであり、聖徳太子の思想をうけ、鎮護国家の経説・儀礼として栄えたものである。
　　さて、この鎮護国家というのは，仏教によって[352]<br />奈良時代の仏教の特質を論ぜよ
　　いわゆる奈良仏教というものは、飛鳥・白鳳時代から奈良時代にかけて発展を遂げたものであり、聖徳太子の思想をうけ、鎮護国家の経説・儀礼として栄えたものである。
　　さて、この鎮護国家というのは，仏教によって国家を鎮め護ることを指すのであるが、例えば、『仁王経』『金光明経』『法華経』という経典には、これらの経典を受持する国家は災厄を免れ、繁栄すると説かれているのである。国家から官人に準じる身分的特権を与えられた官僧・官尼は、こういった鎮護国家の教説の研究をしたり、鎮護国家の儀礼の際には経典を読誦すること、病気治療などの呪術に従事したりすることが義務づけられていたようだ。官僧・官尼は，聖武天皇が国ごとに建立した国分（僧）寺・国分尼寺という寺院に配属された。そこで、『金光明経』 『法華経』などの鎮護国家のためのお経を読誦した。また聖武天皇は、東大寺に（毘）盧遮那仏（「びるしゃな」ってのは梵語で太陽のこと）の大きな金銅大仏像を造立した。一般に言う奈良の大仏である。ちなみに現在重要文化財クラス以上の建物で最大のモノが東大寺である。
　　さて、この時代で最も有名な僧侶..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の大国化とネオ・ナショナリズム]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53391/]]></link>
			<author><![CDATA[ by camsa10]]></author>
			<category><![CDATA[camsa10の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 02 Aug 2009 00:42:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53391/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53391/" target="_blank"><img src="/docs/958518609389@hc09/53391/thmb.jpg?s=s&r=1249141378&t=n" border="0"></a><br /><br />経済のグローバル化が加速する現在、日本では新自由主義改革とともに軍事大国化が並行して進められている。それに伴い、国内ではそれを推進、正当化するイデオロギーとしての新たなナショナリズムが台頭し、隆盛を見るに至っている。以下では、ネオ・ナショナ[360]<br />経済のグローバル化が加速する現在、日本では新自由主義改革とともに軍事大国化が並行して進められている。それに伴い、国内ではそれを推進、正当化するイデオロギーとしての新たなナショナリズムが台頭し、隆盛を見るに至っている。以下では、ネオ・ナショナリズムの成立の背景と、その性格について検討する。そして戦後ナショナリズムの特殊性に着目した上で、今後のパースペクティブについても考えてみたい。
1, 日本の軍事大国化とネオ・ナショナリズムの台頭
　冷戦が終結し経済のグローバル化が本格的に進行し始めた90年代から、日本の軍事大国化の要求が出始めたが、これには内外からの二つの側面があった。
まず一つ目は、アメリカからの要求である。経済のグローバル化に伴い、世界中に市場を求め資本主義の拡大を目指すアメリカは、市場秩序の安定・安全を乱す国に対し、武力鎮圧も辞さない「世界の警察官」の性格を強めていた。中東、東アジアで政治的不安定が続く中、世界第二の経済大国である日本も、その役割を分担することを要求されるようになったのだ。そして二つ目は、国内の財界からの要求である。海外進出する企業にとって、進出先の政治的安定は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[江戸幕府の確立]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/52923/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 23 Jul 2009 21:20:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/52923/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/52923/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/52923/thmb.jpg?s=s&r=1248351607&t=n" border="0"></a><br /><br />江戸幕府の確立
　豊臣秀吉の死後、豊臣政権の内部においては、行政面で活躍した石田三成ら文吏派と、軍事面で活躍した武断派が激しく対立するようになった。[221]<br />江戸幕府の確立
　豊臣秀吉の死後、豊臣政権の内部においては、行政面で活躍した石田三成ら文吏派と、軍事面で活躍した武断派が激しく対立するようになった。徳川家康は、五大老の筆頭の地位にあって武断派と手を組みながら、政局の主導権を握っていった。1600年の関ヶ原の戦いで西軍に勝利した家康は、戦後処理として多くの西軍大名を減封・改易に処することによって膨大な領地を没収し、一方で多くの親藩・譜代を創出して、徳川氏による支配の基礎を固めた。その後家康は、全国の諸大名を直接指揮するために、武家の棟梁の地位を表す征夷大将軍の職に任ぜられ、江戸幕府を開いた。開幕後、家康は在職わずか2年余りで将軍職を徳川秀忠に譲..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[三島由紀夫　英霊の聲]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51223/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 1010323]]></author>
			<category><![CDATA[1010323の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Jun 2009 22:38:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51223/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51223/" target="_blank"><img src="/docs/960205412501@hc09/51223/thmb.jpg?s=s&r=1245073114&t=n" border="0"></a><br /><br />三島由紀夫に関するレポート　
『英霊の聲』　　　　　
　三島由紀夫について読んだのは今回のこの『英霊の聲』が初めてであった。擬古文であったので、読みにくさを感じたが、三島の想いというものを感じた。それは「青年将校と天皇」に対しての感情で[352]<br />三島由紀夫に関するレポート　
『英霊の聲』　　　　　
　三島由紀夫について読んだのは今回のこの『英霊の聲』が初めてであった。擬古文であったので、読みにくさを感じたが、三島の想いというものを感じた。それは「青年将校と天皇」に対しての感情である。この話は一般的に二・二六事件の主犯格だった磯部浅一一等主計が霊として降りてきて語るというものであるが、その磯辺は三島から「事件の体現者」と扱われていた。逆臣として銃殺された執念に満ちている青年将校の挫折と失意をうまく表現していると感じた。
初めて授業でこの小説を聞いたときは社会と人を憂えている人の言葉であると感じた。実際にこの小説を読んでみるとそれに近いものであり、霊の天皇に対する気持ちが述べられていた。その中で特に注目したところは、「喜びと至福の死」である。簡単に言ってしまえば、神（天皇）によって処刑されることが最高の幸福であり、それによってその人は「天皇と一体に」なることができるというものだ。彼らにはそうして死ぬ瞬間が最も天皇に近づくことができるのである。５２２頁（すべて三島由紀夫全集１７巻の頁数に従う）には「いひしれぬ怒りと嘆き」、５２５頁に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[硫黄島からの手紙]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51185/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 1010323]]></author>
			<category><![CDATA[1010323の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Jun 2009 21:23:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51185/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960205412501@hc09/51185/" target="_blank"><img src="/docs/960205412501@hc09/51185/thmb.jpg?s=s&r=1245068601&t=n" border="0"></a><br /><br />『硫黄島からの手紙』の感想　　
今回初めて「硫黄島からの手紙」を見た。まず抱いた感想は少なくとも『父親たちの星条旗』よりは印象的で、内容もある映画だったと思う。特に渡辺謙さんが演じる栗林忠道中将のこの映画の中で描かれている人柄には素直に感激[358]<br />『硫黄島からの手紙』の感想　　
今回初めて「硫黄島からの手紙」を見た。まず抱いた感想は少なくとも『父親たちの星条旗』よりは印象的で、内容もある映画だったと思う。特に渡辺謙さんが演じる栗林忠道中将のこの映画の中で描かれている人柄には素直に感激した。部下を思いやる気持ち、そして自らの毅然とした態度などまさに彼こそ&lsquo;上官&rsquo;とも呼べるリーダーであったと感じた。フランスの言葉、ノーブレスオブリージュが頭に浮かんできた。彼はそれに値する人間だと感心した。だが、もちろんこの作品をベタ褒めするわけでもない。いわゆる&ldquo;普通の&rdquo;外国人がこの作品を見たら、どう感じるであろうか。何についてかというと、それはここで描かれている日本軍、または日本人に対してである。憲兵・千人針・自決等々日本独自のものがかなりあった。もしかしたら外国人であってもこういったものはすでにある程度知られていることで、私が必要以上に気にしすぎてきるのかもしれない。または多少難しいことでも取り入れることや、ありのままに現実をなるべく伝えるために、あえて取り入れたのかもしれない。いずれにせよ、あの時代の日本独自の制度・様子・態度などはかなり特殊..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[有間皇子挽歌卒論１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45492/]]></link>
			<author><![CDATA[ by GON]]></author>
			<category><![CDATA[GONの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Apr 2009 13:06:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45492/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45492/" target="_blank"><img src="/docs/961984758246@hc08/45492/thmb.jpg?s=s&r=1240373198&t=n" border="0"></a><br /><br />序有間皇子自傷歌は、実作か仮託かの問題を中心に、歌の内部にあっても、一四一番歌では「ま幸くあらばまたかへり見む」の表現に、悲劇性を見出だすことができるか否か、また一四二番歌では「椎の葉に盛る」の表現が食事を示すか、あるいは神饌かというよう[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[有間皇子挽歌卒論２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45493/]]></link>
			<author><![CDATA[ by GON]]></author>
			<category><![CDATA[GONの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Apr 2009 13:06:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45493/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961984758246@hc08/45493/" target="_blank"><img src="/docs/961984758246@hc08/45493/thmb.jpg?s=s&r=1240373199&t=n" border="0"></a><br /><br />第二章　自傷歌の検討
　　　　　ⅰ　松結びの持つ意味
　『万葉集』中、「松」が詠まれた歌は八十首ほどにのぼり、樹木の類では萩の一四二首、黄葉(「もみづ」の動詞形を含む)の百余首、梅の一一九首に次ぐ。これは古代人にとって松が非常に近しい存在で[352]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本人の神観について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959750168356@hc09/38090/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lebendig]]></author>
			<category><![CDATA[lebendigの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Mar 2009 06:26:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959750168356@hc09/38090/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959750168356@hc09/38090/" target="_blank"><img src="/docs/959750168356@hc09/38090/thmb.jpg?s=s&r=1236979593&t=n" border="0"></a><br /><br />「日本」の語が用いられた現存最古の文献は『日本書紀』である。勅命によって編纂されたこの歴史書は、民族の原初の意識をよく記録している。また、ほぼ同時期にやはり勅命によって編纂された歴史書には、『古事記』があるが、これらの歴史書が編纂される以前[360]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[象徴天皇制]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959861162348@hc09/37461/]]></link>
			<author><![CDATA[ by musameron]]></author>
			<category><![CDATA[musameronの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 15:18:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959861162348@hc09/37461/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959861162348@hc09/37461/" target="_blank"><img src="/docs/959861162348@hc09/37461/thmb.jpg?s=s&r=1235715513&t=n" border="0"></a><br /><br />「象徴」の意味を調べてみると、抽象的な観念や事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと、シンボルと辞書に書かれています。平和の象徴は鳩というように、天皇は日本の国を表すシンボルなのです。7世紀ごろの大和朝廷から始まったとされる[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本は甘えのある社会である]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959947210592@hc09/36672/]]></link>
			<author><![CDATA[ by saki3221]]></author>
			<category><![CDATA[saki3221の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 Feb 2009 15:43:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959947210592@hc09/36672/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959947210592@hc09/36672/" target="_blank"><img src="/docs/959947210592@hc09/36672/thmb.jpg?s=s&r=1234853003&t=n" border="0"></a><br /><br />西修の憲法論の特徴は９条の解釈、自衛隊、憲法の成立、天皇の継承などがある。
９条は制定者の意思が十分に解明されていない点が多く解釈が複数存在することになってしまった。①全戦全戦力放棄説２戦争違憲自衛行動合憲説３自衛戦争自衛戦力合憲説４政府[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[聖徳大学　日本国憲法　第1課題 　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960843683216@hc08/36376/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ma-mare-do]]></author>
			<category><![CDATA[ma-mare-doの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Feb 2009 22:57:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960843683216@hc08/36376/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960843683216@hc08/36376/" target="_blank"><img src="/docs/960843683216@hc08/36376/thmb.jpg?s=s&r=1234360655&t=n" border="0"></a><br /><br />第1課題　第1設題 天皇の権能について
天皇号が成立したのは天武朝以降であるという見解が有力である。時を重ね、明治憲法下において天皇は統治権の総攬者であって、日本国憲法においては国の象徴としての地位のみをもつこととなった。現行憲法第４条に[350]<br />第1課題　第1設題
天皇号が成立したのは天武朝以降であるという見解が有力である。時を重ね、明治憲法下において天皇は統治権の総攬者であって、日本国憲法においては国の象徴としての地位のみをもつこととなった。現行憲法第４条には『天皇は，この憲法の定める国事に関する行為のみを行い，国政に関する権能を有しない』とある。つまり天皇の行為は、形式的・儀礼的なものに限られるということである。言い換えれば単に憲法に掲げられた国事に関する行為のみを行うに過ぎないということになる。
国事行為とその政治的意味については憲法第６，７条には次のような国事行為が定められている。
1，国会の指名に基く 内閣総理大臣の任命(憲法6条1項)
2，内閣の指名に基く 最高裁判所の長たる裁判官の任命(憲法第6条2項)
3，憲法改正・法律・政令および条約の公布(憲法第7条1項1 号)
4，国会の召集(憲法第7条2号)
5，衆議院の解散(憲法第7 条3号)
6，国会議員の総選挙施行の公示(憲法第7 条4項)
7，国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(憲法7条5号)
8，恩赦 特赦..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[靖国問題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35703/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kant4850]]></author>
			<category><![CDATA[kant4850の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 30 Jan 2009 15:41:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35703/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35703/" target="_blank"><img src="/docs/960618176802@hc08/35703/thmb.jpg?s=s&r=1233297702&t=n" border="0"></a><br /><br />靖国神社問題
　現在、世界中で靖国問題について、強く日本を問い詰めた。何故当時の日本政府の侵略戦争をしたのか。当時の旧植民地からの思惑にも及ぼした。また、現在の首相靖国参拝問題にも波及した為、この靖国問題について、考察している。
　靖国神社[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国際関係と日本外交政策の進行]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35706/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kant4850]]></author>
			<category><![CDATA[kant4850の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 30 Jan 2009 15:41:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35706/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/35706/" target="_blank"><img src="/docs/960618176802@hc08/35706/thmb.jpg?s=s&r=1233297705&t=n" border="0"></a><br /><br />国際関係と日本の政冶外交
政冶外交における「戦後」
冷戦時期米ソ2つ超大国同士間が政冶の役割かなり占められたが、多極化が誕生後軍事力依然として米ソ核大国に占められた。
米国が少々下降気味、ソ連は崩壊後少々増大傾向になった。
冷戦期と言う戦後[350]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[政治学概論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/31109/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kant4850]]></author>
			<category><![CDATA[kant4850の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 02 Dec 2008 00:38:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/31109/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960618176802@hc08/31109/" target="_blank"><img src="/docs/960618176802@hc08/31109/thmb.jpg?s=s&r=1228145891&t=n" border="0"></a><br /><br />政治学概論
　憲法は一つの国として、国民の権利と義務を定めた法律である。それに、世界中さまざまな国の憲法は実質的な効力があるといわれる。しかし、昔から近代にかけて、憲法が定めた国いっぱいあったのに、実際憲法の中で、民主主義という概念と思想を[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[政治と社会 天皇の人間宣言にみる日本の近代化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/20424/]]></link>
			<author><![CDATA[ by left]]></author>
			<category><![CDATA[leftの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Mar 2008 23:28:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/20424/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962877421286@hc08/20424/" target="_blank"><img src="/docs/962877421286@hc08/20424/thmb.jpg?s=s&r=1205591316&t=n" border="0"></a><br /><br />政治と社会
天皇の人間宣言にみる日本の近代化
　私は戦後占領期における事象として、1946年1月の、天皇の神格否定の詔書、いわゆる、天皇の人間宣言をあげたい。これは天皇が国民にむかって、みずからの神格性を否定し、誤った観念をもたないよう[342]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本国憲法第九条の研究]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19328/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 07:42:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19328/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/19328/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/19328/thmb.jpg?s=s&r=1202683342&t=n" border="0"></a><br /><br />日本国憲法第九条の研究
　
日本国憲法の歴史的視点からの研究に限定し、研究史をまとめてみたいと思う。
まず制定過程に関しては、政府側の当事者の佐藤達夫の研究書『日本国憲法成立史』第一巻、二巻(有斐閣、1962年・64年)、著者没後に砂糖功が[338]<br />日本国憲法第九条の研究
　
日本国憲法の歴史的視点からの研究に限定し、研究史をまとめてみたいと思う。
まず制定過程に関しては、政府側の当事者の佐藤達夫の研究書『日本国憲法成立史』第一巻、二巻(有斐閣、1962年・64年)、著者没後に砂糖功が補訂をつけた第三巻、四巻(有斐閣、94年)や、古関彰一『新憲法の誕生』(中央公論社、1994年)が全過程を扱っている。
GHQ側で中心的役割を果したラウエルの文書を翻訳し、解説をつけたのが、高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』Ⅰ･Ⅱ(有斐閣、1972年)である。
つぎに憲法制定過程においてGHQによる｢押しつけ｣があったか否かが、改憲論とも関わり、最大の争点になった。｢押しつけ｣の立場からは、江藤淳『1946年憲法―その拘束』(文藝春秋、1980年)、西修『日本国憲法の誕生を検証する』(学陽書房、1986年)などがその代表的研究である。しかし、GHQ案の政府への手交、日本案の協議などの場面で手続的押しつけがあった事実は、もはや争いはなく、最近はむしろ制定過程の全体像、あるいは他の側面の実証研究に移っている。
　平和主義をうたった憲..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 女帝の意義]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431317101@hc05/6475/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kingyo]]></author>
			<category><![CDATA[kingyoの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2006 15:09:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431317101@hc05/6475/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431317101@hc05/6475/" target="_blank"><img src="/docs/983431317101@hc05/6475/thmb.jpg?s=s&r=1139465348&t=n" border="0"></a><br /><br />　日本の歴史の中で女性が集中的に天皇の位についた時代がある。6世紀の終わり飛鳥時代から、奈良時代中期までの二百年の間で、推古・皇極（斉明）・持統・元明・元正・孝謙（称徳）の八代六人を数える。
　これは女性の社会的地位が高く皇位継承にも男と[354]<br />女帝の意義
日本の歴史の中で女性が集中的に天皇の位についた時代がある。6世紀の終わり飛鳥時代から、奈良時代中期までの二百年の間で、推古・皇極（斉明）・持統・元明・元正・孝謙（称徳）の八代六人を数える。
これは女性の社会的地位が高く皇位継承にも男と同等の権利を持っていたというのではなく、生産から遊離してしまった上層階級では女性の地位は崩れ行きつつあり、政略の犠牲となることも少なくなかった。
この時代に相次いだ女帝を見てみると、彼女らは元来皇后や妃であったのが特徴で、夫である天皇の崩御後、皇位継承候補者間やそれに結びつく豪族間の勢力を中和させる必要がある場合、あるいは男系の皇位継承者が幼少その他す..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の天皇制　女性天皇は誕生するのか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431243201@hc06/5595/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suseryna]]></author>
			<category><![CDATA[suserynaの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 Jan 2006 13:06:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431243201@hc06/5595/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431243201@hc06/5595/" target="_blank"><img src="/docs/983431243201@hc06/5595/thmb.jpg?s=s&r=1137816412&t=n" border="0"></a><br /><br />　日本政府は、女性・女系天皇を認める「皇室典範」改正案を今月20日から始まる通常国会に提出することにした。日本の皇室では1965年に天皇の次男が誕生して以来、40年間も男子が生まれていない。このままだと継承者がいなくなるという危機感が広まり[344]<br />日本の天皇制―女性天皇は誕生するのか―
日本政府は、女性・女系天皇を認める「皇室典範」改正案を今月20日から始まる通常国会に提出することにした。日本の皇室では1965年に天皇の次男が誕生して以来、40年間も男子が生まれていない。このままだと継承者がいなくなるという危機感が広まり、又愛子皇女が幼稚園に通う年齢になったことも考慮され、異例なまでの早さでの決定に至った。今回の天皇の後継者問題で女性天皇が誕生する可能性が急浮上したが、国内では様々な意見が飛び交っている。男性天皇しか認めないのは、女性差別撤廃に反するという意見や、女性でも男性でも違いはないなどといった意見が多く、世論の過半数以上が女性天皇に賛成している。雅子様の体調が優れない状態が続いているのも、男子を産まなければならないというプレッシャーからきているのではないかと心配の声もそれに続いている。一方、寛仁親王殿下は現在の男系維持のためには女系天皇容認だけでなく、旧皇族の復帰など様々な選択があることを認識し、今すぐ決める必要はないと批判の発言をした事がわかった。寛仁様は皇室の伝統は神話の時代から延々と男系・父系の血統で続いてきたと位..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[憲法:皇室外交]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/3006/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 10 Nov 2005 18:01:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/3006/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/3006/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/3006/thmb.jpg?s=s&r=1131613262&t=n" border="0"></a><br /><br />　１ 憲法４条１項は、天皇は憲法規定の国事行為「のみ」を行うとするが、私的行為も当然認められる。
しかし、現実には、天皇は国会開会式での「おことば」の朗読、国内の巡行など、国事行為以外の公的行為を行っており、国民やマス・メディアもこれらの[354]<br />いわゆる「皇室外交」に含まれる問題点について論じなさい。 
＜自己の見解＞ 
１ 憲法４条１項は、天皇は憲法規定の国事行為「のみ」を行うとするが、私的行為も当然認められる。
しかし、現実には、天皇は国会開会式での「おことば」の朗読、国内の巡行など、国事行為以外の公
的行為を行っており、国民やマス・メディアもこれらのことを当然視している。 
特に、外国公式訪問や外国元首の接受・接待などの「皇室外交」は、多分に政治的要素を具備した
ものである。 
２ 天皇の公的行為について 
そもそも天皇はかかる公的行為をなすことが憲法上許容されているか。 
この点、国事行為以外の公的行為は一切認められないとする違憲説・二行為説があるが、あまりに
非現実的であって妥当でない。 
また、国事行為以外の公的行為は認められないが、国事行為に密接に関連する行為のみを準国事行
為として認めるべきであるとする準国事行為説があるが、「密接に関連する」の意味が不明確であり、
妥当でない。 
思うに、天皇を象徴として認めている以上（１条）、天皇の行う国事行為以外の行為が何らかの公的
意味を持ってしまう。また、私的行為として..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[憲法・人権享有主体]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431885701@hc05/2984/]]></link>
			<author><![CDATA[ by issy1025]]></author>
			<category><![CDATA[issy1025の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 09 Nov 2005 18:39:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431885701@hc05/2984/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431885701@hc05/2984/" target="_blank"><img src="/docs/983431885701@hc05/2984/thmb.jpg?s=s&r=1131529179&t=n" border="0"></a><br /><br />憲法第３章の表題「国民の権利義務」にある「国民」とは何か述べよ
　10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、国籍法により日本国民の要件は決まる。国民たる資格である国籍は、親の血統にしたがい国籍を取得させる血統主義が原則であ[352]<br />外国人
憲法第３章の表題「国民の権利義務」にある「国民」とは何か述べよ
　10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、国籍法により日本国民の要件は決まる。国民たる資格である国籍は、親の血統にしたがい国籍を取得させる血統主義が原則である。ただ、例外的に出生地の国籍を取得させる出生地主義が採られている（アメリカは出生地主義が原則）。
　今の日本国憲法は父親・母親どちらか日本国籍であれば、子供にも日本国籍を取得させている（男女平等）。
　また、帰化による場合は、法務大臣の許可により一定の要件をみたした外国人に認められる。
外国人に人権の保障が及ぶかどうか述べよ
　憲法第３章の表題が「国民の」となっているので問題ではあるが、人権はそもそも人たるがゆえに認められる前国家的性格を有し（11条、97条）、また憲法は国際協調主義（前文、98条2項）を採用しているから、外国人にも権利の性質上適用可能な人権規定はすべて及ぶと解すべきである（最大判昭和53年10月4日、マクリーン事件）
外国人が人権享有主体となるとして、その享有する人権の範囲はどこまでかをいかなる基準で判断するか述べよ
　外国..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[特別活動の研究　日の丸・君が代問題をどのように考えるか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/1234/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gorilla]]></author>
			<category><![CDATA[gorillaの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 20 Jul 2005 19:43:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/1234/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245801@hc05/1234/" target="_blank"><img src="/docs/983432245801@hc05/1234/thmb.jpg?s=s&r=1121856216&t=n" border="0"></a><br /><br />私は日の丸・君が代が法制化されるまで、ずっと国旗・国歌だと思ってきたがそうではなかった。小学校でも中学校でも入学式・卒業式では必ず出てきたのに、実は法制化されていなかったと知ってとてもショックを受けた。そのことを学校の先生たちは本当に知って[360]<br />特別活動の研究
日の丸・君が代問題をどのように考えるか
私は日の丸・君が代が法制化されるまで、ずっと国旗・国歌だと思ってきたがそうではなかった。小学校でも中学校でも入学式・卒業式では必ず出てきたのに、実は法制化されていなかったと知ってとてもショックを受けた。そのことを学校の先生たちは本当に知っていたのだろうか。あれだけ当たり前のように学校側が教えていれば国民が日の丸・君が代が国旗・国歌であると錯覚しても仕方ない気がする。そしてこの混乱に終止符を打つために、日の丸・君が代を国旗・国歌とする法案が国会に提出された。私は、法制化は正しかったと思う。なぜなら、この社説の通り、法制化されたことで一つのけじめがついたからだ。国民全体が賛成しているのならば法制化しなくても問題はないだろう。しかし、意見が対立しているのだ。そんな状況であり、法律で決められてもいないのに、入学式や卒業式で歌っていては、まるでどこかの宗教のようである。日の丸・君が代に対する賛成・反対の議論は法制化のあとですれば良いではないか。問題なのは、まずけじめをつけることである。
ここで一つ疑問があるのだが、日の丸が国旗でなかったとい..]]></description>

		</item>

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