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		<title>タグ“外国文学”の公開資料</title>
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		<description>タグ“外国文学”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[スポーツ健康科学講義]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70193/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70193/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70193/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70193/thmb.jpg?s=s&r=1280586704&t=n" border="0"></a><br /><br />今回のスクーリングの講義をきっかけに、 自身の健康について振り返ってみた。ここ五年近くは風邪をひいて病院へ通うこともなく、歯科に通うことすらない程ありがたいことに健康である。会社の人間ドックなどの検査でも、実際何もひっかかることすらない。むしろ血液も非常に綺麗な状態であると、褒められる程である。
厚生労働省ＨＰには「日本人の食事摂取基準（二〇〇五）」が提示されている。三十代で身体活動レベルがⅡ（普通）である私自身は、栄養所要量は約二〇〇〇キロカロリーと考えられている。（参考文献①）
食生活においては、結婚前まで栄養士だった母が、子供の頃より無意識に健康を考えバランスのとれた食事を食べさせていてくれていた。痩せたい一心で二十代前半の頃は極度に糖質を減らしていた時期があったが、それ以降は長年丁度よい加減で必要量は摂取できていた。現在は一人暮らしをしているが、母のお陰で私自身も同様偏食せずバランスよく食事を摂るように心がけているつもりである。
　プライベートにおいては旅行が趣味で、ここ何年か海外一人旅を年に一度のペースで続けてきた。仕事の合間の旅行はいつも一週間弱の短い旅である。アメリカ東海..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[能狂言鑑賞レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70192/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:43 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70192/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70192/thmb.jpg?s=s&r=1280586703&t=n" border="0"></a><br /><br />今回私が鑑賞したのは、この春の季節に相応しい『田村』の能から始まり、続いて『鬼瓦』の狂言、そして『安達原』の三作品である。能と狂言は室町時代以来密接に関わり、互いに発展していったが、今回の作品の随所にもそのような点が見受けられる。三作品をそれぞれ紹介しながら、その関わりがどのように表れているか述べてみたい。
　最初を飾る『田村』は、坂上田村麻呂の武勇伝を語った修羅物であるが、三大修羅物と呼ばれる『八島』『箙』とは趣が異なる。修羅能では戦い苦しんだ主人公が、成仏を求めて現世に戻るという様式が一般的だが、『田村』に関してはそのような様式が見受けられない。この『田村』に関して里井陸郎氏は、
　　征夷大将軍坂上田村麻呂の颯爽とした戦　
　　いを、加護し、怱ちにして鬼神を平げし
　　めた観音の神秘な功徳を語るところにあ
　　った
と述べている。（参考文献①三五頁）
　このことを証明するかのように前半では、　
観音信仰の聖地・清水寺付近の美しい春景色を童子の姿の坂上田村麻呂が謡い、後半にこの観音の力によって激動の争いに勝ち抜いた坂上田村麻呂が勇壮な舞を舞う。悲壮観は全くないのである。
　揚幕から..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[世阿弥の能の大成と能の特質]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70191/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70191/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70191/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70191/thmb.jpg?s=s&r=1280586702&t=n" border="0"></a><br /><br />室町時代に大成された能の第一人者は周知のごとく世阿弥（一三六三？～一四四三？）である。この世阿弥の能の大成と特徴について、歴史的視点を絡めて述べてみたい。
　平安時代から「猿楽」として親しまれてきた芸能は、鎌倉時代後期になると能と狂言という二つの演劇として発展する。狂言は滑稽を旨とする笑劇であり、その源流がまさに滑稽主体の雑芸であった「猿楽」にあることは想像もたやすい。しかし能も同じ「猿楽」を源流とする。その理由は何処にあるか。
　広辞苑によると「猿楽」は「滑稽な物まねや言葉芸が中心」とあるが「広義には呪師・田楽などをも含む」とも記載されている。　田楽にみられる鼓笛の囃子を伴ったあたりなど、能の歌舞的な部分に通ずると考えられる。
　天下泰平・五穀豊穣を祈る「翁猿楽」を鎌倉中期には、座という芸能集団が演じていた。その歌舞的要素が劇として整った頃、観阿弥（一三三三～一三八四）がこの翁を演じたことが能へと発展してゆく大きな出来事だと考えられている。
　この世阿弥の父である観阿弥は、後に能を大成してゆく世阿弥が受け継ぐまでの能の大きな基礎を築いた。
　まず室町幕府三代将軍足利義満（一三五八～..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[狂言の歴史的展開とその特質]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70190/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70190/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70190/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70190/thmb.jpg?s=s&r=1280586701&t=n" border="0"></a><br /><br />狂言は能と共に「能楽」と呼ばれ、現在伝統芸能と一つとして親しまれているが、能も狂言も「猿楽」を源流としている。能とは対照的とも言える狂言はどのように生まれ、伝統芸能として成立したのだろうか。
　奈良時代、中国から曲芸・奇術・歌舞といった種類の卑俗な大衆芸能、散楽が伝えられた。これが平安時代になると、更に滑稽さは増し、散楽の「散」が「サル」と発音が似ていた為「猿楽」と呼ばれるようになっていた。
　これが鎌倉後期頃、能と狂言という二つの芸能に分かれるのであるが、その歌舞的な要素を継いだのが能であり、その滑稽さを追求したものが狂言であると考えられている。
　実際の記録として、建武元年（一三三四）四月八日の丹後国分寺再興の際、一番と三番の連事の合間に、
　　二番　咲　覚空坊　寂浄坊　楽順坊
とある。これより三人で滑稽な芸（をかし）が演じられたことが推測され、この頃より劇として成立していたと考えられる。
　そして観応三年（一三五二）三月一六日の『周防国仁平寺本藤供養日記』では、
　　十一番狂言　山臥説法　人数別紙有之
と「狂言」という記載が見つけられる。
　また永和元年（一三七五）頃の今熊野の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本人の音節意識]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70189/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70189/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70189/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70189/thmb.jpg?s=s&r=1280586701&t=n" border="0"></a><br /><br />日本語は、英語などの別の言語とは違った性質をいくつか持つが、その中でも音節に関しても独特の意識を持ち、外国人が日本語を習得するのを困難にしている。
　いったいその性質とはどんなものなのか、例を挙げながら述べてみたい。
　まず日本語の音節に関して、第一に挙げなくてはならないのは、典型的な拍が、
　　一子音＋一母音
から出来ており非常に単純であるということである。それ以外では、
　　一子音＋一半母音（ｊ・ｗ）＋一母音
からなる拗音もあるが、これらから解るのは、日本語は母音で終わるという特徴を持つ言語だという事である。
　しかし、特殊音素として撥音「ン」、促音「ッ」長音「―」の母音で終わらない拍もあり、それらも一拍と数えるという事も大事な特徴である。
　この理由としては、日本は古代中国語から文字を習ったと同時に音韻の面でも影響を受け、よってこのような特殊音素も日本語に取り入れられたと考えられている。
　そしてこのように中国から取り入れられた拍（モーラ）は、五つの母音と一四の子音（一般的とされる）、二つの半母音、三つの特殊音素が組み合わされた一一二の拍から構成されるようになる。それらはそれぞ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[動詞・形容詞の共通点と相違点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70188/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70188/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70188/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70188/thmb.jpg?s=s&r=1280586700&t=n" border="0"></a><br /><br />動詞・形容詞・形容動詞の共通点は、いずれも単独で述語となることができるもので、語形に活用があるという点である。また、事物の動作・存在・性質・状態など叙述するものでもあり、この三つを総称して用言と呼ぶ。
　ではこの三つの品詞の相違点は何であろうか。それぞれの品詞の特徴を踏まえながら述べてみたい。
　まず、この三つの品詞の中で古来より圧倒的に語数の多いのが動詞である。さらに現在、五段活用、上一段活用、下一段活用、カ行変格活用、サ行変格活用と言った、最も多様な活用を持つ。また、「疲れる」「出会う」などといった一部の無意識動詞を除き、形容詞・形容動詞にはない命令形もある。頻度としては連用形の形が最も使われている。終止形は「ウ」である。
　一方、形容詞の語数は少なく、時が経っても増えることはあまりなかった。その代りに「ツルツル」「ガタガタ」といった擬態語が増えていった。活用の種類も少なく、現在ク活用・シク活用の二種類となる。終止形は「イ」である。
　形容動詞の特徴に関して述べる前に、他の語と共に一文節をなす時の動詞と形容詞の相違点について、具体例をいくつか挙げながら説明してみたい。
　まず様態..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本古典文学に見られる伝統行事]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70187/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70187/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70187/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70187/thmb.jpg?s=s&r=1280586699&t=n" border="0"></a><br /><br />賀茂祭は華麗な王朝絵巻を見るような伝統行事であるが、この祭に纏わるシーンが日本古典文学ではどのように描かれていたか、いくつかの作品を通して述べてみたい。
　この賀茂祭が行われる賀茂神社は、もとはこの地域で勢力のあった秦氏が斎き祀ったものであった。『有職故実（上）』によると平安京遷都後、この神社は「平安京の城隍神に当たるものとして朝廷の崇敬せられた」とある。このことより、弘仁十年（八一九）から中祀として、賀茂祭は扱われるようになった。
　また当時天皇であった嵯峨天皇（七八六～八四二）が、平城上皇との関係が悪化した際に賀茂神社に祈願したところ感応があり、斎王の制が立てられたと言われている。斎院は賀茂神を降臨させる神迎えの儀の前に、賀茂の御手洗川で御禊を行う。この斎王の御禊が、賀茂祭の前の午の日、又は未の日に行われていた。
　この御禊の行列の模様は『源氏物語』「葵」巻の、車争いのシーンでよく知られている。
　物語では斎院に供奉する上達部達に、いつも以上に人望があり容貌も優れた方々が選ばれ、その上あの源氏が特別に帝の宣旨により加わること..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[公家と武家の年中行事の類似点と相違点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70186/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:37 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70186/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70186/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70186/thmb.jpg?s=s&r=1280586697&t=n" border="0"></a><br /><br />公家と武家の年中行事の類似点と相違点を述べる前に、そもそも公家と武家の違いはどういうものなのかを考えてみたい。
　村井康彦氏によると「平清盛も源頼朝も、もとを辿れば賜姓皇族であり、つまりは貴族であったように、公家と武家とはルーツを同じくする同根の存在であった」とある。（参考文献①五頁）
　貴族は「みやこ」に集められそこに住むことで、官人となり豪族から貴族となった。その中から九世紀頃より、地方に所領をもち生活基盤の一部をそこに盛った者達が武者と呼ばれるようになり、貴族と区別されたと考えられている。また双方の区別は都と田舎という距離間の問題だけでなく、武者はまさに侍としての殺業を行っていたことも含まれる。武力を持って、摂関家に使役される存在、それが平安時代の武者であった。
　財政が悪化して軍事的緊張が高まった院政期には、武技を専門の家業として代々受け継いでゆく本来の武士と発展した。この武士の系統の団体を武家といい、それに対して貴族を公家と呼んだ。
　以上から解るように武家は公家を起源に登場しており、相互の境界は不分明であるともいえる。
時代が下って武士が政権を握るようになっても、公家の存..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[和事と荒事]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70185/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70185/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70185/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70185/thmb.jpg?s=s&r=1280586696&t=n" border="0"></a><br /><br />今日では世界中でも支持されている日本の伝統芸能・歌舞伎には「和事」と「荒事」の二種類の演出様式がある。
　急速な政治・経済の発展を成した活気ある元禄時代にそれぞれは確立された。上方歌舞伎を「和事」、江戸歌舞伎を「荒事」と言うが、それぞれにどのような特徴があるか、比較検討しながら述べてみる。
　この上方の「和事」であるが『歌舞伎事典』によると「濡れ事を中心として展開される柔弱な男性の行動を表すもの」とある。やつし事と言われ、身分あるものが傾城と恋仲になり、勘当されて苦労するというストーリーが和事には多い。主役の男性は若くて柔らかな色気を伴ったハンサムで上品だが、やさ男というのが典型である。
　「和事」の作品としては『曾根崎心中』（一七〇三）が有名である。この作品は、元禄十六年（一七〇三）四月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で心中した事件を脚色したものである。この作品は事件の翌月にタイムリーに上演され、当時華やかな時代の裏で、封建社会の厳しい規律に縛られ閉塞感に苦しむ庶民の大評判を得た。
　二人は愛し合う仲であったが、徳兵衛は主人に縁談..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[論語]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70184/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70184/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70184/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70184/thmb.jpg?s=s&r=1280586695&t=n" border="0"></a><br /><br />『論語』は孔子（前五五一～四七九）の死後、彼の弟子らが孔子の言葉や行動、その弟子達らの問答を集録したものであるが、秦の始皇帝の焚書などによりありのままの形で残ってはいない。今伝えられているものは何種類かの伝承を集めたものである為、時代を経て様々な解釈が存在することになってしまっている。
　学而第一の、
　　曾子曰　吾日三省吾身　為人謀而不忠乎。
　　与朋友交而不信乎。　伝不習乎。
においても様々な訳があるが、いくつかの訳を比較検討し、考察してみたい。
　まず「吾日三省吾身」の句であるが、この「三省」について、貝塚茂樹氏は「三回」、宇野哲人氏は「三箇条」、吉川幸次郎氏も「三つ」と特定の数を表している。宇野氏と吉川氏については、以下の「為人謀而不忠乎」「与朋友交而不信乎」「伝不習乎」の三つの事柄をと訳されているが、貝塚氏の三回に関しては、以下の句についてとは述べられておらず、何に関して「三回」なのかわかりづらい。漠然とした印象に受け止められる。
またこのような限定した数字ではなく、吉田賢坑氏は「何度となく」、加地伸行氏は「何度も」と訳している。『新字源』によれば「三省」は「何度も反省する..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[東洋と西洋の演劇表現の違いについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70183/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70183/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70183/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70183/thmb.jpg?s=s&r=1280586694&t=n" border="0"></a><br /><br />歌舞伎は伝統的な東洋の演劇の一つであるが、西洋演劇が具象的（representational）な演劇であるとすれば東洋の歌舞伎は表象的（presentational）な演劇であるとされている。また伝統的な東洋の演劇として忘れてはならない京劇も表象的（presentational）な演劇に分類されると考えられている。
なぜ東西でこの様な特徴が表れたのか、そしてそれがどの様なものなのか考えてみたい。
まず演劇の誕生とはどんなものだったのだろうか。
　西洋では、古代ギリシャで自然神ディオ二ソスに感謝し、その徳をたたえる円舞合唱隊と対話する「合唱指揮者」を俳優の起源としている。日本においては記紀の中で岩戸に隠れ世界を暗闇にしてしまったアマテラスを外へ導く為に、アメノウズメノミコトが岩の前で他の神達が笑ってしまう程、滑稽に踊って見せたという話がある。すなわち太陽崇拝の祈祷舞踊であり、これが日本での俳優の根源とされている。また中国でも古代、歌舞や滑稽な諧謔戯言で主に仕える祭司がおり、これを俳優の起源とする説がある。よって東西問わず、起源には神事的要素が関連していたと考えられる。
また「俳優」とい..]]></description>

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		<item>
			<title><![CDATA[歌舞伎十八番]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70182/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70182/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70182/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70182/thmb.jpg?s=s&r=1280586693&t=n" border="0"></a><br /><br />歌舞伎十八番とは、上方と対比される荒事の要素が詰まった成田屋のお家芸のことである。　　
演目は『鳴神』『毛抜』『暫』『矢の根』『景清』『助六』『勧進帳』『鎌髭』『不破』『不動』『嫐』『象引』『押戻』『外郎売』『七つ面』『毛抜』『解脱』『蛇柳』の十八からなる。
山本二郎氏は『名作歌舞伎全集第十八巻』の中で、
　幕末の狂言作者三升屋二三冶の随筆「劇場書留」によると、広義では江戸歌舞伎
　狂言の代表作、狭義では市川家の当り狂言十八種という療養の意味があったようである　　　　　（参考文献①五頁）
と歌舞伎十八番ということばについて説明をしている。実際天保三年（一八三二）に「八代目市川團十郎襲名披露興行」が行われた際に、演じられた『助六』と並んで一七演目が「歌舞伎狂言組十八番」として案内に記載されていた。この時助六を演じ興行を仕切ったのは、八代目の父である七代目團十郎（当時は五代目海老蔵）だった。
　彼がこのような計らいをしたのは、外郎売を演じた息子八代目がまだ十歳であった為、市川家代々の権威を後ろ盾とさせる意味があったとも考えられている。後、天保十一年（一八四〇）に『勧進帳』を七代目が演じた時..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[北山文化形成の背景及び主要な人々、その特色]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70181/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70181/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70181/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70181/thmb.jpg?s=s&r=1280586693&t=n" border="0"></a><br /><br />北山文化は室町時代初期の文化で、十四世紀後半から十五世紀後半までを指す。日本の文化はそれぞれ時代名で呼ばれることが多いが、室町時代後期に京都東山で開花した東山文化に対し、この文化の特徴がそれぞれ異なる事から北山文化と呼ばれている。
　南北朝時代の動乱を経て、安定した幕府確立を背景に武士の力が強くなり、禅宗の影響を強く受けた武家文化が伝統的な公家文化と融合、更に民衆文化とも交流した。こうして広い基盤が特色の、北山文化が花開いたのである。
　この文化をまさに象徴するのが、三代将軍足利義満（一三五八～一四〇八）が北山山荘に建てた鹿苑寺舎利殿（金閣寺）である。一層が公家風の寝殿造り、二層が武家風、三層が禅宗の仏殿風で仏舎利が置かれている。
　では何故鹿苑寺舎利殿に象徴されるように、様々な文化が融合されたのか。その時代背景を探ってみたい。
　一三三六年、御醍醐天皇（一二八八～一三九九）と対立した足利尊氏（一三〇五～一三五八）が光明天皇（一三二一～一三八〇）を擁立し征夷大将軍となり、室町幕府を開いていた。その後一三九二年、三代将軍義満によって南北朝は統一され、最終的には公家より武家の勢力が優位に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[室町文化論（能と狂言）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70180/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70180/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70180/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70180/thmb.jpg?s=s&r=1280586692&t=n" border="0"></a><br /><br />能と狂言はいずれも室町時代に大成されたものであり、総称して「能楽」と呼ぶ。
　能は笑いを含まない重厚な歌舞劇で、狂言は笑いを中心とした軽妙な対話劇であり、一見対照的に感じられる。しかしいずれも平安時代から続く「猿楽」から発展したものであり、同じ舞台で対に演じ、互いの演劇を一層引き立てている。
　この能及び狂言はどのように成立され、展開していったのだろうか。
　平安時代の「猿楽」は、物まねや曲芸・寸劇など多様な滑稽を本質とした雑芸を示すものだった。この事より、狂言が「猿楽」の滑稽的な本質を受け継いでいるものだという事は十分理解できるが、何故能も「猿楽」を源流とすると伝えられているのだろうか。実際、能と狂言が鎌倉後期頃より成立した後も、江戸時代まで能は狂言と同様に「猿楽」と呼ばれている。理由を探ってみたい。
広辞苑によると「猿楽」は、
　平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉
　芸が中心で、相撲御覧の時や内侍所御
　神楽の夜などに演じた。
とあるが、
　広義には呪師・田楽などをも含む。
とも記されている。
　つまり神楽や田楽などの音楽的な芸風が能に通じており、「猿楽」が源流とされると言われる..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[室町文化論（茶・花・香の史的展開と担い手）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70179/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:31 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70179/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70179/thmb.jpg?s=s&r=1280586691&t=n" border="0"></a><br /><br />茶・花・香は現代でも日本の伝統芸として、親しまれているものであるが、それらは中世に成立したものと言われている。
　それぞれ誰が中心となり、展開を見せたのか述べてみたい。
　まず茶道であるが、奈良時代に中国に渡った遣唐使や僧侶たちが、薬として茶を持ち帰ったのが始まりと言われている。平安時代には上流階級に茶を飲むという習慣が定着した。
　その後、栄西（一一四一～一二一五）が中国から茶の種を持ち帰り日本各地で栽培したことより、更に広い範囲で茶を飲むという習慣が広まった。栄西は禅僧であった為、客を招いて抹茶を点てて楽しむという「茶の湯」のスタイルを禅の精神を持って説いた。
　室町時代に入り芸術文化としての茶の湯が始まり「侘び茶」の祖と言われる村田珠光（一四二三～一五〇二）がこの基礎を築いた。後、武野紹鴎（一五〇二～一五五五）からかの有名な千利休（一五二二～一五九一）へと受け継がれ、利休は「侘び茶」を大成させてゆく。
　東山文化に流行した「書院茶」は唐物重視のスタイルであったが「侘び茶」はこれに対し、和物の道具を扱ったものが主となり、禅の精神の基づいた簡素で静寂の境地を重んじたものであった。
..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[万葉歌人と歌風について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70178/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70178/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70178/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70178/thmb.jpg?s=s&r=1280586690&t=n" border="0"></a><br /><br />『万葉集』は舒明期から淳仁期までの約１３０年に渡って詠われた現存最古の歌集である。２０巻からなるこの歌集は、約４５００首に及ぶ様々な歌が詠われている。一般的に時代は４期に分けられており、作品は時代の風潮により特徴がみられる。代表的な歌人とその歌風について時代別に述べてみたい。
　第１期は舒明天皇即位の年から壬申の乱までの４４年間とされている。
巻１の１に伝承の時代の歌として雄略天皇の歌が飾りとして置かれ、続いて巻１の２で舒明天皇の「天皇香具山に登りて望国したまふ時の御製歌」が詠われている。３４代目として即位した舒明天皇は、この歌で国家の繁栄を願う儀礼的な歌を壮大に詠んでいる。
またこの後、巻１の３として中皇命の国土経営を想う歌が詠われている。単なる儀礼の歌にとどまらず女性らしさを兼ねて歌われている。定かではないが、この中皇命の歌は舒明天皇の皇后であった斉明天皇の歌ではないかとの説がある。
また３８代目に即位した天智天皇は大化の改新をなしとげた後、即位し権力を一気にまとめ上げ、律令国家を推進した。しかし歌風には人間らしさを感じさせるものが多い。同母兄である後の天武天皇と額田王との三角関..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古代日本文化史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70177/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70177/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70177/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70177/thmb.jpg?s=s&r=1280586689&t=n" border="0"></a><br /><br />古代の重要な和歌集である『万葉集』と『古今和歌集』の、文学史的意義を作品の相互関係や時代背景を考慮しながら論じてみる。
この二つの作品から、日本という国が形成されてゆく時代の転換期を見てとることができる。
『万葉集』の成立事情に関しては、はっきりとはされておらず諸説があるが、『古今和歌集』の巻十八・雑下（九七七）に、
　　神無月時雨ふりおけるならの葉の名にお
　　ふ宮の古ことぞこれ（参考文献①）
とあり、九世紀後半の清和天皇の時代に『万葉集』は奈良時代に成立していたと考えられている。
　これにより『万葉集』は延喜五（九〇五）に成立されたと考えられている『古今和歌集』よりも前に成立した作品ものであることがわかる。　
その『万葉集』にはどんな文学史的意義があるだろうか。
まずこの『万葉集』は七世紀から八世紀中ごろの一三〇年間の作品を収めた「現存最古」の歌集であることが挙げられるだろう。それまでにも歌集は作られていたと考えられているが、この歌集が現存最古となった理由は、文字の発達によるものであろう。
当時の日本は唐に習い、律令国家を目指していた時代で、貴族・官僚社会を整え政治経済的基盤を固め..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[記紀歌謡の特色について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70176/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70176/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70176/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70176/thmb.jpg?s=s&r=1280586688&t=n" border="0"></a><br /><br />古代歌謡とは、古代村落共同体の中で神事や祭式の場で歌われたものの名称である。主に『古事記』『日本書紀』『風土記』、又『琴歌譜』『続日本紀』『古語拾遺』などに収められている歌謡を指すが、中でも『古事記』『日本書紀』に収められた歌謡は記紀歌謡と呼ばれており、約２４０首もの歌謡が謡われている。重複したものを除いても約１９０首となり、古代歌謡の中でも最も多い。この記紀歌謡とはどんなものか、述べてみたい。
　先述したようにこの記紀歌謡は、古代日本が律令国家を目指した頃に編纂された『古事記』『日本書紀』の歴史書に収められた歌である。これらの書には、日本は天皇の権力の元に統一されている国であるという事を表す為、国の歴史を辿りながら歴代天皇の系譜も示されている。『古事記』は国内向け『日本書紀』は国外向けに編纂された為、表記法や記述の内容に関しては異なる部分も見られる。しかしいずれにしても、歌を詠んだ作者の多くは国を動かすような神、またはその子孫と考えられた天皇などで、歌わなければその人物は伝説にならないといっても過言ではない。記紀において、歌は散文のような文章では表現できない情調を物語に導入させる為..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『万葉集』の特質と意義]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70175/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70175/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70175/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70175/thmb.jpg?s=s&r=1280586688&t=n" border="0"></a><br /><br />『万葉集』は現存最古の和歌集で、この作品の成立以降には、勅撰和歌集の『古今和歌集』を始め、日本では数々の和歌集が編纂され続けた。この『万葉集』の特質と意義について述べてみたい。
　まず特質の一つは様々な作者である。冒頭は雄略天皇の御製歌で飾られているように、特に初期の巻一・二は史実と重なり天皇家に関わる人々の歌が続く。しかしそれ以降は貴族、下級官人、防人などあらゆる身分の者の歌が収められている。構成は三大部類（雑歌・相聞歌・挽歌）であるが、様々な身分の者が詠んだ歌が収められている為、歌の詠まれた場面や題材は多様であり、この事も『万葉集』の特質と考えられる。
　更に、それらの歌は様々な歌体で詠われた。特に長歌は『万葉集』において最盛期で、その後は衰退していった。長歌は宮廷儀礼や祭祀の場における集団歌謡として発生したものである。神や国家を動かすような権力を持つ天皇などが詠う記紀歌謡にも長歌は多く、よって天皇中心とする律令国家を目指していた万葉初期も長歌は多数詠まれていた。語の重複・対句・漸層法などといった表現が、記紀歌謡にも『万葉集』にも見られた。
それまで十数句であった長歌は五七調を基..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[女性文化の構築]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70174/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70174/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70174/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70174/thmb.jpg?s=s&r=1280586687&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の近代文学では、明治維新後封建制度が崩壊した社会を生きる女性が様々に描かれている。
樋口一葉（一八七二～一八九六）の『十三夜』（一八九五）のお関は、身分違いの結婚生活に不満を持ち、実家に戻り離婚の相談をする。しかし元士族である父の古い考えに諭され、一族の安泰を考え自分自身の幸せを押し殺し離婚を諦める。
森鴎外（一八六二～一九二二）の『雁』（一九一一～一九一三）では、高利貸の末造の「妾」になったお玉は、世間から見た自分の弱い立場という事に気付く。しかしやはり家族の犠牲に生き、その状況に耐える女性として描かれている。
泉鏡花（一八七三～一九三九）の『婦系図』（一九〇七）のお蔦も芸者という弱い立場の設定で、その為に恋人の早瀬とは悲恋の関係として描かれている。
いずれも明治時代の作品であるが、江戸文化の名残と近代化の間で生まれ出したひずみに立ち向かうこともせず、男性に対して奴隷的な生き方しかできない女性達が描かれている。
有島武郎（一八七八～一九二三）の『或る女』（一九一一～一九一九）は明治後期から大正にかけて書かれた作品である。この作品に登場する葉子は、それまでの女性像とは随分と異なり、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[芸術文化の連関]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70173/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70173/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70173/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70173/thmb.jpg?s=s&r=1280586686&t=n" border="0"></a><br /><br />文学と芸術は、日本においても古代から関わりがあり、発展してきた。
加藤周一氏は、日本の芸術家と社会との関係性には二つの型がある、と論じている。（参考文献①）一つは平安時代のように芸術がその社会の中で生きてゆく為に必要不可欠なものであった平安時代タイプである。またもう一つは鎌倉時代から室町時代に起こった芸術家の「疎外」現象タイプである。江戸時代には再び平安時代タイプとなるが、明治以降にはまた「疎外」現象が起こり、今日に至っているというものである。
開国した日本は明治維新後、発展国に追いつこうと急速に西欧文化を摂取するようになる。しかしそれはまず工業化を図る事が第一条件であった。人は皆平等であるという思想が生まれ、芸術的な文化と折り合うことは困難な思想であった。よってこの時代の芸術家達に「疎外」を感じながら生きていた者は、多くいたであろう。
有島武郎（一八七八～一九二三）は白樺派に属していた。彼らは多くの西洋の美術作品に接する事により、技術ではなく精神としての西洋を捉えた作品を残し、後世に大きな影響を及ぼした。それは身分制度が崩壊した日本の社会に、具体的に個人主義の思想を示す事にもつながっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[近代文学の諸問題について (2)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70172/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70172/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70172/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70172/thmb.jpg?s=s&r=1280586685&t=n" border="0"></a><br /><br />明治維新以降の約一世紀、日本の社会は急速に変化したが、その様子は文学にも様々な形で表現されるようになった。
西洋文化を模倣し、身分制度が崩壊されたものの、急激な変化に人々は戸惑うことになる。それは森鴎外（一八六二～一九二二）の『雁』（一九一一・九～一九一三・五）の描写でも窺い知る事が出来る。
飴細工売りの娘であったお玉は、末造に見染められ最初は満足しているものの、周囲の自分に対する様子から、成り上がりの高利貸しの妾という自分の場に徐々に気づいていく。更に岡田に対する想いから、自分の中の「欲望」に目覚めていくという話である。
このお玉が暮らす下谷一体の町は、末造が築き上げた領域という設定だが、その境目にある無縁坂こそがお玉に変化をもたらし、物語の設定に重層感をもたらす仕掛けとなるスポットである。新しい明治という時代を担っていこうとする岡田は、末造の築き上げた、即ち江戸を引きずった世界の外で生活する人物である。その内側で生活するお玉は、その外側にいる岡田と同じ時代に生きながら、無縁坂という名が想像させるように、縁のない出会いをするのである。
前田愛氏は、
　岡田の後ろ姿を見つめつづけていた..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安文学に見る内裏・後宮]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70171/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70171/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70171/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70171/thmb.jpg?s=s&r=1280586684&t=n" border="0"></a><br /><br />『源氏物語』の「桐壺」に見られる内裏・
後宮のかかわりについて
１．はじめに
平安時代の後宮の発展により、ここに住む女性達によって作り出された女流文学も洗練され、一層リアルに近づいたものとなった。
その中でもあまりにも有名な『源氏物語』では、内裏・後宮はどのように描かれただろうか。
　冒頭は、
　　いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶさひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
から始まることからもわかるように、女御、
更衣が多く宮廷に仕えた時代の物語である。
また皇后という存在がここに記されていない
ことから、この時点で後宮では皇后の座を狙
った争いが渦巻いていることが伺える。
最強権威の社会である宮廷・後宮が、舞台　　　　　　　　
である事を示しているのである。
　こうして「いとやむごとなき際にはあらぬ」
（身分にふさわしくない）帝の寵愛を受けて
いた桐壺の紹介がされ、この物語の幕は開く。
この作品の序幕とも言える「桐壺」の巻で内裏・後宮はどのように関わっているか、いくつかの例を挙げてみたい。
２．「え避らぬ馬道」とは
　　　　―清涼殿ま..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フランス文学・ロマン派と自然主義における女性像の違いについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70170/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70170/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70170/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70170/thmb.jpg?s=s&r=1280586684&t=n" border="0"></a><br /><br />ロマン主義の幻想的な文学作品と、写実主義あるいは自然主義的な文学作品のどちらに惹かれるかといえば、私の場合はロマン主義の幻想的な作品である。
　どちらにも惹かれるのが正直なところであるが、ロマン主義の「女性」の捉え方が非常に美しい点に私は興味を抱いた。
　ゴーチエの『死霊の恋』では、主人公ロシュアルドは初めて会った遊女クラリモンドをこう述べている。
　　～七色の虹をまとい、太陽を見つめたと　　きのように、赤い後光につつまれて、睫毛の裏に光り輝くのが見えた～（一一頁）
　　　まさに女神そのものを連想させる。また、彼女の眼に関しては、
　　ただ一瞥で、男の運命を決めてしまう眼、　
　　今までどんな人にも見たことのない、活　
　　力と、さわやかさと、熱気と、つやつや
　　したうるおいをもった眼（一二頁）
と表現している。画家を目指していたゴーチエだけに、まさに読んでいて絵画を思わせる箇所がいくつもある。美術館巡りが趣味の私としては、ゴーチエの物語は素敵な美術品を鑑賞しているような気持ちになれて心地良いのである。
　そして絶世の美女クラリモンドが、吸血鬼であるという点にも興味を持った。キリス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ヤーコプがウィーン会議とドイツ国民議会で抱いた理念]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70169/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70169/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70169/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70169/thmb.jpg?s=s&r=1280586683&t=n" border="0"></a><br /><br />グリム兄弟の兄、ヤーコプ・グリム（１７８５～１８６３）は言語学者として研究に従事する一方で、外交官としてウィーン会議の随行員やフランクフルトの第１回国民議会の代表員になって活躍した。
　この二つの議会の参加で彼が述べた意見より、一貫した彼の信念を伺うことができる。
　まず１８１５年にカッセルで公使館秘書をしていたヤーコプは、ヘッセン代表団の一人としてウィーン会議に出席するが、この会議はとてもヤーコプが望むような内容ではなかった。
　この会議はナポレオン戦争のヨーロッパの新体制を検討することが目的の会議であったはずだった。しかし実際は各国の思惑が錯綜し、互いに有利な条件であるように裏取引が行われていたのだった。
　ドイツに関しての議定書では「分裂していたドイツの３５の領邦国家と４つの自由都市はドイツ連邦と作る」とあり、ドイツの統一からは程遠い「ドイツ連盟」が設立されてしまった。
　これに失望しドイツ統一を望んでいたヤーコプはヴィルヘルムに不満の手紙を送っている。その後も、ドイツの政治新聞「ライン・メルクール」を主宰する友人のヨゼフ・フォン・ゲレスにも以下のような内容の原稿にして送って、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ゲッティンゲン大学７教授事件と第一回ゲルマニスト会議の報告と主張]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70168/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70168/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70168/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70168/thmb.jpg?s=s&r=1280586682&t=n" border="0"></a><br /><br />時を経て１８３０年、グリム兄弟は共にハノーヴァー王国のゲッティンゲン大学の教授となっていた。
　１８３７年、ハノーヴァー王国を支配していたヴィルヘルム４世が死去すると、代わってその弟のアウグスト２世が国を支配することとなる。しかし、アウグストは１８３３年に兄ヴィルヘルムが制定した憲法を民主的で自由すぎるとみなし、１１月１日に廃止した。
　憲法に従って王となった本人アウグストが自らその憲法を無視したと、意義を唱えたゲッティンゲン大学の教授７名は、免職ないし国外追放された。この事件をゲッティンゲン大学七教授事件と呼ぶ。そのメンバー７人の中に、グリム兄弟も含まれていた。
　憲法廃止を知ったヤーコプはすぐさま、国の憲法が廃止にさらされていることが、自らの職務の立場からも矛盾し、人間の尊厳が独裁者によって壊されると、行動に出ることを訴えた。ゲッティンゲン大学の教授は当時４５０名いた。その中で王に反対することにより、地位を脅かされることを恐れず「法は法であらねばならない」と、大学の王立大学管理局へ抗議したのが以下の７名の教授だった。
　ヤーコプ、ダールマン、ゲルヴィーヌス、ヴィルヘルム、アルブレ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『グリム童話』編纂の理由]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70167/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70167/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70167/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70167/thmb.jpg?s=s&r=1280586681&t=n" border="0"></a><br /><br />『グリム童話』は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン（一八〇五～一八七五）によって創作された『アンデルセン童話』とは異なり、グリム兄弟によって編纂された口承伝承の童話集である。
またシャルル・ぺロー（一六二八～一七〇三）が出版した『ぺロー童話集』（一六九七）は、グリム兄弟の童話よりも一世紀ほど前に発表されたものである。両方に似たような作品があるのはよく知られた事実である。ペローの童話は、フランスの最も洗練されたサロンで読まれたものであった為、上流階級向けのフランス文化が反映されており、作品はメルヘンチックに創作されている。対してグリム兄弟の童話は、七回もの改編によってできるだけ他国の影響を受けていると考えられる作品を排除しており、質実剛健なドイツ的な作風のものを残そうとして編纂されたものである。作品はペローとは違い、ドイツの民衆に向けて書かれたものだった。
では何故彼らは、ドイツの「民衆」に向けて『グリム童話』を刊行したのだろうか。彼らの刊行の最大の目的は、民族意識・愛国精神の高揚にあった。この『グリム童話』が出版された一八一二年はまだドイツは統一されていない。彼らはフランス革命などに..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イギリスロマン派詩人・シェリーについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70166/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70166/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70166/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70166/thmb.jpg?s=s&r=1280586680&t=n" border="0"></a><br /><br />十八世紀後半から十九世紀前半、イギリスでは多くのロマン派詩人が誕生した。フランスと違い立憲君主制であったイギリスでは、国家を揺るがす程の勢力にはならなかったロマン主義であるが、逆にそれが多彩な才能を生み出す原因になった。
そのロマン派の第二世代の一人、パーシー・ビッシュ・シェリー（一七九二～一八二二）はこのロマン主義という時代を背景にまさに「詩人」として生きた貴重な人である。
この激動の様相を、彼は革命的な思想を持ちながらも非世俗的に描きだすだけの、教養の高さも持ち合わせていた。しかし将来が約束された上流階級の出身でありながらも、何事も突き詰めて考えずにはいられない彼は、敷かれたレールをすんなりと進むことができなかった。そんな性格が、彼の人生を波乱に満ちたものとさせる要因になったのである。
自らのいじめられた経験も重なり、彼は権力に対して反抗心を抱くようになる。その後文学少年であった彼は、早くからギリシャの古典や後妻の父・ウィリアム・ゴドウィン（一七五六～一八三六）の『政治的主義』などを読み学識を深めた。
大学一年の時に彼が発表した『無神論の必然』は、キリスト教そのものを否定するもの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ロミオとジュリエット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70165/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70165/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70165/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70165/thmb.jpg?s=s&r=1280586680&t=n" border="0"></a><br /><br />誰もが知る悲恋物語「ロミオとジュリエット」
今回、レポート課題として初めて原作を読んだが、１０年以上前にオリビア・ハッセー演じるジュリエットの映画を見たのが、この作品との最初の出会いだった。古い作品の映画だというのに、どうしてジュリエットは今見てもこんなに新鮮でとても可愛いのだろう、と当時とてつもなく感動したのを覚えている。そして悲劇に終わろうと、障害に負けず愛を貫ぬこうとしたロミオとジュリエットの二人のような恋愛がしたい、と思ったものである。
そんなことを思い出し、今回このレポートを書くにあたり、心を躍らせて本のページをめくった。
もっとも印象に残った出会いの場面は、キャプレット家の仮面舞踏会で一目惚れし合った二人が、何度か言葉を交わしただけでキスをしたシーンだった。私がかつて観た映画でも、こんなに臭い台詞をテンポよく交わして二人はキスをしていたのかと思うと驚いた。
改めて文字で台詞を追ってみると、いくらお互い一目惚れとはいえ、こんな口説き方をされたら、私なら間違いなくキスに応じるよりも吹き出してしまうだろうと思った。
聖者と巡礼者に例えた台詞は、互いの想いを楽しげに、そして品よく..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ブレイクとワーズワース]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70164/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70164/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70164/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70164/thmb.jpg?s=s&r=1280586678&t=n" border="0"></a><br /><br />今回『イギリス名詩選』のブレイクとワーズワスの詩の中で、一番印象に残ったのはワーズワスの「水仙（The Daffodils）」である。
ちょうど先日、我が家の庭にちょこんと咲いている水仙を摘み、部屋に花を活けた所だったのだ。よって季節は今冬であり、私の中で水仙は寒さで凍える冬に、少しだけ春の訪れを予感させる可愛らしく咲いている花というイメージだった。
　しかしワーズワスのこの「水仙（The Daffodils）」では私のイメージする水仙とはちょっと違う存在として扱われている。私のイメージの中では水仙は冬の花であり、春の季節、湖のほとりに咲く花として思い浮かぶのは、色とりどりのチューリップだろう。まして春に果てしなく一面に咲く花として思い浮かぶとすれば、私のイメージでは水仙ではなく菜の花ではないかと思う。
　実際日本とイギリスとでは緯度も違うし、ましてこの詩が書かれたのは１９世紀であることからも、イメージに違いがあるのは当然だろう。しかし今回この詩をきっかけに、私は改めて水仙という花をじっと観察してみることにした。
　ワーズワスは水仙が「continuous as the stars ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[トリスタンとイゾルテの悲恋]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70163/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70163/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70163/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70163/thmb.jpg?s=s&r=1280586676&t=n" border="0"></a><br /><br />トリストラムとイゾーデは、ラーンスロットとギニヴィアと並ぶ「アーサー王とその騎士たち」に含まれる悲恋物語である。
　トリストラムもラーンスロットも、王妃との不義がきっかけで、国を巻き込んで悲劇を生んでゆく。
　この作品達が今日でも語り継がれ残されている理由は、やはり二人が忠誠心を持った理想的な騎士であり、また二人とも愛に一途だったからではないだろうか？
　ラーンスロットはアーサー王に仕え、円卓最強の騎士であり、皆の太陽のような存在であった。一方のトリストラムも、そのラーンスロットとの一騎打ちで互角に戦った腕前である。物静かで遠慮深い性格でありながらも、その騎士としての素晴らしさを知ったアーサー王に「騎士中の騎士、最も心優しい、最も尊敬に値する騎士」と賞賛され、円卓の騎士の一人に迎えられた人物である。
　ロマンスは騎士達の原動力である。そして、高貴な勲功や名誉の希求を鼓吹する力を持つ。
王妃イゾーデとの密通がばれ、マーク王に追放されたトリストラムは、常に戦い続け弱い者を助けた。追放された時のトリストラムはそういった感情よりも、愛する者と別れている心の苦しみを軽くしようとするために行って..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[オイディプス王]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70162/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70162/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70162/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70162/thmb.jpg?s=s&r=1280586675&t=n" border="0"></a><br /><br />今回この『オイディプス王』を読んで、まず疑問を感じた箇所があった。
　それは主人公オイディプス王達がなぜアポロンの神託に従ったのかという、ギリシャ神話、または哲学に無知な私らしい非常に素朴な疑問だった。今日、日本に無宗教に近い状態で占いもさほど信じない私にとっては、何故そこまでアポロンのお告げが重要であるのか不思議であった。
　こうして古代ギリシャ人がどのような価値観を持っていたのか興味を持った。そして調べてゆくうちに、デルフォイの神託がギリシャ国家の運命だけでなく、人々の生き方までも決定してしまうほど絶対的なものであることを今更ながらに知ったのである。
　考えてみれば、それはその後に起こるキリスト教を始めとする神を崇める宗教などと、時代は違えどなんの変りもないものであろう。
　悲劇は、オイディプスの父ライオスが、自分の子供にかかって殺される運命にあるというアポロンの予言を聞いてしまったことである。そしてもう一つ、オイディプスが自ら父を殺し自らの母と結婚し子供までもうけてしまったという事実を知ってしまったことではないだろうか。
　もしギリシャの神に限らず、王が神を頼らず自らの力で国家..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アーサー王とその騎士たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70161/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70161/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70161/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70161/thmb.jpg?s=s&r=1280586674&t=n" border="0"></a><br /><br />私にとって「アーサー王とその騎士たち」で最も印象に残った騎士は、なんといっても花形の湖の騎士・ラーンスロットである。
　騎士として充分な才能を持ち、容姿は抜群、男性からも惚れられるような相手である。たとえそれが世間的に許されない関係であっても、自分を喜ばせる為に、戦いに次々と勝ち進んでゆく姿を見せられたら、悪く思う女性はいないだろう。そして自分の危機も救ってくれ、最後まで自分だけを愛してくれる、まさに白馬の王子のような存在である。最も私が実際王妃ギニヴィアの立場だったとしたとして、恋愛関係にまで踏み込む勇気があるかどうかは別の問題だが、女性からしたらこの上ない相手であろう。
　この物語に登場するたくさんの騎士の中で、アーサー王をしのぐ程人々に慕われたラーンスロット。それだけの人物であるならば、アーサー王から彼女を奪ってしまう事もできるのにとも思うが、簡単に離婚するなんてご法度の封建時代の物語である。そんな時代背景だからこそ、美しく、そして悲劇物語として伝えられたと考えられる。
　又、この物語を読んで、一番人間臭い葛藤が描かれていたと感じたのはガウェインである。そして、アーサー王が空の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『オイディプス王』における親子関係について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70160/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 23:31:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70160/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/70160/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/70160/thmb.jpg?s=s&r=1280586673&t=n" border="0"></a><br /><br />イオカステとオイディプスは妻と夫でありながら、実は母と息子という関係であった。　
　スフィンクスから国を救い、王となったオイディプスであったが、その後町に蔓延した疫病を鎮める術を神託に伺う。その結果、先王ライオスの殺害者が国の穢れとなっていると知り、正義感からそれが誰なのか事実を追求するのだが、これが自分自身を追い詰めることになってゆく。
　威厳ある国王の夫のオイディプスとその若い王である夫を支える高貴な年上の妻イオカステの関係は、事実が少しずつ明るみになるにつれ変化していく。
　アポロンの神託では、先王ライオスは自らの子によって殺され、その息子が父に代わって王となると告げられていた。オイディプスは自分自身、コリントス王ポリュボスと王妃メロペの実の子供であると信じていた為、テバイの予言者テイレシアスに自分がこの犯人者扱いされると、この疑惑を晴らそうと更に真実を追求しようとする。
　最初こそ、弟のクレオンと言い合う若い王オイディプスをイオカステは、
どうせこの世の人間には、予言の術を
なしうる者など、誰ひとりいないので
ございますから。（７０９）
といって優しくなだめ、アポロンの神託は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[川端康成の作品の美について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64209/]]></link>
			<author><![CDATA[ by brain]]></author>
			<category><![CDATA[brainの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 23 Feb 2010 23:32:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64209/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64209/" target="_blank"><img src="/docs/956849798603@hc10/64209/thmb.jpg?s=s&r=1266935538&t=n" border="0"></a><br /><br />川端康成の作品の美について
序論 
　筆者は「毎年の日本」という本を読んだ時「日本 の文豪の遺作」という論文を見た。それによると川端康成は「日本の2 0世紀の古 典作家」である。川端康成は美と感性を反映した作品を書き、ノーベル賞を受賞し た、偉大な作家である。それから筆者は0本人の感性を知るために川端康成の作品 が読みたくなつた。この作品を読んで、作品の中で美が含まれていることが自分で分かった。
美というのはとても広い意味を持っている。私たちは美しい背景や、美人や、美しい関係などという表現を言えるだろう。川端康成はこの美のいろいろな面をとて も細かく自分の作品で述べる。
この本稿の目的は川端康成の作品にいろいろな美の面が入っていることを明らか にすることである。川端康成は人並外れた敏感な感賞を働かせる。そして、何で も美を見ける。日常の生活の中でも美を観賞できると作家川端康成は私達に教え ていると思う。これはI」本の国民の一つの美的観念のあり方である。この川端康成 の「美」のテーマはすべての著作に表れている。『伊豆の踊り子』や『雪国』や 『山の音』や『眠れる美女』などにおいてこの筆者の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[文学における天使のイメージ　(外国文学・日本文学)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64123/]]></link>
			<author><![CDATA[ by brain]]></author>
			<category><![CDATA[brainの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 19 Feb 2010 00:43:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64123/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956849798603@hc10/64123/" target="_blank"><img src="/docs/956849798603@hc10/64123/thmb.jpg?s=s&r=1266507830&t=n" border="0"></a><br /><br />さまざまな宗教に天使の表象を定義する。
それから天使とは何か、天使の階級と堕天使を見ていく。次に、日本にキリスト教の浸透することをたどり、天使のイメージの差異が生じる問題の原因を検討する。作品から具体的な例に基づいて分析する。また、天使の[356]<br />日本と西洋の文学における天使のイメージの違い
目次
１．序論________________________________________________________２
２．背景説明____________________________________________________２
３．天使のイメージの差異の問題の原因____________________________３
４．キリスト教の真実の天使のイメージ
４．１　天使のイメージ＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿４
４．２　悪魔のイメージ＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿６
５．研究した作品と著者の抄録
５．１　日本の著者＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿６
５．２　ヨーロッパの著者＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿８
６．文学における天使のイメージの比較＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿９
７．文学における天使のイメージの影響＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿１０
８．結論＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿１０
９．注＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿１２
１０．参考文..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[黒人社会における生活環境と死　&quot;SOUL GONE HOME&quot;を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/13434/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 15 Feb 2007 13:25:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/13434/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/13434/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/13434/thmb.jpg?s=s&r=1171513544&t=n" border="0"></a><br /><br />立命館大学　　　人文総合科学基礎講読Ⅰ

レポート自体は日本語で書いています。
※抜粋部分は原文のままです。

この舞台小説は、少々奇妙だとも感じられる一組の親子の関係が、息子の生前と死後とで変化している。
二人の性格や生活環境などの要因を[348]<br />人文総合科学基礎講読Ⅰ
SOUL GONE HOME
私はこの舞台小説を読んで少々、奇妙だとも感じられるこの一組の親子の関係が息子の生前と死後とで変化したのかを二人の性格や生活環境などの要因を通して明らかにしていきたいと思う。
　まず最初に、親子の生活環境から見ていく。家族構成は、主人公の少年Ronnieとその母親の黒人の母子家庭であった。そんな彼らの生計を立てているのは主に母親で、その仕事と娼婦だったがあまり収入は得られていないようである。そして彼らは大変貧しい暮らしをしており、食事もまともに食べることのできないような生活をしていた。しかしそんなことが原因となって息子は栄養失調を引き起こして死んでしまう。これがこの物語の重要なところで、この息子が死後の世界から戻ってくるというのが主なところである。次に、この二人のそれぞれの性格を見ていきたい。
　まず母親の性格を見ていく。彼女は赤いセーターを着たり、化粧を何度も直すシーンがあることから、派手好きな女性であることが分かる。そして彼女は売春で生計を立てており、息子Ronnieを生み、未婚の母になっているが女手一つでここまで育てたことからも..]]></description>

		</item>

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