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		<title>タグ“外交史”の公開資料</title>
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		<description>タグ“外交史”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】外交史①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918572373692@hc22/151626/]]></link>
			<author><![CDATA[ by まるひな]]></author>
			<category><![CDATA[まるひなの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 23 May 2023 23:39:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918572373692@hc22/151626/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/918572373692@hc22/151626/" target="_blank"><img src="/docs/918572373692@hc22/151626/thmb.jpg?s=s&r=1684852752&t=n" border="0"></a><br /><br />日本大学通信教育学部、2023~2024年度の外交史のリポート課題①、「30年戦争とウェストファリア講和の意義」の合格リポート原稿です。手書きの際に若干修正を加えております。補助教材などを参考にご自身で作成してください。
丸写しでの提出は[334]<br />　ウェストファリア講和は、30年戦争を終結させた条約である。この講和条約は、主権国家を認め、それらから構成される国際社会を形成し、国際秩序存在が認められるに至った。本リポートでは30年戦争の経緯をまとめ、後にウェストファリア講和の意義について論じる。
　1618～1648年に中央ヨーロッパを中心に起こった30年戦争は、カトリックとプロテスタントとで争われた宗教対立が始まりである。直接の契機となったのは、ドイツでの複雑な宗教事業を背景として発生した、ボヘミア(ベーメン)での新教徒貴族の反政府暴動だ。この戦いは国王選挙などを経て、1620年にプロテスタント側が敗戦し一端の幕引きとなった。
　この戦争は、1625年にデンマーク国王軍プロテスタント側として参戦することで再燃し、同時に国際紛争へと拡大した。デンマークの参戦は、またもやカトリック側の勝利という結果になり、リューベック講和条約によってデンマークはドイツから締め出されたが、この対立は終結しなかった。
1630年にはスウェーデンがプロテスタント救済を名目に北ドイツに進行した。この時点で、スウェーデンはフランスから資金援助を受ける約束を取..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】外交史　2023年～2025年（科目コードL30700）課題2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151161/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 過去問解析部]]></author>
			<category><![CDATA[過去問解析部の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 10 Apr 2023 20:58:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151161/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151161/" target="_blank"><img src="/docs/918113963787@hc22/151161/thmb.jpg?s=s&r=1681127891&t=n" border="0"></a><br /><br />丸写しは避けていただければと思います。  また、最後にまとめとして自分の意見を数行でいいので加えると通過率が上がります。[176]<br />外交史（科目コードL30700）課題２
横書解答
　第2次世界大戦前のアメリカ外交とイギリス外交

〈ポイント〉
　まず，第1次世界大戦の損害と「持てる国」対「持たざる国」を簡単にまとめる。
次に「イギリスの平和」の終焉とそれに代わるアメリカ資本主義の最盛期およびアングロ・サクソンの平和等をアメリカの外交の視点で論じる。その後，イギリスの外交の要点をまとめる。
〈キーワード〉
　アメリカの孤立主義。ロカルノ条約。宥和政策。

第1次世界大戦において、持てる国と持たざる国の対立が激化し、多大な被害が発生した。この教訓から、アメリカは孤立主義を掲げ、他国の紛争に介入しない方針をとった。しかし、イギリスは持続的な平和を求め、積極的に国際的な関係を築こうとした。

アメリカは、自国の資本主義の最盛期を迎え、英米の関係も強化された。一方、イギリスは、戦争での被害から回復しきれず、経済的にも苦境に立たされた。このような状況下で、アメリカはイギリスとの関係を重視しながらも、自国の利益を優先する外交政策をとった。

また、アメリカの外交政策には、宥和政策が含まれていた。アメリカは、国際的な緊張を緩和さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】外交史　2023年～2025年（科目コードL30700）課題1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151160/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 過去問解析部]]></author>
			<category><![CDATA[過去問解析部の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 10 Apr 2023 20:57:31 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151160/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/918113963787@hc22/151160/" target="_blank"><img src="/docs/918113963787@hc22/151160/thmb.jpg?s=s&r=1681127851&t=n" border="0"></a><br /><br />丸写しは避けていただければと思います。  また、最後にまとめとして自分の意見を数行でいいので加えると通過率が上がります。[176]<br />外交史（科目コードL30700）課題１
横書解答
　30年戦争とウェストファリア講和の意義

〈ポイント〉
　30年戦争の発端とその後の拡大と終熄の経緯をまとめて，ウェストファリア講和が近代国際社会成立の上でどのような意義を持つか論じ，また，ヨーロッパ各国の動向について述べる。
〈キーワード〉
　30年戦争の発端。その拡大。ウェストファリア講和。ウェストファリア会議。

30年戦争は、1618年に始まり、ヨーロッパを中心に広がった戦争である。主にドイツのプロテスタントとカトリックの勢力間の対立が原因であり、ドイツに限らず、周辺国家も巻き込まれていった。戦争は、経済的・社会的な破壊をもたらし、多くの犠牲者を出すこととなった。

30年戦争の拡大には、外部の介入も影響していた。フランスは、ハプスブルク家の勢力拡大に危機感を覚え、スウェーデンは、バルト海に面するドイツ北部の港湾都市に興味を持ち、両国ともに戦争に介入した。また、スペインやデンマーク、オランダなども戦争に参戦し、戦争は複雑な形を取ることとなった。

しかし、戦争の拡大に伴い、多くの国々が戦争の終結を求めるようになった。そして、1..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】外交史（L30700）課題１ 合格リポート【2019～2022年度】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143722/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fm314]]></author>
			<category><![CDATA[fm314の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 11 Apr 2021 22:01:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143722/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143722/" target="_blank"><img src="/docs/921631368892@hc21/143722/thmb.jpg?s=s&r=1618146117&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信　外交史　2019～22年度　課題1の合格リポートです。
丸写しなどは避けて、あくまで参考程度とし、ご使用は自己責任でお願いいたします。
リポート作成、がんばってください。[254]<br />【日大通信】外交史（L30700）課題１ 合格リポート【2019～2022年度】

＜課題＞
30年戦争とウェストファリア講和の意義

＜ポイント＞
30年戦争の発端とその後の拡大と終熄の経緯をまとめて、ウェストファリア講和が近代国際社会成立の上でどのような意義を持つか論じ、また。ヨーロッパ各国の動向について述べる。

＜キーワード＞
30年戦争の発端、その拡大、ウェストファリア講和、ウェストファリア会議

１．30年戦争について
　
カトリック（旧教）とプロテスタント（新教）に分かれヨーロッパのほとんどの王家を巻き込んだ30年戦争は、どのように起きたのであろうか。まず、16世紀以来各国の利害の衝突が、新旧両教の争いと結びつき、宗教が政治に利用された戦争時代に突入する。
この宗教改革時代では、ドイツ帝国内は分裂して君主諸侯間の争いが絶えなかった。ドイツ皇帝はハプスブルグ家の出身で旧教徒であるが、その領土のボヘミアでは、新教が広く普及していた。神聖ローマ皇帝フェルディナンド２世が旧教主義を強制したことで、ボヘミア人が反乱を起こした。この反乱が30年戦争の発端となり、戦争は1618年から1..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】外交史（L30700）課題2 合格リポート【2019～2022年度】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143714/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fm314]]></author>
			<category><![CDATA[fm314の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 10 Apr 2021 10:12:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143714/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/921631368892@hc21/143714/" target="_blank"><img src="/docs/921631368892@hc21/143714/thmb.jpg?s=s&r=1618017169&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信　外交史　2019～22年度　課題2の合格リポートです。
丸写しなどは避けて、あくまで参考程度とし、ご使用は自己責任でお願いいたします。
リポート作成、がんばってください[251]<br />【日大通信】外交史（L30700）課題2 合格リポート【2019～2022年度】

＜課題＞
第２次世界大戦前のアメリカ外交とイギリス外交

＜ポイント＞
まず，第 1 次世界大戦の損害と「持てる国」対「持たざる国」を簡単にまとめる。
次に「イギリスの平和」の終焉とそれに代わるアメリカ資本主義の最盛期およびアングロ・サクソンの平和等をアメリカの外交の視点で論じる。
その後，イギリスの外交の要点をまとめる。

＜キーワード＞
アメリカの孤立主義　ロカルノ条約　宥和政策

１．第１次世界大戦の損害とその後
1914年から1918年までの４年間にわたる第１次世界大戦は、総力戦による影響から規模が拡大し、兵士・民間人を含めた死者数は、およそ2000万人と桁外れの損害を出した。
戦後、国際協調が謳歌された1920年代は、一応平穏を保つことができたが、1929年の世界恐慌を機に国際秩序の悪化が見え始めた。世界恐慌による経済打撃により米英仏などの「持てる国」は、排他的なブロック経済政策を採って現状の世界秩序の維持を望んだ。
これに対して、日独伊の「持たざる国」は現状打開派の国家として「枢軸」を結成し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[外交史　分冊２　平成29～30年度　日本大学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938416692795@hc15/133007/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おばんくさこ]]></author>
			<category><![CDATA[おばんくさこの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 06 Mar 2018 14:16:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938416692795@hc15/133007/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/938416692795@hc15/133007/" target="_blank"><img src="/docs/938416692795@hc15/133007/thmb.jpg?s=s&r=1520313395&t=n" border="0"></a><br /><br />平成29～30年度　日本大学の外交史分冊２の課題報告レポートです。[91]<br />外交史　分冊2
※　平成29年10月に提出したものです。※不十分な面もあるが、概ねその要点はまとめてられていましたという評価でした。ですので、参考までにしていただき丸写しはやめてください。不合格になっても自己責任でお願いいたします。
　
　問　　第二次世界大戦直後のヨーロッパ諸国の動向について、イギリスとドイツを中心にまとめてください。
　
　
　第二次世界大戦は、人類史上最大の犠牲を払い、空前の損害をもたらして、アメリカ・イギリス・ソ連などの反ファシズム諸国の勝利に終わった。その結果、敗戦国であるドイツ・日本・イタリアの三国が大国としての地位を失ったことはいうまでもないが、イギリスのような戦勝国も戦争による莫大な損害と戦後の植民地独立のため、戦前のような帝国主義大国としての地位を保つことはできなかった。
　ヨーロッパは、19世紀以来の世界の中心としての地位を失い、大戦末期のソ連軍の進出により東の社会主義圏と西の資本主義圏に分裂し、第二次世界大戦後の世界は、アメリカとソ連をそれぞれ盟主とする資本主義圏あるいは自由主義圏と社会主義圏ないし共産圏の「二つの世界」に分裂した。また、これまで..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大通信　外交史　分冊１　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s-aor-i]]></author>
			<category><![CDATA[s-aor-iの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Sep 2014 20:21:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115958/" target="_blank"><img src="/docs/942884723944@hc14/115958/thmb.jpg?s=s&r=1411384917&t=n" border="0"></a><br /><br />ヴェルサイユ体制とその崩壊について述べよ
　第一次世界大戦は、アメリカの参戦により、英仏側が勝利し、その後六個の平和条約が調印された。パリ講和会議にて、ドイツとはヴェルサイユ条約(1919年6月28日)、オーストリアとはサン・ジェルマン条約(1915年9月10日)、ブルガリとはニュイーイ条約(1919年11月27日)、ハンガリーとはトリアノン条約(1920年6月４日)、トルコとはセーブル条約(1920年８月10日)である。しかし、セーブル条約はトルコが調印を拒んだため、別にローザンヌ条約(1923年７月23日)が調印された。
　ヴェルサイユ条約は、単に旧敵国との講和事項だけでなく、第一編国際連盟規約(これにより国際連盟は正式に成立された)、第一三編労働など、全般的な国際平和機構、国際労働機構の設立を記載したものであったため、これに基づいた国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれる。ヴェルサイユ条約により、ドイツは片務的最恵国条款や幾多の財政上、通商上の義務や制限が強制され、過酷な賠償義務が負わされ、通商上、財務上の諸制限が課せられた。そして連合国の軍隊がこの条約履行に対する保障として15カ年..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日大　通信　外交史　過去問ノート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115937/]]></link>
			<author><![CDATA[ by s-aor-i]]></author>
			<category><![CDATA[s-aor-iの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 22 Sep 2014 19:35:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115937/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942884723944@hc14/115937/" target="_blank"><img src="/docs/942884723944@hc14/115937/thmb.jpg?s=s&r=1411382114&t=n" border="0"></a><br /><br />科目修得試験のテスト対策として、過去問についての要点をまとめました。[102]<br />ビスマルク体制とその崩壊
ビスマルク体制：19世紀後半にドイツ帝国宰相ビスマルクの築いたヨーロッパの外交関係のこと。この体制の間、フランスは孤立することとなった。
フランスとドイツの戦争後&rarr;ドイツ帝国成立
　　　　　　　　　　　　&rarr;しかしドイツ国内は不安定&rarr;フランスを警戒
&darr;
ドイツがヨーロッパ各国と同盟を結んで、外交的にフランスを孤立させる
・ 1873年：オーストリア、ロシアと三帝同盟
・ 1878年：ベルリン会議で三帝同盟崩壊(オーストラリア、ロシアの対立)
・ 1881年：三帝協商
1882年：オーストリア、イタリアと三国同盟
　　　　 &rarr;フランスによるチュニジアの保護国化に不満をもっていた
1887年：三帝協商崩壊(オーストラリア、ロシアの対立)
　　　　 &rarr;独露再保障条約締結
ヨーロッパ列強のヨーロッパ以外の地域での植民地拡大に消極的態度
&rarr;フランスのナショナリズムをヨーロッパの外部への領土拡張に振り向け、対独復讐に向かわせないため。そのためにはドイツは植民地的利害には関心を持たないポーズ。
ドイツの地位安定のためにヨーロッパの勢力均衡が平和なまま現状維持されることを望む
&rarr;列強間の利害対立を積極的に調停してドイツの国際的地位を高めた
&rArr;19世紀最後の四半期はビスマルク体制の成功によりヨーロッパにほとんど戦火は存在しなかった。
1890年：ビスマルクが辞職。ヴィルヘルム2世の親政が開始。
&rarr;他の列強との協調関係よりもドイツの帝国主義的利害を重視する「新航路政策」へ。ビスマルク体制解体。列強諸国との対立激化。フランスは露仏同盟から孤立状態を脱し、逆にドイツ包囲網が築かれていった。
日清戦争・日露戦争について論じなさい。
1894年朝鮮：迷信的信仰に基礎を置く排他的政治運動である東学党の乱が発生
　　　　　　&rarr;1894年６月：日清両国出兵(天津条約)
　　　　　　&rarr;日本は清国に東学党討伐と朝鮮の共同改革を提案。清国拒否。
　　　　　　&rarr;1894年8月：日清戦争開戦
1894年：黄海開戦
同11月：旅順、大連を占領
1895年：日清講和条約締結
　　　　&rarr;日本は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金２億
　　　　　両を獲得。
　　　　&rarr;ロシア・フランス・ドイツの三国干渉から遼東半島を清国に返還
1900年：義和団事件
　　　　&rarr;清国が敗れたこと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[外交史　分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110073/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Jan 2014 21:43:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110073/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110073/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/110073/thmb.jpg?s=s&r=1390394615&t=n" border="0"></a><br /><br />ヨーロッパ共同体（今日の欧州連合（EU））の設立と欧州各国の外交。[95]<br />外交史　分冊2
参考文献：
ヨーロッパは統合しなければならない　R.N.クーデンホーフ・カレルギー　
鹿島研究所出版会　1963/9/25
EU入門　島野卓爾・岡村垚・田中俊　有斐閣　2004/6/30
欧州統合への試み
1946年9月、イギリスのチャーチルはヨーロッパ合衆国の建設を呼びかける演説を行い、これに触発される形で、ヨーロッパ各地で欧州統合運動が活発化し1948年5月オランダのハーグで欧州会議が開催され、翌年5月に欧州審議会を設立する条約が調印された。
欧州審議会は、ヨーロッパが主導権を握った第二次世界大戦はじめてのヨーロッパ再編に向けての試みであったが、イギリスやスカンジナビア諸国などが超国家的な統合に反対したのに加え、防衛分野が除外され、経済も先のOEECが先行していたため、広範な分野での意見交換の場に留まってしまった。欧州審議会が政府間機構に留まり、防衛、経済面でも政府間機構による再編が進んだことは、伝統的に連合主義に立脚してきたイギリスがまだヨーロッパにおける主導権を握っていたことを示していた。
欧州統合の始まり
フランスは、欧州統合に向けたイギリスとの協力関係の構築..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[外交史　分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110072/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Jan 2014 21:43:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110072/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110072/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/110072/thmb.jpg?s=s&r=1390394614&t=n" border="0"></a><br /><br />ヴェルサイユ体制とその崩壊について述べよ。[63]<br />外交史分冊1
参考文献：ヴェルサイユ条約　牧野雅彦　中公新書　2009/1/25
　第一次世界大戦の終結と講和
　1919年のロシア革命によってロシアが戦線から離脱したことは、ドイツ側に有利な結果となるようにみえたが、アメリカの参戦によって大戦の趨勢は決定的となった。そして連合国を優勢に導いたウィルソン大統領は「平和十四ヵ条綱領」を発表し、これが大戦終結に大きな発言権を確保することになる。
　中でも大きな影響を及ぼしたのが民族自決の原則といえる。自決権または民族自決の原則は、枢軸国であるオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン・トルコ帝国などの支配下にある民族に向けられており、これらの国の内部崩壊を進めようという意図があったと考えられる。その後、最終的に戦況の厳しくなったドイツも「平和十四ヵ条綱領」を承認して休戦を要請したが、受け入れられずオランダに亡命し、代わって共和国政府のもと連合国との間で休戦条約が調印されることとなった。
ヴェルサイユ体制の構造
主にヴェルサイユ条約を基礎とする第一次大戦後のヨーロッパの国際秩序であり、敗戦国再起の防止、再分割後の植民地の維持などを目的とした体制を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[0222_外交史分冊２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89265/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yoshitomi0406]]></author>
			<category><![CDATA[yoshitomi0406の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 09 Jan 2012 20:38:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89265/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89265/" target="_blank"><img src="/docs/962346158389@hc08/89265/thmb.jpg?s=s&r=1326109092&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポートです。[27]<br />第二次世界大戦以降の西ヨーロッパ諸国は伝統的な多様性を失わずして、戦後の難問題を解決すべく、それぞれ異なった試みを行った。第一に経済復興、第二に緊張した国際関係、特に共産主義国家に対する軍事的安全補償の必要が生じ、この二つが一九四五年以来、ヨーロッパ各国政府が直面した最大の課題となる。仮にヨーロッパが生き残り、重要な役割を果たそうとするためには西欧各国は国家的対立を克服し、どのような形でもヨーロッパ統合を模索する必要があった。ヨーロッパ統合への具体的な動きはヨーロッパ合衆国運動、ヨーロッパ連邦運動と気運が高まり、一九六四年、ウィンストン・チャーチルによる「鉄のカーテン」発言から「ヨーロッパ合衆国」構想を唱えるなど、ヨーロッパを統合させようと動き出す。一九五〇年五月、シューマン宣言から、その中で経済と軍事における重要資源の共同管理構想を掲げ、ヨーロッパの安定と経済の発展を図る。このシューマンの構想を基礎にして欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が策定され、一九五二年七月に欧州石炭鉄鋼共同体が設立される。一九五七年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべく二つのローマ条約が調..]]></description>

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			<title><![CDATA[0222_外交史分冊１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89264/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yoshitomi0406]]></author>
			<category><![CDATA[yoshitomi0406の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 09 Jan 2012 20:27:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89264/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962346158389@hc08/89264/" target="_blank"><img src="/docs/962346158389@hc08/89264/thmb.jpg?s=s&r=1326108450&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポート（良評価）です。[42]<br />四年四ヶ月にわたって継続された第一次世界大戦は英仏側の勝利となり、一九一九年一月、連合国とドイツによるパリ講和会議が行われ、六ヶ月に及ぶ会議の末、一九一九年六月二八日、敗戦国であるドイツ帝国の条約調印式が行われ「ヴェルサイユ講和条約」が発効し、第一次世界大戦は終了した。
　パリ講和会議は戦勝二七カ国の代表によって開かれたが、アメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソーらが事実上の主導権を握り、ヴェルサイユ体制は、第一次世界大戦の反省に立って恒久平和と国際協調を目指し､ウィルソンの十四ヵ条にみられるように「民族自決」を原則としていたが、アジア、アフリカには適用されず、戦勝国の利害によって国際紛争が続発した。日本の対華21ヵ条に反対する中国の抗議や、エジプト、インドの独立の要求は無視された。
　オーストリアとは一九一五年九月一〇日に調印のサン・ジェルマン条約、ブルガリアとは一九一九年一一月二七日調印のニュイーイ条約、ハンガリーとは一九二〇年六月四日のトリアノン条約、トルコとは一九二〇年八月一〇日のセーブル条約が調印され、これらの条約によりもたらされた国際秩序を..]]></description>

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			<title><![CDATA[【合格レポート】外交史　分冊1　]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956447941025@hc10/65417/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cattle]]></author>
			<category><![CDATA[cattleの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 03 Apr 2010 15:07:59 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956447941025@hc10/65417/" target="_blank"><img src="/docs/956447941025@hc10/65417/thmb.jpg?s=s&r=1270274879&t=n" border="0"></a><br /><br />「日露戦争の原因とその国際情勢および日本への影響」

私は日露戦争の原因が満蒙を巡る対立にあると考える。それは義和団事件（明治三二‐三四年にかけて発生した、宗教団体義和団による反西洋、反キリスト教の排外運動。｢扶清滅洋｣を謳い、近代的設備や[356]<br />私は日露戦争の原因が満蒙を巡る対立にあると考える。それは義和団事件（明治三二‐三四年にかけて発生した、宗教団体義和団による反西洋、反キリスト教の排外運動。｢扶清滅洋｣を謳い、近代的設備や施設、教会を破壊。その教徒までも殺害した事件。）にまで遡り、日本の国防方針にも強い影響を与えた。
事件発生後、義和団が北京へ着き、清国政府が西太后の支持を得ると、明治三三年六月二一日に万国に対し宣戦布告した。日英米仏独露伊墺の八ヵ国は、領事館や居留民保護のために北京へ軍隊を派遣。その際、ロシアは七月から満州に出兵し、義和団鎮圧とともに当地を占領した。それに脅威を感じた英国は、自国の権益を守るために「光栄ある孤立政策」を転換し、明治三五年二月に日英同盟を締結した。
その主たる内容は「１、日英両国は清韓両国の独立、領土保全を確認する。２、日本は清韓両国における、英国は清国における特殊利益を相互に承認する。３、日英両国の一つが第三国と交戦する場合、他の一国は中立を守り、数国との交戦の場合、他は参戦する。４、有効期間五ヵ年」である。これにより、日本は三国干渉以来の孤立状態から、また英国は極東において孤立する危険..]]></description>

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			<title><![CDATA[幣原喜重郎の外交政策]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/22640/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 24 Jul 2008 00:20:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/22640/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/22640/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/22640/thmb.jpg?s=s&r=1216826447&t=n" border="0"></a><br /><br />ワシントン体制下の日本外交
　ワシントン会議で結ばれた海軍軍縮に関する五か国条約、太平洋に関する四か国条約、中国に関する九か国条約は、別々のものではなかった。これらは相互に関連し、第一次世界大戦後にヨーロッパに誕生したヴェルサイユ体制と並ん[358]<br />]]></description>

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			<title><![CDATA[モロッコにおける西欧列強の動きについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432340601@hc05/596/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ちゆう]]></author>
			<category><![CDATA[ちゆうの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 24 Jun 2005 23:16:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432340601@hc05/596/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432340601@hc05/596/" target="_blank"><img src="/docs/983432340601@hc05/596/thmb.jpg?s=s&r=1119622569&t=n" border="0"></a><br /><br />19世紀の帝国主義の進展からおこった西欧列強による世界分割は、文字どおり全世界の土地を西欧の強国が分け合って植民地にするもので、特にアフリカは、独立していた国が少なかったことから、西欧列強の格好の分割対象になった。モロッコはアフリカの中でも[356]<br />外交史レポート
モロッコにおける西欧列強の動きについて
はじめに
19世紀の帝国主義の進展からおこった西欧列強による世界分割は、文字どおり全世界の土地を西欧の強国が分け合って植民地にするもので、特にアフリカは、独立していた国が少なかったことから、西欧列強の格好の分割対象になった。モロッコはアフリカの中でも北側に位置し、北大西洋・地中海に面していることから重要な拠点として各国の注目が集まった。そして一歩先に関心を持ったフランスに遅れてきた強国・ドイツが反発する、という形でモロッコの問題は展開し、モロッコ問題は第一次世界大戦勃発の引き金の一つとも言えよう。このレポートでは、二度にわたるモロッコ事件をはじめとしたモロッコの動きを通して、フランスとドイツを中心とした西欧列強の外交政策・外交戦略について述べたいと思う。
１ モロッコ事件にいたるまで
１－１ モロッコ前史
元々モロッコはキリスト教国ではなく、イスラム教の国であり、預言者モハメッドの娘ファーティマの子孫であるシェリフと呼ばれるサルタン達によって、中途でアフリカ北部原住民のベルベル王朝になった時期（11、12世紀）もあったが、受け継が..]]></description>

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