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		<title>タグ“哲学概論”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E6%A6%82%E8%AB%96/</link>
		<description>タグ“哲学概論”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
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		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153724/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 駆け出しの教員]]></author>
			<category><![CDATA[駆け出しの教員の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 29 Jul 2024 13:37:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153724/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/912354818963@hc24/153724/" target="_blank"><img src="/docs/912354818963@hc24/153724/thmb.jpg?s=s&r=1722227837&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信教育課程での【哲学概論】合格レポートです。

設題　「心身問題、その一答案」を「音がする」「心の中」 
           の議論を用いながら、まとめよ。できる限り、大森 
           の論旨を忠実に再現して[296]<br />哲学概論　

　本レポートでは、「心身問題、その一答案」を「音がする」「心の中」の議論を用いて、さらに、自分の考えや意見を具体的な例を挙げながら記述していく。

　第一問として全般的な問題をとりあげる。それは、いわゆる心的現象と物理的世界の関係如何、というものである。それに対する問題として3つの種類が挙げられる。

1.	全曲的問題―物的世界と心的現象の「重ね書き」の一元論的構図。
一元論的構図はすべての存在や現象を1つの根源や原理に帰結させる考え方で、ここでは、1つの世界の物理的描写と知覚的描写の「重ね書き」の構図を目指すというものである。したがって、精神と物質の区分と対立が消滅する。つまり、物理的客観世界と主観的意識世界という二元論的構図を棄てたということとなる。
　二元論的構図とは哲学的見解であり、日常の常識でもあり、科学者の大部分の通念でもある。日常茶飯の経験が、この二元論を示唆する。その主なものとして、十人十色、心的現象、幻覚がある。
　十人十色の経験は、同じ風景でも人によって見え方が違うというものである。このことから、同一対象―各人各様の印象、という対比が生じるのは自然であ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Q0505 哲学概論　第二節第]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145023/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぶっだーん]]></author>
			<category><![CDATA[ぶっだーんの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 06 Aug 2021 00:44:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145023/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145023/" target="_blank"><img src="/docs/926949671061@hc19/145023/thmb.jpg?s=s&r=1628178287&t=n" border="0"></a><br /><br />評価：よくまとまった内容であり、的確に大森の議論が把握されている。
「過去は消えず、去りゆくのみ」を「記憶について」「幻滅論法」の議論を用いながら、まとめよ。できる限り、大森の論旨を忠実に再現してみること。その上で、十分な長さで、自分の考[356]<br />過去が過ぎ去るのは水の流れのようにではなく、音が消えゆくように、である。流れた水はただその場所を離れただけで追いかければまた捉えることができる。一方で音を追いかけることができないのは、音が超音速的に速いからではなく消え去るからである。音は生まれた時が死ぬ時であり、生じた時が消える時、存在する時が存在をやめる時なのである。そして消えた音は過去の音であり、その音と共に在ったもの、街や空や人の風景もまたその音と共に消え去るのではないか。つまり過去はもはや存在しておらず、存在するのはただ現在である。過去は水に流すまでもなく既に瞬く隙に消え失せている。このことは特に、動くもの、変わりゆくものを見るときに一目瞭然である。例えば、時計の針はただ現在位置にのみ存在し、過ぎた時刻を指す針は既にない。それならば、その過ぎた時刻の世界もまた既にない、というべきであろう。世界は音と同様、瞬間的消滅なのである。しかし、このような瞬間消滅的な世界を信じる人はいない。過去が完全に非罪で空虚であると考える人がいないのは、それは自分の人生や人間の歴史が完全に空虚なものだと考え、交わした約束や犯した罪、預金や借金も今は存..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Q0505 哲学概論　第一節第]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145022/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぶっだーん]]></author>
			<category><![CDATA[ぶっだーんの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 06 Aug 2021 00:41:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145022/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926949671061@hc19/145022/" target="_blank"><img src="/docs/926949671061@hc19/145022/thmb.jpg?s=s&r=1628178086&t=n" border="0"></a><br /><br />評価：よくまとまった内容であり、的確に大森の議論が把握されている。
「心身問題、その一答案」を「音がする」「心の中」の議論を用いながら、まとめよ。できる限り、大森の論旨を忠実に再現してみること。その上で、十分な長さで、自分の考え、意見を、[356]<br />　第一問として全般的な問題は、いわゆる心的現象と物理的世界の関係如何、というものである。それに対する答案として三つの種類が挙げられる。
一、全曲的問題－物的世界と心的現象の「重ね描き」の一元論的構図。
この一元論的構図にあっては、客観的世界と主観的意識との分別と対立や「精神と物質」の区分と対立が消滅する。したがって物心関係の問題もまたそのままの形では消滅する。それらの問題が問題としての表現されるための枠組である、物理的客観的世界と主観的意識世界という二元論的構図が棄てられたからである。
　「二元論的構図」とは哲学的見解である以前に日常の常識でもある。この二元論を示唆する主な日常的経験として主にあげられる経験として十人十色、幻覚、各種の心的現象がある。
第一の十人十色の経験は、同一対象－各人各様の印象、という対比が生じ、「同一対象」が主観的世界に、各人のその時々の「印象」が主観的意識に配されて二元論的構図に導かれる。
　第二に心的現象と物的世界の中間にある「知的世界」では「幻覚」と呼ばれる現象がある。「幻覚」とは幽霊のような非の打ち所のない幻だけなのではなく、見間違い、思い違い、誤報など..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q0505　哲学概論　第2設題　リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140389/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のちちを]]></author>
			<category><![CDATA[のちちをの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 17 Apr 2020 21:52:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140389/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140389/" target="_blank"><img src="/docs/929308359985@hc18/140389/thmb.jpg?s=s&r=1587127941&t=n" border="0"></a><br /><br />2018年度－2019年度佛教大学通信教育課程の合格リポートです。すべてAもしくはB判定を受けています。
科目コードが違っていても設題が同じであればお役に立てると思います。あくまで参考程度になされますようお願い致します。

設題：第三[328]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。

テキスト第三章では知識や認識について様々な先人の考察を挙げている。第一節ではプラトンの『ポリティア』（『国家』）を取り上げ、認識について説いている。本リポートでは、『ポリティア』に記述されたプラトンの認識論をまとめ、それに対し自らの意見を述べていく。

一口に認識といえども、そこには様相の違いがある。人間のもつ感覚器が受容した情報である感覚的認識と普遍的・妥当的な知識としての認識、つまり理性的認識とがある。感覚は一時的かつ個人的であるので、その瞬間、その個人にとっては確実な真実であっても、真に認識であるとはいえない。一方、理性的認識は真に存在をとらえることができるとされる。では、この真なる認識とは一体何であるのか。
プラトンは認識について、『ポリティア』第7巻にて洞窟の譬えを用いて表現している（図1）。洞窟内では囚人は前方の壁しか見ることのできない状況にある（図1：右の人物）。彼らの後ろにも低い壁があり、壁沿いに他の人々が様々な模像を掲げて話をしながら歩いている（..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q0505　哲学概論　第1設題　リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140318/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のちちを]]></author>
			<category><![CDATA[のちちをの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Apr 2020 12:45:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140318/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140318/" target="_blank"><img src="/docs/929308359985@hc18/140318/thmb.jpg?s=s&r=1586749554&t=n" border="0"></a><br /><br />2018年度－2019年度佛教大学通信教育課程の合格リポートです。すべてAもしくはB判定を受けています。
科目コードが違っていても設題が同じであればお役に立てると思います。あくまで参考程度になされますようお願い致します。

設題：第二[328]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。

テキスト第二章では「在る」という述語、つまり存在について様々な先人の考察を挙げている。第一節ではアリストテレスの『形而上学』を取り上げている。彼によれば存在論こそが第一哲学であり、すべての学問の先駆けとなる。本リポートでは、『形而上学』における存在論をまとめ、それに対し自らの意見を述べていく。
『形而上学』第5巻7章では、存在の分類について以下のように規定されている。

①	付帯的存在
②	本質的存在
③	真としての存在
④	可能態・現実態としての存在

これらのうち、本質的存在はそれ自体において存在する存在という意味で、最も基本的である。
また、存在は第一義的に実体であるとも定義されている。実体について見ることで存在を知ることができる。実体においても分類が規定されている。同書の第5巻第3章及び第7巻第3章において実体についての規定が記述されているが、ここでは後者のものを取り扱う。

①	基体
②	本質
③	普遍概念
④	類

4つのうち、基体が優れた意味で実体で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星通信】 哲学概論（PE3060） _ 2単位目 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by MEISEI Reporter]]></author>
			<category><![CDATA[MEISEI Reporterの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 31 May 2018 10:38:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134132/" target="_blank"><img src="/docs/930771627526@hc18/134132/thmb.jpg?s=s&r=1527730681&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学 教育学部 通信教育課程、標題科目の合格レポートです。

これまですべて一発合格で、本レポートも高評価をいただきました。
通信という孤独な環境下で勉学に励んでおられる皆様のお役に立てれば幸いです。

【課題】
＜2単位目＞
3問中1[336]<br />＜哲学概論（PE3060） _ 2 単位目 合格レポート＞ 
【課題】 
3 問中 1 問を選んで、課題番号と課題を記入して報告しなさい。※2a を選択 
2a：日本独特の「タテ社会」を、ヨーロッパ的な社会と対比して論じなさい 
2b．人間の創造性に関して、芸術と科学のそれぞれの場合を対比しながら論じなさい 
2c．古代ギリシアの自然観と近代の自然観の相違を論じなさい 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
【レポート本文】 
2a：日本独特の「タテ社会」を、ヨーロッパ的な社会と対比して論じなさい。 
私たちの基本的な生活空間は「世間」にあり、様々な「社会」に生きている。以下に、日本独
自の「タテ社会」について、日本独自の「世間」や「恥」の文化を引き合いに出しつつ、ヨーロ
ッパ的な社会と対比して論じていく。 
まず、「社会」に比べより身近に感じる「世間」を具体的に考える際、和辻哲郎による「うち
とそと」の区別を参考にしたい。一般的に日本人は家を「うち」と捉え、世間を「そと」として
捉えるが、「うち」は単なる血縁関係だけでは表せず、土居健..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星通信】 哲学概論（PE3060） _ 1単位目＋2単位目セット 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134131/]]></link>
			<author><![CDATA[ by MEISEI Reporter]]></author>
			<category><![CDATA[MEISEI Reporterの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 31 May 2018 10:38:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134131/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134131/" target="_blank"><img src="/docs/930771627526@hc18/134131/thmb.jpg?s=s&r=1527730680&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学 教育学部 通信教育課程、標題科目の合格レポートです。

これまですべて一発合格で、本レポートも高評価をいただきました。
通信という孤独な環境下で勉学に励んでおられる皆様のお役に立てれば幸いです。

【課題】
＜1単位目＞
3問中1[336]<br />＜哲学概論（PE3060） _ 1 単位目 合格レポート＞ 
【課題】 
3 問中 1 問を選んで、課題番号と課題を記入して報告しなさい。※1b を選択 
1a．人間の身体を「世界&minus;内&minus;存在」と捉える考え方について論じなさい 
1b．他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい 
1c．「言葉の本質は差異である」という思想をソシュールに即して論じなさい 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
【レポート本文】 
1b：他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい。 
私たちは、他者を気にかけず生きてゆくことはできない。例えば、周りに他者が直接的にいな
いときでも他者の存在を気にし、他者を無視するということも他者を気にしての結果である。ま
た、他者の表情を通じて直接的に他者と出会うこともあるが、このように他者はいつも近さの関
係で私の前に現れるわけではない。例えば死に於ける無限の隔たりなど、他者は、私から離れて
いく存在でもある。つまり、「他者は私に対して、近さと隔たりという相反する 2 つの関係に於
いて現れる。」と言え、私と完全に一体化した他者はもはや他者ではなく、反対に私と一切の関
係を持たない他者もやはり他者でありえない。他者とは、「近づきつつ隔たり、隔たりつつ近づ
くという矛盾した仕方で現れる」と言えるのだ。この相反する近さと隔たりという観点から、他
者との関係のあり方について、サルトルとレヴィナスを対比しながら以下に論じていく。 
まず、近さという観点を詳しく解説したい。幼児が大人の行為を完全に模倣し、無意識的に他
者を経験していることがある。近さという視点でこれを捉えると、幼児は大人が表現する表情と
身体的意図を経験し、反対にそれは幼児の身体に対する大人の経験でもあると言える。つまり、
自他の区別を解消しようとすることでお互いの経験が反転し、私は他者にもっとも接近すること
が出来ると言えるのだ。これを共存と呼び、恋人同士がより近さを求めるため、抱きあうことで
互いに自分の身体の内面に相手の身体を共存させることなどが挙げられる。 
次に、隔たりについてであるが、これは死と病を考えることで理解が進む。病の苦しみはあく
まで他者の苦しみであり、私は他者が苦しん..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【明星通信】 哲学概論（PE3060） _ 1単位目 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134130/]]></link>
			<author><![CDATA[ by MEISEI Reporter]]></author>
			<category><![CDATA[MEISEI Reporterの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 31 May 2018 10:38:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134130/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930771627526@hc18/134130/" target="_blank"><img src="/docs/930771627526@hc18/134130/thmb.jpg?s=s&r=1527730680&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学 教育学部 通信教育課程、標題科目の合格レポートです。

これまですべて一発合格で、本レポートも高評価をいただきました。
通信という孤独な環境下で勉学に励んでおられる皆様のお役に立てれば幸いです。

【課題】
＜1単位目＞
3問中1[336]<br />＜哲学概論（PE3060） _ 1 単位目 合格レポート＞ 
【課題】 
3 問中 1 問を選んで、課題番号と課題を記入して報告しなさい。※1b を選択 
1a．人間の身体を「世界&minus;内&minus;存在」と捉える考え方について論じなさい 
1b．他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい 
1c．「言葉の本質は差異である」という思想をソシュールに即して論じなさい 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
【レポート本文】 
1b：他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい。 
私たちは、他者を気にかけず生きてゆくことはできない。例えば、周りに他者が直接的にいな
いときでも他者の存在を気にし、他者を無視するということも他者を気にしての結果である。ま
た、他者の表情を通じて直接的に他者と出会うこともあるが、このように他者はいつも近さの関
係で私の前に現れるわけではない。例えば死に於ける無限の隔たりなど、他者は、私から離れて
いく存在でもある。つまり、「他者は私に対して、近さと隔たりという相反する 2 つ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論【Q0505】2017年度科目最終試験対策6題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2018 12:04:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132898/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132898/thmb.jpg?s=s&r=1519873445&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　哲学概論【Q0505】の
2017年度科目最終試験対策６題です。
過去の出題問題が以下の6パターンなので
この内容を抑えれば合格できると思います。

１.哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりながら考[318]<br />哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりながら考える。
答案
　「愛智」を哲学的な意味で最初に用いたのはピュタゴラスである。古代ギリシャの精神には自然についての思索と人間の魂についての思索の二つの流れがある。前者の中心は小アジア地方であり、早くから自然世界の原理は何であるかを探求していた。ターレスはそれを水と考えたように。これらの思想家は「イオニアの自然学者」と呼ばれる。一方でイタリアにおけるギリシャ人植民地には人間の魂を主題とする思想があった。その中心はイオニア文化圏で生まれたピュタゴラスであった。彼自身の履歴や思想は明確ではないが、彼は一種の宗教団体を主宰した。しかし彼は決して単なる宗教家ではなく、世界を数から説明しようとした最初の人物であり、周知のように彼の名がついた定理がある程の優れた数学者であった。また、彼は古代ギリシャ人の世界観であるところの世界を、秩序ある全体（コスモス）であることを明言した最初の人物でもある。
　しかし彼は今日的な意味での科学者であったわけではない。数は没価値的な記号としてではなく人間の徳のシンボルであった。ピュタゴラスにとって、数学と倫理、もっと広く言えば科学と宗教とが密接に関係しており、それぞれが無関係な別々のものではなかったのである。
　ピュタゴラスの思想には三つの中心的な概念がある。それは「観照（テオリア）」、「秩序ある宇宙（コスモス）」、「浄化（カタルシス）である。これら三つの概念は一つの過程を示している。人間の魂は宇宙に現れている秩序（コスモス）を観照して、その秩序の正しさに自身を同化することによって、永久の輪廻を離脱して、不死の境地に到達することができるのだ。
　ピュタゴラスは非常に賢明だと称えられたが、彼自身は智者に値するのはただ神のみであって、自分は愛智者であると考えた。彼の「愛智」とは世界の調和の原理の把握であり、それは輪廻している生からの魂の自由、本来的な神性の獲得のために行われているのである。これが「愛智」の担った、新しい、決定的な意味である。このピュタゴラス的な愛智がソクラテス、プラトン、アリストテレスを経て「哲学」として定着していくのである。
　ピュタゴラスにおいて、哲学と宗教が非常に近しいことを述べてきたが、このことに納得する人もいるであろう。現代日本では哲学を深刻な人生論と捉えるこ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論 第一設題 A評価 2017]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/941703987396@hc14/132685/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tsunamiii]]></author>
			<category><![CDATA[tsunamiiiの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 02:00:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/941703987396@hc14/132685/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/941703987396@hc14/132685/" target="_blank"><img src="/docs/941703987396@hc14/132685/thmb.jpg?s=s&r=1518454819&t=n" border="0"></a><br /><br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
	
「在る」とはどういうことなのか。そして、「存在としての存在」の原理について述べるときに、アリストテレスによって[350]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
「在る」とはどういうことなのか。そして、「存在としての存在」の原理について述べるときに、アリストテレスによって提唱された第一哲学にたどり着く。この第一哲学は１４巻から成る「形而上学」というアリストテレスによる著作がある。
第５巻の第７章では、存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態に分類される。第二の本質的存在では、主語と述語との必然的な結びつきに於ける「在る」ということの本質を実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間の８つの範疇（述語形態）に分類した。あらゆる「在る」という意味を突き詰めていけば、先ほど述べた８つの範疇にたどり着くと説いたのである。例えば、実体なら「何である」を語る存在であり、関係は「何に対してあるか」を語る存在であり、場所なら「何処にあるか」を語る存在である。また、「ソクラテスは色白である」という１つの文章について考えたとき、この場所においての「ある」が示すのは「色白」という部分であり、この部分の一般化を進めていくと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学：＜Q0505 ＞哲学概論　第1・2投題セット【B判定】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/]]></link>
			<author><![CDATA[ by fy_st14]]></author>
			<category><![CDATA[fy_st14の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Feb 2018 12:29:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/931618156911@hc18/132592/" target="_blank"><img src="/docs/931618156911@hc18/132592/thmb.jpg?s=s&r=1518146967&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学：＜Q0505 ＞哲学概論の第1・2投題のセットです。一つのファイルの中に二つとも記載しています。
2017年度のもので共にB判定でした。
第1投題の所見「テキストの要約として及第」
第2投題の所見「絶対的な正しさなどなく、心[318]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
1.　要約
　古来より、「存在」という概念を求めて人間は様々な思想や議論を交えてきた。「在る」という言葉は日常会話において多用されておりその意味は様々であるが、我々は特に意識することなく使い分けているのであろう。アリストテレスはこれらの「在る」の分類を研究し、一つの学問として捉えている。以降その内容に対して考察を進めていく。
　『形而上学』において存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全実現態」に分類されており、それ自体に存在するという意味である本質的存在が最も基本である。またこれは、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分類され、前者は実態であり、第一義的存在である。その一方で、後者は実態が端的にあるというのに対してその実態に関して何かで「ある」という言われる存在である。
　存在はこのように第一義的に実体であり、単純物質・内部原因・限界・本質に分類されている。あるいは同様に基体・本質・普遍概念・類にも分類される。分類のされ方に多少の違いはあるものの、これらの実体には「他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの」究極の基体（個物）と、これらのそれぞれの「型式」または「形相」との二つの意味要素がある。また実体の優れた一つの意味は基体であり、「基体」にも多くの意味があり、質量・形式・この両者からなるものの三つに分類される。そして質料と形相からなる個的存在が優れた実体である。『範疇論』において、実体とは、＜この人＞と呼ばれるような、いかなる主語の述語ともならず、またいかなる主語のうちにないものを第一義的と考える。しかし第二義的にはこれら第一義的に実体と言われる個々の存在者を含む種や類もまた実体といわれるのである。つまり、実体とは第一義的に「これ」と指示され、種や類に分けることのできない数的に一となる個的存在者を意味しており、それは第一実体と呼ばれる。これに対して、実体の下で四つに分類されたうち三者の本質・普遍・類は残る一者の基体の分類の中の形相と同一とみることができ、第二実体と呼ばれる。
　また『範疇論』において、実体の最も特有な点は、数としては一であり同一でありながらも、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　哲学概論　第2設題　Q0505　A評価]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ASK-F]]></author>
			<category><![CDATA[ASK-Fの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 06 Feb 2018 23:26:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132519/" target="_blank"><img src="/docs/932817446863@hc17/132519/thmb.jpg?s=s&r=1517927168&t=n" border="0"></a><br /><br />2017年度にA評価で合格したレポートです。購入にあたっては以下のことを確認してください。
①丸写し、コピペ等は避けてください。法令・校則等で処罰の対象となります。
②あくまでA評価の基準を示すものであり、合格または高評価を保証するもの[340]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　我々は感覚(五感)に頼って生活している。赤い花を見る場合でも見る人の環境や身体的特徴によって影響されたりする。時には赤いリボンといった形が似たようなものと見間違うかもしれない。これほど感覚というものは不確実なものであると言える。また、自分が見ている赤い花と全く同じものを他人が見ている保障はどこにもない。感覚とは虚偽であり、何らかの存在についての認識ではなく、感覚は幻のような表象であって、理性的認識だけで真実を捉えるとするならば、我々の日常はどう捉えるべきか、感覚は何らかの真実性を持っていると考えざるを得ない。
　感覚は不確実であり、上記の通り信頼に足るものでなく、全く同じものを他人が見ている保障はどこにもないが、しかしある個人にとってその通り見えていることは確かである。感覚はその都度毎に個人にとって真であり確実である。
　一時的または個人的な感覚認識は、真の意味での認識という価値はない。そこで、普遍妥当的な知識とそれに基づいた認識が求められるべきである。プラトンの認..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　哲学概論　第1設題　Q0505　A評価]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ASK-F]]></author>
			<category><![CDATA[ASK-Fの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 06 Feb 2018 23:26:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932817446863@hc17/132518/" target="_blank"><img src="/docs/932817446863@hc17/132518/thmb.jpg?s=s&r=1517927168&t=n" border="0"></a><br /><br />2017年度にA評価で合格したレポートです。購入にあたっては以下のことを確認してください。
①丸写し、コピペ等は避けてください。法令・校則等で処罰の対象となります。
②あくまでA評価の基準を示すものであり、合格または高評価を保証するもの[340]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　我々の日常の会話に焦点を当ててみると、存在を意味する「在る」という言葉が多くの場面で用いられている。例えば、「本がある」「概念がある」といった具合である。様々な「在る」をいろいろに分類して領域ごとに考察することはできるであろうか。また、「存在としての存在」はどのようにして成立しているのであろうか。
　哲学者であるアリストテレスが「存在としての存在」の原理研究をした学問が第一哲学(形而上学)と呼ばれる。存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能性・完全現実態としての存在に分類される。付帯的存在は、主語と述語の一般的・偶然的結びつきにおける「在る」である。本質的存在は主語と述語の必然的結びつきにおける「在る」である。真としての存在は、存在とは真であり、非存在とは偽であることを意味する。可能性・完全現実態としての存在については、本質的存在に含まれると考えることもある。存在には様々あるが本質存在において存在するという意味での存在が基本となっている。また、この意味で..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学「哲学概論」「第１設題」及び「第２設題」A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932774300807@hc17/130888/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ごろごろごろ]]></author>
			<category><![CDATA[ごろごろごろの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 08 Oct 2017 13:28:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/932774300807@hc17/130888/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/932774300807@hc17/130888/" target="_blank"><img src="/docs/932774300807@hc17/130888/thmb.jpg?s=s&r=1507436904&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信教育課程「哲学概論」の『第1設題：第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ』『第2設題：第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そし[356]<br />第１設題
第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
存在の意味について考えていく上で、アリストテレスの形而上学が外せない。それによると、存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類できる。
付帯的存在とは、主語と述語との一時的、偶然的な結びつきにおける「在る」である。例えば、「お年寄りは経験豊かである」というように、ある基本的な存在に何らかの属性が付帯して「在る」といわれる場合をいう。ただ、この場合、その原因も付帯的であるため学問的探究は成立しない。
本質的存在とは、主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」である。それは述語形態（範疇）即ち、実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間を示す「在る」である。すべての命題において「在る」は八個の範疇的な「在る」に帰する。この意味で範疇はすべての存在を含むゆえに付帯的存在も本質的存在に帰入する。
真としての存在とは、存在とは真であり、非存在とは偽であるということである。ただ、真と偽との判断は自体的存在との関係においてのみ存在する故に、存在としての存在、の原理の探求からは除外しても差し支えないだろう。
可能態・現実態としての存在とは、本質的存在の範疇に含まれるものとして考えられる。
以上から、本質存在、即ちそれ自体において存在するという意味での存在が最も基本的である。
　ただそういった意味での存在は本質及び古物としての存在と述語諸形態とに分けられる。前者は実体であり第一義的存在である。一方後者は、実体が端的にあるというに対して、その実態に関してなにかであるといわれる存在である。つまり存在は第一義的に実体であるのだが、その実体にも様々な意味がある。実体は単純物質、内的原因、限界、本質に分類されている。
　単純物質とは、すべての存在者を示す。
　内的原因とは、諸物体に内在していてこれらの各々のそのような存在するゆえんの原因であることをいう。
　限界とは、それがなくなればその全体もなくなるに至る部分をいう。
　本質とは、そのものが何であるかという定義である。
要するに、実体には他の如何なる基体（主語）の述語（属性）でもなくかえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０５０５　レポート　哲学概論　第２設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 20:08:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129342/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129342/thmb.jpg?s=s&r=1494932901&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
≪認識≫
　我々は感覚に導かれて生活しているが、感覚ほど不確実なものはない。行動主体によって捉え方が異なり、一つの事物を私が見ているのとまったく同じように他の人が見ているという保証はどこにもないのである。つまり、一時的・感覚的な認識は真に認識の名に値せず、何らの存在についての認識ではないと言える。とはいうものの、感覚はあまりにも生気に満ち溢れており、何らかの真実性をもっているとせざるを得ないのである。こうした議論において、ソクラテスは正義の普遍的・必然的な知識を求め、彼の弟子であるプラトンは、この倫理的・実践的な知識を、知識それ自身として探究したのである。
≪プラトンの認識論≫
　プラトンの認識論は有名な「洞窟の譬え」によって知ることができる。彼はこの比喩で四つの段階的な「存在の種類」を提示し、それらが異なる認識能力によって把握されると説いた。一つ目は壁面に投射されている影像の認識であり、二つ目はその実体として人々が持ち歩いているさまざまの摸像の認識であり、三つ目は地..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Ｑ０５０５　レポート　哲学概論　第１設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/]]></link>
			<author><![CDATA[ by シュリーマン]]></author>
			<category><![CDATA[シュリーマンの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 16 May 2017 20:08:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933940365340@hc17/129341/" target="_blank"><img src="/docs/933940365340@hc17/129341/thmb.jpg?s=s&r=1494932900&t=n" border="0"></a><br /><br />私のレポートの多くは教科書とインターネットのみで作成しており、参考文献を用いたものは末に記載しております。評価はAが多く、不合格になったことはありませんので安心してください。
先輩・後輩・友人たちとレポートや試験のことを対策できる四年制大学[356]<br />第二章「存在の時間」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
《存在》
　存在を全体としてみるとき、種々に分類されうる。一般的な規定として存在は「付帯的存在」、「本質的存在」、「真としての存在」、「可能態・完全現実態としての存在」の四つに分類される。
　一つ目の「付帯的存在」とは、主語と述語との一時的、偶然的な結びつきにおける「在る」である。つまり、ある基本的な存在にたまたま何らかの属性が付帯して「在る」といわれる場合の「在る」である。二つ目の「本質的存在」とは、主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」である。それは実態・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間といった述語形態（範疇）を示す「在る」である。そして、すべての命題はこれら１０種類の「在る」へと帰することができる。なお、他の二つに関しては「存在の意味」を考えるにあたって直接関係がないため割愛する。このように、存在にはいろいろな意味があるが、「それ自体において存在するという意味での存在」である本質的存在が最も基本的である。
　また、上述の存在は「本質及び個物とし..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　第二設題　2016　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128316/]]></link>
			<author><![CDATA[ by butu]]></author>
			<category><![CDATA[butuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2017 13:23:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128316/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128316/" target="_blank"><img src="/docs/934915351867@hc17/128316/thmb.jpg?s=s&r=1487996634&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学、哲学概論のレポートです。
1発合格で、A評価をいただきました。[102]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　私達は感覚に導かれて生活しているが、感覚は虚偽であり、存在についての認識ではなく、理性的認識のみが真実に存在を捉えることが出来る。しかし、感覚は生気に満ち溢れ私達に迫ってくるものであり、その認識は身体的・心理的状況の差異により、一時的・個人的な感覚的認識を生じさせる。ソクラテスは、これらに惑わされず、人間社会の行動規範や普遍的な原理が必要であると考え、正義の定義として、普遍的・必然的な知識を求めていた。プラトンは、その倫理的・実践的な知識を知識それ自身として探求している。
　プラトンの認識論の代表的なものとして、洞窟の譬えが挙げられる。その中には、四つの存在の種類があり、それらが段階的であることが示され、各々の存在が異なる認識能力によって把握される。その内二つは洞窟内での認識、残り二つが地上での認識として区別されている。これらは、存在が四種に分類されることによって、分類させられたものであり、認識の区分の規準が存在にあることを示している。それは、生成変化する存在と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　第一設題　2016　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128315/]]></link>
			<author><![CDATA[ by butu]]></author>
			<category><![CDATA[butuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 25 Feb 2017 13:23:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128315/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934915351867@hc17/128315/" target="_blank"><img src="/docs/934915351867@hc17/128315/thmb.jpg?s=s&r=1487996633&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学、哲学概論のレポートです。
1発合格で、A評価をいただきました。[102]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　アリストテレスは、「存在としての存在」の原理・原因を研究し、まず、存在を全体として見た時、それが様々な意味を有していることから、それぞれに分類している。「形而上学」の中の一般的な規定としての存在は、「付帯的存在」、「本質的存在」、「真としての存在」、「可能態・完全実現態」とに分類されており、本質存在、つまりそれ自体に於いて存在する、という意味での存在が最も基本的である。それは、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分類され、本質及び個物のものは、実体であり、第一義的存在である。その一方、述語諸形態は、実体が端的にあるというに対して、その実体に関してなにかで「ある」と言われる存在である。
　このように、存在は第一義的には実体である。それは単純物質、内的原因、限界、本質に分類されており、また、基体・本質・普遍概念・類に分類されている。これら実体には、「他のいかなる基体の述語でもなく、他の事物がこれらの述語であるところの」究極の基体と、各々のものの「形式」または「形..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R8111哲学概論１　合格　A判定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124765/]]></link>
			<author><![CDATA[ by relax]]></author>
			<category><![CDATA[relaxの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 04 May 2016 22:54:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124765/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/124765/" target="_blank"><img src="/docs/962649622816@hc08/124765/thmb.jpg?s=s&r=1462370051&t=n" border="0"></a><br /><br />テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。
テキストを中心にまとめ、高校の倫理の教科書も参考にしました。
ソクラテスの死
　ソクラテス（&Sigma;&omega;&kappa;&rho;ά&tau;&eta;&sigmaf; Sōkratēs）は、ソフィストの間にあってもソフィストとは違う[330]<br />テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。
ソクラテスの死
　ソクラテス（&Sigma;&omega;&kappa;&rho;ά&tau;&eta;&sigmaf; Sōkratēs）は、ソフィストの間にあってもソフィストとは違う思想家であった。人々はソクラテスを理解できず、ソクラテスをソフィストの中で最も有害な人物であると観た。そしてソクラテスは、ポリスの古来からの神を信じないで新しい神を導き入れ、無垢な青年を伝統から踏み外させ堕落させるものとして控訴された。しかし、ソクラテスは自分の判決に不利になるのを知りながら、従来の仕事を辞めることを条件として無罪放免になるよりも、むしろ死を選ぶと主張した。何故だろうか？
　確かにソクラテスは世俗の欲からは離れていた。ソフィストは、生活の場で名誉や富や便宜さを得るために弁論術を教え且つ行使する。これに対し、ソクラテスはその都度毎の効用性を全く度外視して、生活の場では全く無用である問いを問うのである。ソクラテスが損得勘定で動かないことは理解できる。もしもソクラテスが損得勘定で人生を決めるのであれば、悪名高い妻クサンチッペとすぐに離婚していただろう。ソクラテスの人生においても、損得で動いていない。し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【Q0505】哲学概論 第一設題〔佛教大学〕]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/]]></link>
			<author><![CDATA[ by dddddb]]></author>
			<category><![CDATA[dddddbの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 25 Mar 2016 00:47:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/940049707603@hc15/124165/" target="_blank"><img src="/docs/940049707603@hc15/124165/thmb.jpg?s=s&r=1458834427&t=n" border="0"></a><br /><br />2015年度版の物です。リポートの作成にお役立てください。[79]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　・「存在としての存在」とは？
　存在というものを広い意味で見る場合、種々に分類される。一般的な規定としては存在というものは付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類される。
　一つ目の付帯的存在とは、主語と述語との一時的、偶然的な結びつきにおける「在る」である。ある基本的な存在にたまたまなんらかの説明がつくことで「在る」といわれる場合の「在る」である。二つ目の本質的な存在とは、主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」である。これは実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間を示す「在る」である。すべての事柄はこの十個の「在る」へと一般化することができる。他の二つは存在としての存在の原理を考えるにおいて関係がないので説明は割愛する。上記の二つより存在とはそれ自体において存在するという意味での存在が最も基本的である。
　上記における存在は本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分けられる。前者を説明するなら明らかにものの説明..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[■【2016-13】【明星大学】【哲学概論】過去問と回答例　※2016年4月の試験でも出題済！]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/116335/]]></link>
			<author><![CDATA[ by syogo_1002]]></author>
			<category><![CDATA[syogo_1002の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Oct 2014 15:21:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/116335/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/116335/" target="_blank"><img src="/docs/945317737954@hc13/116335/thmb.jpg?s=s&r=1413094911&t=n" border="0"></a><br /><br />明星大学 教育学部 通信課程において、科目終了試験に出題された問題の一覧、およびその回答例、ヒント集です。私が受けた会場だけではなく，全国の試験問題が網羅されております。

2015年8月17日現在,

・2015年4月～8月に行われた全国[320]<br />・アリストテレスによる「自然」（ピュシス）の考えを説明しなさい。

アリストテレスは存在するものを「自然によって存在するもの」（自然物）と人間の技術によって存在するものとに区別した。
自然物というのは、動物およびその部分、植物、四元素（火・水・空気・土）からなる物体などである。
こうした自然物は「それぞれ自分のうちに自分の運動と停止の原理」を持っているという。
一方技術は自然から独立して存在するのではなく、一方で自然が完成しえないものを仕上げ他方で自然をまねるものと考えた。
アリストテレスはこうした自然物の運動原理をピュシスと呼んだ。
自然は、自然物のうちに「付帯的にではなく、第一義的に内属している」といわれる。つまり自然物と技術による物との
区別は運動（停止）の原理としての自然が第一義的に内属しているのか付帯的に内属しているのかに依存すると言い換えることが出来る。
彼は生物をモデルにして自然界をとらえたことから、自然界全体に合目的性がそなわっていると考え、その考えを無性物に対しても
適用した。すなわち自然界を構成する四元素（火・水・空気・土）もそれぞれの元素に可能性としいて内在する目的に向かって
上昇したり、落下したり、溶けたり固まったり熱くなったりすると考えた。

・分析判断と総合判断の区別とそれぞれの特徴を解説しなさい。

文によって表現される判断は、主語の位置にくる名詞の意味が外延的であるか内包的であるかにしたがって
「総合判断」と「分析判断」に区別される。
「あの花は美しい」という文で「花」という名詞は現実の花を指示し、「美しい」という述語がその対象の知覚される性質として
結び付けられる。
主語の内実をなすのは語の外延的意味であり、知覚経験を介してその主語が述定されている。この場合「美しい」という術語は
知覚の主体である人間によって対象に付け加えられており、こういう判断を総合判断という。
一方、「花は一種の植物である」とう文では主語である「花」は花の性質の集合を意味している。「植物である」という術語は
もともとその性質の中に含まれているものである。この文は主語にもともと含まれている性質を引き出しただけで新しい性質を
付け加えてはいない、このような判断を分析判断と言う。
知覚の現実に直接かかわるのは総合判断..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 R0512哲学概論　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120087/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120087/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120087/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120087/thmb.jpg?s=s&r=1430531631&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />認識の意味
　認識は、我々人間が生活をしていくうえで欠かすことのできない精神活動である。我々は五感をはじめとする感覚器官で外界よりの刺激を知覚する。そしてそれが件の刺激に対する情報として我々の内部に伝達されるが、それがすなわちその刺激の認識であるということはない。なぜならば、先の知覚は我々の感覚に依拠したものであり、その感覚とは個々人によって多種多様さを併せ持つからである。すなわち感覚器官を媒介とする知覚は真の認識には成りえないのである。それでは認識とはどのように形成・構築されるものであろうか。この点は古来より哲学者の興味を惹くところであった。以下では、古代ギリシアの哲学者プラトンの唱えたイデア論より認識に関する記述を確認し、上記の疑問に対する解答を見出してみる。
プラトンとイデア論
プラトンは古代ギリシアの最初の哲学者と目されるソクラテスの弟子である。彼の思想は複数の著作にみられる記述から再構成されている。代表的なものを挙げておくと、「哲人政治」、「大学」の設立がそれにあたるが、彼の哲学の最大の特徴は「イデア論」であろう。イデア論とは人間の「知識」とは何かを探究した結果たどりつかれた..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 R0512哲学概論 第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120086/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 現役教員　佛大通信修了]]></author>
			<category><![CDATA[現役教員　佛大通信修了の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 02 May 2015 10:53:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120086/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/946318076770@hc13/120086/" target="_blank"><img src="/docs/946318076770@hc13/120086/thmb.jpg?s=s&r=1430531630&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程のレポートを作成する際に参考になれば幸いです。

添削担当者の評価を以下に示します。
【設題の把握】　十分
【テキストの理解】　十分
【評価】Ａ
添削者からの訂正が無く、合格でした。[291]<br />存在の意味
　人間とは何か、世界とは何かを探究する過程において、何が「存在」で何が非存在であるかを定義づける作業は不可欠である。哲学は古代ギリシアのアテナイにその誕生を見る。そしてこれ以後の哲学者たちも、この問題に対峙し自らの哲学を完成させる原動力とした。以下では、この問題に関するアリストテレスの考え方を概観する。最初の哲学者とも称されるソクラテスの孫弟子にあたる彼の存在論を理解することで、古代から近代までの哲学を理解するうえでの礎を築くことができるであろう。
存在と実体
アリストテレスは存在を、付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在の4種類に区分する。第一の「付帯的存在」とは、主述の関係における「ＡはＢである」という時の「ある」の語に相当し、英語でいうbe動詞に相当する。すなわちAという存在にBという属性が付帯していることを示すものである。第二の「本質的存在」とは、実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間を示す「ある」であり、これらは突き詰めると10種の命題に帰入する。第三の「真としての存在」とは、存在を真偽の観点からとらえるという見方である。最..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】 哲学概論（科目コード0531）分冊２　合格リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118731/]]></link>
			<author><![CDATA[ by olyolyolyoh]]></author>
			<category><![CDATA[olyolyolyohの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 15 Feb 2015 10:02:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118731/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118731/" target="_blank"><img src="/docs/942371061485@hc14/118731/thmb.jpg?s=s&r=1423962164&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論（科目コード0531）分冊２

〈課題〉
ハイデッガーにおける「現存在」の特質について説明しなさい。

〈ポイント〉
1.	ハイデッガーにおける「時間」と「存在」の意味を把握すること。
2.	ハイデッガーは人間存在の理[312]<br />ハイデッカーの哲学に対する中心問題は、終始一貫して存在に対する問いであった。それは大雑把に言い換えれば「ありとしあらゆるもの」に対する分析、存在一般の意味の究明である。
　ハイデッガーによる「存在」を語る上で外せない人物と言えば、師であるフッサールと、生の哲学者として知られるディルタイである。フッサールは物の認識を定義し、彼の唱えた現象学に共鳴したハイデッガーは、彼の助手を務めることになる。ディルタイは、フッサールの「厳密科学としての哲学」に対し「世界観の哲学」を固持し苦闘した人である。その業績を大きく３つに分けて挙げると、1.精神科学の理論及びそれの自然科学からの限定づけ。2.人間、社会及び国家の諸科学の歴史に関する研究。3.全体的具体的な人間を描き得るような心理学を得んとする努力、というものである。
　ハイデッガーは「存在するもの」を「存在者」と呼んだ。存在者とはモノであり動植物であり、さらには現象や関係なども含まれる。もちろんその中には人間も含まれるわけであるが、彼はとくに人間を「現存在」と名づけた。そしてまた、ただ目に映っているだけの存在を「事物存在」、なにかの目的の為に使わ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】 哲学概論（科目コード0531）分冊１　合格リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118730/]]></link>
			<author><![CDATA[ by olyolyolyoh]]></author>
			<category><![CDATA[olyolyolyohの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 15 Feb 2015 10:02:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118730/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942371061485@hc14/118730/" target="_blank"><img src="/docs/942371061485@hc14/118730/thmb.jpg?s=s&r=1423962161&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論（科目コード0531）分冊１

〈課題〉
近代哲学に現れる「主観主義」について説明しなさい。

〈ポイント〉
１．近代哲学は、ルネサンスを転機として、神中心から人間中心へと、信仰から知識（科学）へと展開することになる。[326]<br />14世紀にイタリアで始まったルネサンスを境に、近代哲学は大きな転機を迎えることになる。それ以前の哲学とは、いわゆる神中心の世界観の中にあり、哲学の発展はキリスト教進学に強く影響を受けるものであった。
　1596年、フランスに生まれたデカルトは、様々な学問に触れるなか「前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけない」ということを学び、「哲学において確実な真理とは何か」を探求することになる。デカルトは神の存在を説明するにあたり、スコラ哲学的な「形相的自然観」とは対照的な「機械論的自然観」という立場をとり、全ての知識を数学のように確実な論証的知識に至らせしめようとする。それはすなわち、もとより神がこの世界を作ったとしても、神は広大無辺な存在であるから、神の意図は我々人間の理解を超えている、それを分かった様なつもりになって世界の目的について云々するのは、人間の不遜である、という考えであった。デカルトはここで、真理を探す為の「方法的な懐疑」という姿勢を採用している。あらゆる物を疑ってみて、それでもなお疑えない物を確実な真理として抽出する。そこで得た結論が「疑っている自分の存在だ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【2014】【明星大学】【哲学概論】合格レポート(1.2単位目)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/117097/]]></link>
			<author><![CDATA[ by syogo_1002]]></author>
			<category><![CDATA[syogo_1002の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 29 Nov 2014 18:20:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/117097/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/945317737954@hc13/117097/" target="_blank"><img src="/docs/945317737954@hc13/117097/thmb.jpg?s=s&r=1417252835&t=n" border="0"></a><br /><br />２０１４年度の明星大学 教育学部 通信教育課程における、レポート課題の合格レポートです。特に指摘もなく、高評価で１回目で「合格」の評価をいただきました。皆様のお役に立てれば幸いです。

また、本科目の科目終了試験の過去問と回答例も別データで[352]<br />【課題】
1b: 他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい。
2c: 古代ギリシアの自然観と近代の自然観の相違を論じなさい。
【本文】
１単位目
哲学概論　　課題①：他者との関係のあり方を、サルトルとレヴィナスを対比しながら論じなさい。
私たちは日々他者との関わりをもって生きている。私たちは日常生活において、身体の表情的意味を他者とのつながりの素地・基礎として出会っている。このような他者が〈私〉に対していつも近さの関係で現れているとは限らず、他者は〈私〉から離れていくこともあるのだ。つまり、他者は〈私〉に対して近さと隔たりという両極端にある二つの関係において現れる。だからこそ〈私〉は、他者を意識するのだろう。他者と同一化することも、完全に関係が切れてしまうことも、どちらとも他者ではなくなってしまう。〈私〉が他者をきにかけることはなくなるのだ。相反する近さと隔たりという二つの関係において他者が私に現れる。この２つの点から他社とはどういう存在であるのか。サルトルとレヴィナスを対比しながら考えたい。
サルトルとレヴィナスの両者の決定的な違いは、私たちの意識と他者の意識との間にある関係性に何を見ているのかといことである。サルトルはそこに対称性を見たのに対し、レヴィナスは非対称性を持ってこの問題に取り組んだ。ここに両者の考え方の違いが見られる。
では、サルトルはどんな考えを持って他者との隔たりを見ているのか。
サルトルは〈私〉と他者の隔たりを、〈私〉と他者との相剋、つまり相手の存在の仕方を否定し合うこととしてとらえた。意識は、自分の与える意味によって、自分の世界を自分のまわりにつくろうとする。世界に意味を与えるのは「まなざし」の働きである。意識は世界をまなざすことによって世界に意味を与えるのである。そして、自分以外のまなざしが世界に現れる経験があるのである。そのまなざしの主体が他者である。それにより、自分の意識が他者によってまなざされ、世界の意味が変容していく。意識は他者のまなざしを含みながら再度世界に意味を付けていく。私たちの意識と他者は、それぞれの世界を形成するために、互いに相手をまなざし合う。そこに二つのまなざしの相剋が生まれる。
この相剋の関係は、サディズムとマゾヒズムの相互転換の関係となる。他者を対象化することを徹底した仕方で為すため..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論第２設題Q0505]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 私のリポートは全てA判定かB判定]]></author>
			<category><![CDATA[私のリポートは全てA判定かB判定の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 08 Apr 2014 15:04:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111754/" target="_blank"><img src="/docs/949276790327@hc12/111754/thmb.jpg?s=s&r=1396937090&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程の合格済みレポートです。あくまでも学習の参考としてお使いください。各科目B判定以上です。テキストを中心にまとめています。[202]<br />第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　私達は感覚に導かれて生活しているが、感覚ほど不確実なものはない。感覚は不確実であり何ら信頼するにたらないが、その都度毎に個人にとって真であり確実ある。しかし、一時的・個人的な感覚的認識は真の認識とすることができず、行動の規範や普遍的な原理といった普遍的妥当な認識が必要となる。このような議論において、ソクラテスは正義の普遍的・必然的な知識を求め、プラトンは、この倫理的・実践的な知識を、知識それ自身として探究していった。
　プラトンの認識論は洞窟の譬えに表されている。その中で、存在の種類を四つに分類し、それらは段階的であることが示され、各々の存在は、各々異なる認識能力によって把握されるとしている。前二者は洞窟内の認識として影像と模像の認識であり、後二者は地上での認識として事物と太陽の認識である。また、この四種の認識は同じく「ポリティア」で直線の直喩でも示されている。
　このプラトンの四種の認識は、私達の認識能力を検討して分類されたものではなく、逆に存在が四種に分類され..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論第１設題Q0505]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 私のリポートは全てA判定かB判定]]></author>
			<category><![CDATA[私のリポートは全てA判定かB判定の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 08 Apr 2014 15:04:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949276790327@hc12/111753/" target="_blank"><img src="/docs/949276790327@hc12/111753/thmb.jpg?s=s&r=1396937088&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信課程の合格済みレポートです。あくまでも学習の参考としてお使いください。各科目B判定以上です。テキストを中心にまとめています。[202]<br />第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
　アリストテレスにとって存在としての存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。形而上学では存在を全体としてみるとき、存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類される。このように、「存在」には様々な意味があるが、本質的存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
　その意味での存在は、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分けられ、前者は実態であり、第一義的存在である。これに対して後者は、実体に関してなにかであるといわれる存在である。
　このように、存在は第一義的に実体であるのだが、実体にも様々な意味があり、単純物質、内的原因、限界、本質に分類することができる。また、同様に基体、本質、普遍概念、類に分類される。つまり、実体は他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110207/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 01 Feb 2014 18:05:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110207/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110207/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/110207/thmb.jpg?s=s&r=1391245521&t=n" border="0"></a><br /><br />近代哲学に現れる「主観主義」について説明しなさい。[75]<br />哲学概論　分冊1
参考文献：
近代的世界観の展開　大橋精夫/島田豊　青木書店　1986/4/10
年表で読む哲学・思想小辞典　ドミニク・フォルシェー　白水社　2001/3/25
主観主義への変遷
　人間中心主義
ルネサンス以後の近代生活は人間の持つ理知を中心にして展開され、そして神中心の中世から急激に人間中心の世界へ変化した関係上、まず人間の中心となるものは「知」であったといえる。人間は知識を通してあらゆるものへ近づいていき、そして世界から神秘的なもの、ベールに覆われたもの、迷信的なものが漸次消滅していったのである。つまり、世界と人間とは単なる知的関係、理論関係だけに局限されることになったといえる。
主に社会の秩序が破壊され、人間そのもの、個人が一つの単位として強調され、そこにはもはや貴族や特別の階級は存在しなかった。商業の発展を妨げていた封建制度を打ち倒し、ブルジョアジーは自らの実践的諸要求を反映し、かつ封建的な世界観と鋭く対立するところの新たな世界観及び文化を創り出した。高貴な国王といえども商人の顔色をうかがわねばならなかったのである。
何故ならそれは人間として、知識は各人に与えら..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110202/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 01 Feb 2014 18:03:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110202/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/110202/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/110202/thmb.jpg?s=s&r=1391245424&t=n" border="0"></a><br /><br />ハイデッカーにおける「現存在」の特質について説明しなさい。[87]<br />哲学概論　分冊2
参考文献：
ハイデッガーの存在論　安藤孝行　公論社　1975/9/25
世界内存在　ヒューバート・L・ドレフィス　産業図書株式会社　2000/9/27
現存在のあり方
ハイデッガーにおける「現存在」の特質について説明するためには、『ハイデッガーにおける時間と存在』と『人間存在の理解を基礎とする存在論』を理解することは重要となってくる．また、彼は現存在を存在・時間性・死（生の哲学）にて説明をしている。
ハイデッガーが一番の問題としたのは「存在とは何か」ということであった。存在するというのは偏った見方がされており、本来の存在論はなされていないことを、より古代ギリシア人たちの言葉を拠り所に、自らの存在を問いかける「現存在のあり方」を現象学的、解釈学的に追及している。彼は西南学派リッケルトに就いて学んだが、単なる現象学派ではなく、キュルケゴールやディルタイの思想も甚大に吸収している。現象学派と生の哲学を綜合して従来の非合理主義に独特の論理性と組織とを与えたのが彼であった。
存在している対象を認識しようとせず、存在それ自体の意味を問いた。存在の在り方として客観的世界が存在し、そ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート&amp;第2設題A評価レポートセット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 15 Oct 2012 17:39:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/97816/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/97816/thmb.jpg?s=s&r=1350290349&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」Ａ評価レポートセットです。
第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）の採点者の所見は、「テキストをよく再現し[354]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（主語）の述語（属性）でもなく、かえって他の事物がこれらの述語であるところの究極の基体（個物）と、これらの各々のものの「型式」または「形相」との二つの意味要素である。
後者の分類のおける「本質」「普遍概念」「類」は、「基体」の分類の中の形相と同一とみることができる。そして、これは第二実体と呼ばれる。これは、定義としての即ちロゴスに即した実体であって、「主語として述語たらざるもの」として、究極的個体実態に対して、第二義的な意義を与える。
実体の名の下で四つに分類された残る一者「基体」は、質料、型式（自然）、これらの両者からなる個別的な実体の三つに分かたれる。この形相と質料から成る個的存在が優れた意味で実体である。実体とは、第一義的に「これ」として示され、類と種差とに分けることの出来ない数的に一なる個的存在者を意味する。これは、第二実体に対し、第一実体と呼ばれる。
個的存在としての実体は、静的ではなく動的である。つまり、それは「転化」するものである。「転化」には四種の過程があり、それは生成・消滅、変化、増減、移動である。後三者は厳密な意味での「運動」と呼ばれる。「転化」は以前に遡及して永..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96651/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 日大のクレイジータイガー]]></author>
			<category><![CDATA[日大のクレイジータイガーの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Sep 2012 09:20:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96651/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96651/" target="_blank"><img src="/docs/951309246590@hc11/96651/thmb.jpg?s=s&r=1346718035&t=n" border="0"></a><br /><br />ハイデッガーにおける「存在論」の特質について説明しなさい。&lt;キーワード&gt;「生哲学」「時間」「現存在」「ディルタイ」[169]<br />ハイデッガーの「存在論」を説明するためには、ディルタイの「生哲学」が欠かせない。それはディルタイの主張する生の「時間性（歴史性）」がハイデッガーの存在論に受け継がれていったからである。哲学とは元来、生を研究する学問であるが、ディルタイの生哲学とは、人間そのものを徹底的に観察しようとする試みであった。中世において人間を考えるときは、神、すなわちキリスト教を媒介にして行なわれた。ルネサンス以後は、神に替わり、知識、すなわち論理によって行われた。このような考え方とは異なり、人間を人間として直接に把握すること、それが生哲学である。それまでのロゴス中心の人間観から、パトス中心の人間観へ、合理主義から非合理主義へと人間のとらえ方を変化させていった。
ディルタイは人間の存在についてこのように述べている。「人間が何であるか、それをわれわれは自己に就いての瞑想によって知るのではなく、また心理学的実験によって知るのではない。却って歴史を通じて知るのである。」
生そのものの歴史を通じ、生を追体験することによって、人間が人間を把握することができると説いたのである。このようなディルタイの「人間とは何か」と言う問..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96650/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 日大のクレイジータイガー]]></author>
			<category><![CDATA[日大のクレイジータイガーの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Sep 2012 09:20:35 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96650/" target="_blank"><img src="/docs/951309246590@hc11/96650/thmb.jpg?s=s&r=1346718035&t=n" border="0"></a><br /><br />近代哲学に現われる「人間中心主義」について説明しなさい。&lt;キーワード&gt;「ルネサンス」「主観主義」「デカルト」「カント」「ベーコン」[193]<br />近代哲学に現れる「人間中心主義」について、その成り立ちと系譜について以下に説明する。「近代哲学」を定義するためには、中世の人々の世界観や思想がどのような位置づけであったかを理解しなければならない。中世の人々の世界観は神と一体であり、決して切り離すことができないものであった。「スコラ哲学」では次のような二つの考え方があった。第一には、万物には魂が内在し、それが物質を動かす原動力となっており、段階を追って精神から天使を経て、最終的には神に至るという考え方である。第二には、神によって与えられた「位序（オルド）」の信仰である。神によって与えられた位序により、人々の生活は決まると考えられてきた。このような世襲的で階層的な考え方は、身分制度と同様、中世の人々が描く無限地獄から抜け出すことのできない世界観となっていた。
　この永遠にも続くと考えられてきた封建的状況を打ち破ったのがルネサンス運動である。「ルネサンス」は人文主義、文芸復興、宗教改革運動など様々な顔を持つが、それらはすべて神によってではなく、人間による、人間の知識をひたすら求める「人間中心主義」と呼ばれるものであった。つまり、ルネサンス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第2設題A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:42:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91054/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91054/thmb.jpg?s=s&r=1330587763&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第2設題（第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。
そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「自分なりのコメントが不[350]<br />第2設題　第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
認識論における本質的な問題は、合理論（rationalism）か経験論（emipiricism）かいう点である。すなわち、認識がすべて単に主観的（個人的）で偶然的であるのか、あるいは必然的、普遍妥当な認識があるのかという点である。普遍妥当的に真実な認識をめぐって、認識能力それ自体が検討されるところに、認識の問題が出てくる。
確かに、主観的な感覚は虚偽であり、それは何らの存在についての認識でもない。感覚は無についての幻のような表象であって、理性的認識だけが真実に存在を捉える。けれど、感覚的認識は普遍的な存在を捉えるものでは無いかもしれないが、それが全く虚偽であり無であるとすれば、わたしたちは生成・変化する存在というものをも、認識することが出来なくなってしまう。その意味では、感覚は何らかの真実性を持っているとせざるを得ないのである。
プラトンは、「洞窟の譬え」の中で、存在には四つの種類があり、それらが段階的であることを示した。一つは壁面に投射されている影像の認識..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　第1設題 A評価レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Mar 2012 16:32:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/91053/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/91053/thmb.jpg?s=s&r=1330587171&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信、「哲学概論」「哲学概論1」、第1設題（第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。
そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。）のＡ評価リポートです。 
採点者の所見は、「テキストをよく再現し[350]<br />第１設題　第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そしてテキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
アリストテレスにとって、存在の原理・原因を研究する学は、他の諸学と区別せられて第一哲学（存在論、形而上学）と呼ばれる。
彼の「形而上学」において、存在を全体としてみるとき、存在は「付帯的存在」「本質的存在」「真としての存在」「可能態・完全現実態としての存在」に分類される。そのように、確かに「存在」には、いろいろの意味がある。しかし、要するに本質存在、即ちそれ自体に於いて存在するという意味での存在が最も基本的である。
その意味での存在は、「本質及び個物としての存在」と「述語諸形態」に分けられる。前者は、実体であり第一義的存在である。これに対して後者は「実体に関して何かである」といわれる存在である。
存在は第一義的に実体であるが、この実体は、「単純物質」「内的原因」「限界」「本質」に分類される。あるいは、実体は、同様に、「基体」「本質」「普遍概念」「類」とに分類されると言うこともできる。後者の分類は前者とは多少の相違はあるが、実体には要するに、他のいかなる基体（..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　設題１，２セット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91035/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 29 Feb 2012 12:32:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91035/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91035/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/91035/thmb.jpg?s=s&r=1330486379&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論、設題１，２(ともにA評価)のセットです。参考にしたwebサイトのURLも載せていますので、そちらを確認しつつ、自己流に修正して使ってください。

第一設題：第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキスト[338]<br />第1設題：第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
はじめに
古来、存在の問題は人間の知的興味をとらえてきた。どのような意味において在るものは在り無は存在しないのだろうか。さまざまなものが「在る」といわれるが、それらがすべて真実に「在る」と表現されるに価する「在る」なのだろうか。すべての「在る」は一時的な「在る」であって、それらの原理として真実の永遠な「在る」があるのではないだろうか。しかし、真実の「在る」は物体としてあるのか、あるいは精神としてあるのだろうか。そしてそれらはどのような様態においてあるのだろうか。
何が存在であり、存在とは何であるかは人間にとって本来的な問題である。以下ではこの「存在」の問題について考察する手掛かりとして、アリストテレスによる存在概念がどのようなものであるかを見ていくことにする。
1．アリストテレスの形而上学
　アリストテレスにとって存在としての存在の原理・原因を研究する学を第一哲学(存在論、形而上学)とよぶ。「存在」には様々な意味があり、それらは分類することができる。アリストテレスの一般的な規定によれば、存在は付帯的存在、本質的存在、真としての存在、可能態・完全現実態としての存在に分類される。中でも、本質的な存在＝主語と述語との必然的な結びつきにおける「在る」（実体・性質・分量・関係・能動・受動・場所・時間を示す「在る」）、即ち、それ自体において存在するという意味での存在が最も基本的である。
この意味での存在は、本質及び個物としての存在と述語諸形態とに分けられる。前者は実体（基体ともいえる）であり、第一義的に「これ」として指示され、類と種差とに分けることの出来ない数的に一になる個的存在者を意味する。これは第一実体と呼ばれる。一方、本質、普遍、類は実体の集合体とみることができ、これは第二実体と呼ばれる。例えば、第一実体は、「この人」であり、第二実体は「この人」が属する「人間」という種や「動物」という類である、ということができる。 
2．転化について
質料と形相
アリストテレスは、個的存在(個物)を実在とする立場をとった。個物は「質料」と「形相」からなっており、質料とは個物を形作る材料で、物質であると考えてよい。形相とは個物が何であるかの形を与える設計図..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　第2設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91034/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 29 Feb 2012 12:22:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91034/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91034/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/91034/thmb.jpg?s=s&r=1330485750&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論のA評価レポートです。テキストをベースにまとめていますが、テキストの内容を理解するためにwebサイトも活用しました。参考文献一覧にURLを載せていますので、そちらを確認しつつ、必要に応じて自分自身で加筆修正してください。

第2設題[340]<br />第2設題：第三章「知識の問題」第一節「認識の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
1．認識論
私たちは感覚に導かれて生活している。しかし、感覚ほど不確かなものはない。なぜなら、感覚は身体的・心理的状況や環境によって異なるからである。ところが感覚は不確実であると同時に、その都度ごとに個人にとって真であり確実である。たとえば、赤いバラを見たときに、他人から見てそのバラがどのように見えるかはわからないが、自分自身には赤く見えることは確かだ、ということである。
しかし、一時的・個人的な感覚的認識は真に認識の名に値しない。なぜなら、認識が一時的・個人的であるとすれば、私たちの道徳的行為が成り立たないので、わたしたちは一時的な気分や個人的利害からのみ行動することになる。こうした事態になれば、人間社会は分裂してしまう。したがって、行動の規範、普遍的な原理が必要で、普遍妥当的な認識がなければならない。こうした議論のなかで、ソクラテスは普遍的・必然的な知識を求め、プラトンは、この倫理的、実践的な知識を、知識それ自身として探究していった。
プラトンの認識論..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91033/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 29 Feb 2012 12:22:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91033/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/91033/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/91033/thmb.jpg?s=s&r=1330485746&t=n" border="0"></a><br /><br />2011年度哲学概論のA評価レポートです。
テキストだけではレポートが書けなかったので、ネットでいろいろ調べました。
参考文献一覧も載せていますので、そちらもお使いください。[247]<br />第1設題：第二章「存在の問題」第一節「存在の意味」の内容を要約せよ。そして、テキストの内容に即して、自分のコメント・批判を加えよ。
はじめに
古来、存在の問題は人間の知的興味をとらえてきた。どのような意味において在るものは在り無は存在しないのだろうか。さまざまなものが「在る」といわれるが、それらがすべて真実に「在る」と表現されるに価する「在る」なのだろうか。すべての「在る」は一時的な「在る」であって、それらの原理として真実の永遠な「在る」があるのではないだろうか。しかし、真実の「在る」は物体としてあるのか、あるいは精神としてあるのだろうか。そしてそれらはどのような様態においてあるのだろうか。
何が存在であり、存在とは何であるかは人間にとって本来的な問題である。以下ではこの「存在」の問題について考察する手掛かりとして、アリストテレスによる存在概念がどのようなものであるかを見ていくことにする。
1．アリストテレスの形而上学
　アリストテレスにとって存在としての存在の原理・原因を研究する学を第一哲学(存在論、形而上学)とよぶ。「存在」には様々な意味があり、それらは分類することができる。アリス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛大通信　哲学概論・哲学概論1　科目最終試験対策6題セット　90点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/]]></link>
			<author><![CDATA[ by senbon_kitaouji]]></author>
			<category><![CDATA[senbon_kitaoujiの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 20:05:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952760424668@hc11/90641/" target="_blank"><img src="/docs/952760424668@hc11/90641/thmb.jpg?s=s&r=1329649501&t=n" border="0"></a><br /><br />科目最終試験に向けて、「哲学概論」「哲学概論1」の学習の要点に記された6つの課題を、教科書等に沿って、まとめたものです。  
模範解答と解答を暗記するためのキーワードを一問一答式の問題にしています。 
課題は
・哲学と宗教の関係について、主[344]<br />R0512　 「哲学概論」科目最終試験対策
1）哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例に取りながら考える。
古代ギリシャの精神には、自然についての思索と人間（の魂）についての思索という二つの流れがある。前者の中心は小アジアであり、その思想家は「イノニアの自然学者」と呼ばれる。一方、イタリアにおけるギリシャ人植民地には、人間の魂を主題とする思想があり、その中心はやはりイオニア文化圏で生まれたピュタゴラスである。但し、イオニアでの自然の探究とイタリアでの魂の探究とに分けるのは、あまりにも図式的であり、前者においても常に魂の問題も考察され、後者に会っても常に自然の考察があることに留意しておかねばならない。
ピュタゴラス自身の履歴や思索は明確ではないが、彼はクロトンで一種の宗教団体を主宰した。けれど、彼は決して単なる宗教家ではない。彼は世界を数から説明しようとした最初の人であり、周知のように優れた幾何学者であった。また、彼は古代ギリシャ人の世界観であるところの世界を秩序ある全体（コスモス）であることを明言した最初の人でもある。
しかし、彼は今日的な意味での科学者であったわけではない。数は今日的な没価値的な記号ではなく、人間の徳のシンボルでもあった。つまり、ピュタゴラスにとっては、人間の魂の在り方を問題にすることを別にして、自然世界を探求することは出来なかったのである。数学と倫理、もっと広く言えば科学と宗教は、彼においては無関係な別々なものではなかったのである。
ピュタゴラスの思想には三つの中心的な概念を数えることができる。即ち、「観照（テオリア）」「秩序ある宇宙（コスモス）」「浄化（カタルシス）」である。これらの三つの概念は、一つの過程を表している。つまり、人間の魂は宇宙に現れている秩序（コスモス）を観照して、その秩序正しさに自信を同化することによって、永劫の輪廻を離脱して不死の境に至ることが出来る。
ピュタゴラスは、智者に値するのはただ神のみであって、彼は自分を愛智者であると称した。彼の「愛智」とは、世界の調和の原理の把握であり、それは輪廻している生からの魂の自由、本来的な神性の獲得のために行われるのである。これが「愛智」の担った、新しい、しかも、将来に対して決定的な意味である。このピュタゴラス的な「愛智」が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを経て「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 2010年度 R0512 哲学概論 第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80478/]]></link>
			<author><![CDATA[ by へんとう]]></author>
			<category><![CDATA[へんとうの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 08 Apr 2011 10:08:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80478/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80478/" target="_blank"><img src="/docs/956203737974@hc10/80478/thmb.jpg?s=s&r=1302224937&t=n" border="0"></a><br /><br />カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ。[72]<br />この資料について
課題名
2010年度 R0512 哲学概論 第二設題：カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ。
この資料は佛教大学通信教育部の2010年度のレポート課題に対して、私なりの理解、解釈に基づいて書いたものです。
以降この科目を履修される方が、この資料を参考にしてより良い理解の下にレポートを作成出来るよう、参考資料としてこのレポートを提供させて頂きます。
カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ。
　カントは近代哲学に対して非常に強い影響を与えた者の一人である。カントの哲学は「理性」というものに対して徹底的な批判を行った「批判主義」として知られるが、それは大きな二つの系統の哲学を背景として生まれた。合理論と経験論である。
合理論とはプラトンやデカルトの認識論に代表される考え方であり、特にデカルトの認識論は「大陸合理論」として一つの大きな陣営を築いた。合理論においては、私たち人間が感覚によって認識するものを不確実だとし、予め与えられている理性や精神的な活動によって得られたものを知識として重要視した。プラトンにおいては真理として全ての人間が持っていた「善なるイデア..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学 2010年度 R0512 哲学概論 第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80477/]]></link>
			<author><![CDATA[ by へんとう]]></author>
			<category><![CDATA[へんとうの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 08 Apr 2011 10:08:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80477/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956203737974@hc10/80477/" target="_blank"><img src="/docs/956203737974@hc10/80477/thmb.jpg?s=s&r=1302224937&t=n" border="0"></a><br /><br />テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。[96]<br />この資料について
課題名
2010年度 R0512 哲学概論 第一設題：テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。
この資料は佛教大学通信教育部の2010年度のレポート課題に対して、私なりの理解、解釈に基づいて書いたものです。
以降この科目を履修される方が、この資料を参考にしてより良い理解の下にレポートを作成出来るよう、参考資料としてこのレポートを提供させて頂きます。
テキストを読み進む内に生じる
自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。
アリストテレスが『形而上学』の中で触れた「形相」という概念について考える。
　アリストテレスは『形而上学』において、現実にその時に在る存在としての「現実態」、そして運動、また転化する事によってある現実態へと到達することの出来るものとしての「可能態」、この二つの言葉を定義した。すべての可能態は形相・目的、つまり現実態に向かってあるものであるが、そこへ至る転化・運動には原因がなくてはならない。それに対してアリストテレスは原因、原理としてまず形相・質量・欠除態の三つを数えた。さらに、「類比的には構成要素は三つであり、原因・原理は四つある。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/69671/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おぐらあん]]></author>
			<category><![CDATA[おぐらあんの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Jul 2010 18:22:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/69671/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955567768837@hc10/69671/" target="_blank"><img src="/docs/955567768837@hc10/69671/thmb.jpg?s=s&r=1279790538&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論A判定
「カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ」
　
　カントは彼の哲学を「理性の批判」と称し、また立法や宗教も自由な理性の検討に耐えるものでなくてはならなくなった彼の時代を「批判の時代」と呼んだ。この理性自身をカント哲学は批判しようとする。その批判は理性の自己批判である。カント哲学は全体として人間理性の全面的自覚の試みであるといえる。
カントは合理主義的形而上学と近世経験科学とを学び、またその発展に参加した。その後カントは経験主義を徹底させたヒュームにより独断的形而上学から目覚め、ルソーに人間の尊厳を銘記した。この二人がカントの形而上学的関心の焦点を理論的側面から実践的側面へ移動させた。カントは数学的自然科学を信頼し、そこに知識の典型を見て、それと同格の知識が神の存在や魂の不滅や世界連関における人間の意志の自由というような形而上学的主題に関して成立しえないと考えた。純粋理性批判におけるカントの思想は、すでに事実として是認されている時間と空間の中で現れてくる自然界についての知識について、その可能根拠を明らかにしてそれを基礎づけ、この世界を超える形而上学的についての知識..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学通信教育部　哲学概論R0512　科目最終試験解答例①②③]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67656/]]></link>
			<author><![CDATA[ by まきまき先生]]></author>
			<category><![CDATA[まきまき先生の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 21 May 2010 10:56:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67656/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67656/" target="_blank"><img src="/docs/956294359609@hc10/67656/thmb.jpg?s=s&r=1274406974&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　通信教育部
哲学概論R0512
　科目最終試験の解答例　①②③
この資料は、佛教大学の通信教育部の科目最終試験の解答例です。
実際に出題された試験問題についてそれぞれの解答例を作成しました。
科目最終試験の試験問題は過去問から出題されることがほとんどです。
過去問題がランダムに繰り返し出題されていますので、過去問題をじっくり研究するのがとても効率がいいと思います。
これはあくまでも解答の一例です。
ご自身で勉強し、ご自分の言葉で解答を作成してから科目最終試験に臨むことをおすすめします。
膨大な資料を勉強する時間がない通信教育部の学生の方にとって、とても効率のいい勉強方法になると思います。
このほかにも、教科教育法公民・社会学概論・国際政治概論・哲学概論など・・・
他の教科の科目最終試験問題やその解答例をアップロードしておりますので、ぜひ勉学の参考にして下さい。
短時間で効率のいい勉強をし、しっかりと理解を深め、科目最終試験に臨んで下さい。
哲学概論　科目最終試験の解答例
ソクラテスの「無知」についてソフィストと比較しながら述べよ。
ギリシャの哲学者ソクラテスの有名な言葉。
「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学通信教育部　哲学概論R0512　科目最終試験解答例④⑤⑥]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67655/]]></link>
			<author><![CDATA[ by まきまき先生]]></author>
			<category><![CDATA[まきまき先生の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 21 May 2010 10:56:13 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67655/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956294359609@hc10/67655/" target="_blank"><img src="/docs/956294359609@hc10/67655/thmb.jpg?s=s&r=1274406973&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　通信教育部
哲学概論R0512
　科目最終試験の解答例　④⑤⑥
この資料は、佛教大学の通信教育部の科目最終試験の解答例です。
実際に出題された試験問題についてそれぞれの解答例を作成しました。
科目最終試験の試験問題は過去問から出題されることがほとんどです。
過去問題がランダムに繰り返し出題されていますので、過去問題をじっくり研究するのがとても効率がいいと思います。
これはあくまでも解答の一例です。
ご自身で勉強し、ご自分の言葉で解答を作成してから科目最終試験に臨むことをおすすめします。
膨大な資料を勉強する時間がない通信教育部の学生の方にとって、とても効率のいい勉強方法になると思います。
このほかにも、教科教育法公民・社会学概論・国際政治概論・哲学概論など・・・
他の教科の科目最終試験問題やその解答例をアップロードしておりますので、ぜひ勉学の参考にして下さい。
短時間で効率のいい勉強をし、しっかりと理解を深め、科目最終試験に臨んで下さい。
哲学概論　科目最終試験の解答例
④哲学と宗教の関係について主にピュタゴラスの思想を例にとりながら述べよ。
哲学とは&hellip;知や智の探究を意味し、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65762/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:08:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65762/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65762/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65762/thmb.jpg?s=s&r=1271135284&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の合格レポートです。参考にどうぞ。[63]<br />カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ。
　イマヌエル・カントはプロセイン王国出身
の思想家で大学の教授である。近代において
最も影響力の大きな哲学者の一人である。
生涯、数々の著作がある。『純粋理性批判』
『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書
を発表し、批判哲学を提唱して、認識論にお
ける、いわゆる「コペルニクス的転回」をも
たらす。ドイツ観念哲学の祖でもある。
　カントの故郷東プロセインは、戦争や伝染
病などの災難が続き、人口が半分以下にまで
減少する酷い状況下に陥ったが、カントが生
まれるころには、痛手から立ち上がりつつあ
った。
カント家は敬虔な家庭であったが、経済的に
は恵まれず、かなり貧しい生活を送っている。
父親は皮紐の裁断工で、カントは子どものこ
ろよく父親の仕事場に行き、父親が皮紐を手
際よく裁断した手綱をつくる様子をおもしろ
がって眺めていたという。
母親は息子を散歩に連れ出し、田舎道を歩い
ては草花の名前を教え、夜になれば空を見上
げ、星と星座の名前を教えていた。
愛情に満ちてはいるが謹厳実直な母親のこの
生き方が、カントの道徳観に強い影響力を及
ぼす..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65761/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:08:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65761/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65761/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65761/thmb.jpg?s=s&r=1271135282&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の合格レポートです。参考にどうぞ。[63]<br />３、哲学と自然科学（自然哲学）
テキストのソクラテスの自然に関する記述の
ところが興味深かった。プラトンの「パイド
ン」にこう出てくるらしい。「若い時分に自
然の知識という知恵に熱中したものだ。・・
いつかある人が「万物を秩序づけるもの、
蛮勇の原因は理性であるのを聞いて、その原
因が気に入り、ある意味で面白いと考えた。
そこで読み進むとその男が万物を秩序づける
ために理性も用いなければ、原因も挙げず、
突拍子もないものを原因としているのがわか
った。」と。それで、個人としても市民とし
ても良く生きるための知識にとっては無用で
ある。」と考えたらしい。哲学が形而上学を
中心としたこの時代はこの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「全ての物体は重い」と「５プラス７は１２である」を間とはどのように区別するか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65760/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:08:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65760/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65760/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65760/thmb.jpg?s=s&r=1271135280&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の科目最終試験問題です。参考にどうぞ。[69]<br />「全ての物体は重い」と「５プラス７は１２である」をカントはどのように区別するか。
「先天的総合判断」を中心に説明せよ。
知識は判断を通じて得られるが、判断には三種ある。一つは「全ての物体は重い」というような総合的判断である。これによって知識は拡大されるが、その知識は経験的であって、相対的な確実さしかもたない。二つは「すべての物体は延長している」という分析的判断である。これによる知識は先天的であり、必然性・確実性をもっている。しかし、それは主語概念「全ての物体」の分析・説明であって、知識を何ら拡大するものではない。
ところで、知識を拡大すると同時に必然的・確実的な判断はないものだろうか。
それは..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[バークレイは「三角形の一般的概念」という考えをどのように批判するか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:07:58 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65759/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65759/thmb.jpg?s=s&r=1271135278&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の科目最終試験問題です。参考にどうぞ。[69]<br />バークレイは「三角形の一般的概念」という考えをどのように批判するか。ロックと比較しながら論述すること。
理性が普遍的で真実な存在を把握するということを常識の名に於いて告発し、認識論的吟味の爼上に引き出したのはバークレイの偉大な功績である。バークレイにとって哲学的思考を紛糾させ過誤を惹き起こした主犯者は「心が事物の抽象観念を形成する能力を持っているという説」である。ロックにおいて経験論は、普遍的な実態の客観的実在を全く否定することはなかったが、問題を観念の場へ移しかえた。そこで感覚的な個別的な観念の外に。直感的に認識される普遍的・抽象的観念が認められた。しかしロック自身ですら、この抽象的な普遍観..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[デカルトとロックの思想を主に本有観念をめぐる考え方の相違を明らかにしながら説明せよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65758/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:07:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65758/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65758/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65758/thmb.jpg?s=s&r=1271135276&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の科目最終試験問題です。参考にどうぞ。[69]<br />デカルトとロックの思想を主に本有観念をめぐる考え方の相違を明らかにしながら説明せよ。
デカルトの本有観念はデカルトの認識論で最も重要な概念の一つであると共に、彼以降の合理論にとって中心的な概念である。まず、本有観念は少なくともデカルトにあっては「生まれつき」という心理学的・生理学的な意味で解すべきではない。それはむしろ「理性に内在する」という認識論的・価値論的な意味で解すべきである」
本有観念は悟性に対応する意味で即ち論理的な意味で用いられている。本有観念、即ち必然的な普遍的概念は、精神に内在する理性によって把握せられた概念である。しかし、このことは単に思惟せられたもの、あるいは思惟の形式を意..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりあげながら述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65757/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:07:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65757/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65757/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65757/thmb.jpg?s=s&r=1271135275&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の科目最終試験問題です。参考にどうぞ。[69]<br />哲学と宗教の関係について、主にピュタゴラスの思想を例にとりあげながら述べよ。
ピュタゴラスの思想によると三つは中心的な概念を数えることができる。一つは観照（テオリア）である。彼は次のような比喩を用いて観照の重要性を説いている。人生とはお祭りのようなものである。つまり、通常の人々は名誉や富を得ようとして生きているけれど、観照を専らにする人はこれらを度外視して、ただ観るのである。「真実」を求めるという積極的な事態を指している。そして秩序ある宇宙（コスモス）である。他にもう一つの概念は浄化（カタルシス）である。丁度、身体が医薬によって浄化せられるように、魂は音楽すなわち調和せる音階によって肉体的束縛..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ソクラテスの「無知」について、ソフィストと比較しながら述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65755/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yasutarou520924]]></author>
			<category><![CDATA[yasutarou520924の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Apr 2010 14:07:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65755/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963818257033@hc07/65755/" target="_blank"><img src="/docs/963818257033@hc07/65755/thmb.jpg?s=s&r=1271135271&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学概論の科目最終試験問題です。参考にどうぞ。[69]<br />ソクラテスの「無知」について、ソフィストと比較しながら述べよ。
あるときソクラテスの友人がデルフォイ神殿を訪ね、神に問いかけた。
「ソクラテスより知恵のある者はいるか」巫女を通して答えられたその答えは、
「ソクラテスより知恵のあるものはいない」というものであった。
ソクラテスはこの神託を聞き、大変驚いて困り果てた。ソクラテスは神が出したその答えの真意を理解できず、自分より知恵のある者を探し出そうと、何度も何度も問答を繰り返した。この時代の知恵の有るものとは所謂、「ソフィスト」と呼ばれる者達であった。彼らは金銭を受け取って「徳」を教えるとされた弁論家・教育家である。彼らと問答を繰り返すうちにソク..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36252/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 00:45:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36252/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/36252/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/36252/thmb.jpg?s=s&r=1234194320&t=n" border="0"></a><br /><br />「テキストを読み進む内に生じる自分なりの疑問、批判を明確に述べよ。」
テキストを読み、存在論に興味を感じ、倫理学との対比において、疑問や批判を考えた。またｐ６８～「世界」においては、世界の創造について、プラトンとアウグスティヌスの哲学的対[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19287/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yvonco]]></author>
			<category><![CDATA[yvoncoの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 21:08:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19287/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19287/" target="_blank"><img src="/docs/983429318101@hc06/19287/thmb.jpg?s=s&r=1202299681&t=n" border="0"></a><br /><br />　生の哲学とは狭義には一九世紀後期と二十世紀前期の特にドイツにおいて展開された思潮であり、その指導的な代表者としてはニーチェとディルタイである。また、広義には形式的に硬化された哲学に対し、生を完全な充実と生命性において捉えようとする、哲学の[360]<br />　生の哲学とは狭義には一九世紀後期と二十世紀前期の特にドイツにおいて展開された思潮であり、その指導的な代表者としてはニーチェとディルタイである。また、広義には形式的に硬化された哲学に対し、生を完全な充実と生命性において捉えようとする、哲学のより自由な諸形式を繰り返し主張する反潮流と理解されるものである。今回はディルタイの生の哲学について論じたい。
　ヴィルヘルム・ディルタイは一八三三年に牧師の息子として生まれ、一九一一年にベルリン大学の名誉教授としてこの世を去った。ディルタイは精神科学論および生の哲学者として知られている。
　ハイデガーの言葉を借りると哲学は全て生の哲学であるという。つまりは、人間や生を離れた哲学は人間には存在しない。哲学と生とは内容的には同じであるということになる。生という言葉には、様々な考え方があり、ときには人生を、あるいは生活を、また、生命、人間と色々な風に解釈されるが、結局は一定の方向性を示している。つまりは、人間を全体とし、徹底的に考察しようとすることである。よって、従来の哲学概念がそのまま引き継がれている。しかし、その引き継ぎ方が異なっており、この部分が生の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19286/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yvonco]]></author>
			<category><![CDATA[yvoncoの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 21:07:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19286/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429318101@hc06/19286/" target="_blank"><img src="/docs/983429318101@hc06/19286/thmb.jpg?s=s&r=1202299621&t=n" border="0"></a><br /><br />自由主義とは個人の自由を尊重し、権力による自由の制限を抑える近代ヨーロッパの思想または態度をいう。近代自由主義の思想は宗教・政治・経済の三つの次元から構成されていると考えられているがここでは、政治面、経済面から近代の自由主義への発展を述べる[360]<br />自由主義とは個人の自由を尊重し、権力による自由の制限を抑える近代ヨーロッパの思想または態度をいう。近代自由主義の思想は宗教・政治・経済の三つの次元から構成されていると考えられているがここでは、政治面、経済面から近代の自由主義への発展を述べる。
政治の次元では一七八九年のフランス革命における人権宣言が代表的である。「人は自分の権利に関しては生まれながらにして平等である。あらゆる政治的結社の目的は天賦にして時効にかかることなき人の諸権利の保持にあり、その諸権利とは自由、財産の安全及び圧迫への抵抗のそれである。」に表されている。
当時のフランスは絶対王政であり、当時の身分制は第一身分が僧侶、第二身分が貴族、第三身分が平民であった。貴族は世襲で、僧侶のうちの上位にある者の殆どが貴族であり、特権階級として第三身分の平民、即ちそのほとんどの農民を搾取していた。僧侶や貴族は税が免除されたが、平民は重税にあえいでいた。一七八九年のルイ１６世の時代には国家財政は困窮し、その改善が急務の課題となり、僧侶、貴族、平民の代表による身分別会議（三部会）を招集したが、平民の意見は無視された。そこで平民は、国民会議..]]></description>

		</item>

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