<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/" xmlns:activity="http://activitystrea.ms/spec/1.0/">
	<channel>
		<title>タグ“史学”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E5%8F%B2%E5%AD%A6/</link>
		<description>タグ“史学”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
		<generator uri="http://www.happycampus.co.jp/" version="1.0">happycampus rss generator</generator>
		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[書評「未来をひらく歴史」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2478/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たまもん]]></author>
			<category><![CDATA[たまもんの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 16 Oct 2005 21:09:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2478/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2478/" target="_blank"><img src="/docs/983431837301@hc05/2478/thmb.jpg?s=s&r=1129464593&t=n" border="0"></a><br /><br />この本は五章立てで東アジアにある日本･中国･韓国の三国における近代からの歴史をそれぞれの視点から記述している。
一章では前近代、アジアに迫る西洋の列強に対して三国はそれぞれどのように対応していったか、というところから始まっている。中国では[356]<br />この本は五章立てで東アジアにある日本･中国･韓国の三国における近代からの歴史をそ
れぞれの視点から記述している。 
一章では前近代、アジアに迫る西洋の列強に対 して三国はそれぞれどのように対応して
いったか、というところから始まっている。中国では西洋を排斥しようと戦いを挑んだ末
に敗北、港を開くことになり、日本ではアメリカの圧力に屈し開国をし、朝鮮は開国した
後に近代化の道を進んでいた日本の新政府によって開港をすることになった。この中で日
本は特に急激に近代化をしていくことになるが、それが日本国内に国家主義を生み、他の
アジア諸国へと膨張していくきっかけとなった。日本は国力を列強に追いつけるため、勢
力を拡大せんと試みたのだ。 
その矛先は朝鮮半島へ向かい、その宗主国であ った清国との間で戦争をすることになっ
た。日清戦争である。これに勝利して朝鮮に対する支配を強めた日本はロシアとの関係を
悪化させ日露戦争に突入、辛うじて勝利を収めて朝鮮半島へさらなる進出をしていった。 
この間、三国の間では近代化に対応するために 国内でさまざまな改革運動があった。中
国では日清戦争後、それまでの腐敗..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3508/]]></link>
			<author><![CDATA[ by keitan]]></author>
			<category><![CDATA[keitanの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 18:18:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3508/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3508/" target="_blank"><img src="/docs/983431594101@hc05/3508/thmb.jpg?s=s&r=1133342327&t=n" border="0"></a><br /><br />ラフカディオ・ハーンは、１８５０年ギリシャのレフカダ島で生まれた。１９才のときに渡米し、新聞記者などをし、４０歳のときに日本に来て島根の松江中学校の英語教師となった。そして、明治２４年１１月１９日にハーンは第五高校中学校の英語の教師として赴[360]<br />ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る
私がこの基礎セミナーを受けた中で一番印象に残ったことは旧制第五高等学校についてである。その中でも夏目漱石とラフカディオ・ハーン（小泉八雲）について興味を持ったので、このレポートではこの２人を中心に述べる。
旧制第五高等学校は明治２０年に開校された、九州で最初にできた高等学校である。旧制高等学校とは、明治２７年、当時の高等中学校を改組したもので、程度の高い高等普通教育を行う男子の学校のことで、修業期間は３年。第一高等学校（通称　一高、東京）、二高（仙台）、三高（京都）、四高（金沢）、五高（熊本）、六高（岡山）、七高（鹿児島）、八高（名古屋）の官立（国立）のほかに、それぞれの土地の名を冠した官立や私立の高校もあった。
ラフカディオ・ハーンは、１８５０年ギリシャのレフカダ島で生まれた。１９才のときに渡米し、新聞記者などをし、４０歳のときに日本に来て島根の松江中学校の英語教師となった。そして、明治２４年１１月１９日にハーンは第五高校中学校の英語の教師として赴任してきた。ハーン４１歳のときである。その当時の五校の校長は講道館柔道の創始者である嘉納治五郎であっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アメリカにおける黒人問題について(ミシシッピーバーニングなる映画をもとに)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431327901@hc05/4370/]]></link>
			<author><![CDATA[ by スミレ]]></author>
			<category><![CDATA[スミレの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 26 Dec 2005 21:48:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431327901@hc05/4370/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431327901@hc05/4370/" target="_blank"><img src="/docs/983431327901@hc05/4370/thmb.jpg?s=s&r=1135601327&t=n" border="0"></a><br /><br />　I&rsquo;m going to talk about today&rsquo;s situation of black people in the U.S.  The setting in this film is in 1964.  The year i[126]<br />I&#039;m going to talk about today&#039;s situation of black people in the U.S. The setting in this film is in 1964. The year is important for black people because the U.S made a new civilrights law in the year. It protected a lot of rights of black people so black people&#039;s situation began to improve after 1964. For example the number of black public officers sharply increased after 1964. There were 33 black public officers in 1941. In 1965 there were 280, in 1975 1469, in 1985 6016. As a more remarkabl e..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[吉田茂の自問]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431774801@hc05/4284/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hima]]></author>
			<category><![CDATA[himaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 23 Dec 2005 22:41:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431774801@hc05/4284/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431774801@hc05/4284/" target="_blank"><img src="/docs/983431774801@hc05/4284/thmb.jpg?s=s&r=1135345280&t=n" border="0"></a><br /><br />第１章満州事変
　１９３１年９月１８日満州事変が起きた。
　満州事変は止めえなかったのだろうか。調書はまず「満州事変の根本原因は一つに日本国内で深刻な経済不況と政党政治への不満に根ざす、国家革新勢力の台頭があったからであり、他の一つは、[352]<br />吉田茂の自問
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
第１章満州事変
　１９３１年９月１８日満州事変が起きた。
　満州事変は止めえなかったのだろうか。調書はまず「満州事変の根本原因は一つに日本国内で深刻な経済不況と政党政治への不満に根ざす、国家革新勢力の台頭があったからであり、他の一つは、中国において激しい排日の動きがあったからであって、そのよってくるところ遠く、かつ深い」と事前の外交努力によってとめることはほとんど不可能といっている。しかし調書は、日本に武力進出以外の道がなかったともいえない、当時の外務当局は満州事変前の内外の情勢の行き詰まりを打開しようとする「積極性に乏しかった」と切り返している。
　例えば満州平行線交渉が考えられる。軍事力に訴えてもと満州の収益確保を至上命令としていたので、張学良と政治的話をつけることが考えられる。しかし張学良は満州全土を掌握できるような状態ではなかったのみならず、張学良の背後には蒋介石がいた。ナショナリズムの効用をもって日本との対抗の盾にしようとしていた蒋介石にとって張学良が勝手に日本と取引することは許しがたいことであ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人類の進化の図]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431367101@hc05/4173/]]></link>
			<author><![CDATA[ by くるる]]></author>
			<category><![CDATA[くるるの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 20 Dec 2005 00:51:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431367101@hc05/4173/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431367101@hc05/4173/" target="_blank"><img src="/docs/983431367101@hc05/4173/thmb.jpg?s=s&r=1135007507&t=n" border="0"></a><br /><br />初期人類の進化に関して、基本となる分類群とおおまかな系統仮説について説明し、最新の（２００２）初期人類化石の発見の意味と進化の要因に関する仮説を考える。[228]<br />進化古生物学　　　　　初期人類の進化～最新の化石と系統仮説について～ 
　　　　　　　　　　　　　　..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本人とナンバ歩き]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4126/]]></link>
			<author><![CDATA[ by meganekozoo]]></author>
			<category><![CDATA[meganekozooの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Dec 2005 15:32:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4126/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4126/" target="_blank"><img src="/docs/983431392401@hc05/4126/thmb.jpg?s=s&r=1134801137&t=n" border="0"></a><br /><br />1　ナンバ歩きとは
　ナンバ歩きとは、右足を出すとき右手を出し、左足を出すとき左手を出す歩き方だ。しかし、それは体をねじらず、うねらないのが基本であり、究極的には、上半身を動かさず歩く、すり足の歩き方である。空手や剣道、歌舞伎など日本古来[354]<br />　　　　　　日本人とナンバ歩き
1　ナンバ歩きとは
ナンバ歩きとは、右足を出すとき右手を出し、左足を出すとき左手を出す歩き方だ。しかし、それは体をねじらず、うねらないのが基本であり、究極的には、上半身を動かさず歩く、すり足の歩き方である。空手や剣道、歌舞伎など日本古来の武術、芸能はこの動きが基本となっている。
　２００４年の世界陸上選手権、２００ｍで銅メダルを取った末次信吾選手が走法に取り入れていたと大会後にマスコミを語ったことや、私立桐朋高校のバスケットボール部が受験校のため、練習時間が少ないにもかかわらず、練習にナンバ歩きを組み入れて、インターハイ出場を勝ち取っていたことなどによって注目を集めた。
　明治以前の人々はこの歩き方をしていたという。明治初期に西洋式の行進の導入に伴い、歩き方が西洋の歩き方に変わっていったのだという。しかし本当にそうであったのだろうか。そしてそれはどのように西洋の歩き方へと近づいていったのだろうか。
　私は、明治以前の人々がナンバ歩きであったのは間違いないと考える。しかし、現在言われているような、明治政府の行進の導入によって、明治初期頃から、ナンバ歩きから..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[初期の人類の主食はなにか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4124/]]></link>
			<author><![CDATA[ by meganekozoo]]></author>
			<category><![CDATA[meganekozooの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Dec 2005 15:25:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4124/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431392401@hc05/4124/" target="_blank"><img src="/docs/983431392401@hc05/4124/thmb.jpg?s=s&r=1134800733&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
　霊長類は一般に、指の形と口の形がその動物の主食と関係しているという考えをご存知だろうか。このことは「口と手の形は、その主食によって決められる」と言い換えることもできる。このことは、ヒトにも適用できるのではないだろうか。つま[356]<br />人類の身体特徴―初期人類の主食はなにか―
1はじめに
霊長類は一般に、指の形と口の形がその動物の主食と関係しているという考えをご存知だろうか。このことは「口と手の形は、その主食によって決められる」と言い換えることもできる。このことは、ヒトにも適用できるのではないだろうか。つまり、ヒトの手の形と口の形を分析することによって、この手と口が形成された頃の人類、初期の人類が何を食べていたかを明らかにできるのではないだろうか。
2人類の体の特徴
哺乳動物が小型でも大型でもないという境界線上で生きてゆくためには、特別な生き方をしなければならない
だいたいにおいて大型種には植物の葉、小型種には果実や昆虫といった無尽蔵の食物供給源があるが、この中間的な体重クラスの哺乳類にはそういういわば指定席のようなものが無い（ウシ科はどうも別のようで反芻胃による草の効率的な消化は中間クラスの体重でも草で生きていける方法を開発している）。
他の哺乳類がすでにやってしまっているようなことをしたのでは、生きてゆけない。
彼らはタイリクオオカミのようにある特定の食料を求めて長距離を移動したり、チーターのように例外的に速いス..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アメリカ史実と象徴におけるアメリカ性について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423801@hc05/3935/]]></link>
			<author><![CDATA[ by vivid1206]]></author>
			<category><![CDATA[vivid1206の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 08:14:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423801@hc05/3935/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423801@hc05/3935/" target="_blank"><img src="/docs/983431423801@hc05/3935/thmb.jpg?s=s&r=1134429247&t=n" border="0"></a><br /><br />　The racial discrimination is one of the biggest problems in the America. The history of the segregation has started sin[122]<br />The racial discrimination is one of the biggest problems in the America. The history of the segregation has started since the arrival of settlements. Native people in the conquest and the colony such as American Indian, Maya (almost all Asia, Africa nations, and other races), and Aztecan were discriminated and maltreated. The segregation against black people is the most common problem and represents America very well. American Civil Rights Movement is the typical event of this problem and KKK re..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[文化財保護の諸問題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423901@hc05/3932/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 03b1101]]></author>
			<category><![CDATA[03b1101の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 07:06:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423901@hc05/3932/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431423901@hc05/3932/" target="_blank"><img src="/docs/983431423901@hc05/3932/thmb.jpg?s=s&r=1134425213&t=n" border="0"></a><br /><br />?	文化財とはなにか。そして文化財保護はされるべきなのか。
　一言で文化財と言っても様々な文化財がある。有形文化財や無形文化財、民俗文化財、記念物、伝統的建造物群。それを更に詳しく分類すると、建造物、絵画、彫刻、工芸品、考古資料、歴史資料[352]<br />文化財保護の諸問題
文化財とはなにか。そして文化財保護はされるべきなのか。
一言で文化財と言っても様々な文化財がある。有形文化財や無形文化財、民俗文化財、記念物、伝統的建造物群。それを更に詳しく分類すると、建造物、絵画、彫刻、工芸品、考古資料、歴史資料、音楽、工業技術、無形民俗文化財に用いられる家具、器具、衣服、
進行年中行事の風俗習慣、貝塚、古墳、庭園、動物、植物、地質鉱物&hellip;等、日頃よく耳にするものもたくさんある。では、現在私が飼っている犬や使っている机や椅子、着ているユニクロの服、よく聞くCD等も文化財として存在するのか。答えは「NO」です。なぜかというと、それらには歴史上の価値が認められないからである。広辞苑を開けて文化財という語句を調べてみた。すると、「文化価値の客観的所産としての諸事象または諸事物で文化価値を有するもの&hellip;」と載っていた。少し硬い言い方なので私なりに言い換えると、文化財とは、私達人間がこの地球上に生まれて以来、長い年月をかけて創り上げられ、守られ、伝えられてきた歴史上の財産のことである。そして一度失ってしまうと二度とよみがえらないもの。これが文化財だと私は思う。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平城宮跡]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 00:53:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3927/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3927/thmb.jpg?s=s&r=1134402788&t=n" border="0"></a><br /><br />１．平城宮について
　平城宮跡は奈良盆地の北辺、奈良山丘陵の南山麓から平野部に展開する平城京の中枢機構であり、平城京域の北辺中央に位置する。
　平城京のメインストリートである朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていた。朱雀門をくぐると天皇の住居[356]<br />平城宮跡
１．平城宮について
　平城宮跡は奈良盆地の北辺、奈良山丘陵の南山麓から平野部に展開する平城京の中枢機構であり、平城京域の北辺中央に位置する。
　平城京のメインストリートである朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていた。朱雀門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式を行う平城宮がある。平城宮の周囲には大垣がめぐり、朱雀門をはじめ１２の門が存在した。
　平城宮の内部には政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園など幾つかの区画に別れていた。その中でも都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化があった。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿（第一次大極殿）が、奈良時代後半になると東側の区画に建てられた。（第二次大極殿）
　他にも、ほぼ正方形と考えられてきた平城宮が、実は東部に張り出し部分（東院）を持つことが分かったことや、その隅に奈良時代の庭園を発見したことなどは発掘調査による大きな成果といえる。
　　２．遺跡の保存整備について
　昭和３７年に起こった電鉄車庫建設計画は、宮跡の存亡に関わる危機であっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『最後の女帝　孝謙天皇』についての論評]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3926/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 00:49:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3926/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3926/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3926/thmb.jpg?s=s&r=1134402540&t=n" border="0"></a><br /><br />『最後の女帝　孝謙天皇』を論評するにあたって、確認しておきたいのは、本稿は「『最後の女帝　孝謙天皇』の著者瀧浪貞子氏の説に対する個人的な意見及び疑問点」と「著書を読んでの感想」の２つの意味段落によって成り立っているということである。
　それ[358]<br />『最後の女帝　孝謙天皇』についての論評
　『最後の女帝　孝謙天皇』を論評するにあたって、確認しておきたいのは、本稿は「『最後の女帝　孝謙天皇』の著者瀧浪貞子氏の説に対する個人的な意見及び疑問点」と「著書を読んでの感想」の２つの意味段落によって成り立っているということである。
　それでは本論に入る。まず「著者の説に対する個人的な意見及び疑問点」について述べる。
　読んでいてまず気がついたことが２つある。１つは自説を取り上げる時に、どうして説が成り立つのかという説明が欠けている点が多々見られたことである。私が気がついたところでは、３９頁の野村忠夫氏への批評、８８頁の「藤原京や平城京のように宮城の規模が大きくなると、遷宮の慣習は廃絶したち理解されがちであるが、実際には直接の在所建て替える形で伝えられていた。」（このことを著者は「宮内遷宮」と述べているが、これは著者が造った用語なのかどうかはっきりせずに用いられているところも腑に落ちない）と述べているところと、１９４頁の横田健一氏への批評の３点が上がった。
もう１つは、瀧浪氏は学者であるにもかかわらず、孝謙天皇に感情移入している点である。プロロ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[動物遺存体からみた「サケ・マス論」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3924/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 13 Dec 2005 00:39:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3924/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3924/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3924/thmb.jpg?s=s&r=1134401999&t=n" border="0"></a><br /><br />1．	はじめに
　山内清男の「サケ・マス論」という仮説を知り、大変興味が引かれるとともに、サケ・マスが縄文時代の東日本の高い人口密度を支える食料資源となりえるのか強い疑問を感じた。そこで現在の研究段階で山内の「サケ・マス論」に関してどこまで[354]<br />動物遺存体からみた「サケ・マス論」
　　目次
　１．はじめに
　２．動物遺存体とは何か
　３．「サケ・マス論」に関する研究小史
　４．サケ・マス類骨の出土例
　５．動物遺存体からみる縄文時代のサケ・マス食
　６．おわりに
はじめに
　山内清男の「サケ・マス論」という仮説を演習の発表の準備をしている間に知り、大変興味が引かれるとともに、サケ・マスが縄文時代の東日本の高い人口密度を支える食料資源となりえるのか強い疑問を感じた。そこで現在の研究段階で山内の「サケ・マス論」に関してどこまで言及できるのかということを調べてみたくなり、歴史地理概論のレポートにこのテーマを取り上げることにした。
動物遺存体とは何か
　動物遺存体という用語を説明する前に環境考古学、動物考古学という用語について説明したい。
　環境考古学とは主に自然遺物の分析を通して、過去および現在の環境や生態系と人間活動の関係を明らかにすることを目的とした考古学の一分野である。分析手法に、自然科学的方法またはそれを基礎とした方法を用いることが多いため、むしろ自然科学的方法による過去の探求を総称した分野ともいえる（佐藤2004）。
　考..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アメリカの奴隷制度の背景]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Chesirecat]]></author>
			<category><![CDATA[Chesirecatの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Dec 2005 19:41:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431725001@hc05/3759/" target="_blank"><img src="/docs/983431725001@hc05/3759/thmb.jpg?s=s&r=1134124865&t=n" border="0"></a><br /><br />映画『アミスタッド』の歴史的、社会的な背景にあるものは「奴隷制度」に関わる、アメリカ合衆国の南北の対立であった。
　啓蒙思想の普及にともない人道的主義的な見地が広まり奴隷社会から抜け出そうとしていた時代であった。そしてついに1833年にはイ[350]<br />アメリカの奴隷制度の背景
　
この映画の歴史的、社会的な背景にあるものは「奴隷制度」に関わる、アメリカ合衆国の南北の対立であった。
啓蒙思想の普及にともない人道的主義的な見地が広まり奴隷貿易の廃止が徐々に叫ばれるようになっていき、奴隷社会から抜け出そうとしていた時代であった。そしてついに1833年にはイギリスで奴隷制廃止法が成立した。こうして奴隷貿易は衰退していくが、奴隷制度自体は消えたわけではなかった。アメリカ合衆国では綿花貿易が大きく成長し、綿花のプランテーションのある南部地方において綿花の収穫量の大幅な増加に伴って、労働力としての奴隷の需要が増加していった。しかし、すでに奴隷制の廃止法を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[追儺　　節分の由来について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3727/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sue2956]]></author>
			<category><![CDATA[sue2956の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Dec 2005 23:37:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3727/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431813101@hc05/3727/" target="_blank"><img src="/docs/983431813101@hc05/3727/thmb.jpg?s=s&r=1133966254&t=n" border="0"></a><br /><br />　二月の行事といえば節分が挙げられるが、これは古代宮中で行われていた追儺という行事が起源である。また追儺は、唐より伝来した大儺が由来であった。この儀式がどのように始まり、受け継がれてきたのか述べてみる。
　大儺は中国では最も古い起源を持つ[356]<br />　二月の行事といえば節分が挙げられるが、これは古代宮中で行われていた追儺という行事が起源である。また追儺は、唐より伝来した大儺が由来であった。この儀式がどのように始まり、受け継がれてきたのか述べてみる。
　大儺は中国では最も古い起源を持つ習俗で、周の時代に、十二月八日に臘祭として行われていたのが始まりと言われている。『荊楚歳時記』の記述を要約すると「方相氏が熊の皮を被り、黄金四目の玄衣朱裳のおそろしい格好で、戈と盾を持ち、侲子と称する童子を率いて鬼を追った」とある。また「鬼を追い払う為に、鉦鼓を打って儺声をあげたり、鬼が嫌う桃の弓で射る方法も用いられたりしていた」ともある。（参考文献二四一頁）この儀は、厄病を祓うことが目的であったようである。
　日本では、文武天皇（六八三～七〇七）の時代の慶雲三年（七百六）が所見である。式に先立って、まず方相氏を大舎人中の背の高い者、黄金四目の仮面と朱と黒の衣を着け、右手に戈、左手に盾を持ち、大儺とした。また官奴等二十人を持って、侲子と紺と朱の衣を着け、殿庭に列立したもの達を小儺とした。宮中では陰陽師が南殿のほとりで祭文を読み、鬼を追う役の方相氏が鬼や..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[神風の若鷹たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 8492leader]]></author>
			<category><![CDATA[8492leaderの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 07 Dec 2005 14:41:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431479001@hc05/3708/" target="_blank"><img src="/docs/983431479001@hc05/3708/thmb.jpg?s=s&r=1133934100&t=n" border="0"></a><br /><br />?　最初に
質問。あなたは国のために生命を捨ててまで戦えるか。
　答え。とてもではないが、出来ない。
　もしこの様な質問をされたら、私はこう答えるだろう。アクション漫画やアニメなどでたまに「生命を捨てて戦う」という台詞を見かけるが、そ[346]<br />Ⅰ　最初に
質問。あなたは国のために生命を捨ててまで戦えるか。
　答え。とてもではないが、出来ない。
もしこの様な質問をされたら、私はこう答えるだろう。アクション漫画やアニメなどでたまに「生命を捨てて戦う」という台詞を見かけるが、それはあくまでも作られた物語上での空想に過ぎない。実際に行動として起こせる人など皆無であろう。「出来る」という人も中には居るかもしれないが、それは「出来る気がする」と錯覚しているのだ。私は生まれてから一度たりとも、戦争という特殊な状況に置かれた経験がない。かつて日本が経験した太平洋戦争も、もはや終戦から５０年以上もの歳月が過ぎ去っており、私に限らず戦後生まれ、特に若い世代にとっては本や映像から伝わってくる過去の出来事、という認識しか持っていないのがごく一般的であろう。
だが戦争は確かにあったのだ。私と同年代、さらにそれ以下のまさに少年とも呼べる者たちが、青春を謳歌すべき時期にその生命を国のために捧げて戦ったのである。そして冒頭の質問を実際に実行した若きパイロット達がいた。
神風特攻隊である。
Ⅱ　特攻隊の発祥
この戦争は、勝つ要素が素人目にもほとんど無かった。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[太平洋戦争　エレクトロニクス戦]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nobufuta]]></author>
			<category><![CDATA[nobufutaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 19:31:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3630/" target="_blank"><img src="/docs/983432065701@hc05/3630/thmb.jpg?s=s&r=1133692265&t=n" border="0"></a><br /><br />　マリアナ沖のエレクトロニクス戦で日本が大敗した事はよく知られている。ではこのエレクトロニクス戦の勝敗を決定したものは何だったのだろうか。当時の日本は確かに科学技術的に見てアメリカより劣っていたかもしれない。しかし、ゼロ戦の存在などを考える[360]<br />太平洋戦争～エレクトロニクスが戦を制す～
　マリアナ沖のエレクトロニクス戦で日本が大敗した事はよく知られている。ではこのエレクトロニクス戦の勝敗を決定したものは何だったのだろうか。当時の日本は確かに科学技術的に見てアメリカより劣っていたかもしれない。しかし、ゼロ戦の存在などを考えると、原因はそれだけではないように思える。単純に言うと、戦うということをどう考えていたか、という点において、両国には違いが存在していたのではないか。
　パールハーバーの戦い以来の航空攻撃戦において、まずアメリカは守りの研究を進め、F6FヘルキャットやVT信管付きの対空砲火をつくりだした。これは己を省みる姿勢から、客観的..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3507/]]></link>
			<author><![CDATA[ by keitan]]></author>
			<category><![CDATA[keitanの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 18:17:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3507/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431594101@hc05/3507/" target="_blank"><img src="/docs/983431594101@hc05/3507/thmb.jpg?s=s&r=1133342256&t=n" border="0"></a><br /><br />　私がこの基礎セミナーを受けた中で一番印象に残ったことは旧制第五高等学校についてである。その中でも夏目漱石とラフカディオ・ハーン（小泉八雲）について興味を持ったので、このレポートではこの２人を中心に述べる。
　旧制第五高等学校は明治２０年[356]<br />ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る
私がこの基礎セミナーを受けた中で一番印象に残ったことは旧制第五高等学校についてである。その中でも夏目漱石とラフカディオ・ハーン（小泉八雲）について興味を持ったので、このレポートではこの２人を中心に述べる。
旧制第五高等学校は明治２０年に開校された、九州で最初にできた高等学校である。旧制高等学校とは、明治２７年、当時の高等中学校を改組したもので、程度の高い高等普通教育を行う男子の学校のことで、修業期間は３年。第一高等学校（通称　一高、東京）、二高（仙台）、三高（京都）、四高（金沢）、五高（熊本）、六高（岡山）、七高（鹿児島）、八高（名古屋）の官立（国立）のほかに、それぞれの土地の名を冠した官立や私立の高校もあった。
ラフカディオ・ハーンは、１８５０年ギリシャのレフカダ島で生まれた。１９才のときに渡米し、新聞記者などをし、４０歳のときに日本に来て島根の松江中学校の英語教師となった。そして、明治２４年１１月１９日にハーンは第五高校中学校の英語の教師として赴任してきた。ハーン４１歳のときである。その当時の五校の校長は講道館柔道の創始者である嘉納治五郎であっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[最初から壬辰倭乱をとめることができたか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pugpug27]]></author>
			<category><![CDATA[pugpug27の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 15:26:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3500/" target="_blank"><img src="/docs/983431710501@hc05/3500/thmb.jpg?s=s&r=1133331960&t=n" border="0"></a><br /><br />朝鮮時代の歴史において、最も大きな戦争だと言えるのはやはり壬辰倭乱であろう。まず、この戦争の場所が朝鮮であったということだけで、被害の大きさを予想できるだろう。この戦争によって、当時の人口が三分の一に減少し、有名な書籍や絵などの国宝級の文化[360]<br />最初から壬辰倭乱をとめることができたか
朝鮮時代の歴史において、最も大きな戦争だと言えるのはやはり壬辰倭乱であろう。まず、この戦争の場所が朝鮮であったということだけで、被害の大きさを予想できるだろう。この戦争によって、当時の人口が三分の一に減少し、有名な書籍や絵などの国宝級の文化財もたくさん損失され、国家全体に多大な影響を与えた。もっとも大変だったのは農地面積が減ったことにより、当然国家の租税収入が減り、国民の生活も厳しくなった。それにより、どんどん人情味がなくなり、冷酷な社会になっていった。更に、その時に伝染病がはやった事で、最悪の状態であったと言える。
ちなみに、日本はこの戦争によって、朝..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[科学技術の世紀]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3496/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hallowed]]></author>
			<category><![CDATA[hallowedの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 05:30:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3496/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3496/" target="_blank"><img src="/docs/983431673101@hc05/3496/thmb.jpg?s=s&r=1133296252&t=n" border="0"></a><br /><br />　私は20世紀は科学技術の時代であったと考える。20世紀に入り科学技術は急速に進歩していき、その結果100年前に比べて特に先進国では生活水準は大幅に向上し、平均寿命も大幅に向上していった。更に100年前ではおよそ夢のような話であったであろう[340]<br />科学技術の世紀
　私は20世紀は科学技術の時代であったと考える。20世紀に入り科学技術は急速に進歩していき、その結果100年前に比べて特に先進国では生活水準は大幅に向上し、平均寿命も大幅に向上していった。更に100年前ではおよそ夢のような話であったであろう、わずか50g程度の重さしかない携帯電話、世界中の人々とコミュニケーションがとれるインターネットなどが発明され、交通機関の発達により世界中どこでも気楽に行けるようになり、更には宇宙ステーションの建設までを成し遂げた。このように科学技術の発展により、人類の長らくの夢を多く実現させることとなったが、その反面20世紀は科学技術の発展により、様々な悲..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『「死せる魂」の社会史』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3495/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hallowed]]></author>
			<category><![CDATA[hallowedの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 05:26:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3495/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3495/" target="_blank"><img src="/docs/983431673101@hc05/3495/thmb.jpg?s=s&r=1133296014&t=n" border="0"></a><br /><br />　今まで18世紀のロシアに対するイメージといっても、ピョートル1世やエカチェリーナ2世によって絶対主義化、中央集権化、領土拡大などが進められ、また啓蒙専制主義によって上からの急速な近代化・西欧化が進められていった―と言った高校で習った世界史[352]<br />『｢死せる魂」の社会史』を読んで
　今まで18世紀のロシアに対するイメージといっても、ピョートル1世やエカチェリーナ2世によって絶対主義化、中央集権化、領土拡大などが進められ、また啓蒙専制主義によって上からの急速な近代化・西欧化が進められていった―と言った高校で習った世界史的、表面的な知識しかなかった。しかし私はこの本を読んで、決して教科書などでは扱われることのない、近世ロシア農民の日常や彼らの内面、また彼らのアイデンティティーが当時の身分制社会の中でどのように形成されていったかといったことに興味を覚え、またこのようなことをある程度は理解できたように思う。ではこの本で描かれていた近世ロシアの農民の姿についてまとめたいと思う。
　近世ロシアの農民は、自分たちの村を「ミール（世界）」と呼んでおり、そこが彼らの生活の場であった。そして村人たちによって行われるミールでの集会で彼らは、村役人の選出など行政の問題、村内での紛争の解決や軽犯罪の処罰など司法の問題、また領主に対する嘆願などもミール全体の意志として行っており、これらを総合すると彼らは農奴制の時代彼らはある程度の範囲において村を自治してい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中国の外交・華僑]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431601601@hc05/3490/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cyobizhizhi]]></author>
			<category><![CDATA[cyobizhizhiの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 03:11:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431601601@hc05/3490/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431601601@hc05/3490/" target="_blank"><img src="/docs/983431601601@hc05/3490/thmb.jpg?s=s&r=1133287879&t=n" border="0"></a><br /><br />第一章・政治優先外交の30年間
＜中国外交第一期＞
　改革外交と現実外交の交錯期である1949 78年が中国外交第一期である。その中の49 53年は50年二月の中ソ同盟条約締結を挟んで第一次五カ年計画までが「向ソ一辺倒」時代である。台湾[320]<br />第一章・政治優先外交の30年間
　＜中国外交第一期＞
　改革外交と現実外交の交錯期である1949〜78年が中国外交第一期である。その中の49〜53年は50年二月の中ソ同盟条約締結を挟んで第一次五カ年計画までが「向ソ一辺倒」時代である。台湾に逃げた国民党・蒋介石政権を支持する、アメリカに怒りをあらわにし、アメリカと対立するソ連側についた。しかし、この時代の中国は国共内戦が残した経済的荒廃に追われ、自国利益を追求する地についた外交を展開する環境もゆとりもなかった。
　53年からの第一次五カ年計画に入った年の、七月朝鮮休戦調印をきっかけに、周恩来首相のもと平和共存外交に転換する。55年のインド・ビルマの平和五原則、バントン会議での平和五原則の確認など中国の政治イデオロギーを超越した近隣重視の外交が行われた。また55年8月には第一回ジュネーブ会談でアメリカとの対話も実現した。
　しかし、ソ連とは核技術供与を拒んだことから、毛沢東はソ連の建軍方針を批判し、59年6月には中ソ原爆協定の破棄で中ソ戦争になるかと思われたが勃発することはなかった。毛沢東は62年の七千人大会における自己批判を機に、第一次..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[尾張藩主徳川宗春について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431578301@hc05/3459/]]></link>
			<author><![CDATA[ by notohanto]]></author>
			<category><![CDATA[notohantoの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 28 Nov 2005 19:32:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431578301@hc05/3459/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431578301@hc05/3459/" target="_blank"><img src="/docs/983431578301@hc05/3459/thmb.jpg?s=s&r=1133173972&t=n" border="0"></a><br /><br />はしがき
　私が徳川宗春という人物に興味を抱いた理由は、私がもともと江戸時代の大名にとても興味を持っていたことにある。なぜ江戸時代の大名に興味を持っていたかといえば、それが現代とは異なり世襲制よって家督が伝えられていくという事実があったこ[356]<br />尾張藩主徳川宗春について
目次
はしがき
序章
尾張藩主に就任するまで
第七代尾張藩主として
終章
はしがき
私が徳川宗春という人物に興味を抱いた理由は、私がもともと江戸時代の大名にとても興味を持っていたことにある。なぜ江戸時代の大名に興味を持っていたかといえば、それが現代とは異なり世襲制よって家督が伝えられていくという事実があったことだ。たとえどんなに不出来な人物であっても殿様の子であれば父の跡を継いで殿様になることがある。
　そのようにして苦労を知らずに殿様になった人物のほとんどが家老や側役に政治を任せ、自身は好きなことをして遊び、治政に無関心な者が数多くいた。
江戸時代中期、このように自身の意思を持たずにただ大名という地位の上に胡坐を書いていたずらに時を過ごしていた殿様が多い中で自身の信念をしっかり持ち黙っていれば一生裕福な生活が保障されていたのにも拘らず政治に対する考え方の相違から時の将軍の政策に異を唱え、敗れた御三家筆頭の尾張藩主徳川宗春に焦点を当てて考察していきたいと感じてこの論題を選んだ。
序章
徳川宗春の藩主時代の記録に『遊女濃安都』がある。この書物は宗春隠居画にその治..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[文化人類学から見た妖術―日本の憑きもの信仰について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3428/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 Nov 2005 02:35:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3428/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3428/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3428/thmb.jpg?s=s&r=1132940154&t=n" border="0"></a><br /><br />１．妖術とは

　妖術の英語の原名はwitchcraft(ウィッチクラフト)である。ここでのwitch(ウィッチ)とは中世ヨーロッパにおける「魔女裁判」でやり玉にあげられた人々である。日本では「魔女」や「魔法使い」と訳されることが多いが、人[318]<br />西洋地域史Ⅰ補足レポート　　2005/07/29
文化人類学から見た妖術―日本の憑きもの信仰について
妖術とは
　妖術の英語の原名はwitchcraft(ウィッチクラフト)である。ここでのwitch(ウィッチ)とは中世ヨーロッパにおける「魔女裁判」でやり玉にあげられた人々である。日本では「魔女」や「魔法使い」と訳されることが多いが、人類学の分野では「妖術師」という訳語を使っている。呪術と妖術は似ているが、本質的には大変異なった特色をもつものであるので、本稿では呪術ではなく、妖術という用語を用いていく。
　そこでまずヨーロッパにおける妖術師について歴史的に探ってみると、その発達は13世紀のことであり、教会は神の対立物としての悪魔の存在を公認し、これに対する闘争を開始することになった。その結果、悪魔と交通することによって有害な魔力を得たものと疑われた女性たちが、妖術師のレッテルを貼られて火あぶりにされたのである。
しかし魔女裁判が狂信的、かつ組織的な形を取るに至ったのは1480年代以後のことだった。これ以後になると、妖術師とはさまざまな方法によって周囲の人を病気にしたり、死亡させたり、財産..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[渤海文化の特色]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3332/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ujimikan1203]]></author>
			<category><![CDATA[ujimikan1203の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 22 Nov 2005 21:26:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3332/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3332/" target="_blank"><img src="/docs/983432074601@hc05/3332/thmb.jpg?s=s&r=1132662411&t=n" border="0"></a><br /><br />　渤海は、高句麗滅亡後に遺民が建てた国で、今から1300年前の698年、今の中国東北部とロシアと北朝鮮にまたがる地域に成立した古代王朝国家である。この国は以後200年余の間、日本と同じように唐から政治、文化、仏教を取り入れ、平和な文化国家と[340]<br />渤海と日本の関係
渤海は、高句麗滅亡後に遺民が建てた国で、今から1300年前の698年、今の中国東北部とロシアと北朝鮮にまたがる地域に成立した古代王朝国家である。この国は以後200年余の間、日本と同じように唐から政治、文化、仏教を取り入れ、平和な文化国家として栄え続けた。 日本で言えば、ちょうど奈良時代から平安時代前期に当たる時代である。 　外交で言えば、唐に対しても何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事より渤海の上層部は儒教的な教養を元に国政に当たったと思われる。 
また、日本海をへだてた隣国である日本に友好を求めて727年から919年までの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[渤海文化について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ujimikan1203]]></author>
			<category><![CDATA[ujimikan1203の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 22 Nov 2005 21:08:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432074601@hc05/3331/" target="_blank"><img src="/docs/983432074601@hc05/3331/thmb.jpg?s=s&r=1132661327&t=n" border="0"></a><br /><br />　渤海国とは、高句麗が唐に滅ぼされた後に、北朝鮮から支那東北部、ロシア沿海地方にかけて存在した広大な国家で、二百数十年間続いた。唐の影響を持ちながらも高句麗の文化を受け継ぎ、独特の渤海文化を興しその繁栄ぶりは北朝鮮の歴史のなかでも光輝くもの[360]<br />渤海文化の特色
　渤海国とは、高句麗が唐に滅ぼされた後に、北朝鮮から支那東北部、ロシア沿海地方にかけて存在した広大な国家で、二百数十年間続いた。唐の影響を持ちながらも高句麗の文化を受け継ぎ、独特の渤海文化を興しその繁栄ぶりは北朝鮮の歴史のなかでも光輝くものであった。
渤海は満洲と韓半島を同時に領土にした国々だ。 満洲や韓半島で起きたどの国も持つことができなかった特徴である。
高句麗は早くから周辺多くの国や族属と多様な関係を結んだ。4~6世紀には中国王朝の権威を認めながらも遊牧民であるキタイ族、 大興の中領山脈に居住した族属、 そして本来狩猟族だった水路などを従えるとか影響力を行使して大勢力圏を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アメリカ社会史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3292/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hallowed]]></author>
			<category><![CDATA[hallowedの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 20 Nov 2005 19:22:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3292/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431673101@hc05/3292/" target="_blank"><img src="/docs/983431673101@hc05/3292/thmb.jpg?s=s&r=1132482169&t=n" border="0"></a><br /><br />　１．今回は講義で興味を持った内容として、アメリカ・スペイン戦争とアメリカ・フィリピン戦争について取り上げようと思う。スペインでは16世紀以降世界的帝国としての地位が低下しており、多くのスペインの植民地は独立し、また植民地として残ったキュー[356]<br />アメリカ社会史総論
　１．今回は講義で興味を持った内容として、アメリカ・スペイン戦争とアメリカ・フィリピン戦争について取り上げようと思う。スペインでは16世紀以降世界的帝国としての地位が低下しており、多くのスペインの植民地は独立し、また植民地として残ったキューバ、フィリピンでも独立運動が盛んに行われていた。しかし当時のスペインには独立運動を止めるのに十分な人的、金的資源を持っていなかったため、反逆者と疑われた人物を処刑し、ゲリラと民衆を切断させ、人々には残虐な扱いを行った。このような様子を当時の新聞は、部数を伸ばすためにもセンセーショナルに報道し（いわゆるイエロー・ジャーナリズム）、世論もキューバへの介入を求める声が強まった。　　
　またこの時代には既に西部への拡張は達成したためフロンティアは消滅し、アメリカの国力も増強してきたため、以前からアメリカにとって経済的にも魅力的であったキューバをわがものにしようという意図もあり、財界人のなかにも開戦を主張する者もいた。
　そんな中1898年2月にアメリカ海軍の戦艦メイン号がハバナ湾で爆発し沈没するというメイン号事件が起きた。この事件の原因は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[縄文時代の植物食について&minus;堅果類の研究を中心に&minus;]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3291/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 20 Nov 2005 18:48:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3291/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3291/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3291/thmb.jpg?s=s&r=1132480113&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
　縄文時代を通じて植物質食料が主要な地位を占めていたことは多くの研究者に共通する見解である。にもかかわらず研究は必ずしも進展しているとはいえない。それは低湿地の特殊泥炭層の中や何らかの要因で炭化しないと植物遺存体が残存しにくい[358]<br />縄文時代の植物食について－堅果類の研究を中心に－
　　１．はじめに
　縄文時代を通じて植物質食料が主要な地位を占めていたことは多くの研究者に共通する見解である。にもかかわらず研究は必ずしも進展しているとはいえない。それは低湿地の特殊泥炭層の中や何らかの要因で炭化しないと植物遺存体が残存しにくい現状、またたとえ遺存したとしても確実に食料となった証明が難しいなどといった研究の困難さに原因がある。　
縄文時代の食用植物については、1980年代以降調査例が著しく増加し、また同定方法や精度も格段に高まったこともあり、堅果類、ヒョウタン、ソバ、マメ、イネなど多くの植物が遺跡から報告されている（表１）。
　しかし現在のところ植物資源のなかでは、発見例や分布的特徴をふまえて、議論可能なのは結局のところ堅果類に限定されてしまう。なので、本発表では堅果類のの食用方法について述べていきたいと思う。
　　２．堅果類とは
　クリ、クルミ、ドングリ類、トチなどの堅い果皮を持った木の実のこと。比較的残存しやすいので、遺物包含層、貝層、泥炭層、洞窟、岩陰、住居址、土器内、貯蔵穴内など様々な場所から出土例がある。また遺..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[〜畿内を代表する環濠集落、池上曽根遺跡について〜]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3290/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tonbo789]]></author>
			<category><![CDATA[tonbo789の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 20 Nov 2005 18:29:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3290/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431631501@hc05/3290/" target="_blank"><img src="/docs/983431631501@hc05/3290/thmb.jpg?s=s&r=1132478965&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
 本稿では、池上曽根遺跡と弥生文化博物館を見てきた感想と池上曽根遺跡の歴史（遺跡の史跡整備も含めて）、遺跡の変遷について述べていきたいと思う。
２．弥生文化博物館について
　大阪府立弥生文化博物館は、弥生文化に関する資料と情報[352]<br />大阪府立弥生文化博物館見学記
～畿内を代表する環濠集落、池上曽根遺跡について～

　　目次
　１．はじめに
　２．弥生文化博物館について
　３．池上曽根遺跡の歴史
　４．池上曽根遺跡の変遷
　５．おわりに

　　１．はじめに
　私は夏休みを利用して、西日本各地を旅行してきた。途中大阪に寄って大阪城、大阪歴史博物館、大仙陵古墳などを見てきたが、本発表ではその途中見てきた弥生文化博物館と池上曽根遺跡について発表したいと思う。池上曽根遺跡は日本を代表する弥生時代の大集落であり、環濠と呼ばれる大溝を集落の周囲にめぐらせた環濠集落と呼ばれる集落を形成している。

　本発表では、池上曽根遺跡と弥生文化博物館を見てきた感想と池上曽根遺跡の歴史（遺跡の史跡整備も含めて）、遺跡の変遷について述べていきたいと思う。
　
　　２．弥生文化博物館について
　大阪府立弥生文化博物館は、弥生文化に関する資料と情報を収集・保存・研究・展示し、弥生文化に広く親しみ、学習してもらうことを目的としている弥生文化全般を対象とする全国で唯一の博物館である。

常設展示は第一展示室と第二展示室があり、第一展示室は「目で見る弥生..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ドイツ統一]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3191/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kana609]]></author>
			<category><![CDATA[kana609の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Nov 2005 00:58:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3191/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3191/" target="_blank"><img src="/docs/983431882401@hc05/3191/thmb.jpg?s=s&r=1132070281&t=n" border="0"></a><br /><br />　ドイツ帝国は、フランス革命とは対照的に上からの革命により統一が成されました。なぜドイツの近代化は、イギリス、フランスに比べ時間がかかったのでしょうか。
　その原因の一つとして、ドイツが歴史的に各領邦に分かれて存在し、共通の国民意識に欠け[356]<br />ドイツ帝国は、フランス革命とは対照的に上からの革命により統一が成されました。なぜドイツの近代化は、イギリス、フランスに比べ時間がかかったのでしょうか。
その原因の一つとして、ドイツが歴史的に各領邦に分かれて存在し、共通の国民意識に欠けていたために一つの国家としてまとまりにくかった、ということがあります。ここの住民たちは、1871年に統一されるまで、一度も共通の国民を形成することはなかったのです。
では逆に、そのように共通の意識に欠けていたドイツ人たちが、どのようにして国民意識を養っていったのでしょうか。統一の様子を大きな視点から見ていきたいと思います。多少これまでの発表と重なる部分もあるかと思いますが、19世紀を概観するつもりになって、聞いてください。
まず、私たちが「ドイツ」と呼んでいる、この名称について軽く触れておきたいと思います。
ゲルマン人の言語を指して言われていた「ドイツの」（Deutsch）という単語自体は、かなり昔からありました。ただし、当初ドイツ人と見なされていたのは、この帝国の支配貴族だけでした。このため、15世紀頃にはその支配階層に関連付けられて「ドイツ国民の神聖ロ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[京劇と近代中国の変遷]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3190/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kana609]]></author>
			<category><![CDATA[kana609の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Nov 2005 00:47:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3190/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3190/" target="_blank"><img src="/docs/983431882401@hc05/3190/thmb.jpg?s=s&r=1132069637&t=n" border="0"></a><br /><br />　京劇は、数千年にも渡る中国の歴史の中では珍しく大器晩成型の文化である。この京劇の歴史は同時に、辛亥革命・日中戦争・中華人民共和国成立・文化革命という、中国近代史の激動の時期に重なるものである。当時の京劇を通して近代中国を見てみようと思う。[360]<br />京劇と近代中国の変遷
京劇は、数千年にも渡る中国の歴史の中では珍しく大器晩成型の文化である。この京劇の歴史は同時に、辛亥革命・日中戦争・中華人民共和国成立・文化革命という、中国近代史の激動の時期に重なるものである。当時の京劇を通して近代中国を見てみようと思う。
京劇は、清の乾隆帝が、自身の誕生祝賀のために南方から呼び寄せた地方演劇が人気を呼び、それが北京化して成立したものだという。これは、当時漢民族の文化が虐げられていたにも関わらず、舞台の上ではそれが緩やかだった（漢民族の役の者が満州族の役の者をやっつけることもできた）ため、演劇が盛んになっていたという背景も重なっている。
清末期から中華民国初期の、列強の圧迫に苦しんでいた中国では、西欧文明に対して自らの文化を自虐的に見る向きが強かった。世界的には歌や踊りを基調とするものから科白主体なものへと変わっていったが、中国では京劇が「原始的」な姿を残しつつ独特な進化を遂げていたために、近代中国では、京劇が野蛮なものであると否定的に見る知識人が多かったのである。しかし、そうした知識人とは裏腹に、一般の民衆は京劇を熱狂的に支持していた。彼らの識字..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イギリス・フランス・ドイツの政治発展パタンの比較]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3189/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kana609]]></author>
			<category><![CDATA[kana609の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Nov 2005 00:33:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3189/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431882401@hc05/3189/" target="_blank"><img src="/docs/983431882401@hc05/3189/thmb.jpg?s=s&r=1132068820&t=n" border="0"></a><br /><br />　政治発展を促すものとはなんだろうか。それに対する答えには、様々なものがある。経済的側面、文化的側面、軍事的側面など、様々な面から検討することが可能だ。
　しかし、まずは最も基本的な部分を考えてみたい。それはブルジョワの存在である。欧州の[356]<br />政治発展を促すものとはなんだろうか。それに対する答えには、様々なものがある。経済的側面、文化的側面、軍事的側面など、様々な面から検討することが可能だ。
しかし、まずは最も基本的な部分を考えてみたい。それはブルジョワの存在である。欧州の資本主義的な発展に付随するブルジョワの台頭こそが、政治発展の駆動力となる。彼らによって国家は、王権の独裁・貴族の封建主義的権益擁護などから自由になり、民主化へと移行していったのだ。
そこで、英仏独の政治発展パタンの比較の前に、まず三者の近代に至るまでの歴史を、ブルジョワの存在に注目して追っていきたい。
＜イギリス＞
イギリスは世界でもいち早く市民革命、産業革命を経て、近代化に成功した国である。同様に、ブルジョワの台頭も他国に比べ早かった。
11世紀半ばから、イギリスのアングロ・サクソンは、ノルマン人に侵略され、異民族支配を受ける。支配者であるノルマン人は、被支配者である彼らの反発を高めないため、というよりも支配者と被支配者の間で言葉が通じなかったため、民事の揉め事の裁定は現地の長老らに任せる方針を取った。そうした中で、爵位こそ与えられないものの、アングロ・..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Keith　Thomas　『歴史と文学』第1章歴史と文学の要約]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kisaburou3]]></author>
			<category><![CDATA[kisaburou3の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 13 Nov 2005 17:58:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431703201@hc05/3167/" target="_blank"><img src="/docs/983431703201@hc05/3167/thmb.jpg?s=s&r=1131872304&t=n" border="0"></a><br /><br />　現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。

　歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知るこ[352]<br />現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。
　歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知ることは不可能に近いと主張してきた。また社会学者も、状況の真偽のわからない文学史料など歴史学者にとって無用の長物に過ぎないと主張している。さらに、文学史料は降服不可能なほどサンプリングが難しいため、文学史料にあらわれた証拠は簡単に計量化できないという経済学者の主張も存在する。このように、歴史学をより「科学的」なものにしようと努力している今世紀の歴史家は、想像の産物である文学に対して非常に冷淡な態度を表明していて、文学史料を史実として歴史に援用することなどは杜撰極まりない方法であると信じて疑わないのである。
　一方現代の文学学者も、歴史の援用には好意的ではない。最近の文学批評は、作品出版当時の状況や作者の生活、読者とその反応を採りあげるいわば伝統的な研究から、現代の読者と文学作品との直接的なつながりを重視し、文学の自立性を確立する方向に傾いている。そして、文学の自..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中東からみた『十字軍』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431738201@hc05/2905/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mitumame110]]></author>
			<category><![CDATA[mitumame110の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 06 Nov 2005 15:07:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431738201@hc05/2905/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431738201@hc05/2905/" target="_blank"><img src="/docs/983431738201@hc05/2905/thmb.jpg?s=s&r=1131257229&t=n" border="0"></a><br /><br />十字軍とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教徒諸国が、聖地エルサレムのイスラーム国からの奪還を目的に派遣した遠征軍のことである。「奪還」というと、イスラーム国側に「奪われた」聖地を、十字軍が「取り戻す」というイメージが浮かぶ。しかし、これはヨ[360]<br />「中東からみた『十字軍』」
十字軍とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教徒諸国が、聖地エルサレムのイスラーム国からの奪還を目的に派遣した遠征軍のことである。「奪還」というと、イスラーム国側に「奪われた」聖地を、十字軍が「取り戻す」というイメージが浮かぶ。しかし、これはヨーロッパ側から見た、十字軍の解釈である。それではイスラーム国側にとっての十字軍とはどのようなものだったのだろうか。
ヨーロッパ東方のビザンツ帝国では、アレクシオス一世（在位１０８１―１１１８）の治世になると、セルジューク・トルコ軍のたびかさなる侵入に脅かされ、エルサレムへの巡礼路はしばしば切断された。トルコ軍の圧力に耐え切れなくなったアレクシオスは、ついにローマ教皇ウルバヌス二世にたいして西ヨーロッパからの援軍の派遣を求めたのである。要請を受けたローマ教皇ウルバヌス２世は、カトリック教会の派遣を東方正教会圏まで広げる好機ととらえ、フランスの騎士軍に指令を下した。「神はキリストの旗手たるあなたがたに、私たちの土地からあのいまわしい民族（トルコ人）を根絶やしにするよう勧告しておられる」。「異教徒と戦うことによって罪を贖うことが..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たまもん]]></author>
			<category><![CDATA[たまもんの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 16 Oct 2005 21:19:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431837301@hc05/2479/" target="_blank"><img src="/docs/983431837301@hc05/2479/thmb.jpg?s=s&r=1129465186&t=n" border="0"></a><br /><br />私が見た歴史博物館
　私が今回見てきたのは「江戸東京博物館」である。1993年3月28日、東京都墨田区横綱1&minus;4&minus;1にオープンしたこの博物館は東京ドーム約二倍分の延床面積を誇り、常設展示室は約9000?という広さを持っている。この広さを生[326]<br />私が見た歴史博物館
　私が今回見てきたのは「江戸東京博物館」である。1993年3月28日、東京都墨田区横綱1－4－1にオープンしたこの博物館は東京ドーム約二倍分の延床面積を誇り、常設展示室は約9000㎡という広さを持っている。この広さを生かし、内部では江戸や東京の街を再現した展示を行うなどしている。また、分館として「江戸たてもの園」が武蔵小金井に開設されており、こちらはその名の通り江戸･東京の歴史的な建物を復元･保存している施設である。
　そして江戸東京博物館は施設それ自体の形がかなり特異な物となっているのだが、これはすぐ近くにある両国国技館との調和を考えたものといわれている。そのデザインモチ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[糞尿リサイクルシステムの成り立ちと崩壊]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2343/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mamo2819]]></author>
			<category><![CDATA[mamo2819の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Oct 2005 21:19:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2343/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432113701@hc05/2343/" target="_blank"><img src="/docs/983432113701@hc05/2343/thmb.jpg?s=s&r=1129119565&t=n" border="0"></a><br /><br />鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に肥培の技術が進歩し、肥料も刈敷・草木灰に加え、人糞尿も使用されるようになったが糞尿リサイクルシステムが本格的に始まったのは戦国時代、京都である。糞尿リサイクルシステムを成立させる条件には、
?都市人口の増[354]<br />糞尿リサイクルシステムの成り立ちと崩壊
鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に肥培の技術が進歩し、肥料も刈敷・草木灰に加え、人糞尿も使用されるようになったが糞尿リサイクルシステムが本格的に始まったのは戦国時代、京都である。糞尿リサイクルシステムを成立させる条件には、
①都市人口の増加・都市の発展、食糧増産の必要性
②糞尿の運搬道具の登場、軽く丈夫な結桶の生産と普及
③汲み取り式トイレの登場
が挙げられる。こうした条件のもとで都市住人と近郊農村との間に糞尿と作物を取引する関係ができた。また、糞尿リサイクルシステムの成立に伴い、町のあちこちでされていた糞尿が汲み取り式トイレでされるようになりそれが集められ、肥料として利用され、結果都市の衛生環境が向上した。
１５２５年頃に町屋に共同トイレができ、１６世紀後半には公衆トイレが登場し、通行人の糞尿も確保するようになりリサイクルシステムが進展した。堺のトイレを見ると１６世紀前半は容量の小さい甕が使用されている。これは汲み取り頻度の多さを示し、リサイクルシステムが浸透していることが分かる。さらに１５７０年代には複数の甕の使用が行われ、糞尿の分別回収の兆..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[風刺画でみる時代の世相風俗]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2293/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cmm83300]]></author>
			<category><![CDATA[cmm83300の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Oct 2005 22:43:37 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2293/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2293/" target="_blank"><img src="/docs/983431937801@hc05/2293/thmb.jpg?s=s&r=1128433417&t=n" border="0"></a><br /><br />多くの言葉を費やさずとも、１枚の漫画が時代の世相や風俗を的確に言い当てていることがある。近世の日本において木版画で少部数の発行がなされていた漫画は、近代に入って起こった印刷技術の革新により、大量生産が可能になり、全国で同時期に大衆の目に入る[360]<br />～　風刺画でみる時代の世相風俗　～
多くの言葉を費やさずとも、１枚の漫画が時代の世相や風俗を的確に言い当てていることがある。近世の日本において木版画で少部数の発行がなされていた漫画は、近代に入って起こった印刷技術の革新により、大量生産が可能になり、全国で同時期に大衆の目に入るようになった。つまり、漫画というものは、一般大衆に向けて描かれたものであり、「笑い」という大衆の共感を得て、大衆を納得させる役割を持っている。従って、その時代に顕著に現れた時代の感情のようなものを絵にしている面が強く、人々に与える影響も格段に大きい。　
近代に入ると権力を批判する機能をもつ「風刺画」が加わり、大衆の支持を得た。近代の漫画が江戸の漫画と大きく違うのは、ジャーナリズムの中に発表の場を得た点にあるだろう。戯画浮世絵とは発行部数が違い、また、定期刊行で読者を拡大したことで、大きな影響力を持ったことも見逃せない。日本漫画の長い歴史の中で、漫画が「風刺」機能、特に、「権力への風刺」機能を最もダイナミックに発揮した最初の時期は、明治の自由民権期であると思われる。それはなぜだろうか。風刺漫画を短期間に大量に生み出す..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[創唱宗教の簇生の時代]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2292/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cmm83300]]></author>
			<category><![CDATA[cmm83300の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 04 Oct 2005 22:35:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2292/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431937801@hc05/2292/" target="_blank"><img src="/docs/983431937801@hc05/2292/thmb.jpg?s=s&r=1128432915&t=n" border="0"></a><br /><br />創唱宗教とは、宗教を発生形態から類型した場合の言葉で、特別な一人の創唱者によって唱えられた宗教のことをいう。普通、わが国の神道のように民権の習俗的な宗教意識から自然発生的に生まれてきた自然的宗教に対して用いられ、創唱者は神仏または霊的超越者[360]<br />　　　
－創唱宗教の簇生の時代－
　創唱宗教とは、宗教を発生形態から類型した場合の言葉で、特別な一人の創唱者によって唱えられた宗教のことをいう。普通、わが国の神道のように民権の習俗的な宗教意識から自然発生的に生まれてきた自然的宗教に対して用いられ、創唱者は神仏または霊的超越者から何らかの啓示や神託を受けることで、神仏の真理や意志を人間に示す形式をとる。人間はその神仏の言葉である啓示を信じ、従うことで救済されるものであるという。
　一般にこれら創唱宗教の特色は、第一に自然発生的な宗教ではその担い手が特定の国や地域・民族に限られる傾向があるのに対し、いかなる国・地域・民族にも開かれている普遍的な性格をもつ点があげられる。第二に、その発生が何よりも特定の宗教的人物の救済体験に根ざし、その人格を色濃く反映しているところにある。
　しかし、創唱宗教とはいっても、母胎となる宗教と無関係というわけではない。仏教は古代インドのバラモン教を基盤にブッダという宗教的人格の生活史と体験から生まれたのであり、キリスト教やイスラム教が共にユダヤ民族のユダヤ教の一神教の神観念をベースとしてイエスとマホメットという..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史の意味と研究方法の偏移]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Luft]]></author>
			<category><![CDATA[Luftの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 28 Sep 2005 21:00:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432070601@hc05/2282/" target="_blank"><img src="/docs/983432070601@hc05/2282/thmb.jpg?s=s&r=1127908838&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史とは、人が人を生み子孫を残していく中で、遺伝情報に含まれない人類の記憶。文化や政治の時間の流れの中で、過去にあらゆる事象が起きたということの証である。漢字の意味上、「歴」は「次々に巡り歩く」という意を持っている。また、「時を経る」とか「[360]<br />歴史の意味と研究方法の偏移
歴史とは、人が人を生み子孫を残していく中で、遺伝情報に含まれない人類の記憶。文化や政治の時間の流れの中で、過去にあらゆる事象が起きたということの証である。漢字の意味上、「歴」は「次々に巡り歩く」という意を持っている。また、「時を経る」とか「数える」という意味も孕んでいる。一方の「史」もともと、「天体の運行を計算して暦を作る人」を表し、それが転じて「歴史的な計算を司る人物や書物など」を意味するようになった。すなわち、漢字の意味という観点から「歴史」の意味を定義するならば、「過去の事象を時間の概念にてまとめ上げたもの」ということになるだろう。
E.T.カーは『歴史とは何か』のなかで「歴史は、確かめられた事実の集成からなる」と記述した。現在という時点の視点から立って、過去というかつての現在を眺めたときの事実。もちろん見逃しや取るに足らない過去もあり、現在から離れた過去であるほど霞んで見えるし、ハッキリしない部分が多く出てくる。だが、過去より引き継がれた史料などの情報を用いて、過去に何があったのかを明確に判断しなければならない。では過去の事象が歴史的であると思われる..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[文化大革命十年史を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2115/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nazonojisan]]></author>
			<category><![CDATA[nazonojisanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 17:45:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2115/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2115/" target="_blank"><img src="/docs/983432134201@hc05/2115/thmb.jpg?s=s&r=1122799545&t=n" border="0"></a><br /><br />文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は３万４千８百人におよび、中国の経済損失は５千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への[356]<br />東洋史学特殊講義「中華人民共和国史」レポート
『文化大革命十年史』を読んで－－「一君万民」の帰結
　文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は３万４千８百人におよび、中国の経済損失は５千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への本格的研究は今までなかったという。本書は1989年の第２次天安門事件前に政治の民主化を勇気をもって主張した著者が、膨大な資料に基づき文革の背景と全過程を詳細に究明し、その歴史的意義を真っ向から問うたものである。しかし、筆者の様々な事象への目配りや文革の本質への言及は高く評価されるべきものではあるものの、本書は基本的には歴史的事実を解明するに留まっていると考える。理路整然と文革の進展を説き起こしていきつつも、文革を毛沢東の権力への執着や、林彪や四人組ら「君側の奸」の私利私欲に基づく「愚行」と感情的に捉える側面があることは否定できない。文革の10年を狂気と野心の産物として片づけるのではなく、なぜこのような狂乱がこれほど長い間続けられたのかを徹底的に追究せね..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『文化大革命十年史』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2113/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nazonojisan]]></author>
			<category><![CDATA[nazonojisanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 17:45:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2113/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2113/" target="_blank"><img src="/docs/983432134201@hc05/2113/thmb.jpg?s=s&r=1122799502&t=n" border="0"></a><br /><br />文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は３万４千８百人におよび、中国の経済損失は５千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への[356]<br />東洋史学特殊講義「中華人民共和国史」レポート
『文化大革命十年史』を読んで－－「一君万民」の帰結
　文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は３万４千８百人におよび、中国の経済損失は５千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への本格的研究は今までなかったという。本書は1989年の第２次天安門事件前に政治の民主化を勇気をもって主張した著者が、膨大な資料に基づき文革の背景と全過程を詳細に究明し、その歴史的意義を真っ向から問うたものである。しかし、筆者の様々な事象への目配りや文革の本質への言及は高く評価されるべきものではあるものの、本書は基本的には歴史的事実を解明するに留まっていると考える。理路整然と文革の進展を説き起こしていきつつも、文革を毛沢東の権力への執着や、林彪や四人組ら「君側の奸」の私利私欲に基づく「愚行」と感情的に捉える側面があることは否定できない。文革の10年を狂気と野心の産物として片づけるのではなく、なぜこのような狂乱がこれほど長い間続けられたのかを徹底的に追究せね..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[桜井万里子『ソクラテスの隣人たち』を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2110/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nazonojisan]]></author>
			<category><![CDATA[nazonojisanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 17:40:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2110/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2110/" target="_blank"><img src="/docs/983432134201@hc05/2110/thmb.jpg?s=s&r=1122799210&t=n" border="0"></a><br /><br />この本は、紀元前５世紀末のギリシア、アテナイを生きたソクラテス、アゴラトス、アントギス、リュシアスの４人の生き方を個別的・具体的に追うことで、古代ギリシアにおけるアテナイ社会の実相を描き出そうとしたものである。
　従来のアテナイ像は多分に[356]<br />『西洋史研究入門』レポート：桜井万里子先生
桜井万里子『ソクラテスの隣人たち』を読んで
　この本は、紀元前５世紀末のギリシア、アテナイを生きたソクラテス、アゴラトス、アントギス、リュシアスの４人の生き方を個別的・具体的に追うことで、古代ギリシアにおけるアテナイ社会の実相を描き出そうとしたものである。
　従来のアテナイ像は多分に紋切り型であった。大別すれば、アテナイ民主政を理想視し近代民主主義の原点として捉えるか、もしくは奴隷の存在など「古代的限界」を強調するかの２つの見方しかなかったと言えるだろう。本書のアテナイ像はそのいずれでもない。この本から浮かび上がってくるアテナイの姿は多様性と活気に満ちた、言うなれば人の息づかいが感じられる世界である。若者たちと対話をし、アテナイ民主政を批判したソクラテス。訴追を生業とし、波瀾万丈の生涯を遂げた解放奴隷アゴラトス。民主政下のアテナイで巧みに立ち回った寡頭政支持の富豪市民アントギス。「３０人僭主」への復讐に燃えた富裕メトイコイの弁論作者リュシアス。それぞれに個性的な彼らを生んだ古代アテナイとはどのような社会だったのだろうか。
　アテナイには「デー..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[現代ロシア史研究の現在]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2109/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nazonojisan]]></author>
			<category><![CDATA[nazonojisanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 17:38:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2109/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2109/" target="_blank"><img src="/docs/983432134201@hc05/2109/thmb.jpg?s=s&r=1122799089&t=n" border="0"></a><br /><br />「行動の作家」ジョージ・オーウェルの名作に『動物農場』という作品がある。終戦直後にイギリス・アメリカで刊行され大好評を博し、次々と外国語に翻訳されたこの作品は、あまりにも有名なので説明の必要はないと思うが、あえて粗筋を述べると次のようである[360]<br />　「行動の作家」ジョージ・オーウェルの名作に『動物農場』という作品がある。終戦直後にイギリス・アメリカで刊行され大好評を博し、次々と外国語に翻訳されたこの作品は、あまりにも有名なので説明の必要はないと思うが、あえて粗筋を述べると次のようである。「荘園農場」の動物たちは家畜として人間に支配され、使役され、搾取されて、悲惨な生活を送ってきた。ある夜一匹の老豚が、農場の動物たちに人間の支配の不当性を説き、動物たちの大同団結による人間の打倒を訴えた。老豚の死後、彼の遺志を受け継いだ豚たちは農場の動物たちを組織して農場の人間を追放し、すべての動物が平等な「動物農場」を建設する。しかし、指導者となった豚たちはやがて権力を恣にして私利私欲を追求するようになり、暴力と宣伝を駆使して見かけ上の平等を維持しながら他の動物たちを支配する体制を作り上げる。動物たちは人間がいた頃よりもひどい生活に苦しむことになり、その一方で豚たちは動物たちからの搾取で贅沢な暮らしを送り、ついには二本足で歩くようになり、かつて「敵」としてあれほど忌み嫌った人間そっくりになっていく・・・・・・
　様々な動物たちが互いに言葉を話して..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『戦国金山伝説』を掘るを読む]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2107/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nazonojisan]]></author>
			<category><![CDATA[nazonojisanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 17:35:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2107/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432134201@hc05/2107/" target="_blank"><img src="/docs/983432134201@hc05/2107/thmb.jpg?s=s&r=1122798910&t=n" border="0"></a><br /><br />「子供の心と大人の頭脳」。この本を読んで最初に思い浮かんだのは、かの有名なハインリヒ・シュリーマンのトロイヤ遺跡の発掘である。シュリーマンは子供の頃、父親からホメロスの叙事詩『イリアス物語』に歌われているトロイヤ戦争の伝説を聞き、大いに感銘[360]<br />『戦国金山伝説を掘る』を読んで
　「子供の心と大人の頭脳」。この本を読んで最初に思い浮かんだのは、かの有名なハインリヒ・シュリーマンのトロイヤ遺跡の発掘である。シュリーマンは子供の頃、父親からホメロスの叙事詩『イリアス物語』に歌われているトロイヤ戦争の伝説を聞き、大いに感銘を受けた。シュリーマンは当時作り話と思われていたこの話をすべて真実と信じ込み、いつの日かトロイヤの遺跡を発掘してホメロスの物語が史実であることを証明しようと決意する。まず少年シュリーマンは発掘のためには資金が必要であるという現実的判断から商人としての道を歩み始める。そして辛苦を重ねつつも十ヶ国語をマスターし、商人として着々と地歩を固め、４１歳の時には相当の資産を築く。ここまででも十分凄いが、真に驚くべきはこれからだ。普通ならここで実業家として身を固めてしまうものだが、少年の頃の夢を抱き続けていたシュリーマンは全財産を投じてトロイヤ遺跡の発掘作業に乗り出し、ついに考古学上の大発見を成し遂げる。
　もとよりシュリーマンは考古学者ではないし、ホメロスの物語を盲信するあたり学者の精神からはかなり遠い。しかしながら『戦国金山～..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フランク王国の盛衰とその文化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432136101@hc05/2086/]]></link>
			<author><![CDATA[ by guccisuke515]]></author>
			<category><![CDATA[guccisuke515の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 08:29:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432136101@hc05/2086/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432136101@hc05/2086/" target="_blank"><img src="/docs/983432136101@hc05/2086/thmb.jpg?s=s&r=1122766182&t=n" border="0"></a><br /><br />次にカール大帝の戴冠について見ていく。小ピピンの子であるカール大帝（シャルルマーニュ）は、まず教皇の要請でイタリアに出兵、ロンバルト王国を滅ぼし、北はゲルマン民族の一派サクソン族を討ちキリスト教化し、東はモンゴル系アヴァール族をしりぞけ、南[360]<br />　　　　　　　　　　　＜フランク王国の盛衰とその文化＞ 　　　　　　　　　　　　　　　
　　まず、フランク王国の成立から見ていくことにする。フランク族はゲルマン民族の一部だった、ゲルマン民族大移動が行われ、フランク族はいくつかの支族に分かれ、ライン川の東岸、中、下流に定住し、四世紀頃にはライン川を越え北ガリア地方へと進出していった。ここで注目すべき点は、ほかのゲルマン諸族が原住地を離れ大移動したのに対し、フランク族は原住地を確保しつつ、移動は短距離しか行わなかったという点である。地盤をかためつつ、無駄なリスクを負わないことで、以後の発展につながっていくのである。ゲルマン人はそもそもローマ帝国で異端とされたアリウス派（３２５年に異端とされる）を信仰していたが、４８１年にフランク族を統一し「メロヴィング朝」を創始したクローヴィスが臣下約３０００人とともに正統のアタナシウス派に改宗し、この改宗が功を奏し、というよりクローヴィスが陰謀と奸計を得意とした点から見ると、計画的であったのだろうが、ローマ系出身者、ローマ教会と提携し力を伸ばすことができた。以後フランク族はアラマン族・ブルグンド族・西ゴ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本における歴史人口学の重要性に関して]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/]]></link>
			<author><![CDATA[ by cow2005]]></author>
			<category><![CDATA[cow2005の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 18:27:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432226001@hc05/2003/" target="_blank"><img src="/docs/983432226001@hc05/2003/thmb.jpg?s=s&r=1122715634&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史人口学はまだ日が浅い学問で、資料そのものの収集が困難なこと、データベース作成に非常に手間とお金がかかること、などの問題点があるが、「ボトムアップの学問」の視野を有しているというこの特色は、これからも大いに重要視されるべきだと感じる。[354]<br />日本における歴史人口学の重要性に関して
　日本における歴史人口学を学んで得たことの一つとして、歴史を見つめ直す新しい視野の存在、というのが挙げられる。今まで当たり前のこととされてきた歴史的事実の新たな側面を見たり、現代に生きる自分たちの生活が、実は、遠く離れた昔から育まれてきた何かによって形成されていることを知ったり&hellip;。このように、この新しい歴史的視野というのは、歴史の既成概念を打ち壊し、それ自身をより身近で、生き生きとしたものに感じさせてくれる。またそれに加えて、新たに知った歴史の面白さは、資料の読み解きにある。こんなものから一体何が分かるの？と思うような、古くて一見何の価値もなさそうな古資料から、次々と新しい事実が洗い出されていく。これが実に面白い。しかもそれらは、しっかり数字にのっとっていて、理論的であり、分かりやすいのだ。
　こうして私は、歴史を新たな視点から掘り下げ、かつ理論的な方法で探っていくという面白さを知った上で、今回のレポートを書くにあたって一冊の本を選び出した。速水融の「歴史人口学で見た日本」である。背表紙の概要を読み、「人口の観点から歴史を見直そうとする&hellip;」という..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ロシア革命]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1969/]]></link>
			<author><![CDATA[ by komatu]]></author>
			<category><![CDATA[komatuの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 15:21:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1969/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1969/" target="_blank"><img src="/docs/983432354101@hc05/1969/thmb.jpg?s=s&r=1122704485&t=n" border="0"></a><br /><br />1917年　ロシア帝国で起こった二度の革命
市場最初の社会主義国家樹立につながる十月革命（十一月革命）
※	当時のロシア暦：「二月革命」「十月革命」
&rarr;グレゴリオ暦：「三月革命」「十一月革命」

1861年	農奴解放以後も農民の生[320]<br />2004/12/17
ロシア革命
1917年　ロシア帝国で起こった二度の革命
市場最初の社会主義国家樹立につながる十月革命（十一月革命）
当時のロシア暦：「二月革命」「十月革命」
&rarr;グレゴリオ暦：「三月革命」「十一月革命」
農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、
封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在
19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透
&hArr;ロマノフ朝の絶対専制を維持する政府は、社会の変化に対し有効な対策を講じず
&rarr;1881年　皇帝アレクサンドル2世の暗殺
地の日曜日事件：日露戦争での苦戦が続くロシア帝国の首都ペテルブルグで、生活の困窮に不満を持った..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[近世の女性史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1968/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Jul 2005 15:15:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1968/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/1968/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/1968/thmb.jpg?s=s&r=1122704143&t=n" border="0"></a><br /><br />近世を通じて女性の社会活動は極度に制約された異常ともいえる時代であった。また、それを当然とする秩序と秩序意識が長く全体を覆っていたことは否めない事実である。
　その理由を強いて挙げるならば次のことにふれなければならないのだが、近世社会を、[356]<br />室町時代を分水嶺として女性の地位は降下の一途をたどり、江戸時代の二百数十年の間に、その従属的な地位は決定的になったとされて、近世は女の顔の見えない時代と、しばしばいわれる。しかし女性の側からは、従来の抑圧された女性像に代わる、かなり自由度の高い女性の存在に光が当てられてはいるものの多くは幕末といわれる近世末期を待つことになる。　　　　　　　　　　　　たとえば信州の松尾多勢や、歌人としても夙にその名を知られた野村望東なども政治の場に関わっているが、彼女らはあくまでパトロン的な立場であり自ら主体的に政治の表舞台に生きた女性とは言い難い。また、幕藩体制の秩序が崩れようとする時期故に与えられた活動の場でもあったのである。　 　近世を通じて女性の社会活動は極度に制約された異常ともいえる時代であった。また、それを当然とする秩序と秩序意識が長く全体を覆っていたことは否めない事実である。 　その理由を強いて挙げるならば次のことにふれなければならないのだが、近世社会を、前後の時代のそれと截然と分ける特色は士農工商の身分制度にあったことは明らかである。一種の階級秩序の元で地位や資格及び行動形式まで様々な制..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[高句麗の興亡]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1822/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nicework]]></author>
			<category><![CDATA[niceworkの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 28 Jul 2005 16:16:40 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1822/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1822/" target="_blank"><img src="/docs/983432203901@hc05/1822/thmb.jpg?s=s&r=1122535000&t=n" border="0"></a><br /><br />序論
　最近、中国の文化部（日本の文部科学省相当）が中国の東北地方、主に中国の吉林省の高句麗王国の王城の遺跡を世界文化遺産として、国連の教科文組織に申請を出されたところ、認められた。ところが、それは北朝鮮や韓国の大きな反発を招かれた。北朝[356]<br />　　　　　　　　　　　　　高句麗の興亡
　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　序論
　最近、中国の文化部（日本の文部科学省相当）が中国の東北地方、主に中国の吉林省の高句麗王国の王城の遺跡を世界文化遺産として、国連の教科文組織に申請を出されたところ、認められた。ところが、それは北朝鮮や韓国の大きな反発を招かれた。北朝鮮、韓国は高句麗ガ朝鮮民族の歴史で、高句麗の遺跡も歴史も朝鮮の属すものだと主張され、高句麗王城を中国の歴史上の一部に位置づけるというのを強く批判すると。今やもう中国と北朝鮮・韓国との三国二方の政治外交の紛争となったという。
　　本論で、まず、高句麗を起こした高句麗民族の起源を考察し、そして、高句麗の建国の経緯を述べ、また、高句麗建国から、中国の中原王朝との戦いを回顧し、最後に高句麗の滅亡を書く。全体としては、高句麗その民族構成は確かに現在の朝鮮民族の先祖であるが、その歴史のほとんどは間違いなく中国の地で演じていたという観点を論じることにする。
　　　　　　　　　　　　　　　　　本論
　　　　　　　　　　　第一章：高句麗民族の起源
　朝鮮の古代諸国..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[清朝末期-改革派と革命派-]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432368401@hc05/1776/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ハナ]]></author>
			<category><![CDATA[ハナの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Jul 2005 23:36:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432368401@hc05/1776/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432368401@hc05/1776/" target="_blank"><img src="/docs/983432368401@hc05/1776/thmb.jpg?s=s&r=1122474968&t=n" border="0"></a><br /><br />列強の利権獲得と勢力圏分割競争の舞台となる中で、清王朝末期の知識人たちは対外的危機意識を高め、亡国の危機を感じ、「この危機を乗り切るためには近代的な国家を作ることが必要である」という『救国救亡』の認識を持っていた。しかし、同じような危機意識[360]<br />社会演習レポート
改革派（康有為、梁隆超ら） と革命派（孫文、黄興）の異同
１国家目標・ナショナリズム
改革派　中華＝文化的秩序（満州人を含む）
　　　　満州王室の存続、立憲君主制
革命派　中華=漢民族（満州人は夷狄、種族的概念）
　　　　清朝打倒、民主主義に基づく漢民族の共和政
　列強の利権獲得と勢力圏分割競争の舞台となる中で、清王朝末期の知識人たちは対外的危機意識を高め、亡国の危機を感じ、「この危機を乗り切るためには近代的な国家を作ることが必要である」という『救国救亡』の認識を持っていた。しかし、同じような危機意識を抱き、近代国民国家を目指した彼ら知識人エリート「士大夫」の中には、改革派と革命派という大きな二つの流れが存在したのである。
　根本においては、改革派も革命派も、どちらも「強く豊か、かつ民主的な中国をつくる」という点を目指していた。この意味では同じものを目標としていたといえるが、厳密には、両派の定義する「中国」は全く違っていた。すなわち、改革派が満州人も含め文化や徳を持つ者が中華だと考えるのに対し、革命派は、漢民族のみが中華だと考えていた。 　そして、改革派は清朝という王..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[　第一章「幕末という時代」より]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1719/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nicework]]></author>
			<category><![CDATA[niceworkの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 27 Jul 2005 16:02:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1719/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432203901@hc05/1719/" target="_blank"><img src="/docs/983432203901@hc05/1719/thmb.jpg?s=s&r=1122447724&t=n" border="0"></a><br /><br />19世紀中頃、近代化世界の秩序や思想にとっては、大きな転換期である。その時期の日本はいわゆる「幕末」である。そうした社会で、幕末の政争が繰り広げられる。それが、尊皇攘夷と開国佐幕という二つの路線を基本的な対抗としていたことはいうまでもない。[356]<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　第一章「幕末という時代」より
幕末時期の日本を解読
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　
　19世紀中頃、近代化世界の秩序や思想にとっては、大きな転換期である。その時期の日本はいわゆる「幕末」である。そうした社会で、幕末の政争が繰り広げられる。それが、尊皇攘夷と開国佐幕という二つの路線を基本的な対抗としていたことはいうまでもない。当時は目的であったそれらは、後に手段化され、維新へと辿りこむ。鋭い対立した二つの路線は、自らは意識することなく、期せずして共通の視野を生んでいたのである。その視野は二方面から上げることができる。
　まず、第一は「西洋の発見」ということだ。直接に欧米諸国と交渉する立場のおかれた幕府は元より、諸藩や、尊皇攘夷派の志士たちも、欧米への関心を掻き立てられた。
　吉田松陰や、その高大で尊攘派の久坂件瑞などの武士たちは、欧米列強との差を知って切迫感を感じた。西洋学を学ぼうとせずにいられなかったのである。
　攘夷派の急先鋒である長州藩は、それゆえに西洋探求の急先鋒ともなった。後に、井上馨や伊藤博文は長州藩の許可の下で、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[科挙と中国史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358601@hc05/1633/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hamakko]]></author>
			<category><![CDATA[hamakkoの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 21:21:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358601@hc05/1633/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358601@hc05/1633/" target="_blank"><img src="/docs/983432358601@hc05/1633/thmb.jpg?s=s&r=1122380486&t=n" border="0"></a><br /><br />中華世界の政治に最も影響を与えたのは科挙と言えるだろう。
中華世界だけでなく、中国を真似した国―日本―などにも深い影響を及ぼしている。
科挙が長い中国史の中でどのような役割を持ち、どのような要素・特色を示しているか、を考える前に科挙とは何で[356]<br />世界史概説
　　　　　　　　「科挙と中国史」
　　　　　　　　　
　中華世界の政治に最も影響を与えたのは科挙と言えるだろう。
中華世界だけでなく、中国を真似した国―日本―などにも深い影響を及ぼしている。
科挙が長い中国史の中でどのような役割を持ち、どのような要素・特色を示しているか、を考える前に科挙とは何であるかを簡単に説明しておく。
　科挙とは、さまざまな科目による選挙（中国では官吏登用を選挙と言うので）を略したものである。三国時代の国の一つ、魏の定めた九品中正法が門閥貴族の天下を可能にするという弊害を生んだので、それを避けるために隋の文帝が、試験による官吏登用制度（選挙制度）として始めたのが科挙である。家柄や財産に関係なく、有能な人材を高級官僚に登用しようとするもので、元代に２４０年ほど中断されたものの、清末の１９０５年に廃止されるまで、約１３００年間に渡って続けられた。
　科挙の科目や機構は、時代によって変化したが、宋の始めに宗試（解試）・省試・殿試という３段階の試験制度が設けられ、科挙の制度が完成した。州試の合格者を挙人と呼び、省試によって合格し、さらに宮中での殿試に合格して進..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[荒田目条里遺跡出土３号木簡の考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/1593/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 17:04:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/1593/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/1593/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/1593/thmb.jpg?s=s&r=1122365059&t=n" border="0"></a><br /><br />○遺跡の概要
　福島県いわき市平菅波字礼堂地内所在。
　阿武隈山地を源とする夏井川の下流、河口近くの右岸に所在する磐城郡家関連遺跡。遺跡の周辺には、『延喜式』に記載のある大國魂神社や、国指定史跡の甲塚古墳、緑釉陶器が数多く出土した小茶円[352]<br />「荒田目条里遺跡出土３号木簡の考察」
○遺跡の概要
　福島県いわき市平菅波字礼堂地内所在。
　阿武隈山地を源とする夏井川の下流、河口近くの右岸に所在する磐城郡家関連遺跡。遺跡の周辺には、『延喜式』に記載のある大國魂神社や、国指定史跡の甲塚古墳、緑釉陶器が数多く出土した小茶円遺跡などがある。また、南西の方向約１．５キロメートルの位置には、磐城郡衙に比定されている根岸遺跡や、古代寺院の夏井廃寺が所在する。荒田目条里遺跡付近は、１９８９年から一般国道６号バイパスに伴う発掘調査が行われた。その結果、弥生時代から江戸時代にかけての複合遺跡であることが判明した。１９９３年にこのバイパスの隣接地に民間の開発行為が起こり、再び発掘調査することになった。調査の範囲は、１，８００平方メートルと僅かであったが、確認された幅１０メートル以上にわたる古代河川跡の中から、木簡や祭祀遺物を中心とした遺跡群が数多く発見され、全国屈指の遺跡として注目を集めた。この河川の機能した時期は、出土した遺物や他の遺構との関係から、古墳時代中期から平安時代にかけての時期と考えられる。発見された遺物は、墨書土器３００点を含む土師器・..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世ヨーロッパの海・森観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rokubeisan]]></author>
			<category><![CDATA[rokubeisanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 00:17:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/" target="_blank"><img src="/docs/983432373801@hc05/1541/thmb.jpg?s=s&r=1122304654&t=n" border="0"></a><br /><br />１）a 中世ヨーロッパと環境
　ヨーロッパの範囲を考える上で、まず思い浮かぶのが「アングロノルマン王国／アンジュ王国」である。これらから、海を介した大陸との関係や「島」で自律した形成などがあげられる。たとえば「イングランド（人）」などがあ[352]<br />　（１）a 中世ヨーロッパと環境
　ヨーロッパの範囲を考える上で、まず思い浮かぶのが「アングロノルマン王国／アンジュ王国」である。これらから、海を介した大陸との関係や「島」で自律した形成などがあげられる。たとえば「イングランド（人）」などがある。また、講義の中で、マン島にも触れられたと思うのだが、マン島はCrown Dependency（属領）であって、連合王国ではないということしか残念ながら覚えていない。
中世の時代において、海はコミュニケーションや商業交易を媒介する「場」としての役割を持っていた。12Cから13Cにかけてのことを書いた本でブリテン、ジェラルド、ウェイルズのことを書いた本の中で、諸侯が軍をアイルランドに派遣したときのアイルランドの特徴を東方と対比している。それによると、海は不可思議な場であるということである。ヨーロッパは「毒」のない場として、逆に東方へは行けば行くほど「毒」性が強まるとしている。
　大航海時代には海は異界への入り口として考えられていた。つまり、海には分けの分からない怪人たちがいるらしいと考えられていたというのである。ウルトラマン怪獣か？仮面ライダーの怪..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[毘沙門天の形について―東寺像を中心とした考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1538/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rokubeisan]]></author>
			<category><![CDATA[rokubeisanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 00:00:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1538/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1538/" target="_blank"><img src="/docs/983432373801@hc05/1538/thmb.jpg?s=s&r=1122303600&t=n" border="0"></a><br /><br />1．はじめに
　毘沙門天は四天王の中では多聞天として表わされ、四天王から独立してからは毘沙門天として表わされることが多くなる。毘沙門の形には大雑把に分けてみると、毘沙門天、吉祥天、善膩師童子（不動明王、観音）と安置される三尊像形式と、足下[354]<br />東洋日本美術史各論Ⅱレポート
毘沙門天の形について―東寺像を中心とした考察
1．はじめに
　毘沙門天は四天王の中では多聞天として表わされ、四天王から独立してからは毘沙門天として表わされることが多くなる。毘沙門の形には大雑把に分けてみると、毘沙門天、吉祥天、善膩師童子（不動明王、観音）と安置される三尊像形式と、足下に地天を踏む形式、普通の毘沙門天の形式と三つに区分できるように思われる。このように幾通りかの形式を持つことは同時にそれだけの異なった意味を持つのではないかと考えた。その中で、特に足下に地点を踏む形式のいわゆる兜跋毘沙門天に表わされることの多い藍婆、毘藍婆の二鬼について考察したいと考えている。
2．兜跋毘沙門天の中国での受容について
　松本栄一氏「兜跋毘沙門天の起源」によると東寺の兜跋毘沙門天はコータンには七世紀ころの絵よりも古く、ラクワ塔址の塑像群があり、地中から出現した女神を足下にした、直立型のイラン式服装天部立像が残っていることから兜跋毘沙門天の起源は西域コータン地方にあるのではないかとする。また、松本文三郎氏は兜跋とは蛮夷服、左衽などを表わすもので、西蔵から中国に伝えられ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[興福寺南円堂不空羂索観音]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1537/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rokubeisan]]></author>
			<category><![CDATA[rokubeisanの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jul 2005 23:54:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1537/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1537/" target="_blank"><img src="/docs/983432373801@hc05/1537/thmb.jpg?s=s&r=1122303297&t=n" border="0"></a><br /><br />　私は興福寺南円堂の現本尊である不空羂索観音について考察したい。興福寺の不空羂索観音はもとは講堂の本尊であったとされ、延暦期に本像は移動されたと考えられている。また、治承4年に興福寺は消失しており、その後に再建とともに、不空羂索観音をはじめ[358]<br />　私は興福寺南円堂の現本尊である不空羂索観音について考察したい。興福寺の不空羂索観音はもとは講堂の本尊であったとされ、延暦期に本像は移動されたと考えられている。また、治承4年に興福寺は消失しており、その後に再建とともに、不空羂索観音をはじめとした諸像も再興された。
　そこで、私は不空羂索観音の作られた当初の目的、その後、南円堂に移された後の本像の意味、さらには再興時の本像の意味について意味の変化とその背景について、麻木脩平氏の「興福寺南円堂の創建当初本尊像と鎌倉再興像」仏教芸術160を参考にして考えていきたい。
　まず、興福寺講堂および、南円堂に関する根本史料を見たい。
　『山階流記』講堂の条
一　講堂一宇。天平流記云。講堂一基。弘仁記長13丈九尺。高二丈二尺五寸云云。九間。
間別一丈六尺。金皆用架端延暦廣一丈六尺塗裁銅。延暦記柱高一丈五尺五寸。寶字記云。
安置佛者。不空羂索灌音自在一軀。御法務高一丈六尺房。後移何圓堂云云。可尋之。右。從二
位藤原夫人。參議正四位下民部卿藤原朝臣。以天平十八年歳
次丙戌正月。爲先考先妣。所造立也云云。延暦記云。不空羂索菩薩一軀。在寶殿云云。或記
云。天..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋経済史ブックレポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245201@hc05/1488/]]></link>
			<author><![CDATA[ by whistle]]></author>
			<category><![CDATA[whistleの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jul 2005 17:26:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245201@hc05/1488/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432245201@hc05/1488/" target="_blank"><img src="/docs/983432245201@hc05/1488/thmb.jpg?s=s&r=1122280002&t=n" border="0"></a><br /><br />資本主義以前の諸社会において、経済生活の土台は「共同体」Gemeindeである。また、資本主義社会の基礎範疇が「商品」であるのに対して、共同体的に編制された社会のそれは「土地」Grundeigentumである。（人間は生産活動の前提として「[318]<br />西洋経済史　ブックレポート
「資本主義以前の生産諸様式について」
資本主義以前の諸社会において、経済生活の土台は「共同体」Gemeindeである。また、資本主義社会の基礎範疇が「商品」であるのに対して、共同体的に編制された社会のそれは「土地」Grundeigentumである。（人間は生産活動の前提として「大地」Erdeの諸断片を占取するのであるが、その占取された限りにおける「大地」がここでいう「土地」Grundeigentumである。）このばあいにおいても、部分的には何らかの形での商品生産をともなうが、「共同体」という主要な関係に対して、派生的・従属的役割をもつに過ぎない。
自然的諸個人は「大地」を占取し生産活動をするに先立って、前もって一定の原始的な共同態に組織されており、この「共同組織」を根底にもつ社会関係が「共同体」である。
諸個人は「原始的な共同組織」の一員としてかつ生産活動の前提として土地を占取する（「共同態」的占取ないし共同占取）のであるが、何らかの形ですでに労働が加えられ、生産活動の結果としてえられた生活諸手段のばあいには、共同労働によるものを別とすれば、それらは生産した..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[歴史学は進歩したか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1430/]]></link>
			<author><![CDATA[ by komatu]]></author>
			<category><![CDATA[komatuの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 24 Jul 2005 13:56:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1430/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432354101@hc05/1430/" target="_blank"><img src="/docs/983432354101@hc05/1430/thmb.jpg?s=s&r=1122180981&t=n" border="0"></a><br /><br />歴史家はどうだろう？
・	書物を読む＝?
・	旧式は不要＝?
・	初版刊行後、１００年以上経つ書物が再び出版される
&rarr;「進歩」はあるのか、あるとすればどのようなものか
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&darr;
　　　　　　歴史[326]<br />2004/10/29
歴史学は進歩したか？
自然科学の歴史：進歩あり
文芸評論の歴史：進歩なし
歴史家はどうだろう？
書物を読む＝②
旧式は不要＝①
初版刊行後、１００年以上経つ書物が再び出版される
&rarr;「進歩」はあるのか、あるとすればどのようなものか
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&darr;
　　　　　　歴史家がなすべきこと＝研究の主題、の一致が必要
「学問として認められた基準に従って過去を研究する人は誰でも歴史家」までは一致
歴史人口学は系図学者の資料に依存
系図収集の理由　
家柄自慢&rarr;自己反省
神学的なもの&rarr;方法論的な挑戦者につきまとわれる
歴史学派体系的傾向をたどったか？
１８９０年代..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Western and Eastern Front]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1162/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:11:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1162/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1162/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1162/thmb.jpg?s=s&r=1121749863&t=n" border="0"></a><br /><br />In the First World War, there were many fronts. However, we can say that the Western Front and the Eastern front were 2 [120]<br />Western and Eastern Front
In the First World War, there were many fronts. However, we can say that the Western Front and the Eastern front were 2 of the main fronts in this war. First, the Western front was a battle zone between Germany and its enemies, France and Britain. In this front, because of the trench warfare, the stalemate situation was developed. A stalemate is when two forces meet and neither side can&#039;t take a move any further, all they can do is stay inside the trenches. But, both si..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[World War I]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1161/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:09:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1161/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1161/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1161/thmb.jpg?s=s&r=1121749760&t=n" border="0"></a><br /><br />There were many causes of the World War?. But I think &ldquo;Balance of Power&rdquo; and &ldquo;Alliance System&rdquo; were the main long-term c[128]<br />There were many causes of the World WarⅠ. But I think &ldquo;Balance of Power&rdquo; and &ldquo;Alliance System&rdquo; were the main long-term causes of the World WarⅠ. First, Germany formed alliance with Austria-Hungary. Because if Germany make alliance with other country, Germany thought that France will not attack Germany. But actually France heard this and thought that Germany is dangerous. And what France did was they also formed alliance with Russia. Because, if only Germany become strong, maybe Germany will atta..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[To what extent can we argue that the Nazis used force to gain power?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1160/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:08:05 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1160/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1160/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1160/thmb.jpg?s=s&r=1121749685&t=n" border="0"></a><br /><br />In 1932 the Nazis became the strongest party in the Reichstag. Then in 1933, Hitler was appointed chancellor of Germany.[120]<br />To what extent can we argue that the Nazis used force to gain power?
In 1932 the Nazis became the strongest party in the Reichstag. Then in 1933, Hitler was appointed chancellor of Germany. The Nazis used many tactics to gain power and supports. They used both force and persuasion (or deals) but in my opinion, I think the Nazis used more persuasion (or deals) then force. We can say some events were absolutely using force but more than that, I think there more other reasons why the Nazis gained s..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Why had international peace collapsed by 1939?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1158/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:05:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1158/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1158/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1158/thmb.jpg?s=s&r=1121749507&t=n" border="0"></a><br /><br />When Hitler came to power in Germany in 1933, Hitler slowly began the rearmament of Germany. The Treaty of Versailles re[120]<br />Why had international peace collapsed by 1939?
When Hitler came to power in Germany in 1933, Hitler slowly began the rearmament of Germany. The Treaty of Versailles restricted German army and also, the treaty demanded Germany to pay lots of reparations. Not only a Hitler, many German thought that the treaty was unjust and it was too harsh. One of promise that Hitler made was that if he became a leader of Germany, he would reverse the treaty. Hitler wanted to make Germany strong again. The treaty..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Save citizens rather than save Okinawa&rsquo;s Economy]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1156/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 14:02:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1156/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1156/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1156/thmb.jpg?s=s&r=1121749379&t=n" border="0"></a><br /><br />When I started researching about the U.S. military bases on Okinawa, I found lots of articles that are against them Many[120]<br />Save citizens rather than save Okinawa&#039;s Economy
When I started researching about the U.S. military bases on Okinawa, I found lots of articles that are against them Many reasons were about the sexual violence from U.S. military personnel; environmental problems and the fear of military accidents. After I read these articles, my opinion leaned to remove the bases.
First, the rate of sexual crimes committed by the U.S. military personnel is incredibly high in Japan including Okinawa. Still there a..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[How did the Bolsheviks made their rule more secure?]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 13:57:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1153/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1153/thmb.jpg?s=s&r=1121749074&t=n" border="0"></a><br /><br />How did the Bolsheviks made their rule more secure?


 The Bolsheviks made their rule secure in many ways. However, I[120]<br />How did the Bolsheviks made their rule more secure?
The Bolsheviks made their rule secure in many ways. However, I think mainly there were 3 main factors, which made the Bolsheviks&#039; rule more secure. Those factors are &quot;dealing with opposition&quot;, &quot;support from the people&quot; and the &quot;Red Army&#039;s strength&quot;.
First, the Bolsheviks tried hard to remove their opposition. They banned other parties and all newspapers were censored. Moreover, some leaders of other political parties were arrested. The Bolshevi..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[Comparing with the Western Fron]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1152/]]></link>
			<author><![CDATA[ by feather]]></author>
			<category><![CDATA[featherの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 13:56:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1152/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432221601@hc05/1152/" target="_blank"><img src="/docs/983432221601@hc05/1152/thmb.jpg?s=s&r=1121748975&t=n" border="0"></a><br /><br />In the First World War, there were many fronts. The Western Front was only a part of the war that caused problems. Each [120]<br />Comparing the Gallipoli, The Balkans, the Middle East and
Eastern Front with the Western Front.
In the First World War, there were many fronts. The Western Front was only a part of the war that caused problems. Each front had different geography and environment so there were many differences and similarities if we compared with the Western Front.
The Gallipoli was one of hard-fought battlefield in the First World War. The Gallipoli is located near Constantinople and most parts are surrounded by ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 古代ギリシアにおけるパイデイアーについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432241101@hc05/929/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 02b5028]]></author>
			<category><![CDATA[02b5028の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 14 Jul 2005 06:37:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432241101@hc05/929/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432241101@hc05/929/" target="_blank"><img src="/docs/983432241101@hc05/929/thmb.jpg?s=s&r=1121290654&t=n" border="0"></a><br /><br />ギリシア人のなかで、パイデイアー（一般教養）を実際どのようなものとしていたのか。プラトンの著作、「法律」から、その思想を覗くと、職業的専門的教育を真の意味での教育、人間教育とはみなしておらず、もろもろの領域において限られた特殊な専門的職業上[360]<br />ギリシア人のなかで、パイデイアー（一般教養）を実際どのようなものとしていたのか。プラトンの著作、「法律」から、その思想を覗くと、職業的専門的教育を真の意味での教育、人間教育とはみなしておらず、もろもろの領域において限られた特殊な専門的職業上の才覚から区別された一般教育・教養こそ、人間教育というのにふさわしいとし、このような意味での教育・教養が一般的あるいは普遍的とされる理由を見出せる。それは、「人間が端的に人間としてふさわしいものになること、人間としての固有の善さのみかかわる、あるいはそれを唯一最大の目標とする。このような意味での「徳」こそ一般教養・教育の目指すものであるとし、一般教養・教育が「徳」を目指しての教育」とも語られている。そして、この徳へのすすめは「自分自身」本来の自己としての魂（こころ・精神）を善くすることへのすすめでもあるとされている。当時、その「魂の世話や配慮」が徳を持つことを意味し、その技術として政治術があげられていた。「教育家、教育者」ではなく、政治家にそれを求めたのだ。この背景には、「人間が特別な、あるいは限定された存在としてではなく、たんに人間としてかかわりを..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[合戦の諸相]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/821/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suginami]]></author>
			<category><![CDATA[suginamiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 04:14:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/821/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/821/" target="_blank"><img src="/docs/983432385301@hc05/821/thmb.jpg?s=s&r=1120850043&t=n" border="0"></a><br /><br />出陣は生死の分かれの門出であるから、武運の加護を願うために神仏に祈念する。出陣に当たって日頃信仰する寺社に使いを派遣したり、怨敵退散の呪を唱えたり、行軍中にある神社に願文を朗読して奉納したりする。箙（戦場で腰に負う矢入れ具の一種）には中差・[360]<br />合戦の諸相
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
出陣　
　出陣は生死の分かれの門出であるから、武運の加護を願うために神仏に祈念する。出陣に当たって日頃信仰する寺社に使いを派遣したり、怨敵退散の呪を唱えたり、行軍中にある神社に願文を朗読して奉納したりする。箙（戦場で腰に負う矢入れ具の一種）には中差・上差の鏑矢を盛るから、朗読後の願文をこの鏑矢に巻いて奉納する「出陣の時、願書を篭むるには鏑矢にまきて篭むるなり。願成就の時、願書の如く何事も上へ申し奉る也」（『書礼袖珍宝』）願文には正義を唱えたもの、敵の悪虐を訴えたもの、願いが叶えられれば寄進するという取引的なもの等があった。　
合戦開始の合図　　
敵味方両軍相接近し、互いに矢頃と見ると停止し、まず和睦か降参か、無益の戦なら互いに陣を撤収するか等、代表者が大声で呼びかけたりする。交渉決裂していよいよ合戦となると、開始の合図として主将か代表者がまず敵陣に向かって鏑矢を射込む。矢合わせの鏑始。これは後世まで戦の作法として行われたと記されている。（『籾井日記』）城攻めの折にも攻撃開始の合図として行われる。射られた方もただち..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ラストエンペラーと宦官たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/818/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suginami]]></author>
			<category><![CDATA[suginamiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 03:47:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/818/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/818/" target="_blank"><img src="/docs/983432385301@hc05/818/thmb.jpg?s=s&r=1120848420&t=n" border="0"></a><br /><br />参考にしたのは『最後の宦官秘聞　ラストエンペラー溥儀に仕えて』賈英華／ＮＨＫ出版／2002　だが、出版当時この本は中国でも話題になったらしく、主な内容は、神秘のベールに包まれてきた皇帝夫妻の私生活と宦官の実態についてだ。
中国の歴史を影で[348]<br />ラストエンペラーと宦官たち
漢文学の講義の中で、最も印象に残っているのが、宦官についての話だった。そのようなシステム自体を初めて聞いたので、大変衝撃的だったことをよく覚えている。映画「ラストエンペラー」を初めて見た時もそうだった。まだ小学校に入ったばかりだったので、内容は詳しくは覚えてはいない。あまりにも壮大な大河ドラマなので、改めてもう一度見る気も起きないのだが、最後の皇帝・溥儀の人間性については以前から多少なりとも興味があった。この本を読んでみようと思った経緯については、そんなところだ。
参考にしたのは『最後の宦官秘聞　ラストエンペラー溥儀に仕えて』賈英華／ＮＨＫ出版／2002　だが、出版当時この本は中国でも話題になったらしく、主な内容は、神秘のベールに包まれてきた皇帝夫妻の私生活と宦官の実態についてだ。
中国の歴史を影で作りあげてきたと言われる、男ではない男達。彼らによって赤裸々に語られる最後の皇帝溥儀を知るうちに、私の中で新しい溥儀像が生まれたと感じた。
地方の貧しい村に生まれた最後の宦官孫耀庭は、清朝の宮廷で人旗挙げようと、８歳にして「浄身」の手術を受け、宦官としての道を目指..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世・近世の罪と罰]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/817/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suginami]]></author>
			<category><![CDATA[suginamiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 03:31:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/817/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/817/" target="_blank"><img src="/docs/983432385301@hc05/817/thmb.jpg?s=s&r=1120847460&t=n" border="0"></a><br /><br />◎	刑罰の種類　　　公刑と私刑の区別が曖昧
　・生命刑━斬刑一種。死罪、時に断罪とも言った。謀反のような重罪には梟首も行われた。
　・刑自由━流（流罪、流刑とも言う）
　　　　　主な配流地　夷島、伊豆大島、薩摩、奥州、安房、佐渡、日向[346]<br />中世・近世の罪と罰　　　　　　　　　　　　　　　　
はじめに　　なぜこのテーマか。
鎌倉時代～江戸時代前期
鎌倉時代
鎌倉時代の刑法は平安中期以降、武士の間に発達した「武士の道理」、すなわち封建的道徳が強く反映されていて、道理は法の根本理念を為していた。中世、特に幕府の刑法は、封建社会の維持が目的であるが、刑罰の目的は一般予防（威嚇）に重点が置かれていた。鎌倉時代の史料に、しばしば刑罰を科する理由を、「後輩を懲さん為である」と記されているが、このことがその証拠ではないだろうか。
御成敗式目第１０条　父子に咎を相互に懸けること
〃　第１１条　夫の罪を妻に懸けること
また、連座、縁坐の制について、行われていたのは確かだが、全ての場合に懸けられるのではなく、相当広い範囲でこれを免除する規定があったとされている。すなわち、鎌倉時代においては、縁坐、連坐の制も存在するが、制限する傾向にあったのではないか。
このことは一般予防主義的であったが、まだそれが全面的なものではなかったという事を示していると言える。この一般予防主義の比重は室町時代、戦国時代と除々に大きくなっていく。
刑罰の種類　　　公刑と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[朝鮮通信使に見る日本と朝鮮の関係]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/816/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suginami]]></author>
			<category><![CDATA[suginamiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 03:20:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/816/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/816/" target="_blank"><img src="/docs/983432385301@hc05/816/thmb.jpg?s=s&r=1120846823&t=n" border="0"></a><br /><br />両者の立場は随分異なるが、ここで興味深い点は、朝鮮通信使をめぐって、朝鮮のほうは当然日本を夷狄と考えているが、日本は朝鮮を夷と捉えている点だ。朝鮮にとって、日本へ通信使を派遣するのは、日本からの要請に応じた形式を通し、自国優位の論理にたって[360]<br />朝鮮通信使について　　　　
　　　　　　　　　　　
朝鮮通信使について、と言っても、高校の教科書でちらりと触れた以外、ほとんどその詳しい内容について知る機会がなかった。またあまり興味がなかったのも事実だ。しかし、今回このレポート作成において朝鮮通信使の詳しい内容や意義を知るうちに、現代の対朝鮮半島外交において欠けている要素の一つが隠されているのではないかと感じた。
朝鮮通信使と聞くと、江戸時代がイメージされがちだが、その始まりは室町時代の１４０４年までさかのぼる。倭寇で困っていた朝鮮国が、倭寇を退治して安定を求めるのではなく、国交を結び交流し、貿易を正式に認めることで対応しようとしたのが始まり。以後、朝鮮からは「通信使」日本からは「国王使」が派遣されることになった。
その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって両国の友好関係が途絶えたが、徳川幕府によって再び修好関係を築きあげることに成功する。その頃、朝鮮半島の北方では、女真族が急激に勢力を伸ばしつつあり、朝鮮側としては南北から攻撃される事をおそれ、南方の日本との関係を修復することが、女真族に備える第一歩であると考えたのではないかと言われている。..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ペリー来航と条約締結時の問題点]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/815/]]></link>
			<author><![CDATA[ by suginami]]></author>
			<category><![CDATA[suginamiの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 03:06:01 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/815/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432385301@hc05/815/" target="_blank"><img src="/docs/983432385301@hc05/815/thmb.jpg?s=s&r=1120845961&t=n" border="0"></a><br /><br />今回取り上げた史料は、講義の中でも扱った、大日本大日本古文書『幕末外國關係文書』五、二十と、嘉永五年別風説書『通航一覧續輯』四と、外務省編『日露交渉史』だ。
これを用いて、ペリー艦隊の来航から開国、条約調印までの日本史における問題点、疑問[356]<br />日本近代史における問題提起を行うにあたって私が今回取り上げた史料は、講義の中でも扱った、大日本古文書『幕末外國關係文書』五、二十と、嘉永五年別風説書『通航一覧續輯』四と、外務省編『日露交渉史』だ。
これを用いて、ペリー艦隊の来航から開国、条約調印までの日本史における問題点、疑問点について論じていきたいと思う。
長い間、日本史は世界史との分離という、切り離された歴史研究をしてきた。しかしこの考え方では、様々な歴史上の問題、とりわけ外交な問題についての回答が困難と言えるだろう。一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀にペリー艦隊が来航したことは周知の事実に他ならないが、このことを日本史ではなく、世界的な外交史からみることはできないだろうか。
従来私達は、アメリカの擁する強力な大砲と蒸気船という先端技術を持ったペリー艦隊に、幕末の日本人が軍事的圧力をかけられたために恐怖心とともに屈服させられた、と認識してきたはずである。
しかし庶民は来航の直後から、小船をくりだし、また陸路やってきては「黒船見物」をしていたのだ。もし恐怖心のみが当時の民衆の心情を支配していたのなら、このような態度はありえ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[身近な民俗信仰「七夕について」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/708/]]></link>
			<author><![CDATA[ by infantile527]]></author>
			<category><![CDATA[infantile527の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 04 Jul 2005 21:46:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/708/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/708/" target="_blank"><img src="/docs/983432318901@hc05/708/thmb.jpg?s=s&r=1120481211&t=n" border="0"></a><br /><br />　夏に行われる民俗信仰で最も有名なのは七夕である。
日本の七夕は、庭前に供え物をし、葉竹を立て、青・黄・赤・黒・白の魔よけを意味する五色の短冊に、歌や字書いて葉に飾りつけ、七夕の晩にだけ逢う事が許された「織姫（こと座・ベガ星）」と「彦星（[356]<br />　夏に行われる民俗信仰で最も有名なのは七夕である。
日本の七夕は、庭前に供え物をし、葉竹を立て、青・黄・赤・黒・白の魔よけを意味する五色の短冊に、歌や字書いて葉に飾りつけ、七夕の晩にだけ逢う事が許された「織姫（こと座・ベガ星）」と「彦星（わし座・アルタイル星）」に、短冊に書いた願い事をかなえて貰うようお祈りする。中国では、七夕に五色の糸や布、金銀の針などを飾ったり、ことやびわなどの楽器、筆や硯などを供えて針仕事や芸事や書の上達を星に祈る乞巧奠が行われる。このような星のお祭りは世界でも珍しい。
　そもそも、現代の日本の七夕祭りとは中国の儀礼・伝説と日本の儀礼・伝説が結び付き起こったものである。
まず、中国の儀礼の歴史をみてみる。
　晋の時代、周の「風土記」によると、「天の川に（中略）五色の輝きを見たものは、これを良い兆候として、富・寿・子を授かることを願う。但しかなう願いは１つ（後略）」とある。この時代は「祈る」ことのみで行事は行われなかったようである。
梁の時代、　古代中国の風俗などを著した書物「荊楚歳時記」に「七月七日為牽牛織女聚会之夜　是夕　人家婦女　結綵縷　穿七孔針　或以金銀鍮石..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[享保の改革について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432317501@hc05/678/]]></link>
			<author><![CDATA[ by negio193]]></author>
			<category><![CDATA[negio193の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 30 Jun 2005 22:37:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432317501@hc05/678/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432317501@hc05/678/" target="_blank"><img src="/docs/983432317501@hc05/678/thmb.jpg?s=s&r=1120138628&t=n" border="0"></a><br /><br />　初代徳川家康以来、七代家継までの政権は、体系的な法典は持たず随時発布する法令や慣習法、判例法によって公事、訴訟を処理していたが、社会の複雑化により、訴訟件数が増加し、内容も多岐にわたり、従来の裁判の方法では滞りがちとなってきた。こうした状[360]<br />떇뺎둂둽궸궰궋궲
1,밫뺂궴뚺럷뺴뚥믦룕
룊묆벩먯됄뛐댥뿀갂렦묆됄똯귏궳궻맠뙛궼갂뫬똭밒궶밫궼렃궫궦릯렄뵯븓궥귡쀟귘뒿뢐갂뵽쀡궸귝궯궲뚺럷갂멼뤩귩룉뿚궢궲궋궫궕갂롊됵궻븸랦돸궸귝귟갂멼뤩뙊릶궕몵돿궢갂볙뾢귖뫝딌궸귦궫귟갂뿀궻띥뵽궻뺴궳궼뫸귟궕궭궴궶궯궲궖궫갃궞궎궢궫륉떟궸뫮돒궥귡궫귕갂땑궼똜밫걏떇뺎뱗뿥쀞딋걐갂떇뺎딖궻륢갂묪귘믦룋덇띆궻땉귩뢜귕궫걏떇뺎먲뾴쀞뢜걐갂묈돦뭺몜궕븫돷궸뼺궣궲뮠륢귩맢뿚궢궫걏먲뾴쀞뢜걐갂뼀궔귞떇뺎귏궳궻롥뾴궶뼀쀟귩빁쀞갂맢뿚궢궫걏뚥륢룕뢜맟걐궶궵귩뺂궢궫갃궩궢궲갂띍귖뮊뼹궶뺂븿궴궢궲걏뚺럷뺴뚥믦룕걐궼갂쁖뭷뤌빟뤸뾚귩뺂롥봀궴궢궲갂렔롊뺫뛱궻뻫뽰믣믅갂뮠뺫뛱궻뤌봥맫뢶갂뒯믦뺫뛱궻릻돦쁀귞궸귝궯궲둰밒궶뵽쀡궻맢뿚갂뙚뱼궻띿떾궸궼궋귟갂뒺뺎볫봏궸뤵돷볫뒱궻밫궕뒶맟궢궫갃
뤵뒱궸궼갂믦룋딮뫁궔귞럑귏귟갂됌븊멼릐궻뛼랣궶궵딈밒궶뛼랣궻빒갂뚺럷멼뤩귘갂똜럷렩뛱궸듫궥귡딮믦갂궩궢궲뵴됖갂됌븊갂롆럔갂덨뾙룛궶궵궻맕뗕럷갂렊릣갂됌뤑멺뜃갂뛱귢뷲릐궶궵궻뛱맠밒뽦묋궶궵갂랳뺫뛱궻랉궻궎궑궳륂궸땼궥귊궖뼀궻뢣뾴쀟뵬덇믅귩뙱빒궻귏귏봹쀱궢궫귖궻궳갂쀟뢜궴궢궲궻맜둰귩렃궯궲궋귡갃
돷뒱궸..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[玉について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/669/]]></link>
			<author><![CDATA[ by infantile527]]></author>
			<category><![CDATA[infantile527の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 30 Jun 2005 20:36:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/669/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432318901@hc05/669/" target="_blank"><img src="/docs/983432318901@hc05/669/thmb.jpg?s=s&r=1120131383&t=n" border="0"></a><br /><br />日本と韓国と北朝鮮の一部で伝えられ、世界に類を見ない独特の形をしている曲玉。その由来には、月をかたどったもの、釣り針をかたどったもの、動物の牙をかたどったもの、胎児をかたどったもの、魚をかたどったもの、腎臓をかたどったものといった信仰による[360]<br />　現代の女性にも好まれている装飾品の玉。遣隋使や遣唐使といった文化的交流もない時代に、なぜ中国と日本の両国の古代人は、玉を愛していたのか気になった。
　まず、日本と韓国と北朝鮮の一部で伝えられ、世界に類を見ない独特の形をしている曲玉。その由来には、月をかたどったもの、釣り針をかたどったもの、動物の牙をかたどったもの、胎児をかたどったもの、魚をかたどったもの、腎臓をかたどったものといった信仰による様々な説がある。単なる装飾具でなく、権力の象徴、護符、呪術的な意味を持った祭器として使われていたようだ。主な色は、緑を基準に「ヒスイ」、「青メノウ」、白や赤は「メノウ」、水晶などがある。
　また、曲玉は皇位継承の象徴とされる三種の神器の一つである。「ヤアタの鏡」、「クサナギの剣」そして「ヤサカの曲玉」。「古事記」に、天孫降臨の際、アマテラスがヒコホノニニギに授けたと記録されている。同じ書の前段には、アマテラスとヒコホノニニギの対面の話に、アマテラスは左の髪に玉を巻き、御かずらに玉、左右の手に玉をつけていたと書かれている。そして、天の岩戸の場面でも、タマノヤノミコトはヤサカノマガダマを作り、アメノ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[平安時代の装束について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/636/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 28 Jun 2005 23:02:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/636/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/636/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/636/thmb.jpg?s=s&r=1119967327&t=n" border="0"></a><br /><br />　平安時代の文化は「王朝文化」と言われるとおり、朝廷に近い、社会でも上層の、貴族の文化であった。当時の貴族は政治の実務から遠ざかって、贅沢な遊び事の日々を送っていた。そして、その身を飾る衣服には、貴族の信条であった「高貴(あて)」・「雅」に[356]<br />　古典文学の中には、しばし「色」につていの記述がある。古くは万葉集の歌に詠まれたりする。また、物語の中では、登場人物の装束や小物の描写において、重要だったりする。
　今回私は、「色」と大きな関係のある、貴族社会の装束についてまとめてみようと思う。ただこれが、日本「文学史」に関わるものかどうかという点で自信を持てないでいるが、シラバスの講義計画に「貴族の衣裳」があるので、これを拠りどころとしたい。
○ 貴族と装束
　平安時代の文化は「王朝文化」と言われるとおり、朝廷に近い、社会でも上層の、貴族の文化であった。当時の貴族は政治の実務から遠ざかって、贅沢な遊び事の日々を送っていた。そして、その身を飾る衣服には、貴族の信条であった「」・「雅」にふさわしい布地の品質・色彩が用いられた。また、裏地のある袷仕立ての衣では、表の布地とその大袖の裏にちらりとあらわれる裏の布地との色彩の調和にも心を配った。
　この時代の衣服の色彩美は、後世の小袖にみえるような布地上の模様の色によって表わされるのではなく、一枚の衣ではその表・裏の布の重色によって表わされる。また、装束ではそれらの衣色の襲ねによって表わされた..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[大化改新について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/635/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 28 Jun 2005 22:52:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/635/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/635/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/635/thmb.jpg?s=s&r=1119966744&t=n" border="0"></a><br /><br />　中大兄皇子は、乙巳の変において、佐伯氏、犬養氏といった選抜された刺客たちと、宮中に身をひそめ、入鹿暗殺の機会を窺っていた。そして入鹿への第一撃は、中大兄皇子の手によってなされた。中大兄皇子は、入鹿暗殺に失敗すれば、その場で生命を落とす危険[360]<br />　大化改新の始まりといわれる「乙巳の変」の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足であると、これまで高校の授業などで教わってきた。しかし、乙巳の変の後、中大兄皇子はすぐに天皇には即位せず、結局かなりあとになってから即位をしている。乙巳の変から２３年後に即位した中大兄皇子は、はたして本当に乙巳の変の首謀者だったのだろうか。今回のレポートでは遠山美都男氏の『大化改新』を参考に、中大兄皇子と乙巳の変の関係についてまとめてみようと思う。
　
○中大兄皇子
中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた長子である。中大兄はかれの通称であり、実名は葛城皇子といった。
　中大兄皇子は、舒明・皇極両天皇の子であるという点で、王権継承上、血統的な条件については申し分が無かった。だが、この時代の王権継承は、このような血統的条件を優先したものではなかった。王権の世代内継承の原則の下では、血統よりも世代・年齢と経験が重視されていたのである。
　皇極女帝の時代において、中大兄皇子は王権継承資格を持つ皇子と見られてはいたが、王権継承候補者は、彼以外にも、欽明天皇の曾孫に当たる山背大兄王や軽皇子、それに中大兄皇子とおなじ欽明..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[罷申を含む国司の赴任過程について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 22 Jun 2005 23:30:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/551/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/551/thmb.jpg?s=s&r=1119450615&t=n" border="0"></a><br /><br />罷申は、任国赴任に際しての挨拶で、赴任儀ともいう。この罷申には2つの種類ある。1つは、摂政・関白や大臣のもとへ貢物（志）をもって赴任の挨拶をしに訪問すること。もう1つは、蔵人を通して天皇に赴任の挨拶をすることである。
　国司の任官は、毎年[350]<br />罷申を含む国司の赴任過程について
　授業の発表時に、私は補足説明として「罷申」について発表した。ただこの時は、レジュメに書いたのはたったの数行、しかも内容は辞書に書いてあるような簡単なもので、あとは儀式書をただ読んだだけだった。よって今回のレポートでは、この罷申についてもう少し調べてみようと思った。だが調べていくと、国司の赴任・交替に関する一連の動きの中で、罷申はあまり重要視されていないようで、このことについての先行研究も見つけられなかった。そこで今回は、国司の除目から任国へ下るまでの過程を追って、そのなかで罷申についても述べてみたいと思う。
1．国司と受領
　国司の赴任過程を追うまえに、国司と受領の違いについてまとめておきたい。私が授業時に引用した『西宮記』や『侍中群要』には、罷申についての条文が国司ではなく、「受領赴任事」や「受領罷申事」と受領という言葉を使っていた。
　まず、国司は、国守を示す場合と、任国に赴く守・介・掾・目の四等官を示す場合の2通りあった。
　受領というのは、もともとは新任国司が前の国司から国衙の政務を交替して、受け継ぐ行為のことを言った。それが遙任の国司が出て..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「中国古代の社会」レポート試験]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/508/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぶーにゃん]]></author>
			<category><![CDATA[ぶーにゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 19:25:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/508/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/508/" target="_blank"><img src="/docs/983432374901@hc05/508/thmb.jpg?s=s&r=1119349517&t=n" border="0"></a><br /><br />?中国大陸を史上初めて統一
　?長城建設などの大規模土木事業
　?貨幣・度量衡などの社会システムの基礎形成
　?苛政
　秦は、中国大陸を史上初めて統一したと言われている。それに伴って、二世皇帝である胡亥が貨幣・度量衡などの社会システ[336]<br />「中国古代の社会」レポート試験
問題 Ⅰ）あなたは、中国古代の歴史の中で、秦という時代はどのような歴史的意義を持つ時代だと考えますか。
　　　　　具体適時打例を3つ以上あげた上で、自己の見解を述べなさい。
　①中国大陸を史上初めて統一
　②長城建設などの大規模土木事業
　③貨幣・度量衡などの社会システムの基礎形成
　④苛政
　秦は、中国大陸を史上初めて統一したと言われている。それに伴って、二世皇帝である胡亥が貨幣・度量衡などの社会システムの基礎を作ったといわれている。貨幣と商業社会の中核となる度量衡といった単位の画一化がもたらしたものは秦を文明化させたと思われる。
　長城建設・墓地建設に代表さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古代中国の刑罰]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/494/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぶーにゃん]]></author>
			<category><![CDATA[ぶーにゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 16:25:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/494/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/494/" target="_blank"><img src="/docs/983432374901@hc05/494/thmb.jpg?s=s&r=1119338711&t=n" border="0"></a><br /><br />＜はじめに＞
　国民国家が世界において主体単位となった現在、民主的な憲法を有するほとんどの国では、犯罪者を法律に基づいて裁き、刑罰を法律によって確定する罪刑法定主義に基づくシステムが採用されている。中国という広大な領域を始めて統一し支配し[356]<br />「中国古代の社会」レポート
『古代中国の刑罰』
＜はじめに＞
　国民国家が世界において主体単位となった現在、民主的な憲法を有するほとんどの国では、犯罪者を法律に基づいて裁き、刑罰を法律によって確定する罪刑法定主義に基づくシステムが採用されている。中国という広大な領域を始めて統一し支配した秦という帝国の時代においての刑罰について、探ろうと思い、このレポートテーマを選択した。刑罰のシステムはどのように変遷をとげ、またその裏にはどのような思想が存在していたのだろうか。私は特にそこに注目してレポートする。
１．秦漢時代の刑罰の種類
　現在の日本では、禁錮・懲役・拘留といった自由を奪う形での自由刑、罰金や科料をもって償う財産刑、そして死をもって罪を清算する死刑の3つの刑罰体系がある。
　二千年以上前の古代中国でもこの3つの刑罰体系がとられていた。自由刑に相当する労役刑・財産刑・死刑がそれである。漢代の死刑は、胴体切断による処刑の「腰斬」と首切り打ち首の「棄市」があった。この２つの違いは、腰部を切断するために、より苦痛が多いため腰斬の方が棄市よりも一等重い刑であったこと、腰斬刑を宣言された罪人の家..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「中国古代の社会」（歴史学）『歴史学へのアプローチ法を求めて』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/493/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ぶーにゃん]]></author>
			<category><![CDATA[ぶーにゃんの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 16:23:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/493/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432374901@hc05/493/" target="_blank"><img src="/docs/983432374901@hc05/493/thmb.jpg?s=s&r=1119338584&t=n" border="0"></a><br /><br />「始皇帝は悪人だったのか」という疑問を抱き、私は鶴間和幸著『秦漢帝国へのアプローチ』を読み進めることにした。その答えへの道標は、この著作の第三章「官僚のみた専制王朝下の民衆の苦悩」に見ることができる。
　始皇帝の政治は実に専制的で、官僚機[356]<br />「中国古代の社会」（歴史学）
『歴史学へのアプローチ法を求めて』
　「始皇帝は悪人だったのか」という疑問を抱き、私は鶴間和幸著『秦漢帝国へのアプローチ』を読み進めることにした。その答えへの道標は、この著作の第三章「官僚のみた専制王朝下の民衆の苦悩」に見ることができる。
　始皇帝の政治は実に専制的で、官僚機構が厳格な割りに、政策面では未熟さ・稚拙さが目につくように思われる。専制政治なのだから、帝は自由放題に振舞うのが当然であるだろうが、それにしても、彼が行ったと伝えられる政治（特に土木事業）は余りにその度を越えている。
　長城・隆墓・阿房宮・馳道などの巨大土木事業を民衆に対して無報酬で労役させて行うとは、よほど民衆を無知なものと考えていたからか、それとも、帝自身が民衆に人気があると考えていたからなのか、始皇帝の内心を推し量ることは難しい。だが、いずれにせよ、民衆の始皇帝(秦)への不満と反発が高まり、それによって秦が倒されたことは事実である。土木事業に数十万の人間を従事させ、死に至らせたばかりではなく、数万人もの女性や子供を異郷の地へ赴かせてしまう強引さには驚嘆するばかりである。だが、これ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「八足之鹿」と蘇我赤兄]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/480/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 円莉]]></author>
			<category><![CDATA[円莉の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 21 Jun 2005 12:10:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/480/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432358501@hc05/480/" target="_blank"><img src="/docs/983432358501@hc05/480/thmb.jpg?s=s&r=1119323442&t=n" border="0"></a><br /><br />蘇我赤兄は蘇我馬子の孫にあたる。父は蘇我倉麻呂であり、兄は大化改新に加担したとされる石川麻呂である。
　蘇我氏は馬子の世代以来いくつもの家に分裂していた。大化改新において滅ぼされたのは、蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家のみであり、その他の家や枝[356]<br />『日本書紀』天智十年
十年夏四月、是月、筑紫言、八足之鹿生而即死、
　資料に基づいてレポートを書くということで、私は授業で扱っていた大宰府史料から題材をみつけてみた。私がやった箇所ではないのだが、発表の後ほんの少し疑問として残った部分である。この条文に出てくる「八足之鹿」とは一体何をさすのか。そして、授業中ではこの「八足之鹿」とその前の条文で大宰率に任命された蘇我赤兄は関係があるのかという話が出た。今回はこれらの事について調べてみようと思う。
　まずは蘇我赤兄について、彼がどんな人物だったのか経歴をみていきたい。次に「八足之鹿」の意味とその示すところを考え、最後に「八足之鹿」と蘇我赤兄の関係を考えてみたいと思う。
○蘇我赤兄
　　『日本書紀』天智八年条
　　八年春正月庚辰朔戊子、以二蘇我赤兄臣一、拜二筑紫率一。
　蘇我赤兄は蘇我馬子の孫にあたる。父は蘇我倉麻呂であり、兄は大化改新に加担したとされる石川麻呂である。
　蘇我氏は馬子の世代以来いくつもの家に分裂していた。大化改新において滅ぼされたのは、蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家のみであり、その他の家や枝分かれした氏族はいずれもその後も政府に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日置謙『加能外史』-白光院について-]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/250/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 06 Jun 2005 02:23:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/250/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/250/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/250/thmb.jpg?s=s&r=1117992234&t=n" border="0"></a><br /><br />白光院とは、白山比?神社の長吏をいいまた、加賀禅定道の寺社における長吏をまとめる惣長吏を兼ねるものをいう。
惣長吏が白光院と名乗りだしたのは、少なくとも中世末戦国時代に長吏であった澄勝以前であり、澄祝まで遡る可能性がある。
以下に、白光[350]<br />日置謙『加能外史』-白光院について-
日置謙　　大日本教育会石川県支部代表林安繁編　　『加能外史』　　昭和21年12月10日　　金沢文化協会
発行者　　金沢文化協会代表中島徳太郎　　500部限定
打込み編集について
『加能外史』をコンピュータに入力するに当たって次のようにした。
一　旧平仮名を常用平仮名に直した。但し、固有名詞・史料文等に関してはそのままにしたものもある。
　　　　へ&rarr;え
一　年号について、和暦の後に括弧書きで西暦を加えた。
　　　　大永七年(1527)正月
白光院
つれづれなるままに言継卿記を一閲した。固より図書刊行会出版の活字に就いてであるが、老眼既に書を読むにく、老心更に意を解するに難んずる。
（ここには、本文があった。そのまま打っただけなので、著作権に触れるかもしれないので削除） 賀州　がしゅう
加賀・伊賀の国の別称。
朝臣　あそん・あそみ、中世以降あっそんともいう
日本の古代のの一種。
天武朝の八色の姓の第二位。初めは皇別氏族の有力者に。
平安時代からは最高の姓とみられる。皇子、皇女の臣籍降下の際にも賜与。
①五位以上の人の姓名に付ける敬称。
三位以上には姓の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『サテュリコン』に描かれた解放奴隷たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/234/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:53:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/234/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/234/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/234/thmb.jpg?s=s&r=1117716819&t=n" border="0"></a><br /><br />『サテュリコン』は、時のローマ皇帝ネロの側近であるペトロニウスによって書かれた風刺小説である。彼はネロにとって、いわば背徳の指南役であった。当然、古代風刺小説の金字塔と名高いこの作品も、内容を紐解けば赤裸々な記述が多く、「インモラルな悪漢小[360]<br />『サテュリコン』に描かれた解放奴隷たち
『サテュリコン』は、時のローマ皇帝ネロの側近であるペトロニウスによって書かれた風刺小説である。彼はネロにとって、いわば背徳の指南役であった。当然、古代風刺小説の金字塔と名高いこの作品も、内容を紐解けば赤裸々な記述が多く、「インモラルな悪漢小説（ピカレスク・ロマン）」と評されることしばしばであった。
しかし見方を変えてみれば、虚構の物語ではあってもその中で当時の風俗がありありと描かれており、一次資料としての価値を十分に有している。今日なお古代ローマ人の姿を垣間見ることができる、という点で、この作品はやはり金字塔に他ならないのだ。
さて、それでは作品に目を向..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「鎖国」を巡って]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:47:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/233/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/233/thmb.jpg?s=s&r=1117716429&t=n" border="0"></a><br /><br />「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人[312]<br />「鎖国」を巡って
「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人国を鎖して国民をして国中国外に限らす敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」と訳を当てた。
「国を鎖し」「国の内外を問わず外国人と交易することを許さないこと」といったように、ケンペルは「鎖国」の概念を表現したが、はっきりと「鎖国」という言葉を使用してはいない。そもそもそれ以前の日本には「鎖国」という言葉は無く、180..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[曹操の祖を振り返る-前漢代曹参と祖父・曹騰]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/232/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:42:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/232/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/232/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/232/thmb.jpg?s=s&r=1117716162&t=n" border="0"></a><br /><br />三国時代・曹魏創立者、曹操。彼は圧倒的な支配力を以って三国を制しにかかったわけだが、その誇れる力のおおもとには、祖父・曹騰の高級宦官という地位がもたらした巨万の富とコネクションがあったことを忘れてはならない。
ここでは曹操自身というよりは[356]<br />曹操の祖を振り返る
~前漢代曹参と祖父・曹騰~
三国時代・曹魏創立者、曹操。彼は圧倒的な支配力を以って三国を制しにかかったわけだが、その誇れる力のおおもとには、祖父・曹騰の高級宦官という地位がもたらした巨万の富とコネクションがあったことを忘れてはならない。
ここでは曹操自身というよりはその家系と、祖父の職である「宦官」についてざっと流れをまとめてみたい。
そもそも曹の家系は漢の高祖劉邦にまでさかのぼり、400年以上続く名門中の名門だ。前漢期に曹参という人物が居る。彼はもとは沛県の獄吏であったが、高祖劉邦の挙兵の折に従官として従い、武功をあげ天下統一に貢献した。劉邦が高祖となってからは片腕として漢王朝の基礎を築くことに尽力し、晩年は宰相を務めるに至った。
その後に続く子孫も代々侯に封ぜられ、曹家はおおむね漢帝国における本流に位置する。
そして時代は下り、宦官として大成した曹騰によって、曹家は再び栄えた。
宦官である曹騰はせっかくの富を引き継ぐ後継ぎを残せない。よって、古く曹参の時代からすでに親しい関係を持っていた夏侯氏より、養子として曹嵩を迎えた。曹嵩は富に任せ、太尉の位を一億銭をもって..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『中世寺院と民衆』第二章　中世寺院の多様性と階層性]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:16:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/228/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/228/thmb.jpg?s=s&r=1117714567&t=n" border="0"></a><br /><br />○ 中世寺院は多様な寺院形態が存在した
○ 階層性のある社会的秩序を持つ寺院	
○山寺と修験者&hellip;寺院ネットワークを形成
○職人層など半僧半俗の人々の存在[219]<br />日本史演習2004年5月13日
『中世寺院と民衆』第二章　中世寺院の多様性と階層性
要点
○ 中世寺院は多様な寺院形態が存在した
勧進聖・遁世者の寺院・笈箱・民家や道端の石仏
○ 階層性のある社会的秩序を持つ寺院 
権門寺院・府中寺院・郡鎮守・郡内寺院・荘内寺院・村落寺院
○ 山寺と修験者&hellip;寺院ネットワークを形成
職人層など半僧半俗の人々の存在
興味
修験者の存在が、中世の人々の情報源となっていたことに興味を持った。修験者の組織力についてはちらと聞いたことがある。修行という同じ目的を持ったもの同志、その結束は固かったのだろう。
こうした山寺ネットワークの提供する情報について、どれだけの速さで伝..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[阮籍の人となり]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/226/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 21:00:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/226/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/226/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/226/thmb.jpg?s=s&r=1117713639&t=n" border="0"></a><br /><br />『世説新語』の中で、後期で扱った「任誕」に登場した阮籍、彼にまつわるエピソードは奇想天外なものが多く、強烈なイメージとして残った。そこで、今回はその俗世離れした阮籍の人となりを調べてみようと思う。
阮籍は210〜263（建安15〜景元4）[338]<br />阮籍の人となり
『世説新語』の中で、後期で扱った「任誕」に登場した阮籍、彼にまつわるエピソードは奇想天外なものが多く、強烈なイメージとして残った。そこで、今回はその俗世離れした阮籍の人となりを調べてみようと思う。
阮籍は210～263（建安15～景元4）年、中国魏晋時代の人で竹林七賢の一人である。名家に生まれたが、権謀術数と下克上の政官界を厭い世俗を離れて生活した。彼には本来、世を済わんとする志があったが、魏晋交代の乱世において政治生命の全きを保ち得ない名士が多いのをみて、ついに世事に関与するのを避けて飲酒を常とし、嘯や弾琴を好んだという。彼の思想の根幹には、当時の作為と欺瞞におおわれてしまった儒教的礼法が自由な人間性を抑圧する事への極度な嫌悪があり、彼は自信をもって礼法に従わなかった。まさに「任誕＝やりたい放題」そのものであった。
礼法を嫌う阮籍の人となりをよく表すエピソードがある。故事成語となった「白眼視」である。
阮籍礼教に拘わらず 能く青白眼を為し礼俗の士を見れば白眼を以って之に対す 嵆喜の来たり弔するに及び籍白眼を為す 嵆喜懌ばずして退く 嵆喜の弟嵆康之を聞き乃ち酒を齎し琴を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『世説新語』に見られる機知表現〜清談で培われた言語感覚〜]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/225/]]></link>
			<author><![CDATA[ by satomi1983]]></author>
			<category><![CDATA[satomi1983の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 02 Jun 2005 20:50:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/225/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432393901@hc05/225/" target="_blank"><img src="/docs/983432393901@hc05/225/thmb.jpg?s=s&r=1117713032&t=n" border="0"></a><br /><br />『世説新語』は、後漢から東晋までの名士の逸話を収めた小説集である。魏晋南北、すなわち三国六朝ひしめく激動戦乱の時代にありながら、『世説新語』の登場人物は、死と隣りあわせという陰湿さなどかけらも見せず、逆に機知に富んで切れ味がよく、鋭角的な物[360]<br />『世説新語』に見られる機知表現
～清談で培われた言語感覚～
『世説新語』は、後漢から東晋までの名士の逸話を収めた小説集である。魏晋南北、すなわち三国六朝ひしめく激動戦乱の時代にありながら、『世説新語』の登場人物は、死と隣りあわせという陰湿さなどかけらも見せず、逆に機知に富んで切れ味がよく、鋭角的な物言いをする。よく笑い、よく怒り、よく嘆く。こうしたありのままの感情を、生き生きと描いている。
『世説新語』においてひとつ特徴的なのは、物語の切り取り方がごく個人的な部分に徹しているという点だ。実在した人物の言動を素材としながら、それら登場人物と歴史上の状況との関係、背後の具体的時間は殆ど明記されていない。政治的大状況に背を向け、小状況、つまりプライベートにのみ着目している。多様な人間群像について、あくまで個人を追及し、言動を鋭く切り取る。重視されるのは、何を描くか、よりも、どう描くか。特に言語表現に賭けられた情熱は膨大なもので、こうした部分に独特のおもしろさが認められる。
こうした機知溢れる表現の背景となったのが、「清談」の流行である。
清談は形而上学的な問題をテーマとした哲学談義と、人物批..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[幕府崩壊と新政権の樹立の過程]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/181/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 01:13:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/181/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/181/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/181/thmb.jpg?s=s&r=1116605631&t=n" border="0"></a><br /><br />江戸幕府が崩壊し、明治新政権が樹立するまでの過程で重要な事件は、大政奉還と王政復古の大号令である。[147]<br />&lt;幕府崩壊と新政権の樹立の過程&gt; 
1. 江戸幕府が崩壊し、明治新政権が樹立するまでの過程で重要な事件は、
大政奉還と王政復古の大号令である。 
2. 大政奉還とは、15 代将軍徳川慶喜が、山内豊信の進言によって江戸幕府
が保持し、行使してきた政権を朝廷に返還したことである。当時、外
交問題をめぐって政局は混乱し、社会は激動していた。国の危機的状
況が深まるなかで、外交方針が朝廷と幕府とでくいちがいをみせるな
どのことが問題視され、強大な国家を創るためには、政権が一元化さ
れなければならないと認識されるようになった。その方法として、３
つの道が考えられた。１つは、幕府が反対勢力を排除して実権を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[版籍奉還・廃藩置県についての考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/180/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 01:11:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/180/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/180/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/180/thmb.jpg?s=s&r=1116605514&t=n" border="0"></a><br /><br />1.	欧米諸国に対抗できる国力を育成するためには、欧化政策をすすめて欧米の政治・経済制度を導入することが不可欠であると考えられていた。それを遂行するにあたり、必要とされたのは、財源と軍事力の確保、そして人民の自発的な活動と新政府への忠誠心で[354]<br />版籍奉還・廃藩置県の制度について 
1. 欧米諸国に対抗できる国力を育成するためには、欧化政策をすすめて欧
米の政治・経済制度を導入することが不可欠であると考えられていた。それ
を遂行するにあたり、必要とされたのは、財源と軍事力の確保、そして人民
の自発的な活動と新政府への忠誠心であった。しかし、当時の統治機構は、
地方分権的なものであった。そのために、新政府は中央集権体制を確立
する必要があり、まず版籍奉還が実施された。 
2. 版籍奉還とは、文字通り、土地（版）と人民（籍）を朝廷に返上したことを
いう。版籍奉還の目的は、中央集権体制の確立のため、各大名を領主
とする旧来の藩体制を廃止しなけ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[岩倉使節団の成果についての考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/179/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 01:09:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/179/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/179/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/179/thmb.jpg?s=s&r=1116605347&t=n" border="0"></a><br /><br />2.	岩倉使節団の目的は以下の3つである。1つ目に、条約改正の準備交渉である。日本が改正を望む条約の1つに、幕末時代、1854年に締結された、日米和親条約がある。この条約には、「片務的最恵国待遇」という規定がある。これは、日本がアメリカ以外[340]<br />岩倉使節団の成果についての考察 
1. 岩倉使節団とは、明治 4 年から6 年にかけて行われた明治政府の米欧視
察団のことである。岩倉具視を大使とし、大久保利通や伊藤博文らを副使
とする50 人ばかりのエリート集団で、欧米 12 ヶ国を回覧し、世界一周をし
た。 
2. 岩倉使節団の目的は以下の 3 つである。1 つ目に、条約改正の準備交渉
である。日本が改正を望む条約の1つに、幕末時代、1854年に締結された、
日米和親条約がある。この条約には、「片務的最恵国待遇」という規定があ
る。これは、日本がアメリカ以外の第三国と、相手国にとって有利な条約を
結んだ場合、それが自動的にアメリカにも適用..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[天皇号の成立について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 00:29:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/168/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/168/thmb.jpg?s=s&r=1116602991&t=n" border="0"></a><br /><br />「古事記」や「日本書紀」によると、神武天皇以下すべての天皇が「天皇」号で呼称されている。しかし、天皇号で呼ばれるようになった時期についての説は二つに大別される。
一つは七世紀はじめの推古朝(五九三年〜六二八年)からとする説で、もう一つは天[352]<br />&lt;天皇号の成立について&gt; 
「古事記」や「日本書紀」によると、神武天皇以下すべての天皇が「天皇」号で呼称され
ている。しかし、天皇号で呼ばれるようになった時期についての説は二つに大別される。
一つは七世紀はじめの推古朝(五九三年～六二八年)からとする説で、もう一つは天武朝(六
七二年～六八六年)からとする説である。いずれせよ、「天皇」号を使用するようになったの
は七世紀に入ってからのことであるから、初代を神武天皇と呼ぶのは妥当ではないという
ことになる。戦前は推古朝使用開始説が通説であったが、戦後になって天武天皇以降に「天
皇」号が成立したという説が有力化し、次第に通説となりつつある。 
推古朝使用開始説は、津田左右吉によって提唱されたものであり、法隆寺金石文に「天
皇」号の記述があることから、推古朝に天皇号が用いられていたと主張する。しかし、こ
の主張に対してはいくつかの批判がある。大山誠一は「天皇」号の使用開始は天武朝が通
説であるとした上で、法隆寺金石文の記述は天武朝に追刻されたものであるして、以下の
ように主張する。 
『疑問の第一は、文中（薬師像銘）の天皇号である。天皇号の成..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本近世の法規範と裁判規範の考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/167/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 00:27:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/167/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/167/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/167/thmb.jpg?s=s&r=1116602865&t=n" border="0"></a><br /><br />武士の実力行使としてまず挙げられるのは、無礼討ちの制度である。この制度は武士が他の身分の者に対してその武力を行使できる法的身分特権であり、制定法である「公事方御定書」で認められている。また当時の道徳・倫理として、侵害された武士の名誉は死を持[360]<br />(1)武士の実力行使に関する日本近世の法規範と道徳（倫理）について 
武士の実力行使としてまず挙げられるのは、無礼討ちの制度である。この制度は武士が他の
身分の者に対してその武力を行使できる法的身分特権であり、制定法である「公事方御定書」で
認められている。また当時の道徳・倫理として、侵害された武士の名誉は死を持ってあがなうべき
であるという認識があり、それゆえ無礼討ちは「無礼」を受けた武士の義務であり、家の存続にか
かわれる一大事とされ、討ち損じたり、助太刀を怠ったりした武士にはそれに対する処罰も存在し
ていたため、無礼を受けた個々の武士には相手を許す選択肢など存在しなかった。 
次に挙げら..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[式内社について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/155/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 20 May 2005 07:38:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/155/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/155/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/155/thmb.jpg?s=s&r=1116542283&t=n" border="0"></a><br /><br />《延喜式》巻九，十，すなわち〈延喜式神名帳〉に記された 3132 座， 2861 所の神社のこと。
座は祭神の数をあらわし，一社に 2 座， 3 座まつられていることもある。
単に式社，また延喜式内社ともいう。これ以外を式外社ともよんだ[316]<br />式内社　しきないしゃ
《延喜式》巻九，十，すなわち〈延喜式神名帳〉に記された 3132 座， 2861 所の神社のこと。
座は祭神の数をあらわし，一社に 2 座， 3 座まつられていることもある。
単に式社，また延喜式内社ともいう。これ以外を式外社ともよんだ。
古代律令体制下，宮中，京中，五畿，七道内の有力神社に対し，祈年祭などに，神梢官または国司より幣帛を奉ったが，その神社である。
起源は不詳であるがおよそ 7 世紀末の白鳳期ころからとみられ，しだいに数を増して，10 世紀の延喜ころまでにそのような数になったものとみられる。神梢官が奉幣しまつる官幣社と，国司が奉幣しまつる国幣社とがあり，それ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[鎮守について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/154/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 May 2005 13:59:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/154/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/154/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/154/thmb.jpg?s=s&r=1116478781&t=n" border="0"></a><br /><br />鎮守について
土地ないし施設を霊的な疫災から守護する神。鎮主とも書く。もと鎮安守護の意で鎮守府，鎮守使など一般に形容語とするが，日本では平安朝以来独立の成語として鎮守神をさす。もと大乗仏教の護法善神の思想により寺院の守護神として勧請 (か[352]<br />鎮守について
土地ないし施設を霊的な疫災から守護する神。鎮主とも書く。もと鎮安守護の意で鎮守府，鎮守使など一般に形容語とするが，日本では平安朝以来独立の成語として鎮守神をさす。もと大乗仏教の護法善神の思想により寺院の守護神として勧請 (かんじよう) したもので，興福寺の春日明神，高野山の丹生 (にう) 明神，比叡山の山王権現，東寺の鎮守八幡宮など多くは寺院の建立以前からの地主神(じぬしがみ) を改めてまつった。これには本来，強力な来訪神が在地の神霊を慰撫し服属せしめる方式が生かされており，鎮守神としての奉斎がおのずから他の諸霊を制する神威を高めることになる。そこでまもなく鎮守神祭祀の風が一般化..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本法制　古代法について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/153/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 May 2005 13:56:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/153/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/153/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/153/thmb.jpg?s=s&r=1116478588&t=n" border="0"></a><br /><br />日本では [[7 世紀末]]から [[8 世紀初]]めにかけて，[[中国]]の[[隋]]・[[唐]]の[[律令法]]を模範とする体系的な法典としての[[律令法典]]が編纂され，施行された。この律令法の[[施行期]]を，[[中国律令法]]を継[276]<br />日本法制　古代法について
　日本では [[7 世紀末]]から [[8 世紀初]]めにかけて，[[中国]]の[[隋]]・[[唐]]の[[律令法]]を模範とする体系的な法典としての[[律令法典]]が編纂され，施行された。この律令法の[[施行期]]を，[[中国律令法]]を継受して成った法の施行時期という意味で〈[[継受法]]の時代〉，それ以前は〈[[固有法]]の時代〉という。[[古代]]日本における法の発達は，このように律令法を境として便宜的に2期に大別することができる。
但、次の場合がある。[[地理]]的に[[中国大陸]]および[[朝鮮半島]]に接する日本は，古代においては[[高句麗]]，[[百済]]，[[新羅]]の[[朝鮮三国]]およびいわゆる[[任那]]地域からの，人間の移住をともなう文化の流入を間断なく受け入れていた。そうした[[歴史的条件]]のもとでは，固有法の時代の法に純粋な[[日本独自]]以外の存するからである。固有法とみられるものでも，その起源は[[朝鮮三国]]，さらには中国から〈継受〉した場合がある。
たとえば，[[聖徳太子]]によると考えられていた[[冠位十二階]]が，近..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[舎人について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/152/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 May 2005 13:50:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/152/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/152/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/152/thmb.jpg?s=s&r=1116478212&t=n" border="0"></a><br /><br />舎人について
天皇や皇族に近侍し護衛を任務とした下級官人。
令制以前の舎人は 6 世紀後半から設置され，東国を中心に国造 (くにのみやつこ) やその一族から朝廷に貢進され， 名代・子代(なしろこしろ) として隷属した。 〈とねり〉の名は[328]<br />舎人について
天皇や皇族に近侍し護衛を任務とした下級官人。
令制以前の舎人は 6 世紀後半から設置され，東国を中心に国造 (くにのみやつこ) やその一族から朝廷に貢進され， 名代・子代(なしろこしろ) として隷属した。 〈とねり〉の名は〈とのはべり (殿侍) 〉のちぢまったものという (《古事記伝》)。国造またはその一族は舎人直 (とねりのあたい)として舎人を統率し， 舎人部は舎人の管掌下に舎人の資養物を貢進することなどを負担し， 舎人直―舎人―舎人部という階層関係がみられた。 《日本書紀》における，大化以前関係の記載にみえる〈帳内〉 (雄略即位前紀)， 〈兵衛〉 (用明 1 年 5 月条)，〈資人〉 (崇峻即位前紀) のいずれにも〈とねり〉という古訓がつけられているが，それらの名のもとに制度が整っていたかどうかは疑問で， 《日本書紀》の編者が，その斤述年代における知識をもって，大化以前の当該記事を修飾したものとされる。 
　令制以後については 673 年 (天武 2) 5 月，仕官する者をまず大舎人 (おおどねり) 寮に収容し，その才能を試験したのち適当な職務につかせた。これは，天皇..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「帝国大学」について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/151/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 May 2005 13:44:24 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/151/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/151/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/151/thmb.jpg?s=s&r=1116477864&t=n" border="0"></a><br /><br />1日本の帝国大学
1.1　はじまり
日本の帝国大学制度は，1880 年代に入って憲法の制定作業に入った伊藤博文 (当時，参議) らによって構想された。
明治15(1882)年3月、伊藤は憲法調査のために一年余り渡欧にした。プロイセン・[304]<br />「帝国大学　ていこくだいがく」について
はじめに
　研究史を読む上で、帝国大学出身者の論文を読むことが多い。帝国大学とはなにか、またどのようなことがなされ、目標としたこととは何か、実際にはどのような働きをしたか等を知りたくなった。
　帝国大学という字句からは、次に示す意味が出てくる。
(1)1886 年から 1947 年にかけての日本の官立総合大学の名称。
(2)1886 年から 97 年にかけての東京大学の校名。
(3)世界大学史のうえでは，1806‐08 年にフランスでナポレオン法典によって定められた総合的・中央集権的なUniversitレ impレriale (帝国大学) をさす。
　ここで論じる、帝国大学は(1)の意味である。日本の帝国大学は1886年公布の帝国大学令により、1887年創立の東京大学を前身として創設された。その後、次いで明治40(1907)年東北，明治43(1910)年九州，大正7(1918) 年北海道、朝鮮に大正14 (1924) 年京城，台湾に昭和3 (1928) 年台北、昭和6(1931)年大阪，昭和11 (1939) 年名古屋 と次々に設置された。日本内..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[伊賀国について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 May 2005 04:53:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/147/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/147/thmb.jpg?s=s&r=1116273194&t=n" border="0"></a><br /><br />【中世】
　伊賀国 4 ヵ郡のうち，とくに北伊賀の阿拝，山田両郡は 11 世紀末以降，平正盛，忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり，平家の一族・郎等が勢力を築いていた。しかし，治承・寿永の内乱は伊賀国の政治状況を一変させる。
1184[330]<br />伊賀国について
旧国名。 伊州。現在の三重県西部にあたる。 
【古代】
　東海道の西端に位置する下国 (《延喜式》)。
当初は伊勢国に属し，680 年 (天武 9) に 4 郡を割いて分国したと伝える。 
《和名抄》によれば，阿拝 (あえ)，山田，伊賀，名張の 4 郡 18 郷からなり，田数は 4051 町 1 段 41 歩。
国府は上野市印代の東部に比定され，
国分寺址はその約 3km南の同市西明寺に残る。
一宮は上野市敢国 (あえくに) 神社。
律令制以前より大和南部の磯城，泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが，平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居，柘植 (つげ) を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ，
平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主 (私領主) も出現したが，
その没落後は平安末期にかけて，東大寺，興福寺，春日社，伊勢神宮，摂関家などの所領が数多く立てられた。 
【中世】
　伊賀国 4 ヵ郡のうち，とくに北伊賀の阿拝，山田両郡は 11 世紀末以降，平正盛，忠盛..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[教育について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/146/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 May 2005 04:40:43 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/146/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/146/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/146/thmb.jpg?s=s&r=1116272443&t=n" border="0"></a><br /><br />【教育の根拠】
　人間は教育によってその精神的，身体的可能性を開花させ，同時に社会の成員として必要な労働能力，社会的能力を身につける。教育なくしては個人の成長はなく，文化の伝達なくしては人類の持続と発展もありえない。教育の必要性 (必然性[352]<br />教育について　　
目次
・教育　きょういく　
【教育の根拠】
【教育の歴史性】
【教育と政治】
【教育的価値の独自性と相対性】
・教育学　きょういくがく　pedagogy　　
【教授の学としての教育学】
【科学としての教育学】
【日本の教育学】
・教育哲学　きょういくてつがく　　　
教育　きょういく
人間は歴史的に規定された社会的環境のなかで，意図的，無意図的なさまざまな刺激とその影響を受けて，成長し発達する存在である。教育とは，広義ではこれらの人間形成全体を指すが，狭義では一定の目的ないし志向のもとに，対象に対する意図的な働きかけを指す。この場合にも，次の世代への意図的働きかけにとどまらず，成人教育，生涯教育という言葉が示すように，同世代の，あるいは世代間の相互教育 (集団的自己教育) を含んで使用される場合もあるが，より限定的には，先行世代の，次の世代 (子ども，青年) に対する文化伝達と価値観形成のための意図的働きかけをいう。その教育には公的機関の関与のもとに，公費によって組織された公教育と，家庭ないしは私塾による私教育の形態がある。しかし，教育の公教育化は，近代以降一般的であり..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[屯倉について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/145/]]></link>
			<author><![CDATA[ by bb01ca01]]></author>
			<category><![CDATA[bb01ca01の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 17 May 2005 04:29:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/145/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432413201@hc05/145/" target="_blank"><img src="/docs/983432413201@hc05/145/thmb.jpg?s=s&r=1116271797&t=n" border="0"></a><br /><br />古代大和朝廷の直轄領。稲を収納する倉を中心に，田地や耕作民を伴うようになり，大和朝廷の経済基盤となった。《日本書紀》によれば 4，5 世紀に大和朝廷の根拠地に近い大和，河内に屯倉が置かれるようになったが，それは池溝開発や築堤などの灌漑治水事[352]<br />屯倉について
古代大和朝廷の直轄領。稲を収納する倉を中心に，田地や耕作民を伴うようになり，大和朝廷の経済基盤となった。
〈みやけ〉の本義は、《古事記》に三宅，屯家などと記されているように，
(1)大和朝廷の政治的軍事的拠点としての建物そのものであり，
(2)倉や田地を伴うのは副次的性格であるとの見解も出され，
(3)また設置年代も《古事記》《日本書紀》の記事をそのまま信用することはできず，
とりわけ初期の開墾地系屯倉の実在は疑わしく，
開墾地系屯倉設置の画期は推古朝にあったとの研究もあり，
いまだその実態は十分解明できているとはいいがたい。
また 646 年 (大化 2) 正月の〈大化改新詔〉..]]></description>

		</item>

	</channel>
</rss>