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		<title>タグ“儒教”の公開資料</title>
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		<description>タグ“儒教”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【佛教大学】_75点_東洋思想史_科目最終試験]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154518/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gassan]]></author>
			<category><![CDATA[gassanの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 26 Feb 2025 22:10:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154518/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/909497833794@hc25/154518/" target="_blank"><img src="/docs/909497833794@hc25/154518/thmb.jpg?s=s&r=1740575418&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信の東洋思想史2024年度の最終科目試験に合格（75点）したレポートです。限られた試験時間ですので、参考にしていただき、有効活用いただければと思います。[231]<br />1.秦の統一から前漢武帝期に至る思想の動向について述べなさい。

参考文献：井ノ口哲也著（2012年4月）『入門中国思想史』

秦の統一から前漢武帝期に至る思想の動向として、戦国末期の諸子百家思想から国家統一に向けての動き、秦から漢武に至る統一の思想、漢武時代における儒家思想の官学化といった流れを捉えることができる。
　諸子百家思想では、国をいかに治め、さらにその先に天下をいかに統一させるかという道理を説く人物たちが現れた。儒家として仁（他人への親愛の情）と礼（仁の具体行動）を重んじた孔子（論語）、孟子（性善説）、荀子（性悪説）の思想。墨家として兼愛で非攻、非楽で節用、光学・力学・幾何学を説いた墨子の思想。道家として道（人が人として守るべき教え）を追求した老子と荘子の思想。法家として成文法による統治を主張（法治主義）した韓非子の思想。そして、諸学派の優れた点を広く取り入れてあり、戦国時代の最後を締め括る戦国思想集大成の書として呂氏春秋が成立している。諸子百家の思想は、今後の中国思想史における根底をなすものである。
　前２２１年、秦が戦国の七雄の群雄割拠を平定しおえ、中央集権体制を樹立す..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　Q5103　東洋史概論　第1設題　(a)儒教　リポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140320/]]></link>
			<author><![CDATA[ by のちちを]]></author>
			<category><![CDATA[のちちをの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Apr 2020 12:49:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140320/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/929308359985@hc18/140320/" target="_blank"><img src="/docs/929308359985@hc18/140320/thmb.jpg?s=s&r=1586749765&t=n" border="0"></a><br /><br />☆2023年度も「参考になった」とのお声を複数寄せていただきました☆
2020年度佛教大学通信教育課程の合格リポートです。
科目コードが違っていても設題が同じであればお役に立てると思います。あくまで参考程度になされますようお願い致します[336]<br />(a)儒教は中国社会を理解する上で大きな意味をもつ思想である。それを中国の歴代王朝がどのように取り扱ってきたかについて述べよ。

本リポートでは、儒教の成立及び各王朝における儒教の変遷を述べていく。その後、儒教と中国国家についてまとめる。

（1）儒教（儒学）の創設
儒教の興りは春秋戦国時代の孔子を祖とする儒家の思想にある。彼は家族道徳による秩序をもって、混乱した社会を統治する徳治主義を唱えた。彼の思想は多くの弟子や孟子・荀子といった諸子百家に受け継がれていった。『論語』は弟子が孔子の述懐を記録したものである。
孔子の没後、性善説を唱えた孟子や性悪説を主張した荀子が儒教を流布した。また、荀子の弟子であった韓非や李斯が法と策略による国家統治を主張した法家を大成させた。
老子と荘子は平和な理想社会を作るには天地の根本原理である道に身を任せればよいという無為自然を説いた。
他にも血縁を越えた無差別の愛（兼愛）を説いた墨家、墨家の論法を発展させた名家が現れた。
その後、外交策を説いた蘇秦・張儀に代表される縦横家、兵法を講じた孫子、あらゆる事象を陰陽の組み合わせで考える陰陽家、国民皆農を主張した..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】2019～2022年度　漢文学Ⅰ　分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/138616/]]></link>
			<author><![CDATA[ by knk2]]></author>
			<category><![CDATA[knk2の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Oct 2019 10:55:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/138616/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/138616/" target="_blank"><img src="/docs/926362783876@hc19/138616/thmb.jpg?s=s&r=1571190918&t=n" border="0"></a><br /><br />2019～2022年度　漢文学Ⅰ　分冊1　合格レポートです。 
A評価をいただきました。
丸写しは控え、参考程度にお使いください。

孔子の思想について論述しなさい。 

〈ポイント〉 
教材の該当箇所をよく読んでまとめること[306]<br />2019～2022年度　漢文学Ⅰ　分冊1　合格レポート

孔子の思想について論述しなさい。
〈ポイント〉
教材の該当箇所をよく読んでまとめること。
〈キーワード〉　
論語・宗教観・上帝・天・儒教
〈参考文献〉
日大通信テキスト
本当にわかる漢文入門（講談社学術文庫　２０１８）

1、孔子という人物について
孔子は紀元前552年に中国の魯の国の昌平郷、陬邑に生まれる。名は丘、字は仲尼といい孔丘が正式な姓名である。孔子の「子」は男子の尊称であったため「孔先生」という意味になる。
孔子が三歳の時に父親を亡くし、貧窮のうちに独学で詩書礼学等の学問を治めた。身を起こして魯の国に従えた孔子は大司寇にまで任命されて活躍したが、魯の国政の乱れに憤りを覚え魯を去ったのである。
孔子は、周が殷を打ち破り天下統一したころの馥郁とした文化の復興を理想としていたが、理想とする政治の理念は受け入れられなかった。
十数年にわたり衛・陳・楚の国を巡り理念を説いて回ったが、69歳の時に魯に帰って古典文献の編纂に専念したとされる。
彼の理想はあまりに高く、潔癖すぎる性格だったためまったく世に受け入れられず、弟子たちに望み..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[儒教的死生観 中国哲学レポート 評価Ａ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930173688903@hc18/134750/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みなぎ]]></author>
			<category><![CDATA[みなぎの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 28 Jul 2018 15:45:16 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930173688903@hc18/134750/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930173688903@hc18/134750/" target="_blank"><img src="/docs/930173688903@hc18/134750/thmb.jpg?s=s&r=1532760316&t=n" border="0"></a><br /><br />中国哲学の授業で提出し、Ａ評価を頂いたレポートです。
「儒教的死生観とは何か」と言うテーマで、日本人の死生観と照らし合わせながら論じました。
参考文献を参照しながら、2400字程度で論じています。
学習に役立てていただければ幸いです！[340]<br />儒教的死生観とは何か ― 日本人の死生観への影響を探る
1.はじめに
本論文では、日本人の死生観に影響を与えた、儒教の死生観の検討を目的とする。一般的に日本における「先祖供養」や「祖霊崇拝」などの習慣は、仏教による影響が大きいと思われている。しかし実際は、儒教の死生観に強く影響されている。そこで、本論文ではまず儒教の重要概念である「孝」について整理する（第２章）。続いて、儒教における死生観の「魂魄（こんぱく）説」について検討する（第３章）。そして最後に仏教の死生観を参照したうえで（第４章）、日本の死生観の由来を探る（第５章）。
2.「孝」と祖先崇拝
　本章では儒教の中心概念である「孝」について検討するとともに、儒教の特徴的な死生観である祖先崇拝についても見てゆく。
　儒教はまず、身近なところから、段階的に徳の適用範囲を広げることを教えの原理にしている。まず、社会の基本単位としての「家」があり、「家」の原理を共同体レベルに広げ、さらに国家にまで拡大することで、徳治主義が実現できると説く。
　そして、この「家」の土台を盤石にするために登場するのが、「孝」という考え方である。儒教においては、..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[W0103　社会福祉史　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></link>
			<author><![CDATA[ by allA]]></author>
			<category><![CDATA[allAの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Apr 2018 16:59:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934207734182@hc17/133579/" target="_blank"><img src="/docs/934207734182@hc17/133579/thmb.jpg?s=s&r=1523433540&t=n" border="0"></a><br /><br />w0103　社会福祉史　リポート第2設題

評価Ａ

｢レポートの書式がきちんととられていて、設題の意図・意味することの理解も結語も適切である｣とのコメントを頂きました。

テキスト以外にも参考文献を記載していますので、リポート[324]<br />｢前近代(第一段階)における仏教の救済(慈悲の実践)についてその内容と特徴を論述しなさい。｣

はじめに
　仏教における慈悲とは、人間同士の愛他理念を内包する宗教実践である。人々を｢自他不二｣とみる実践が、対象とする人々に福祉をもたらし、結果として、福祉の実践となったのである。日本においても、六世紀に仏教が伝来して以来、社会構造の変化の中であり方を大きく変えながら、慈悲の実践に福祉は見出されてきた。
本稿では、前近代における、国家的慈恵による福祉実践と比較をした上で、仏教の救済による福祉実践の内容と特徴について述べる。
前近代の社会背景
　各時代の制約を受けながら展開されてきた生活の共同の営みは、福祉の歴史でもある。福祉のあゆみは大きく三つの段階に区分することができる。前近代はこの第一段階にあたり、共同体の規制や身分制を前提とした政治的、宗教的共済や共同体内部の共済を中心とする時代である。
前近代では、人間が生きていくための社会共同が人格を無視し、個人の自立的判断を認めない共同体により地域社会の規則を強制され、権力者により支配される抑圧的構造があった。この前近代の福祉は、人間解放を認め..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R0707　外国史　科目最終試験　解答例]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/98512/]]></link>
			<author><![CDATA[ by storm3104]]></author>
			<category><![CDATA[storm3104の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 17 Nov 2012 20:20:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/98512/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951381166701@hc11/98512/" target="_blank"><img src="/docs/951381166701@hc11/98512/thmb.jpg?s=s&r=1353151210&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学　外国史の科目最終試験についての解答例です。過去の問題から、複数項目から一つ選んで解答というパターンなので、選んだ項目についてのみ、概要を記述しています。長めの記述もありますが、試験にあたっては、各項目の全体像を把握し、ポイントをし[360]<br />R0707外国史
●次からひとつ選択して解答せよ
①華北を統一した北魏の政策の特徴について
②アヘン戦争が起った背景とその結果について
1600年の東インド会社設立後、勢いを増したイギリスの貿易は、中国に大きな影響をもたらした。インドを中継地とした三角貿易をはじめ、そしてそれがアヘン戦争の端緒となる。18世紀、清朝はキリスト教を禁じ貿易も制限。1757年以降、外国貿易は広州１港に制限し、広東税関を置き、外国貿易を制限した。中国の茶、絹、陶磁器をヨーロッパに、毛織物やインド綿花を中国に運ぶイギリス貿易は18世紀以降、輸入超過となり、銀の流出が激しくなっていった。そこでそれを是正するため、イギリスはインドのアヘンを中国に輸出。中国でのアヘン吸引、普及とともにアヘン貿易が拡大、今度は中国から大量の銀が流出し始めることになった。ここで中国の広東税関、公行の存在が障害となる。そこでイギリスは1792年マカートニー、1816年にアマースト、34年にネーピアを中国に派遣し、貿易改善を図るが、うまくいかなかった。その頃イギリスでは東インド会社の貿易独占権が廃止され、イギリス商人は自由に中国に進出できるようになっていたため、中国市場の開放を求める機運が高まっていた。
　一方中国では年々増えるアヘンの輸入によって銀の流出による財政困難だけではなく風紀・衛生上にも問題があり、しばしばアヘン禁令を出すが効果がなかった。
道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し広州に派遣。林はアヘンを厳禁するとともに外国商人のアヘンを強制没収し海に流した。これに対してイギリスは1839年宣戦布告。アヘン戦争が始まった。
　中国は和平交渉をし、川鼻条約が成立するも、清朝は再び強硬論に転じ、イギリスも攻撃再開。1841年に広州、続いてアモイ、鎮海、寧波を占領し南京にせまる。1842年、ついに清朝はイギリスの要求を受け入れて南京条約を結ぶ。条約は上海、広州、寧波、福州、アモイの５港開港、香港割譲、多額の賠償金、公行廃止、関税の設定などであり、戦争の直接原因のアヘン貿易に関する規定は何もなく、戦前を上回るアヘン密輸入が行われた。43年には虎門条約、44年にアメリカやフランスとも条約を結び、中国は半植民地社会へと変わっていった。
●次から一つ選んで解答せよ
①元朝の成立の過程と、内政について述べなさい
②文化大革命がなぜ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アジア史第一・第二設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93984/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 05 Jun 2012 13:18:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93984/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93984/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/93984/thmb.jpg?s=s&r=1338869909&t=n" border="0"></a><br /><br />2012年度　アジア史第一、第二設題セットです

第一設題：儒教・道教・仏教は中国社会を理解する上で大きな意味をもつ思想である。これらのなかから一つを選択して、それを中国の歴代王朝がどのように取り扱ってきたのかについて述べよ
*儒教を選択し[344]<br />第一設題：(a)儒教・道教・仏教は中国社会を理解する上で大きな意味をもつ思想である。これらのなかから一つを選択して、それを中国の歴代王朝がどのように取り扱ってきたのかについて述べよ
　本レポートでは、儒教を取り上げることとし、以下では、儒教の誕生とその思想の概要、さらに中国歴代王朝が儒教をどのように取り扱ってきたのかについて述べる。
1．儒教と孔子　
儒教の創始者は孔子である。彼は、春秋時代の魯の生まれで、洛陽で周の官吏から周の制度・儀礼を習った。彼は周的な礼の秩序をもって混乱した社会を周の初期のころの状態に復帰させることを目的とし、徳治主義を唱えた。人間の愛情(仁)がもっとも強いのは家族愛であるから、各人がその心を推し広げれば天下はおのずから平和になるというのが彼の政治思想である。当時は、孔子の思想を理想論であると見て受け入れる諸侯は無かったが、彼の死後、儒教は孟子などの優れた弟子たちによって支持層を広げ、漢代には武帝により国教とされるに至った。以来儒教は、中国の政治や社会の思想的基盤として重んじられることとなった。
2．中国歴代王朝における儒教の取り扱い
　以下では、春秋戦国時代に孔子によって創始された儒教がそれ以降の各時代においてどのように取り扱われてきたかについて述べる。
2－1．春秋戦国時代(前770―前221）
孔子が生まれた時代である春秋戦国時代には、周王朝の権威の衰退が進むとともに、実力本位の下剋上の風潮が強まった。そうした中で、孔子が創始した儒教は、周時代の礼節を重んじる徳治主義を主張したため、覇権を争う諸侯からは時代の流れにそぐわない理想主義と捉えられ、用いられることはなく普及しなかった。
2－2．秦時代（前221―202）
秦の始皇帝は、宰相に李斯を登用し法家理念に基づき皇帝独裁と中央集権体制の強化に力を注いだ。法家の思想は、儒家の「礼」による規制を一歩強めて法によって規制するという考え方である。つまり、法家の理念はたぶんに儒家に根ざしていると言えるのである。しかし、「焚書坑儒」と呼ばれる学問・思想の統制を行い、主に儒家に対する弾圧を行った。
2－3．前漢・後漢時代（前漢：前202―後8）（後漢：25―220）
6代目・景帝のころに国の基礎が固まるにつれて儒学を学ぶ者が多くなってきた。次の武帝は、儒学の精神に基づいた官吏登用制度として孝廉の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アジア史第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93982/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＊＊るか＊＊]]></author>
			<category><![CDATA[＊＊るか＊＊の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 05 Jun 2012 13:18:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93982/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/950915929819@hc11/93982/" target="_blank"><img src="/docs/950915929819@hc11/93982/thmb.jpg?s=s&r=1338869900&t=n" border="0"></a><br /><br />2012年度　アジア史のレポートです。
第一設題：儒教・道教・仏教は中国社会を理解する上で大きな意味をもつ思想である。これらのなかから一つを選択して、それを中国の歴代王朝がどのように取り扱ってきたのかについて述べよ

儒教を選択しました[340]<br />第一設題：(a)儒教・道教・仏教は中国社会を理解する上で大きな意味をもつ思想である。これらのなかから一つを選択して、それを中国の歴代王朝がどのように取り扱ってきたのかについて述べよ
　本レポートでは、儒教を取り上げることとし、以下では、儒教の誕生とその思想の概要、さらに中国歴代王朝が儒教をどのように取り扱ってきたのかについて述べる。
1．儒教と孔子　
儒教の創始者は孔子である。彼は、春秋時代の魯の生まれで、洛陽で周の官吏から周の制度・儀礼を習った。彼は周的な礼の秩序をもって混乱した社会を周の初期のころの状態に復帰させることを目的とし、徳治主義を唱えた。人間の愛情(仁)がもっとも強いのは家族愛であるから、各人がその心を推し広げれば天下はおのずから平和になるというのが彼の政治思想である。当時は、孔子の思想を理想論であると見て受け入れる諸侯は無かったが、彼の死後、儒教は孟子などの優れた弟子たちによって支持層を広げ、漢代には武帝により国教とされるに至った。以来儒教は、中国の政治や社会の思想的基盤として重んじられることとなった。
2．中国歴代王朝における儒教の取り扱い
　以下では、春秋戦国時代に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[死生観と生活の中の宗教～その伝統的な形と近現代における変容～]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66869/]]></link>
			<author><![CDATA[ by spoon]]></author>
			<category><![CDATA[spoonの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 May 2010 12:11:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66869/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956085710987@hc10/66869/" target="_blank"><img src="/docs/956085710987@hc10/66869/thmb.jpg?s=s&r=1273547510&t=n" border="0"></a><br /><br />死生観と生活の中の宗教
～その伝統的な形と近現代における変容～
　本論は「死生観と生活の中の宗教」をテーマとする。まず、中国人の死生観を伝統的なものから現代に至るまで整理する。次に、生活の中の宗教の例として、死生観・宗教観が強く反映されるであろう「墓・安葬方式」を取り上げ、その伝統的な形と近代・現代における変容を整理する。それらを日本の場合と比較しつつ、両者の共通点や特徴をみていく。
＜死生観―自然の影響と混淆性―＞
①中国人の伝統的な死生観
　中国人の死生観において興味深いのは、それぞれの気候風土から死生観が作られている点である。
　北方は乾燥した気候風土のため、死体はすぐには腐敗しない。特に古代文明の中心地だった黄河中流域では、死体はすぐには腐敗せずミイラ化することもあり、死んだ人は生きた人と一緒に「ずっと生きている」とする考え方もある。また、墓室は死んだ人の家とされ、古くから生活に密着した副葬品が納められた。人間は地下で「生き続ける」という考え方である。
　一方、湿った気候風土の南方では、死体はすぐに腐敗・解体する。道家的発想で「生とは天からの気たる精神と地からの気たる肉体との合..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[韓国プロテスタント追悼式の現状]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61909/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gensuke]]></author>
			<category><![CDATA[gensukeの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 14 Jan 2010 23:35:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61909/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61909/" target="_blank"><img src="/docs/958138276142@hc09/61909/thmb.jpg?s=s&r=1263479751&t=n" border="0"></a><br /><br />儒教の根付く韓国におけるプロテスタント教会がどのように追悼式を行っているかについて論じている。[141]<br />韓国プロテスタント教会では、伝来初期から伝統的な忌祭祀を否定することを原則としている。だからといって既存の忌祭祀と完全に断絶したかといえば、そうではない。名称と形式は違うが、「追悼式」または「追悼礼拝」という名で、ほとんどの家庭で行われているからである。現在の韓国プロテスタントの追悼式は既存の忌祭祀文化と慣例して形成された儀礼だといえる。
では、韓国プロテスタントの追悼式と伝統忌祭祀の違いは何だろうか。
まず名称が違う。伝統的な儒教式の祭祀は「忌祭祀」または「忌日祭祀」「祭祀」と呼ぶが、プロテスタントでは「追悼式」あるいは「追悼礼拝」と呼ぶのが一般的である。
次に女性も同等に参加する。伝統的な忌祭祀の場合には、いまだに男性がその主体として参加し、女性は祭物を準備し補給する手伝いの役割をするのが一般的なのに対し、キリスト教の追悼式では男女全員が同じ席に付き、始まりから終わりまで一緒に行う。
　そして、故人に捧げるのではなく、あくまで神に捧げるのであり、さまざまな手順がなかったり、違ったりする。その一つ目は、位牌などがなく、その代わりに故人の写真を置いて行ったり、何もないまま行ったりもする..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[韓国人と祖先祭祀]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61908/]]></link>
			<author><![CDATA[ by gensuke]]></author>
			<category><![CDATA[gensukeの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 14 Jan 2010 23:32:36 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61908/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958138276142@hc09/61908/" target="_blank"><img src="/docs/958138276142@hc09/61908/thmb.jpg?s=s&r=1263479556&t=n" border="0"></a><br /><br />韓国人の儒教式祖先祭祀の社会性と宗教性について論じている。[87]<br />三国時代と高麗時代には国教である仏教がすべての領域において大きな影響を及ぼしていた。したがって、当時の祖先祭祀は家系継承とは関係なく、祖先崇拝の一環として行われたし、先祖の位牌も寺院に安置し僧侶の手を借りて供養を行っていた。このようにすべてを寺院が担当していたので、祭祀を行う方式も仏教式祖先供養の形態を取っていた。当時は儒教の家族理念がまだ導入されていなかったことから、家系継承のために祖先祭祀を受け継ぐという認識も極めて稀薄であった。したがって、すべての子女が、寺院に祀られている先祖のために供養物を準備するなど、平等な権利と義務を果たしていた。つまり、特定の個人が祖先祭祀を独占することなく、交替で祖先祭祀を担当していた。
　ところが、高麗末期・朝鮮初期に儒教が導入されると、仏教にかわって儒教式祖先祭祀が定着するようになる。以後18世紀を基点に確固たる定着を図った儒教理念は、祖先祭祀をはじめすべての領域において儒教化を行っていく。これによって、祭祀の形式のみならず継承方式もそれ以前の時代と明確に区分されるようになる。すなわち、仏教の影響の下ではすべての子女に均等な機会が与えられていた祖..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[アジア史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56678/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kazukichan]]></author>
			<category><![CDATA[kazukichanの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 25 Oct 2009 23:35:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56678/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/kazuki/56678/" target="_blank"><img src="/docs/kazuki/56678/thmb.jpg?s=s&r=1256481341&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[アジア史(第一設題)レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957810918627@hc09/56610/]]></link>
			<author><![CDATA[ by boatboy1984]]></author>
			<category><![CDATA[boatboy1984の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Oct 2009 22:02:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957810918627@hc09/56610/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957810918627@hc09/56610/" target="_blank"><img src="/docs/957810918627@hc09/56610/thmb.jpg?s=s&r=1256216567&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[萩への朝鮮人の流入]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429521201@hc06/48499/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yamakou]]></author>
			<category><![CDATA[yamakouの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 15 May 2009 01:46:10 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429521201@hc06/48499/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429521201@hc06/48499/" target="_blank"><img src="/docs/983429521201@hc06/48499/thmb.jpg?s=s&r=1242319570&t=n" border="0"></a><br /><br />萩への朝鮮人の流入
＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝
１．萩への朝鮮人の流入
◎文禄慶長の役（1592~1593、1597～1598）と萩焼の起こり
・豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって、[318]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アジア史第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/47755/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yutyan0304]]></author>
			<category><![CDATA[yutyan0304の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 07 May 2009 19:54:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/47755/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962565630823@hc08/47755/" target="_blank"><img src="/docs/962565630823@hc08/47755/thmb.jpg?s=s&r=1241693678&t=n" border="0"></a><br /><br />中国社会を理解するキーワードの一つに儒教がある。中国歴代王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい。
　儒教とは春秋時代の孔子により大成された哲学・思想である。孔子は、周の時代の厳しい身分制度によって保たれて[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[アジア史（）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15106/]]></link>
			<author><![CDATA[ by manila]]></author>
			<category><![CDATA[manilaの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 14 Nov 2007 21:12:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15106/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430621101@hc06/15106/" target="_blank"><img src="/docs/983430621101@hc06/15106/thmb.jpg?s=s&r=1195042350&t=n" border="0"></a><br /><br />『中国社会を理解するキーポイントの一つに儒教がある。中国の歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい』
中国の王朝において儒教が与えた非常に影響は大きいと考えられる。儒家の創始者である孔子は、実力主義が[356]<br />『中国社会を理解するキーポイントの一つに儒教がある。中国の歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい』
中国の王朝において儒教が与えた非常に影響は大きいと考えられる。儒家の創始者である孔子は、実力主義が横行し、身分制秩序が崩壊しつつあった周末に魯の国に生まれた。周的な礼の秩序により混乱した社会を周初に復帰させることを目的として、徳治主義を唱えた。人間の愛情（仁）がもっとも強いのは家族愛で、その心を推し広げれば天下は平和になるという政治思想のもとで儒教が生まれた。
孔子の死後、戦国時代に入り孟子が儒家の教えを広めることとなる。孟子は人の性の本質は善であるとする性善説を唱え、有徳者の政治こそ王道政治であるとし、「徳」のない者を打倒して有徳者に交代させることは天意にかなうものとする易姓革命を主張した。
その一方、戦国末には荀子が孟子の性善説に反対し、人間の本性は利欲を求めるものであるとする性悪説を主張する。この悪を規制し善に導くには先賢の設けた「礼」によるより他に方法はないと主張した。この礼による規制を一歩強めて、法により規制すると考えるなら、そのまま法家..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[武士道に置いての「義」の意味]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431648401@hc05/11356/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 未熟児の卵]]></author>
			<category><![CDATA[未熟児の卵の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 07 Nov 2006 21:51:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431648401@hc05/11356/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431648401@hc05/11356/" target="_blank"><img src="/docs/983431648401@hc05/11356/thmb.jpg?s=s&r=1162903917&t=n" border="0"></a><br /><br />&lt;序章&gt;　私は卒論のテーマを何にするかと具体的に決めているわけではない。しかし、今回は「武士道」という姿勢に注目してみることにした。
　それは、武士道が単に、日本の歴史上に存在した武士達の生き様を映しているのではなく、日本には数知れない宗[352]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[道徳教育の歩みについて]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431064501@hc06/9389/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nikuokue]]></author>
			<category><![CDATA[nikuokueの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 06 Jul 2006 09:09:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431064501@hc06/9389/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431064501@hc06/9389/" target="_blank"><img src="/docs/983431064501@hc06/9389/thmb.jpg?s=s&r=1152144573&t=n" border="0"></a><br /><br />道徳教育の歴史は大きく二つに分ける事が出来る。一つは明治から始まり第二次世界大戦が終結するまでの国家主義的道徳教育の時代。もう一つは戦後から今に至るまでの民主主義的道徳教育の時代である。では順をおって道徳教育の歴史を紐といてみよう。
　1[354]<br />　　　　　　　　道徳教育の歩みについて
　道徳教育の歴史は大きく二つに分ける事が出来る。一つは明治から始まり第二次世界大戦が終結するまでの国家主義的道徳教育の時代。もう一つは戦後から今に至るまでの民主主義的道徳教育の時代である。では順をおって道徳教育の歴史を紐といてみよう。
　1872年の学生発布により、日本発の近代的学校制度が成立した。学生発布により道徳教育は江戸時代の儒教倫理による道徳教育観ではなく、西洋の実学知を重視した福沢諭吉の啓蒙主義理念が根底にあるものにとって変わった。それは一身の独立により一国の独立が達成されるという個人主義的道徳であった。1880年には前年に発布した教育令の改正に伴い道徳教育は政府の施策として重視され、その内容は再び儒教道徳が強いものに変わった。しかしながら当時の政府は徳育の明確な方針を決しかねており、徳育の混乱と呼ばれる状況に陥っていた。1890年、この混乱を打開する為に教育に関する勅語が発布された。教育勅語は国体をベースとして儒教主義的道徳と西洋近代倫理が折衷された内容となっており、混乱していた国民道徳の基本が明示された。この教育勅語は第２次世界大戦..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[各国のルソー受容]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431364001@hc05/4185/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lawyerroushi]]></author>
			<category><![CDATA[lawyerroushiの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 20 Dec 2005 10:58:48 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431364001@hc05/4185/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431364001@hc05/4185/" target="_blank"><img src="/docs/983431364001@hc05/4185/thmb.jpg?s=s&r=1135043928&t=n" border="0"></a><br /><br />１、	儒学の理解
　儒学とは、儒教 の理想を、四書五経などの経典の研究をつうじてもとめる学問のことである。四書とは、『大学』『論語』『孟子』『中庸』であり、五経とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』である。儒学の祖である孔子は、不幸[352]<br />儒学の理解
儒学とは、儒教 の理想を、四書五経などの経典の研究をつうじてもとめる学問のことである。四書とは、『大学』『論語』『孟子』『中庸』であり、五経とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』である。儒学の祖である孔子は、不幸の向こう側にある普遍的真理を求めるという思想の過程をとった。
　
「体制に随伴して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし、体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。－中略－変革者は必ず思想家でなくてはならない。－中略－それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、反体制者として扱われる。講師は、そのような意味で範体制者であった。」（白川静『孔子伝』（中公文庫）１１９ページ）
このように、孔子は反体制思想と結びつきうる。
また、孟子は、天の意志が民意を通して現れてくるという民本思想を説いた。そして、そこから、民の支持を受けた者が天下を統べるのは天の意志にかなう、という思想をもっていたとも解釈しうる。
２、個より全―国家主義者としてのルソー
　まず、ルソーの思想の前提として二十意志..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[儒教について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3259/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pugpug27]]></author>
			<category><![CDATA[pugpug27の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 19 Nov 2005 01:03:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3259/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3259/" target="_blank"><img src="/docs/983431710501@hc05/3259/thmb.jpg?s=s&r=1132329789&t=n" border="0"></a><br /><br />儒教は東アジア諸国で2000年以上にわたり強い影響を及ぼしている。生命論としての考を基礎として、後の儒教はこの上に家族倫理を作り、さらにその上に社会倫理（政治理論）を作った。儒教を語る上で欠かせない人物は孔子である。孔子は、紀元前551年‐[346]<br />儒教について
儒教は東アジア諸国で2000年以上にわたり強い影響を及ぼしている。生命論としての考を基礎として、後の儒教はこの上に家族倫理を作り、さらにその上に社会倫理（政治理論）を作った。儒教を語る上で欠かせない人物は孔子である。孔子は、紀元前551年‐紀元前479年）は春秋時代の中国の思想家で氏は孔、名は丘、字は、は。孔子とは尊称（子は先生という意味）でとおくり名されている。
儒教の始まり
まず儒の始まりはシャマニズムであり考という考え方である。シャマニズムとは死者の魂降ろしや、招魂再生である。孝とは「生（生きている親）に（対して）は、これに事うるに礼をもってし、（親の）死に（対して）は、これを葬るに礼をもってし、（忌日などに、祖先）これを祭るに礼をもってす。」と孔子は言った。儒という思想は孔子以前に中国に存在したが、孔子によって体系化され儒教になった。その際に孔子はまず儒教を大きく２つに分け一つを君子儒、もう一つを小人儒にわけた。君子儒とは王朝の祭祀儀礼や古伝承の記録担当官と遠く関わりを持つ知識人系上層の儒のことである。小人儒とは祈祷や喪葬を担当するシャーマン系下層の儒である。そし..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[朱子について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3033/]]></link>
			<author><![CDATA[ by pugpug27]]></author>
			<category><![CDATA[pugpug27の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 10 Nov 2005 20:31:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3033/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431710501@hc05/3033/" target="_blank"><img src="/docs/983431710501@hc05/3033/thmb.jpg?s=s&r=1131622304&t=n" border="0"></a><br /><br /> 名は熹、字は元晦、号は晦庵（１１３０〜１２００）である。朱熹のことを朱子と呼ぶのは尊敬の意を表している。朱子が生きた時代は、中国の王朝名でいえば宋の時代である。朱子は１９歳で科挙に合格し、左迪功の官位を授かり、泉州同安県（福建省）の主簿に[358]<br />朱子
(原文) 
少年易老学難成　　　　　　　　　　　　　少年老い易く学なり難し
一寸光陰不可軽　　　　　　　　　　　　　一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢　　　　　　　　　　　　　未だ覚めず池塘春草の夢
階前梧葉已秋声　　　　　　　　　　　　　階前の梧葉已に秋声
　上の詩は秋学期に取り上げた思想家&ldquo;朱子&rdquo;によるものです。私は朱子について書きたいと思います。
名は熹、字は元晦、号は晦庵（１１３０～１２００）である。朱熹のことを朱子と呼ぶのは尊敬の意を表している。朱子が生きた時代は、中国の王朝名でいえば宋の時代である。朱子は１９歳で科挙に合格し、左迪功の官位を授かり、泉州同安県（福建省）の主簿に任命されたのを振り出しに、以後、南康軍の知事、浙東の荒政の責任者、漳州の知事、潭州の知事、天子の講官などを歴任し、特に廬山の白鹿洞書院の復興を始めとする文教立て直しの政策に力を入れ、また飢餓救済、農民の税負担の軽減、農地改革など、農民の生活の安定に尽力した。朱子は、官僚政治家としては、必ずしも成功した人とは言えない。むしろ挫折することのほうが多かった。彼は理想主義者で、狷介な性格をしていたの..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の市民社会]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/2080/]]></link>
			<author><![CDATA[ by go55go]]></author>
			<category><![CDATA[go55goの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 04:46:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/2080/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432257401@hc05/2080/" target="_blank"><img src="/docs/983432257401@hc05/2080/thmb.jpg?s=s&r=1122752799&t=n" border="0"></a><br /><br />最初に、市民社会に関する一般的な定義について行おう。市民社会とは、市民によって構成された社会、もしくは市民が社会の中心的な担い手になる社会のことをいう。歴史的には、十七世紀イギリス（ピューリタン革命・名誉革命）、十八世紀フランス（フランス革[360]<br />最初に、市民社会に関する一般的な定義について行おう。市民社会とは、市民によって構成された社会、もしくは市民が社会の中心的な担い手になる社会のことをいう。歴史的には、十七世紀イギリス（ピューリタン革命・名誉革命）、十八世紀フランス（フランス革命）で、封建的土地所有制度・身分制度の廃棄と絶対王政の打倒を目的とした、市民革命の結果生み出された社会のことであり、近代社会を資本主義社会とともに特徴づけるとされている。 　次に市民社会に関する代表的な見解について考えてみる。一つは市民社会における資本家階級と労働者階級の利害対立に注目する、ヘーゲル、マルクス的な考え方、もう一つは管理主義的な国家と市民社会の対立に着目する「新しい社会運動」の見方がある。 　では、市民社会に関するヘーゲルとマルクスの見解を述べていこう。ヘーゲルによれば、市民社会とは、諸個人が「私人」として、自分個人の経済的利益を追求してせめぎ合う社会である。しかし、ここにおける利害の競合関係は結果としてどの成員の意思からも疎遠で客観的な「社会法則」（市場法則など）を存立させてしまうという。この矛盾を弁証法的に解決したものとして、ヘーゲ..]]></description>

		</item>

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