<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:taxo="http://purl.org/rss/1.0/modules/taxonomy/" xmlns:activity="http://activitystrea.ms/spec/1.0/">
	<channel>
		<title>タグ“会津”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E4%BC%9A%E6%B4%A5/</link>
		<description>タグ“会津”の公開資料</description>
		<language>ja-JP</language>
		<generator uri="http://www.happycampus.co.jp/" version="1.0">happycampus rss generator</generator>
		<docs>https://www.happycampus.co.jp</docs>
		<managingEditor>cs@happycampus.co.jp</managingEditor>
		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[近世城郭に関する考察]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayamine]]></author>
			<category><![CDATA[ayamineの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2007 23:34:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12484/" target="_blank"><img src="/docs/983432223901@hc05/12484/thmb.jpg?s=s&r=1168007690&t=n" border="0"></a><br /><br />進級して本格的に城に興味を持ち始めた私は、今年５月に会津若松城を訪れた。鶴ヶ城（会津若松城の俗称）北口でバスを降り、高い石垣に囲まれた北出丸へと入ると、石垣の上に天守閣が顔を出している。そして北出丸の反対側の門・西門は、堀の向こうに天守閣が[360]<br />進級して本格的に城に興味を持ち始めた私は、今年５月に会津若松城を訪れた。鶴ヶ城（会津若松城の俗称）北口でバスを降り、高い石垣に囲まれた北出丸へと入ると、石垣の上に天守閣が顔を出している。そして北出丸の反対側の門・西門は、堀の向こうに天守閣が良く見えるベストスポットである。
しかし、城郭構造の初歩を学んだ現在の目で見るとこれはおかしいではないか。北出丸から天守閣の写真が良く撮れる城など、堅城とは到底言い難い。
戊辰戦争の激戦地となった会津若松城は、余りに長大過ぎた惣構えこそ役に立たなかったが、城郭部分のみの防御で１ヶ月以上も篭城に耐えたという堅城であったはずである。
　幸い会津若松城の正保城絵図はすぐに見つけることができたが、それによる往時の会津若松城の姿は、北出丸は横矢掛けのきく２箇所の虎口に守られ、郭を成す石垣の上には更に屋根付きの塀が乗っていたことが分かる。
これならば北出丸から天守閣を見透かされることは無い。それどころか、屋根付きの塀と虎口、そしていくつかの櫓を伴うと、この出島は急に堅固な防壁へと変貌する。これは本丸に続く他の２つの出島・西出丸、二の丸においても同じであるから、周..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ 会津の戊辰戦争について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ayamine]]></author>
			<category><![CDATA[ayamineの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Jan 2007 23:20:59 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432223901@hc05/12483/" target="_blank"><img src="/docs/983432223901@hc05/12483/thmb.jpg?s=s&r=1168006859&t=n" border="0"></a><br /><br />会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実[354]<br />会津の戊辰戦争について
戊辰戦争で佐幕派の東北諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、官軍に対抗したことは有名である。
特に会津藩は居城・鶴ヶ城の落城まで徹底抗戦の姿勢を見せ、白虎隊や娘子隊等数々の悲劇を生んだ。
今尚美談として語られる会津の抵抗は、実際には膨大な犠牲を払った。何故この悲劇は防げなかったのであろうか。この抵抗は本当に正しかったのであろうか。
会津藩の立場
会津藩はいかにして徹底抗戦へと追い詰められたのであろうか。幕末に会津藩が立たされていた立場を分析したい。
まず、会津藩の佐幕傾向がいつ、どのような経緯で固まったのであろうか。
会津藩は奥州会津若松、鶴ヶ城を居城に持つ、公称２３万石の大藩である。藩祖は２代将軍徳川秀忠の第４子、３代将軍家光の異母弟である保科正之である。保科正之は幼少の家綱の後見役を任せられるなど家光からの信頼厚く、２００年の後に会津藩が幕府を支持する下地を作った人物とみられる。
寛文８年（１６６８）４月１１日に保科正之が江戸屋敷にて首席家老・田中正玄に授けて会津藩の方針を示したという「家訓１５カ条」 に因れば、
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』についての書評]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430096501@hc06/10997/]]></link>
			<author><![CDATA[ by purplehaze]]></author>
			<category><![CDATA[purplehazeの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 30 Sep 2006 06:09:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430096501@hc06/10997/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430096501@hc06/10997/" target="_blank"><img src="/docs/983430096501@hc06/10997/thmb.jpg?s=s&r=1159564190&t=n" border="0"></a><br /><br />この本は幕末、および明治維新における敗者、会津藩の視点から書かれたものである。内容は要約すると、以下のようなものである。明治維新は二つの顔を持っていると考える。戊辰戦争で勝った方の顔と、負けた方の顔である。維新史は勝った方の顔ばかり出てきて[360]<br />会津藩はなぜ「朝敵」か
～幕末維新史最大の謎～
著者　星　亮一
についての書評
この本は幕末、および明治維新における敗者、会津藩の視点から書かれたものである。内容は要約すると、以下のようなものである。明治維新は二つの顔を持っていると考える。戊辰戦争で勝った方の顔と、負けた方の顔である。維新史は勝った方の顔ばかり出てきて、負けた方はあまり出てこない。会津藩は負けた方なのでほとんど触れられなかった。そして勝った方だけが強調されて、明治維新は薩長土肥がやったのだと国民に教え込まれた。ここに明治維新の歪みがある。藩閥政治は自分たちを正当化することによって、その地位を守ってきた。その犠牲になったのは会津である。
明治維新は古の天皇の政治に復すという主張が強く出される。それと同時に王政復古にはどの藩が貢献したとか、勤皇であったのは何藩であったかが強く主張された。いわば王政復古の歴史観、あるいは勤皇史観という歴史観が明治維新史観を作り上げ、それが明治維新の成果であるといわれた。ここから天皇の軍隊は官軍、それに反対したのは賊軍という官賊史観が生まれ、これによって会津は賊であると評価されてしまった。会津..]]></description>

		</item>

	</channel>
</rss>