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		<title>タグ“人文地理学概論”の公開資料</title>
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		<description>タグ“人文地理学概論”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[日大通信　人文地理学概論　分冊Ⅱ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131775/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yushu]]></author>
			<category><![CDATA[yushuの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 12 Dec 2017 10:22:24 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131775/" target="_blank"><img src="/docs/934123471062@hc17/131775/thmb.jpg?s=s&r=1513041744&t=n" border="0"></a><br /><br />分冊Ⅱ早くから、大都市ロンドンに集中する人口増に苦しんできた英国においては、都市とは、また都市に居住するとは何かといった課題に、国民の多くが強い関心を持ってきた。一方、わが国の都市研究者たちも、大正末から昭和初期にかけて英国を度々訪れ、[356]<br />分冊２
産業革命の発祥の地であるイギリスでは19世紀全般を通して著しい都市成長によって、労働者の居住地域は高密度であり、公衆衛生の悪化など環境面でも劣悪な状況にあった。こうした居住環境と伝染病発生を改善すべく、民間の人々が都市を変え、生活を変えようと新たな都市計画が動き始めた。
エベネザー・ハワードの提唱によって田園都市運動が始まった。田園都市は住居と職場が近接し、その他の生活に必要なことは全てその都市内で行えるよう設計された自己完結型の都市である。ハワードは、このような田園都市が実現可能であることを詳細な建設方法と都市経営計画によって示し、1903年最初の田園都市としてレッチワースを完成させた。田園都市は、過密・過疎問題の解決策としては最も一般的であり、将来の理想的な都市を考える都市論の一つとしても田園都市が最適であるとされた。民間企業によって運営されたために、常に財政の問題が発生し、家賃も高く、富裕層しか田園都市に住むことができなかった現状もあったが、建設は果敢に進められていった。第二次世界大戦後になると、復興に加えて住宅不足解消の施策が重視された。過密地域からの分散政策の一環とし..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[日大通信　人文地理学概論　分冊Ⅰ・Ⅱ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131774/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yushu]]></author>
			<category><![CDATA[yushuの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 12 Dec 2017 10:22:24 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131774/" target="_blank"><img src="/docs/934123471062@hc17/131774/thmb.jpg?s=s&r=1513041744&t=n" border="0"></a><br /><br />分冊Ⅰ　地方都市の都心と、大都市圏内に位置するそれとの差異は、景観的に大きな違いがみられる。そこで、一つの都市域内に都心が「単核構造」を形成しているような事例地を、各自が国内から選びだし、都心(中心部)の近現代における変遷過程や現状につ[352]<br />分冊１
都心の中心部の変遷課程や現状の例として山形県山形市を挙げたい。２００５年の国税調査によれば山形市の人口は２５５９５９人であり、高度経済成長期から人口増加が見られてきた。山形市は東北６県の県庁所在地の中でも最も人口の少ない都市であるが、県内首位都市としての地位は大正期において既に確立しており、人口規模の優位性は維持されている。しかし、１９７０年以降、その他の都市が若干ながら人口を増やしており、これは山形市内での住宅供給が組織的に行われなかったために、山形市の持家購入希望者が市外に流出したことに起因している。
山形市の中心的商業地として挙げられるのは十日町を中心とした山形駅周辺の地区である。この地区には馬見ヶ崎川が流れており、歴史的核心地として発展を遂げてきた。この地は近世期初頭に最上義光によって築かれた城下町を空間的な基盤にしている。関ヶ原の戦いには直接参戦はしなかったが、東軍に属して上杉氏を東北に足止めしたことが評価され５７万石となり、山形城下は増封後に整備された東北有数の大城下町となった。しかし、義光の死後に起こったお家騒動により山形城下は衰退の一途をたどる。反面、大商人の個人資本による土地利用改変が進行し、山形城下は街道沿いに発展する商人を軸とした直線的な構造に変移した。幕末には５万石にまで縮小されていた山形藩であったが１８８９年に市制が施行されると庄内、最上、村山、置賜の４地方を束ねる政治経済の中心となり、人口の集積が進んでいったのである。２０００年の国勢調査によると、山形市の人口が山形駅を中心とする５km圏内に集中しており、総人口の７９．７％も占める。しかし、人口の増加率でみると横這いの状況にあり、更には駅から１～３キロ圏内においては―７．２％となっており、都心ドーナツ化現象を指摘することもできる。
人口の郊外への流出の要因として挙げられるのは郊外開発のよるものが大きい。山形駅周辺から３～５キロ圏の北部の馬見ヶ崎地区には１９９７年以降大型小売店が建設され、周囲にも多数の商業施設が配置され、大量の宅地分譲がなされた。また、２０００年には南北の吉原地区にも大型小売店が進出してきた。それぞれの大型小売店を中心とすると、自動車で約１５分圏内で市街地のほとんどがカバーされることとなる。地方における主な交通手段は自家用車であるため、郊外店舗は比較的容易に広範..]]></description>

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			<title><![CDATA[日大通信　人文地理学概論　分冊Ⅰ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131773/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yushu]]></author>
			<category><![CDATA[yushuの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 12 Dec 2017 10:22:23 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/934123471062@hc17/131773/" target="_blank"><img src="/docs/934123471062@hc17/131773/thmb.jpg?s=s&r=1513041743&t=n" border="0"></a><br /><br />問　地方都市の都心と、大都市圏内に位置するそれとの差異は、景観的に大きな違いがみられる。そこで、一つの都市域内に都心が「単核構造」を形成しているような事例地を、各自が国内から選びだし、都心(中心部)の近現代における変遷過程や現状についてまと[356]<br />分冊１
都心の中心部の変遷課程や現状の例として山形県山形市を挙げたい。２００５年の国税調査によれば山形市の人口は２５５９５９人であり、高度経済成長期から人口増加が見られてきた。山形市は東北６県の県庁所在地の中でも最も人口の少ない都市であるが、県内首位都市としての地位は大正期において既に確立しており、人口規模の優位性は維持されている。しかし、１９７０年以降、その他の都市が若干ながら人口を増やしており、これは山形市内での住宅供給が組織的に行われなかったために、山形市の持家購入希望者が市外に流出したことに起因している。
山形市の中心的商業地として挙げられるのは十日町を中心とした山形駅周辺の地区である。この地区には馬見ヶ崎川が流れており、歴史的核心地として発展を遂げてきた。この地は近世期初頭に最上義光によって築かれた城下町を空間的な基盤にしている。関ヶ原の戦いには直接参戦はしなかったが、東軍に属して上杉氏を東北に足止めしたことが評価され５７万石となり、山形城下は増封後に整備された東北有数の大城下町となった。しかし、義光の死後に起こったお家騒動により山形城下は衰退の一途をたどる。反面、大商人の個..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[人文地理学概論　分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/107470/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 26 Oct 2013 07:23:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/107470/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/107470/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/107470/thmb.jpg?s=s&r=1382739818&t=n" border="0"></a><br /><br />わが国の歴史的風土を保全するためには、これまでに種々の法的な取組みがみられた。そこで、テキスト中の5-1（P39）を参考にして、何か一つの法的な規制を取り上げ、詳細に解説しなさい。※主に景観法に触れている[295]<br />人文地理学概論　分冊1
参考文献：
日本大学自然科学紀要　第22号　歴史的風土に関する法的規制の地理学的考察
1987年　永野征男
都市問題研究　第58巻第3号　景観法をめぐる近年の動き
2006年　西村幸夫
景観に対する意識
日本では、既に良好な景観が形成されている地域、または古都や文化財といった特定の地区などに対しては個別に整備・保存を図る制度を設けていた（具体的には、都市計画法に基づく美観地区、風致地区、及び文化財保護法に基づく伝統的建造物群保存地区など）。また、特定地区以外の自治体においても、景観等に係わる自主条例などを用いて、景観の保全に取り組んでいた。
しかし、日本の景観整備は遅れており、無秩序に乱立するビル、そこかしこで視線を遮る電線や電柱、無国籍的デザインの住宅の群れ、雑然と立ち並ぶ看板や標識、海岸を埋め尽くすテトラポットなど、美しさとはほど遠い風景が都市や田園などでみられる｡これは、景観を整備・保全するための国民共通の認識が未熟であること、自主条例に基づく行為の届出勧告など手法に限界があったことなどが考えられ、自治体によっては景観行政を進める際に難航するケースがみられ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[人文地理学概論　分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/107428/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 暁]]></author>
			<category><![CDATA[暁の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 22 Oct 2013 22:52:32 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952717798646@hc11/107428/" target="_blank"><img src="/docs/952717798646@hc11/107428/thmb.jpg?s=s&r=1382449952&t=n" border="0"></a><br /><br />日本における近年の開発（とくに宅地開発）では、「土地区画整理法」を活用したものが多くみられる。そこで同法が、何ゆえに各地で用いられているのかを詳細に説明しなさい。[243]<br />人文地理学概論分冊2
参考文献：
土地区画整理法 －その理論と実際－　大場民男　新日本法規　1995/6/28
区画整理法は憲法違反　平野謙　潮出出版　1978/6/15　
土地区画整理法50講　下出義明　有斐閣　1974/10/5　
　
都市計画の母たる所以
　土地区画整理の制度が創設される以前は、農地の整備を目的にした耕地整理が主で、明治42年に耕地整理法が制定され、農地の整備と宅地の整備に多くの実績を残しつつあった。都市計画法は耕地整理による宅地開発の問題点を改善すべく新制度を創設したものであり、このことによって区画整理が「都市計画の母」となる礎ができたといえるだろう。
戦前から郊外地開発、あるいは関東大震災後の東京横浜の震災復興、第二次世界大戦後の全国的な戦災復興などでも基本的な事業手法として活用されてきた。
そのように考えると、用途地域制など土地利用規制が現実の都市化に対して、実効的なコントロールを及ぼすことができなかったわが国の都市計画において、街区を整える同事業が日本の街並みの形成に多大の実績を残しており、その貢献はきわめて重要なものといえ、『都市計画の母』と言われる所以..]]></description>

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			<title><![CDATA[人文地理学概論分冊2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96050/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 日大のクレイジータイガー]]></author>
			<category><![CDATA[日大のクレイジータイガーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 17 Aug 2012 10:11:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96050/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96050/" target="_blank"><img src="/docs/951309246590@hc11/96050/thmb.jpg?s=s&r=1345165905&t=n" border="0"></a><br /><br />わが国の都市開発は、この方面の先進地である英国に学ぶことが多い。つまりニュータウン政策も、その基本はイギリスにあった。これら一連の経緯は教科書pp.86-102に詳細に説明されている。そこで、この部分を十分に学習した上で、わが国を代表するニ[342]<br />今から10年前、私はイギリス南西部の町エクセターとボーンマスに語学留学した。ロンドンからエクセターまではバスでおよそ３時間。いくつかの都市を経由する度に、グリーンベルトと市街地を出入りする景観の美しさに見とれながら目的地に到着した。エクセターの人口はおよそ12万人で、中心地は「City Centre」である。一方、リゾート地として知られるボーンマスの人口はおよそ17万人で、エクセターと比べ人口の流入が多いものの、中心地は「Town Centre」である。当時の語学学校教師からそれらの違いについてレクチャーを受けたことを私は今も記憶している。「City」とは大聖堂を有する都市であり、英国国教会の首長であるエリザベス女王からの宣旨を受けなければならない。「Town」は人口の大小を対象としない比較的新しい都市（ニュータウン）を指していたのである。
先述の通り、ニュータウン構想の発祥の地はイギリスである。産業革命後、都市へ大量の労働力の需要が生じ、地方の農村から工業都市への労働人口の流入が激しくなった。その結果、工場周辺の住宅街では大気汚染・コレラなどの伝染病が蔓延するなど住宅環境は悪化の一途..]]></description>

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			<title><![CDATA[人文地理学概論分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96049/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 日大のクレイジータイガー]]></author>
			<category><![CDATA[日大のクレイジータイガーの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 17 Aug 2012 10:11:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96049/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951309246590@hc11/96049/" target="_blank"><img src="/docs/951309246590@hc11/96049/thmb.jpg?s=s&r=1345165905&t=n" border="0"></a><br /><br />わが国の歴史都市の多くが、近世の城下町を基盤として、明治以降に顕著な都市化をしてきている（教科書pp.25-35参照）。そこで、国内からこの内容に合致する事例都市を任意に選び、具体例として掲載している川越市を参考に、同じような分析を試みるこ[344]<br />東北最大の都市として成長してきた仙台市は1960年代から急激に人口が増え始め、1989年に政令指定都市となった。従業者の４人に１人が支店従業者であると推計されており、首都圏の支社・支店のオフィスビルなどが商業地の中心に位置している。
仙台市の都市構造は仙台駅および東北新幹線・東北本線によって大きく東西に分けられている。仙台駅の西口側は、江戸時代からの城下町があったところで、現在に至るまで中心部であり続けているが、四方が河川や丘陵地、鉄道敷設地で囲まれており、都心部としての機能拡大が容易ではない。近年、一時は高騰した地下も下落が進み、住民の都心回帰を助長している。
一方、仙台駅の東口側は、古くからの町並みが残る地区が集まっており、江戸時代から続く地名が残る。この地域の東側に隣接していた水田地帯には、1960年代に仙台バイパスが設けられ、周辺に流通業や印刷業関係者の団地が建てられた。東北本線をまたいで西口に到る幹線道路も、卸町を迂回した経路のみで、卸町によって南北の街も分断された状態になっていた。しかし90年代に入り、卸売業を通さない「中抜き流通」が主流になると、卸町の存在意義が薄れ、規..]]></description>

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			<title><![CDATA[人文地理学概論　第２回　「白地図（地中海・イスラム）生活様式について」　評価B　２００９]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951529072374@hc11/94483/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ganma_ray]]></author>
			<category><![CDATA[ganma_rayの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 22 Jun 2012 23:23:27 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951529072374@hc11/94483/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951529072374@hc11/94483/" target="_blank"><img src="/docs/951529072374@hc11/94483/thmb.jpg?s=s&r=1340375007&t=n" border="0"></a><br /><br />人文地理学概論　
第２回「（1）①次の二つの事項について、通教テキスト巻末「学習指導書」に折り込んである白地図1～2枚にそれぞれの分布範囲を記入し、それぞれに300字以上400字以内で説明文をつけよ。なお、分布図の作成において参考にした文献[340]<br />人文地理学概論
2009/3
（1）①次の二つの事項について、通教テキスト巻末「学習指導書」に折り込んである白地図1～2枚にそれぞれの分布範囲を記入し、それぞれに300字以上400字以内で説明文をつけよ。なお、分布図の作成において参考にした文献・資料等も明記すること。
（a）地中海式気候地域
地中海式気候地域は夏季の絶対的な乾燥から、山岳地方では階段耕作やトランスヒューマンスが行われ、平野部では灌漑、海岸地方では主に観光業で生活を立てている。
階段耕作は山の斜面に耕地を築き、ブドウ、オリーブ、オレンジなどが栽培されている。トランスヒューマンスは山と平野を行き来する季節的遊牧である（トルコの黒海沿岸など）　　　　
灌漑では水をどのように与えるかが課題であったが、大規模にそれが成功するとブドウ、柑橘類、オリーブなどの単一栽培で輸出を生業としている（北アフリカを含む地中海沿岸）カリフォルニアではその他に綿花、南アフリカ南端やオーストラリア南西部はブドウ、柑橘類をヨーロッパ向けに輸出。
観光地の特徴は断崖地帯であり、壮麗な風光を誇るニースやコートダジュールが有名である。そこでは居住人口より滞在..]]></description>

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