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		<title>タグ“中世”の公開資料</title>
		<link>https://www.happycampus.co.jp/public/tags/%E4%B8%AD%E4%B8%96/</link>
		<description>タグ“中世”の公開資料</description>
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		<webMaster>cs@happycampus.co.jp</webMaster>
		<copyright>Copyrightⓒ 2002-2026 AgentSoft Co., Ltd. All rights reserved</copyright>

		<item>
			<title><![CDATA[【リポート・最終科目試験セット】M5103京都と文学（古典）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/910645760625@hc24/155656/]]></link>
			<author><![CDATA[ by はたわな]]></author>
			<category><![CDATA[はたわなの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Mar 2026 17:26:38 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/910645760625@hc24/155656/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/910645760625@hc24/155656/" target="_blank"><img src="/docs/910645760625@hc24/155656/thmb.jpg?s=s&r=1773217598&t=n" border="0"></a><br /><br />科目コードが違っても同一設題であれば対応できます。
丸写しではなく参考にしてください。

【第一設題】
レポートは、次の二点を中心に作成しなさい。
第一点目に著者である鴨長明という人物の経歴などや『方丈記』の文学史的位置付け（成立[340]<br />M5103　京都と文学（古典）

【第一設題】レポートは、次の二点を中心に作成しなさい。
第一点目に著者である鴨長明という人物の経歴などや『方丈記』の文学史的位置付け（成立やジャンルなど）をまとめよ。
第二点目に、『方丈記』冒頭の、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。」の「世にある、人と栖と、またかくのごとし」という言葉から、京の「人」や「栖」（建物）を、鴨長明が『方丈記』の中で、どのように捉えているかを、鴨長明自身の「方丈」での生活の描写などとも関連させて考察せよ。

1.はじめに
　第一点目に、著者である鴨長明という人物の経歴などや『方丈記』の文学史的位置付けをまとめる。
　第二点目に、『方丈記』冒頭の、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。」の「世にある、人と栖と、またかくのごとし」という言葉から、京の「人」や「栖」（建物）を、鴨長明が『方丈記』の中で、どのように捉えているかを考察する。

2.鴨長明とは
　鴨長明は、京都の下鴨神社の神職の家に生まれた。父である長継の死後、養家と離縁し住んでいた祖母の家を退去した。
　多才であった長明は、特に和歌と音楽に秀で、音楽は琵琶の師である中原有安に、秘曲の一を伝授されるほどであった。和歌は「俊恵法師（源経信の子）のもとで修業を積み、俊恵からは「末の世の歌仙」（将来の大歌人）と評され（1）」、三十代では勅撰集『千載和歌集』に一首入集し、初めて勅撰歌人となった。
　後に、後鳥羽院によって再興された和歌所の寄人に抜擢された。熱心に励む長明の姿が後鳥羽院の目にとまり、神職を継ぐという夢の後押しを受けるが、周囲の反対によって叶えることができなかった。失意の長明は五十歳ごろ出家し、洛北の大原に五年間隠棲した。さらに、住まいを転々とし、法友の禅寂の縁で日野法界寺の近辺に移り、方丈の庵を結び『方丈記』を執筆した。
　『方丈記』は清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』と合わせて日本三大随筆と称されている。執筆したものは他に、歌論書の『無名抄』、説話集の『発心集』などがある..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[星槎大学　４４１０１１０日本史Ⅰ　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/]]></link>
			<author><![CDATA[ by SEISAreport]]></author>
			<category><![CDATA[SEISAreportの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 11 Dec 2024 16:38:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/154226/" target="_blank"><img src="/docs/933808348058@hc17/154226/thmb.jpg?s=s&r=1733902734&t=n" border="0"></a><br /><br />星槎大学 日本史Ⅰのレポートです。 参考としていかがでしょうか。 この内容をそのままコピペしたり丸写ししたりするのではなく、少しでも変えた方が良いです。[222]<br />４４１０１１０日本史Ⅰ
レポートのテーマ（２０００字～３０００字）教科書①と②から1つずつ、自らが歴史的に重要だと思うできごとを取り上げ(計２つ)、①それについて概要を示すとともに、②そのできごとの歴史的背景（なぜそれがおこったのか）と、③そのできごとがもたらした状況（それによってどのような変化があったのか）、④その出来事の歴史的意義（その出来事の前後（②③）を見渡して、現在ではなく、その時代においてその出来事が起こることはどのような意義があったか）、の４点について述べなさい。
古代：摂関政治の確立と展開中世：北条氏の専制体制の確立
①古代において摂関政治の確立は、８世紀後半には一般的であった女帝が譲位制の成立や幼帝即位が可能になったことで終焉したことにより始まる。始まりは９世紀後半に摂政・関白の地位に就いた藤原良房らによるものであった。当時貴族の間では子どもの養育や後見は母方の親戚が行うという慣行があった。幼帝の即位が続く中、天皇の外戚の地位を獲得し、自身の娘である中宮に自身を摂関などに任命させることで政治的主導権を握った。これにより、摂関政治が確立し、後に摂政と関白の役割が明確に区..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[星槎大学　５４１３０３外国史Ⅰ　レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/152280/]]></link>
			<author><![CDATA[ by SEISAreport]]></author>
			<category><![CDATA[SEISAreportの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 18 Oct 2023 16:52:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/152280/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/933808348058@hc17/152280/" target="_blank"><img src="/docs/933808348058@hc17/152280/thmb.jpg?s=s&r=1697615575&t=n" border="0"></a><br /><br />星槎大学　外国史Ⅰのレポートです。
参考資料としていかがでしょうか。
この内容をそのままコピペしたり丸写ししたりするのではなく、少しでも変えた方が良いです。[232]<br />５４１３０３外国史Ⅰ
レポートのテーマ（３０００字程度）近代ルネサンスと古代および中世との具体的な関係を３０００字程度に総括すること。ルネサンスとは宗教改革とともに近代の始まりを為す画期的時代とされているが、このルネサンスがどのような時代であったのかが了解されるためには古代（その「復興」「再生」が字義通りには「ルネサンス」）とともに中世の内容が分かっていることが求められる。

序論
ルネサンス【Ｒｅｎａｉｓｓａｎｃｅ】とは、中世から近現代までの転換期１４世紀～１６世紀（１７世紀）のヨーロッパに起こった改新的な文化運動またはその期間のことである。
まずは、ルネサンスの意味や意義に触れてみたい。ルネサンス【Ｒｅｎａｉｓｓａｎｃｅ】とは、フランス語で「再生」を意味する言葉である。日本では、「文芸復興」と訳されることも多かったが、それはこの文化運動がギリシャ文化・ローマ文化のいわゆる「古典古代」の文化を「復興」させるという面があったからである。ルネサンスとはギリシャ・ローマの古典文化を再生すること、ということができる。
　ルネサンスという語は、もとはギリシャ語から由来した宗教用語である。「死者..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[聖徳通信 L003 生命論理]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921972705153@hc21/153555/]]></link>
			<author><![CDATA[ by たかしまほのか]]></author>
			<category><![CDATA[たかしまほのかの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 06 Jun 2024 23:07:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/921972705153@hc21/153555/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/921972705153@hc21/153555/" target="_blank"><img src="/docs/921972705153@hc21/153555/thmb.jpg?s=s&r=1717682849&t=n" border="0"></a><br /><br />聖徳通信 レポート 生命論理の課題です。[56]<br />聖徳通信 L003 生命論理
第1課題設題
課題内容
ホスピスの歴史と特色を述べなさい。
講評はS評価でした。
参考文献
小松奈美子「医療論理の扉一生と死をめぐって(改正版)」(北樹出版)
ホスピスの歴史と特色について調べ述べていく。まずホスピスとは、末期の疾患や重病を抱えた患
者やその家族に対して、身体的、精神的、社会的な支援を提供する施設やプログラムを示している
。ホスピスの主な目的は、患者が最期の時をできるだけ快適に過ごせるようにすることである。
ホスピスの歴史は古代にまでさかのぼる。古代ギリシャでは、旅行者や貧しい人々を受け入れる施
設があった。中世になると、キリスト教の修道院が貧しい..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古墳]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148574/]]></link>
			<author><![CDATA[ by sengoro]]></author>
			<category><![CDATA[sengoroの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 26 May 2022 13:27:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148574/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/930858578376@hc18/148574/" target="_blank"><img src="/docs/930858578376@hc18/148574/thmb.jpg?s=s&r=1653539276&t=n" border="0"></a><br /><br />古墳
古墳こふんとは、
・原義・第1義としては、「古い墓」「古人の墓」を意味する。日本では少なくとも平安時代中期
以来の日本語漢語である。
・第2義・考古学的語義・近代以降現代の語義としては、「墳丘墓」・「盛土封土をした古代
の墳墓」を意味する。
・最狭義には、日本の古代に属する一時代古墳時代というに築造された特定の形態の墳丘墓を
指す歴史用語である。高塚たかつかともいう。
東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として墳丘墓が盛んに築造された。本項はこれ以降、特
筆しない限りは日本の古墳について解説する。
「古墳」という日本語は、古代から近世にかけては「古人の墓」全般を指す語であったが、墳丘を..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】2019～2022年度　国文学講義Ⅲ(中世)　課題2]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146298/]]></link>
			<author><![CDATA[ by knk2]]></author>
			<category><![CDATA[knk2の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 03 Nov 2021 11:26:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146298/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146298/" target="_blank"><img src="/docs/926362783876@hc19/146298/thmb.jpg?s=s&r=1635906383&t=n" border="0"></a><br /><br />国文学講義Ⅲ(中世)　課題2

万葉時代の律令国家における法通制度や旅について 説明しなさい。また、 『万葉集』における羇旅歌につ いて、内容や性格、特色について具体的に歌をあげて 説明しなさい。 

〈ポイント〉 須磨巻以前と澪標[326]<br />国文学講義Ⅲ(中世)　課題2

万葉時代の律令国家における法通制度や旅について 説明しなさい。また、 『万葉集』における羇旅歌につ いて、内容や性格、特色について具体的に歌をあげて 説明しなさい。 

〈ポイント〉 須磨巻以前と澪標巻以後について概観し、薄雲巻を中心に考えてみると良い。 また、朝顔巻末にも注意。 
〈キーワード〉①政治と愛 ②王権物語 ③光源氏と桐壺帝 ④貴種流離譚 ⑤政治と絵合  
〈参考文献〉 『新編日本古典文学全集』（小学館） 、『新日本古典文学大系』藤井貞和他校注』（岩波文庫） 、また 『源氏物語事典』（大和書房）

〈本文〉

源氏物語第一部は源氏が1歳から39歳の10月までを描いた恋愛物語である。
まず、光源氏の父である桐壺帝が妃の一人である桐壺更衣を溺愛していたところから始まる。身分の低い桐壺更衣は弘徴殿の女御たちによって壮絶ないじめを受け続けていたが、そんな中二人の間に生まれた皇子が光源氏である。光源氏が3歳の頃、ついに桐壺更衣はいじめの心労による病気が急変し里下り直後に亡くなってしまう。
さて、ここで本題の藤壺の登場である。藤壺は｢かく心細くておはしま..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】2019～2022年度　国文学講義Ⅲ(中世)　課題1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146297/]]></link>
			<author><![CDATA[ by knk2]]></author>
			<category><![CDATA[knk2の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 03 Nov 2021 11:14:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146297/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926362783876@hc19/146297/" target="_blank"><img src="/docs/926362783876@hc19/146297/thmb.jpg?s=s&r=1635905661&t=n" border="0"></a><br /><br />丸写しは控え、参考程度にお使いください。

『枕草子』のいわゆる日記的章段（分量の多い章段 の方がやりやすい）の中から一章段を選び熟読し、その構成に注目しながら、その眼目（主題、何を書きたかったのか）について考察しなさい。 

〈ポ[340]<br />国文学講義Ⅲ(中世)　課題1

『枕草子』のいわゆる日記的章段（分量の多い章段 の方がやりやすい）の中から一章段を選び熟読し、その構成に注目しながら、その眼目（主題、何を書きたかったのか）について考察しなさい。 

〈ポイント〉 （清女の仕えた定子の父藤原道隆）中関白家の栄華 と没落（長徳の変）の中で見据えられ創出された平 安朝の美意識は、今の私達にも共感出来る。その感性の鋭さを客観的に分析して受け止めてみたい。 
〈キーワード〉 ①「あはれ」と「をかし」②摂関政治 ③回想の有無  ④文末語彙 ⑤形容語彙
〈参考文献〉 原典（テキスト）は、『新編日本古典文学全集』（小学館）、『新日本古典文学大系』（岩波書店）、岸上慎二編『三巻本枕草子』（武蔵野書院）
 
枕草子の深層 : 日記的章段をめぐって
大洋 和俊
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/39/12/39_KJ00009865761/_article/-char/ja/
 
『枕草子』における虚構性― 史実とずれのある章段を例として
孫 莎莎
https://teapo..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[慶應通信　西洋史概説　西洋中世におけるモノと人の移動について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926328904995@hc19/138629/]]></link>
			<author><![CDATA[ by とらふぐ]]></author>
			<category><![CDATA[とらふぐの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 17 Oct 2019 16:18:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/926328904995@hc19/138629/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/926328904995@hc19/138629/" target="_blank"><img src="/docs/926328904995@hc19/138629/thmb.jpg?s=s&r=1571296687&t=n" border="0"></a><br /><br />西洋中世におけるモノと人の移動について 

この資料の全面コピーandペーストを禁止します。あくまで参考程度にご使用ください[176]<br />1. はじめに
　ヨーロッパ中世中期から中世盛期における都市の形成と発展には、モノと人の移動が大きく寄与している。以下本論において、中世中期から盛期にかけて、「聖遺物」と「巡礼者」の移動が都市にもたらした意義について論じる。

２．　聖遺物
　２．１．　聖人崇拝と聖遺物
　　カトリック教会において、聖人とは「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちのことであり（注１） 」、「教会が聖人として公に認めるということは、天国の栄光の中にいること、全世界の人々がその聖人に取り次ぎを願ってよいこと、崇敬するに値し、世界中の全教会で公にこの聖人の日を祝うことになることを意味 （注２）」するという。そして聖遺物とは、それらの聖人の骨や持ち物のことであり、その聖人の功徳が宿るとされている。「天にましますわれらの神よ」という文句の通り、唯一神に祈り願うカトリック信者は、神が自分の近くにはいない遠い存在だと理解している。しかし物理的に接近できる聖遺物は、信者が直接見たり触ったりできるという点で、「キリストをはじめとする聖なる存在の実在性や聖書が語る出来事の証拠（注３）」として、信仰の核を形成している。東方教会におけるイコンと同じように、カトリックでは聖遺物が神と信者を仲介するものとして扱われていた。

　２．２．　聖遺物の移動規模
　　本来の聖人崇拝は、聖人が死去した場所や墓所で病人の病が癒える、等の奇跡のエピソードによる特定の地域に限定されたものであったと推察される。しかし、その信仰が発展するにつれ、「聖遺物の移動」が行われるようになった。聖人の遺体を分割して各地に運び聖遺物として祀るようになったのだ。これにより、その聖人の奇跡伝説は本来信仰されていた地域だけでなく様々な土地に広まることとなっただろう。
8 世紀後半以降、フランク王権と教会権力の結びつきが強まる中、ローマに埋葬されていた聖人の遺骨あるいはその一部がフランクに多く移葬されたという。つまり、聖遺物の移動が始まった当初の移動規模は、現在のイタリアとフランス圏内にとどまっていたと考えられる。しかし、聖堂における儀式の中心となる祭壇には内部か下方に聖遺物が置くことが義務付けられるようになり、名高い聖遺物のある聖堂は高い格に位置づけられるようになったという（注４）。価値ある聖遺物を所有するということ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史Ⅰ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938460902408@hc15/143023/]]></link>
			<author><![CDATA[ by manabe280]]></author>
			<category><![CDATA[manabe280の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jan 2021 19:03:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938460902408@hc15/143023/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/938460902408@hc15/143023/" target="_blank"><img src="/docs/938460902408@hc15/143023/thmb.jpg?s=s&r=1611569008&t=n" border="0"></a><br /><br />大学の本授業を受けるにあたり、指定されたテーマ&quot;自らが歴史的に重要だと思うできごとを取り上げて、①それについて概要を示すとともに、②そのできごとの歴史的背景と③その出来事がもたらした状況、④なぜそれを重要だと思ったかの４点について述べる&quot;に[356]<br />レポートのテーマ
自らが歴史的に重要だと思うできごとを取り上げて、①それについて概要を示すとともに、②そのできごとの歴史的背景と③その出来事がもたらした状況、④なぜそれを重要だと思ったかの４点について述べなさい。

はじめに
私が日本史を学習するにあたり、社会科教師として生徒に一番伝えたいというできごとが２つある。１つ目は古代（佐藤、2016）から、古墳の文化からその時代にあった耶馬台国の説についてを取り上げる。また２つ目は中世（五味、2016）から、日本で初めて作られた幕府によって政治という仕組みが成立したことの経緯についてを取り上げていきたいと考える。これらの２つは、現代に生きる私たちの社会において身近に感じる観光地に触れることや、その時代からみる政治によって日本が支えられていることへの関心を歴史的から、生徒主体で考察できやすい教材観として触れやすいテーマと思いついたことである。
またその時代に存在する人物も興味深く、授業の中で覚えなければならない重要なところであるが、ここではその人物の動静も加えていながら、文化そして政治の仕組みの成り立ちに視点を充ててまとめてみたいと思う。

古..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【最新2019～2022年度】日本大学通信 イギリス文学史Ⅰ 課題１ 合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/927909806784@hc19/138058/]]></link>
			<author><![CDATA[ by piyocolate]]></author>
			<category><![CDATA[piyocolateの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 10 Aug 2019 21:24:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/927909806784@hc19/138058/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/927909806784@hc19/138058/" target="_blank"><img src="/docs/927909806784@hc19/138058/thmb.jpg?s=s&r=1565439879&t=n" border="0"></a><br /><br />2019～2022年度 日大通信 イギリス文学史Ⅰ 課題Ⅰ の合格レポートです。合格したばかりですので、参考としてのご利用とし、丸写しはご遠慮ください。 

課題：中世英文学において代表的な作家5人を取り上げて，彼らの生涯，代表作およ び文[326]<br />イギリス文学史Ⅰ 課題Ⅰ

中世の英文学を代表する作家は、まずWilliam　Langland、Geoffrey　Chaucer、John　Gowerの3人が挙げられる。Langlandが純粋にアングロサクソンの伝統を継承したのに対して、ChaucerとGower　
は多分にヨーロッパ大陸の息吹を受け、それを栄養として成長した。
　初めにLanglandについて述べる。Langlandはモルヴァンのベネディクト派修道院の学校で教育を受け、下級僧侶となった。大変貧しかったが自尊心が強く、貴族や金持ちに決して頭を下げず、彼らの道徳的腐敗を批判した。代表作の「The Vision of Piers Plowman」は風刺的寓意詩であり、その点ではダンテの「神曲」やバニヤンの「天路歴程」と同様である。中世の封建社会が次第に矛盾を露呈してきた第十四世紀後半の社会に対する痛烈な風刺がある。その風刺は、当時の法曹界と宗教界の腐敗を論じたり、暴露したりはするが、既存の制度や教義を変革すべきとは言っていない。Langlandにとって社会救済の唯一の方法は、まじめな勤労とキリストに仕えることであった。作品..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[慶応法学部（通信）合格レポート　『ヨーロッパ中世政治思想』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/123116/]]></link>
			<author><![CDATA[ by KEIGI]]></author>
			<category><![CDATA[KEIGIの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 29 Dec 2015 13:44:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/123116/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/938478183489@hc15/123116/" target="_blank"><img src="/docs/938478183489@hc15/123116/thmb.jpg?s=s&r=1451364293&t=n" border="0"></a><br /><br />このレポートでは中世ヨーロッパにおけるキリスト教会と神聖ローマ帝国の関係について論じています。


※このレポートは以下のレポートに収録されているものと同じ内容です。
慶応義塾大学法学部（通信）合格レポート集
http://www.happ[320]<br />■ヨーロッパ中世政治思想（欧州政治思想の中におけるキリスト教会の役割）
はじめに
　ヨーロッパ政治思想におけるキリスト教会の役割は、ひと言で表現すれば、「政治思想の発展に大いに寄与したこと」といえる。なぜならば、中世ヨーロッパの歴史をふりかえると、キリスト教会とそれに対抗しうる勢力との二元的な理論的政治闘争が幾度も繰り広げられてきており、そういった闘争を通じてヨーロッパ人は、政治原理の構築や政治思想の継続性を重視するようになったからである。
　本レポートでは、上述の中世ヨーロッパにおける理論的政治闘争に焦点をあて、具体的にどのようにしてキリスト教会がヨーロッパ政治思想の発展に寄与したかを明らかにしていきたい。それに際して、叙任権闘争、アウグスティヌスからトマス・アクィナスの政治思想の変遷、封建王政の発達、そして公会議運動を中心に検討していく。
第一章　叙任権闘争
　一般に中世ヨーロッパ社会とはキリスト教社会のことであり、その社会ではローマ教皇（教会）の保有する教権と、ドイツ皇帝（帝国）の保有する帝権が同心円的に存在していた。そしてこの二つ権利の協調・対抗関係が中世ヨーロッパ政治思想における中心的なテーマといえるのであるが、この関係は五世紀末のゲラシウス理論によって定式化されてきた。それはいわゆる「両剣論」と呼ばれるもので、この中では、聖なる権威としての教権と世俗の権威としての帝権は両立し、各々は自己の領域において最高の存在であるとしている。とはいえ、二つの権威・権力に正当性があるということは、その間に境界線があることを意味するので、両権の間では主導権争いが起こり、双方とも理論的な議論によって己を正当化していく必要性があった。
　その象徴ともいえる出来事が一一世紀におこった「叙任権闘争」である。叙任権闘争とは教会聖職者の人事権をめぐる教権と帝権の争いで、平たく表現すれば教権と帝権の優越性をめぐる争いである。結論からいえばこの闘争によって教権の優越性が明らかになるのだが、その理論は次の二つによって立証された。まず第一に教権が保有する破門権の存在である。破門とはすなわちキリスト共同体――中世欧州における人的ネットワーク――からの追放を意味する。よって教皇が皇帝に対して破門権を行使するとなると、皇帝はこのネットワークから放逐されたことになり、したがってその臣下が皇帝に対..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国語学講義（分冊１）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/122023/]]></link>
			<author><![CDATA[ by けっけっ]]></author>
			<category><![CDATA[けっけっの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2015 15:25:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/122023/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/122023/" target="_blank"><img src="/docs/952855190597@hc11/122023/thmb.jpg?s=s&r=1443594314&t=n" border="0"></a><br /><br />日本大学通信教育部合格レポートです。
次のＡ・Bに掲げられた事項から、それぞれ一つずつ選び、八〇〇字から一〇〇〇字程度で説明しなさい。
Aからは「ハ行子音の変遷とハ行転呼音」を、Bからは「片仮名の成立と用法上の位相」を選択し解答しました。[347]<br />国語学講義
0 314　分冊１
Ａ．ハ行子音の変遷とハ行転呼音について
文字の発達の歴史は表意文字&rarr;音節文字&rarr;単音文字の過程をたどる。又、漢字の伝来は四世紀末から五世紀初めに朝鮮から日本に伝わったとされるが、この中国語表記の漢字を日本語表記に使用する事は容易ではなく、その為、奈良時代に万葉仮名文が現れた。これは日本語の文法に従い、万葉仮名・和語だけで書かれた文章様式で、次の平安時代の仮名文につながるものである。
この万葉仮名を見ると、「ヒ・ヘ」を含む十三音についてそれぞれに甲類・乙類の二種類の異なった音が存在した。これを上代特殊仮名遣いといい、音韻の差異を示している。
又、具体音を内外の文献資料などから推定したところ、語頭と語頭以外の区別なくハ行子音は奈良時代以前、両唇破裂音の[P]音であったらしく、更に奈良時代には無声両唇摩擦音[Փ]音に変化した様である。この事は、中世末期にローマ字で記述したキリシタン資料にハ行の文字が　[fa,fi,fu,fe,fo]　で転記されており、「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であった事がわかる。この変化は唇の緊張が緩むと[P]音から[Փ]音に変化..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋音楽の歴史と理論（夏期スクーリングレポート）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955107343785@hc10/122012/]]></link>
			<author><![CDATA[ by おまめさん]]></author>
			<category><![CDATA[おまめさんの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2015 11:01:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955107343785@hc10/122012/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955107343785@hc10/122012/" target="_blank"><img src="/docs/955107343785@hc10/122012/thmb.jpg?s=s&r=1443578517&t=n" border="0"></a><br /><br />『西洋音楽の歴史的な変化について、自分が一番関心のある時代を中心にして論じなさい。』

　大阪芸術大学「西洋音楽の歴史と理論」のスクーリング時のレポートです。

参考にしてみてください。[271]<br />音楽史上、中世とバロック期の間に位置するルネサンス時代は、中世以来の伝統的な教会旋法に基づくポリフォニー技法がもっとも高度な水準にまで完成された時代であり、内容的には、人文主義運動の影響を受けて、なめらかで素直な旋律の流れ、合理的な対位法による作曲技法、快い音の響き、豊ながらも適度に抑制された表現力によって、音楽的な均整美の理想を追求した時代である。
　ルネサンス時代の中心をなすのは、ポリフォニー（複数の独立した声部からなる音楽）による声楽、特に、宗教曲（ミサ曲）である。ミサとは、主日（日曜日）やキリスト教の暦の上での特定の祝祭日に行う集会のことである。ミサの内容としては、まず初めに、開祭がありここでは『あわれみの讃歌　Kyrie』『栄光の讃歌　Gloria』が歌われる。次に、神の言葉を聞く（聖書を朗読する）言葉の典礼で『信仰宣言　Credo』が歌われ、パンとぶどう酒を捧げる感謝の典礼では『感謝の讃歌　Sanctus』が歌われる。そして、司式者が宣言し、ぶどう酒（キリストの血）を司式者が、パン（キリストの肉）を会衆が受け全員が1つに結ばれる聖体拝領では『平和の讃歌　Agnus Dei..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[明星大学　PD2060&nbsp; 国文学史　課題１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942828138823@hc14/118408/]]></link>
			<author><![CDATA[ by tkazu]]></author>
			<category><![CDATA[tkazuの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 01 Feb 2015 23:01:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/942828138823@hc14/118408/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/942828138823@hc14/118408/" target="_blank"><img src="/docs/942828138823@hc14/118408/thmb.jpg?s=s&r=1422799314&t=n" border="0"></a><br /><br />合格済レポート例
課題１
「上代から近世までの国文学の展開を、散文中心に説明しなさい。」
時代別に要点をしぼって説明しています。分かりやすくまとめております。

参考文献：乾安代・櫻井武次郎・新間一美・西嶋孜哉・毛利正守『日本古典[340]<br />＜上代＞我が国で文字が使われるまでの長い期間、神話や伝説は口承文学として語り継がれていた。漢字の伝来により、口承文学が文字で表されることで、記載文学が成立した。国家体制が整い、統一化が図られると同時に、
それまでの伝承を一つにまとめようとする動きが起こった。その代表が『古事記』と『日本書紀』で、神話・伝説等が編集されている。
文献によれば、これらは天皇の正統性の確証を神話的根拠に求めている、とある。（三浦佑之『岩波講座　日本文学史』第１巻1995）また、祭事に神や天皇に奉る祝詞は『延喜式』に、天皇より神の命を伝える宣命は『続日本記』に収められ、地方の伝承は風土記に記された。日本最初の仏教説話集である『日本霊異記』も上代に成立したとされる。
＜中古＞平安時代を中心とする中古文学の第二期には平仮名・片仮名が発明され、国風文化が成熟する中で、仮名で書かれた新しい物語文学が生まれた。「物語の出で来はじめの祖」とされるのは『竹取物語』で、後に続く『宇津保物語』や『落窪物語』とともに伝奇物語に分類される。これらに並び、『伊勢物語』や『大和物語』、『平中物語』などの歌物語も著された。また、紀貫之の『..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[「魔女狩り」を読んで]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958866742893@hc09/113903/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みこまる]]></author>
			<category><![CDATA[みこまるの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 09 Jul 2014 17:12:54 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958866742893@hc09/113903/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958866742893@hc09/113903/" target="_blank"><img src="/docs/958866742893@hc09/113903/thmb.jpg?s=s&r=1404893574&t=n" border="0"></a><br /><br />「魔女狩り」
　「魔女狩り」と聞いて一番に頭に浮かんだのが数年前に見た映画『ジャンヌ・ダルク』で主人公のジャンヌが火焙りにされるシーンであった。フランスの英雄だった少女が一転して異端者とされ処刑されてしまう。処刑方法も然ることながら、捕らわれたジャンヌを待ち受ける数々の暴力。目を背けたくなる場面が多々あった。厳密に言うとこの時期には「新しい魔女概念」というものが完成していなかったため、この裁判は魔女裁判ではなく異端審問であったのだが、自分の中に「魔女狩り」「魔女裁判」のイメージがこの時出来上がった。しかし、本書を読んで自分のイメージより遥かに残虐な拷問が行われ、罪もない多くの人々が処刑されている事を知った。魔女狩りというものがここまで酷いものだと想像していなかったので、衝撃を受けたが、私達は現代に生きる者として過去の事実や過ちを知らなければならないと思う。遠い昔の異国の地で起きた出来事であるが、「本当の魔女狩り」を学ぶことで宗教・裁判については勿論の事、人間の心の闇に関しても少し理解できたように思う。今回は「裁判のやり方」と「魔女狩りを煽り立てた人々」を中心に魔女狩りに対する考えをまと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中性説話における異人としての女たち]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949660527050@hc12/110140/]]></link>
			<author><![CDATA[ by erikom]]></author>
			<category><![CDATA[erikomの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 11:25:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949660527050@hc12/110140/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949660527050@hc12/110140/" target="_blank"><img src="/docs/949660527050@hc12/110140/thmb.jpg?s=s&r=1390789557&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の中世文学、特に宇治拾遺物語集をはじめとする説話集をもとに、当時の文学・社会における女性像を探る。象徴としての、鬼や蛇、老婆、巴をはじめとする大力の女についても関連して考察を行った。文化人類学の分野の参考文献を多く取り扱う。[342]<br />中世の説話における
&ldquo;異人&rdquo;としての女たち
（目次）
はじめに　　　　　　　　　　　　　・・・・・3
第一章　鬼と女／蛇と女　　　　　　・・・・・4~16
第二章　老いと女　　　　　　　　　・・・・・17～27
第三章　自然の象徴としての女　　　・・・・・27～37
終章　&ldquo;異人&rdquo;としての女たち　　　・・・・・37～42
おわりに　　　　　　　　　　　　　・・・・・43
参考文献　　　　　　　　　　　　　・・・・・44
はじめに
中世には、『宇治拾遺物語集』をはじめ、『今昔物語集』『古今著聞集』といった、多くの説話集が存在する。それらに収録される作品は、仏教説話、世俗説話と大きく分類することができ、さらに、笑い話、霊異譚、童話・巷談といった分類が可能である。
説話集は、こういった様々なジャンルの作品を含むが、中世という時代柄、因果応報の色彩を帯び、仏教を啓蒙する役割を担ったとされる説話が多く収録されている。その中には、仏教の価値観において、女性は迷盲する存在として扱われるために、嫉妬や執着心を女性の業として描いた作品も数多く存在する。
そういった中世の説話集のなかで、『宇治拾遺物語集』は、仏教説話を含みながらも、必ずしもその内容が啓蒙的ではないといった点で特異だと述べることが出来る。例えば、愚かな僧を大衆が大笑いするという構造は『宇治拾遺物語集』に多くみられるものである。また、奇妙な術を身に付けた女や、男性よりも強い力をもつ女、不思議な力をもつ老婆など、バラエティに富んだ女性が登場することも特徴である。これは、ただ仏教説話という性質に終始していない『宇治拾遺物語集』だからこそ、より自由な発想で、様々な角度から女について描くことができたとは考えられないだろうか。
この論では、『宇治拾遺物語集』を中心に、中世文学に登場する、異質な存在として描かれる女たちの説話を複数ピックアップし、それぞれにおける彼女たちの異人性を探ることによって、中世という時代、文学において、&ldquo;異人&rdquo;としての女たちがどのような役割を果たしたかを知る手がかりとしたい。
第一章・鬼と女／蛇と女
　中世説話に多く登場するモチーフのひとつとして、「鬼」「蛇」が挙げられる。この二つは現代において、禍々しいイメージを伴って想起されることが多いが、『宇治拾遺物語集』を参照すると、中世においては、必ずしも負のイメ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[英米文学概説（分冊２）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/105854/]]></link>
			<author><![CDATA[ by けっけっ]]></author>
			<category><![CDATA[けっけっの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 20 Aug 2013 13:52:28 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/105854/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/105854/" target="_blank"><img src="/docs/952855190597@hc11/105854/thmb.jpg?s=s&r=1376974348&t=n" border="0"></a><br /><br />A判定合格です。
素晴らしいレポートです。完成度が高く引用をちりばめたのにもかかわらず論旨展開がスムーズで大変良く構成されています。
とのおほめを頂きました。[231]<br />英米文学概説
　　　　　　００８６（分冊２）
戯曲は構成された芸術であり、俳優の台詞と舞台の外観、舞台装置の構想、そして人間の体を使って表現する、これが戯曲の本質的部分である。中でもW. Shakespeareの戯曲の特質は物語、描写、構成、雰囲気の４つの観点から論じることができる。
まず、物語は小説と同様に戯曲の基礎であるが、小説家は話の前提となる出来事を導入部分の章などで記述し説明できるのに対し、劇作家の場合舞台の前に立ち説明する訳にもいかず、印象的な物語を伝える事は難しい。必要な情報を登場人物の演技を通し、自然で効果的に挿入して説明しなければならないが、Shakespeareの演劇はすばらしい独自の技術が用いられている。例えばThe Tempestの導入部分では無人島の嵐の場面で始まり、事情を知らないMirandaにProsperoが語るという自然な形で12年前の出来事等を観客にも伝えている。Hamletではまた更に熟練した技術が用いられ、始めの場面で寒く暗い夜を演出し、Hamletの父親の亡霊に兵士たちが驚く。この寒さと不安感は言葉で伝えるより遥かに出来事を連想さ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文学講義Ⅲ（中世）　分冊２]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99267/]]></link>
			<author><![CDATA[ by septem]]></author>
			<category><![CDATA[septemの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 13 Dec 2012 16:40:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99267/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99267/" target="_blank"><img src="/docs/948871381302@hc12/99267/thmb.jpg?s=s&r=1355384446&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポートです。
キーワードを全て使用し、まとめました。
参考程度にどうぞ。[113]<br />国文学基礎講義Ⅲ（中世）　分冊２
『源氏物語』の藤壺について、物語での役割について調べ、物語第一部の主題について考察しなさい。
〈ポイント〉
　須磨巻以前と澪標巻以後について概観し、薄雲巻を中心に考えてみると良い。
〈キーワード〉
　①政治と愛　②王権物語　③光源氏と桐壺帝　④冷泉帝　⑤政治と絵合
『源氏物語』は、平安時代中期1000年頃に紫式部によって書かれた世界最古の長編小説である。その構成は大きく三部に分けられ、本作の第一部は、帝の御子でありながら源氏という臣下の身分に落とされ、皇位継承権を失った光源氏が、多くの女性と契りを結ぶ中で、須磨への流離を経て、准太上天皇に復権するまでの王権復活の王権物語である。藤壺の登場前の桐壺帝の政治的背景に触れ、母として、女性として、光源氏に対して多大な影響を与えた「藤壺」という女性は、源氏物語の中でどのような役割であったのかという点を概観し、第一部の主題について考察していく。
　桐壺帝は弘徽殿との間に皇子を儲けていたため、彼女を尊重していた。しかし、右大臣・弘徽殿女御勢力を押さえ込みたかった桐壺帝は、光源氏の母である桐壺更衣の登場により、弘徽殿と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文学講義Ⅲ（中世）　分冊１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99266/]]></link>
			<author><![CDATA[ by septem]]></author>
			<category><![CDATA[septemの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 13 Dec 2012 16:40:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99266/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948871381302@hc12/99266/" target="_blank"><img src="/docs/948871381302@hc12/99266/thmb.jpg?s=s&r=1355384445&t=n" border="0"></a><br /><br />合格レポートです。
キーワードを全て使用し、まとめました。
参考程度にどうぞ。[113]<br />国文学講義Ⅲ（中世）　分冊１
　『枕草子』のいわゆる随想的章段（分量の多い章段の方がわかりやすい）の中から一章段を選び熟読し、その構成に注目しながら、その眼目（主題）について考察しなさい。
〈ポイント〉　中関白家の栄華と没落の中で見据えられ創出された平安朝の美意識は、今の私達にも共感出来る。その完成の鋭さを客観的に分析して受け止めてみたい。
〈キーワード〉　①「あはれ」と「をかし」　②摂関政治　③回想の有無　④文末語彙　⑤形容語彙
『枕草子』の随想的章段の中から、「一．春はあけぼの」を取り上げ、主題について考察していく。
「春はあけぼの」は枕草子の冒頭であり、この章段には現代にも通じるといっても過言ではない、「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮」「冬は早朝」などの日本人ならではの四季という季節感や、自然の微妙な移り変わり、人情などが鋭い感覚で捉えられ、四季折々の一番趣のある光景を、感性豊かな言葉で綴ったものである。また、これに続く回想的章段では、摂関政治の宮仕えに生きている清少納言の生活や心情が表されている。
この章段の構成は、四季折々の季節感をそれぞれ「をかし」、「あはれなり」、「..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　日本文学史　第１設題　A判定（上代・中古・中世・近世の文学の流れと特質）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948411428560@hc12/97783/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ひまわり２５]]></author>
			<category><![CDATA[ひまわり２５の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 14 Oct 2012 20:13:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948411428560@hc12/97783/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948411428560@hc12/97783/" target="_blank"><img src="/docs/948411428560@hc12/97783/thmb.jpg?s=s&r=1350213225&t=n" border="0"></a><br /><br />〈上代〉口承文学の誕生から７９４年の平安遷都までを文学史では上代と呼ぶ。共同体、小国分立の時期を経て大和政権による全国統一がなされ、律令国家が成立した時代である。この時代、人々の生活と命は自然の力に大きく左右されたため、その超人間的な力を神[360]<br />〈上代〉口承文学の誕生から７９４年の平安遷都までを文学史では上代と呼ぶ。共同体、小国分立の時期を経て大和政権による全国統一がなされ、律令国家が成立した時代である。この時代、人々の生活と命は自然の力に大きく左右されたため、その超人間的な力を神として祭売るようになった。その祭の場における神に関する様々な語り伝え（神話）や、神への祈り・感謝の歌などの口承のなかから文学が誕生してきた。５世紀ごろの漢字の伝来により、万葉仮名などの表記法を用いて神話や歌謡も文字によって書きとどめられるようになってゆく。
政権の安定と正当化を意図した大和政権は、諸国の氏族を皇室の配下に位置づける形で史書・地誌の編纂を行った。そのなかでも８世紀初期に編纂された『古事記』は、皇室の神話に出雲など諸氏族の神話を統合して皇室の支配の正当性を強調する一方、英雄的人物の伝説なども語られ、叙事的世界が文学性豊かに描かれている。また約１９０首の歌謡が収められており、多方面にわたる生活感情が様々の歌体で豊かに歌われている。その後、うたは集団でうたう歌謡から個人の感情を詠む和歌へと性格を変えていき、歌集も編まれるようになった。それは統..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】英米文学概説（分冊2）　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97682/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mau881]]></author>
			<category><![CDATA[mau881の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 10 Oct 2012 15:49:44 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97682/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97682/" target="_blank"><img src="/docs/948630575766@hc12/97682/thmb.jpg?s=s&r=1349851784&t=n" border="0"></a><br /><br />英米文学概説（分冊2）の合格レポートです。

「完成度の高いレポートです」との評価をいただきました。

ご参考になれば幸いです。[182]<br />英米文学概説（分冊2）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　劇は同時に１つ以上の動きをする複合的な芸術であり、優れた劇から観客が受ける満足は、役者の台詞である「言葉」と舞台の外観や書き割、役者の配置や仕草などの「舞台」の双方からくるという。William Shakespeare（1564－1616）はイギリス・ルネサンス期を代表する劇作家である。彼は多種多様の人間が繰り広げる喜怒哀楽に満ちた姿を、現代のように舞台や音響の設備が完備されていない時代に、深い洞察力とセンスのある台詞で見事に観客をひきつけ、現代まで変わらぬ人気と評価を博している。では、Shakespeareの劇についてEnglish Literatureの著者Lernerの言葉を借りながら、小説と比較していきたい。
　小説と劇との違いは、まず物語である。それ自体は小説同様劇でも屋台骨となるが、物語を語る点での違いがある。劇の始まる前の出来事をどのように観客に伝えるかである。小説家は冒頭でもそれ以外の箇所でもできるが、劇作家はそれらについて舞台上で語ることなどできない。しかし、劇を見る上で観客が知っておくべき..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【日大通信】イギリス文学史Ⅰ(分冊1）　合格レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97627/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mau881]]></author>
			<category><![CDATA[mau881の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2012 22:55:39 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97627/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/948630575766@hc12/97627/" target="_blank"><img src="/docs/948630575766@hc12/97627/thmb.jpg?s=s&r=1349531739&t=n" border="0"></a><br /><br />イギリス文学史Ⅰ（分冊1）合格レポートです。 
「中世英文学の重要な詩人、散文作家5人の特性をバランスよく、うまくまとめている」との評価をいただきました。
 ご参考になれば幸いです。[261]<br />イギリス文学史Ⅰ　(分冊1 ) 
　中世英文学とは、ノルマン人によるイギリス征服後の紀元前1100年から1500年ころまでの文学を指す。それでは、この時代における重要な詩人と散文作家について述べてみたい。
　ウィリアム・ラングランド（William Langland，1331?-1400）は、ベネディクト派修道院で教育を受けた下級聖職者であった。その生活は大変貧しかったが、金持ちや貴族には絶対に頭を下げないという強い自尊心を持ち、それは代表作である『農夫ピアズの夢（The Vision of William concerning Piers Plowman）』にも表れている。この作品は風刺的寓意詩であり、ローマ教皇をはじめとした聖職者達や法曹界の腐敗に対する痛烈な風刺と批判が特徴的である。また、南部と中部の英語が混ざった方言を使用し、アングロ・サクソン風の頭韻を用いた。そしてこの作品は、頭韻を用いて書かれた最後の詩でもある。その文体は当時としては珍しく、民衆が理解できる易しい言葉で書かれ、内容も民衆の共感を得るものであったことから、最初の民衆詩として愛読され、大きな影響を与えた。このよ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[佛教大学　通信　日本文学史　第１設題　A判定]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960057307006@hc09/95656/]]></link>
			<author><![CDATA[ by yuuchi103]]></author>
			<category><![CDATA[yuuchi103の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 06 Aug 2012 00:06:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960057307006@hc09/95656/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960057307006@hc09/95656/" target="_blank"><img src="/docs/960057307006@hc09/95656/thmb.jpg?s=s&r=1344179192&t=n" border="0"></a><br /><br />佛教大学通信学部 R0112 日本文学史 第一設題「上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。〈古事記・万葉集・古今集・女流日記(女性によって書かれた日記)・源氏物語・平[340]<br />上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。
〈古事記・万葉集・古今集・女流日記(女性によって書かれた日記)・
源氏物語・平家物語・徒然草・近代小説〉
　大化の改新や壬申の乱を経て、政治的には強力な中央集権的律令制国家へと発展してしき、遣隋使、遣唐使を派遣し政治体制ばかりでなく漢字や仏教など多くの影響を中国から受けた大和から奈良時代が上代と呼ばれる時代であり、上代の文学で代表的なものが、古事記と万葉集である。
まず古事記の文学的意義は日本最古の書であること。そして国内の思想統一を目的とし、神話・伝承を重視した文学性豊かな史書ということである。内容は、上巻は神話、中・下巻は神武天皇から推古天皇を中心とした物語であり、序文以外は漢字の音を借用した変体漢文である万葉仮名で書かれ、仮名発明以前の表記の工夫が見受けられるという特質がある。
もうひとつの代表的な作品は現存する最古の歌集である万葉集。歌風は「ますらをぶり（男性風）」で、現実に密着した感動を具象的に表現。率直な実感を大胆素朴に表現する力強さが特徴の歌集である。現存する..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[死から生を眺める演劇、夢幻能で読む『オセロー』]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95091/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 鞠文庫]]></author>
			<category><![CDATA[鞠文庫の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 19 Jul 2012 23:00:12 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95091/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/949162249076@hc12/95091/" target="_blank"><img src="/docs/949162249076@hc12/95091/thmb.jpg?s=s&r=1342706412&t=n" border="0"></a><br /><br />シェイクスピア作『オセロー』を夢幻能の様式で大胆に演出した公演の観劇所感をもとに、古からの日本人の感性に根ざしたシェイクスピア上演の新たな可能性についての発見を語る。能独自の時間感覚を取り入れることによって「悲劇」にもたらされた新たな表現様[360]<br />死から生を眺める演劇、夢幻能の由来と未来
　夢幻能の主人公は、亡霊である。人生において、非常にインパクトのある体験をした人物の魂魄がこの世に留まっており、それが存命の人間であるワキの前に現れる。
　この手法によって表現されうる要素の一つは、人間の情念の永続性である。ある人物の生を、その死の数百年後から振り返るとき、「生の時間は極度に圧縮され、凝結する」。つまり、生から離れた地点に立って一人の人間を眺めることによって、人間の一生全体、あるいは運命そのものを一望に収める視野を獲得するということである。そうした位相変換によって、抽象化かつ集約化された情念が抽出されることとなる。そしてその情念が、シテがワキに自らの運命を語るその時点、あるいは私たちが夢幻能の上演を目の当たりにする時点まで脈々と存在し続けているということなのである。
　増田正造著『能の表現』に、次のような項がある。
能の人物は、運命といかにさからい、いかに立ちむかうかではなくて、いかにいさぎよく耐えるか、悲しみをいかに純粋に美しくするかに専念しているようにみえる（&hellip;&hellip;）これは日本人の性向でもある（&hellip;&hellip;）勇将ピロクテテスのような鉄..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R8103日本文学史1レポート（A判定）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953888125099@hc11/90478/]]></link>
			<author><![CDATA[ by みすみす]]></author>
			<category><![CDATA[みすみすの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 12 Feb 2012 17:42:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953888125099@hc11/90478/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953888125099@hc11/90478/" target="_blank"><img src="/docs/953888125099@hc11/90478/thmb.jpg?s=s&r=1329036162&t=n" border="0"></a><br /><br />①上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。
〈古事記・万葉集・古今集・女流日記（女性によって書かれた日記）・源氏物語・平家物語・徒然草・近世小説〉
　【上代】
　上代とは、都が大和（奈良）から平安京（京都）へ遷都されるまでの時代である。日本は、遣隋使や遣唐使により、漢字・漢籍・佛教などの文化の面でも多大の影響を受けることとなった。文化的所産を口から口と伝えていく口誦や語りに頼っていた口承文化から、文字による伝達・保存が可能な記載文学が誕生することとなったのである。その代表的な作品として、『古事記』が挙げられる。『古事記』は、現存する最古の書である。語り部の稗田阿礼が語る神話・伝承を、太安万侶が筆録したもので、国内の思想統一をねらいとし、神話、伝承を重視した文学性豊かな史書である。上巻は神話、中・下巻に初代神武天皇から三三代推古天皇までの事跡を記している。序文は漢文で書かれているが、それ以外の部分は、漢字の音と訓とを交ぜあわせた変体漢文である、特に人名や歌などは一字一音の「万葉仮名」で書かれたものとなっている。
また..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本の文化と歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/90132/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kino77happy]]></author>
			<category><![CDATA[kino77happyの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 31 Jan 2012 23:45:53 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/90132/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/90132/" target="_blank"><img src="/docs/960471950769@hc08/90132/thmb.jpg?s=s&r=1328021153&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の文化と歴史
1.　日本における言葉遊びの文化について
言葉遊びになぞなぞがある。なぞなぞは平安時代には謎物語、謎々語と呼ばれていた。「なぜだろう」という問いかける形で始まる物語で、児童教育の方法であったと考えられる。それより以前、万葉集には、中国から伝わった字謎という析字による謎を使った長歌を笠金村が詠んでいる。このような字謎や謎物語に遊戯的な技法が加えられ、言葉遊びとしてのなぞなぞが形成された。なぞなぞの構成技法に連歌の影響をうけている技法がある。連歌は和歌の一種で、二条良基が著した筑波問答には「歌を二人していふを連歌とは申なり。」とあり、二条良基によって連歌の基礎が確立された。連歌は和歌の上句と下句を交互に詠み連ねるもので、連歌には賦物という手法があった。「野中の雪」（柚の木）は賦物の三字中略を逆さに使ったものである。なぞなぞは鎌倉時代を下ってから連歌の影響が出ている。言葉遊びとしては鎌倉時代中期ごろより流行しはじめた宴曲というものがある。今様のような叙情小曲でなく、叙事的な中長編歌謡である。宴曲というのは、ただ歌うだけでなく、その中に知識や情報を入れているものであり、宴会な..]]></description>

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			<title><![CDATA[イギリス文学史(0411)　分冊１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/89863/]]></link>
			<author><![CDATA[ by けっけっ]]></author>
			<category><![CDATA[けっけっの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 24 Jan 2012 10:11:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/89863/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952855190597@hc11/89863/" target="_blank"><img src="/docs/952855190597@hc11/89863/thmb.jpg?s=s&r=1327367477&t=n" border="0"></a><br /><br />日大通信教育部　Ａ判定合格リポート　大変良いの評価をいただきました[99]<br />イギリス文学史Ⅰ
　　　　　０４１１　（分冊１）
　紀元前数百年の昔、イングランドでは異民族による侵略の繰り返しであった。紀元前55年頃、ローマ人の支配により都市が建設され、ラテン語が普及したと考えられている。
そういった中で、先住民のケルト族は著しく感情が繊細で、豊かな想像力と神秘性を持っており、移住してきたアングロ・サクソン人は質実剛健で穏健、保守的でユーモアに富んでいる。この対照的な両民族の気質が融合
し開花したものが、現在のイギリス文学の母
体となっていると考えられる。　　　　
さらに９世紀～11世紀、ノルマン人が勢力を増し、遂にはイギリスをも占領した。フランス様式ともいえるノルマン文化は、イギリスに大きな影響を与え、政治、経済、学芸、風俗など急速に進化していった。
　またそれは言語の領域においても影響は大
きく、サクソン系の古代英語にフランス語系
の言葉が入り、中世英語を生み出した。文学においては北欧的な暗さをもつアングロ・サクソン文学の中に、優雅で明るい機知と諧謔に富んだ南方の文学が加わり、これまでにない新しい文学が生まれたのである。
このような中世英文学において..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イギリス文学史Ⅰ_分冊1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951382586321@hc11/87829/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mukusanshiro]]></author>
			<category><![CDATA[mukusanshiroの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 05 Nov 2011 22:27:20 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/951382586321@hc11/87829/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/951382586321@hc11/87829/" target="_blank"><img src="/docs/951382586321@hc11/87829/thmb.jpg?s=s&r=1320499640&t=n" border="0"></a><br /><br />【平成23-24年度】日大通信レポート　イギリス文学史Ⅰ分冊1　【項目オールA評価合格】　文字数分かる原稿用紙レポート　（*1マスに入れるアルファベットの数は任意。読めれば可とされます）[261]<br />中世英文学において最も重要な詩人3人について述べる。
一人目は、ウィリアム・ラングランド(William Langland, 1331?-1400)である。ラングランドはシュロップシャアに生まれ、修道院の学校で教育を受けて貧しい下級僧侶となり、妻と娘とロンドンで暮らした。代表作は風刺的な寓意詩、『農夫ピアズについてのウィリアムの夢』( The Vision of William concerning Piers Plowman )である。夢に見立てた物語の中で、国王、貴族、商人、牧師、民衆を登場させ、14世紀後半の世界観、封建社会、宗教等様々な矛盾を描いた。後期中世英語の代表的な宗教頭韻詩として有名である。平易な文体と、勤勉と従順に神に仕えることを主張していた為一般民衆に広く愛された。
二人目はジョフリ・チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1340?-1400)である。ロンドンに生まれ、1357年にエドワド三世の第三王子ライオネル公(Lionel)の夫人に仕えた。百年戦争に出兵、捕虜となったが王が身代金を支払い釈放され再び宮廷に仕えた。女官と結婚、王妃の妹の夫ジョン・オヴ・..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[オオカミ男と魔女について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952102903439@hc11/85464/]]></link>
			<author><![CDATA[ by maandmi]]></author>
			<category><![CDATA[maandmiの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 02 Sep 2011 22:27:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952102903439@hc11/85464/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952102903439@hc11/85464/" target="_blank"><img src="/docs/952102903439@hc11/85464/thmb.jpg?s=s&r=1314970038&t=n" border="0"></a><br /><br />オオカミ男と魔女について
オオカミ男は伝説の生物の一種である。狼に変身する。またはさせられる。スラヴ人（ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド）のオオカミ伝説は、人（男女が）一時的に狼に変わるということである。それは３つあり、１つめはある期間、呪術師によって狼に変えられること。２つめはある期間呪術師自身が狼に変身する。３つめは人狼＝吸血鬼。（セルビア、ブルガリア）変身儀礼はスラヴ一帯に古くから行われてきたものであり、現在でも若者が狼の仮面をつけて家々をまわる行事が残っている。オオカミ男を取り扱った作品は小説、漫画、映画、ゲームなどいろいろある。　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世の農村]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/83284/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kino77happy]]></author>
			<category><![CDATA[kino77happyの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 21 Jul 2011 16:43:49 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/83284/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960471950769@hc08/83284/" target="_blank"><img src="/docs/960471950769@hc08/83284/thmb.jpg?s=s&r=1311234229&t=n" border="0"></a><br /><br />西洋社会史　課題1レポート
書籍　『中世ヨーロッパの農村世界』　堀越宏一　山川出版社　2009年
中世のヨーロッパにおいては、地中海地方のように土地利用が盛んではなく、森林の伐採が進んでいなかったために、古代以来未開のまま残されていた。「森の民」ケルト人や、　彼らを支配したゲルマン民族は、古くから森の木々を土俗的な崇拝の対象にしていた。また、「ヘンデルとグレーテル」や「眠れる森の美女」などの物語があるように、森林は簡単に人々が立ち入れる空間ではなく、非日常性を持つ舞台であった。森林は盗賊や無法者、狼、魔女などがいる世界でもあった。キリスト教の聖職者にとっては、森林は一般社会から隔絶された場所であることから修行の空間となった。このような恐ろしい森林を利用することなしには中世ヨーロッパの人々の生活はありえなかった。中世ヨーロッパの農村の本格的な発展は、森林を切り開き、開墾することから始まった。その開墾地で生み出された村落の秩序や領主農民関係が、中世農村全体の基本モデルになった。
森林を切り開いて開墾が多く行われるようになった理由として、農業技術の進歩が挙げられる。11世紀以後、水車が、12世紀末からは風車の利用が飛躍的に拡大した。それまで人力や畜力に頼っていた労働や作業にとってかわり、農民の生活を一変させることになった。また、12世紀にはヨーロッパ全体に鉄の生産が拡大し、13世紀までに農村で営業する鍛冶屋が農機具の刃や斧、のこぎりなどの鉄器具を供給するようになった。それまでの貧弱な木製の道具が鉄製になり、農民たちは初めて森林を切り開いて新たな農地を開墾するのに十分な装備を手にした。鉄器具は重量有輪犂にも用いられ、それに加え、犂を引かせる家畜が、いままでスピードの遅い牛から馬にかわった。さらに13世紀には、村の耕地を区画整理して全体を3つの部分に分けて、村落共同体として共同耕作を行う三圃制が出現する。以後、個々の農民は3つの区画のそれぞれに十分の持ち分地をもち、その収穫を手にすることになった。その背景には、一見の農家では重量有輪犂やそれを引く家畜を購入、維持できなかったこと、数頭の家畜の引く重量有輪犂の列が長く、方向転換が容易でないためにできる限り広い耕地を耕作する必要があったことなどがある。以上のような農業技術の革新の結果、穀物の収穫率は上昇した。この一連の過程を中..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[継母子譚の受容の背景]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83137/]]></link>
			<author><![CDATA[ by BOOOOO]]></author>
			<category><![CDATA[BOOOOOの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 13 Jul 2011 15:16:32 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83137/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83137/" target="_blank"><img src="/docs/952871529578@hc11/83137/thmb.jpg?s=s&r=1310537792&t=n" border="0"></a><br /><br />継母子譚の受容の背景
～心理学的な観点から～
　
私は、継母子譚の代表とされる『落窪物語』が通過儀礼の文学として読み継がれてきた背景に心理学的な要素が含まれると考える。そこで、このレポートにおいては、なぜ継母子譚が通過儀礼の文学として読み継がれてきたのかを、心理学的な観点を基に、論じていきたいと思う。なお、このレポートにおいては、継母子譚の代表的作品とされる『落窪物語』を中心に論じていくこととする。
　まず、『落窪物語』がなぜ通過儀礼の文学として読まれてきたのかを、三谷邦明氏の説を下に考えていきたいと思う。三谷邦明氏は、『落窪物語』を含めた継母子譚は成女式を基盤に成立した文学であると考える。成人になる為の儀式では、子供である人格が死に、大人となって再生する儀式であるので、死＝再生の為の試練に出会う場として考えられているが、この試練が継子いじめに相当し、継母子譚の話型に転化する要素を持っていると考えられている。また、落窪の間は、服喪の際にこもる土殿と同様のものとして捉えられているため、落窪の間にこもることは「死」を意味することとなる。その落窪の間から逃れ、少将と結ばれることからも死＝再生..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[式子内親王の生涯]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83135/]]></link>
			<author><![CDATA[ by BOOOOO]]></author>
			<category><![CDATA[BOOOOOの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 13 Jul 2011 15:09:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83135/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/83135/" target="_blank"><img src="/docs/952871529578@hc11/83135/thmb.jpg?s=s&r=1310537348&t=n" border="0"></a><br /><br />式子内親王の生涯
　私は、この授業で式子内親王の「玉の緒よ　絶えなば絶えね　ながらへば　しのぶることの　弱りもぞする」という百人一首でもよく知られている歌が非常に印象強かったので、式子内親王について調べてみました。
　式子内親王は後白河上皇の第三皇女で、母は藤原季成女、高倉三位成子です。生まれた年は久しく不明とされていたのですが、久安五年（一一四九）と判明しました。式子は平治元年(一一五九)十月二十五日、十一歳で賀茂斎院に卜定され、嘉応元年（一一六九）七月二十四日病のため二十一歳で退下するまで約十年間奉仕しました。その後は生涯独身を通し、建仁元年（一二〇一）正月二十五日に五十三歳で没しました。
　この式子内親王には妙なうわさがあり、愚管抄には建久七年（一一九六）頃、後白河院の霊が藤原公時の家司橘兼仲の妻に憑いて「我祝へ　社作り　国寄せよ」と妖言したといわれ、式子内親王もこれに同意したとされ、洛外に追放される寸前になりました。しかし、これは結局人を惑わせる妖言であったとして、夫婦とも流罪になります。他にも、正治二年（一二〇〇）十月、春宮守成親王（順徳天皇）を式子が猶子にするという議が起こ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学・論理学レポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963745402112@hc07/81825/]]></link>
			<author><![CDATA[ by chaka]]></author>
			<category><![CDATA[chakaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 30 May 2011 00:02:15 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963745402112@hc07/81825/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963745402112@hc07/81825/" target="_blank"><img src="/docs/963745402112@hc07/81825/thmb.jpg?s=s&r=1306681335&t=n" border="0"></a><br /><br />オッカムによる、スコトゥスとエギティウス・ロマヌスの説の批判を自分なりに解釈しまとめたものです。resとよばれる個体は何によって区別され、そのものであるという確証を得ているか、についてオッカムがスコトゥス批判をしています。
エギティウス・ロ[352]<br />哲学・論理学レポート
「スコトゥスの『個体化の理論と共通本性』」・「エギティウス・ロマヌスの『量独立説』」に関するオッカムの批判
１）スコトゥスの個体化の理論について
Ⅰ．概要
　同一のres内に形相的に異なる２つの存在（①共通本性・②個体的差異・このもの性）が存在する。
Ⅱ．スコトゥスの主張①
　自らに属する形式的に同一のものによってresAとresBが実在的に一致するならば、resAとresBは同じである。そのとき、その同一のもの（＝自らに属する形相的に同一のもの）によってresAとresBが異なることはあり得ない。ここで言う自らに属する形相的に同一のものとは①共通本性のことである。まとまると、resA,resBにおいて個体が一致する本質（①共通本性）と個体が異なる特質（②個体的差異）は相違し、区別される（同一res内には２つの存在性①共通本性・②個体的差異がある。と結論される。
Ⅲ．スコトゥスの主張②
　ソクラテスとプラトンという２人の人間を例に挙げて考えてみる。２人は「人間である」という共通本性により、実在的に一致している。また2人は「ソクラテス性」「プラトン性」という個体的差..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世における日本の国民性]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/81706/]]></link>
			<author><![CDATA[ by BOOOOO]]></author>
			<category><![CDATA[BOOOOOの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 26 May 2011 21:57:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/81706/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952871529578@hc11/81706/" target="_blank"><img src="/docs/952871529578@hc11/81706/thmb.jpg?s=s&r=1306414629&t=n" border="0"></a><br /><br />中世における日本の国民性
～『徒然草』の視点から～
　私は、現在、日本の古典文学について勉強しています。そのため、このレポートでは、中世である鎌倉時代に吉田兼好によって書かれた代表的な随筆である『徒然草』をもとに、古代から続く日本の国民的な要素について述べていきたいと思います。
　まず、日本という国は現在でも国民色が強く、他の国よりも民族的なつながりが大きいと感じます。しかし、私が古典文学と出会ってからは、古代は、現代とはまた違った日本の国民色を持っていたことがわかり、それらの国民色の影響が私たちの現代の国民色につながっていることがわかりました。それらの現代とは少し違った国民的な要素を『徒然草』から考えていきたいと思います。
　私が、この『徒然草』を読んで一番日本の国民性を表わしていると感じた部分は、『徒然草』の第137段の「花は盛りに」という段です。この137段の冒頭である「花は盛りに、月は隈なきを見るものかは。」という部分は『徒然草』の中でも良く知られた部分ですが、この段落で、吉田兼好は「桜の花は満開だけを見て、月は満月だけを見て楽しむものではなく、部屋の中でも見えない月のことを思..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[R0112日本史文学史第１設題　A判定　合格レポート 2016年度対応]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/80900/]]></link>
			<author><![CDATA[ by relax]]></author>
			<category><![CDATA[relaxの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 28 Apr 2011 22:51:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/80900/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962649622816@hc08/80900/" target="_blank"><img src="/docs/962649622816@hc08/80900/thmb.jpg?s=s&r=1303998681&t=n" border="0"></a><br /><br />2016年も同じ設題です。
上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。＜古事記・万葉集・古今集・女流日記（女性によって書かれた日記）・源氏物語・平家物語・徒然草・近世小説[350]<br />上代、中古、中世、近世の文学の特質を、それぞれの時代の特性をふまえつつ、下記の諸作品を例にして具体的に説明せよ。＜古事記・万葉集・古今集・女流日記（女性によって書かれた日記）・源氏物語・平家物語・徒然草・近世小説＞
第一章　　上代の文学
第一節　上代の文学の特性
　上代の文学は、口承文学から記載文学へと大きく発展した時代である。上代とは、四世紀後半に大和（現在の奈良県）を中心にして大和政権による国土の統一から、桓武天皇が７９４（延暦１３）年に都を平安京に遷都するまでの期間である。作品には古事記や日本書紀がある 。
第二節　古事記
　七一二（和銅五）年、元明天皇の命により稗田阿礼が読み習っていた帝紀、本辞を太安万侶が筆録したものである。序文は漢文で書かれており、それ以外は変体漢文である。特に人名や歌は「万葉仮名」でかかれている。内容は、上・中・下の三巻から成っており、上巻は岩戸神話や出雲神話などの天地開闢以来の神話が収められている。中・下巻は神武天皇から推古天皇までの天皇を中心とする物語で、倭建命の話が有名である 。
第三節　万葉集
　「ますらをぶり」と呼ばれる男性風の歌風である。現実に..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史1]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79165/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lampway]]></author>
			<category><![CDATA[lampwayの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 15 Feb 2011 18:12:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79165/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958457868540@hc09/79165/" target="_blank"><img src="/docs/958457868540@hc09/79165/thmb.jpg?s=s&r=1297761143&t=n" border="0"></a><br /><br />『鎌倉幕府と執権政治について』
鎌倉幕府成立前は、平家一門による政治が行われていた。その中で平清盛・重盛の死後、源氏が優位となり文治元年（一一八五）に壇ノ浦で平家一門を滅亡させた。その中心が後に鎌倉幕府を成立させる中心人物である源頼朝である。彼は朝廷から治安警察権を認められ、治安維持を行う守護や地頭を置いた。また征夷大将軍となり将軍の地位に就き、公文（文書）の作成や管理を行う公文所（後の政所）や訴訟受理事務を行う問注所、軍事・警察を司る侍所などの組織を構築し、支配体制を固めていった。
鎌倉幕府成立当初は頼朝による専制的な支配が続いていたが、頼朝の死後、彼の子である頼家が後を継ぐと、御家人たちは幕府の主導権を握ろうとして激しい権力闘争を行った。その中で北条時政ら十三名の有力御家人による合議制が行われるが、それでも権力闘争がやむことはなかった。権力争いの中で有力御家人が倒されていく中、頼家は暗殺され、その後を継いだ実朝も殺害されてしまう。この二代の将軍が殺された後、勝ち残って言ったのが頼朝の妻である北条政子や、その父で有力御家人の一人である北条時政らの北条家である。この当時、すでに時政は引..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ロミオとジュリエット]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953905014038@hc11/78700/]]></link>
			<author><![CDATA[ by alen]]></author>
			<category><![CDATA[alenの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 06 Feb 2011 16:13:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953905014038@hc11/78700/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953905014038@hc11/78700/" target="_blank"><img src="/docs/953905014038@hc11/78700/thmb.jpg?s=s&r=1296976394&t=n" border="0"></a><br /><br />ロミオとジュリエットの中のリアリティ・普遍性
主に映画について[91]<br />映画「ロミオとジュリエット」を観て
　　　　　　　　　　　　
　誰もが、あらすじだけは多少なりとも知っているこの悲劇の話は、これまで幾度となく映画化されてきました。その中でもフランコ・ゼフィレッリ監督のものが不朽の名作と言われるくらい、多くの人達に受け入れられてきました。
ロミオとジュリエットが、映像化してもなお、こんなにも人々に感動を与えられたのはなぜでしょうか。なぜ多くの映画の中でフランコ・ゼフィレッリ監督のものが名作と言われるのでしょうか。
１９６８年に制作されたフランコ・ゼフィレッリ監督の作品は、オリヴィア・ハッセーとレナード・ホワイティングの2人の初々しい演技が印象的な映画です。特にオリヴィア・ハッセーは、息をのむような美しさで、可愛らしくも気の強いジュリエットをみずみずしく演じました。そこに、ニーノ・ロータの美しい音楽がうまく交わり、2度とない名作が生まれたのだと思います。しかし、この作品の注目すべき点はそれだけではありません。このロミオとジュリエットは、他のどの作品よりも原作を忠実に再現しているのです。そのため、台詞も古典的な言い回しを耳にすることができます。
ロミオとジ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[コリャードさんげろく語釈]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/78443/]]></link>
			<author><![CDATA[ by レゲトニック]]></author>
			<category><![CDATA[レゲトニックの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 01 Feb 2011 17:01:35 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/78443/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/reggaetonique/78443/" target="_blank"><img src="/docs/reggaetonique/78443/thmb.jpg?s=s&r=1296547295&t=n" border="0"></a><br /><br />2010年度国語学演習で取り扱った内容です。
担当範囲のみの詳細調査ですが、調査法において参考になると思います。

キリシタン文献の中でも、スペイン人宣教師のコリャードが綴った「懺悔」を記録した書で、
当時の口語を研究する上でも有効となる資[344]<br />～　語釈　～（18ぺ32行～20ぺ28行）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　広辞苑（岩波書店）／全訳古語辞典（旺文社）第五版
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　コリャード懺悔録（岩波書店）
○　奉行（ぶぎゃう）
【広】①上命を報じて公事・行事を執行すること。また、その担当者。（徒然）
　　　②武家の職名。政務を分掌して一部局を担当する者。
【古】①上の命によって事を行うこと。また、その人。（徒然）
　　　②武家時代の職名。一部局の長官。
　　　　鎌倉・室町時代は「評定衆（ひようじょうしゆう）」「引き付け衆」を、「公事（くじ）奉行人」という。
　
の
Ⅰ（格助詞）所有者を示す。「が」に比べ敬意をこめて使われることもある。
　Ⅱ室町時代以降の用法では並立助詞
　①物事を並べ挙げて問題にする。
　②ある活用語とその否定形とを重ねて上の語の意味を強める。
○せられた（せ￤られる）
　（尊敬の助動詞セルの未然形に尊敬の助動詞ラレルの付いたもの）五段動詞の未然形に接続して、極めて高い尊敬を表す。
○即ち（すなわち）（則ち）
　Ⅰ①（名）その時。即座。（万葉）　
Ⅱ①（副）即座に。ただちに。すぐに。（源氏）②そこで。そうして。（古事記）
○上られた（のぼられた）
　③京都で、北（内裏の方向）に向かって行くこと。（平家）
○へ（格助詞）（名詞「辺」から助詞化した語。現代語の発音は「エ」）
　③動作・作用の働きかける相手を示す。（平家）
○とも（接続助詞）
　①逆接の仮定条件を示す。たとい・・・しても。
○ども（共）
①複数化の接尾語。体言に添えてその語の表す物事が多くある意を表す。
　　謙譲、あるいは見下した意が加わることが多い。（古事記）
　②一人称の語に付き、へりくだった気持ちを表す。単数にも用いる。
○　の・す（乗す・載す）
【古】①載せる（源氏）　　②記載する。記録する。（徒然）
日記（にき）
【古】「　にっき」の促音「っ」が表記されない形で「にっき」に同じ。
自己の見聞による体験を、年月日を明らかにして書きとどめた記録。
上る（のぼる）
高いところに行く。（万葉）（日葡辞書）
使ひ（つかひ）
　【古】③神仏の使い。（【広】に同じ）特に、神仏の使いをするという動物。稲荷（いなり）の狐（きつね）、春日（かすが）の鹿（しか）など。
　狐&rarr;日本では人をだますと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史概論１　律令国家＆中世文化]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/78286/]]></link>
			<author><![CDATA[ by takatakatakataka]]></author>
			<category><![CDATA[takatakatakatakaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 30 Jan 2011 01:24:56 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/78286/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/78286/" target="_blank"><img src="/docs/956245538842@hc10/78286/thmb.jpg?s=s&r=1296318296&t=n" border="0"></a><br /><br />一　大宝律令以後の律令制では、国家が土地を支配し熟田を管理したる。班田収受制によって六歳以上の男女に口分田が与えられた。律令施行後まもなく口分田は不足し、三世一身の法の後、墾田永年私財法が七四三年に成立し、墾田の永年私用を認めることとなった。これは土地の私有制度のようにみえるが、豪族・農民の開墾意欲を刺激して耕地の拡大をはかり、口分田と墾田の全体を国家が把握するという目的があった。
しかし平安時代に入るころから、造籍・班田はしだいに実施困難となる。課役逃れがその大きな要因で、戸籍に記されない浮浪人も増えた。没落した農民は在地有力者のもとに労働者として吸収され、階層分化がすすむ。国家側も公栄田や官田の設営など、在地有力者である「力田の輩」に経営をゆだね、その収益を行政諸費用にあてる政策をうちだし、中央財政の悪化に対応しようとした。
　その後、中央においては、畿内官田は中央諸官司に分割され諸司田化する。律令制本来の画一的な租税分配における中央集権的財政機構が解体し、重要諸官司ごとの経済基盤がつくられていく。天皇家でも大規模な勅旨田の設定、親王・内親王への賜田などで私的所領を広げ、これらは後..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[哲学概論１　近代哲学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/66054/]]></link>
			<author><![CDATA[ by takatakatakataka]]></author>
			<category><![CDATA[takatakatakatakaの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 22 Apr 2010 02:04:22 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/66054/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956245538842@hc10/66054/" target="_blank"><img src="/docs/956245538842@hc10/66054/thmb.jpg?s=s&r=1271869462&t=n" border="0"></a><br /><br />近代哲学の特質を説明する上で、近代哲学自体を考察したところで、その内容を説明できない。なぜなら、中世人の世界観、哲学がどのようなものであったかを理解しなければ、その革新性を説明できないからである。以下では、中世人の世界観とその哲学を取り上げ、近代にルネサンス運動を通じ思想はどのように変化していったかを概観し、その思想の中心にある近代哲学の特質を説明していきたい。
中世人の世界観は神と共にあった。中世スコラ哲学においては以下の二点に特徴があった。一つは、万物には魂が内在し、それが物質を動かす原動力となっており、それは段階を追って精神から天使を経て最終的には神に到るという考え方である。もう一つは、神によって与えられた位序（オルド）だ。この神によって与えられた位序により、人の生活は決まるという考え方である。このような階層的な考え方は、身分制度と相なし、中世人の世界観となっていた。
この状況に大きな変化をもたらしたものはルネサンス運動である。それは人文主義、文芸復興、宗教改革運動など様々な面を持つのだが、それらはすべて人間中心主義という考え方を持っていた。それまでの神中心の考え方から人間中心の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋史Ⅱ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953882190485@hc11/78025/]]></link>
			<author><![CDATA[ by meicoro]]></author>
			<category><![CDATA[meicoroの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 26 Jan 2011 01:05:41 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/953882190485@hc11/78025/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/953882190485@hc11/78025/" target="_blank"><img src="/docs/953882190485@hc11/78025/thmb.jpg?s=s&r=1295971541&t=n" border="0"></a><br /><br />中世西洋史について、
Ⅰ　知る、拓く、生きる
Ⅱ　着る、食べる、住む
にわけてまとめ、感想をそえたものである。[162]<br />Ⅰ　知る、拓く、生きる
「新しい文化史」とは何か
　文化史は宗教や習俗の違いによる対立が深刻になったことと関係しており、こうした現実を反映し、政治や社会の変動などを人々の習慣や価値意識の変容から説明するという歴史研究が新しく進んでいる。また、服装や食事、家族構成と年齢・性差、音楽などに視点をあて、そこから中世の人々の生活世界、ライフサイクル、世界観を研究するという新しい文化史の分析手法がみてとれるようになった。
　文化はその国の独特の思想、習慣、社会の根底にあるものであり、文化を理解するということはその国の人々を理解することにつながる。文化を理解し合うことでお互いを理解し、違う宗教や習慣の違いによる対立をなくすことができるのではないかと私は考える。
「森林―アルビオンの森林史話」
　中世ヨーロッパの人々にとっての森は、悪霊の住む異界として恐れられていたり、養豚や養蜂に必要不可欠な恵みの森として位置していたり、国王直轄の森を御料林区域としてそこに一般法とは異なる御料林法を制定し役職を設けるなど、制度としての森として機能するなど、様々な意味を持つものであった。また、森には逃亡者が逃げ込んだ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[古文書学　第二設題　A判定　(佛教大学　通信)]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/77582/]]></link>
			<author><![CDATA[ by み-こ]]></author>
			<category><![CDATA[み-この資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 18 Jan 2011 12:26:47 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/77582/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955757101877@hc10/77582/" target="_blank"><img src="/docs/955757101877@hc10/77582/thmb.jpg?s=s&r=1295321207&t=n" border="0"></a><br /><br />中世の起請文について、その特色を述べよ。[60]<br />中世の起請文について、その特色を述べよ。
　まず、起請文とは『宣誓の内容は絶対に間違いない、もしそれが誤りであったら（すなわち宣誓が破られた場合には）、神仏などの呪術的な力によって自分は罰を受けるであろうという意味の文言を付記した宣誓書』（二二〇頁）であり、罰文・告文・神判・誓紙などともよばれた。その書出しに「敬白　起請文」と書くのがほぼ定型で、『より重要なことは、その事柄について偽りない旨を宣誓し、もし偽りがあれば神仏の罰を蒙るべきことの二点を記述する。』（二二八頁）前半の遵守すべき誓約を述べた部分を前書といい、後半の神仏の勧請及び呪詛文言を神文という。
　神文には、誓約した場合にその罰を蒙るべき神仏の名を記載する。神仏の名は時代が進むにつれて増加し、戦国時代にきわめて多い。どのような神仏が勧請されるかは場合によって異なり、梵天・帝釈・四天王にはじまり、「日本国中大小神祗冥道」といったような包括的な表現をした後に、個別の神名を列挙するのが通例である。天照大神がでてくるようになるのは、鎌倉時代以降で、伊豆・箱根の大権現・三島大明神が現れるのは、御成敗式目に付いている起請文の影響であろう..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[イメージを読む――西洋中世美術のイメージ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/]]></link>
			<author><![CDATA[ by happy365days]]></author>
			<category><![CDATA[happy365daysの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 20:26:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960846083458@hc08/77321/" target="_blank"><img src="/docs/960846083458@hc08/77321/thmb.jpg?s=s&r=1294831585&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
　美術作品においては、作品そのものはもちろんのこと、その作品が表す物体や色のもつイメージも重要な意味を持っている。様々な物体や色に対するイメージは、時代や文化、地域、宗教によって異なっており、美術作品が表しているものを知るためには、その作品が作られた当時のイメージを知ることも必要である。
そこで、本レポートでは、西洋中世美術におけるイメージとは何かを、不可視の神を可視化して表すイコンに着目して考えたい。また、可視と考えられる動物を対象とする動物画とイメージの関係についても考察したい。
２．イメージとは
　イメージとは、ギリシア語のエイコン、ファンタスマに対応するラテン語イマゴ（imago）に由来する言葉である。美術においてイメージとは、何かによく似た「模像」、すなわちある対象を表した肖像・彫像であるとともに、その対象の象徴そのものも意味している。そのため、イメージは表す対象が不在であっても成立する。イメージとは、時空間的に離れたものと現在、可視のものと不可視のものを媒介するものなのである。
例えばキリスト教思想の中では、イメージに対して積極的な意味づけがなされ、人間は「神..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[仏教大学　日本文学概論　設題１（Ａ判定）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/76180/]]></link>
			<author><![CDATA[ by kyokatt_912]]></author>
			<category><![CDATA[kyokatt_912の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 30 Nov 2010 13:20:29 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/76180/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957236580345@hc09/76180/" target="_blank"><img src="/docs/957236580345@hc09/76180/thmb.jpg?s=s&r=1291090829&t=n" border="0"></a><br /><br />『徒然草』第７段、第５１段、第６０段、第７４段、第９２段、第１０６段、第１５５段を読み、そこに共通する作者の考えを論ぜよ。[183]<br />『徒然草』第７段、第５１段、第６０段、第７４段、第９２段、第１０６段、第１５５段を読み、そこに共通する作者の考えを論ぜよ。
　まず吉田兼好は『徒然草』の第七段において、「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし」（この世に生きるものを見てみると、人間のようにだらだらと生きているものも珍しい）と述べている。
要は「人というものは、生きすぎだ」だと言っているようだ。
読むとさらにこう続く。
「住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん」（永遠に存在することなどできない世の中で、醜い姿になるまで生きて、何になるのだろうか）。
「ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき」（世俗的な名利を欲しがる心ばかり強くなり、物事の情趣を感ずる心もなくなっていくのは嘆かわしい）。
この段は『徒然草』の中でも特に有名なものである。平均寿命が四十代前半であった当時において、『徒然草』を執筆した兼好自身、ちょうどその年齢にあった。皮肉にも兼好はこの後、倍近くも生きることになるのであるが、それはさておき、ここにあるのは彼の強烈な無常観である。
　次に第七十四段。
「常住ならんこと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本史概説　分冊１　日大通信　合格]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/]]></link>
			<author><![CDATA[ by acidblack]]></author>
			<category><![CDATA[acidblackの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 31 Aug 2010 22:22:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959269842037@hc09/70879/" target="_blank"><img src="/docs/959269842037@hc09/70879/thmb.jpg?s=s&r=1283260971&t=n" border="0"></a><br /><br />※参考資料としてお使いください。[48]<br />律令国家から王朝国家体制への転換について述べる。律令国家は積極的に蝦夷支配をすすめ、多くの城柵が東北地方各地におかれた。支配に服した蝦夷の一部は俘囚として内地に送られ、逆に東国を中心とする内地の民が柵戸として移住させられ開墾にあたった。城柵では蝦夷に対する饗給も行われ、帰順をすすめた。こうした中央勢力との接触で蝦夷社会では急速な農耕化と階層分化がすすめ、内部には政治的支配層が生まれつつあった。蝦夷社会の支配をめぐり、成長しつつある在地勢力と中央勢力が正面衝突することとなった。唐が衰退し新羅との緊張がゆるむという国際関係の変化も、蝦夷に大規模な軍事力をふりむけることを可能にした。征夷軍は首長阿弓流為の軍に大敗するが、その後、坂之上田村麻呂が登用され、ようやく延暦二十一年、蝦夷社会の中心地である北上川中流域に胆沢城を築き、氾濫はほぼ鎮圧された。藤原緒嗣の進言によって、以後の征討は中止され、蝦夷の内民化がすすんだ。次に蔵人所の成立について述べる。八百十年、上皇が平城遷都をくわだてるにいたって、嵯峨は上皇側近の藤原仲成・薬子の兄弟を討ち、平城上皇は出家して皇権の分裂は解消された。以後、公的には..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[コルセットの歴史からみる西欧の女性の立場]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/69032/]]></link>
			<author><![CDATA[ by mela]]></author>
			<category><![CDATA[melaの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 09 Jul 2010 14:23:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/69032/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/955593150302@hc10/69032/" target="_blank"><img src="/docs/955593150302@hc10/69032/thmb.jpg?s=s&r=1278652988&t=n" border="0"></a><br /><br />1、はじめに
コルセットは、中世から20世紀初頭にかけて西洋の女性たちのウエストを締め付けてきたといわれている。なぜ女性たちは、過剰な紐締めが及ばす健康上の危険と闘いながらもコルセットを愛用してきたのだろうか。
本レポートでは、コルセットの文化について明らかにし、その時代の背景と女性について検証する。
2、コルセットとは
　コルセットとは、胸や腰を引き締めるための女性用の補正下着のことである。一般的にドレスの下に着用し、中世から20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで流行した。
18世紀までは上流階級の女性のみが使用していたが、19世紀から大衆化し、西洋では一般的な下着であったといわれている。
3、コルセットの起源
コルセットが一般化されたのは中世だと言われている。しかしその起源は古く、紀元前1500年前のクレタ文明の女性たちはコルセットに似たようなものを着用していたといわれている。
古代ギリシアの文化では、バストを強調したりウエストを締め付けるためではなくサポーターとして、バストをおさえたり腹部を平たくする帯状の下着が用いられていたという。
しかしローマの時代になると、女性の乳房は..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[西洋経済史　分冊１]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958851864720@hc09/68954/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ＡＹＡＭＩＮ]]></author>
			<category><![CDATA[ＡＹＡＭＩＮの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Jul 2010 07:06:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958851864720@hc09/68954/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958851864720@hc09/68954/" target="_blank"><img src="/docs/958851864720@hc09/68954/thmb.jpg?s=s&r=1278281167&t=n" border="0"></a><br /><br />古代や中世から商人は活動していたがその当時はただ商品を販売していただけだった。中世後期になると、商業資本の役割が大きくなり商業資本が産業を支配し組織したという点で、従来の商人とは違った意味を持ってきた。そして、産業を支配し組織した商人は、問屋制手工業と呼ばれた。
　問屋制手工業は12世紀から目立ち始め、15世紀に盛んになった生産組織の方法である。商人か職人に対して原材料を貸し与え、職人はそれを自宅で加工することによって賃金をもらう。ギルドの手工業者とはちがって、全工程の仕事はしない。ある分業の仕事だけをする。商人はこの工程をいくつかに分割をして、第一工程の職人の家から第二工程の職人の家へと商品を移して、最終的な完成品までにもっていくと、これを商人の倉庫に保管し、市場に販売して利益をあげる。マニュファクチュアが一つの工場の中で行った分業を、それぞれの職人の家でおこなわせ、最終的に商人がそれをまとめる役割をもった。
　商人あるいは問屋が一種の資本家となり、職人は賃金をもらうだけの一種の労働者になった。ギルドの親方がこのような立場の職人にはならないが、従来奉公を終わりながら親方になれなかっ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ローマ法継受]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958936071063@hc09/67517/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rindberg21]]></author>
			<category><![CDATA[rindberg21の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 19 May 2010 20:06:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958936071063@hc09/67517/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958936071063@hc09/67517/" target="_blank"><img src="/docs/958936071063@hc09/67517/thmb.jpg?s=s&r=1274267179&t=n" border="0"></a><br /><br />１．ローマ帝国においては、古代においては例外的に取引が活発に行われ、その取引にまつわる紛争とその解決方法についての先例が積み重ねられ、それらは６世紀に皇帝ユスティニアヌスの命により「ローマ法大全」として集大成された。ローマ帝国滅亡後の中世ヨーロッパにおいてはローマ法が使われることが多かったが、このことは、ローマ法が実際の紛争を解決できる法であったからであり、「ローマ法は、帝権の故にではなく、理性の力によって継受された」とも言われている。
２．ローマ法の継受は３期に区分することができる。①中世初期のゲルマン部族法におけるローマ卑俗法の継受②１５～１６世紀の中世イタリアの普通法（注釈学派、後期注釈学派によって加工されたローマ法）の継受③１９世紀のパンデクテン法学によるローマ法の継受（後期継受）である。
ローマ法の継受は、中世の帝国がローマ帝国を承認したものとする考え方に基づき、法学者がユスティニアヌス法典を「書かれた理性」とみて、法的問題解決のよりどころとしたことにある。
３．中世ローマ法学の成果は広くヨーロッパ全体に影響を及ぼしたが、なかでもドイツでのローマ法の浸透・同化の過程は「継受..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文法①]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956462851262@hc10/66950/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hashiru_otoko]]></author>
			<category><![CDATA[hashiru_otokoの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 12 May 2010 22:16:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956462851262@hc10/66950/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956462851262@hc10/66950/" target="_blank"><img src="/docs/956462851262@hc10/66950/thmb.jpg?s=s&r=1273670202&t=n" border="0"></a><br /><br />連用修飾とは、用言である動詞・形容詞・形容動詞を修飾し、動作・状態などを説明・限定して表現する働きである。そして、連用修飾する品詞は、副詞・形容詞の連用形・形容動詞の連用形・動詞の連用形・数量詞などに加え、名詞＋格助詞の形式で連用修飾する。例えば「早足で歩く」という文は「早速」という名詞＋「で」という格助詞が各形式となり、「歩く」という動詞を連用修飾している。
この連用修飾には四つの基本的な型があり、例文を基に述べていく。まずは、述語の用言を修飾する場合である。「ゆっくり静かに歩く」という文は「ゆっくり」と「静かに」がそれぞれ述語の「歩く」という動詞を修飾している。次は、すでに連用修飾している用言をさらに修飾する場合である。「とてもゆっくり歩く」がそれであり「とても」が、すでに「歩く」を修飾している「ゆっくり」をさらに修飾している。三つ目は連用修飾＋述語全体を修飾する場合である。「一所懸命静かに歩く」の「一所懸命」は述語である「静かに歩く」全体を修飾している。最後は、連体修飾をしている用言をさらに修飾する場合である。「とても静かな歩き方」の「静かな歩き方」は連体修飾であり、「とても」が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[レポート：黒澤映画『七人の侍』と六人の女性]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956912323808@hc10/63615/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 東大生KOHKI]]></author>
			<category><![CDATA[東大生KOHKIの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 05 Feb 2010 16:20:46 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/956912323808@hc10/63615/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/956912323808@hc10/63615/" target="_blank"><img src="/docs/956912323808@hc10/63615/thmb.jpg?s=s&r=1265354446&t=n" border="0"></a><br /><br />日本映画に関する研究は，日本のみならず世界においても活発であり，数多くの優れた，内容として興味深い論文が発表されているにもかかわらず，外国語であるせいか敬遠され，また映画という特殊な分野であるためにその翻訳も十分に行われていない。そこで，こ[360]<br />黒澤映画『七人の侍』と六人の女性 
１．はじめに 
日本映画に関する研究は，日本のみならず世界においても活発であり，数多
くの優れた，内容として興味深い論文が発表されているにもかかわらず，外国
語であるせいか敬遠され，また映画という特殊な分野であるためにその翻訳も
十分に行われていない。そこで，ここではある優れた論文の抄訳（簡単な紹介）
を行おうと思う。 
黒澤明の『七人の侍』はよく知られている日本映画の一つである。「侍や百姓
たちは一面的ではなく、特に百姓たちは善悪や強弱を併せ持った存在として描
かれ、侍たちと百姓たちが相互にかかわりあい変化してゆく様がしっかりと描
かれている」（wikipedia ）という点での評価がしばしばなされ，「侍や百姓」に
焦点をあてた論文は非常に数多くある。しかし，実はこの映画では「脇役」と
見られがちな女性たちこそが物語の進行に大きく寄与している。だが，このこ
とに注目した論文はほぼ皆無に等しい。ここで取り上げる論文は，そういった
女性たちの役割に光を当てた傑作である。以下，筆者が行ったその抄訳を掲載
する。 
２．抄訳 
『七人の侍』は，最も分析され..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[自然科学史　錬金術]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961210869645@hc08/61597/]]></link>
			<author><![CDATA[ by julie-uki]]></author>
			<category><![CDATA[julie-ukiの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 08 Jan 2010 22:43:18 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/961210869645@hc08/61597/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/961210869645@hc08/61597/" target="_blank"><img src="/docs/961210869645@hc08/61597/thmb.jpg?s=s&r=1262958198&t=n" border="0"></a><br /><br />錬金術
　錬金術とは卑金属から貴金属を作り出す研究、不老不死の万能薬を製出する研究を指す。また拡大して不完全なものを完全なものに変えるための術ともいわれる。このような試みは成功することはなかったが、副産物として現代の化学器具・薬品の多くが発見されるなど、現代に多大な恩恵をもたらしている。古代オリエントで起こり、ギリシャ、アラビアを経てヨーロッパに伝わった錬金術はどのような歴史的変遷をたどったのだろうか。
　錬金術は古代オリエントを起源とする。古代エジプトでは冶金、建築、染料などの技術が発達していた。ピラミッド、オベリスクといわれる石塔といった巨大建造物、ツタンカーメン王の墓から出土した黄金..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[国文学史Ⅰ②分冊]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/]]></link>
			<author><![CDATA[ by oniwaban_hime]]></author>
			<category><![CDATA[oniwaban_himeの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Dec 2009 01:04:26 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/962368413739@hc08/60838/" target="_blank"><img src="/docs/962368413739@hc08/60838/thmb.jpg?s=s&r=1260893066&t=n" border="0"></a><br /><br />「平家物語」という作品は、保元の乱・平治の乱勝利後の平家と、敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を描いた軍記物語である。「祇園精舎の鐘の声&hellip;」の有名な書き出しをはじめとして、広く人々に浸透している。
物語の作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられ、定かではないが、「徒然草」によれば、延暦寺の慈円のもとに扶持されていた信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人の生仏が作ったとされている。仏教界の中心人物であり、「愚管抄」を書いた慈円と、公家である行長、東国の武士社会との関わりが深い生仏が提携していることからも、他の古典作品とは異なる物語の成り立ちや歴史観の複雑さが伺われる。
　「平家物語」の時代背景は平安時代後期で、保元の乱・平治の乱を通じて武士の政治的地位が上昇した時代である。両乱の後の、源平合戦が長期に渡り続き、最終的に治承・寿永の乱を経て源家の鎌倉幕府が勝利し、貴族中心であった平安時代は終結する。今までの貴族の摂関政治が衰え、度重なる内乱による社会的動乱期であったこの時代は、治安の..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[入浴の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957942689751@hc09/60710/]]></link>
			<author><![CDATA[ by happy1124]]></author>
			<category><![CDATA[happy1124の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Dec 2009 18:54:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957942689751@hc09/60710/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957942689751@hc09/60710/" target="_blank"><img src="/docs/957942689751@hc09/60710/thmb.jpg?s=s&r=1260525273&t=n" border="0"></a><br /><br />入浴するということは、現代の私たちにとって毎日の当たり前の習慣であり、衛生的な生活をするために欠かせないものである。しかし、ヨーロッパでは入浴の習慣がなく、入浴をしなくても「清潔」であった時代があった。ヨーロッパ人は外見をキレイに着飾っているため、汚いというイメージは最初には湧かないと思う。そういった入浴習慣がなかった時代のヨーロッパで、臭いニオイを取り除くため必要となったのは香水である。入浴の歴史と共に香水の歴史を追い、人々の清潔につい考えたいと思う。
古代の人々は、一日に何度も風呂に入った。男女ともに浴びるように香料を使った。しかも、体臭をごまかすためでなく、純粋に香りを楽しむために香料を使っていた。香料の歴史は、古代エジプト王朝期、クレオパトラの熱愛したといわれる調合香料「キフィ」にまで遡ることができる。古代から香りは、上流階級の楽しみのひとつであった。また、古代ギリシャ時代には、香料が初めて「美容」のために使われた。カツラや顔にすり込むなど、「化粧品」としての用途である。しかし、キリスト教が４世紀にローマ帝国に入ってきて、「キリスト教は、香りを神々に捧げることは偶像崇拝と非難し..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『中世成立期の歴史像』を読む]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59411/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zenimaru]]></author>
			<category><![CDATA[zenimaruの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 10:41:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59411/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59411/" target="_blank"><img src="/docs/957586691839@hc09/59411/thmb.jpg?s=s&r=1258940481&t=n" border="0"></a><br /><br />私は、1993年東京堂出版発行の、十世紀研究会編『中世成立期の歴史像』を読んだ。とくに、三七三頁から三九一頁の福島正樹著『中世成立期の国家と民衆を考えるために　－公門上訴を素材として―』に興味を覚えたので、その要点を述べる。
平安時代ない[348]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世の一揆について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59402/]]></link>
			<author><![CDATA[ by zenimaru]]></author>
			<category><![CDATA[zenimaruの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 23 Nov 2009 10:41:08 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59402/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/957586691839@hc09/59402/" target="_blank"><img src="/docs/957586691839@hc09/59402/thmb.jpg?s=s&r=1258940468&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
「一揆」と聞いて何が思い浮かぶであろうか。農民が飢饉や不作、重税に喘ぎ権力者に対して鍬や鎌、竹槍などを武器にして領主を襲撃する様子を思い浮かべるのではないだろうか。日本において、中世期、特に室町時代から土一揆と呼ばれる農民の権力[356]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[【レポート】英文学史　第1設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959378504057@hc09/58877/]]></link>
			<author><![CDATA[ by hikaru954]]></author>
			<category><![CDATA[hikaru954の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 00:25:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959378504057@hc09/58877/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959378504057@hc09/58877/" target="_blank"><img src="/docs/959378504057@hc09/58877/thmb.jpg?s=s&r=1258212300&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本文学史　第一設題]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960811353085@hc08/57103/]]></link>
			<author><![CDATA[ by p1205]]></author>
			<category><![CDATA[p1205の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 14:10:02 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960811353085@hc08/57103/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960811353085@hc08/57103/" target="_blank"><img src="/docs/960811353085@hc08/57103/thmb.jpg?s=s&r=1257225002&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[精神科リハビリテーションの概念について述べよ]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428477901@hc07/57009/]]></link>
			<author><![CDATA[ by seira]]></author>
			<category><![CDATA[seiraの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 02 Nov 2009 05:00:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983428477901@hc07/57009/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983428477901@hc07/57009/" target="_blank"><img src="/docs/983428477901@hc07/57009/thmb.jpg?s=s&r=1257105642&t=n" border="0"></a><br /><br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[教育史　日本の中世社会 リポート評価【B】]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54778/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 7034]]></author>
			<category><![CDATA[7034の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 10:16:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54778/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958743720306@hc09/54778/" target="_blank"><img src="/docs/958743720306@hc09/54778/thmb.jpg?s=s&r=1251854171&t=n" border="0"></a><br /><br />日本の中世社会というと、十二世紀半ばである平安時代から織田信長が安土城を建設した一五七六年頃までの安土桃山時代を捉えることができる。この頃の社会は古代律令国家の位階や官職制を継承して、権力の構成原理としている朝廷と、封建的主従関係の基礎とし[360]<br />日本の中世社会というと、十二世紀半ばである平安時代から織田信長が安土城を建設した一五七六年頃までの安土桃山時代を捉えることができる。この頃の社会は古代律令国家の位階や官職制を継承して、権力の構成原理としている朝廷と、封建的主従関係の基礎として構成されている幕府の両者が存在し、この二つが対立しつつまたこの二つが一つの統治体制を作っていた時代である。武士の実力によって荘園制が崩されて、経済力が武士に移行し、やがて武士同士の領国争いを通じて武士の世になっていくのである。人々の精神世界は仏教が支配した世界であった。古代からの仏教とともに鎌倉仏教が登場し、和文による念仏を唱えることでの布教をし、教団の組..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[近代英語以前のイギリス言語と文学]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959461217523@hc09/49177/]]></link>
			<author><![CDATA[ by choco25]]></author>
			<category><![CDATA[choco25の資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 21 May 2009 00:05:50 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/959461217523@hc09/49177/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/959461217523@hc09/49177/" target="_blank"><img src="/docs/959461217523@hc09/49177/thmb.jpg?s=s&r=1242831950&t=n" border="0"></a><br /><br />２、近代英語が成立する以前のイギリスの言葉と文学
古代から中世にかけて、いろいろの民族が波状的にイギリスに移動した。今日のイギリスはこれらの外来民族の融合によって成立した。紀元前６世紀頃から中・西欧に広く分布していたケルト人が長い期間にわた[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[『「死せる魂」の社会史』を読んで（要約・書評・感想）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53363/]]></link>
			<author><![CDATA[ by camsa10]]></author>
			<category><![CDATA[camsa10の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 02 Aug 2009 00:42:45 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53363/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53363/" target="_blank"><img src="/docs/958518609389@hc09/53363/thmb.jpg?s=s&r=1249141365&t=n" border="0"></a><br /><br />『「死せる魂」の社会史』を読んで（要約・書評・感想）
序
　本書は、18世紀以降の近世ロシアに生きる農民たちの日常生活や内面意識を、身分制や共同体生活の観点から、豊富な資料を基に描き出したものである。
　一般的に近世ロシアというと、啓[344]<br />『「死せる魂」の社会史』を読んで（要約・書評・感想）
序
　本書は、18世紀以降の近世ロシアに生きる農民たちの日常生活や内面意識を、身分制や共同体生活の観点から、豊富な資料を基に描き出したものである。
　一般的に近世ロシアというと、啓蒙専制君主による中央集権化と急速な近代化・大国化といった教科書的なイメージを抱きがちである。しかし、近世ヨーロッパ全体で人口的に多数を占めていた農民の生活・意識を理解することなく、近世社会の実像を捉えることは困難であると思う。その意味で、本書で詳細に分析された農民の在り方は非常に興味深いものである。
　以下では、本書に描かれた農奴制の下での農民の生と意識についてまとめていきたい。
1. 農奴制と共同体
　18世紀ロシアの人口の大多数を占めていたのは、他の欧州諸国と同様に農民であった。その実情は、農民の納税義務の徹底のために政府が度々実施した人口調査に見ることができる。本書では、農民の中でも「農奴」と呼ばれる領主の人格的支配の下にあった人々を主に扱うが、彼らは全農民の約半数を占めていた。
　農民はその規模の差こそあれ、ミールと呼ばれる共同体の中で生活していた..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フランス学総合研究　化粧]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958830635985@hc09/51633/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ramu-]]></author>
			<category><![CDATA[ramu-の資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 21:36:21 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958830635985@hc09/51633/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958830635985@hc09/51633/" target="_blank"><img src="/docs/958830635985@hc09/51633/thmb.jpg?s=s&r=1246019781&t=n" border="0"></a><br /><br />化粧の日仏比較
　化粧することによって人は普段とは違う自分を見出し、時には別人になったかのようにふるまう。化粧という文字のとおり、人は《化け》《装う》のだ。しかし、その化け方もさまざまである。現代で比較してみると大差はないが、古来の日本の化[358]<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　化粧の日仏比較
　化粧することによって人は普段とは違う自分を見出し、時には別人になったかのようにふるまう。化粧という文字のとおり、人は《化け》《装う》のだ。しかし、その化け方もさまざまである。現代で比較してみると大差はないが、古来の日本の化粧とヨーロッパでの化粧を比較してみると違いがあるのは明らかである。それは文化のなかで養われてきたものであり、食や衣服の文化が異なるように違いは明らかなのである。
ではまず、化粧の歴史から考察していきたいと思う。化粧は、原始の時代から行われてきた。このころの化粧の主たる理由は、呪術、異性を魅惑、敵を威嚇するために使われていた。化粧をすることで、新たな力が授かるという考えがあったようである。ネアンデルタール人は、狩猟に出る際に赤の粘土や顔料でペインティングをしたといわれている。赤色は生命力を感じさせる色であり、太陽や血液などありとあらゆる力に関連していることから使用されてきました。日本では、縄文時代・弥生時代・古墳時代まで肌に赤い色を塗ることが化粧とされていた。「魔除け」と..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ロマネスクとゴシックの教会]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429326001@hc06/41847/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ウタ]]></author>
			<category><![CDATA[ウタの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 11 Apr 2009 20:40:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429326001@hc06/41847/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429326001@hc06/41847/" target="_blank"><img src="/docs/983429326001@hc06/41847/thmb.jpg?s=s&r=1239450030&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　ローマの街を眺め、数ある建築物の中でまず目に飛び込んでくるのが、教会の高い鐘楼であり、クポーラである。サンタ・マリア・イン・コスメディン教会、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂等の鐘楼、[358]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世文学史　テスト]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960191261223@hc09/34131/]]></link>
			<author><![CDATA[ by あやか☆]]></author>
			<category><![CDATA[あやか☆の資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 20 Jan 2009 10:00:14 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/960191261223@hc09/34131/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/960191261223@hc09/34131/" target="_blank"><img src="/docs/960191261223@hc09/34131/thmb.jpg?s=s&r=1232413214&t=n" border="0"></a><br /><br />一、「歴史の三分法」による、「日本文学史（全体）」の時代区分の内容を説明しなさい。その中で、「中世」の始発と終着の時期を、具体的に示しなさい。
①歴史の三分法によって時代を三区分にすると、上代(古代)、中世(中古)、近代(近世)に分けられる[346]<br />]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世の部落]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/11943/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ｙｕｎｋａ]]></author>
			<category><![CDATA[ｙｕｎｋａの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 07 Dec 2006 16:09:09 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/11943/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431275501@hc06/11943/" target="_blank"><img src="/docs/983431275501@hc06/11943/thmb.jpg?s=s&r=1165475349&t=n" border="0"></a><br /><br />中世の部落
「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の11、12世紀から戦国時代末期の16世紀までを言う。中世の部落を見ていくことにする。
中世社会において、基本的な生産とされたのは農民であった。農民たちは年貢などの税を負担しながらも、自[340]<br />中世の部落
「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の11、12世紀から戦国時代末期の16世紀までを言う。中世の部落を見ていくことにする。
中世社会において、基本的な生産とされたのは農民であった。農民たちは年貢などの税を負担しながらも、自分たちの土地を持ち生活していた。その中で民衆の共同体ができ、有力住民を中心にまとまり、次第に自治的なしくみが成立していった。しかし、その実態は一部の有力者が下層住民を支配するものであったのだ。村のまとまりが強くなると、そこの住民とそうでない者の区別がなされ、差別や排除を前提とした自治が成り立ったのだ。そうした中で、「ヒト」が隷属し不自由化していった。その具体的例として、犯罪、戦争捕虜、災害・病気等窮乏による人身売却、不自由民との婚姻、領主官への逃亡、領主強制などがある。犯罪を免罪になったことや、犯罪処刑者の家族であることから不自由化することもあれば、戦で陣を張った近所の村々で行われた人狩り、飢餓などの危機時に家族を寄進し、隷属し食を得るためなどの理由での不自由化もあった。また、不自由民の女性の娘は不自由民、不自由民の男性の息子は不自由民とするなど、生まれ..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ルネサンス美術表現とその原因および結果]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/18893/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ss_bmw_]]></author>
			<category><![CDATA[ss_bmw_の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 30 Jan 2008 14:38:52 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/18893/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/18893/" target="_blank"><img src="/docs/963400369997@hc08/18893/thmb.jpg?s=s&r=1201671532&t=n" border="0"></a><br /><br />ルネサンスと中世の絵画の最大の違いは、人間と空間の扱い方である。中世では硬直した人間の姿が平面的に描かれていた。それがルネサンスに入り、ジョットが現れて、描かれる人物は彫像性を持ち人間らしい表現へと移行し、空間は奥行きを感じ取れる現実的なも[360]<br />ルネサンスと中世の絵画の最大の違いは、人間と空間の扱い方である。中世では硬直した人間の姿が平面的に描かれていた。それがルネサンスに入り、ジョットが現れて、描かれる人物は彫像性を持ち人間らしい表現へと移行し、空間は奥行きを感じ取れる現実的なものとなった。このような違いは、同じ主題や構図で描かれた、それぞれの時代の聖母子像を比較すれば、一目瞭然であろう。さらに、人体比例や解剖学といった科学的な方法で対象物を画面に再現する研究も進んだ。その結果、中世絵画とは決定的に異なるものとなると同時に、自然主義という表現において完成の域に達する。このように、新しい人間と空間の認識を、科学的に推し進めようとしたのがルネサンスの美術表現である。
このような人物と空間の扱い方の変化の背景には、「人間こそ、あらゆる事物の中心であり、基準である」という人文主義の考え方がある。詩人や哲学者が文献を通じて古典古代を再発見することで、人文主義が生まれた。西洋中世は、キリスト教中心の社会であり、絶対的存在である神と教会、さらに神学という観点から、美術をはじめ、あらゆる活動が行われていた。人間と自然は神の被造物であるという..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[芸術史概論：古代と中世の美術比較論]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/17971/]]></link>
			<author><![CDATA[ by ss_bmw_]]></author>
			<category><![CDATA[ss_bmw_の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 14 Jan 2008 23:54:23 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/17971/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963400369997@hc08/17971/" target="_blank"><img src="/docs/963400369997@hc08/17971/thmb.jpg?s=s&r=1200322463&t=n" border="0"></a><br /><br />ピエタ」を選んだ。「瀕死のガリア人」は紀元前200年の少し前に、侵入者ガリア人に対する戦勝を記念してペルガモンで造られた青銅製の像である。ここに載せた図76は、ローマ時代にそれを大理石で模刻したものである。この像の容貌や乱れた剛毛には人種的[350]<br />ピエタ」を選んだ。「瀕死のガリア人」は紀元前200年の少し前に、侵入者ガリア人に対する戦勝を記念してペルガモンで造られた青銅製の像である。ここに載せた図76は、ローマ時代にそれを大理石で模刻したものである。この像の容貌や乱れた剛毛には人種的な特徴が注意深く表現されている。首に巻いた首飾りもケルト族のもう一つの特徴である。さらに、この像には英雄的裸体表現が見られ、ガリア人の苦痛が写実的に表現され、かなりの威厳とパトスを保っている。このように、彫刻として表現されていることからも、ガリア人は取るに足りぬ敵とみなられてはいなかったことがわかる。また、ここでは死への過程が、きわめて具体的に肉体に表現され..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[猫 az HC]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16041/]]></link>
			<author><![CDATA[ by せいろん]]></author>
			<category><![CDATA[せいろんの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 15 Dec 2007 11:57:57 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16041/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/ceylon_mypage/16041/" target="_blank"><img src="/docs/ceylon_mypage/16041/thmb.jpg?s=s&r=1197687477&t=n" border="0"></a><br /><br />哲学B　夏休み課題レポート　『哲学する猫』を読んで
＜題材にした節＞
第二章　ネコの不幸、人間の不幸
５　人間は肉体で悩む。ネコは肉体をいとおしむ
＜考えたこと、同意点など＞　２、０００文字程度
『肉体こそ全ての悪の根源』であるという、主に[348]<br />哲学B　夏休み課題レポート　『哲学する猫』を読んで
＜題材にした節＞
第二章　ネコの不幸、人間の不幸
５　人間は肉体で悩む。ネコは肉体をいとおしむ
＜考えたこと、同意点など＞　２、０００文字程度
『肉体こそ全ての悪の根源』であるという、主に中世のヨーロッパの人々の考えには私も同感です。
先生のおっしゃるようにまずは場所という問題もあるでしょう。人間の歴史を辿れば、始めは日当たりのよい場所、水害の起こりづらい場所、日本では稲作がはじまってからはしばしば肥沃な土地を巡って人が殺しあっていた筈です。今の日本では上下水道が整い、農家の人口も減りつつあるので自分の庭でそれだけ作物が実るかは重要視はされなくなってきているとは思いますが、それでも資本主義という名の下に日本のわずかな土地を奪い合っているのです。（私は資本主義を支持してはいるのですが。）銀座の駅前に出展する為には熾烈な競争があるでしょうし、白金、成城など土地に対するイメージが出来てしまっているのも事実です。地元には代々山を何個も持っている農家の大地主などもたくさんいる筈です。近世ではバブル時代のように土地の値段が一人歩きしてしまったりと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[情報の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963688114067@hc07/15920/]]></link>
			<author><![CDATA[ by マンガマンガ]]></author>
			<category><![CDATA[マンガマンガの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 14 Dec 2007 10:21:17 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963688114067@hc07/15920/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963688114067@hc07/15920/" target="_blank"><img src="/docs/963688114067@hc07/15920/thmb.jpg?s=s&r=1197595277&t=n" border="0"></a><br /><br />情報の歴史
グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近のメディア研究の成果[358]<br />情報の歴史
グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近のメディア研究の成果のようだ。 
例えば、Michael E. Hobart and Zachary S. Schiffman（1998）Information Ages: Literacy, Numeracy and the Computer Revolutionは、古代メソポタミアにおける文字の誕生から、前世紀中葉の電子式コンピュータの実現までを振り返り、人間が何を情報としてきたか、そして情報とともにあった哲学の対象が何であったかを知るための見取り図である。 
さて、人文学的な意味での情報は、人間の「ことば」という活動と深く結びついている。そのことばは、人間がとらえた外的世界の事象と心的世界における想起との具体的な結びつきを解放した。ことばを媒介にすることで、人間は「今ここ」に現前しない事象や、過去の記憶を対象にすることができるようになったのだが、著者らは、そのよう..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[情報の歴史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/queensms/15636/]]></link>
			<author><![CDATA[ by チュアー]]></author>
			<category><![CDATA[チュアーの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 06 Dec 2007 11:38:07 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/queensms/15636/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/queensms/15636/" target="_blank"><img src="/docs/queensms/15636/thmb.jpg?s=s&r=1196908687&t=n" border="0"></a><br /><br />情報の歴史、 次のひとコマは グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近の[356]<br />情報の歴史、 次のひとコマは グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近のメディア研究の成果のようだ。 例えば、Michael E. Hobart and Zachary S. Schiffman（1998）Information Ages: Literacy, Numeracy and the Computer Revolutionは、古代メソポタミアにおける文字の誕生から、前世紀中葉の電子式コンピュータの実現までを振り返り、人間が何を情報としてきたか、そして情報とともにあった哲学の対象が何であったかを知るための見取り図である。 さて、人文学的な意味での情報は、人間の「ことば」という活動と深く結びついている。そのことばは、人間がとらえた外的世界の事象と心的世界における想起との具体的な結びつきを解放した。ことばを媒介にすることで、人間は「今ここ」に現前しない事象や、過去の記憶を対象にすることができるようになったのだが、著者..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世修道制度における年少者]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15605/]]></link>
			<author><![CDATA[ by Eusebius]]></author>
			<category><![CDATA[Eusebiusの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 05 Dec 2007 00:30:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15605/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/963754529070@hc07/15605/" target="_blank"><img src="/docs/963754529070@hc07/15605/thmb.jpg?s=s&r=1196782219&t=n" border="0"></a><br /><br />国際関係研究Ia/Ib
10 Jan 2007
中世修道制度における年少者
I. 初期中世の修道制と年少者
したがって、かなり早くからこのような年少者の存在の事例にはこと欠かない。「イギリス教会史」を著した聖ベーダ・ヴェネラビリス（[306]<br />国際関係研究Ia/Ib
10 Jan 2007
中世修道制度における年少者
I. 初期中世の修道制と年少者
　修道院に年少者が存在していたという証言は、かなり古くから存在している。
　聖ベネディクトゥスによりラテン教会において修道院制度が整備されたときには、すでに年少者が修道士として認められていた。聖ベネディクトゥス自身が起草した「戒律」の30および37章には、修道院に捧げられた子供が存在していたことを示している。 
したがって、かなり早くからこのような年少者の存在の事例にはこと欠かない。「イギリス教会史」を著した聖ベーダ・ヴェネラビリス（673-735）はその第５巻２４章において、7歳のときに「親族の配慮」で修道院に入り、１９歳で助祭に、３０歳で司祭に叙せられた、と自ら語る。なおイギリスでは９世紀まですべての修道院はベネディクトゥス派であった。 12世紀のサヴィニーでは、12歳以下の少女は入会を許されず修練期は１９歳からと決まっていたが、かなり融通が利いたようだ。パリ郊外のサン・アントワーヌ・デ・シャンにおいては、修道院長が「思慮分別のつく年齢」を８歳としている。 このように年少者が..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世〈地獄〉と〈極楽〉の思想]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10643/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サカマ]]></author>
			<category><![CDATA[サカマの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 19 Aug 2006 12:31:03 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10643/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10643/" target="_blank"><img src="/docs/983429731901@hc06/10643/thmb.jpg?s=s&r=1155958263&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに　
日本の文学には中国の影響が良く見ることが出来る。そこで私はある日本の文献を読んでいた時に〈地獄の思想〉が色濃く出ているものがあり、その話に興味をひかれた。内容を読み進めるうちにあることに気付いた。それは、当然〈地獄〉があればな[356]<br />中世　〈地獄〉と〈極楽〉の思想
はじめに　
日本の文学には中国の影響が良く見ることが出来る。そこで私はある日本の文献を読んでいた時に〈地獄の思想〉が色濃く出ているものがあり、その話に興味をひかれた。内容を読み進めるうちにあることに気付いた。それは、当然〈地獄〉があればなくてはならない〈極楽〉という文字がない、ということである。一体どうしてだろう。私は〈地獄〉と〈極楽〉は対であると考えていたので非常に疑問に思った。そこで、今回〈地獄〉と〈極楽〉について調べたことを以下に記す。
一、中国の地獄像　　　　　　　　　　　
中国の思想が日本に大きな影響を与えているのだから、まずは中国の地獄像について調べるべきではないだろうかと考えた。そこで、主に『中国のグロテクス・リアリズム』を参考に、基本的な流れを抑えることにした。中国の地獄像と言っても、中国自体歴史が長く、その道筋は複雑なものとなっており一言では表現できない。簡単に言えば、私が日本の文献で出会ったような、地獄がない、つまりまだ生れていない時代もあったのである。そこで〈地獄&hellip;冥界〉へと言葉の範囲を広げ、冥界の歴史を紐解くこととする。そこで中国..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日野富子]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サカマ]]></author>
			<category><![CDATA[サカマの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Aug 2006 16:15:00 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10534/" target="_blank"><img src="/docs/983429731901@hc06/10534/thmb.jpg?s=s&r=1155712500&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　
室町幕府八代将軍足利義政の妻にして九代将軍義尚の生母、日野富子。彼女は、応仁の乱のきっかけを作った人物と言われ、後には政治に口を挿み、更に素晴らしく巧みに金を稼いだ。そのため、多くの文献で彼女は「女性史上一、二を争う悪妻」[352]<br />中世文学史　　日野富子について
はじめに
　
室町幕府八代将軍足利義政の妻にして九代将軍義尚の生母、日野富子。彼女は、応仁の乱のきっかけを作った人物と言われ、後には政治に口を挿み、更に素晴らしく巧みに金を稼いだ。そのため、多くの文献で彼女は「女性史上一、二を争う悪妻」や「金と権力の権化」などとあまり良くない評価がなされている。しかし本当に富子はそれほど稀代の悪女であったのか疑問に思うところがあった。そこで今回このレポートで彼女の生涯の中で主だった事件について検証し、日野富子という人物にせまっていきたいと思う。
一、御台所としての富子
　富子は十六歳のとき生家・日野家から将軍の御台所となるため室町御所へと嫁いだ。日野家はそれほど格の高い家柄でもなかったのだが、天皇の准母にまでのぼりつめた三代将軍義満の正室日野康子の頃より、将軍家には日野家の者が正室として迎えられしきたりが続いていた。そういった経緯で富子は八代義政のもとへ嫁いできたのだが、それで彼女はまず義母であり、叔母である重子と義政の乳母であり妾同然の存在であった今参局の思惑に出くわす。この二人は富子が世継ぎを宿すか否かで左右される立..]]></description>

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			<title><![CDATA[中世の宴　酒宴と共同飲食]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10533/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サカマ]]></author>
			<category><![CDATA[サカマの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Aug 2006 16:11:53 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10533/" target="_blank"><img src="/docs/983429731901@hc06/10533/thmb.jpg?s=s&r=1155712313&t=n" border="0"></a><br /><br />はじめに
　現代に生きる私たちは日常的に、時には改まった行事として宴を開いている。「宴」とは大辞林によると「酒食を共にして、楽しむこと。また、その会。うたげ」とある。私たちの身近なところで考えれば新入生歓迎会も宴の一種であるし、部屋に四、[356]<br />中世の宴―酒宴と共同飲食―
はじめに
　現代に生きる私たちは日常的に、時には改まった行事として宴を開いている。「宴」とは大辞林によると「酒食を共にして、楽しむこと。また、その会。うたげ」とある。私たちの身近なところで考えれば新入生歓迎会も宴の一種であるし、部屋に四、五人で飲み会をしていても「酒食を共にして、楽しむ」という意味からすると宴と言えるだろう。
ではこうして一年通して開かれる大小の宴であるが、いったい何の目的で開かれているのだろうか。一般的に行事的な宴の場合は公のものであるので、例えば先にも挙げた新入生歓迎会では〈歓迎〉、忘年会では〈労をねぎらう〉、新年会では〈新年の挨拶〉などといったような名目があるのが普通である。しかし一方、友人同士や仲間内でする私的な小さな飲み会などでは、特に何も考えず集まって飲もうといった風に自然に寄り合う形多いのではないだろうか。
私は今年でようやくお酒に関して合法の歳を迎えた。そこで、今一度酒というものが広まった経緯について、そのターニング・ポイントとも言える中世の宴に迫ってみたいと思う。
一、宴の意味
　まず、宴というものが元来どのような意味合いを..]]></description>

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			<title><![CDATA[小式部内侍]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10528/]]></link>
			<author><![CDATA[ by サカマ]]></author>
			<category><![CDATA[サカマの資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 16 Aug 2006 15:12:04 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10528/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429731901@hc06/10528/" target="_blank"><img src="/docs/983429731901@hc06/10528/thmb.jpg?s=s&r=1155708724&t=n" border="0"></a><br /><br />一、母と子
（一）母・和泉式部
小式部内侍の母は、言わずと知れた平安の女流歌人、和泉式部である。彼女は、平安時代の摂関政治において最高にして最大の権勢を振るった藤原道長の娘・彰子に、教育係として紫式部や赤染衛門などとともに仕えた女性であ[352]<br />　　　小式部内侍
　　　　　一、母と子
母・和泉式部
　小式部内侍の母は、言わずと知れた平安の女流歌人、和泉式部である。彼女は、平安時代の摂関政治において最高にして最大の権勢を振るった藤原道長の娘・彰子に、教育係として紫式部や赤染衛門などとともに仕えた女性である。
　彼女は、歌人として当時からかなりの有名人であったが、また同時に恋多き女性でもあったようである。まず、小式部内侍の父でもある和泉守道貞と結婚の儀を結んだ。その後、為尊親王と深い仲になり、それがきっかけで夫である道貞に離縁を言い渡される。小式部内侍の誕生から、およそ一年後のことである。為尊親王が亡くなると、その弟宮にあたる敦道親王の寵を受け、その邸に招かれることとなった。しかし、その生活も四年後、兄同様敦道親王との死別によって終局を迎え、やがて一条天皇の中宮彰子に出仕することとなった。その二・三年後、彰子の実父である右大臣道長の継嗣・道通の家司、藤原保昌と結婚し、約十年後、丹後守となった夫・保昌に連れ添って丹後へと下った。このように、彼女は波乱万丈な男性遍歴をもつ女性であったのである。
　それに故にか、母・和泉式部は歌人として..]]></description>

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			<title><![CDATA[中世ヨーロッパ社会の成立と終焉]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430781501@hc06/10421/]]></link>
			<author><![CDATA[ by manamin]]></author>
			<category><![CDATA[manaminの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Aug 2006 04:32:30 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430781501@hc06/10421/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430781501@hc06/10421/" target="_blank"><img src="/docs/983430781501@hc06/10421/thmb.jpg?s=s&r=1155238350&t=n" border="0"></a><br /><br />１．はじめに
私は高校時代に世界史の授業を学んだ際十字軍について興味を持った。まずは当時の歴史的背景を知ることが必要なので、十字軍が活動した中世史を今回のテーマとして選択した。現在のヨーロッパ国家の基盤ができたのもこの時代である。中世ヨー[356]<br />中世ヨーロッパ社会の成立と終焉
目次
はじめに
中世の時代区分
「中世」とは何か
前期
中期（盛期）
後期
ヨーロッパの成立
民族大移動
西ヨーロッパ
第二の民族大移動
ビザンツ帝国
東ヨーロッパ諸国
東西ヨーロッパの比較
ヨーロッパ社会
封建社会
都市・商業の発展
中世文化
キリスト教世界の展開
十字軍
西ヨーロッパ中央集権国家
12、13世紀のヨーロッパ諸国
中世ヨーロッパ世界の崩壊
おわりに
はじめに
私は高校時代に世界史の授業を学んだ際十字軍について興味を持った。まずは当時の歴史的背景を知ることが必要なので、十字軍が活動した中世史を今回のテーマとして選択した。現在のヨーロッパ国家の基盤ができたのもこの時代である。中世ヨーロッパの成立からその終わりまでを、ここでは西ヨーロッパを中心に展開してゆく。
中世の時代区分
中世とは何か
中世とは何なのか。イタリア・ルネサンスのヒューマニストや18世紀のフランスの啓蒙主義者たちによって歴史は「古代」「中世」「近代」に区分された。すなわち、「古代」は古典文化の花開いた黄金時代、「中世」はゲルマン民族がそれを無にしてしまった暗黒時代、「近代」は..]]></description>

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			<title><![CDATA[「イスラーム世界における夢と日本における夢との比較―中世を対象に―」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430589301@hc06/8053/]]></link>
			<author><![CDATA[ by orpheus12]]></author>
			<category><![CDATA[orpheus12の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 17 Apr 2006 19:44:44 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430589301@hc06/8053/" target="_blank"><img src="/docs/983430589301@hc06/8053/thmb.jpg?s=s&r=1145270684&t=n" border="0"></a><br /><br />　講義では、聖墓の捏造に夢が利用されるということを知り、今日のわれわれにおける夢の位置付けと中世頃の人々におけるそれとは随分とギャップがあるものだ、と考えた。具体的には、夢が人々を動かす力が現代よりも大きい、ということに関心を持ったのである[360]<br />「イスラーム世界における夢と日本における夢との比較―中世を対象に―」
　講義では、聖墓の捏造に夢が利用されるということを知り、今日のわれわれにおける夢の位置付けと中世頃の人々におけるそれとは随分とギャップがあるものだ、と考えた。具体的には、夢が人々を動かす力が現代よりも大きい、ということに関心を持ったのである。そのような経緯で以下、類似点を抽出することを中心に、中世代のイスラーム世界における夢と日本における夢との比較を行っていく。
　そもそも、昔から（アンジェロ・ブレリッヒはギリシャ時代にはるかに先行する時代から夢占いとインキュベーションの慣習が地中海全域で行われていたとする）人々は夢というものが、人間を超越した聖なる者達が自分たちに送ってきてくれるメッセージだと考えており、人間では到底知りえない未来のことについて知るための手段であった。それゆえに、夢は力を秘めうるのである。
　このことに関連して、まずはその土壌を形成した要因の部分であろうイスラームの成立・仏教の成立と夢との深い関係を示すエピソードについて述べる。
　ムハンマドが４０歳の年、聖なるラマダーンの月に、メッカに近いサファの..]]></description>

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			<title><![CDATA[【早稲田大学】摂関政治から見る中世日本]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 【現役私立中教師】daisuke]]></author>
			<category><![CDATA[【現役私立中教師】daisukeの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Feb 2006 01:15:55 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6712/" target="_blank"><img src="/docs/983431933401@hc05/6712/thmb.jpg?s=s&r=1139847355&t=n" border="0"></a><br /><br />藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ（安和の変）、政治的地位を[354]<br />摂関政治から見る中世日本
藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ（安和の変）、政治的地位を確立した。藤原北家は、摂政、関白を独占したため、摂関家と呼ばれるようになった。10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
　摂関政治おいては、摂関が天皇をないがしろにして専制をふるったかのようなイメージが作られたこともあったが、実際に天皇の政務を代行できたのは、天皇幼少時の摂政だけであり、幼少の天..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[【早稲田大学】中世から近代までのヨーロッパ世界のキーワード]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6659/]]></link>
			<author><![CDATA[ by 【現役私立中教師】daisuke]]></author>
			<category><![CDATA[【現役私立中教師】daisukeの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 13 Feb 2006 14:37:20 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431933401@hc05/6659/" target="_blank"><img src="/docs/983431933401@hc05/6659/thmb.jpg?s=s&r=1139809040&t=n" border="0"></a><br /><br />?バーミンガム・リバプール・マンチェスター
　バーミンガム。リバプール・マンチェスターは産業革命によって生まれた近現代にしかみられないイギリスの工業都市である。ではイギリスの工業都市を生んだ産業革命はなぜおきたのだろう。
　１つは、自然[350]<br />中世から近代までのヨーロッパ世界のキーワード
バーミンガム・リバプール・マンチェスター
バーミンガム。リバプール・マンチェスターは産業革命によって生まれた近現代にしかみられないイギリスの工業都市である。ではイギリスの工業都市を生んだ産業革命はなぜおきたのだろう。
　１つは、自然科学が変わったことが挙げられる。ニュートン物理学に代表されるような科学技術の発達は、工業技術の発達と結びつく。
　２つめはイングランドにおいてだけ、短時間で質のいい、安い工業生産をしたいと考えて人々がいたからである。イングランドでは、貿易・商業・農業の大躍進があり、手工業生産の需要も増し続けた。需要が増したのは、１７Ｃの..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[今昔物語集における天狗]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430953901@hc06/6487/]]></link>
			<author><![CDATA[ by p901ih]]></author>
			<category><![CDATA[p901ihの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2006 23:04:42 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430953901@hc06/6487/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430953901@hc06/6487/" target="_blank"><img src="/docs/983430953901@hc06/6487/thmb.jpg?s=s&r=1139493882&t=n" border="0"></a><br /><br />　天狗と聞いて多くの人が想像するもの。それは、真っ赤な顔をし、長く大きな鼻を持ち、白い山伏のような衣服を纏ったものだろう。翼が生えていて、羽団扇をもっている、という特徴もある。
　私は、天狗といっても、特にこれといった思い浮かぶエピソード[356]<br />今昔物語集における「天狗」
　天狗と聞いて多くの人が想像するもの。それは、真っ赤な顔をし、長く大きな鼻を持ち、白い山伏のような衣服を纏ったものだろう。翼が生えていて、羽団扇をもっている、という特徴もある。
　私は、天狗といっても、特にこれといった思い浮かぶエピソードもないのだが、中世では、天狗は「仏法を妨げるもの」という認識があったようである。
『今昔物語集』にこのような説話が収録されている。
昔、天竺に天狗がいた。天竺から震旦に渡ってくる途中、海の水が一筋に、「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」と鳴ったので、天狗はこれを聞いて非常に驚き、「海の水がどうしてこんな尊い深遠な法文を唱えるのであろうか」と不思議な気がして、「この水の正体を突き止め、なんとしてでも邪魔してやらずにはおくまい」と思い、水の音をたどり、探し求めながら来るうち、震旦まで来たが、ここでも同じように鳴っている。
こうして、震旦も過ぎ、日本の近くの海まで来たが、やはり同じように唱えるのが聞こえた。そうして博多、門司、瀬戸内海を経て、淀川から宇治川をさかのぼっていくにつれ、ますます声が高くなる。さらについていくと、比..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[中世ヨーロッパの海・森観]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/]]></link>
			<author><![CDATA[ by rokubeisan]]></author>
			<category><![CDATA[rokubeisanの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 26 Jul 2005 00:17:34 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432373801@hc05/1541/" target="_blank"><img src="/docs/983432373801@hc05/1541/thmb.jpg?s=s&r=1122304654&t=n" border="0"></a><br /><br />１）a 中世ヨーロッパと環境
　ヨーロッパの範囲を考える上で、まず思い浮かぶのが「アングロノルマン王国／アンジュ王国」である。これらから、海を介した大陸との関係や「島」で自律した形成などがあげられる。たとえば「イングランド（人）」などがあ[352]<br />　（１）a 中世ヨーロッパと環境
　ヨーロッパの範囲を考える上で、まず思い浮かぶのが「アングロノルマン王国／アンジュ王国」である。これらから、海を介した大陸との関係や「島」で自律した形成などがあげられる。たとえば「イングランド（人）」などがある。また、講義の中で、マン島にも触れられたと思うのだが、マン島はCrown Dependency（属領）であって、連合王国ではないということしか残念ながら覚えていない。
中世の時代において、海はコミュニケーションや商業交易を媒介する「場」としての役割を持っていた。12Cから13Cにかけてのことを書いた本でブリテン、ジェラルド、ウェイルズのことを書いた本の中で、諸侯が軍をアイルランドに派遣したときのアイルランドの特徴を東方と対比している。それによると、海は不可思議な場であるということである。ヨーロッパは「毒」のない場として、逆に東方へは行けば行くほど「毒」性が強まるとしている。
　大航海時代には海は異界への入り口として考えられていた。つまり、海には分けの分からない怪人たちがいるらしいと考えられていたというのである。ウルトラマン怪獣か？仮面ライダーの怪..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[奉教人の死]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432291801@hc05/1498/]]></link>
			<author><![CDATA[ by madoka]]></author>
			<category><![CDATA[madokaの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 25 Jul 2005 17:52:11 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432291801@hc05/1498/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432291801@hc05/1498/" target="_blank"><img src="/docs/983432291801@hc05/1498/thmb.jpg?s=s&r=1122281531&t=n" border="0"></a><br /><br />今回、私は芥川龍之介作品の中でも「奉教人の死」を課題の題材として取り上げたいと思う。「奉教人の死」は「れげんだ・おうれあ」という架空の福音書から伝承された聞き語りの形で始まる。そして主人公「ろおれんぞ」が女だと判明してからは、その語りはあた[360]<br />日本文学特殊講義10秋学期期末課題レポート　　
「奉教人の死」―人々の中に存在する神・信心の形―
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　今回、私は芥川龍之介作品の中でも「奉教人の死」を課題の題材として取り上げたいと思う。「奉教人の死」は「れげんだ・おうれあ」という架空の福音書から伝承された聞き語りの形で始まる。そして主人公「ろおれんぞ」が女だと判明してからは、その語りはあたかもその場にいるかのような臨場感あふれる実況中継へと変化する。その臨場感から、私たち読者は美的感動や宗教的な感動を大いに感じ取ることができるのだ。このように文体論から見ても「奉教人の死」は非常に魅力的な題材だと思われるが、このレポートではこの作品の典拠となった作品として挙げられる作品の中で
新村出「南蛮記」
フローベル「聖ジュリアン伝」
エドガァ・アラン・ポオ「詩の原理」
この三作品と比較することによって「奉教人の死」への考察、特に「神を信じる心」に注目して考察を深めてみたい。
　まず比較したうえの印象は、三作品ともにそれほど典拠されてはいないというものである。「聖ジュリアン」はキリストに例えられている..]]></description>

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